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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

古典性、ロマン主義、近代性

 あるエポックの歴史哲学、つまり自分自身と過去を把握しようとしたカテゴリ−体系は歴史学の歴史学であり、そこから再構成されるのは、ある時代がどのような事実を知り、どのような原理を前提し、どのような方法を利用したか、ということです。過去の歴史哲学をそれが理解するエポックの歴史解釈の基礎にすると考えること、つまり歴史哲学を単なる素材としてでなく解釈図式として利用することは、歴史家に似付かわしくないと思えるかもしれません。しかしこうした考えがそれほど奇妙なことなのか、定かではありません。問われるべきなのは、「時代がそれ自身から理解され、その独自の基準で判断されるべきだ」という言い方とどうつきあうべきかということ、誰も疑わないこの言い方を歴史的に考えることです。

 エポックの自律という要請は多義的です。この要請が技術や学問の歴史で意味しているのは、ある発見や発明が古くさいからといって、その発見者や発明者を馬鹿にしてはならない、ということです。我々には原始的に思えるものも、それが成立した世紀には天才的だったに違いありません。中世の寓意のように小人が巨人の肩に乗り、巨人より遠くまで見渡せるから自分のほうが偉いと思ったとすれば、それは傲慢だと言うべきでしょう。しかし技術や学問で、作品そのものを歴史的に正当化しようとしても無益です。過去の発明や思想の効用と真理は否定され、消失するか、馬鹿にされます。これに対して芸術では、過去の視点を身につけるべきだという要請が、数百年前の成立時を評価することを意味するだけでなく、その内包を保つこと、あるいは復興することを意味します。たとえそれが二次的で、歴史的な距離の意識をともなうとしても。

 このように、既にすり込まれてしまっている思考の習慣(顕在的なことは稀ですが)は多種多様なのですから、歴史性の類型、つまり歴史の存在形式や推移形式の類型を区別することができるはずです。学問や技術の歴史は、芸術の歴史とは別の形式法則にしたがいます。進歩の原理が、ある分野では第一義的で中心的ですが、別の分野では二次的で周縁的です。また、過去のエポックでは、現代とまったく対照的に、芸術と技術の歴史が同じように推移し、そこには、我々に馴染みの芸術の歴史とも技術の歴史とも違う歴史性の類型が鋳造されていたかもしれないのです。

 哲学、とりわけ歴史哲学が科学や技術(それらは進歩して、過去を背後のごみ箱に捨てて進みます)に似ているのか、それとも芸術(それは変化しますが、過去のすべてを廃棄して、古くさいと判断することはありません)に似ているのか、定かではありません。諸々の哲学は、互いにその内容が違うだけでなく、出発点になる概念も違います。しかし、ある時代の歴史哲学が哲学から生まれた芸術作品や美学のようなもので、その内包を修正してはならないのだと仮定すると、当該エポックとは異質の歴史哲学(発展の理念や、あらゆる時代が平等だという理念)を基礎にして歴史を叙述するという通常の手法が、方法的に疑わしいことになるでしょう。

 音楽における過去をその時代のカテゴリ−体系の枠内で記述しつくそうとするのはドグマ的で狭量でしょうが、あるエポックの歴史哲学的思考形式が−たとえば、近代的な意味での歴史意識をもたないとされる時代を歴史哲学に組み入れたりすると−、そのエポックの歴史的存在形式と推移形式に影響を及ぼすのも否定できません。今世紀の音楽の技術と様式がめまぐるしく交替しているのは、歴史的な思考(作品の成立時が作品の実体なのだから、芸術は正統であろうとすれば新しくなければならないというイメ−ジ)が広まったことに関係しているのが明らかです。

 様々な反論があることもよくわかります。「歴史学は歴史哲学なき科学として成り立り得るのだから、こうした問題設定は不適切だ」と主張する方がいらっしゃるかもしれません。しかし厳密な方法によって事実を発見することと、歴史を語り、提示するのは別のことです。スパンの長い関連を、(顕在的、潜在的な)歴史哲学的前提なしに提示できるとは考えにくい。作曲家の伝記を単に並列することが既に、ある決して自明ではない理論を基礎にしています。伝記の並列の基礎にあるのは、第一に、音楽史が個別から成り立ち、グル−プから成り立つのではないというイメ−ジであり、第二に、芸術作品が−デュルタイ風に言うと−「生のモメント」の表出であり、伝記的知識が美的に関与するというイメ−ジです。

 「歴史哲学は少なくとも部分的に科学であり修正可能なのだから、過去のエポックの思い上りを話題にする必要はない」、こういう反論もあるでしょうし、この反論は、先の反論よりも有力かもしれません。歴史哲学はそのエポック固有の歴史性の類型を欺くというわけです。たとえば「ルネサンス」という表現にまとめられる歴史哲学は誤りでした。音楽の「新旧論争」における古代擁護者は古代を誤解し、誤解した古代の再現を求め、憧れていました。このエポックが異質で外的な規範として提示したものが、実はエポック固有の内的規範だったわけです。オペラの基準は古代悲劇ではなく、古代悲劇への誤解でしたが、古代悲劇への誤解はオペラの真の理論でした。

 過去の歴史哲学が(古代と近代の対比であれ、進歩と没落という図式であれ)ある時代の理論を言葉でつかまえていると受け取っていいことは少ないですが、しかしそれを単なる誤謬として近代歴史学から排除して無視するのも間違いであり、思い上りです。あるエポックを代表する歴史性の類型とそのエポックが生み出す歴史哲学は一致しませんが、無関係でもありません。歴史家にとって、過去の歴史的思考は素材であるだけでなく解釈図式になるかもしれませんし、少なくとも仮説的にそう考えてみることはできそうです。そして一九世紀の音楽史を単にデ−タとして登録するのではなく理解しようとするのであれば、時代そのものを概念でとらえようとした哲学、古典性・ロマン主義・近代性という言葉の周辺を旋回する哲学が見なおされねばなりません。

 『新音楽雑誌』一八三五年号の巻頭でロベルト・シュ−マンは次のように書いています。「我々が活動したわずかの間に、我々は様々なことを経験した。我々の志は始めから明確であった。それはただ以下のことだけである。すなわち古い時代とその作品をはっきり記憶に留め、新たな芸術美に活力を与えることができる純粋な泉としてのみ注目すること、次に、外面的なヴィルトゥオ−ゾ性が高まるだけであった最も近い過去の非芸術生と闘うこと、そして最後に、新たなポエジ−の時代を準備し、その到来を促すことである。」(T, 37f.)シュ−マンが素描するプログラムの基礎になる歴史哲学的構想には、三つの 起源があります。シュ−マン、メンデルスゾ−ン、ショパンを規定する古さの経験つまりバッハの音楽の経験、「散文的」ないし「機械的」と感じられた現在の重圧、そして「ポエジ−的」未来への期待です。伝統意識、時代批判、進歩信仰、三者は補完しあっており、相互に矛盾してはいません。

 現在(シュ−マンは「最も近い過去」、つまり死に絶えて捨てられたのにその自覚がないエポックを語っています)は、歴史哲学的な三段階における対立命題であり、過ぎ去った「古典時代」とまだ到来していない「ロマン的時代」の間の不幸な中間にあります。シュ−マンが「近代」と呼ぶ現状は、過去と未来(まだ来ぬものともはやないもの)を尺度にすると、浅薄で渾然として虚無的です。時代の代表作はマイヤ−ベアの《ユグノ−教徒》であり、シュ−マンはこれに強く反発します。

 歴史哲学的草案は、シュ−マンが同じ一八三五年に提示した作曲家の類型論で補完されます。『精神鑑定者』という論文で「古典者」、「単なる中道 Juste-Milieuist 」、「 ロマン主義者」の三つの党派が話題になり、作曲家がどれかひとつを選ばねばならないとされています(T, 103)。三つの党派が歴史の諸段階を代表していることは各派の名称から明らかであり、一八三六年のカリヴォダの作品についての評論では次のように明言されます。「現在は党派によって特徴づけられる。政治の党派のように、音楽の党派もリベラル・穏健・反動、あるいはロマン主義者・近代主義者・古典者に分かれる。右に老人、対位法教師、反ロマン主義者が座り、左に若人、フリギア帽、形式軽侮者、果敢な天才が座り、なかでもベ−ト−ヴェン主義者が貴賓席を占めている。単なる中道は老若混成である。彼らが日々のほとんどの生産を引き受けており、彼らは消耗品を作っては壊している。」(T, 144f.)

 「古典者」と「反動」を同じとみるのは一見奇妙だと思えるかもしれません。しかし古典作家そのものではなく、古いもの以外に絶えられない俗物的な古典信奉のエピゴ−ネンが想定されているのは言うまでもありません。シュ−マンはベルリオ−ズの序曲を論じる際に、皮肉を込めて「カント−ル」へ警告しています。彼らはベルリオ−ズに「卒倒」し、「サンキュロット派を罵倒する」連中なのです(T, 147)。シュ−マンは彼らを「古典者」と呼ぶことで、彼らの「ロマン主義者」批判へ報復します(T, 400)。ただし「古典者」ないし「反動」が依拠する「古い真理」で決定的なモメントは、古さではなく、時代を越えて手本として通用し、歴史の変転で色褪せることのない音楽の真理の刻印です。古典を盲目的に讃える者は「非歴史的」に思考する。彼らは歴史意識を謝絶します。ところが一八世紀に成立した歴史意識は一九世紀には躊躇いがちに、二〇世紀には決定的に、その支配的思考形式になります。

 一方「ロマン主義者」ないし「共和派」は、シュ−マンが(彼はそこに自分以外にショパン、メンドルスゾ−ン他数人の作曲家を数え入れます)一八三五年に考えたところでは、反動を軽侮し、反動と対立するが、古いものを軽侮したわけではありません。待望の「ポエジ−の」時代が過去にあったものを再生産することはできませんが、他方で「新たな芸術美」は「古い時代とその作品」から活力を得ます。シュ−マンは偉大な過去を崇拝しますが、それは現在をそこから隔てる歴史的な距離の意識においてです。古い技術と様式へ依拠するときには、彼はいわば歴史的距離を「含めて作曲 mitkomponieren 」します。歴史から現在へ持ち込まれたものは時代を越えた手本や死せる過去とみなされたのではなく、自分の過去と理解されています。過去を反復することはできませんが、自分の実体を失わないためには、過去を自分のものにしなければならないというわけです。

 シュ−マンは「近代」を嫌悪し、粗悪なものは無批判だ、というフリ−ドリヒ・シュレ−ゲルの格言をしばしば引用しますが、こうした「近代」の特徴は断片化、つまり関連の欠如と異種混合です。マルシュ−ナ−の《祝祭序曲》作品七八の批評によれば、「無数の凡庸な序曲では四分の一がイタリア的、四分の一がフランス的、八分の一が中国的、八分の三がドイツ的であり、合計は零」(T, 146)です。

 ただし「近代」の概念は分裂し、矛盾を胎んでいます。一方で、「近代」は歴史哲学的解釈における中間期であり、それ自身には実体がなく、対立命題として、つまり「新たなポエジ−の時代」の弁証法的前段階となってはじめて意味をもちます。他方で、音楽の凡庸についてシュ−マンが記述しているのをみると、近代は流行現象に近く、歴史哲学的段階のイメ−ジにそぐわない。歴史哲学的な段階は、現象の分裂を貫いて、その基礎となる時代概念として現われるはずなのですから。

 流行は突然古びます。昨日アクチュアルだったものが、今では萎れて堪え難い。「すぐに古くさく見えるもの、それは瞬く間にモダンなオ−ラを発散するものである」、とはジッドの『贋金作り』の一節です。去り行く時への物神崇拝的愛着を嘲笑するのは仮借のないル−ルですが、その都度の「最新」を「流行遅れ」から区別するメルクマ−ルは偶然的で交換可能です。そして流行の交替は事象に基礎づけられるのでなく恣意的ですが、これは、逆説的に言うと、流行が歴史の外にあることを意味します。流行は、逆行不可能な歴史的時間とは反対に、原則として反転可能だからです。

 シュ−マンの歴史哲学において「古典者」が「古い真理」に見いだす無時間性は、流行のその場かぎりで移ろいやすい、はかなさと対立します。しかし他方で、古典性と流行という二つの極限現象は否定的モメントで一致します。一方は時間の解消を求め、他方は時間を反転可能にすることで、どちらも歴史意識というカテゴリ−から逃れるのです。

 シュ−マンの歴史哲学的草案は両義的です。彼が対置する類型は三段階の歴史的段階を代表します。ところがそれらは同時に−意識的、無意識的な−歴史への態度において区別されます。「古典者」ないし「反動」は、時間を越えると感じられた手本に依拠して歴史の流れ(それは過去を存続させないのではなく、過去に介入してその内包を変更する)を遮断します。「近代」すなわち一八三〇年代の単なる中道は、流行の仕掛人や追随者であり、今日が昨日、昨日が今日かもしれませんが、どちらでも同じことです。そして最後に「ロマン主義者」は、現在を生きる意識に支えられています。そしてその場合の現在は真実であり実体的であって、単なる現実や経験ではありません。現在は過去をそのなかに保ち、未来を予見するからです。アヒ−ム・フォン・アルニムは一八〇五年に『民謡について』で書いています。「未来の精神と過去の精神があるように、現在の精神がある。だが誰も現在の精神が誰だが知らない。」

 フランツ・ブレンデルはシュ−マンの後を継いで『新音楽雑誌』を主宰したわけですが、彼はシュ−マンを「決定的に近代的」だと形容しています。メンデルスゾ−ンと違って、シュ−マンは「既に一面で完全に近代的であり、他の一面の、まだあまり決定的に近代的ではなく、単なるベ−ト−ヴェンの延長に思えるものは、反対にロマン的な方向を目指している。」シュ−マンの語用法と違って、「ロマン的」と「近代的」の位置が交替しています。ブレンデルが「近代的」と呼ぶのは、過去と未来に引き裂かれた不幸な意識ではなく、未来を秘めた現在です。彼はリスト、ワ−グナ−、ベルリオ−ズを想定しており、ロッシ−ニとマイヤ−ベアを想定したのではありません。

 シュ−マンが否定的に利用した「近代」概念を十年後に肯定へ変換したこと(ただし彼は、それがシュ−マンの意に沿うと信じていました)には二つの根拠があります。第一に、音楽のサンキュロット派を「ロマン主義」と呼び、音楽のロマン主義を「サンキュロット派」と呼ぶシュ−マンの発想は用語的に乱暴です。「ロマン的」の語は、フランスではヴィクトル・ユゴ−以来、政治上の共和主義と結びついていましたが、ドイツの当時の意識では、この語が中世ロマネスク様式の芸術を連想させました。一八一〇前後のアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルとスタ−ル夫人の言語では「進歩的」と「近代的」がほとんど同じ意味だったのですが、サンキュロット派への共感が表明されたわけではなく、それが古いものを古典とすることに反発する当時の若者の日常語だったからです。

 第二に、ブレンデルはシュ−マン以上に進歩を擁護し、進歩を疑いませんでした。ブレンデルには過去を崇拝する歴史家と作曲家が俗物に思われ、他方で彼は、バッハの作品を手本にして「純粋な泉」から「新たな芸術美に活力を与える」というシュ−マン風の考えと疎遠でした。むしろ彼は、歴史の前段階が現在(彼はリスト、ワ−グナ−、ベルリオ−ズがその代表だと考えました)へ止揚されると確信しており、次のように主張しました。「現在、新ドイツ派と呼ばれている進歩派が党派であるのは次の意味においてのみである。すなわち古いものを完全に吸収したのちに、その歴史的正当性を損なうことなく、しかるべき位置を占めること、それを身上とするあらゆる偉大な世界史的現象が、この名称で呼ばれるべきものである。」ブレンデルが古いものに「歴史的正当性」を認めたのは、過去が死んだという宣言文への調印に他なりません。

 進歩のパトスと歴史意識は補完しあい、矛盾するしません。ブレンデルは歴史家です。彼は、しばしば失敗に終わっているにしても、歴史的なものを把握ないし再構成し、それが自分の時代から遠く隔たっていることを意識しようとしました。過去から(それを現在の前段階と把握したとしても)自分が解消できない深淵で分離されていることにブレンデルは自覚的であり、そのことを見落としたり、否定するほど素朴ではありませんでした。彼は歴史的距離を強調します。つまり進歩を弁護する理論家として、新しいものの場所を確保しようとした一方で、歴史家として、(彼はシュライエルマッハ−を知っていましたから)直接的で無反省な理解が無効なときには、歴史的で間接的な理解が不可欠であることを意識していました。現在を第一義的に未来へ結びつけて伝統から解放したからこそ、彼は歴史家として、距離を置いて過去を考察することができました。ただし彼は過去を放置したままであり、過去を読み換えて吸収することはありませんでした。

 これに対して伝統とは、シュ−マンの理解によると過去を自分の言語に翻訳することです。ただし、翻訳ではオリジナルの異質さが明確にならなければなりません。シュ−マンは「古典者」と「反動」を厳しく糾弾しましたが(彼らは古いものにしがみつき、グラレアヌスの言葉を借りれば、古いものを「何モ付ケ加エルコトノデキナイ完璧ナ芸術」だと思っているかのようです)、他方で彼は、過去の異質さを強調する歴史家でした。伝統に対するシュ−マンの感覚は、反省と直接性、つまり「古い時代と作品」への歴史的な距離の意識と親しみの感情、あるいは到達し得ない彼方への愛と過去を現在へ引き寄せる努力、両者の間の危うい宙吊り状態を保っていました。

 「近代的」という言葉はあいまいです。この言葉が名指す切れ目は五世紀から一九世紀前半までの間で極端に、しかもしばしば同じ著者においても交替します。音楽史家の歴史哲学的な規範によると、オペラが成立し、厳格様式が古びて stile antico になったことが新時代の始まりです。クラウゼとフィッシャ−は三つの時代、古代・キリスト教時代・近代を区別します。そしてシリングは、三分割図式を古代音楽と近代音楽の対比という二分割図式から明確に区別します。「近代音楽の本来の歴史」は一六〇〇年前後に始まるのです。

 ブレンデルにおける近代性の境界はあまり明快でなく、彼が近代性へ下す判断も同様です。一方で、彼は「近代」の始まりとして一六〇〇年のエポックの切れ目を語りますが、他方で、彼はモ−ツァルトについて次のように書いています。「彼の位置には旧時代と新時代の転換点がある。この地点まで古い時代が続き、ここから新しい時代が始まるのである。」そしてシュ−マンを「決定的に近代的」だと讃えるわけですが、その一方で一七三〇年以来のイタリア・オペラを「近代的な感傷とはかなさ、エフェクトの追求」と非難するときには、「近代」の語が自分の時代の不快な傾向を指しています。

 あいまいさを無視したために、ケストリンが草案し、フリ−ドリヒ・テオド−ル・フィッシャ−が『美学あるいは美の科学』に組み入れた音楽史は混乱しています。そこにはアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルの二元論図式、ルネサンスの理論家の三分割図式、青年ドイツ学派の語用法が関連なく併存しています。第一に、「古代の彫塑的原理」と「近代のゲルマン的原理」が対置され、「九世紀の和声の導入」が「新時代の音楽」の始まりと説明されます。しかし第二に、ケストリンは「近代」を「古代」と「中世」から区別します。そして第三に、彼はベ−ト−ヴェンの死後の時代の符丁である「近代性」を語り、ヘ−ゲルの歴史哲学的図式に沿って、それを不幸な意識の段階とみなします。

 近代の自覚は先入観がなくても十分確信できたのですが、ブレンデルの言い草によると「時代の要請を明確に意識」することを目指した結果、一八三〇年代、四〇年代には進歩のパトスと、芸術の止めようのない実体の喪失というヘ−ゲルの宣告に苛まれて、近代の自覚が奇妙な矛盾に陥りました。『美学』には次のように語られています。「とりわけ我々の今日の世界の精神、詳しく言えば今日の我々の宗教と理性的教養は、芸術が最高のやり方で示すような段階を越えて、絶対的なものを自覚したように思われる。[……]それが我々に喚起するものは、より高度な試金石と別の保証を必要としている。思想と反省は、美しい芸術の上空へ飛び去ったのである。」(T, 21.)ヘ−ゲルは彼の命題を芸術哲学的というより宗教哲学的に基礎づけたのですが、それを歴史哲学と無関係な芸術内包の解釈へ適用するのも不可能ではなかったでしょうし、それは深刻な作用を及ぼしました。この命題は時代(もしくは時代の自分自身への不満)を概念でつかんでいたからです。ブレンデルは進歩が芸術においても歴史の法則だと確信し、ヘ−ゲルの命題を、ヘ−ゲルの名を持ち出すことなく、引用同然の文章で繰り返して平然としていました。

 ただし、ヘ−ゲルが既に芸術の終焉を宣告しているのだから、近代の作品は、いわば影として芸術の死を引き伸ばしているにすぎない、と考えるのは粗雑な単純化であり、ヘ−ゲル哲学の体系としての関連を無視していると批判されねばなりません。芸術をめぐるヘ−ゲルの思考は、−『精神現象学』におけるだけでなく、潜在的には『美学』においても−芸術そのものというより、宗教としての芸術にかかわっています。そして宗教哲学的な動機がその一側面であるような全体を見渡すときには、ヘ−ゲルの命題を芸術についての最後の言葉と受け取る必要がなくなります。内在的な批判によって−つまりヘ−ゲルの歴史哲学をモデルとする反省の弁証法に依拠することで−体系を拡張することも可能です。

 直接性の泥沼に落ち込まない反省こそが近代の目印であり、この傾向は一八三六年にアマデウス・ヴェントが認識したように、音楽にも浸透しています。「なぜなら第一に、我々は反省があらゆる状況を貫く時代に支えられており、精神生活の意義深い現象には、精神発展の全体における意義を問われないものがないからである。そして事情通ならば、ベ−ト−ヴェンとともに音楽に偉大なエポックがもたらされたことを否定する者はいまい。ベ−ト−ヴェンのエポックによって、世俗音楽はエネルギ−と意義の頂点に高まった。このエポックが過ぎ去り、このエポックがもたらした理念の光が直接的に聴衆へ浸透したとき、反省はその作用と意義を強める。そして現在は、反省を多様な形態で仕上げる一方で、新たな発展へ時代の欲求を導くのである。」ヴェントやのちのブレンデルがヘ−ゲルの思考を受け入れるやり方によると、反省が終焉を同時に始まりとみなし、古いものの解消が新しいものを準備します。歴史哲学が音楽批評家と音楽史家に作用したのは、この点においてです。ヘ−ゲルは書いています。「このような思考、このような反省は、直接的なものをもはや尊敬せず、直接的なものも反省を特殊な原理と認める。主観的精神と一般的精神の分離が生じるのである。[……]我々は既に、これが民族の堕落であることを指摘した。[……]だがそこには、より高度な原理の始まりがある。不和は一致の欲求を含み、一致の欲求を主導する。なぜなら精神はひとつだからである。」他方で不和は、ヘ−ゲルによると、−当座のものであり、弁証法的転換をもたらしたり、少なくともそれを期待させるからといって−甘受されるべき単なる否定的なものではなく、肯定的なものを生み出す独自の正当性をもつ状態です。「しかし同時に、精神がこのように自己に閉じこもるときに思考は特殊な現実を生み出す。科学の誕生である。」

 同じような動機にもとづいて−つまり反省を身につけつつ、そのように反省が支配するエポックを単なる中間時と把握する精神で−、ブレンデルは「音楽をめぐって近年相当数の著作が発表されたこと」に言及します。「音芸術に関する現在の重点が少なくとも部分的にはこの領域に求められるべきであることは、いうまでもない。」文学について書かれたものも文学なのだから、ブレンデルは、同じ理由で(一見逆説に思えますが)音楽の理論と批評を音楽に数えることができると結論します。思考を拒絶して、失われた直接性の代わりに少なくともその仮象だけでも救済しようと努力することによってではなく、反対に反省を先鋭化することで、ブレンデルは不和の段階を抜け出せると信じています。フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルは一七九四年に書いています。「我々の欠陥そのものが我々の希望である。なぜなら欠陥は理性の支配に由来しているからである。そして理性は、なるほどそれが完成へ向かう歩みは緩慢だが、限界を知らないからである。」そしてブレンデルは、時分の時代の弱みと分裂を隠さないのだが、それでも時分の時代が過去を越えて進歩していると信じて疑いません。「それは没落の時代、これまでの芸術が解体する時代であるのみならず、同時に新しい創造の時代とも考えられる。この時代を完全につかめるのはこの視点においてのみであり、次のことがこのような多様の錯綜を越えた説明となるだろう。すなわちこの時代は健康、力、生産性において以前に劣るかもしれないが、深いところに無限の創造的な意義の核を秘めているのである。」ただし古いものと新しいものを媒介するのは、ブレンデルによると音楽の理論と批評です。理論と批評は、ヘ−ゲルの歴史哲学における不和の精神と同じように、「堕落」が同時に「より高度な原理の始まり」なのです。「現在の芸術の本質は、もはや自然主義的なやり方を基礎にしてその上に建て増しすることにあるのではなく、反対に、理論と批評が過去と現在の間に割って入り、我々の芸術が理論と批評を前提として内包することにある。」そしてブレンデルは、歴史にも理論や批評とよく似た意義を認めます。世界史と文化史の知識が「教養人を教養人へ育てるように、芸術史は芸術家を課題の単なる本能的な把握から解放する」。無反省に伝統としての過去へ同化するのではなく、過去が歴史意識で貫かれねばなりません。ドロイゼンの言葉を借りれば、「歴史は人類による人類自身の意識化であり、人類の自意識」です。歴史は「自己認識」であり、人間はそこで過去を、人間が人間となった道として把握し、同時に過去から解放されるのです。

     5

 ブレンデルは、ニ−チェが『ワ−グナ−の場合』で嘲笑したようなことを考えているように思われます。「ヘ−ゲルに魅了されたのと同じ種類の人間が、今ではワ−グナ−に魅了されている。しかもワ−グナ−派では、ヘ−ゲル的に文章が綴られるのである!」ロッツの言葉を借りて冷静に言うと、「ヘ−ゲル派は、最近二〇年、決定的に美学を支配している。」ヘ−ゲルのように、美学でも体系的かつ歴史的に思考することが試みられ、歴史を体系として把握し、体系を歴史として把握することが試みられました。

 しかしヘ−ゲルのヘゲモニ−は、哲学者の哲学の偉大さを強く印象づけるにしても、自明ではありません。思弁の恍惚を理解できない者は世紀半ば以後、冷静な実証主義に転じ、理念と生成というプラトン的思考に人を閉じこめる力のあるヘ−ゲルの哲学を、推測の誘惑とみなしました。現実が止まることなく流転するのが日常の実感であり、真理のイメ−ジは不安定でとらえがたく、固定するのでなく変化にさらされる。二〇世紀の思想史では通俗となったものが、ヘ−ゲルの時代にはパラドクスだったのです。

 ヘ−ゲルの哲学を−薄めたとはいえ−一八五〇年前後の形而上学の失墜以後まで生き延びさせたのが他でもなく芸術の理論と歴史であったのは、学問発展の偶然ではなく、この学科の本性に基礎づけられます。この学科では、歴史的思考と体系的思考が不可分です。政治史家は倫理的判断を保留できますが、芸術史家が美的判断を保留するのはほとんど不可能です。「歴史作用」という概念は政治史学の決定的カテゴリ−ですが、芸術史で現象を正当に評価できるカテゴリ−ではありません。作品が後継者をもたず、発展に巻き込まれるのではなく、いわば発展の圏外にあることは、その作品が無意味で無視できることを意味するのではなく、むしろその作品が最高であることを意味していますし、このような価値は、歴史的判断(歴史作用という)によるのではなく美的判断によって、歴史的事実と認定されます。歴史学と美学が連動しない芸術史は考えられないのですから、そのかぎりにおいて、ヘ−ゲルの歴史哲学における体系とプロセスの関連という問題は古びていません。経験論者は体系とプロセスの関連を空疎な思弁と軽侮するでしょうが、彼はまさに経験論者であることによって領域を狭めています。

 歴史的思考と美学的思考の相互補完と相互作用という芸術史の対象に仕組まれた要請と、プラトン的な哲学伝統で分裂したものをまとめたり、ひとつにしようと試みるほとんど迷宮のような課題、両者を最も明瞭に示すのは、「古典」ないし「古典性」という概念の内包を発展させて歴史哲学的に基礎づけ、メルクマ−ルの羅列に貼りづけられた単なるレッテルとして誤用するまいとする飽くなき努力です。ただし一九世紀の音楽史の哲学が到達した結末は混乱しており、ヴァレリ−は、「古典」という語が真面目に受け取れない空疎な言葉だと言っています。また他方で、失望と執念が入り交じった狡猾な単純さ(ヴァレリ−)をありのままに受け入れるのは素朴すぎるでしょう。

 歴史哲学と美学を交錯させることの意味は、ヘ−ゲルにおいても他の哲学的音楽史家においても一義的ではありません。古典や古典性を規定しようと試みるとすぐに、古典が規範として無時間的なのに、同時にそれが反復しえないエポックと把握されるという矛盾に陥ります。ヘ−ゲルが古代の神像を典型とする古典的芸術を語るとき、彼はこの語を明らかに古典主義的な意味で用いています。古典的芸術は歴史の完成の時であり、象徴的芸術は前段階、ロマン的芸術は余生です。「古典的芸術形式は、芸術の感覚化に可能な最高のものに到達した。そしてそこに何かが欠けているとしても、それが芸術というものであり、それは芸術空間の限界である。」(T, 85.)しかしヘ−ゲルの定式では、同じことが何度も語られるにもかかわらず、ロマン的芸術が−ヘ−ゲルによると−芸術としては古典的芸術より低級なのに理念の形態として上位にあるのか、あるいはロマン的芸術が古代芸術の段階を越えて宗教と哲学を高めるのか、はっきりしません。一方で古代以後の芸術の実体喪失が話題になりますが、ヘ−ゲルは他方で、明確には発言しないものの、中世と近世の芸術がキリスト教的で哲学的な精神に刻印され、古代の精神を越えていると考えていたように思われます。

 ヘ−ゲルでは彼が近代と同一視したロマン的なものの性格が分裂しているわけですが、反逆児的ヘ−ゲル主義者クリスティアン・ヴァイセの体系では、近代が明確な目的であり歴史の頂点であるように思われます。近代は、古典古代とロマン的中世の統合です。ミネルヴァの梟の感覚イメ−ジである現在においてようやく、古代と中世という過去のエポックの精神がそれ自身の意識に到達する。直接的な存在としてではなく、反省する我々において、古代が古典的であり、中世がロマン的だというわけです。そして過去の第二の現存在として教養の形式で存続する余生は、ヴァイセによると(彼は断固としてアレクサンドリア的です)より高度な現存在です。古代に信仰された神が引用された寓意へと色褪せることを、彼はヘ−ゲルとは反対に(ヘ−ゲルは芸術と宗教の分離を実体の喪失とみなしました)解放と考えます。そして近代をめぐるこうした歴史哲学的判断の相違は、ヴァイセの体系をヘ−ゲルの体系から区別する外面的な相違(「近代」と「ロマン的」という概念を分離して、ヘ−ゲルが芸術における精神の歴史の始まりとされた象徴的傾向のある芸術を単なる前段階と見下すこと)より決定的だといえるでしょう。

 ヴァイセはプロの哲学者として、ヘ−ゲルによる芸術の歴史哲学を近代擁護へ改造する試みが困難なことを意識していたのですが、ほとんどの音楽史家と音楽批評家は、彼らが代表する時代精神に亀裂がないと感じており、ヘ−ゲルの教えと彼らの確信(芸術の進歩)という二つのドグマ(彼らは両方に同じくらい熱狂していました)の間に矛盾があるとは思っていませんでした。ヴォルフガンク・ロベルト・グリ−ペンケルルは古典とロマン主義の対比を音楽へ転用しましたが、他方で彼は、音楽が古代以後の近代(ヘ−ゲルの用語でいえば「ロマン的」エポック)でようやく強調的な意味での芸術になるので、ロマン的時代における古典の完成というイメ−ジを拭えないと考えました。「音楽は、近代の意識によってようやく芸術になったわけだが、モ−ツァルトにおいて、理想の有機的発展に不可欠な古典の地点に到達する。なおこの語は、歴史的な意味でご了解願いたい。[……]ロマン的原理は、音楽ではようやくベ−ト−ヴェンによって完全に充実して現われた。だが、ロマン的なものの本質は、理念が外的現象へもはや限定されず、もはや古典的なもののようには外的現象へ満足せず、キリスト教的世界観で獲得した無限と自由の力で形式を突破し、精神の貴族として無限の最後の高みをも去ってしまう。」グリ−ペンケルルによるロマン的の規定は明らかにヘ−ゲルに依存しています。またロマン主義における古典、全体としてロマン的で「キリスト教的な世界観」に刻印された芸術の内部での古典というイメ−ジは、ヘ−ゲル(その音楽美学ではなく、文学美学)をモデルにしています。他方でグリ−ペンケルルは、「ベ−ト−ヴェン信奉者」としてベ−ト−ヴェンのロマン主義を精神による形式の突破として賛美し、近代芸術による実体の喪失というヘ−ゲルの命題を躊躇なく捨てます。精神の歴史におけるロマン主義ないし近代性が進歩だというのは、グリ−ペンケルルにしてみれば、芸術でも通用するわけです。

 グリ−ペンケルルもしばしば言葉をあいまいに用いて平気だったのですが、ブレンデルが「古典」や「ロマン主義」といった歴史哲学的概念を大胆に用いるのをみると、用語の水増しと言わざるをえません。思弁と歴史構成への熱狂に耐えかねて言語が混乱し、「古典的」という概念は、ブレンデルが盛り込んだ意味の重みで倒壊しています。一方で、「古典的」という概念は分裂的に構想されています。それはもはや歴史から突出する規範ではなく、単なるエポック名へ色褪せることもありません。「古典的」は未決定の宙吊りを保ちます。他方で、「古典的」はふんだんに用いられ、あまりに多くを取り込みすぎて、もはやほとんど何も意味しなくなっています。第一に、古典的なものは、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルの芸術理論におけるように古代的で彫塑的なものであり、ロマン的、近代的、絵画的と区別されます。第二に、「古典的」は「美しい」様式、ないし「自由な」様式を形容し、それにはバッハとヘンデルに代表される「崇高な」様式や「厳格な」様式が先行します。しかし第三に、あらゆる様式が、「崇高な」様式や「自由な」様式であっても、固有の古典ないし古典性に達します。また第四に、イタリア音楽の古典といった国の古典が話題になり、別のエポックにはドイツ音楽の古典が話題になります。そして第五に、国以外にジャンル、つまり教会音楽、オペラ、器楽などが、それぞれ古典ないし古典性へ高まります。

 古典概念の分裂がブレンデルで極限に達したのは有機体理念−歴史が音楽の歴史を含めて、大きなスパンにおいても(古代と近代という世界の動脈)、小さなスパンにおいても、周期的反復に基づき、誕生・開花・没落という常に変わらぬ図式にしたがって推移するというイメ−ジ−の帰結でした。歴史は、人間がつくったものなのに、自然史として理解されたわけです。そして古典ないし古典性をイタリア音楽についてもドイツ音楽についても、また教会音楽についてもオペラについても器楽についても語るというのは、無意味でなく可能でした。あらゆる自然の発展は、阻害されたり中断されたりしなければ、同じように発展して同じように完成の時を迎えると前提されたからです。ヘルダ−の言い方を借りれば、「人間の啓蒙のあらゆるジャンルは共通に、完成の時へ向かう」のです。ただし、ヘルダ−には続きがあります。「人間が不幸にしてさまようときには、同じ場所に永遠にとどまったり、ある場所へ立ち戻ることができず、没落の道が始まる。あらゆる完全な作品は、人間に要求できるかぎりでの最高の完全さである。この種の完全を前提として、単なる模倣や、それを越えようとする不幸な努力が可能になる。」歴史の有機体理論は古代に由来し、ヒュ−マニストに受け入れられ、グラレアヌスによって音楽にも転用されました。

 一九世紀中葉以来、発展プロセスの類似というイメ−ジ、そしてそれが「完成の時」を迎えるというイメ−ジが疑われ、遂には、あらゆる国やジャンルに古典が配当されるという歴史哲学的構成が犠牲になりました。歴史では何も反復されないという命題を知ったことで、前段階や没落段階を語る可能性が閉め出されました。歴史には不完全な時期がないことをア・プリオリに確信したからではなく(すべての時代が平等だというイメ−ジは、時代の不平等というイメ−ジと同じように形而上的でドグマ的なのですが)、発展段階を比較できなかったために、ある時代の優位を経験的に主張できないと思うようになったというべきでしょう。判断(そして古典的という概念の修復)を放棄することは、方法的に動機づけられていました。それは歴史家に課せられた制約であり、歴史哲学から実証科学としての歴史学への移行の目印だったのです。


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