聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第二十五話、巨蟹宮の遺恨」




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 昔話をそこまでアステリオンにした覚えは無いのだが。
 何の因果だろうか、この巨蟹宮を守ることになったというのは。
 星闘士スタインたちが来るまでの間、することもなかった那智は、巨蟹宮の壁をじっくりと眺めて回っていた。

 かつては人面で覆われていたというこの宮に、かつての姿を思わせるものはない。
 デスマスクの死とともに全て消え失せたのだという。
 今更言っても詮無いことだが、見ておくべきだったのではないかと思う。

 その中には、かつて自分が見た顔が間違いなくあったはずなのだから。

 紫龍に伝え聞くところ、ここには幼い子供たちの顔もあったという。
 デスマスクは、悪を懲らしめるために巻き添えにしたと言っていたそうだが、少なくともその発言は嘘だと那智は明確に否定できる。
 光速拳の使い手であり、攻撃的テレポーテーションまで使えたというデスマスクが、悪を懲らしめるために子供を巻き添えにしなければならないなどという相手が、そうそういるはずがないのだ。
 まして、子供が近くに居る状況で戦う相手となればなおさらである。
 論理的に導き出される結論は一つしかない。
 そして、那智はその結論を事実として知っている。

 デスマスクは、意図的にその子供たちを殺したのだ。

 ……感傷に浸るのはここまでのようだ。
 星々が接近してくる小宇宙コスモを感じる。
 出迎えるとしよう。



「出てきおったな」

 先頭に立って石段を駆け上がっていた、青輝星闘士シアンスタイン獅子座レオのゼスティルムは、ようやく見えてきた巨蟹宮から人影が出てきたのを確認すると、そこで足を止めた。
 続いていた星闘士たちも合わせて足を止める。

「あやつ、確かテリオスの宿敵か」

 青銅聖衣ブロンズクロスを纏った顔に、見覚えがあった。
 エチオピアでも拳を交え、つい先日アテネ空港でもはっきりと見たので間違いない。

 さて、どうしたものかと考え込んだ。
 金牛宮と同様に、一斉に攻め入る手もあるが、またしても長々と足止めを食う可能性がある。
 十二宮は基本的に多人数で攻めるには不利なものであると思い知らされていた。
 宮を守る個々の聖闘士セイントが多人数の敵を一度に相手にすることができるように、設計されているのだった。
 先日はエチオピアで蛮を相手に退散させられ、金牛宮でも檄に大苦戦させられた今、相手が青銅聖闘士一人とはいえ、軽んじることはできなかった。

「ゼスティルム様、この場は我々におまかせを」

 ゼスティルムが眉間にしわを寄せていると、後ろから声が掛けられた。
 そこに肩を並べていたのは、大犬座メジャーカニスのアルレツオと、鯨座カイトスのピアードの赤輝星闘士クリムゾンスタイン二人だった。
 もっとも、ピアードは金牛宮の戦いで星衣を砕かれつつも、白輝星闘士スノースタインの領域にまで小宇宙を高めていたが。

「彼とはエチオピアでの借りがあります。
 倒すにしても他の者には任せたくありません」
「俺たち二人が奴を抑えている間に、先へ進んで下さい」

 この二人は以前ゼスティルムとともにエチオピアに赴いた際に、那智とは面識があった。
 諸々あって、僅かながら肩を並べて戦ったこともある。

 元々は、ゼスティルムがエチオピアに連れて行った、白輝星闘士狼座ルーパスのテリオスの監視のために二人を連れて行ったという経緯がある。
 そのテリオスこそ、青輝星闘士のナンバー1たるイルピトアの盟友であり、そして、今あそこにいる那智の旧友にして星座を争う宿敵でもあった。
 イルピトアの動向に注意しているゼスティルムは、テリオスの動きにも警戒していた。
 そのテリオスから情報を受け取っているという那智もまた、捨て置けるものではなかった。
 だが、ゼスティルムには今一つの不安要素があった。
 しばらく考え込んだ後、

「よかろう、この場はお前たち二人にまかせよう。
 わかっていると思うが、青銅聖闘士を甘く見るな。
 そして、必ずや息の根を止めよ」

 念には念を押すように、深く言い含めた。

「心得ました。よし、いくぞピアード!」
「おう!それじゃあ、後に付いてきて下さいよ!」

 即座に動いた二人はゼスティルムを抜いて巨蟹宮までの石段を一気に駆け上がる。
 那智もその動きに気づき、次の瞬間にはその相手が旧知の二人であることに気づいた。

「来るか!」

 身構えた那智に対し、二人は石段を登り切る直前に二手に分かれた。

「腕は落ちていないだろうが、まずは小手調べだ!」
「甘くみるなよ!」

 左右から同時に繰り出された拳を、那智は聖衣の両アームパーツで受けて流そうとする。
 だが。

「……重い……っ!?」

 甘くみるなよと言った自分の言葉が跳ね返ってきたかのようだ。
 那智は二人が赤輝星闘士だと記憶していた。
 だが、この拳の重さは、あのときのテリオスにもひけをとらない。
 予想外の事実に打ち抜かれるように、腰を落とした姿勢のままそこに釘付けになった。
 その隙を逃さず、後続の星闘士たちが次々と駆け抜けていく。

「待て!ゼスティルム!!」
「さらば、テリオスの同胞よ……!」

 振り返ったときには、ゼスティルムが告げるように言い残して駆け抜けて行った。

「くそ……そう簡単にこの巨蟹宮を……!」
「通ってもらわねえと困るんだよ」

 振り返ろうとした動きを戦慄が止めた。
 ピアードの声には、後ろを見せればやられると確信できるほどの小宇宙が感じられたのだ。

「あいにく、旧交を温めている暇はないっ!」
「いや、何が何でもお相手願おう」

 アルレツオが右拳を繰り出したままの姿勢から一転して左足を振り抜いた。
 ピアードに注意が傾いた一瞬を突かれた那智はかわしきれなかった。

「うおおっっ!」

 その一撃も予想を遙かに上回る威力だった。
 瞬時にして視界が反転する。
 気が付けば身体が天井にめり込んでいた。

「ガハッ!」

 しかもそこから身体が動かない。
 いや、天井から身体がそもそも剥がれ落ちなかった。
 いくらなんでもそこまでのダメージとは思えない。
 辛うじて目だけは動いたので、天井から巨蟹宮を見下ろすことになる。
 真下にいるアルレツオとピアード以外は次々と星闘士たちが駆け抜けて行き……巨蟹宮の出口に立ち、じっとこちらを見つめている乙女座の青輝星闘士と目が合った。
 ただの視線ではない。
 強力な念動力が込められていることに那智は思い至った。
 しかし、何と強力な念動力か。
 那智は小宇宙を燃やして振り払おうとするが、なんとか腕が動いたものの、天井から身体を引きはがすことすら出来ない。

「イルリツア様、後は我々にお任せを」

 他の星闘士たちの足音さえ聞こえなくなったところで、アルレツオが出口に向かって恭しく告げた。

「約束のこと、頼みましたよ」

 こともなげな返答とともに、那智の身体は天井からようやく剥がれ落ちた。
 着地したときには、そのイルリツアの姿すら消えており、巨蟹宮には那智とピアード、アルレツオの三人が残されることとなった。

「やってくれるぜ。全員ここで足止めするつもりだったものを」

 ゼスティルム一人だけなら突破されてもあるいはよしとすべきだったが、ここまで通してしまってはザルではないか。
 ただ、これはアステリオンの仕掛けた火時計の罠がじわりと効いてきていることも示している。
 時間に意味など無いのに、ゼスティルムは星矢たちの伝説によって焦らざるを得ないのだろう。
 先を急ごうとする星闘士たちを各個撃破するという当初の策は成功しつつある。
 だが、星闘士の全軍を二人で食い止めた金牛宮のことを考えれば、自分もそうせずにはいられなかったのだ。
 そうすれば後の宮を守る友たちの負担が少しでも減るのだから。

「よく言うぜ。こっちを急かしておいて」

 肩をすくめたピアードのため息は、それらの事情を踏まえたものだ。

「こちらには君に用もあるのでな。
 ゼスティルム様の焦りは好都合だった」
「待て、お前らは確か……」

 アルレツオの言葉は、二人が最初から居残るつもりだったということを意味する。
 それも、ゼスティルムを排して、だ。
 この二人は元々ゼスティルムの命令に従い、星闘士ナンバーワンたるイルピトアを探るべく、イルピトアの友人たる狼座ルーパスのテリオスの動向を監視しているはずだったのだが……。

「何を、考えている?」
「色々あるが……、何にしてもまずは、俺たちに倒されて貰おうか」

 ピアードが小宇宙を燃え上がらせる。
 星衣クエーサーも無いというのに大した自信だった。

「とにかく、お前らを倒さないと蛮を助けに行けんということか」

 次の獅子宮は蛮が守っている。
 出来ればゼスティルムとタイマン張らせてやりたいところだが、あの集団が一度に向かったのではそれが出来るかも疑わしい。
 旧交を温めている場合ではないのだ。
 だが、一度は肩を並べて戦ったこともある知り合いなので、どうもやりづらい。

「本気になれんようだな、那智」

 その迷いが顔に出たのだろう。
 アルレツオが疑問ではなく確認する口調で問いかけてきた。

「仕方がない。ピアード、那智に教えてやれ」
「……そうだな。これを聞けばお前は、俺たちと本気で戦わざるを得なくなる」

 ピアードは、それが嘘でも冗談でもないと顔で語りながら、

「金牛宮に置いて黄金聖衣ゴールドクロスをまとった檄を倒す最後の一撃を繰り出したのは、この、俺だ」

 確かに、戦うしかない事実を告げた。

「……そうか」
「青輝星闘士4人がかりにも一歩も引かぬ、纏った聖衣に恥じぬ見事な戦いぶりだったぞ」

 アルレツオが慰めなのか励ましなのかわからない話を補足する。
 むしろ那智としては、けしかけられているようにしか思えなかった。

「いいだろう。
 元より戦うためにここにいるのだからな。
 望み通り全力で倒してやるぞ!!」

 迷いを振り払うように小宇宙を燃え上がらせる。
 一対二だ。
 ここは非情に徹するべきと判断した。
 二人のうち、ピアードは下の宮の戦い……おそらくは檄との戦いで星衣を砕かれたらしく、裸同然だ。
 聖闘士や星闘士の攻撃を生身で受ければ、ほとんどの場合一撃で致命傷となる。
 生身の人体の強度に比べて、聖闘士の攻撃力はそれほどまでに強大であり、それを補うための聖衣や星衣なのだ。
 紫龍という希有な例外を除けば、それを砕かれた時点で、死を免れないとすら言っていいのだ。

「いくぞピアード!」
「来い那智!」

 恐怖の欠片も見せず、ピアードは那智を真っ向から待ち受ける。
 那智は瞬時に間を詰め、5メートルほどの距離から拳を振るった。
 至近距離でなかったのは、消しきれない迷いのためだった。
 それでも聖闘士にとってこの距離は無いに等しい。

「デッドハウリング!!」

 マッハの拳が切り刻む大気の刃は、岩石はおろか鋼鉄すら両断する。
 それが一発ではなく、何十何百と連なれば、もはや両断ではなく寸断となる。
 その刃が、防御力皆無のピアードに殺到し……

「何ッ!!」

 その目の前から、ピアードが煙のように消え失せた。
 いや違う、ピアードは拳と、それが繰り出す空気の刃の全てをかわしきったのだ。
 かわしきったピアードはそのまま那智の背後に回ろうとする。

「この動きは……!」

 その動きを追いかけて、拳を畳み掛けるが、しかしそれもまた当たらない。
 ピアードは、那智の拳にかするだけでも大怪我を負う状況のはずだ。
 にも関わらず、驚嘆すべき動きで那智の拳を全てかわしきってしまった。

「馬鹿なッッ!」
「忘れたか。俺たちがエチオピアでのお前とテリオス様との戦いの一部始終を見ていたことを」
「!!」

 那智は額に戦慄の汗が流れるのを否定できなかった。
 確かに那智は、この二人の目の前でこの技を使ってみせていた。

「あえて言わせて貰おう。
 星闘士にも、一度見た技は二度とは通用しない。
 まして、小宇宙で君に勝る今の私たちならばなおさらだ!」
「何!?」

 アルレツオがいつもの定例句に続けたのは聞き捨てならない言葉だった。
 小宇宙で、勝るだと……?

「俺が青輝星闘士たちの攻撃を凌いでいた檄を倒せたのは、単に隙をついたからというだけじゃないんだぜ」

 そう告げた二人が燃え上がらせる小宇宙の色は、那智の記憶にあるものとは大きく違っていた。

「白輝星闘士……!」

 それも、青に近い純白だった。
 那智の記憶に間違いが無ければ、この色は、那智の旧友であるテリオスの色と同じはずだ。
 そのテリオスは、あの小宇宙で白輝星闘士の中で最も青輝星闘士に近いと言われていた。
 認めたくはないが、今の二人は、あのときのテリオスに匹敵するほどの強さを持っているということになる。

「エチオピアで会ったときは、お前たちは赤輝星闘士だったはず……。
 男子三日会わざれば、というが、この短期間にどうやってここまで強くなった!?」
「階級など何も意味もないと、教えてくれたのは君だったと思うがな」

 アルレツオが不敵に笑った。
 教えたのは確かテリオスだったと思ったが、それを実践して見せたのは確かに那智だ。

「誤魔化すな!いくら何でもそのパワーアップは尋常な手段ではないはずだ。
 星矢たちが十二宮の戦いを経て強くなったときのような、よほど過酷な環境でも無い限り……」
「話が早いな。そう、確かに尋常な手段ではない。
 それと引き替えにした強さを、とくと味わって貰うぞ、那智!」

 気が付いたときには、ピアードに踏み込まれていた。
 繰り出される技には見覚えがある……が、かわしきれない!

「ホエール・ゲイザー!」

 鯨が吹き上げる潮のごとく、振り上げられた拳圧で那智は天井まで吹っ飛ばされた。
 それでもエチオピアで一度見た技だ。
 直撃はなんとか避けたため、辛うじて天地逆転しながら天井に着地する。

「それでこそテリオス様の旧友よ!」

 すぐ真下にアルレツオが詰めていた。
 床を蹴って宙に舞い、身体を捻り、オーバーヘッドキックの体勢で、白く輝く小宇宙で彩られた右足が振り抜かれた。
 かわす間もなく、交差させた両腕で受け止めようとするが、こらえきれずに天井を削りながら吹っ飛ばされた。
 確かに嘘偽り無く、今の二人は小宇宙において那智を上回ると見た。

「ならば、それを超えて小宇宙を高めるのみだっ!」

 飛ばされた先にあった柱を蹴り、床に立っているピアードに向かって飛びかかった。

「ハンティングクロー・ウェイストランド!!」

 両拳を先頭に、全身を一陣の風と化して突っ込むこの技は、やはり一度エチオピアで見せている。

「甘いぞ那智!その技も……」
「見切られることくらい承知しているぜ」
「何ッッ!」

 両拳をギリギリのところでかわしたピアードだったが、直後に顔面を見舞った那智の膝蹴りはかわしきれなかった。
 那智は見切られていることをわかった上で、空中で無理矢理身体を捻り、突進の威力を両拳ではなく、その直後に襲うことになる右膝に集中させていた。
 星衣の無いピアードは、当然にして顔面の防御も無い。

 ただ、吹き上がるほどに強大な小宇宙があった。

「テリオス様との戦いを経て、この程度なのか、那智」
「ピアード……貴様、星衣も身に付けていないのに……」

 少なくとも左頬の骨くらいは折れているはずだった。
 間違いなく無傷ではないし、そのダメージが軽かったはずもない。
 それでも倒れることなく体勢を立て直し、唖然としたままの那智の右足を左手でがっちりと掴んだ。

「この程度だというのなら、あの男との約束を守るまでもない。
 今この場で決着を付けるのみだ!」

 ピアードの小宇宙が爆発的に吹き上がった。
 轟々と渦巻くその小宇宙に舞い上げられそうになる那智だが、ピアードの左手に捕らえられているのでそれも叶わない。
 危機を察して、左足での蹴りをピアードの顔面に見舞おうとするが、それよりも早く、ピアードの全小宇宙を載せた右拳が唸った。

「食らうがいい、黄金聖衣を纏った檄をも倒したこのピアード最大の拳、エチオピア・クライシス!!」

 ギリシャ神話に謳われる災厄を形にしたかのごとく、猛烈な回転を伴って吹き荒れる嵐の一撃が那智の胸部を直撃した。
 ピアード自身が己の必殺技の威力を抑えきれず、その左手から那智の身体が離れて吹っ飛ぶ。

「ガアアアアアァァァッ!!」

 砕けた聖衣の破片を撒き散らしながら、巨蟹宮の壁に天地逆転した状態で叩きつけられた。
 衝撃で全身が麻痺し、そのまま頭から床に落ちる。

「……これで終わりか」

 アルレツオが失望をありありと浮かべた顔で呟いたのがわかったが、その言葉通り那智は全身に力が入らなかった。
 なまじ旧知の仲であるが故にピアードたちの実力を侮りすぎていた自分に歯がみしたが、受けていたダメージは予想以上だった。

 いかん……気が遠く……

 ピアードが言った言葉が気になるが、それ以上に意識が暗くなっていくのがわかった。
 アルレツオの言葉に、ピアードが何か呟き返したようだったが、それすら聞き取れなかった。
 まさか自分がここまであっさりと敗れるとは、これでは金牛宮で倒れた檄に合わせる顔がない。
 それに、自分が守っているこの宮は……そこに思い至ったとき、記憶の底にあった声が蘇ってきた。

――どうした小僧、オレをぶちのめすんじゃなかったのか――

 圧倒的な、見下し、蹂躙し、断罪し、制覇する、あの声が。
 忘れようもないあの声が。
 猛烈に腹が立ってきた。
 この宮で無様に倒れるということは、またあの男に負けるということになる。

「終わってなど、いないぞ……!」

 アルレツオの言葉に答えたのか、あの男に答えたのかわからないまま、声を絞り出していた。

「この程度で終わってなど、なるものか……!」

 そして忘れていた。
 自分よりも遙かに強大な相手に、臆することなく立ち向かったあのときの思いと小宇宙を。
 今のアルレツオとピアードは、確かに今の自分より強い。
 ならば、あのときの思いを呼び起こすことも出来るはずだ。

「そうだ、それでこそ青銅聖闘士よ」
「そうこなくっちゃ俺たちが自らを捨てた意味がない」

 先ほどまでとは比べものにならないほど強大になった小宇宙を燃え上がらせながら立ち上がった那智を認め、二人はさきほど顔に浮かべた失望を捨て去り、喜びを浮かべて拳を握りしめた。

「だが、テリオス様との戦いで全てを見せたお前に、どこまでのことができるかな」
「心配するな。今一度見てみるがいい、デッドハウリング!!」
「何っっ!?」
「これはっ!!」

 まさか先ほど既に見切られている技を再び繰り出して来るとは思わなかった二人だが、即座にその意図に気づいた。
 防御力に欠けるピアードが危機を察して僅かに身体を引き、星衣をフル装備したアルレツオが前に出てデッドハウリングを受け止める。

「ハウリング・ドミネイション!」

 大気を震撼させるアルレツオの拳がデッドハウリングを相殺しようとするが、先ほどまでとは繰り出される大気の刃の数も大きさも範囲もまったく違っていた。
 激突したアルレツオのアームパーツの方に亀裂が入る。

「なるほどな……!
 一度見た技が二度と通用しないとはいえ、小宇宙を高めることで速度も数も飛躍的に高めれば、もはや別の、より強大な技も同然となるか……!」
「そういうことだ!」

 銀河戦争における星矢がまさにそうだった。
 現に紫龍は、一度見たはずの星矢の流星拳を、結局は見切ることが出来ずに敗れたではないか。
 戦っていく間に強大になっていく星矢の小宇宙によって。
 一度見切られたくらいが何だ。
 この二人があのときよりも遙かに強くなっているというのなら、自分もそれ以上に強くなっていなければならないではないか。

「いいぜ、その目だ。
 テリオス様を倒したときのあの顔になったじゃねえか那智!」

 ピアードもおとなしくアルレツオの影に隠れているような性格ではない。
 那智のデッドハウリングが途切れた瞬間に飛び出した。
 必殺技を繰り出した直後の隙を突かれた那智は、アルレツオの接近を迎撃できなかった。

「バリアブルターン!!」
「!!」

 何の変哲も無いストレートに見えたその拳が、受けたときには十倍以上もの速度となっていた。
 よけ損ねて左肩に受けた那智の体勢が揺らぐそこへ、さらに拳が繰り出される。
 今度も速くなるのかと思った次の拳は、むしろ逆に遅くなり、受け止め損ねることになった。
 速度が変幻自在でまったく読めない。

「これはまるで……ミラか!」
「そうだ那智、このピアードが守護する鯨座には、全天で最も有名な変光星ミラがある。
 その留まることなき明るさの揺らぎを、捉えきれるか那智!!」

 主星を冠するだけあって、確かに見切ることが難しい。
 だが、変幻するが故に渾身の技ではない。
 那智は急所に当たりそうなものを意識的に防ぎつつ、あとは聖衣の防御力でこらえた。
 だが、この技で倒しきるつもりがピアードにないことは明らかだった。
 これはいわば足止めということになる。
 ならば。

「那智……、お前はこの俺の拳を凌ぎながら……!」

 反撃のときのために、防御姿勢のまま那智は小宇宙を高めていく。
 バリアブルターンの動きが読みにくいため、反撃に転じることは難しいが、必ずどこかで隙を生じると見た。
 だが問題があった。
 辛うじて倒れることなくデッドハウリングをこらえきったアルレツオが、このまま引き下がるわけがなかったのだ。
 そのアルレツオが小宇宙を高めているのを、那智は視界の端で捉えた。

「では、謹んで受けてもらおう那智。
 この大犬座メジャーカニスのアルレツオ最大の拳を!!」
「あれは……!」

 立ち上る小宇宙は純白……だが、そのオーラの中に一際青く輝く星が浮かび上がる。
 見間違えようはずもない。

「全天で最も明るい大犬座の主星は、かつてエジプトの地で春を告げるものだった。
 その春とともにナイル川は氾濫し、大いなる恵みをもたらしたのだ。
 だがその氾濫は、抑えきれぬ者には大いなる災厄となる」

 巨犬座の主星シリウス。
 巨犬座の白銀聖闘士シルバーセイントが、自らの名を捨ててまでかくあろうとした、偉大なる星だ。
 アルレツオの小宇宙は猛きうねりをもって、その星が到来を告げる氾濫を形作っていく。
 だが、今那智はピアードの拳に釘付けにされているのだ。
 今のアルレツオの全力で放つ拳ならば、ピアードも巻き込むことになるはず。
 だが、そのピアードは、少しも慌てていなかった。
 覚悟を決めたと言う様子ではない。
 だとしたら……

「そういうことかっ!」
「そういうことだ、那智!」
「さあ、その災厄を受けるがいい那智!!ナイルズ・フラッド!!!」

 アルレツオの小宇宙が堰を切って解き放たれ、巨蟹宮全域を覆うかのような圧倒的な小宇宙の氾濫が幾千万の白い飛沫を伴って那智に迫る。
 そして、那智とともに巻き込まれることは避けられないはずのピアードは、バリアブルターンを打ち切り、床を蹴ってその場を離脱……しなかった。

「やはり……!」

 アルレツオが放った波濤に向かって跳躍したのだ。
 その身体からは、アルレツオに勝るとも劣らぬ小宇宙が燃え上がっている。
 押し寄せる氾濫がまずピアードを飲み込もうとするが、アルレツオの最大必殺技をもってしてもその小宇宙は飲み込みきれるものではなかった。
 サーファーのように波に乗るのではなく、波と一体となって大いなる鯨が迫る。
 ピアードの小宇宙がアルレツオの波濤を取り込み、燃え上がる小宇宙が巻き起こす嵐をさらに激しく渦巻かせていた。

「エチオピア・クライシス!!」

 単体でさえ恐るべき威力を発揮した嵐の一撃に、取り込んだ波濤の勢いが加わり、ナイルとエチオピアというアフリカ大陸の要衝を繋げるかのように二つの災厄が重なった、恐るべき必殺技となった。
 仮にピアードの拳をかわしたところで、彼が乗るアルレツオの氾濫に飲み込まれて、その間に体勢を立て直したピアードの一撃を受けることになる。
 そしてピアード自身の拳を取り巻く嵐も、先ほど単独で繰り出した時に数倍する威力を持っている。
 よけることは不可能だ。
 ならばこの二人の複合必殺技を、真っ正面から打ち砕くしかない。
 だが、対人技がほとんどを占める那智の技では、この二つの災厄を正面から打ち砕くことは難しい。

「……技を、お借りします」

 那智は、高めに高めた小宇宙をわずかのひととき止めて、ここにはいない、顔すら知らぬ相手に向かって告げ、
 そして、固く握りしめていた拳を広げ、十の指を解き放った。
 その指に絡む大気が爆発したかのように烈震する。

「!?」
「あれは……!!」

 空気抵抗だけで何百トンにもなる大気の嵐を、轟音とともに一息に押し出していく。

「マーブル・トリパー!!」

 それは、白銀聖闘士蜥蜴星座リザドのミスティの必殺技である。
 以前エチオピアにおけるテリオスとの戦いで無我夢中ながら初めて大気の防御壁を使った那智は、聖域に来てからその原点を調べていた。
 自分と同じ空圧の闘技の使い手であったというミスティについて、アステリオンたち白銀聖闘士たちに話を聞き、どのような闘法の使い手でどんな必殺技を持っていたのかを尋ねていたのだ。
 この決戦までにその技を身につけるだけの時間は無かったが、少なくともどのような技なのかは調べが付いていた。
 あとは、全て実戦で決まる。
 紫龍がエクスカリバーを身につけたときも、氷河がオーロラエクスキューションを身につけたときも、そのための修練など飛び越えて、高めた小宇宙によって至ったというではないか。
 大河と大海を合わさって迫り来る二つの災厄に、大いなる霊山をも揺るがすという大気の激震が真っ正面からぶつかった。

「うおおおおおおっっっ!!」
「はああああああっっっ!!」
「いっけえええええええっっっ!!!」

 不完全ではあるが、元々那智は大気の刃を扱うことには慣れている。
 その不完全さ故に、本来のマーブルトリパーが持たない大気の刃をも含むこととなった激震は、ピアードが従える渦巻きを両断しながら四散させ、アルレツオに向かって逆流させた。

「何イイイィィッッッ!?」
「ガアアアアアアアアッッッ!!」

 星衣を完全装備していたアルレツオでさえ、その星衣を砕かれながら巨蟹宮の壁面に叩きつけられることとなった。
 元より星衣の無いピアードはさらに深刻であり、同様に壁面に叩きつけられただけでなく、必殺技を繰り出そうとした右腕に真っ正面からマーブルトリパーの威力を受けたことで、右手は鮮血で真紅に染まっていた。

「……やって、くれる、ぜ……」

 床に落ちたところで、ピアードは自分の現状を確認して、苦笑気味に唇をゆがめた。
 さすがにこれでは戦闘続行は不可能だ。

「見事だ……、那智。
 それでこそ、イルピトア様が期待されるにふさわしい……」
「何?」

 壁から剥がれて座り込むように落ちたアルレツオの言葉に、那智は戸惑いを覚えると同時に納得もした。

「お前ら、やはり俺と本気で戦う気は無かったのか……」
「いや……、十分に本気だったぜ。
 中途半端に強くなっただけの……俺たちに負けるようじゃ……話にならねえ」
「だが、もちろん目的は別にある。
 テリオス様らから頼まれているのだ。
 ゼスティルム様のいないところでなければ話せないことだ」
「ちょっと待て、お前らは確か……」
「ゼスティルム様の命を受けていたはずが、どこをどうやってイルピトアに抱き込まれたのか、聞かせて貰おうか」
『!!』

 那智が言おうとした言葉は、巨蟹宮の暗がりの中から聞こえてきた。
 この巨蟹宮に、もう一人、いるはずのなかった誰かがいる。
 その剣呑な声から察するところ、那智にとっては敵以外あり得ない。

「誰だ!」
「俺様に尋ねるより、そこの裏切り者二人に聞いた方がいいぞ、狼座の聖闘士」

 闇の中から染み出るように、その人影は姿を現した。
 肩のパーツが直方体じみて特徴的であるその鎧の造形は間違いなく星衣であり、星闘士に他ならない。
 だが那智は、どこか違和感を覚えた。

「……バカなッ、何故神殿にいるはずの貴方がここにいるのですか!
 祭壇座シュラインのアズザイン大祭司!」

 アルレツオが吐くように叫び、ふらつく身体を叱咤するようにして立ち上がった。
 それだけで那智にとっても危機的状況がわかる。
 この男は当面のところ、那智だけではなく、二人にとっても当面の敵であり、そして、アルレツオが危機感を抱くほどの男であると。

「全てイルピトアの計画通りに進めては何をされたものかわからんからな。
 ゼスティルム様の命を受けて密かについてきていたのだ。
 この十二宮の戦いの間に裏切り者をまとめて始末する為にな」
「チッ、どっちが……裏切り者だ。
 大祭司の貴様が知らなかったはずはない……知っていたんだろう、ハーデス様の真意を!」

 ピアードの叫びには敵意だけでなく、抑え切れぬ怒りがにじんでいた。
 那智にもおぼろげながら事情が読めてきた。
 ゼスティルムとこのアズザインという祭司が星闘士全員に対して伏せていた事実があり、その事実はゼスティルムの配下であったピアードとアルレツオの二人を、イルピトア派に寝返らせるほどに衝撃的なものだったのだ。

「戯れ言を。
 俺たち星闘士は元より陛下とハーデス様のために存在するのだ。
 イルピトアに少々吹き込まれた程度で寝返る者などやはり不要。
 この俺様の手で、そこの聖闘士もろとも葬ってくれるぞ!」
「いきなり出てきて人をついで扱いか、貴様」

 人を見下しきったアズザインの物言いにも腹が立ったが、那智はそれ以上にこの男とは相容れないものを感じていた。
 おそらく旧友のテリオスも、この男とは相容れないだろうと思う。
 その反発をきっと、会ったことはないが、かのイルピトアも感じていたのではないだろうか。

「アズザインと言ったな。
 俺の目の黒いうちは、この巨蟹宮で好き勝手はさせんぞ!」

 アズザインは那智のその言葉を聞いて、二三度瞬きした後、

「フ……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」

 宮全体を揺るがすような笑い声を響かせた。

「何がおかしい!」
「これが笑わずにいられるか。
 何も知らずにこの巨蟹宮を有り難そうに守っている貴様の態度を見てはな!」

 頭の奥が怒りで焼き切れそうだった。
 これ以上の侮辱はどうあっても看過できない。
 特に、この巨蟹宮を侮辱することは、断じて。
 誰も知らないだろうが、断じて。

「……警告はしたぞ。この巨蟹宮で好き勝手はさせんとな。
 その不愉快な口をきけなくしてやるぞ!!」

 アズザインのそれとは違う、決して忘れられぬ記憶に刻まれた笑い声を呼び起こし、小宇宙を燃え上がらせる。
 吹き上がる怒りをそのままに床を蹴り、アズザインに飛びかかった。
 それを見たアズザインの顔に、先ほどまでの嘲笑とは違う、勝利を確信した笑みが浮かんだ。

「い、いかん那智!アズザインは……!」
「アルレツオ!?」

 飛びかかった那智とアズザインの間に、ダメージが抜けぬはずのアルレツオが割り込んだ。

「よかろう、死にたいなら貴様から死ねアルレツオ!この星葬冥界波でな!」
「何!?」

 揺らめき立ち上る炎のような光がアズザインから発せられた。

「那智……お前は、死ぬな……!」
「アルレツオッ!!」

 その光がアルレツオを取り巻いた次の瞬間には、アルレツオの身体から生気というものが完全に消え失せていた。
 ピアードの絶叫が届く前に、その身体がぐらりと傾く。
 糸が切れた人形のよう、などという不吉な表現がこれほど適切な場合があるだろうか。
 床に倒れこんだアルレツオの瞳孔は開いたままで、静止していた。
 見間違えるはずもない。

「馬鹿な、何故星闘士がこの技を……」

 名前はわずかに違う。
 だがその本質は、どうにも否定しようがない。
 蟹座のデスマスクの必殺技、積尸気冥界波と同じ技に他ならない……!

「フッ、何を寝ぼけたことを言っている。
 そもそもどうして聖闘士に、冥界に関する秘技が伝わっていたのか疑問に思ったことは無かったのか。
 その根元を遙かな時代の蟹座の聖闘士に伝えたのが一体誰か、考えたこともなかったのか?」
「それは……」

 確かに、那智も疑問に思ったことはある。
 だが調べた結果、積尸気冥界波を前回の聖戦における蟹座の黄金聖闘士も使っていたという記録が残っていたので、代々の蟹座の聖闘士に伝わっているものだと思っていた。
 しかし確かに、その技は本来聖闘士が使いうるものではない。
 むしろその天敵であるハーデスたちに属するものではないか。

「答えろ、星闘士。貴様の知っていることを、洗いざらいだ!」
「フッ、そんなことを教える義理があるとでも思ったか!
 ただ、この巨蟹宮を守ることになった自らの不運を嘆くがいい!」

 どうやらアズザインは重傷のピアードを後回しにして那智を始末するつもりのようだ。
 そうするだろうなと那智でも思う。

 だが、やられるわけにはいかない。
 アルレツオは自分に何かをさせたかったのだ。
 そのために、聖闘士と星闘士という、拳を交えた間柄の自分を庇ってくれた。
 元よりエチオピアで会ったときから敵とは断じることが出来なかった相手だ。
 その友誼とも言える思いに応えなければ、男ではない。

「いいだろう、祭壇座のアズザインといったな。アルレツオの敵はとらせてもらうぞ」
「フッ、やはり気脈を通じていたようだが、聖闘士が星闘士の敵討ちなど片腹痛いわ。
 さあ、敵討ちというならかかってくるがいい!」
「言われずとも!」

 叫びとともに那智は床を蹴った。
 逆上したように見えただろうが、頭の中は冷静だった。
 相手に一撃必殺の冥界波があるなら、下手な隙を見せれば文字通り命取りになる。
 むしろこの男に隙を作らせていかねばならない。
 冥界波は紫龍でさえ何度見ても防御出来なかった技なのだ。
 ならば、奴が冥界波を繰り出したら、絶対に食らってはならない。
 しかも、有効範囲がどれほど広い技なのかもわからない。
 できるだけ大きく距離をとってかわすしかないのだ。
 常に一撃離脱を心掛けて動き回らねばならなかった。

 獲物を囲む狼さながらに、アズザインの周囲を歪んだ円を描くように走る。
 ワンパターンの動きは読まれたらそれまでだ。
 速度を変え、軌道を変えて、アズザインの隙を窺う。
 思ったよりもアズザインの動きは鈍く、どこか泰然と構えていた。
 誘っているのかとも思ったが、ほぼ背後を取ることができるタイミングで突っ込んだ。

「食らえ!デッドハウリング!」

 スレスレのところでアズザインが振り向くが、避けることは不可能なタイミングだ。
 捉えたかに見えた。

「フッ!誰が食らうものか、この程度の拳など!」
「なっ!?」

 那智の拳が繰り出した空圧はアズザインの眼前で星衣に阻まれ、四散してしまった。
 これでは態勢を崩して隙を作るどころではない。

「那智とやら、先程から貴様の動きはしかと見せてもらった。
 一度見た技は、このアズザインには通用しない」
「くっ……!」

 聖闘士と星闘士の戦いにおいて、その不利は計り知れない。

「そして……、いいのか?そんなところに立ち止まっていて!」
「くっ!」

 アズザインの小宇宙が不気味に揺らめくのを察して、那智は即座に距離を取る。
 死そのものを相手にしているようなものなのだ。

「ましてや俺様に一撃必殺の冥界波があるかぎり、貴様は常に回避を考えた体勢で技を放つしかない。
 そんな逃げ腰で放たれた狼の牙など飼い犬の鳴き声も同然!
 かわすまでもないということよ!」

 くそ、完全に見抜かれている。
 那智は舌打ちしたが、アズザインの指摘が正しいことは認めざるを得なかった。
 少なくとも白輝星闘士以上の実力者であろうアズザインを相手に全力で切り込んで、倒しきれなかったらその瞬間にこの戦いは決する。
 常にかわすことができるようにしている今、那智は全力をたたき込むことはできない。

「理解したか。ではそろそろ死ぬがいい!」

 すわ冥界波かと思ったが、ボウ、とアズザインの周囲に火の玉がいくつも出現した。
 オーケストラの指揮者のようにアズザインが両手を振ると、それらが一斉に那智目掛けて殺到した。
 那智は一瞬全身が総毛立ったが、落ち着けと自分に言い聞かせた。
 これは冥界波ではない。
 ならばおそらくは触れても対処可能だ。

「デッドハウリング!」

 大気の刃を繰り出し、火の玉を一つ一つ迎撃していく。
 これは確かに防ぐことが出来る。
 だが気を抜くことは出来なかった。
 いつ冥界波が繰り出されるかわからないのだ。
 アズザインがその気なら、ここから追撃が来るはず、と睨んだところでアズザインの姿が消えた。

「いい反応だ。少しは誉めてやろう」

 いつの間に立ち位置を変えたのか、右斜め後方から声を掛けながら無数の拳を叩き込んできた。
 撃ってきたのが冥界波でないのは、冥界波はその特徴的な小宇宙のために不意打ちには向かないためだろう。
 光速とまではいかないものの、大言壮語するだけのことはあってかなり速い。

「くっ……!」

 かわしきれず、四五発の拳を浴びて聖衣の脇腹のパーツが微かに欠け、体勢が揺らぐ。
 そこに再び火の玉が殺到する。
 なんとか体勢を整えて再びデッドハウリングで迎撃する。
 しかし、先ほどからじわじわと追い込まれつつあった。
 一撃必殺の冥界波を持つ相手を前にこの防戦一方の状況はまずい。
 攻撃に転じなければならなかった。
 しかし、一度見た技を繰り出すと、その隙に冥界波を叩き込まれるおそれが高い。
 先ほどの戦いを思い返す。
 どの技ならば見られていないか。
 聖闘士と星闘士の戦いにおいて、同じ技を二度使う危険性は常に把握している。
 途中から速度を上げていったとはいえ、横から悠然と眺めていたアズザインには同じ技として見抜かれる可能性がある。
 よし……この技ならばアズザインもまだ見ていないはず!

「くらえ、ハウリングスレイヤー!」

 アズザインが二度目の波状攻撃を繰り出してきたのを迎撃するタイミングで、那智は一気に間を詰めながら拳を繰り出した。
 一瞬のうちに数百と閃いた拳は大気を裂き、湧き起こる風の刃がアズザインに襲いかかった。
 さすがに初見ではかわされなかった。

「ぐっ……!こしゃ……くなあっ!」

 アズザインが微かに呻くが、やはり当たりが浅い。
 星衣にもヒビすら入れることが出来なかった。
 懐に入り込んだところでもう一撃繰り出したかったが、アズザインが右手の人差し指を立てたのを見て那智の肌が総毛立った。
 やはり接近戦では冥界波のプレッシャーが大きすぎる。
 至近距離では冥界波をかわしきれない以上、那智は即座に離脱して距離をとった。
 それを確認したアズザインは舌打ちして指を収めた。
 どうやら那智の測っている間合いは辛うじて冥界波をかわせる範囲のようだが、油断することはできない。
 間合いの外だと思わせておいて罠を仕掛けることもできるからだ。

「ちょこまかとよく動く。
 ヒットアンドアウェイを狙っているようだが、そもそも貴様は無意識のうちに逃げることを身体に命じている。
 ……恥じることはない。それが生きている者の本能だからな。
 だが、それによって後ろ向きになった狼などネズミも同然。
 もはや冥界波を繰り出すまでもないわ!」
「何だと!」
「ネズミはネズミらしく逃げ回りながら焼け死ぬがいい!」

 アズザインが両手を高く横に広げると、先ほどに数倍する数の火の玉が頭上を埋め尽くした。
 宮内の温度が一気に上昇する。
 アズザインがその気ならばじわじわと蒸し焼きにすることも出来るのだろうが、どうやらそれはアズザインの性分ではないらしい。

「さあ踊れ!」

 振り下ろす手を合図に、殺到する火の玉が密度の限界を超えて一つに合わさり、火の壁となって襲いかかってくる。
 規模が大きすぎる。
 これを凌ぐには同規模の技をぶつけるしかない。

「マーブル・トリパー!!」

 アルレツオとピアードの合体必殺技を撃破した奥義を叩きつけた。
 熱波と大気の激震がせめぎ合い、宮内が乱雑になった高温域の交錯で嵐を引き起こす。
 それでも借りた技の誇りに掛けて小宇宙を限りに燃やし、火の壁を突き破った。
 そのカーテンさながらの壁の向こうに、

「……しまった!」
「誉めてやろう。ゆえにこの技で死なせてやろう、星葬冥界波!!!」

 小宇宙を存分に燃え上がらせて冥界波の構えを取ったアズザインがいた。
 見忘れることのない、霊魂さながらに揺らめく死のプレッシャーが、ありえない高速で放たれる。
 いや、プレッシャーというよりも、吸い寄せるかのようなあの感触は、シュバルツシルト半径を超えて近づけば逃れようもなく吸い込まれるというブラックホールに近い。
 その限界半径を超えて近づけばかわす術はない。
 那智はアズザインの構えを見た瞬間に、マーブルトリパーを放った直後の身体を無理矢理に叱咤し、右方向に全力で跳躍した。

「うおおおおおっっっ!」

 アズザインの冥界波の吸引力が勝るか、那智の跳躍力が勝るかの勝負だった。
 後ろ髪が引き寄せられる感触に、背筋が凍るような恐怖を覚える。
 身体が浮き上がるような感覚は、しかし実際は魂が引きはがされようとしているのだとわかる。
 シュバルツシルト半径の、外か、中か。
 その半径は見ることが出来ない。
 どの程度までかわせばいいのかもわからない。

「さあ、飲み込まれて果てるがいい!」
「死んで……たまるかああっ!」

 辛うじてのところで、那智の動きがアズザインの罠を上回った。
 瓦礫の中に頭から突っ込んだ那智は、それでも魂を引き抜かれずに済んだ。

「ぐ……!」

 だが、無茶をしたために、跳躍した両脚が血を噴いていた。
 この足では今一度冥界波をかわしきれるとは思えない。
 絶体絶命だった。
 それを見抜いたのかどうか、アズザインは余裕の表情でゆっくりと那智に近づいてきた。

「よくぞかわした。
 この俺様の冥界波は完璧だ。
 冥界波を極めたと言われたデスマスクでも、もはや今の俺様の敵ではない。
 受けてこらえることなど出来ない以上、かわすしかないのが道理だと気づいただけでも誉めてやろう」
「デスマスクが……冥界波を、極めた?」

 どういうことだ。
 確かにデスマスクは冥界波の使い手だが、今代において冥界波の使い手は彼一人であり、極めたも何もないはずだった。
 少なくともそんな噂を聴いたことがない。
 言われていたとしたらどこで?
 やはりこの男はデスマスクをよく知っている。
 なんとしてでもアズザインの口を開かさなければ。

「教えろアズザイン!貴様はデスマスクの何を知っている!」
「フッ、気になって仕方がないという様子だな。
 そうだな、冥界波の前に正真正銘の冥途の土産だ。
 少しは死ぬ前の無念を減らしてやるとしよう。
 しかし貴様も酔狂よな、あのデスマスクのことなど知って何とするか」
「生きている聖闘士が、死した先人のことを知ろうとして何が悪い」
「フッ、先人などと片腹痛いわ。
 奴が神聖闘士のドラゴンとの戦いの折に、その積み重ねた悪行によって黄金聖衣にさえ見放されたという話は我ら星闘士にまで伝え聞こえているというのに」

 紫龍が吹聴したとも思えないので、おそらくその話はグラード財団から奪われた情報だろうと那智は推測する。
 あまりにも象徴的な出来事ゆえに、ひとたび知られればあっという間に知れ渡ることではある。
 だがそれにしても、言っておくことがある。
 話を聞く前に、アズザインを睨み付けた。

「あれは、見放されたんじゃない」
「何?」
「紫龍との……、アテナの聖闘士との戦いだから外れたんだ。
 悪行で見放されるくらいなら、デスマスクが子供たちを殺していたときに、とうの昔に見放されている。
 それでも、あの黄金聖衣は外れなかったんだ。
 蟹座の黄金聖衣は、デスマスクの行動にも正義があると信じていたんだ」

 あのデスマスクの最大の理解者は、物言わぬ蟹座の黄金聖衣だったのではないか。
 子供たちを殺すときでさえ、あの男には揺るぎない正義があったのだ。

「フッ……、知らなければよかったと後悔するぞ、ウルフ那智とやら。
 どうやら貴様は何を間違ったかあのデスマスクを崇めているようだからな」
「教えろとさっきも言ったはずだぞ、アズザイン……!」

 アズザインの嘲笑を打ち消すように今一度睨み返した。

「よかろう、教えてやる。
 貴様が先人と仰ぐデスマスクはな、かつてこの俺様とともに、俺様と同じ師に学び冥界波の手ほどきを受けた、星闘士の予備軍よ!」

 アズザインのこれまでの言動から予想して然るべき答ではあった。
 だがそれでも、信じたくはないし信じられない答えではあった。

「そんなことが……、黄金聖闘士であるデスマスクが貴様ら星闘士に師事していたなどと……!」
「順番を間違えないことだ。
 奴が俺様と同じ師に仕えたのは、黄金聖闘士になるよりも前だ」
「何……!」

 アズザインの一言で思考がひっくり返った。
 それは、黄金聖闘士であるデスマスクが星闘士に寝返ったのではなく、元は星闘士としての修行を受けていたということを意味する。
 だとしたら、思い当たることがある。
 サガの乱が終わった後の総括で、謎のまま残されていた事実があったのだ。
 聖闘士の頂点たる黄金聖闘士であるデスマスクやアフロディーテが、力こそ正義という聖闘士にあるまじき思想に行き着いてしまったのは何故か。
 誰が彼らにそのような思想を植え付けたのか。
 それだけはついぞ判明しなかったのだ。

 教皇に化けていたサガが吹き込んだにしては時期のつじつまが合わなかった。
 サガが彼らに考えを吹き込んだ上でアテナ殺害未遂を告白したとは考えがたい。
 アテナ不在を何が何でも隠さなければならなかったサガにとって、それはあまりにもリスクが大きすぎる賭けになるからだ。
 サガはおそらく最初から、デスマスクたち年長組を抱き込めるという計算があったのだと考えられる。
 黄金聖闘士の中でも年長組に入る彼らは、サガが女神を殺そうとしたという事実を知ったとき、既に力こそ正義であるという考えを身につけていた。
 これは瞬と戦ったときにアフロディーテが語ったという事実からほぼ裏付けが取れている。
 逆に言えばサガには、彼らが賛同するという確信があったということになる。

 その考えをデスマスクたちが聖闘士になる前に吹き込んだ正体不明の何者かがいたことになるのだ。
 アズザインの言うことは状況と適合する。

「フッ、少しは思い当たるところがあるらしいな」
「デスマスクが黄金聖闘士になったのは10歳のときと聞いている……。
 それ以前からだとでも言うのか……」
「腹立たしいことだがな、我が師がデスマスクを見いだしたときには既に奴は冥界波の基礎を身につけていたと聞く。
 この状況は先代の蟹座の黄金聖闘士と一致する。
 先の聖戦で先代蟹座の聖闘士に煮え湯を飲まされたタナトス様の意趣返しとして、今度は星闘士として育て上げた男を聖域に送り込み、尖兵とすることになったのだ。
 今代において聖域を内側から崩すために打たれた手の一つということよ」

 アズザインから告げられた内容は、考えるべきことが山と含まれていた。
 即座に全てを判別することは不可能だったが、少なくともアズザインの言うことのつじつまは合っているように思われた。
 否定しようとしても、論理的に組み立てた思考はどうしても肯定の結論にしか至らない。
 今立っている巨蟹宮の床ごと崩れ落ちていくような失墜感が背筋を撫でた。

「崇めていた男が星闘士の尖兵と知り言葉も無いか。
 無理もないがな。
 そうさ、奴は我が師よりデスマスクの名を賜り、冥界波を極めたとまで称された。
 あれでよくぞ聖闘士の面など被っていられたものだと感心するわ」
「何だと……!?」
「腹立たしいことこの上無いが、確かに奴は一時、この俺様をも凌ぐ使い手だったこともある。
 だが結局、神聖闘士のドラゴンを相手に冥界波を幾度も繰り出しながら、その全てで蘇られたそうだな。
 所詮奴などその程度。
 ハーデス様配下の冥闘士となりようやく本来の鞘に収まったと思ったら、嘆きの壁には黄金聖闘士面して参じたとは笑止千万。
 我が師の教えを受けながら、信念の欠片も無いその所行、所詮この俺様に及ぶものでは……」
「黙れ……!」

 教えろと言った手前、出来るだけ我慢するつもりだった那智だが、我慢の限界を超えた。

「話を聞かせろとは言った。
 だが、それ以上デスマスクへの侮辱は看過できん。
 蟹座のデスマスクは、死してなお逆賊の汚名を自ら着ながらアテナの聖衣のために戦い、魂だけとなってもなお、嘆きの壁を破壊するために馳せ参じた真の黄金聖闘士だ。
 貴様ごときが侮辱していい存在ではない……!」
「フハハハハハハハ!まだ目が覚めぬのか!
 盲信もここまで来れば喜劇だな。
 ヤツが真の黄金聖闘士などと、これだけ言ってもまだわからんか。
 よかろう、望み通り、貴様の妄想を粉々に打ち砕く過去を教えてやろうではないか」

 勝ち誇ったようにアズザインは口元を大きく歪めながら喋り続ける。
 今度は那智も止める気にならなかった。

「ヤツが老若男女の区別無く殺した人間の数からして貴様の想像を絶しよう。
 万やそこらではないぞ。
 一つの民族を丸ごと抹殺したことも一度ではない。
 そのさなかに奴が言っていた言葉の一つを教えてやろう。
 優秀な民族など存在しないが劣等民族は存在する。それは……
「自らを優秀だと思いこんでいる民族だ。それは言われなくても知っている」
「何?」
「本人から聞いたからな」

 止めるまでもない。
 その事実はよく知っているからだ。

「貴様……、デスマスクに会ったことが……」
「あるとも。
 俺はこの世の地獄で、蟹座のデスマスクと確かに会った」

 ああ、忘れられようはずもない。
 冥王の作り出した地獄を一度はこの目で見たかった。
 きっと、自分の見た地獄の方が勝るだろうから。

 百人の孤児は皆、この世の地獄を見てきたという。
 灼熱の砂漠、極寒の雪原、荒れ果てた火山……人間が生きるような場所ではない修行地で生き抜いてきた者がいる。
 常人ならば千回死んでいるほどの修行をくぐり抜けてきた者がいる。
 苦行を重ね、苦痛を上塗りし続け、癒える前の傷の上に無数の傷を重ねに重ね、無間地獄など聖闘士となった者には慣れ親しんだものとすら言える。
 ならばこそ、聖闘士が落とされる地獄は肉体を苛む針地獄でも血の池地獄でも炎地獄でもなく、ただひたすらに留め置いてひたすらに魂を凍てつかせようとする氷地獄とされたのだろう。

 だがしかし、それらのこの世の地獄など、所詮自分一人の地獄だ。
 正真正銘の地獄を見てきたはずの一輝や瞬に対しても、決して告げることはない思いがある。
 少なくとも、生き残った十人……もはや九人の中では那智だけは見てきた地獄が違うと思っている。
 それは、数多くの人間の手によって作られた、この世の地獄だった。
 皮肉なことに、その地獄の記憶があったからこそ、那智は一輝の幻魔拳でも精神を破壊されることは無かったのだ。



 那智とデスマスクにはある共通点がある。
 それは、人の世界の戦争に関与したということだ。



 那智の修業地リベリアはアフリカ西岸にある。
 ここには富を産む良質の鉄鉱山があり、……そして、他のアフリカの資源国がそうであるように、その富を巡って絶え間ない闘争が続けられていた。
 国際社会から内戦であると判断された期間こそ短いが、中にいる人間にとっては闘争こそが日常茶飯事だった。
 その最中に会った一人が、今は星闘士となった旧友のテリオスである。
 彼との出会いからさらに年を重ね、那智はようやくにして狼星座の聖衣を授けられた。
 銀河戦争というふざけた企画の話が届くわずかに前、那智はその日もいつも通り闘争を止めるべく戦っていた。
 当初は聖闘士としての修行の一環だったそれこそが、既に日常と化していた。
 どれほど止めたとしても、必ず戦いは再発する。
 銃口から命を救った幼子が、わずか数ヶ月後には銃を手にさせられ、当の那智に向けてきたこともある。
 一時の平和は次の闘争のための雌伏であり、所詮自分の行為など賽の河原で子供が石を積んでいるようなものかもしれないと思っていた。
 それでも、かつての自分と同じような孤児を、捨て置くことなどできようか。
 かつて自分こそが救って欲しかったという衝動を忘れることが出来ない以上、那智は人の世界には過分な力を持って、闘争に身を投じていた。
 闘争といってもある程度の武器と装備を持った民族が、他の民族に対して一方的な虐殺を行うことが多い。
 どこで何が起こるかは大体わかっていて、それが起こる前に武器を破壊して回っていた。

 だが、その日は違っていた。

 苛烈な銃声、爆音、悲鳴、そしてその後に、それらに重なるようにしていながら、感じずにはいられない確かな静寂。
 嫌な予感、というものは生じなかった。
 そんなものはとうの昔に麻痺している。
 ただ、異常な事態が生じているということだけは確かで、そちらへと向かって駆けた。

 村の中心である広場には、確かに異様な事態が起きたことが明白な、異様な光景が広がっていた。
 ナイフを手にしている者がいる。
 銃を持っている者がいる。
 手榴弾が爆発した痕跡もある。
 今し方まで全てが生きていた痕跡があるというのに、それらは全て、止まっていた。
 傷もなく、流血もなく、苦痛もなく、累々と、老若男女の区別もない平等な死が転がっていた。
 それらは、ただ死んでいた。
 決して眠るようではなく、理不尽に来襲した死への恐怖や怒り、悲しみを湛えて。

「あれ……は……!!」

 その死のまっただ中に、それらを平定した金色の死神が立っていた。
 その小宇宙のなんと絶大なことか。
 那智自身はおろか、那智の師匠でさえ遠く及ばないと確信できる。
 その強大極まりない小宇宙はしかし、あまりにも莫大な死を纏いすぎていた。
 どう考えても生きた人間が纏えるような小宇宙ではない。
 だがその死神が実際に纏っているのは、伝え聞く冥界の衣ではなく、師から聞いていた黄金聖衣に他ならないと断言できた。
 その存在だけで矛盾に満ちた死神は、那智の呟きを聞きとがめたのか顔をこちらに向け、

「なんだ?貴様も日本人か?」

 面倒くさそうな、しかし、こなれた日本語で聞いてきた。
 その言葉によって、辛うじて目の前の存在が生きている人間であることを認識する。
 しかし、このアフリカ大陸でまず聞くはずのない日本語であるため、かえって浮世離れした印象を受けた。
 しかも、貴様も、と言った。
 どこか、男が知っている日本人が自分と関係があるようにも思われた。
 だがそのときには、余りに強大な小宇宙に対する畏怖のために、それ以上のことには思い至らなかった。

「そうか。
 近頃この近辺で内戦を止めようと暴れている黄色いガキがいると言っていたが、お前のことだな」

 正面を向いてくれたおかげで、その男の纏っている黄金聖衣の形状が確認でき、蟹座の聖闘士であることがわかった。

「この人たちを皆殺しにしたのは、お前か……」
「見て解らんか小僧。確かにこいつらを殺したのはこの俺だ」

 確かに言われるまでもなく自明だった。
 まさかこの状況で、殺害現場にたまたま居合わせただけだ、などという下らない言い逃れが来るとも思っていなかったが、男はさも当然と言わんばかりに肯定して見せた。
 そこには一片の罪悪感も感じられない。

「何故だ……」
「頭の哀れなヤツが。
 貴様も同じことをやるために、聖衣を纏ってここに来たんだろうが」
「同じだと?」
「この民族が東北部に住んでいる民族に攻め寄せるという情報を聞いてここに来たんだろう」
「そうだ、その戦闘を止めに来た」
「なら帰れ。戦闘は起こらん」

 そう告げるとその男はくるりと那智に背を向けて歩き出した。
 この民族はこの村とその周辺域を合わせて五千人はいるはず。
 この男がこれから何をしようとしているのかは、明白だった。

「待てえッ!」

 小宇宙の絶対的差から呼び起こされる恐怖を、怒りが上回った。
 気が付けばその黄金聖闘士を呼び止めていた。
 男は顔だけをこちらに向けて、それだけで人を殺しそうな視線を向けてきた。

「……帰れと言ったはずだぞ、小僧」
「貴様に用がなくても俺にはある!
 何をして、これから何をするつもりだ!」
「つくづく哀れなヤツめ。そんな単純なこともわからんか」
「戦闘を止めるために民族一つを全滅させるというのか!」
「それが最も手っ取り早く、そして確実に戦闘は起こらなくなる」

 一瞬、答えに詰まった。
 それは那智が、テリオスと出会ってからずっと考えまいとしていたことだったからだ。
 その民族が存在している限り戦いが続くならば、いっそ……。
 それはアテナの聖闘士としてあってはならない考えだと、必死になって考えまいとしていたことだった。
 その禁忌を、この男はさも当然のことのように言い放った。
 反論しなければならない。
 でなければ、何のためにここまで戦ってきたのか。

「……だからといって、年端もいかぬ子供まで殺すような真似が聖闘士の為すことか……!」
「この場で飢え死にしたり、奴隷や玩具にされるより、親兄弟と一緒に死ねる方が幸せだろう。
 オレは慈悲深い男なのだ」

 この言葉に、星矢たちならば猛烈に反発していたかもしれない。
 だが、那智は知っていた。
 この地上に現出した地獄がどのようなものか。
 それはこの大地では確かに、しかも身近に存在するのだ。
 死んだ方が遙かにマシという世界が。
 ゆえに、反論に窮した。

「小僧、見るべきものを見たか」

 そこで男は身体を翻し、那智に向かって近づいてきた。
 近づけばなお一層、小宇宙の絶大さがひしひしと伝わってくる。
 その顔に幾重にも刻まれた皺のせいで老けて見えるが、意外なほど若いことがわかるまで接近したところで、男は那智を傲然と見下ろした。

「どうやら、うちの跳ね返りよりは物わかりが良さそうだから教えてやる。
 一度停戦したところで戦いは終わりはしない。
 両方が生き残れば必ずまた戦いが起こる。
 神々でさえ幾百年周期で同じことをしているのだから、いわんや人間に戦いを止めることなど出来るはずがない。
 この地上に永久の平和など所詮絵空事に過ぎん。
 ならば劣等民族を根絶やしにしてでも、せめて十年の平和を確保しろ。
 神々と戦うだけの走狗ではなく、本当に地上の愛と正義を守る聖闘士になりたいのならばな」

 目上から言い放たれた言葉は、天より降り注がれたようでありながら、鎖のように手足を重く縛った。
 言葉の裏に垣間見えるのは、彼が味わってきたであろう絶望の深さだったが、掛けられた言葉に揺るぎはなかった。
 その意味するところは那智の心の防壁を鋭く突き通し、普段考えまいとしていた深層意識に到達して、自らの行動の積み重ねを崩壊させようとした。
 否定できないその言葉は認めなくてはいけない。
 だが、認めてしまったら狼星座ウルフの那智は崩壊する。
 幼くして放り込まれたこのアフリカの大地で見てきた数々の悲劇を覆し、地上の愛と正義のために聖闘士になろうとしてきたこの六年間が砕かれる。

「そんな……、そんな正義があってたまるか!
 88の星座の頂点に位置する黄金聖闘士が……、それは力が正義と叫ぶようなものだろうが!」
「否定しても事実は変わらんぞ小僧。
 認めることが出来ないと言うのならば、これからそれを見せてやろう。
 とくと目を見開いて見ておくがいい」
「させてたまるか!
 あんたをこの場でぶちのめして止めてやる!」

 無謀は千も承知だったが、見過ごすことなどできようか。

「青銅聖闘士の貴様ごときが黄金聖闘士のこのオレをぶちのめすだと?
 フハハハハハハハハハハハ!!片腹痛いわ小僧。
 いいだろう、その身の程知らずの褒美だ。
 特別にタダでしごいてやる」

 かかってこい、と言わんばかりに、その男は右手の人差し指を自分に向かってくいくいと曲げた。
 どう見ても舐めきっている。

「くらえ!ウルフの牙を!」

 小細工する気も起きず、真っ正面へ間合いを詰めて男の顔面に向かってマッハの正拳を繰り出した。
 だが、

「な……っ!」

 男の差し出した人差し指一本で、全力を込めた拳がぴたりと止められた。

「俺の拳を……指一本で……!?」
「フハハハハハハ、指一本では不満か。いいだろう、では二本で相手をしてやろう」

 何が起こったのか、見えなかった。
 気が付いたときには、那智の身体は軽々とつり下げられていた。
 男の、蟹のハサミさながらに伸ばされた人差し指と中指によって手首を挟まれて。

「少し頭を冷やすがいい」
「うわああああああっっっ!!」

 二本の指だけで、ひょいと空中高くぶん投げられていた。
 手首を作用点にしたために猛烈な回転が加えられて、受け身も取れず顔面から大地に落下して、死体の間に転がされた。

「どうした小僧、オレをぶちのめすんじゃなかったのか」
「い……言われずとも!」

 起きあがろうとしたところに、中指に人差し指を引っかけて生じさせた衝撃波が飛んできた。
 マッハをはるかに超越したその速度にまったく目がついて行かず、その衝撃波に顎を強打されて再びひっくり返った。
 完全に遊ばれている。
 歴然としたその事実を悟り、そこでようやく頭が冷えてきた。
 怒りで頭が沸騰していた中で、まるで小宇宙を燃やしていなかった自分に気が付いた。
 そんな状態でこの強大な黄金聖衣の聖闘士に勝てるはずがない。
 立ち上がり、挑み掛かる狼のような前傾姿勢で構えを取り、己の中にある小宇宙を燃やしていく。
 聖衣の重みが消えていき、逆に装着している箇所に羽根が生えたかのように軽くなっていく。
 かつて初めて聖衣を装着したときの高揚感以上に、目の前にある絶大な小宇宙に対抗せんと燃え上がらせていく。

「……青銅としては及第点か」
「いくぞ!!」

 飛びかかろうとしたその瞬間、男が瞬時に間を詰めて眼前に来ていた。
 その手が何か一閃したらしいことを視覚が認識するよりも早く、全身少なくとも数十カ所を強打されて天高く吹き飛ばされていた。
 それでも小宇宙を高めていたことで聖衣もその周囲の防御力も上がっていたため、持ちこたえられないほどのダメージではない。
 頭から落ちる前に体勢をひっくり返し、両脚で着地……するところで左の脇腹を派手に蹴り付けられ、今度は水平に吹き飛ばされていた。
 手近にあった民家の壁を三度突き破り、外に出たところで……今度は来ると思っていた。
 頭上から振り下ろされた、拳というよりは叱責の拳骨のような一撃を、両腕を重ねて辛うじてガードする。

「一応のしごきがいはありそうだな」

 その言葉とともに、胸のパーツの中央を強打されて身体が浮いた。
 速すぎて確認出来なかったが、おそらく膝蹴りが入れられたのだと推測された。
 推測したその瞬間には、男はどんな身体の動きをしたものか、右肩にかかと落としのような一撃を加えられて地面に倒れ込んだ。
 そのまま踏みつけにくる足を、これは転がって避ける。
 避けたそこを、踏み下ろされたその足で再び蹴飛ばされた。
 
 反撃に転じるどころではない。
 あまりにも圧倒的な力の差があった。
 その後も幾度となく吹き飛ばされ、踏みつけられ、それはもはや戦いなどとは呼べない。
 男の言うとおり、それは戦闘ではなく、しごきでしかなかった。
 何百発受けたものか。
 男が手加減していることを明白に示すように、聖衣にはヒビ一つ入ることなく、しかし那智自身の身体は盛大に痛めつけられていた。
 立ち上がろうとした足腰が持ちこたえられず、その場に膝をついてしまった。

「これでもまだ、オレを止めるとほざくか」
「く……そ……」
「わかったか。
 正義を為すには力がなければならん。
 地上の愛と正義を守るものもまた力だ。
 力の足りない者が語る正義感など、小悪党の戯言に過ぎん」

 全身が思うように動かないが、それでも視線だけは負けぬと睨み返した。

「何が正義だ……あんたの正義は矛盾している」
「ほう、ほざくな、小僧」
「力が正義というのなら、何故これから戦争を始めようとする強い民族の方を全滅させようとする。
 あんたは自分の信念すら信じていない……そんな正義なんかに負けてたまるものか……!」
「似ているのはツラだけかと思ったが、うちの弟子と同じことをほざく。
 しごきのついでだ、教育してやろう。
 いいか、俺は地上の正義を守る聖闘士だ。
 だが聖闘士は正義だけではなく、地上の愛と平和も守らねばならん。
 自分たちこそが優秀な民族だなどと考え、他の民族を浄化しようなどと考えている劣等民族を残しておいたらどうなると思う。
 次々と他の民族を浄化しようと戦争を続けることは必定だろう。
 ゆえに、地上の愛と平和を守るために、そのような劣等民族は滅ぼさねばならん。
 確かに貴様の言うとおり、奴らにも力はあるがゆえの正義はある。
 ならばこそこの俺がやらねばならんのだ。
 正義はより強い正義により打ち破られる。
 強き力を持つこの俺の正義によって、弱い正義を、悪を討ち滅ぼさねばならんのだ!」

 揺るぎなかった。
 那智の渾身の言葉にさえも、微塵も揺るがなかった。
 そしてまた、黄金聖闘士ともあろう存在が、こんな地上の闘争に関わっている理由もまたよくわかった。
 それでも、だ。

「それでも、俺はお前を許せない……!」

 この男の正義は嫌と言うほどわかった。
 それでも、那智にも引けない正義がある。
 聖闘士となった理由、聖闘士となって救いたかったものがある。
 救われなかったかつての自分の代わりに、救われたいと願うものがある。
 それがゆえに、子供までも殺すこの男とは決して相容れない。

「ならばどうすればいいか、それがわかるくらいの頭はあるんだろうな」
「……力が正義だというのなら、その力を以て、その正義を叩き直してやる!」
「フハハハハハハ!よく言った!」

 バカにしたのか称賛したのかわからないが、とにもかくにも挑発には十分な笑いは、おそらく正解と言うつもりなのだろう。
 やってやる。
 青銅聖闘士と黄金聖闘士との差がどれほどに絶望的であろうとも。

「燃えろ、俺の小宇宙よ!!」

 これまでになく自分の小宇宙が高まっているのが感じられる。
 実戦に勝る修行は無いということなのか、それともこの男に短時間といえどしごかれたことによるものかはわからなかったが。
 自分の限界を超えた小宇宙を以て、六年の修行で身につけた自分の最高の技を叩きつけるのみ。

「食らええええっっ!デッドハウリング!!」

 拳とともに繰り出した、目の前にあるもの全てを切り刻む大気の刃が男の全身に殺到する。
 だが、

「効かない……!?」
「この程度の涼風が貴様の全力か?
 こんな拳で正義を語るなど片腹痛いわ」
「く……おおおおおおおっっっっ!!高まれ、俺の小宇宙よ!!」

 黄金聖衣の防御力があったとしても、男の姿勢はその正義と同様に微塵も揺るがなかった。
 いや、そもそも男が背中にまとっているマントが微動だにしていないということは、黄金聖衣より前に男の小宇宙に阻まれて何一つ届いていないということになる。
 届かないなら高める。
 もっと、もっと強く、高く、熱く……!

「所詮は負け犬の遠吠えか……」

 届かない。
 限界を超えて小宇宙を燃やしたとしても、あまりにも大きな壁が目の前にあった。
 それでも、何が何でも、この男に間違っていると言わねばならなかった。
 遠吠えが届かないというのならば。

「ああああああああああああああっっっっっっ!!!」
「小僧ッ!!」

 小宇宙を限りに燃やして火を噴くような両脚で、思い切り大地を蹴り、前へ向かって駆けた。
 吹き荒れる大気の刃を拳に纏ったまま、全身弾丸と化して男の懐へ突っ込んだ。
 眼前に来てわかる、あまりに強大な小宇宙の壁に、全身もろとも飛び込んで、全体重全小宇宙全身全霊を載せて右拳を叩き込んだ。
 静かにして絶大なる小宇宙の壁に大気の刃がはぎ取られ、削られ散るナックル越しに腕の皮まで剥ぎ取られながら、

「くらえええええっっ!!」

 一発、男の顔面に叩き込んだ。
 かすかに、ほんのかすかにだが、男の姿勢が揺らいだ。

「……誉めてやるぞ、小僧」

 男の左頬を捉えていた右手を、がっしりと掴まれた。

「この内戦の地で、見るべき地獄を見た貴様への褒美だ。
 この世の地獄より遙かにマシな、死の世界を見せてやろう」
「な……っ!?」

 男の背後に輝ける星々が浮かび上がった。
 小宇宙ではなく、死気そのものの如きものが男の全身から立ち上り、ゆらりと持ち上げられた男の右手の人差し指に、無のように白い光が強く儚く輝いている。
 眼前に近づけられたその光が網膜から脳裏に焼き付いて、脳髄はおろか魂までもが引き込まれそうな不可思議極まる引力が全身を捉えた。
 指一本、瞼一枚動かすこともできず、驚愕の表情のままその技をとくと見ることになった。

「積尸気冥界波!」

 男の背後に浮かぶ散開星団へ向かって失墜する穴が、開いた。
 吸い込まれ、ぐるぐると回転しながら、ひたすらにひたすらに、天へ向かって落ちて地の底よりも深く突き抜けて、そのどこかで、何か肉体のようなものを置いてきたような感触があった。
 そして。

「………………!!!」

 目を見張った。
 正確には、目を見張ったような感触があった。
 肉体の実感は既になく、視覚に映る光景の現実離れした様がその錯覚じみた感触をかきたてていた。
 視界に広がっているのは、先ほどまでいたアフリカの村落ではなく、文字通り草木一本無い荒涼とした無彩色の台地だった。
 たとえ砂漠のまっただ中であっても、ここまで生命の気配を感じさせない場所をかつて見たことはない。
 天というより空は、「そら」ではなく「くう」と言うべきか。
 無彩色で、陰鬱な、黒とすら呼べない、何とも名状しがたい様で、重くのし掛かるように台地を覆っていた。
 その、生命のない台地には、動くものだけはずらりとあった。
 数え切れないほど多くの人間……だろう、多分……が、幾本もの列に並んでぞろぞろといずこかへ向かって歩いていった。
 そして、その誰からも、生きている気配がまるで感じられなかった。
 彼らは俯いているか、呆然としているか、嘆いているか、とにかく笑っている者など一人もなく、それでも何かにせき立てられるようにひたすらに足を止めることなく歩き続けていた。
 嘆きの声を上げているものもいるというのに、あたりは不気味なまでに静かで、空とともにのし掛かる静寂が、逆に轟音さながらに耳を貫いてきた。
 とてもこの世のものとは思えない世界だった。
 だとすればここは……

「ヤツの言うとおり、死の世界……だとでもいうのか」
「その通り。ここは黄泉平良坂。死んだ人間が来るところだ」

 背後から静かに圧倒的な声がした。
 振り向けば、無彩色に見える世界の中でも輝かしい黄金聖衣を纏った男も来ていた。

「俺は、死んだのか」
「死んだわけではない。ここはいわば冥界への入口。あの列の果てにある大穴に落ちたら本当に死ぬがな」
「見せてやるといったな……。あれらは全て死んだ人たちということか。
 俺に死んだ人たちの末路を見せて、死が救いだとでも言うつもりか!」
「馬鹿をほざくな小僧。
 それは前聖戦でハーデスの野郎が抜かしたという戯れ言だぞ。
 救いなどはない。
 死というものを貴様に見せてやるために連れてきたまでのこと」
「……これが、死か」

 日本にいた頃に聞かされた仏教の記憶がうっすらと頭の中にあったが、アフリカに来てからの六年間でその記憶は摩耗していき、死ねば全てが無に帰ると思っていた。
 だが言われてみれば、冥界を統括する冥王ハーデスが存在する以上、死後の人間が行くところはあるはずであり、そうなると死後、肉体から離れる魂が現実に存在するのだということになる。
 そのことを、今目の前でまざまざと見せつけられていた。
 得難い経験といえば間違いない。
 死しても全てが終わりではないと言った師匠の言葉がようやく納得できた。

 それと同時に、気づいたことがある。

「貴様の背負ってる……それは、なんだ……」
「ほう、見えたか小僧」

 男の背後に、先ほど見えた散開星団とはまったく異なる、黒い混沌のようなものが見えた。
 暗黒星雲の星間ガスのようでもあったが、その中に時折目や口のようなものが見え、遠方に見える行列と同様の嘆きの声が漏れ出ていた。
 それらは男の小宇宙を高める薪か燃料のように燃え盛りながら、なお燃え尽きることなく男の小宇宙と一体となって渦巻いていた。

「まさか、それは……貴様が殺した人々の……」
「そうだ。
 命など塵芥のごとく生まれてくるとはいえ、俺は殺した命を決して無駄にはせん。
 俺が殺した者たちの怨念を受けて、俺の小宇宙はさらに強くなる。
 この者の怨嗟こそが俺の強さの証であり、この俺をさらに強くする糧でもある。
 これらのデスマスクたちこそが俺の正義の結果であり、源泉でもあるということだ」

 地上の愛と正義を守るために、より多くの死を防ぐために少数を殺す。
 その殺した命を取り込んで強くなり、自らが体現する正義を行い続けてきたということだ。
 だが、ありえない。
 それだけの怨嗟の声を間近に聞き続けて神経が保てるなどもはや人間業ではない。

「なぜ……なぜ、そんなことに耐えられる……!」
「同じことを何度も言わせるな。
 聖闘士ならば当然、地上の愛と正義のために。
 来るべき聖戦でこの地上を守るため、俺たち聖闘士は誰よりも何よりも強くなっていなければならないのだ。
 命など塵芥だが、塵も積もればこの地上を作る。
 忘れるな、必ずや殺した数よりも多くの命を救え」

 ぐいと頭を掴まれて高く差し上げられた。
 この光景を見忘れるなとでも言うように。
 言葉で言われなくても、この光景自体があまりにも雄弁だった。
 そして、頭の奥の天頂で光が開いたかと思うと、次の瞬間、男に掴まれたまま、アフリカの大地に帰還していた。
 呆然となったまま、ぽいとゴミのように放り出された。

「貴様の戯れ言に免じて、ここの民族の生き残りは見逃してやる。
 それがどういうことになるか、しかと瞳に刻んでおけ」

 それはつまり、那智をも見逃すということに他ならない。

「いくらお前が多くの命を救おうと、俺はお前を認められない。
 俺は必ずお前の敵になるぞ。
 いや、そんなことはお前自身百も承知のはずだ……なぜ俺にそこまでの正義を説いた、答えろ!」
「嫌でもいずれわかるときがくる。
 その時には貴様は真の聖闘士になっているだろう」

 それ以上の説明は無用と、男はばさりとマントを翻し、去ろうとする。
 それでも、一つだけ、どうしても聞いておかねばならないことがあった。

「待て……!
 俺はまだお前の名を聞いてない。
 お前の名はなんだ……!」
「よかろう、地獄に行っても忘れるな。
 鼓膜をかっぽじってようく聞け。
 俺は黄金聖闘士、蟹座キャンサーのデスマスク」
「デスマスク……」

 偽名ではないかと思う名だった。
 しかし、誰が名付けたものか、この男の名前として、これ以上相応しい名前があるだろうか。
 この男デスマスクはその名に背かず、その名に冠するものを背負い続けて生きてきたのだ。

「小僧、貴様は?」

 名を問われたのだと、理解するのに一瞬かかった。

「那智……青銅聖闘士、狼座ウルフの那智だ!」
「ナチ、か。よかろう、覚えておいてやる。
 次に会う時まで、もう少し強くなっておけ」
「……!」

 そこで男は、蟹座のデスマスクは、フッと、微かに笑った。
 それまでの見下しきった高笑いではなく、見るものを惹きつけずにはいられない、心から漏れ出たような見事な笑顔だった。
 それが、一瞬だが確かに見た、そこまで偽悪家を装っていたこの男の本性に思えてならなかった。



 それが結局、最初で最後の邂逅となった。
 だが、別れ際のそれらは約束となった。



 その後すぐに銀河戦争に参加した那智は、一輝の幻魔拳を受けて敗北する。
 しかし、アフリカの大地で見たこの世の地獄と、実際に見た黄泉平良坂の光景とが那智を支えることとなり、精神を破壊され尽くされることなく、立ち直ることができた。
 それから修行のためにリベリアに帰還した那智は、デスマスクの一つめの約束が果たされたことを知った。
 デスマスクが見逃した民族の生き残りによって虐殺が行われ、継いで起こった戦争によって十万近い人々が死に絶えていた。
 どういうことになるかを、しかと瞳に刻むことになった。

 そして、その約束が果たされたことが意味する事実はとてつもなく重かった。
 デスマスクは、こうやって死ぬことになる十万人の命よりも、那智一人に思い知らせる方が、より多くの命を救うことが出来ると判断したのに他ならない。
 なんという重い枷を課してくれたものか。
 それは新たな約束になった。
 これからの人生において、那智は十万を遙かに超える人々の命を救わなければならなくなった。

 そしてもう一つの約束があった。
 蟹座のデスマスクが覚えておくと言ったのだ。
 彼の死ごときが何であろう。

 一度めはこの巨蟹宮で果てた。
 このときに黄金聖衣がデスマスクから離れた理由はただ一つ、相手の紫龍が真のアテナの聖闘士だったからに他ならない。
 アテナを死なせることだけは、いかにデスマスクの正義に味方していてもできなかったのだろう。
 決して見放されたのではない。
 そこまでに積み重ねて背負い続けてきた彼の業のただ中では、デスマスクの行いを否定することは出来なかったのだから。

 その積み重ねた強さがどれほどのものだったのかは、ある程度推察することができる。
 教皇に化けていたサガが、天秤座の老師への刺客として、デスマスクを単身で差し向けたという事実が何よりも雄弁だった。
 力こそ正義と言うデスマスクが、相手と自分との強さを測り間違えるはずはない。
 実際にデスマスクは、ムウがその場に駆けつけたことで不利を悟り、速やかに撤退している。
 裏返せば、ムウの加勢が無ければ、デスマスクには老師を倒せる勝算があったのだ。
 前聖戦の生き残りであり、当代最強と全ての黄金聖闘士が認めていた天秤座の童虎をだ。

 その積み重ねた強さは、紫龍というイレギュラーな強さと、黄金聖衣の離反によって霧散した。
 黄泉平良坂で戦ったために、積み重ねてきた怨念がデスマスクの敵に回ったのだとも聞いた。
 そんな特殊な状況でなければ、デスマスクが敗れることなど無かっただろう。
 事実、紫龍は黄金聖衣が離反するまでに、デスマスクに一撃さえ加えることができなかったのだと聞いている。
 惜しむらくは、紫龍とデスマスクとでは相性が悪すぎた。
 紫龍では決してデスマスクの正義は理解できまい。
 人格者の老師に師事し、気候の温暖な五老峰で暮らした日々は、きっと、那智やデスマスクの見たこの世の地獄とはかけ離れたものだったはずなのだから。

 しかしデスマスクは、死してもなお屈することなく、己を曲げることなく、太陽神アベルに魂を売ってまでこの地上に戻ることにこだわった。
 それだけでも驚嘆に値する。
 だが二度目は、そこまでに積み上げてきた怨念を失っていたはずだ。
 そこで再び紫龍に倒されて、どんな剛の者でも己の正義を疑うのが普通であろう。
 それでも変わらなかった。

 彼の三度目の生を確認した者は生存していないが、確信を持って言える。
 教皇シオンの下で十二宮への尖兵となることを受け入れたとき、デスマスクはシオンに対して、あの忘れられぬ笑顔で応えたに違いないと。
 その笑顔を、邪悪の尖兵としての邪悪な笑みの仮面で覆い隠し、黄金聖闘士の誇りを冥衣で覆い隠して、アテナの聖衣のための礎となって死んでいったのだろう。
 やっと掴んだ三度目の己の命さえも、もっと多くの人々の命を救うために、躊躇もなく投げ捨てた。
 そして三度目の死の後でもなお、あの男は揺るがなかったのだ。
 那智以外の全ての人々の予想に反して、魂だけとなってもなお、地上の愛と正義のために、嘆きの壁へと馳せ参じたのだ。

 三度死しても何一つ変わらない。
 私利私欲のために戦ったことなど一度もあるまい。
 わからぬ者が見ればあまりにも邪悪で、だがそれを超えて余りある強大なる正義を、決して曲げることはなかった。
 その強固すぎる信念ゆえに、聖闘士が見ようとしなかったもの、見てはならなかったものを、見ずにはいられなかった男なのだ。
 神々の手から離れた鉄の時代にあって、人と人との争いが絶えぬ中、その力を使わずにはいられなかったのだ。

 そのただ中で、願いを同じくして会った。
 そんな、三度死しても信念を変えることの無かった男との約束なのだ。
 終わりなどあるはずがなく、時果てるまで続くに決まっている。
 覚えられている。
 強くなっていろと言われたその自分が今、この巨蟹宮で戦っているのだ。
 無様な敗北など許されない。

 思い出し、振り返り、語り終えて、意識を現在の巨蟹宮に戻した那智は、アズザインに向き直った。
 那智の知る以前のデスマスクをよく知っていたというその男は、苦々しい表情を噛み潰すようにして、引きつった笑みとともに重く口を開いた。

「フン……、なるほどな。
 酔狂としか思えなかった怨霊集めの最中で、少しは聖闘士らしいことをしていたというわけか。
 だが、思い出したのならばしかとわかったことだろう。
 その死さえも、貴様に下した戯言も、ヤツが積み重ねた強さも、全ては聖闘士となる前に星闘士として叩き込まれたものの延長に過ぎん。
 授かったその名の通りの業をしていただけのこと。
 有り難がる気もようやく失せたことだろう。
 失望と絶望のただ中で、せめて最期はこの俺様の、デスマスク以上の冥界波で止めを差してやろうではないか!」
「いいや、あいにくその逆だ」

 冥界波の構えを取ろうとするアズザインに対して、嘆息とともに返事をする。
 思い出した今となっては、失望などしようはずもない。
 むしろ自分の情けなさが腹立たしくなるくらいなのだ。

「デスマスクは確かにオレに言ったのだ。
 自分は、星闘士でもなく、冥闘士でもなく、黄金聖闘士だと」

 デスマスクにとっては、それ以前のことなどどうでもよかったのだろう。
 他人から見れば紆余曲折を経たように見えるその人生は、最初から最後まで何一つ揺らいではいない。
 全てはこの地上の愛と正義のために。

「俺は確かにこの目で見届けたんだ。
 蟹座の黄金聖闘士デスマスクは、二度死してもアテナのために戦い、三度死して魂だけとなってもなお嘆きの壁に馳せ参じた偉大な黄金聖闘士だ。
 この俺が巨蟹宮を預かる今この場で、蟹座のデスマスクへの冒涜は許さない。
 貴様ごときがデスマスクに及ぶものか!」
「貴様……どういうつもりだ……!この俺様の冥界波が怖くはないのか!?」

 冥界波の構えを取るアズザインに対して、那智は回避の体勢をやめて真っ正面に向き直った。

「ああ、とんだ恥をさらし続けたな。
 貴様のおかげで目が覚めたよ。
 もうちょろちょろと逃げ回るのはやめだ。
 撃ってこい、貴様の冥界波を。
 貴様が蟹座のデスマスクに遠く及ばないことを、はっきりと見せてやる!」

 アズザインの顔色がはっきりと変わった。
 デスマスクが死んだ今となってもなお、この男にとってデスマスクの存在は拭いきれないコンプレックスの対象であるらしい。
 沸騰寸前の表情を辛うじて抑えて、アズザインは引きつった笑みを見せた。

「バカめ、星闘士の星葬を束ねるこの大祭司アズザインの冥界波を堪えられるとでも思っているのか!」
「できるさ。
 この巨蟹宮を預かる以上、やってやらなきゃならないんだよ」

 不思議と恐怖は無かった。
 冥界波といえども小宇宙の闘技ならば、仕掛けた者を上回る小宇宙を以てすれば堪えることができるはずだ。
 冥界波を避けるのではなく、小宇宙を燃やして堪えてみせる。
 覚悟を決めればあとは小宇宙を果てしなく燃え上がらせるのみだ。

「フン……。
 そうか、一度デスマスクの冥界波を受けて黄泉平良坂に行ったため、そこから生還できるとでも思っているのだな。
 残念だが、このアズザインが全力で繰り出せば、冥界波は死の国の入口に送り込むだけでは済まんのだ。
 魂は四散し、もはや生まれ変わることすらできなくなる。
 本来の星葬の意義に反するため、普段は使うこともないが、ウルフ那智、貴様は特別だ。
 この俺様をデスマスクに及ばないなどとコケにした罪は、その魂であがなってもらうぞ!」

 アズザインはこれまでになく小宇宙を燃え上がらせていく。
 全力でというのはハッタリではないようだ。
 だがそれでいい。
 その全力を打ち砕いて初めて意味がある。

「燃えろ俺の小宇宙よ……。
 黄金聖闘士蟹座のデスマスクの位まで……」

 いや、違うと思った。
 もう少し、強くなっておけ、と彼は言った。
 デスマスクの思考でいうのならば、そんなことで満足するはずがない。
 もう少し、と言った。
 何より、かは明白だ。
 己に言い聞かせるように言い直す。

「一瞬でもいい。
 偉大なる黄金聖闘士、蟹座のデスマスクよりも強く、高まれ!!!」

 冥界波を受けたわけでもないのに五感が遠のくような錯覚があり、その替わりに己の中にある小宇宙と目の前にある小宇宙が鮮明に感じられる。
 自分自身が星々と一体となって輝いていくような感覚が、星の燃焼さながらに果てしなく高まっていく。
 これが、これこそが、究極の小宇宙、セブンセンシズだ……!

「さあこれで本当の最期だ!
 この俺様の全身全霊全小宇宙を注ぎ込んだ……、星葬冥界波!!」

 規模も失墜感も吸引力も、確かに先ほどまでの冥界波とはわけが違う。
 それでも、抗うことすらできなかったあの冥界波に比べれば……!

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッッッッッ!!!」

 冥界波が全身を捉え、引き込みながら魂を爆散させようとするその瞬間、彼に届けとばかりに吠えた。
 そして、

「堪えたぞ、貴様の冥界波!!」

 急速に戻る五感が、この地上に魂が残っていることを明確に示していた。

「バカな……、何故効かぬ!
 俺様の冥界波は全星闘士中最強にして完璧のはずだ!!」

 そこで、アズザインは那智ではなく、その背後の上空を凝視した。
 振り返らなくても、那智にはそこに何があるかわかった。
 アステリオンの戦略によれば加護を授けてくれるはずのそれは、しごいてくれたあのときの冷淡さそのままに、那智を助けることもなくそこにあって、結果を見下ろしているに違いないのだ。

「この俺様を……死んでもなお見下すかああああっっ!!デスマスクッッ!!」

 その蟹座の黄金聖衣が、行けと背中をけしかけたように感じた。
 己の限界を超えて燃え上がった小宇宙を拳に載せて、アズザインへ向けて突っ込んだ。
 黄金聖衣を凝視したままだったアズザインはその動きに気づいて那智を迎撃しようとするが、那智の動きの方が早かった。

「受けて散れ、アズザイン!デスマスクに届かなかったこの技で!」
「き、……さ、まああっっ!」
「デッド・ハウリング!!!」

 今度は、届いた。

「うおおおおーーーーーーーーーーーっっ!!」

 大気どころか空間までも切り裂くような刃の群れがアズザインに殺到し、その星衣を完膚無きまでに粉々にしながら吹き飛ばす。
 アズザインはそのまま受け身を取ることも出来ずに、マスクを失った頭から、派手な衝撃音とともに巨蟹宮の床に落ちた。

「ぐ……が……」

 やはり、と那智は思った。
 アズザインは自分が星闘士のどのクラスに属するかを一度も言わなかった。
 祭司である彼は、戦闘能力では青輝星闘士たちには及ばないのだ。
 だが星闘士最強と自負する冥界波があり、暗殺にはこれ以上無い強さを発揮する。
 だからこそゼスティルムは、アズザインの存在を伏せたまま利用することを考えたのだろう。

「お……おの、れ……」

 アズザインは立ち上がろうとするが、もはや不可能なのは明白だった。
 死力を尽くして見上げた視線の先は、那智ではなく、泰然とたたずむ蟹座の黄金聖衣であった。

「デスマスク……」

 怨嗟とも諦めともつかぬ声がアズザインの口から漏れる。

「何故……、陛下は……」

 何かをつぶやこうとしたらしいが、それはもはや声にならず、アズザインの身体から全ての力が抜けて、巨蟹宮の床に伏した。
 その身体がゆっくりと、アズザインの身体の中から漏れ出てくるような炎に包まれていき、音もなくその身体を灰に変え、天へ登らせていった。
 巨蟹宮に伏したままの屍を残さなかったのは、星闘士の葬儀を司る男として、最期の矜持だったのか。
 いかな冥界波の使い手といえど、これでは蘇ってくることも出来まい。
 その死までは侮辱する気になれず、那智は自らの聖闘士カードを取り出し、天へ向かって差し上げた。
 アズザインの死した場所に投げつけることなく、アズザインの灰が去りゆく先を指したまま、その聖闘士カードを、自らの技を以て、形を残すことなく塵と化した。

「さらばだ、アズザイン……」
「勝ったか……、那智……。それでこそ俺たちの見込んだ男だ」

 安堵したピアードの声が聞こえてきたので、那智も安心してそちらの方に歩いていった。
 だが、その場の状況は安心できるものではなかった。

「……これ、は……」
「ああ……、これか、気にするな。
 強くなるために無茶をしたと言ったろう。
 まだ不完全だとわかって願った代償に過ぎん」

 ピアードの両腕の先が崩れて砂のようになっていた。
 おそらくアンダースーツの下の両脚の先もそうなっているのだろう、形を崩して不可解な方向に足が曲がっているように見えた。

「何を落ち着いている!
 アテナの泉は使えなくても、鋼鉄聖闘士の翔が聖域に来ているんだ。
 あいつに頼めばなんとか……」
「無駄だ……、もはや助からんことくらいわかっている。
 オレもアルレツオも、この十二宮で死ぬつもりで来たのだ。
 その甲斐は、十分にあった」

 抱え上げようとして力を掛けたピアードの両膝裏から、同じように崩れ落ちる感触が伝わってきて、那智は思わず天を仰いだ。

「何故だ……何故、この戦いで死ぬつもりなど!」
「那智、お前がイルピトア様やテリオス様の助けになるか否かを確かめたかった。
 そして、その期待は裏切られなかった。
 アルレツオも決して後悔はしていまい」

 その言葉で那智は、また一つ、いや、二つのものを託されたことを悟った。
 しかし、解せない。

「オレが、イルピトアやテリオスの助けだと……?」
「いいか、那智、よく聞け……!
 檄は生きている……いや、死んだかもしれんが、少なくともなんらかの形で復活できる。
 イルリツア様が檄を看取られた以上、必ず何らかの手を打たれているはずだ」
「何だと!?」

 身体の崩壊が進んだことを察して早口になったピアードは、疑問の最中にある那智の頭を根こそぎひっくり返すようなことを言った。

「どういうことだ!オレだけでなく檄もだと!?」
「一角獣座の邪武以外の、全員、だ……。
 元よりイルピトア様は、お前たちと戦うことが目的ではない。
 邪武だけはどうにもならんだろうが、それ以外の全員は、味方にできると、お考えだ……」
「そんな……」

 馬鹿な、と否定しようとしたが、ピアードがこの期に及んで虚言を弄するはずはなかったし、そしてそれ以上に、どうにも否定しがたい説得力があった。
 邪武だけは何があってもどうにもならないというその見解は正しい。
 だがそこまで冷徹に事態を把握して、そんなことをイルピトアに進言するのは、那智の状況をよく知るテリオスであってもできないはず……。

「できる……、できるのだ!
 なぜなら、イルピトア様にそれを進言したのは……、お前もよく知っている……、……」

 それは、この場で聞くはずがない名前だった。

「!!
 それは……っ!そんなことが……!」

 あるはずが、とピアードを揺すろうとしたとき、那智は、既にピアードが事切れていることを知った。
 嘘偽りであるはずがない。
 だがしかし、その名前は。

「まさかあいつが……、星闘士になっていたとは……」

 砂のごとく崩れていくピアードの重みが消えていく感覚すら遠のくほどに、那智の驚愕はあまりにも深く大きかった。




第二十六話へ続く



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