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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

音楽を「わかる」ことと音楽分析の言語

 テオド−ル・W・アドルノは、『幻想曲風に』冒頭の「音楽と言語をめぐる断章」で次のように書いている。「言語を解釈する、というのは言語がわかることであり、音楽を解釈する、というのは音楽することである。」アドルノが音楽に概念で切り込もうとする反省に反対して、音楽をただ「やる」だけでいい、と考えたとは信じられない。むしろこの文章がめざしている音楽「する」というのは、言語なしに「わかる」ことであって、その手前へとどまることではない。

 ただし、言語で「わかる」ことと音楽「する」ことの境界はあいまいである。言語が「わかる」ことも、会話で意志が疎通しなくなって、話が途切れたりしないかぎり、さしあたり無反省な「行為」である。「言語ゲ−ム」(ヴィトゲンシュタイン)へ「生の形式」として同化するとき、人は言語が「わかる」。(アドルノの言い方を借りると、言語がわかる、というのはそれを使うことである。)反対に、反省された「わかり」(解釈学論者が「テクストの理解」を話題にするときに考えるような)は、語られたものや書かれたものからの内的な距離を前提しており、聴き手や読者は、もはやそれを直接つかんで、そこに同化するのではなく、いわば「翻訳」して、それを把握しなければならない。ただの「行為」としてわかることは、「解釈」へ移行する。そしてこうした解釈は、一種の「芸術」(解釈学がその「芸術理論」)である。最初の「自然な」わかりは、二次的で「人工的な」わかりへ解消される。

 「行為」と「解釈」の区別が、わかるという概念を二重概念へ切り裂くわけだが、この二つを区別することは、音楽でも、言語でと同じくらい適切である。音楽をわかることは、さしあたり聴取においても演奏においても、無反省な「行為」である。人は、説明を求めることなく、音の関連のなかにいわば「立ち止まる」。音の関連は−「言語ゲ−ム」と同じように−一片の「生の形式」である。

 しかし、「わかる」というのは、「あるものをあるものとしてわかる」ことである。そして「あるもの」を音楽「として」わかることは、それを具体的につかんでいる状態から遠ざかるように思われる。しかも、器楽(標題のない)のように概念も対象もない芸術において、「わかる」と発話することに意味があるのか、疑うこともできるだろう。

 「音楽がわかる」という概念が日常言語において何を意味するのか、それを説明してくれるのは、「意味論的」分析ではなく、「実践の」分析、つまり「音楽をわかる」と発話された状況の記述である。演奏者−聴き手、教師−生徒という関係において日常的に音楽が「わかった」、「わからなかった」(聴き手ないし生徒が)と発話されるとき、そこで意味されているのは、記譜されていないものや、厳密には記譜されていないものを適切にとらえること、あるいは提示することである。曲のために選択されたテンポが適切だったかどうか、フレ−ズやペリオ−デへの分節がはっきりしていたかどうか、主声部が副声部から浮き立っていたかどうか、アゴ−ギグの伸び縮みや修辞的アクセントが抜けたり、やりすぎだったりしなかったかどうか、こうしたことで合意が成立すると、音楽が「わかった」とみなされる。音楽の「意味」を言葉にしなくてもかまわない。「わかった」という述語は、楽譜にないことをどのように提示するのか了解できたことを表す。合意が成立しなかたり、あやうくなったときには−演奏者と聴き手の関係は、会話の状況(言語の働きぶりはそこで観察できる)と比較できるだろう−、「行為」で十分であった「わかり」が、(言葉による)「解釈」にもとづく「わかり」に支えられなければならない。

 音楽−正確に言うと「絶対音楽」−は「それ自身以外のものを意味しない」、という一見ややこしい言い方は、一方で、鳴り響く出来事、つまり音響現象が「意味」をもったり語ったりするということ(ただの音響現象に尽きるものではないということ)であり、表示するものと表示されるものが音楽でも区別されるということだが、しかし他方で、「意味」が音楽的であり、音楽外的ではない、ということでもある。主和音−下属和音−属和音−主和音という和音進行を聴くことは、カ−ル・シュトゥンプフ流に言うと、「把握の問題、関連づける思考の問題」であり、音楽が「わかる」と発話することは、事象に即した表現法であり、形而上的ではない。音楽が「わかる」とき、「あるもの」(音響所与という物理的に測定されるもの)が「あるものとして」(機能的なカデンツとして)とらえられる。しかも聴き手は、和音の意味づけの名称と、それらの名称が含意する理論の断片を知らなくても、調的機能関連が「わかる」。普通の形象と言葉にならない形象を区別する能力は、シンタクス的なカテゴリ−の意識を前提しない。「和音の意味」という言い方が何を指しているのか、正確に規定するのは難しく、「客観精神」という概念への不信は根強い。しかし、問題になっているのは事象の「上空」にあって事情通だけに通じるただの理論ではなく、定式へすり込まれた習慣(別の定式へ−それが十分長い間使用されると−交換できるような)でもない。「意味」は、一方で「事の自然」の可能性(強制ではない)から構成され、他方で伝統から歴史的に構成される。

 「日常言語において、音楽が「わかる」という概念は、記譜されていないものを適切にとらえ、提示することである」、このようにまとめるのは不正確だが、十分有意味でもある。不正確なのは、「記譜されていないもの」というカテゴリ−が、音響としてとらえることのできる「リアルな」所与(アゴ−ギグの伸び縮みや修辞的アクセントなど)と、「リアル」でない「志向的」モメント(音と和音の機能など)の寄せ集めだからである。それでも有意味なのは、演奏を磨き上げるときにも、音と和音を意味づけるときにも、そこで問題になっているのは、音楽が「言語と似ている」と印象づけるようなメルクマ−ルだからである。「記譜されていないもの」が「わかる」ことは、音楽を「音言語」として「わかる」ことなのではないだろうか。

 音楽は言語だ、という言い方は頻繁に利用されたり誤用されており、多くの美学者は、この言い方を歪んでいると拒絶したり、よくわかると考えたりする。他方で、この言い方に付着するものがすべて粘り強く持続したことは、この言い方が他と交換できない機能を果たしていることの兆候であろう(証明ではないが)。特徴的なのは、エドゥアルト・ハンスリックが、この比喩を一方で間違いだと批判しながら(訳書一〇四頁)、他方でこの比喩を取り去ろうとはしなかったことであり(訳書八〇頁)、ハンス・ハインリヒ・エッゲブレヒトは彼を「音言語」の擁護者として引用できたし、ギュンタ−・マイヤ−は彼をその批判者として引用できた。

 ただし、ハンスリックの分裂した二つの発言は等価ではない。音楽と言語の比喩に抵抗しようとする彼の議論は、彼が論文『音楽美について』のそれ以前の箇所で到達していた洞察と結びついている。「しかし本質的で根本的な違いがある。言語では、音が目的のためのただの手段であり、言語の目的は、音という手段とはまったく異質な表現者へ帰属する。一方、音楽では、音そのものが目的として現われる。」(訳書一〇四頁)この主張は、音楽−「絶対」音楽−が概念と対象のない芸術だという常識に他ならないかぎりにおいて、自明である。だが、この主張は、音楽には表示するものと表示されるもの−音響所与とその音楽的意味づけ−の区別がない、という意味だとすると混乱している。ハンスリックが「音」について語るとき、彼はまるで自分の考え−言語における表現がただの音響素材であり、一方の音楽における表現が「リアル」であるとともに「志向的」なモメントであり、鳴り響きであるとともにその(音楽的)機能であるという洞察−を忘れてしまったかのようである。

 音楽には対象がないので言語とそれほど似ておらず、部分的な類似しか話題にできないことは否定できない。(「新ドイツ派」の宣言は、ワ−グナ−が一八五七年に公開書簡『フランツリストの交響詩について』で明確に定式化したように、第一義的に声楽と標題音楽の理論であり、それぞれの見解が結びついている対象が違うことが、ハンスリックと「新ドイツ派」の見解が対立した理由の一つである。)しかし、表示するものと表示されるものの区別を隅々まで(散発的ではなく)刻印されていれば、それだけで音楽を「言語」として十分弁護できると前提すると(この前提に反対する者は、抒情詩−それは「対象がない」にもかかわらず語の「意味」を損なわない−を「言語」という概念から排除しなければならなくなるだろう)、「音言語」という用語はただの空疎な比喩ではなく、事態を適切に特徴づけている。音楽は言語のように、あるいは言語「として」、多層的である。鳴り響く「素材」、つまり音響所与は「意味」を表現する。しかもハンスリックは、のちのア−ノルト・シェ−ンベルクと同じように、「音楽の思想」を話題にした。「音楽にも意味と論理があるが、いずれもあくまで音楽的である。音楽は言語であり、我々はそれを話し、わかることができるが、翻訳することはできない。最も深遠な認識は、次のようなことにある。人は音作品においても≪思想≫を語ることができるし、語りにおけるのと同じように、熟練した判断は、真の思想とただの饒舌を区別するのである。」(訳書八〇頁)音楽を翻訳できないし、音楽的な意味を定式化して、そこで表現されたものを名指すことはできないのだから、言語性格が割り引かれているわけだが、言語性格が止揚されたわけではない。(ある概念をあてはめられた対象すべてが、その概念を構成するあらゆるメルクマ−ルを備えている必要はない。ル−トヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの『哲学探求』を引用しよう。「我々が言語と呼ぶすべてのことに共通するものを提示するつもりはないし、私は、ひとつのものを共有するという理由で、これらすべての現象に同じ語が使用されているのだ、などと言いたくはない。そうではなく、それらは互いに無数の多様なやり方で関連している。そしてこのような関連ゆえに、我々はそれらすべてを≪言語≫と呼ぶのである。」)

 音楽が言語と似ているからこそ、音楽と言語の類縁関係、あるいは「言語」としての音楽を話題にすることが許容されるわけだが、両者の類似は、第一義的に歴史的現象と把握されねばならない。音楽はさしあたり言語と結びついており、あとからそれ自身が言語とみなされるようになった。

 ハンスリックは「ひとつの芸術の特殊性を扱おうとするときには、隣接諸領域との類似よりも、それらとの相違のほうが重要である」と書いているが(訳書一〇四頁)、この主張はもろい。ト−トロジ−(「相違」が浮かび上がるのは事象の「特殊性」が記述されるときである)と、誤謬(ある芸術を他の芸術と区別するメルクマ−ルこそが、その芸術の本質となる決定的メルクマ−ルである)を錯綜させているからである。(ハンスリックが暗黙の内に反論したのはヘ−ゲルだが、ヘ−ゲルは、反対に諸芸術の類似に芸術の本質を見いだそうとしている。)しかもハンスリックの命題は、歴史的な理由から疑わしい。この命題は歴史的発展の傾向と矛盾する。ハンスリックの「絶対」音楽の美学は「器楽の解放」の理論的反映だと考えられるわけだが(彼が対決した「悪しき感情美学」はなによりも声楽の美学、つまりオペラとリ−トの美学であった)、「器楽の解放」が意味したのは、音楽が音楽そのものへ「鳴り響き運動する形式」として閉じこもることではなく、音楽がその芸術性格と美的要請を削ぎ落とすことなく、言語と決別できるということであった。なぜなら、音楽そのものが言語になり、単に「快適な騒音」(一八世紀の美学における器楽批判を想起せよ)として提示されるのでなく、「意味関連」になったからである。決定的なメルクマ−ルにおいて「特殊」音楽的ではないことこそが、音楽の「特殊性」であるわけで、このことは「絶対」音楽でも成り立つ。

 音楽が言語「として」現象することは、音楽が言語「において」語られている、という状況へ依存する。(音楽をめぐる文献は、理論と美学を「わずらわしい」と思う演奏家たちから馬鹿にされているが、音楽史をめぐるドキュメントであるのみならず、音楽史の一部である。)だから音楽をめぐるテクストの言語を分析することは、音楽という「言語」への入り口のひとつである。

 言語は、ものやものの性質の名称の集積にとどまらず、記号体系であり、その文法的な関連は、対象の関連−事象そのものの関係構造−と対応する。言語記号間の差異や連関は、表記された対象およびメルクマ−ルの差異や連関に対応する。

 対象の構造と言語の構造の対応(それは指向されているが、常に達成されているわけではない)という視点から音楽分析の言語を調べると、最も顕著なメルクマ−ルは実体化であることがわかる。ただし実体化がどの程度事象そのものへ基礎づけられているのか、「言語による神秘化」なのか、はっきりしない。ワルタ−・リ−ツラ−によるベ−ト−ヴェンの《エロイカ》第一楽章の分析では、似非ポエジ−へ逸れることなく醒めた記述が続くが、ほとんど一文ごとに文法上の主語(音楽がその活動とみなされている)が交替する。作曲家が主語になることもあれば(彼は主題を提示し、楽章を「終結させる」)、聴き手が主語になることもあり(彼はある調にたどりついたことに「気づく」)、音楽全体が主語になることもあれば(それは「難所を切りぬける」)、楽器(それが旋律を「演奏する」)、主題(それは何度もひとつの音へ「戻る」)、音程(それは中心音を「取り巻いている」)が主語になることもある。交響曲は、このような記述を文字通りに受け取ると、作曲家の作品、聴き手を巻き込む出来事、楽器奏者の活動、それ自身で運動する出来事、主題と動機を登場人物とする「ドラマ」の間を右往左往する。

 しかし、このような記述があるからといって、聴き手は《エロイカ》を聴くときに、視点を交替させねばならないわけではない。むしろこの分析は、その実体を損なうことなく書き替えることができる。文章の文法上の主語が主題を演奏する楽器なのか、それとも主題そのものなのか、このようなことは、その文章で記述された事態にとって、どうやらどうでもよさそうである。そしてリ−ツラ−は様々な美的視点を示唆し、そのどれかひとつへ帰属することはないのだが、こうした多種多様な美的視点は、しばしば相互に排斥しあう。音楽は作曲家の作品であり、それと同時にそれ自身で運動する出来事だ、などと把握するのは難しい。(作曲家の作品「である」ことは、作品がいつもそのようなものとして美的意識へ現存すること、つまり由来がいつでも美的現在の部分モメントであることではない。)つまり分析の文法構造は、ざっと調べただけでも、美的内包と一致しない。文法構造が示すのは、音楽知覚の対象たる作品ではなく、実体化(その前提は言語)と、実体化形式の交替(その前提は人文主義的な様式規則)という規制の帰結である。

 音楽本来の経験(音楽知覚から、言語と結びついた層を取り去ったもの)には、どうやら、音楽をめぐる語りの文法構造に由来するような主語−述語関係が含まれていないようである。音楽はさしあたり主語のない出来事として現われるのに、音楽分析を定式化する言語はこの事態を隠蔽する。実体化は、鳴り響く現象の当初のやり方の変形である。(実体化形式の交替は、リ−ツラ−の記述において明らかに恣意的なのだが、邪魔にならないばかりか、ほとんど意識すらされない。これは、実体化が「非本来的」と感じられ、文字通りには受け取られていないことの兆候である。)

 しかし、単に「言語で神秘化している」だけだと主張するのは言い過ぎである。言語と結びついた反省的なモメントで濾過して音楽知覚を変形することは、歪曲だとはかぎらない。そして特定の音楽経験の類型こそが第一義的で明快に思えるからといって、それが唯一の適切で美的に正当な類型だとはいえない。本来的なものが最後の言葉でなければならない、というのは先入観であり、事の自然へ基礎づけられるというより、「とらわれなさの文化」(二〇世紀にはそこから党派哲学まで生まれた)に基礎づけられている。

 音楽を実体化することは、第一義的で直接的な経験と対立するが、美的に真摯に受けとめられねばならない。(そして音楽分析に関して批判されるべきなのは、主語−述語関係へ還元することそれ自体ではなく、それを無反省ないし恣意的に使用することである。)先に引用したリ−ツラ−の定式が示唆するような様々な美的視点は、−「本来的」にではなく、歴史的に刻印されているにせよ−すべて音楽経験に基礎づけられている。

 作曲家のイメ−ジが行動する主語として美的瞑想へ侵入することは、よくわかるし、交響曲の諸楽章では不可避的ですらある。その経過は、それ自身で運動しているというよりも、「外側から」介入されて、いつも新たなきっかけで動かされているように思える。そして、「主題の物語」を、まるでひとつの性格の発展であるかのように話す習慣は、ア−ノルト・シェ−ンベルクのような作曲家とアウグスト・ハルムのような美学者が共有する習慣であり、主題加工と「発展的変奏」によって内的にまとまっている作品の場合に明白であり、こうした比喩を使うことより、使わないことのほうがよっぽど無理がある。つまり実体化は、作曲家の「介入」や主題の「自己発展」などの実体化を想定するかぎり、「非本来的」ではなく適切である。

 実体化は、一八世紀後半の音楽の深刻な歴史的変化の表現である。もちろんこうした変化は、音楽について反省したり、語ったりする言語によって生まれたわけではないが、明らかにその影響を受けていた。後期バロック的な「単一内容の様式 style d'une teneur 」が「非連続的」な音楽書法へ解消されて、絶えざる「介入」へさらされるようになったこと、「器楽の解放」と「主題プロセスの時代」(カ−ル・ハインリヒ・ヴェルナ−)、音楽に込められた「思考」を顕在化させようとする美的で分析的な文献の成立(「音楽の論理」という用語は、一七八八年にヨハン・ニコラウス・フォルケルによって鋳造された)、これらは同じ事件と多様なモメントである。本来の知覚方式を変形して、美的イメ−ジを二次的に実体化すること(それは分析的な定式化の前提であり、その文法構造は、少なくとも部分的に事象に基礎づけられており、単なる「言語による神秘化」ではない)は、「解放された」器楽に対応する。「解放された」器楽は、そこから主語が語りかけるように思われ、他方で主題の「物語」ないし「ドラマ」として把握される。器楽が美的意義を損なうことなく言語から決別できたのは、それ自身が言語に似てきたからであった。

 主体化が絶えず交替していることで、リ−ツラ−の分析の文法構造は対象に不適切であり、「非本来的」だと考えられるわけで、主語−述語関係が−いつもではないが多くの場合において−美的に文字通りに受けとめられねばならないとすると、このような欠陥が避けられねばならない。だが、それは偶然、つまりただの不注意の結果ではなく、むしろ避けられない困難の現われである。この欠陥は、作曲家の「介入」と主題の「ドラマ」などのように、論理的に排斥しあうイメ−ジが同時に与えられてしまうことの困難を示している。文章の主語が恣意的に入れ替わるために、リ−ツラ−の記述は論理的な憤りを感じさせるわけだが、これは、分裂した規定性が逆説的に同時共存することを、いわば歪めつつ反映している。分裂した規定性の同時共存は、言語でほとんどつかむことができないが、音楽の知覚において美的にリアルである。

 ハンス・ゲオルク・ガダマ−の『真理と方法』が明晰に示すような現代の解釈学の出発点は、事象の理解が言語によって表現されるだけでなく、およそ言語によって構成されるという思想である。言語は、言語に先立つ理解を、あとでまとめて規定するのではなく、理解そのものの条件とみなされる。

 ハインリヒ・ショ−レは、アウグスト・ハルムによるベ−ト−ヴェンのニ短調ソナタ作品三一の二の第一楽章の分析の言語を批判した(ショ−レの批判によると、ハルムの記述は「神話学、言葉のうえでの弁証法」である)。そして言語への批判は、同時にハルムの言語が表示する音楽理解の類型への批判でもある。

 ソナタの冒頭−ラルゴの分散和音(第一小節)、アレグロのコントラスト動機(第三小節)、ラルゴ動機の移調された再登場(第七小節)、アレグロ動機の拡大(第九小節)、そして主要主題の提示(第二一小節)−は、ハルムの「動力学的」用語法によると、「力の戯れ」とみなされる。「冒頭主題はひとつの和音であり、緩やかな旋律のように歩を進めるが、対立するもうひとつのものを内に秘めており、上昇しながら、その衝動と結びつく。ただし冒頭主題は、この衝動を静止という衣で隠している。この主題の直後に続く対照的な戯れは、性急な身振りへ固執する。性急さへの固執は、次の経過で正しく提示され、しかも明白になる。性急な存在は、円環運動[a音から上昇を始めて、同じa音へ戻ること]から解放され、当初の限界を越えて噴出すると、冒頭主題もこの力に加わる。そして冒頭主題は、第二一小節で≪自らを貫徹≫する。」

 ハルムはラルゴ動機(属和音の分散和音)を主要主題の前形態と理解しており、彼の分析は−その言語がショ−レにとって未知のものだったわけだが−、主要主題を、萌芽的兆候(冒頭に提示された対立するテンポ性格と動機性格)から生まれた音楽的「弁論」の帰結と把握する試みである。

 ショ−レの批判は、とりあえず明快に思えるが俗物的である。ショ−レは動機をばらばらにして取り出し、ハルムの分析を知らなければ、聴き手がラルゴ・属和音の分散和音・上昇運動というメルクマ−ル複合体から「静止という衣に隠れた衝動」を聴き取ることはないと主張する。この批判は「外側から」の議論であり、ハルムの意図、つまり音楽的関連を言葉でつかもうとする意志を見落としている。「即自的に」、つまりニ短調ソナタという文脈の外で、ラルゴ動機が「静止という衣に隠れた衝動」であり、アレグロ動機が「性急な身振りへの固執」を表示するのではない。アレグロに媒介されてラルゴ動機から主要主題が生まれているという視点においてのみ、そうなのである。アレグロ動機は、ハルムが言うように「強化された対比」として現われる。それは「質料[抵抗体]であり、力[ラルゴ動機から主要主題への発展傾向]が質料を必要としているのは作用するためであり、自己を自己自身として[ラルゴ動機へ予め予告された主題として]感じるためである」。ハルムは、比喩的な言語(ショ−レが「神話化」と感じたような)で音楽の発展を感得させようとしているのであり、平板な記述的用語法−たとえば、主要主題はラルゴ動機と同じように分散和音であり、アレグロはコントラスト動機として現われる、などという通俗的なまとめ−でそれを適切にとらえることはできなかったであろう。そして彼がラルゴ動機の「内部での」対立、分裂を語るとき、彼が言いたかったのは、ラルゴ動機という前提から主要主題という目標への「発展」をみるときに、一方のラルゴ・停滞和音という規定メルクマ−ルと、他方の上昇運動・属和音の分散和音という規定メルクマ−ルが、内的対立と感じられるということである。それは不安定で未解決なモメントであり、前進と帰結を希求、あるいは誘発する。結果からみると、冒頭に、冒頭がそれ自身だけではもたなかったような意義が与えられる。同じ音響所与であっても、形式関連を基礎にすると、部分を孤立させて知覚するときとは別のところに焦点が当たる。

 ハルムは「発展」を言葉でとらえ、そうした自分の言葉を通じて音楽現象を意識したわけで、この場合の「発展」は、「楽譜にある」事実ではない。ラルゴ動機と主要主題の間のアレグロ部には、ラルゴ動機が顕在的でもなく、暗示されてもいないので、冒頭から主題へ至るのと同じような「発展的変奏」を語ることはできない。それでも、第二〇小節までのアレグロが主題(第二一小節)へのただの導入ではない、つまり第二一小節の主題の分散和音がラルゴ動機を回想しているのではなく、むしろ主要主題がラルゴ動機から「生成」しており、コントラストを作るアレグロ動機とその拡大が、この「生成」を媒介している、と把握したいのであれば、「神話化」や「言葉の弁証法」と疑われそうな語り方がほとんど避けられない。作曲という「精神能力ある素材における精神の仕事」を音楽的「思考」と把握するのであれば、音楽がわかること、つまり聴くことや読みつつ聴くことによる追体験は、「考えられたものを考える」ことである。そして音楽「について」考えることは、音楽「において」考えることからそれほど明確に区別されない。理論と美学を軽侮する人々は「音楽する」ことを、反省の介入から保護しようとやっきになって、音楽「について」考えることと、音楽「において」考えることが区別できると信じたり、信じようとする。しかし人は、音楽について語るときの言語の構造を意識するとき、音楽を一層正確にわかるのである。


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