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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

シェリングの音楽リズム論について

 ヘルマン・クレッチマ−が馬鹿にしながら「体系哲学」と呼ぶものは、それを軽侮する音楽史家や音楽理論家にしてみれと、事象と異質な思弁のなかを浮遊している。しかし哲学者が専門の音楽家であることが稀であるにせよ、彼らの理論は、有益であるかぎりにおいて、ルサンチマンなしに考察されるべきだろう。それが音楽の体験にじかに由来するものではなく、哲学体系にあらかじめ登録されたカテゴリ−から理論を演繹するという迂回路をたどった理論であるにしても。シェリングの一見渾然として逆説的な音楽リズム論に関して以下に示すように、哲学者の理論は、一般的な美学的議論というよりも、むしろ音楽や音楽理論の基本概念に関する反省なのであって、それらを真摯に研究して、哲学者美学の術語から音楽理論の日常語へ翻訳すれば、音楽理論の日常語が豊かになる。哲学者たちの本分である体系の草案においてではなく(それは背後の思想であり、その結論について真面目に悩む必要はない)、音楽理論上の細部にこそ、本質的な認識(もしくは思考の示唆的な失敗)が潜んでおり、その美学の利点や欠点にとって決定的である(哲学者に健全な音楽理解を期待することはできないにもかかわらず)。音楽家は、当事者であるがゆえに、日々取り組んでいる対象について、言うべき価値のあることを当たり前だと思って意識しなくなってしまう。そして反対に、抽象的と呼ばれながらも音楽現象からいわゆる距離を保っていることで、哲学の思考は、一見自明な基盤に隠れた問題を明るみにだすことがしばしばである。

 『芸術の哲学』は、フリ−ドリヒ・ウィルヘルム・ヨゼフ・シェリングの講義(一八〇二/〇三年イェ−ナ、一八〇四/〇五年ヴュルツブルク)の原稿だが、一八五九年にようやく遺稿として出版されたので、直接的な反響は少なく、間接的な死後の影響も、思弁的な思考が解体した一八五〇年前後には難しかった。ヘ−ゲル哲学が瓦解するなかで、シェリングの哲学も引き裂かれた。そしてカント主義を交えた実証主義の時代の読者には、シェリング哲学の体系的前提などどうでもよくなっていたのだから、音楽理論上の帰結がディレッタント的だと疑われたのも不思議ではない。

@シェリングが『芸術の哲学』第七九章で発展させたリズムの理論や、その影響を跡づけることのできるヘ−ゲル美学のリズム論は、図式的で弁証法的な枠組みの一部である。この枠組みによると、「リズム」(第七九章)と「転調」−音程構造のこと−(第八〇章)から、音楽の部分モメントの総称としての「旋律」(第八一章)が生まれる。この弁証法モデルは些末だが、彼がこのカテゴリ−に発見した潜在的な前提は注目に値する。

 彼が「リズム」と考えるものは、一八世紀や一九世紀前半の語用法にしたがっており、音持続の秩序ではなく(このような用法は最近の音楽理論でようやく実践されるようになったものである)、出来事の周期的で均等な繰り返しのことである。大きさのレヴェルは特定されない。ペリオ−デ全体の均等も、個々の拍の均等も、どちらもリズムである。一八世紀の美学者や音楽理論家のリズム論は、単純で均等な叩きの連続を初歩的な現象とみなしたのだが、これと違ってシェリングは、まったくの均等のなかに、哲学的な「概念の努力」に値する問題を発見した。音楽理論が疑う余地のない前提と思っていたことが、いわば一歩退いた哲学の目には、不安定な結論であった。

 「というのも次のようにいえるからである。リズムの最も一般的な概念だけを証人として召喚するにとどめるならば、リズムは、等質なものを周期的に分割することである。分割によって単調が多様と結びつき、統一が複数性と結びつく。たとえば、楽曲が全体として喚起する感覚は、まったく一様であり、ひとつである。それは、明朗であることもあれば、憂欝であることもある。しかしこうした感覚は、それ自身まったく等質であったとしても、リズム的な分割によって、変化と多様性を獲得するのである。」

 一見すると、シェリングはヨハン・ゲオルク・ズルツァ−の『美しい諸芸術の一般理論』を手本にして、均等な叩きの連続と、拍の軽重(あるいは拍の強調の有無)を区別しているかのようである。「周期的」というのは、揚音と抑音の交替が繰り返されることを指しているように思える。しかし、「たとえば」で始まる記述によると、「周期的に分割すること」を通じて、「楽曲が全体として喚起する等質な感覚」が「変化と多様性」を獲得するのだから、彼が言いたいのは重いものと軽いものの交替ではなく、分節されていないものを規則的に分節すること(音楽の流れを等しい長さに分割すること)である。すなわち、リズムが構成する「多様性」は、部分が区別されていること(等質で切れ目のない流れのかわりに)において成り立つ。そして第七九章の第五段落でシェリングは、「これまで」語ってきたリズムが「同じ大きさで同じ隔たりをもつ点」のようなものだと書いている。強調された拍と強調されない拍の区別を彼は「タクト」と呼ぶのだが、これは次の段落でようやく扱われる。「我々は、これまで極めて不完全な種類のリズムだけを扱ってきた。そこでの多様における統一は、間隔が等しいことにのみ依拠している。同じ大きさで同じ隔たりをもつ点を考えるといいだろう。これは、最も低級なリズムである。」

 つまり、シェリングが素描したリズム論は解きほぐせそうにない逆説を基礎にしている。そしてこの逆説は、哲学を音楽理論に混入させているのではないかという先入観を助長しかねない。「多様性」が均等さによって−「同じ大きさで同じ隔たりをもつ点」という意味における「周期的な分割」によって−生まれるなどというのは、矛盾した主張である。多彩さが、それとは正反対のものである単調さから生まれねばならない。

 「等しさ Gleichheit」と「異なり Verschiedenheit」という概念を錯綜させた命題か ら、理解可能で検証可能な弁証法を取り出すためには、シェリングにおいて非リズム的というカテゴリ−(リズムによって秩序づけられることになる基盤)に含まれている現象が再構成されねばならない。古代の伝統が自明の前提になっているので、シェリングにとって、リズムは運動の秩序である。そして運動は、さしあたり等質で分節されない出来事の流れであって、切れ目のない線にたとえることができる。つまり、シェリングが「周期的に分割すること」(彼によるとこれがリズムである)を第一審級で「等質な感情」と結びつけたのは、「リズム」概念を「運動」概念と連結させる古代の伝統に彼が敬意を払っていたからである(多感主義の時代には、「運動」が感情の動きと解釈されていた)。

 そうすると、「等質なものを分割すること」(分節されていないものを分割すること)によってようやく「変化と多様性」が生じるというのは、ほとんど当たり前のことである。ただしこれだけでは、シェリングの言う「分割」がなぜ「周期」(「同じ大きさで同じ隔たりをもつ点」という意味での均等)を保たねばならないのか、よくわからない。「多様性」は、均等な分節によるよりも、むしろ不均等な分節によって生まれるからである。等質で分節されないもののリズム化が、まったく均等な切れ目において成立するというのは、とりあえず承服しかねる。しかし実は、シェリングは、いささか極端な考えから出発しているのであって、均等なものを単なる不均等(それにもかかわらず秩序づけられているような)と対立させるのでなく、まったくの無規則と対立させている。「最初、リズムの要素は、即自的で、お互いのことがどうてもいいものとして想定される。弦のひとつひとつの音や太鼓の一打などがそれである。こうした叩きの連続は、どのようにして意味をもち、心を動かし、快適になるのだろうか? 叩きや音は、最低限の秩序がなければ我々に作用しない。しかし、本性におけるだけであったり、素材としてみたただけでは無意味で快適ではないこうした音でも、そこに規則性が加わり、等しい間隔で繰り返されて周期性が生まれると、なにがしかのリズムになる。極めて初歩的な始まりだが、我々はどうしてもそれに注目してしまうのである。」無規則とは、シェリングによると、相互に関係づけられないことである。秩序のないところでは、現象が無関係な異なりとして離散する。異なる持続に共通の尺度や関連体系が認識できないとき、「個々の音」は、お互いのことが「どうでもいい」ままである。

 シェリングの枠組みは無規則と完全な均等(=1:1という比率)を対比しているわけ だが、なぜ2:1という比率を1:1と同等にリズムとみなしてはならないのか、よくわからない(……)。そして、リズム概念を狭めている理由は、古代リズムについての解釈が不十分であったためであるように思える。一八、一九世紀にはギリシャのメトルムを均等な拍という土台に結びつけるのが普通だったので見抜けなかったことなのだが、長・短は、本来一方を他方へ還元できない量として並べられていた。つまり、2:1は均等な三つ の拍をまとめたリズムではなく、均等でない−つまり均等に数えることのできない−二つの基本要素から成り立つリズムであった。しかし一八、一九世紀には、同時代のリズム体系にとらわれて、イアンボス、トロカイオス、ダクテュロスが拍へ分解されていたので、古代のメトルムにもシェリングの定式、「均等な反復−つまり拍−によって、音価−共通の目盛りをもつことなく、単なる量として無関係に並べおかれた音価−の連なりに秩序と関連がつくられる」という定式を適用できたのである。長・短という関係は、直接的にリズムととらえられるのではなく、「一、二、三」と均等に数えることを介してようやくリズムととらえられた。

 シェリングは、関連のない多様性と関連のある多様性を区別する。彼の考えでは、関連のある多様性において、関連はまったくの均等から生しるのだが、この均等は、一と二という区別を自らのうちに包んでいる。「活動の純粋な同一性のなかに、人間は−本性にもとづいて−リズムによる複数性ないし多様性をもちこむ。我々は、同じ調子で数をかぞえるといった意味のないことに、もはや耐えられない。我々は周期化してしまうのである」。シェリングは、「同じ調子」で数をかぞえる場合の「周期化」を口にしているが、これは、一八世紀のリズム論のような強拍と弱拍ないし重い拍と軽い拍の交替ではなく、単に同じ地点へ戻ること−「一、二」、「一、二」と分節すること−を意味するに過ぎない。これは奇妙で混乱しているように思えるかもしれない。しかし、「一、二」という抽象的な区別のなかに既に−量的、質的、動的な段階づけがなくても−「多様性」の兆候があり、しかも、「多様性」は、それとは一見対立するはずの均等によって意識される。こう考えると、シェリングの考えも理解できる。シェリングの拠り所になっているイメ−ジによれば、出来事の「純粋な同一性」−「同一性 Identitat」は「等しさ Gleichheit」ではなく、「唯一さ Sebligkeit」を意味している−は均等や差異を自ら のうちに含まない。均等と差異は、同一性が止揚されてはじめて、しかも両方一緒に成立するのである。差異を欠いたまま並立する「点としての現在 Jetztpunkt」は、「等しい 」わけではなく、それぞれの瞬間にとらわれて、ほとんど記憶を欠いた意識に対して「同じ」であるに過ぎない。「等しさ」は差異−記憶のなかに固定された「一」を「二」から際立たせること−を前提とするのに対して、「唯一さ」は文字通り差異を欠いている。「唯一さ」がそれ自体としては非リズム的なのに対して、「一」と「二」という、差異のない二つの要素は、「最低段階において」ではあるにしても、リズムとみなされる。シェリングが「一」と「二」を、量的ないし質的な区別なしに、「同じ大きさで同じ隔たりをもつ点」と規定したのは、ほかでもなく、彼が出来事のまったくの均等のなかに、一方の関連のない多様性と他方の差異のない「唯一さ」を媒介する中間項を見いだしたことを意味する。それは、共通の尺度を欠いた分裂と、第一の「点としての現在」と第二の「点としての現在」の差異をなくしてしまう「同一性」の間の一種の抜け道である。一様な流れ、関連のない多様性と並んで、差異のない「唯一さ」も非リズム的なものである。そして、これらの非リズム的なものは、リズムによって−「周期的に分割すること」によって−秩序づけられ、音楽になる。

 シェリングは様々な非リズム的なものを機能的というよりも連想によって羅列しており、それらは、リズムの全否定であるという以外に互いに関連がない。一方、ヘ−ゲルの『美学』−そのリズム論はシェリングを踏み台にしている−では、各種の非リズム的なものが、議論の進行の一部として対比させられているというかぎりにおいて、互いに関係づけられている。シェリングの考えていたものに注釈と解釈が加えられているのである。そして、シェリングは、彼自身が理解していた以上にヘ−ゲルによって、よりよく理解されたといえるだろう。

 ヘ−ゲルの場合、「点としての現在」の連続は、そこから反省が始まる初歩的な経験とみなされている。(つまりヘ−ゲルは、シェリングのように最初にアリストテレスを引き合いにだして時間と運動を結びつけるのではなく、アウグスティヌスを引き合いにだして、時間についての古代哲学者の第二の「古典課題」である「現在」の逆説を問題にする。)「第三に、時間は外的な要素の中で動くのだから、第一の時間点と現在を止揚する第二の時間点の真に主観的な統一はありえないわけだが、しかしそれでも、現在は、変化のなかで絶えず同じでありつづける。なぜならあるゆる時間点は、あるひとつの時間点であり、他の時間点と、単に時間点としてみれば、差がないからである。」(「点としての現在」の連続には「主観的な統一」がまだ欠けている。「主観的な統一」は、意識の統一である。意識の回想の中では、第一の瞬間が、第二の瞬間と並んで存続しており、第二の瞬間によって消失させられることはない。)

 第一の時間点が第二の時間点に追いやられ、第二の時間点が第三の時間点に追いやられるような「点としての現在」の「唯一さ」から、ヘ−ゲルは差異化されず等質な時間の流れを導きだす。つまり、シェリングがそこから出発して、そこから、第一の審級として「均等なものへの分割」としてのリズムを際立たせようとした例のものを導きだす。時間点の「純粋な同一性」は、「区別されない」持続へ転化する。「しかし逆に、時間とは互いに差異のない時間点の切れ目ない生成、消滅なのだから、均等な流れ、差異化されない持続でもある。」

 規定されることなく持続する休みない時間の流れにおいては、「点としての現在」がどれも他の「点としての現在」と「同じ」なわけだが、ヘ−ゲルは次に、こうした規定されない持続を音に規定された持続と区別する。そこでは、持続の終わりが、時間を回想のなかで固定する意識によって、始まりとは質的に別の時間点として印づけられる。もっとも、音の時間量が異なるだけでは−つまり、音を互いに関係づける尺度がなければ−、ひとつの無規定性が別の無規定性と交換されただけ、差異化されない単調が、関連のない異種混合と交換されただけである。音の持続の多様性が数的な時間の統一性を基盤としてはじめて、受容者の意識が記憶にとどめることのできるようなリズムが成立する。「音の持続は、このような原理に沿っているのだから、規定されずに進むわけではなく、始まりと終わりで縁取りされる。そして、始まりと終わりは、音を縁取りすることで、ある特定の始まりと終わりになるわけだが、それだけでは、まだ時間モメントの差異化された並列ではない。多くの音が相次いで現われ、それぞれが他とは別の持続を獲得したとしても、先に述べた第一の無規定性が、恣意的であるという意味で無規定的な特殊量の多様性と入れ替わったにすぎない。こうした無規則な混乱は、抽象的な自己前進である自我の統一性と矛盾する[……]。」

 哲学の反省が初歩的な現象に深入りするのは、極めて日常的なもののなかに落とし穴を探り当てたからなのだが、こうした反省は、気の早い読者にほとんど自動的に疑念を生じさせる。こうした反省は当たり前のことをいつまでも調べ続けて、信じられないほど厳密に受けとめている。それに、なるほど一見自明に思えることが実は込み入った問題のファサ−ドであることも少なくないかもしれないが、そんなことを発見しても煩わしいだけだし、初歩的なものを問題なしとみなして、理論など気にせず、日常実践におけるように、単なる所与として扱えばそれでいいのではないのか。

 しかし、抽象にのみ存在する(……)と思えるようなモメントが、のちの発展段階で現実になって、ただの思弁の対象が直接的な経験の客体になることもある。そして、シェリングは、「周期的に分割すること」によって否定されるリズムの潜在的な前提としていくつかの種類の非リズムを発見していたわけだが(区別のない持続、「規定されない多様性」、「点としての現在」の「純粋な同一性」)、この数十年のポスト・セリ−音楽において(つまりタクトリズムの崩壊以後)、こうした非リズムは、いわば思弁から現実へ踏み込んでおり、現代の時間経験の注目すべき可能性として、音楽で現実化されたといっても過言ではない。時間経験は、「リズム」を否定するからといって、音楽現象(音楽史の歩みにもとづいて理解できるような)を止めるわけではない。非リズムは、シェリングとヘ−ゲルにおいてはリズムの単なる踏み台であり、リズムによってようやく音楽が音楽として構成されたわけだが、現代の作曲実践では、非リズムですら音楽であり、リズムの代価物である。一見すると現実離れしているようでも、哲学の反省が初歩的な音楽上の所与の表面に発見した抽象的モメントは、現象の「具体的」モメントである。それを「メタ音楽」と呼ぶことは、それが音楽ではないということではない。


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