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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

言語批評としての音楽批評

 二月革命以前のエポックは政治的にも知的にも不安定であり、哲学的にはヘ−ゲルに刻印され、自らを批評の時代と把握していた。批評−なによりも作曲批評であった音楽批評も含めて−に期待されたのは、現実をただ反省するだけでなく、現実に変更を迫って介入することであった。

批評は歴史哲学か?

 フランツ・ブレンデルはロベルト・シュ−マンの後継者として『新音楽雑誌』を主宰し、一八四八年の革命と「ヘ−ゲル主義の瓦解」を切り抜けて、一八五〇年代まで二月革命以前の精神を擁護しつづけたのだが、奇しくも彼が『イタリア、ドイツ、フランスにおける音楽の歴史』(一八五二)で主張したのは、理論と批評が音楽の発展において古いものと新しいものを媒介する審級だということであった。「現在の芸術は、もはや古い自然主義的な[ブレンデルが言いたいのは、本能的な、である]やり方で所与の基礎のうえに建て増しできるものではない。正反対に、理論と批評が過去と現在の間に割って入るのであり、我々の芸術は理論と批評を前提している。」

 ブレンデルの考えは、思想史的に見ると、「芸術の終焉」というヘ−ゲルの命題−近代では「本質的内包」が芸術という形式から哲学という形式へ移る、という命題−の変奏である。ヘ−ゲルは『美学』で語っている。「とりわけ、今日の我々の世界の精神、詳しくいうと我々の宗教世界と理性的教養世界の精神は、芸術に最高のやり方で表現される段階を越えて、絶対的なものを意識したように思われる。[……]世界精神によって我々に喚起されるものは、さらに高度な試金石と別の保証を求めている。思想と反省は美しい芸術の上空へ飛び立ったのである。」ブレンデルの議論は−ヘ−ゲルに対立すると同時に依存しており−、芸術が反省に解消されるのではなく、芸術は芸術で反省のモメントを自らに取り込むべきだというものである。

 ブレンデルの命題−悪しき一九世紀と思えるものの断片−を忘却の淵から救い出すのはおせっかいであり、単なる骨董趣味かもしれない。だが、ブレンデルが名指した傾向、すなわち「進歩する反省の法則」(ユルゲン・ハ−バ−マス)は二〇世紀の新音楽に過激に刻印されており、その極端ぶりは一九世紀に音楽の「進歩派」が予想しなかったほどである。作曲のアクチュアルな歴史に無関心ではなく、それに加担したり、少なくとも関心をもつ者は、理論と批評が音楽の発展プロセスで果たした役割を意識する必要がある。(「知性主義」を嘆いて「回帰」を宣言するのはナンセンスである。「理性の支配」が妥当するからこそ、フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルが既に一七九四年に書いたように、「我々の欠陥そのものが我々の希望」になるのだから。)

潜在的批評と顕在的批評

 ブレンデルが音楽史の発展を駆動するモメントとみなした「批評」の意味は二重である。それは音楽作品に込められた作曲家の反省であり、公的判断を記録するジャ−ナリストの反省でもある。そしてジャ−ナリストの顕在的批評が潜在的な作曲家の批評と結びつく(もしくはそうすべきである)というのは、一見まったく自明のようだが、仔細に検討すると心許ない要求であり、限定が必要である。ジャ−ナリズムは聴衆に作曲家の意図を伝えてから、逐一判断を下すべきだ(つまり音楽の発展における絶えざる批評と自己批評の内的プロセスを公的に追掛けるべきだ)というのは、本質的な機能を見落としている。批評が一方で伝達者であり他方で対立審級だという通念は、個別例のみならず、基礎原則にもかかわっている。

 作曲家の内的批評は二〇世紀の新音楽において、「技術化」と「歴史化」というスロ−ガンで特徴づけたくなる傾向を帯びている。音楽の技術は一九世紀にはまだ「手仕事」と呼ばれ、ある程度自ずと理解されるものだったのだが、新音楽では解説されねばならない対象になった。技術が問題になったからである。作曲は「反省」を強いられ、その反省が注釈として表明される。作曲家は公的に話すときにも、聴衆へ向けてというより、自分自身に向けて話し、自分自身を納得させる。かつて習得したメチエを離れてもいいのではなく、基本的には作品ごとに作曲技術を新たに発見せねばならない。作曲家の言語はこの数十年で技術屋の隠語になり、部外者を拒絶したり追い出したりするわけだが、これは回避可能な作曲家の傲慢ではなく、秘教性と公共性を同時に強いられる不安定な状況の重圧である。

 思考の「歴史化」(これは過去への回帰と同じことではない)は、−あまりにも普及して、もはやそれが奇妙であることに気付かないほどだが−現在と自分の行動を絶えず歴史的に眺める傾向に認められる。極端な場合には、作品が有益かどうかの美的判断が、歴史プロセスで占める「位置取り」についての考察に置き換えられる。歴史プロセスは、芸術成立の単なる条件ではなく、ほとんど芸術本来の実体とみなされている。成立したばかりの作品は美的な視点から安定した形象として考察されるのではなく、歴史的「アクチュアリティ」の視点から考察される。それは現在−次の瞬間をもたらし、それに「止揚」されてしまう当座の瞬間−の表現であり記録とみなされる。作品は孤立してそれ自身で完結し、歴史から抜け出すのではなく、発展プロセスの単なる目印であり、発展プロセスはこの目印を通過して先へ進む。

 音楽とその発展を納得させる言語の「技術化」は、音楽批評が本来、一八、一九世紀に拠点とした前提と矛盾する。啓蒙とロマン主義の時代には、音楽批評が、通常、教養ある素人のものであった。ロベルト・シュ−マンやフ−ゴ・ヴォルフのように作曲家が音楽について書くときでも、フリ−ドリヒ・ロホリッツやル−トヴィヒ・レルシュタ−ブのような音楽を愛する作家と執筆姿勢にほとんど違いがない。専門家が、狭量だといわれないためにディレッタントの教養を理想としたのであって、その逆ではなかった。専門的な判断は、音楽の「機械的」な部分ではないかと疑われており、素人の判断より低級だとされた。素人の判断こそが美学に基礎づけられ、音楽の「ポエジ−的」モメントを評価しようとしていたからである。

 一九世紀には教養ある素人のコンセンサスが言語にあらわれる審級だったわけだが、このコンセンサスは二〇世紀になって、一方の専門的判断と他方の管理的視点という布置へ解体した。(この発展を好意的に考えるならば、「事実への理解」と「政治」の均衡といえるかもしれない。)聴衆の考えが影響力を失ったわけではない。だがジャ−ナリズムは−一九世紀におけるように−教養ある音楽愛好家に流通する判断を公表するのではなく、逆に聴衆を批評へ方向づける。批評は聴衆の印象と違っても、鑑定として尊重される。そして聴衆は、管理的審級−オペラの上演計画の組み立てなど−に対して為すすべがない。彼らが、演奏会へ行くかどうかという行動であからさまに考えを明示したとしても。(劇場の定期予約の収支に関して、チケットの売り上げは重要ではない。)

 こうして、ジャ−ナリズムはジレンマに陥った。一方で、ジャ−ナリズムは管理的な視点を牛耳って社会法則を制定するような諸制度と分離してしまい、他方で、二つの正反対の要請−聴衆へ語ることと作曲家の問題(技術屋の隠語)を真摯に受けとめること−の間で出口のない苦闘を続けている。教養ある素人のコンセンサスを言葉にすることへ批評が逆戻りする道は閉ざされている。(「教養ある素人」を話題にするのを恥じる必要はないが、はたして「教養ある素人」とは何なのか、もはや誰も説明できない。)

言語習慣

 ただし、批評のジレンマを回避することは可能である。言語批評は、批評が聴衆の側に加担して、一見すると鑑定と管理的審級だけに支配されているかのような状況に影響力を行使するための糸口になる。言語習慣の作用を少なく見積もるほど間違ったことはない。ロックと弦楽四重奏がどちらも「音楽」と呼ばれているのに、スポ−ツ新聞が近代抒情詩とともに「文学」に数えられることはない。こうした言語習慣の影響は見極めがたいほど大きい。(ラジオ局のアンケ−ト調査はたいてい新音楽に不利な結果に終わっているが、そもそも音楽という包括的な概念がなければ、この種のアンケ−ト調査はその言語上の前提を失うだろう。音楽という包括的な概念は自明だと思われているが、同じように包括的な文学概念は滑稽なのだから。)

 批評が音楽事象をとらえる言葉に干渉すると、批評は事象そのものを変えることができる。音楽は鳴きに解消されるのではなく、音響を基盤とする思考形成で生じる。しかし鳴り響く所与が物理学の客体から音楽形象へ変貌するためのカテゴリ−のかなりの部分は、言語で伝達される。人は、音楽事象を表現するとされた用語法の影響下で聴いている。

 音楽批評家が言語批評家に転業して、二〇世紀の音楽技術屋の隠語を一九世紀の美学者に由来する言語へ置き換えればいい、というわけではない。ここで言いたいのは、現代の専門家言語や素人言語の含意を暴き、それを公認して擁護するか、変更すべく闘争するか、白黒をつけるべきだということである。言語批評が音楽史へ介入するのは珍しいことではない。一九世紀や二〇世紀の高名な音楽批評家は、新しい言語習慣を徹底すべく相当な影響力を行使した。音楽史に裁定を下したのは批評家であったといっても過言ではない。なぜなら言語を行使してきたのは批評家だからである(言語は事象の基礎であり、単なる反映ではない)。

「純粋に音楽的」なもの

 エドゥアルト・ハンスリックは一九世紀後半の間違いなく最も影響力ある音楽批評家であり、『音楽美について』(一八五四)の中心命題(音楽の「内容」は「鳴り響き運動する形式」にある)ゆえに、かつて無数の攻撃の標的になった。だが一九世紀には誰も気付かなかったことだが、ハンスリックが反駁される一方で、彼の美学の本質的前提は一般の意識へ密かに保たれれた。そしてその本質的前提とは、器楽が「純粋に音楽的」なものの総概念だということ、つまり端的に言えば、テクストや標題は「本来の音楽」への「音楽外的」おまけだということである。(ハンスリックは標題音楽を恣意的とみなし、テクストを交換可能とみなした。)これに対してフランツ・ブレンデルが標題音楽を弁護しようとして、標題が「美的対象」としての音楽に属していると主張したときには、彼の考えが音楽の「進歩派」を信奉するもので、「進歩派」の代表していたとさえいえるのだが、反響を呼ばなかった。ブレンデルはいわば虚空に向かって叫んだのである。厳密に言うと、彼の解釈は古く伝統的な音楽概念の末裔である。すなわちこうした音楽概念は、音楽が楽器の鳴り響きに尽きるのではなく、原則として−プラトン風に言えば−和声、リズムとともに「ロゴス」すなわち言語を含んでいる。テクストを欠いた音楽は、一九世紀前半まで不完全な音楽とみなされていた(テクストをともなう音楽が、言語という「音楽外の」おまけをともなっているわけではなかった)。

 器楽すなわち絶対音楽が「純粋に音楽的」なものの代表だという命題の影響は、どれほど評価しても評価しすぎることはないし、音楽の受容にも作曲にも及んでいる。一八世紀と一九世紀前半には声楽がテクストの提示、ないし例解とみなされ、器楽には架空の標題を想像するのが普通だったのだが、二〇世紀にはちょうど反対に、オペラと歌曲のテクストを無視して、声楽を抽象的に、まるで器楽のように聴くのが普通になった。ハンスリックの命題の実質が歴史を作ったといっても過言ではない。そして命題の実質はハンスリックが聴衆に提示したと考えた言語のなかに、すなわち「純粋に音楽的」なものという見えない概念のなかにある。

音楽の論理

 ハンスリックの命題の影響に匹敵し、ハンスリックの命題ほど強力にではないが広範な歴史作用を行使した概念があった。この概念は一八世紀に由来するが、フ−ゴ・リ−マンを通じてようやく一九世紀後半に認知されるようになった。それは目立たないが、音楽をめぐる思考と音楽聴取を強く規定している。すなわちそれは、「音楽の論理」という概念である。鳴り響く音楽が鳴り響く思考の歩みであること、音楽における動機、主題そして和声の発展が論文と比較でき、あらゆる細部が先行するものの帰結と後続のものの前提であること、これは一九世紀後半までは自明ではなかったが、根深い美的原則であり、音楽愛好家は、自分がこの要請を遂行でないとしても、この原則に敬意を払っていた。音楽は、通俗音楽という地下水脈に由来するのでないかぎり、「娯楽」ではなく「理解」の対象でなければならない、これは批評の常識であり、ある作品や新しい音楽についてその意味が「理解できない」と嘆く者にも、原則として肯定された常識である。

 フ−ゴ・リ−マンは保守的で、調性を侵すべからざる一種の自然権とみなしていた。だが、「音楽の論理」という概念は、まさにリ−マンが忌避した新音楽において、決定的な美学の日常語となり、弁護審級となった。「新ウィ−ン楽派」は、音楽に内的強制として作用する論理という原則なしにはありえなかった。そしてア−ノルト・シェ−ンベルクをめぐる賛否両論は、一二音技法が−「音楽の論理」として−主題・動機加工(ベ−ト−ヴェンとブラ−ムスが発展させたような)の嫡男か私生児かの論争であった。シェ−ンベルクは自分を古典の遺言執行人だと感じていたが、その拠り所は音楽の論理の理念であった。そしてこうした音楽の論理は、実はフ−ゴ・リ−マンのような保守派がウィ−ン古典派の歴史的実質として発見したものだったのである。

音楽の素材

 「音楽素材」というカテゴリ−は、一九四九年にテオド−ル・W・アドルノが『新音楽の哲学』で展開したカテゴリ−だが、新音楽の歴史を反映するとともに新音楽に深く影響を与え、敵味方を問わず瞬く間に知れ渡った。つまり音楽を論じる言語へのアドルノの作用はハンスリックの「純粋に音楽的」なものの概念やリ−マンの「音楽の論理」の原則と違って、潜在的でなく、明示的である。音楽素材が自由に加工できる単なる材料ではなく、一方で歴史の刻印を受け、他方で−失敗作への処罰として−作曲家へ強制力を行使する、この命題は一二音音楽からセリ−音楽へ、そしてセリ−音楽から偶然性の音楽へ直接的に有効であった。音楽をめぐる思考は、誰もが知っているようにその歴史へ介入したのである。一九五〇年代の音楽の発展が科学史(問題から解決へ、そしてその解決から次の問題へ推移する科学の歴史)に似ていること、そして作曲家自身がその成果の意味を把握し、実践したことは、相当程度にアドルノ的な思考の影響といえるだろう。アドルノの命題をスロ−ガンにまとめた「素材の傾向」という概念は前衛の日常語であり、前衛は、自分が書いて主張した発展を自ら先導した。作品に対して下される音楽史の裁定は、その言語のなかに、アドルノの思考の刻印として予め記入されていたのである。

 ハンスリック、リ−マン、アドルノから出発するこうした広範な歴史作用が恣意的に強制されたものでないことは言うまでもない。音楽について人々が納得している言語を故意に転倒させても、何も効果はないだろう。だが、批評には言語に介入して、事象そのものに影響を及ぼすチャンスがある。だから音楽ジャ−ナリズムは、現在の不安定な状況、すなわち技術屋の隠語と読者の教養の解体に脅かされる不安定な状況にあっても悲観する必要はない。ジャ−ナリズムは、人が後ろ指を差して噂しているほど軟弱ではない。


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