聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第十一話、古き大地にて」




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 一歩踏み出す。
 地に足がつく。
 大地だ……と、鋼鉄聖闘士スチールセイント子狐座ランドクロスの大地は実感した。

「どうだい、帰ってきたっていう感慨はあるかい?」

 後ろを振り返って、同行する仲間達に尋ねる。

「フッ……、いくらなんでも離れすぎている、というところなんだろうがな」

 青銅聖闘士ブロンズセイントが一人、狼星座ウルフ那智は少し困ったように笑った。
 苦笑と言うほど苦くはない。
 そんな笑顔がなかなかに好青年だ。

「そうだな。無いと言えば、嘘になる」

 もう一人の青銅聖闘士、子獅子座ライオネット蛮は、精悍な表情を遠くへ向けた。
 その瞳が、アビシニア高原の遙か彼方を見据える。
 2000メートルもの標高のため緯度にしては涼やかな風が、収まりの悪い彼の髪をまるでたてがみの様に揺らす。
 蛮の修行地キリマンジャロとは一千キロ、那智の修行地リベリアとは五千キロも離れている。
 だが、地続きだ。

 人類発祥の地。
 あるいはヨーロッパ人に言う暗黒大陸。
 しかし二人には、人生の半分を踏みしめたアフリカ大陸だった。



 エチオピアは大陸の西部、ナイル川の支流がいくつも発する場所にある。
 その歴史はアフリカでもかなり異色な国だった。

 アビシニア高原が大半を占めるその国土と、大陸の南北から植民地を広げる列強各国の勝手な外交均衡の結果、長期間植民地とはならなかった。
 また半ば外と隔絶された地であるために、古い文化がそのままに残されている。
 独特の進化を遂げたキリスト教の一派、コプト教徒が全人口の約五割を占め、修道院が国土の各地に残っている。
 近代には彼ら修道士が対列強の最前線に立って祖国を守ったこともある。

 そしてまた、あまり知られていないこともある。
 キリスト教が興るよりもさらに昔、紀元前にこの地にあったアクスム王国では、古代ギリシアの神々が信仰されていたのだ。
 そしてまた海岸まで目を向ければ、ギリシア神話屈指の英雄譚の一つ、王女アンドロメダとペルセウスの物語が繰り広げられた地でもある。
 この二人に加え、アンドロメダの父ケフェウスと母カシオペアの二人は名前そのままに、アンドロメダを飲み込まんとした巨獣も鯨座として天空にある八十八の座を占める。
 付け加えるならば、このときペルセウスはペガサスに乗っていたという。
 ギリシアオリンポスの神々にとって、太古より交流のあった大地なのだ。

 そう言った目で見ると、この国の地理もまた違った見方が出来る。
 アフリカ西部を二つに割りつつあるアフリカ大地溝帯は、数百万年のスケールでの動きだと学会は言うが、これは神々の戦いの痕跡ではないのだろうか。
 真実は、地質学者が大地神ガイアに会見すれば明らかになるであろう。

 三人はとりあえずプレートテクトニクスの検証に来たのではない。
 だがある意味では証明に来たとも言える。
 この地に眠るアテナの封印を、星闘士スタインよりも先に探し出し、護るために来たのだ。
 発見すれば、オリンポスの神々の介入を裏付けることになるとも言えた。

 めざす場所は三人が今いるタナ湖畔から約100キロ離れた山中にあるらしい。
 らしい、というのは、元になる情報源が19世紀の探検家の著書である上に、神話に直結する場所は聖域やアスガルドと同様に、人工衛星からの場所特定が不可能だからだ。

 幸い、この国にはグラード財団系列の営業所があり、現地人のガイドが手配されることになっていた。
 だが、約束の時間になってもガイドはこない。

「やっぱりこうなったか」

 百万分の一秒まで精密に計る時計をクロスに搭載しており普段は時間に細かい大地だが、ここでは諦めたような納得したようなため息とともにつぶやいただけであった。
 旅先でこういうことには慣れている。
 基本的に時計のない暮らしをしている人々には、何時という明確な区切りが意味をなさない。
 だが、那智も蛮もどこかほっとしていた。
 この大地で緩やかな生活をしている人々が時間に細かくなるのは、銃口の向かい合う内戦によることが多いからだ。
 のんびり待たされるのはこの地が平和な証拠である。
 六年間の修行期間のうち、二年近くを内戦の仲裁や人々の救助に割いてきた二人には、むしろ歓迎すべき状況なのであった。

「まあ、昨日からお祭り騒ぎなのでその影響じゃないですかねえ」

 単身赴任がそろそろ三年目になるという城戸商事の社員は、一電話終えてつぶやいた。

「お祭りって、有力者の結婚式でもあったのかい?」
「いえね、ギリシアの富豪が慈善活動に来ているんですよ。
 エチオピア政府にずいぶんな寄付をされた方で、このあたりの街もやっと修復出来るようになったから歓迎のお祭り騒ぎってことになっているんです」

 グラード財団も内戦被害者救済などはやっているが、さすがにアテナである沙織が自ら動くことは出来ないのでそこまでの活動はできない。
 えらく行動力のある富豪のようだ。

「しかし、そんなに内戦の被害が大きかったのか?
 このあたりは……」

 エチオピア内戦の実体はもっと北方ではなかったかと記憶している蛮である。
 これでもアフリカ地誌にはめっぽう強い。

「内戦じゃないんです。
 ちょっと前にあった世界一斉豪雨で、このあたりも大被害を受けたんですよ」

 末端の社員であるらしい彼は知らされていないらしいが、那智達にはまったく別の意味を持って響く言葉だった。
 世界一斉豪雨。
 ポセイドンによる地上侵略の爪痕だった。





「こんな高原でもか……。湾岸ばかりかと思っていたぜ」

 ガイドが来たら衛星携帯電話で連絡すると言われて、三人はひとまずお祭り騒ぎという街に繰り出して時間を潰すことにした。
 端末になる大地のランドクロスの一部パーツ以外は聖衣をあずかってもらい、身軽な格好である。
 少なくとも聖衣箱を担いでいては目立って仕方がない。
 日本人……とまではわからないだろうが、東洋人の外見だけでそれなりに目立つ。
 なるべく目立たない服を着ている普段の習慣に救われつつ街を眺めていると、なるほど、二割ほどの家屋は完全に壊れてしまっており、残っている家屋も派手に浸水した跡がある。

 この一年ほどの間に立て続いた神々との戦いの中で、ポセイドンによる被害は最大と言っても良い。
 アベルやルシファーは即座に星矢達が倒したおかげで短期的な破壊活動で済んだし、ハーデスのグレイテストエクリップスは太陽系の運行法則を狂わせて地磁気に大きな影響を及ぼしたものの、直接的な被害はほとんど無いままに終わった。
 だが、ポセイドンは違った。
 神話に言うデュカリオンの大洪水−−聖書ではノアの洪水として知られる−−の五分の一ほどまで進行してしまったのだ。
 あれから、まだ半年ほどしか経っていない。

 那智と蛮の第二の故郷も、まだ被害から立ち直りきれてはいないだろう。
 あの戦いでは結局、星矢たちに任せっきりで三人は何も出来なかった。
 振り返ると、忸怩たる思いがある。

「あーもう、落ち込んでばかりもいられねえだろ!
 お祭り騒ぎってんならとりあえず飲んで食おうぜ!」

 偉そうな言い方でぞんざいに言った大地だが、おちこみかけた今の二人には気合の入る有り難い言い方だった。
 壊れた家屋の前で開いていた屋台の一つで軽食をとる。

 さすがに三人ともここの地方語は知らないが、鋼鉄聖衣スチールクロスにはグラード財団のサーバから衛星回線を通じて辞書と翻訳プログラムをダウンロードすることで、世界二百八十の言語の翻訳が可能になる。
 アフリカの地方語となるとまだ流暢ではなかったが、実用にはさほど困らなかった。
 無論、いざとなればジェスチャーだけでもある程度の意志疎通が出来るくらい三人は慣れている。
 小麦とはまた違った味のクレープじみた生地をかじっていると、なにやら騒ぎが近づいてきた。

「例の富豪さんの来訪かな?」

 と言った那智の考えを否定する意見は出なかった。

「面白そうだから見に行ってみようぜ」

 大地を旅好きにさせているのはこの好奇心だろう。
 二人にも特に断る理由はない。
 それほど目立たないように……といっても限度があるが……近づいた三人の顔に同時に疑問符が浮かんだ。

「ん?」
「あれは確か……」

 えらく端正な顔の美青年で、富豪と言うよりも映画スターと言った方が似合うかも知れない。
 しかし、そのどちらにも属さない、どこか神秘的な雰囲気の持ち主だった。
 会ったことのないその顔に見覚えがあって、蛮は考え込んだ。
 あれは……

「思い出したぜ。
 邪武がモニタをたたき壊したときの顔だ」
「……ってことは……」

 以前沙織がグラード財団総帥としてギリシアの海商王の誕生パーティーに招かれて帰ってきた後、辰巳からそのパーティーでの詳細を聞かされて邪武が派手に荒れたことがあった。
 どんな顔だと調べたモニタに顔が表示された五秒後に、邪武の右拳がブラウン管を粉々に叩き壊したのだ。
 そのため逆にその顔は印象的に頭に焼きついていた。

「これは、噂をすればなんとやら、だな」
「悪いが、やっぱり顔じゃあ邪武に勝ち目は薄いな」

 蛮は言葉にする直前に、顔では、という単語を挿入した。
 本音では、勝ち目など無いだろうと思ってしまう。

 ギリシアの海商王ソロ家の後継者ジュリアン。
 その肉体に入り込んだ魂こそが、

「海皇、ポセイドンか……」

 三人とも沙織以外の神を見るのは初めてである。
 もっとも今のジュリアンは、海底神殿で星矢達を圧倒したという凄まじい小宇宙は感じさせていない。
 神として動いていたときの記憶をおぼろげに持っているだけであろう、というのが聖域のアステリオンが下した結論だった。
 その記憶を償うかのように世界各地の被害者を慰問していると聞いたことはあったが、まさにその最中なのであろう。

 だが、一つだけ割り切れないところがある。
 エリシオンで星矢たちに黄金聖衣ゴールドクロスを送り届けたのはポセイドンだという。
 アテナの壺に封印されたはずのポセイドンが僅かなりとも動いた。
 そのときジュリアン・ソロが無関係であったはずがないのだが……。

「どうする?」
「どうするって言っても、今こっちは星闘士とやりあっている最中なんだ。
 下手につついて敵を増やしてもしょうがないだろう」

 どこかうきうきと尋ねる大地を、那智は冷静にたしなめた。

「ちぇー」
「今は善良な慈善家なら、そっとしておいてやるのが人情ってもんだろ」

 蛮のいかめしい顔でそう言われては反論の余地はない。
 ジュリアンの姿も群衆の向こうにみえなくなり、そろそろ戻るかと那智が立ち上がったとき、その群衆の中心でわっと声があがった。
 現地語は解らないが、どうも歓声ではなさそうだ。

「怪我人だってよ!」

 数単語を翻訳した大地が手っ取り早い解説をする。
 おそらく状況からして人が密集しすぎたのだろう。

「将棋倒しになっているかもしれん。救助に行くぞ」
「合点承知だぜ!」
「おいおい」

 冷静さ以上に人の良い那智とそれにすぐ乗った大地にあきれながらも、蛮とて目の前の怪我人を放っておける性分ではない。
 内戦の修行地で目の前の人間は誰であれ助けるようにと叩き込まれた教えが、彼らの聖闘士としての原点であった。
 聖衣こそ持ち歩いていないが、服の中にはいざというときのための簡単な応急セットを常備している。
 星闘士との戦いが隣り合わせの現状が、妙なところで役に立った。
 さすがに骨折ともなるとどうしようもないが、そこまで重傷の者は少ないのが幸いだった。
 そっちは現地の医者らしい者にジェスチャーでまかせて、あとどうするかと見渡していると、何人か欧米人と見られる者がマイクやカメラなどの放送機材を抱えつつ倒れていた。
 ジュリアンの取材に来たマスコミ関係者というところだろうか。
 外国人ということで人々が遠巻きにしていたその男達に、那智は近づいていった。

「おい、大丈夫か?」

 と、英語で話しかけることにする。
 一応聖闘士の組織が国際的なのでこれくらいの言語は使えないと話にならない。

「ああ……済まねえ……」

 手をさしのべられたその男が顔をあげたとき、

「あれ?テリオス!?」

 那智は思わず声を上げた。
 見覚えのある顔だったのだ。

「ん……?どこかで会ったかい?」
「四年……ぶりくらいかな。
 あのときは大陸の西岸だったけど」
「四年……」

 二十代半ばくらいのその男は、しばし考え込んだ後でパッと笑った。

「思い出したぜ!えらく大きくなったじゃねえか、マイフレンド!」

 ぐりぐりと荒っぽく顔をなでられて笑顔で応える那智に、大地と蛮はなにやらわけがわからず顔を見合わせた。

「修業時代の知り合いか?」
「ああ、こいつはテリオス。
 リベリア内戦を取材に来たジャーナリストだよ」
「よろしくな、マイフレンズフレンド」





「ジュリアン様、お怪我は……?」

 ひとしきり騒ぎが落ち着いたところで、はぐれていたソレントとようやく合流できたジュリアンはほっとした。
 真っ先に自分を気にかけてくれるのは有り難いが、

「ソレント、あなたも怪我は無かったのですか?」

 彼が指に怪我でもしたら大変なことだ。
 自分の旅に熱心につきあってくれているが、ソレントは一介の音楽生であるのが信じられないほどの、当代に冠絶するフルートの名手なのである。
 その旋律を失わさせては世界に申し訳が立たない。

「はい、私はこの通り無事でございます」

 フルートを握る手は無傷でしっかりしたものだった。
 なぜフルートを取り出しているのだろうと少しひっかかったが、無事ならばそれでいい。
 そこで他の怪我人のことが気にかかったが、ソレントに止められた。

「お気持ちは解りますが、今ジュリアン様がお手を貸されればまた騒ぎにもなりかねません。
 後で彼らを見舞うことにして、今は宿にお戻りになって下さい」

 正論である。
 ただ、いつものソレントとは違って、やや有無を言わせぬ雰囲気があった。

「……そうですね。私のせいで彼らは怪我をしてしまったのですから……」
「助けも来たようです。さあ、参りましょう」

 そう言ってジュリアンを促しつつ、ソレントの目は背後で肩を貸されつつ動くある一行を見つめていた。
 その目は優しげな音楽生のそれではない。
 船乗り達を見据える海の魔女のような目だった。
 だが、それに気づいた者はいない。





「それじゃあ、四年ぶりの再会と」
「人生における新たな出会いに乾杯!」

 テリオスと仲間二人の怪我は軽傷であり、当座の応急処置でほとんど問題なく動けるようになっていた。
 もちろん、使っている応急セットがグラード財団医学研究所の成果によるものであるということもあるが、那智たちも揃って早めの夕食としゃれ込んでいた。

「それでこの野郎と来たら、オレがすぐカメラを構えて写真を撮ろうとしたら横から蹴り入れやがってよ……」
「何言ってる。あのときの怪我人はすぐ手当しなけりゃ危なかったじゃないか!」
「……って感じで、当時十一歳のガキがオレのジャーナリスト活動を否定してくれたんだよなあ」

 などと、蛮すらも初めて聞くような那智の思い出話で最初からえらくテンションが高い。

「ということは、そっちの二人は放送局の同僚か。
 一人で銃弾をかいくぐってきたあんたがね」

 那智の記憶では、この男はいつも最前線で一人カメラを構えて、しっかり生き残って帰ってきていた。

「そういうお前も天涯孤独と聞いていたが、仲間が出来たみたいで何よりだぜ。
 まあこっちは同僚と言ってもな……ああ、自己紹介しておきな」

 テリオスの仲間二人は、やはり二十代ほどでテリオスとさほど歳は変わらないようだ。
 差し出した名刺にはアメリカの報道会社の名前と、アルレツオ、ピアードという名前が書かれてあった。

「オレが根っからの不良社員なんでな。
 今回は上司に睨まれて監視役をつけられてんだよ」

 二人が何とも言えず苦笑したところを見ると、半分本気なのかも知れない。

「いやそれ以上にさ。
 有名人を追いかけるあんたがちょっと信じられなくて……」
「解ってくれてるなあ、マイフレンドぉ……!
 オレだって好きこのんでこんなところ来たくねえよ。
 別の取材の件でこちらに派遣されたんだが、ジュリアン・ソロが来るから接触しろって命令されて……えーいくそ!
 やってられっかコンチクショー!」
「また始まったよ、この人」

 ピアードがふーとため息をついたその言い方からすると、二人は一応同僚ではなく部下か後輩らしい。

「……なんだ。変わってないな。あんた」

 修行中の記憶が思い出されて、那智は懐かしそうにつぶやいた。
 初めてあったのは、生存訓練のために荒野に放り出されていたときだったか。
 リベリア内戦の取材に来ていたこの男は、聖闘士訓練生の自分に勝るとも劣らぬ生存力で各地をかけずり回っていた。
 目の前で起こりそうになった虐殺を、二人して止めたこともある。
 苦しい日々ではあったが、この男といた時間を思い出すと楽しくもある思い出だった。

 そんな風に過去に思いを馳せていた那智の思考を現在に戻したのは、通常の携帯電話に模した形状をとっている大地の鋼鉄聖衣のパーツだった。
 聞こえやすいように、味気ない電子音である。
 「失礼」とテリオスたちに断ってから、

「はいこちら大地。……あ、はい。そうですか。じゃあまた明日」

 ピッと短い通話を切った大地は、あーあと小さくつぶやきつつ果実の100%ミックスジュースをあおる。
 テリオスたちはアルコールが入っているが、さすがに三人は酒は飲まないでいた。
 飲もうと思えば蛮と那智は修業時代に飲んだことがあったが、聖闘士になってからは控えるようにしているのだ。

「どうした?」
「定時になってもガイドさん来なかったから帰るってさ」

 営業所の社員からの連絡だったが、ともかく一日がつぶれたわけだ。

「そういえば言えた義理じゃないが、おまえらこんな所に何しに来たんだ?
 ナイル川の源流でも見に来たのか?」

 エチオピアは基本的に観光業は発達していない。
 日本人の少なさがそれを如実に物語っている。

「わけありでな。
 遺跡を見に来たんだよ。
 えらく古い幻の遺跡らしいんで、近くに住んでいる人にガイドを頼んであるんだ」

 那智の返事を聞いてテリオスが首を傾げた。

「Natch、そりゃあここから北東に80キロ行ったところにある遺跡か?」

 微妙にテリオスの声が強ばった。
 名前を呼ぶときの間違えたイントネーションだけが昔と変わらない。

「約百キロと聞いているから多分それだ。
 テリオス、おまえが取材で来たってのがそこなのか?
 よければ案内して……」
「よせ」

 遮るようにテリオスは言った。

「忠告っていうか、警告だ。
 そりゃガイドが来ねぇんじゃねえ、来られねぇんだ」

 冗談好きで陽気なテリオスが本気で喋るときの口調は忘れていない。
 この口調で喋るとき、テリオスはジャーナリストとして誇張の一つも挟まずに客観的にものを言う。

「この四年でお前がどれだけ強くなったか知らねぇが、まずお前でも助からん」
「何だって……!?」
「いや、そうも言ってられねえんだ、テリオスさん。
 詳しいことは省くが、厄介なことが起こっていてな。
 何が何でも調べんといかんのだ」

 旧知のよしみで那智が説得されてしまいそうだと感じた蛮は、聞き役から介入に出た。

「あんた……、Bang……、さんだったな」

 やはり若干イントネーションが間違っているが、噛みしめるようにテリオスはつぶやいた。

「テリオス様……」

 ピアードが何か言いかけたのを、テリオスは無言で手を挙げて制した。
 おもむろにタバコを取り出し、火をつけようとしたところで、

「……吸って、いいか?」

 と、三人にわざわざ尋ねるあたりは律儀である。
 那智も雰囲気が変わったことを否定できないまま、無言で頷いた。
 テリオスは一度大きく深く吸ってから、

「おまえら……、あそこに何をしに行くんだ」

 尋ねているようには聞こえない口調だった。

「……済まない。
 世界の危機に関わることとしか言えない……」

 いくらジャーナリストのテリオスにでも、神話に関わることを話すわけにはいかない。
……という考えは実のところ、那智の意識の半分程度でしかなかった。
 もう半分では、答が解っていた。
 わかっていたが、認めたくなかった。
 かつては寝食を共にしたこともあり、互いに命の恩人でもある、あのテリオスが……。

 すがるように目を向けると、同じ眼差しのテリオスと視線が交錯した。
 無言のまま、何分か。
 いや、数秒だったのかもしれないが、それはあまりに長い時間だった。

「……なら、質問を変えよう」

 言うな。
 そう叫ぼうとした那智の思いが声になるよりわずかに早く、

「星闘士を、知っているな」

 ガシャン!と大きな音がした。
 蛮の手の中でジュースグラスが原子レベルで破壊されたのだが、誰も……蛮自身ですらそこに目を向けなかった。
 テリオスと、ピアード、アルレツオの三人から視線を外すわけにはいかなかった。

 銀河戦争ギャラクシアンウォーズで多少なりとも有名になった聖闘士と違い、星闘士の名はほとんど知られていない。
 それを知っているとはさすがジャーナリスト……などとは、もう考えられなかった。
 星闘士を知っている。
 それはすなわち、こちらが聖闘士であることを確かめているに他ならない……!

 実のところ、そういった論理学的考察など意味を為していなかった。
 今や三人からは、はっきりと小宇宙が感じられる。
 それも雑兵クラスではなく、アルレツオとピアードはわずかに赤みを残した黄色。
 そしてテリオスは……。

「テリオス、あんた……」
「自己紹介し直しだな……」

 自分で周囲にたちこめらせた小宇宙をどこか無視するように、紫煙で形作ったテリオスのため息があたりを覆った。

赤輝星闘士クリムゾンスタイン、大犬座メジャーカニスのアルレツオ」
「同じく赤輝星闘士、鯨座カイトスのピアード」

 促された二人は重苦しい口調で名乗り直した。

「で、オレがな……」

 しばらく迷っていたのか、閉じていた瞳を開きテリオスは改めて那智をまっすぐに見据えた。

白輝星闘士スノースタイン、狼星座ルーパスのテリオスだ」
『!!!!!』

 まばゆい純白の小宇宙が狼の眼光となって、那智たち三人を射抜いた。

「狼……」

 わざわざ最後に名乗ったということは、それ相応の意味があるのだろう。

「テリオス。……ということはこちらの自己紹介は……」
「ああ、要らん。今思い出したさ。
 そう言えば報告を受けていた。
 鋼鉄聖闘士、子狐座ランドクロスのDouitch,
 青銅聖闘士、子獅子座ライオネットのBang,
 そして……、狼星座ウルフのNatch」

 こちらに自己紹介させなかったのは、これ以上敵意が高まるのを避けたかったのだろうか。
 那智は自分の希望的観測が的中しているとはとても思えなかったが、せめてそう思いたかった。

「正直言って、まるで結びつかなかった。
 リベリアで天涯孤独だったあのガキと、銀河戦争なんてお祭り大会の出場選手とがな。
 だが、今にしてわかる。
 日本人のお前が幼くしてあそこにいたのは、聖闘士修行の最中だったか……」

 那智はただ頷くしかなかった。
 口を開けば、今にも戦いを始めてしまうという確信があったのだ。
 だが、それも一時の気休めに過ぎない。
 聖闘士と星闘士。
 ましてや同じ星座を天に戴く者同士ならば。

 テリオスがテーブルに手をつき、腰を上げた。
 対面する三人の全身に緊張が……いや、危機感が走った。
 互いに聖衣も星衣クエーサーも纏っていないこの状況ならば、最悪の場合、一撃で死に至る。
 といって、酒場をかねた大衆食堂などという一般人のあふれた場所で戦うわけにはいかなかった。
 迷っている間にテリオスの手が一閃し、

「おーい、酒」

 この一言で、那智たちだけではなくアルレツオとピアードまで派手にすっころんだ。
 店員に英語は通じないが、いつの間にか握られていた酒瓶を振っていれば意味は十二分に通る。

「て……テリオス……」

 先ほどまでの張りつめた空気が見事に吹っ飛んだ状況で、那智はごく自然と旧友の名前を呼んでいた。

「テリオス様……、どーするおつもりですか!」

 アルレツオが呆れ果てたという顔で大声を上げる。

「四年ぶりに旧友と再会したその日くらい語らせろ。
 オレは……、こいつとやりあうために星闘士になったんじゃない……」
「……オレもだ。
 あんたと戦うために聖闘士になったつもりはない」
「テリオス様!」
「那智!」

 先ほどとは違って、互いの瞳にどこか笑みをたたえてテリオスと那智は視線をぶつける。
 目に見えぬ火花が散った次の瞬間、お互いにフッと笑った。

「今夜だけだ。ゼスのジジイにはそう伝えろ」
「……わかりました」

 テリオスが部下二人を宿に帰らせ、大地と蛮も悩んだ末に宿に引き上げることにした。
 残った酒場で、テリオスは店主にかなりの大金を渡して、朝まで店の一角を借りることにした。
 一晩では語り尽くせぬことがあった。
 だが何故か、時計もない店内でぽつりぽつりと言葉を交わしていた。
 まるで、朝が来ないかのように。

「無茶をする……。タナトスの力に対抗しようとはな……」
「考えてやった行動じゃないさ」
「フッ……」

 那智はそれまでノンアルコールだけを飲んでいたのだが、ふっとテリオスの置いた酒瓶を手に取った。

「おい、ティーンエイジャー」
「人に説教出来る態度か」
「……それもそうだ」
「まあ、大して飲んだことはないからな」

 リベリアの大地で大人達に混じって活動する際、十歳の子供でも酒に関わることがあった。
 あえて自分から飲むつもりは無かったが、今は酒を欲する者の気持ちが分かる気がする。

「ほどほどにしておけよ」

 後を引いては困るので……何故困るかは今は考えたくなかった……ひとまず一口含み嚥下する。
 熱い。
 視界がうっすらと歪む。
 さっきからテリオスが飲む酒気に当てられていたのか、酔いが回るのが早い。

「なあ……、今だから聞いておきたいことがある……」

 机につっぷしながらおぼつかなくなってきた舌で、声を潜める。

「なんだ。オレも酔っているからよく覚えていられそうにないが……」

 さほど酔っているはずもないのに、テリオスは少し頭を振ってみせた。

「星闘士は……何が目的なんだ……」

 あんたたちは、とは言わずに済んだあたり、まだ意識は残っているようだ。

「星闘士は……」

 まるで他人事のようにテリオスは口を開いた。
 目はあさっての方向を向いている。

「最終聖戦に終止符を打つつもりでいる……。
 神話の彼方に消えて、この時代に戻ってくる者たちを倒すために。
 聖闘士との戦いはその前段階に過ぎない」

 それを聞いた那智は一撃で酔いが吹っ飛んだが、今はお互い酔っている約束だ。
 これに驚愕して跳ね起きたら、旧友ではなく聖闘士と星闘士になってしまう。
 突っ伏した自らの身体を押さえつけるのに、全身全霊を要した。

「世界各地に残されたアテナの封印にも、この時代に至ってその周囲には神話の時代からの歪みが現出している。
 冥界が無くなったために生じた歪みがな。
 既に、力がない者は取り込まれて、亡霊になってしまうほどの歪みになりつつある。
 ……オレの特ダネだぜ。報道機関に持ち込むなよ」
「ああ……、またずいぶんと調べたもんだ……」

 ぐりぐりと昔のように頭をなでてくるテリオスの手は、あまり変わった気がしなかった。

 記憶に残っているのはそこまでである。





「なあ、なんでこういうことになっているんだ?」
「奇遇だな、実はオレもそれを聞こうと思っていた」

 運転席でハンドルを握る大地に、助手席に座るカイトスのピアードが妙な相づちを打った。
 その後ろの席には蛮とメジャーカニスのアルレツオが、後部座席には那智とテリオスが腕組みをした同じ様な姿勢でまっすぐに前方を見ている。

「まあ……、街中で星闘士と聖闘士が戦うわけにはいかんな」

 蛮が答えたのは答えの一部ではあるが完全解答ではない。
 朝になって四人が酒場に迎えに行くと、二人は酔った様子もなく戦った様子もなく起きていて、街から少し離れることを提案した。
 有無を言わせぬ空気が、二人にはあった。
 かくて大地が自分のクロスを引っぱり出して、街から離れた平原まで移動している最中である。
 そう、今六人が乗っているオープンカーが、新生ランドクロスそのものであった。
 今は展開した形状だが、四人乗りの装甲車にも、あるいは二輪にも変形可能である。
 詳しくは蛮や那智も知らないが、地上において走行し得ない場所はほとんど無いらしい。

「この辺で構わないんじゃないか?」
「ああ……これだけ街から離れれば問題無かろう」

 蛮とアルレツオが外を見渡して言ったので、大地はクロスを止めた。
 停止の反動はほとんど無い。
 街から十数キロ離れているので、ここでなら聖闘士と星闘士が戦っても一般人に被害は出ないだろう。
 那智とテリオスは無言で車から降り、四人からやや離れた所へゆっくりと歩いていく。
 残された四人は、敵同士ということを若干忘れて顔を見合わせてランドクロスから降りる。
 大地は念のため、ランドクロスを装甲車モードに変形した。
 この状態ならば、攻撃の余波程度では壊れずに済む。
 まだ、この場の誰も聖衣も星衣も纏っていない。

 那智とテリオスは十数メートルの距離を置いて対峙した。
 吹き抜ける風は、どこか冷たい。

「Natch、オレが勝ったらお前達はおとなしくこの国から去れ」
「じゃあオレが勝ったら、オレ達が遺跡に向かうのを邪魔しないでくれ」
「危険だと言ったんだがな……、相変わらず聞き分けの悪い奴だ」

 お互い口元は笑おうとしていたが、目が笑えなかった。
 那智はもう、後には引けないことを悟っていた。
 既に聖闘士と星闘士は全面対決に至っているのだ。
 今更話し合いでどうにかなるものではない。

 ここまで、踏み込むのは全てテリオスにさせていた。
 テリオスはそれが年長者の務めだと思っていたのかも知れない。
 だが、那智ももうあのころのような小さな子供ではなかった。
 最後は、自分で動かなければならない。
 でなければ、テリオスと拳を交える資格すらない……!
 しばし瞠目し、意を決して、瞳と口を開いた。

「カモン!新生ニューウルフ聖衣!」

 僅かに、遅れること一秒と少し。
 テリオスがカッと目を見開いた。

「Come on!Lupus Quasar!」

 貴鬼の手により修復なった鋭利に煌めく外観の新生狼星座の聖衣と、獰猛さと気高さを湛えた狼星座の星衣が、主の声に応えて飛来する。

「アーム、アッパーアーム、イクイップ!」
「Arm, Upper Arm, Equip!」

 狼の前足が展開し、二人の両腕を覆う爪となる。
 ウルフの聖衣は以前よりも遙かに装着面積が拡大して二の腕までも覆っている。
 単なる修復ではなく、ムウによる大幅な改良を幾度も見てきた貴鬼ならではの修復であった。
 対するテリオスの星衣は両腕の前面に毛皮を思わせる流紋が刻まれていて猛々しさを感じさせる。
 無論、防具としては敵の攻撃を受け流す効果もあるはずだった。

「ショルダー、レッグ、アンドチェスト!」
「Shoulder, Leg, and Chest!」

 両肩のパーツはあまり過度に覆うと腕の動きを殺してしまう。
 ウルフの聖衣はそのギリギリを見極めつつ、二の腕との間に大きな隙を作らないようにデザインされていた。
 テリオスの星衣の肩は覆う面積がさらに多いが、可動するようになっておりこちらも工夫が凝らされている。
 両足のパーツは両腕と同様、両者共に爪を思わせる物だった。
 ウルフの聖衣の中で最も旧聖衣との変化が大きいのは胸部のパーツだった。
 かつては旧ペガサスの聖衣に似た簡易的な胸当てであったのが、胸の前面を覆うようになり防御力が飛躍的に向上している。
 これは、貴鬼が目にした初の聖衣の大幅改造がペガサスの聖衣だったことと無関係ではないだろう。
 テリオスの胸部パーツもそれとほぼ同じほどの防御面積を持ち、さらに全面に流紋が施されている。

「ウェスト、ヘッド!」
「Waist, Head!」

 腰のパーツも間接部に関わる為難しいが、これも拡大している。
 特に前面を覆う面積が増えていた。
 星衣は胸部と同様に可動することを前提に大腿部近くまで伸びている。

 頭部パーツは両者の差が著しい。
 ウルフの聖衣は額冠をベースにしながら全方向を防御する以前の形を踏襲しているが、ルーパスの星衣はほぼフルヘルムに近く狼さながらのような姿となる。

「オールパーツ、パーフェクト!」
「All Parts, Perfect!」

 装着が完了した両者の背に、背負うべき星座が浮かび上がる。
 二頭の狼が、エチオピア高原に降臨した。


第十二話へ続く


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