本書目次へ →翻訳目次へ  トップページへ

カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

些末音楽と美的判断

「私は公衆の寵愛だけに賭けている。」
W・スコット
「奴らは金のために書いていやがる。」
L・v・ベ−ト−ヴェン

 [些末音楽 Trivialmusik = trivial music」は中立的な概念ではない。この名称は一種の判断を含んでいるが、その判断が正当なのか、事態と無関係に上空を浮遊する不適切な僭越なのかはっきりしない。判断の内容もあいまいである。判断が第一義的に倫理的に基礎づけられることもあるし、美的、作曲技術的に基礎づけられることもある。

 「些末」は「月並み、平板、日常的、悪用」を意味する。ハンス・ゲオルク・ネ−ゲリは一八二六年に、ジュピタ−交響曲の数小節について、その祝祭的な簡潔さが擦り切れていると感じた。「最初の部分は基本音から出発しているが、アレグロの第一九から二一小節を調べて、次にそれを第四九から五四小節と比べていただきたい。さらに第二部分で第八七から八九小節と第一一七から一二二小節も比べていただきたい。同じ基本音上にある三和音と七の和音をただ行き来するのは、すでに些末であり、最も使い尽くされており、最も月並みな常道である。非常に月並みな作者が管弦楽作品で使いそうなやり方であって、聴き手はこうしたトゥッティで快適に誘い込まれる。しかもここでは、こうした些末さが二回繰り返されるので、結局、四回同じ楽節が現われることになる。」ネ−ゲリの批判は俗物的だが、示唆に富んでいる。彼は、細部に固執して細部に独創性を求める聴き方に陥っている。単純な和声定式がネ−ゲリにとって俗悪なのは、彼が関連を見過ごしており、和声定式を基礎づけて正当化できなかったからである。しかし関連を欠いていることこそが、些末音楽のメルクマ−ルである。そしてネ−ゲリの間違った判断は、交響的な形式を理解できずに歪んでいるが、些末なものの本性を見抜いている。些末なものとは、独創的ではない細部を強調する音楽である。

 美的判断が音楽上の地下茎へ適用されるとき、それはほとんどいつも倫理的な色調を帯びる。判断を道徳的に基礎づけることは、高級芸術においては古びてしまい、カント以来非関与的だと排除されているが、低級芸術で生き延びていた。些末音楽は低級で粗悪である、些末音楽はまがい物であり、「芸術の価値体系における悪」である、このような主張が怒りとともに擦り切れることなく繰り返されている。世俗的な快楽に対する宗教的な不信が散漫な白昼夢に対する実用主義的な不信と結びつき、さらに鈍感で繊細さを欠いたものに耐えられない美的な神経過敏症が一緒になって、「些末だ」という判断が口にされているのである。

 「些末音楽」という術語で表現された判断は不可侵ではない。些末音楽は実用音楽であり、その意味は美的・作曲技術的な分析にそぐわない、このような反論は真摯に受けとめられねばなるまい。機能音楽を自律音楽のように考察することはナンセンスである。

 しかし、実用対象と芸術作品の対比が最終判決であって、分析がその背後へ進むことはできないのだろうか。機能的であると同時に人工的であるような音楽が堕落することによって些末音楽という様態が成立したのであって、それは自律音楽が実用音楽と袂を分かったあとの残滓である、このような対立命題はありえないだろうか。

 実用音楽に適切に「接近」するには、ハインリヒ・ベッセラ−によると、「一緒にやること Mitmachen = do with」が肝心である。機能的で「場に順応した umgangmasig =environment-adequate」音楽は対象ではなく、さしあたり音楽外的に規定された出来事の部分モメントとして知覚される。モデルとなるのは舞踏家の態度である。「彼は音楽を耳を傾ける zuhoren = listen のでなく、積極的に流れに身を委ねるのであって、音楽を明白な客体として手前に置かない。彼にしてみれば、音楽が対象としてそこにあるのではない。[……]演奏会の意味で耳を傾けることは問題にならない。音楽舞踏に固有の活動を誘導することを、一緒に聞くこと Mithoren = hear with と呼んでもいいのではないだろうか。」距離を前提する美的判断は不適切であろう。音楽が対象と把握されるのではなく、「舞踏音楽の価値は、帰属する共同体の要求をどれくらい満たしているかということによってのみ規定される」。「場に順応した umgangmasig = environment-adequate」音楽 と「対象的な gegenstandlich = objektive」音楽という対立項は、ハイデッガ−による 「手持ちの道具 zuhandes Zeug = tool on hand」と「手前のもの vorhandes Ding =present thing」という区別を思わせるが、労働歌や社会歌(「それに接近するには、一 緒にやらねばならない」)そして祭祀音楽も、「場に順応した」音楽と考えられている。「ここでも音楽は、祈祷という音楽外的な基本態度の装飾や演出にすぎず、音楽に適切に接近するには、一緒に祈祷するという基本態度を一緒にやらねばならない。」

 ベッセラ−は、「一緒にやる」という言い回しの多義性を利用して、同じ思考の歩みのなかで、受動的な聴取と積極的な音楽行動を対置するだけでなく、孤立した個人とまとまった集団、自律音楽と機能音楽を対置する。そして機能と客体という対立項によって、あらゆる実用音楽が些末という美的判断から逃れることになるわけだが、「場に順応した」音楽と「対象的な」音楽という区別は、むしろ「理想型」の枠組みであって音楽の現実の記述ではない(発見学的な価値は否定できないにしても)。

1 ベッセラ−が「場に順応した」音楽の機能として言及するのは舞踏、親密さ、祭祀だが、こうした機能は歴史的な変化にさらされる。一七、一八世紀にはこれらが代表的具現となり、外へ向けて提示される傾向にあった。それらは祝典として「対象的」になるわけで、音楽も代表的具現の性格を獲得して美的判断を受け入れる。

 歴史的な分析のためには次の事実も重要である。祭祀音楽はいつでも芸術になりえたわけではない。教会音楽の芸術性格の条件を記述しようとするのであれば、祭祀と信仰の歴史とともに、音楽技術と美的意識の発展に配慮すべきであろう。幸福な時代には音楽祭祀というジャンルで多様なモメントが一致するが、そうでなければ諸モメントが乖離する。「時代の精神」がいつも均質に満たされているというのは幻想である。そして芸術となりうる可能性を基準にすると、そうでない祭祀音楽には些末という判断が下される。

2 純粋な機能性というのは極端な例である。それ自身では空疎なただの道具である音楽と厳格に自律する可能性、音楽の現実の大部分はこの正反対の両極の間の中間段階である。しかし機能と芸術性格が排斥しあうものではないとすると、音楽の機能を考察することが、反対の手法、つまり音楽の視点から機能を分析する手法で補完されねばならない。

 粗雑な図式だが、次のような仮説から出発することにしよう。つまり、機能音楽の芸術性格が脅かされるのは、一方で機能の意味(社会的な地位や、ヘ−ゲルの言う「実体的内包」)が希薄になったときであり、他方で音楽がその目的によって狭く限定されたときである。舞踏音楽は一般に内包に乏しいが、リズムモデル、分節、長さなどが固定されて(それが旋律と和声を固定する)、形式のうえで限定されている。反対にミサ作曲は高級な機能に支えられているが、形式的な束縛はテクストと教会様式の規範だけであり、しかも様式規範はほとんどいつも緩やかであった。

 実用的な価値にすべてが解消されてしまう音楽の場合には、美的な距離に依拠する判断が関与しないし、不必要である。しかし、機能の地位の違いが−舞踏やミサにおけるように−しばしば音楽の地位とも連動するとみなすのであれば、機能を顧慮することが、美的判断(ある曲を些末だとする判断)とねじれるどころか、美的判断の支えになる。

3 実用音楽は「匿名の芸術史」に適した対象かもしれない。そこで利用される旋律の由来がどうでもいいことは、実用音楽のメルクマ−ルのひとつだからである。パロディ−と引用、改作と編曲、これらのやり方で同化することは、生産の方法以上に特徴的である。決定的なのは形象の起源を特定することではなく、形象の有用性である。

 自律的な作品として構想された音楽に手を染めたときに、「場に順応した」手法が疑わしくなる。独創性と統合性は一九世紀の美学、すなわち自律音楽と機能音楽の区別を自覚した芸術理論の基礎概念である。音楽が作品のもともとの内包と意味を無視して使われることは、美的規範によれば、取り違え、些末化である。文脈から曲を抜き出すこと(その典型はシュ−ベルトの《菩提樹》の民謡への変身)、楽譜に介入すること、編成を変えること、これらは美学の支配下で疑惑の目を向けられる。

 「些末だ」と宣告するような美的判断は「場に順応した」音楽に対して不適切だし、機能音楽が自律音楽の作品や手段に寄生してもいいではないか、このような反論があるかもしれない。曰く、最終審級において決定的なのは音楽の「存在様態」である。テクストが不可侵だというのは「対象的な」音楽の規範であるわけで、ある存在形式を別の存在形式の規範で判断するのは間違っている。

 この命題を徹底して推し進めると、音楽形象の「同一性」概念が放棄される。モ−ツァルトの変ホ長調交響曲のメヌエットは、交響曲の文脈から抜き出されて舞踏音楽として利用されると、最終審級となる「存在様態」においてもはや同一の作品でなくなる。モ−ツァルトのメヌエットが匿名の機能音楽へ変身する。

 反対に、改作を些末化だと批判するような美的判断は同一性を前提している。取り違えが取り違えとなるためには、メヌエットが「同じ」であり、「別の」曲であってはならない。

 この難題は解決不能であるようにも思える。「存在様態」概念が機能音楽から抽象され、作品の同一性という概念が自律音楽から抽象されたのは間違いないが、中立的な判定審級が欠けている。(「対象性」を「存在様態」のひとつだと考えるのは間違っている。音楽作品の同一性は具体的な「存在様態」ではなく、それにもかかわらず、自律音楽の美学の基礎概念である。「存在様態」概念は自律音楽の美学へとどかない。)「生活世界」の哲学は超越哲学へ還元できないし、その逆も不可能である。

 「場に順応した」音楽は、ベッセラ−によると「対象的な」音楽よりも「本来的」である。しかし客体化へ向かうにつれて、自律作品をめぐって発展してきた美的カテゴリ−が優勢になる。編曲をテクストとして公刊して、編曲者の名前を作者の名前のように付けるとき、無意識的であるにしても、実用音楽が美学の支配的な規範に従属し、同一性概念、不可侵性と独創性という概念に従属したことが表明されている。「場に順応した」実践が市民権を求めている。それはまさに成り上がり者であり、やはり些末である。

 美的規範が判断審級として貫徹されて、実用音楽を些末と見下すことが正当に思えてしまうのは、歴史的なことだと考えられる。美的判断は、同時に歴史的判断である。

4 音楽するいくつかの形式を前にすると、「場に順応した」態度が「対象的な」態度より早いのかわからなくなる。客体化しないことが「一緒にやること」なのではなく、むしろ聴き方が分離される以前には、両者が未分化だったように思われる。

 音楽を人前で演奏することは、ヴィルトゥオ−ゾの演奏から物乞い楽士の演奏に至るまで、音楽の魅力を否定、隷属へ転落させることであるわけだが、これはおそらく「場に順応して」音楽することと同じくらい古い。演奏者の人格や実践と「歩調を合わせること Mitgehen = go with」は、対象としての音楽に注目することから分離できない。そして物語の語り手の場合と同じように、第一義的なモメントを二次的なモメントと区別するのは不適切だろう。音楽家が解釈者になって、テクストとして与えられた作品に従属するのは、歴史的にあとの現象である。対象と提示が分離されると同時にヴィルトゥオ−ゾ性が生まれる。彼らにとって、音楽はほとんどどうでもよく、音楽がそれ自体としては空疎な土台へ堕落して、そのうえで技術や身振りのアクロバットが開花する。

 仲間内で音楽することの最高の形式は一六世紀の多声歌曲と一八世紀後半の弦楽四重奏だが、これはしばしば会話に譬えられる。仲間内で音楽することと会話することは、対象が親密さの土台なのかその逆なのか決められないという性質を共有する。手段と目的を分離するのは不適切である。仲間内で音楽することを特徴づける浮遊状態が解消されてはじめて、作品としての音楽と「存在様態」としての親密さのどちらか一方が浮上する。(会話を基準にして判断すると、話題を固定した議論も、親密さの社会的機能に関与している空疎な饒舌も、どちらも堕落形式である。)ベッセラ−が「場に順応している」と書いた学生歌は、仲間内で音楽することの不完全形態であり、「始原の」形態ではない。

 バッハのインヴェンションは練習曲ではない。(芸術を訓練するために芸術でない形象を使うという一九世紀の考えは、それまでの世紀には考えられなかった。)練習曲は、演奏曲が「対象的な」作品と「場に順応した」訓練に分離してから成立した。訓練における知覚は「一緒に聞く」状態にあり、練習曲が技術的には有益だが音楽的には奇妙であるような極端な例の場合には、聴いていない状態 Nicht-Horen = not-listen に近づく。しかし、「一緒に聞く」のは、親密さの機能になった音楽を「一緒にやる」のと同じように、音楽知覚の堕落形式である。

 「一緒にやること」を客体化と分離するのは、音楽における俗悪の起源のひとつである。自律音楽が機能音楽と分離された残滓(ヴィルトゥオ−ゾ曲、学生歌、練習曲)は些末なものへ堕落する。

5 些末音楽は大部分機能音楽なのだが、上演曲や演奏会曲として対象的に提示される。そして条件の取り違えは音楽上の俗悪のメルクマ−ルのひとつである。舞踏や行進の本来の役割は回想イメ−ジへ色褪せるが、本来の役割を希薄にした二次的な存在であることが、音楽の特性以上に作用を規定する。ただし、だからといって美的判断が通用しないと結論するのは間違っている。機能は、いくつかの自律音楽にも反映しており、演奏会曲へ疎外された行進曲の決定的メルクマ−ルではないし、些末だという美的判断からそうした行進曲を保護する要因ではない。

6 娯楽音楽 Unterhaltungsmusik は会話の下地やおまけである。「イタリアでは、オペラに公衆が集まって、一夜中、会話を楽しむ sich unterhalten。舞台上で歌われる音楽 もこのような会話の楽しみの一部であって、人は時々話をやめて、音楽に耳を傾ける。会話を楽しんだり、反対側の桟敷を訪問したりする間でも音楽が続いており、音楽の課題は食卓の音楽という奉公人のようなものである。さもなければ遠慮がちになる会話は、音楽の喧騒に包まれることでにぎやかに盛り上がるのである。」会話や活動の隙間を埋めるとき、娯楽音楽は「場に順応して」機能的であるわけではなく、「対象的」で自律的であるわけでもない。一方で客体と呼ぶには空疎すぎるが、他方で娯楽音楽の前提になるわけで、娯楽音楽が持続させる散漫な状況は、「一緒に聞くこと」の戯画である。

 軽侮や嫌悪の身振りを越えて些末なものが批判されるとき、しばしばその基礎になっているのは、普遍的で分断されない音楽という理念である。高級芸術と低級芸術が分離したのは、俗悪なものが広がったからだとみなされる。大衆的なものが些末なものへ堕落してしまったのは教養の陰画であり、教養が秘教性へ閉じこもったことを反作用的に補完している。

1 しかし、普遍性は過去の現実というより一種のユ−トピアである。このユ−トピアを異質な部分の間の危うい均衡として実現したのは、一八〇〇年前後の《天地創造》や《魔笛》など、ごくわずかな作品だけである。そしてほとんど同じ時期に、カントは『判断力批判』において、「共通感覚」が美的判断の審級だと説明した。

 博愛的な啓蒙の世紀の以前には、普遍的芸術という考えがなかったし、それが具体化できそうなときでもそうであった。特権という概念に社会思想が支配されていた時代には、低級な音楽を軽侮するのが自明であった。大衆歌は、しばしば芸術作品の素材として利用されたが、だからといって記譜された人工音楽と記譜されない日々の実践から分離する意識上の距離に変わりはなかった。距離は、卑俗化によって消失するどころか、反対に強調された。

 音楽史上の一九世紀に新しかったのは、両者の分離ではなく、分離が不幸だという意識である。普遍性の理念は美的良心の審級になり、俗悪を嫌悪して、感傷を秘教的に駆除するときに、正反対の感情がつきまとうようになった。距離は、調停されたり解消されねばならない。未来が現在の不当さを修正するだろうという紋切型は、理解されたいという欲求や自らの死を越えて永続したいという欲求とともに、高級芸術と低級芸術の分離の彼岸の状況への憧れを表明している。

2 一九世紀には些末音楽を「格上げ」する努力が多種多様であったが、他方で単なる中道への批判が激しかった。単なる中道には、博愛や商売に動機づけられた卑俗化と、低級音楽を高級化する成り上がりが一緒になっている。凡庸は普遍性の戯画である。

 シュ−マンはアンリ・ヘルツやマイヤ−ベアなどの音楽上の単なる中道を批判したし、ワ−グナ−によると、彼が批判する「中庸なもの」は「我々が知らない新しいものではなく、既知のものを快適かつ馴々しい形式でもたらす」。仮面をかぶった些末さに対する憤慨は、露骨な些末さ(素朴なものであれ、シニカルなものであれ)に対する以上に激しかった。「公衆を欺くことは、たいてい同時に真の芸術判断をも欺くのであって、軽薄で不完全な商品は重厚で堅実な商品の代用品になり、結局、粗悪な現象が日々求められることになる。」有意義なものにしてみれば、凡庸なもののほうが粗悪なものよりも身近であり、外的に競合して内的な脅威にもなったので、一層強く批判せねばならなかったのだろう。しかし同時に、中庸なものは普遍的なものの取り違えであり、堕落形式でもあったわけで、理念が現実にはなっていないにしても、そのことが感じ取られており、人々を恥じ入らせたのではないだろうか。

 通俗音楽は内容美学を容認せざるをえない。抽象的な形式分析は場違いな手法である。形式分析すれば、些末なものがいかに粗雑であるのか明白にできるかもしれない。しかし形式分析は、提示された「内容」との関係を把握することができない。

1 些末なものを弁護しようと試みるときに決まって主張されるのは、批判の対象となる音楽の現象形式が二次的であり、「内容」(歌曲であれば、旋律性格、テクスト、機能という三者の関係)こそが決定的だというものである。フィリップ・シュピッタによると、一九世紀の男性合唱は音楽的モメントと愛国的モメントのまとまりとしてのみ把握できる。そして上手く作曲されたカンカンと比較して、国歌が上手く作曲されていないと主張するのは、美学への信条告白である以上に、アナ−キズムへの信条告白だと言われても仕方がないのではないだろう。

 テクスト、機能、旋律とリズムの性格、三つのモメントは相互作用で結びついて複合体を作る。(些末音楽にはパロディ−の手法がよく用いられるので、三者の関連が希薄であるようにも思える。しかし、以前の「内容」が完全に消失すると、パロディ−の引用が削ぎ落とされたり、解消される。ク−プレにおける世俗歌曲のパロディ−も、戦勝の歌における宗教歌曲のパロディ−も、皮肉や対照を糧にしている。)

 音楽の性格は社会的、制度的な機能に依存しており、テクストにおける以上に音楽の性格においてこうした機能が根強く意識されるものだが、その特性は歴史的である。音楽の性格が旋律やリズムの自然特性でないことを実験心理学が証明するのは簡単だが、そんなことは馬鹿馬鹿しい。旋律のテクストや機能を知らない聴き手にその旋律を判断させたとすると、音楽の「内容」は実験手続きを通じて消失する。そのような実験には歴史的存在が反映されていない。

 テクストや機能とともに生育した旋律は、「内容」(感情宗教、革命のパトス、ス−ポ−ツの愛国主義など)が色褪せて疑われたとき、はじめて些末であることがわかる。作曲技術の分析や美的批判に委ねられた音楽形式は、死んだ残骸である。

2 形式と内容が不可分だというのは、誰も否定できない常識だが、形式美学と内容美学の対立を解消したり、単なる見せかけの問題だと打ち捨てるだけでは不十分である。ハンスリックが批判したような「病理学的」音楽享受はただの幻影ではなく、日常的な現実であた。そしてこのような音楽享受が疑わしくなったからといって、その歴史的存在意義を見落としてはならない。

 音楽がどの程度内容(イメ−ジや感情の複合体)を提示したり、示唆したりできるのか、このことをめぐって論争してしまうと、形式が内容の機能なのか、それともその逆なのかという相違が見落とされてしまう。これは、音楽の美的限界をめぐる問いと同じくらい重要なはずである。内容は、ゲシュタルト心理学の言語を援用すると、「地」なのか「図」なのか。内容は、「図」として関心の第一の対象となり、音楽形式すなわち音関連の総体は、ただの枠組みや支えとみなされる。しかし同じ内容が、それを否定するまでもなく、背景として経験されることもある。ある気分に没入するのではなく、音楽聴取は、そうした気分に支えられながら、鳴り響く対象として形式へ向かうことができる。そしてそうすると、内容は形式の機能になる。

 内容美学は形式を「地」、内容を「図」ととらえる原理だが、ハンスリックが主張したように疑わしい。ただし、内容美学が間違っているからではなく、俗悪へ傾斜しやすいからである。音楽で提示できたり、パラフレ−ズできるような内容の領域は狭く限定されている。内容が豊かで細分化されているように見えるのは、内容がそれ自身としては空疎なのに、形式化されているからである。音楽聴取が内容にこだわって形式を枠組みと見下すと、音楽の作用が貧弱になる。形式と一緒に内容も、貧しく抽象的な輪郭へ萎縮する。

 内容美学の弱点は、音楽において内容が帰属している弁証法を見落としていることにある。内容はそれだけを強調すると図式的になる、内容美学はこうした逆説的な事態を軽視している。だが、内容に固執するという欠陥ゆえに、内容美学が些末音楽と親和する。些末音楽における現象形式は、感情と気分を投影するただの素材であり、聴くことが音楽形象そのものを還元している。娯楽音楽は、いわば内容美学が下した判断を実行している。そしてハンスリックの形式美学は、その歴史的な意義を弁護しようとするのであれば、音楽の些末化に対する反論と考えることができるのではないだろうか。

 美的判断は予断をもつ傾向にある。美的判断は、歴史的判断と違って、分析の先回りをするのである。だが、恣意的だと思われないためには、美的判断が音楽のデクストに基礎づけられねばならない。

 些末さを分析で具体的に把握しようとすることには、抵抗がつきまとう。形式を無形式の俗悪へ解消するポプリ原理を批判しない者はいないだろう。しかし有意味なコントラストを、ポプリの欠陥である空疎な無関係とどのように区別するのか、音楽のメルクマ−ルを示そうとすると、判断が確実でなくなる。異質であることを証明するのは、関連を発見するより難しいのである。

 俗悪なものとは、分析できないもののことであるかのようである。「分析の成否のポイントは、芸術作品の価値に関与できるかどうかにかかっている」、ハンス・メルスマンはこのような命題から出発して、『音楽の価値美学試論』を発展させた。「音楽分析と価値美学は、互いに排斥しあう領域や対極ではない。価値を認識することこそ、分析の豊穣な果実であるように私には思われる」。「価値尺度の原点」になるのは、要素の自然な流れ」に身を任せた音楽である。「そうした音楽の旋律は、音階と三和音によって与えられた外観の枠内にあり、リズムはメトルムとぴったり重なり、緊張が原理的に自然である。和声はトニカとドミナントの間の呼吸にもとづき、サブドミナントさえ稀であり、副三和音で色付けしたり、転回で重みを軽減したり、あるいは新たな導音で強い緊張を生み出すことも少ない。」音楽の質は、差異化、独創性、豊かな関連として分析でとらえることができる。

 だが、芸術作品から抽出された基準は、簡単なリ−トにあてはまらない。リ−トの「価値尺度」は、メルスマンによると(彼は民謡を軽蔑しているわけではない)、「逆の方向」に刻まれている。だから、単純なものを俗悪だと認めるには、「要素の空疎な経過」を示すだけでは不十分である。民謡ではなく芸術作品の基準を適用するのが正当である理由が、同時に明示されねばならない。

 テクラ・バタルゼフスカは、オクタ−ヴ進行で乙女を祈りに向かわせたわけだが、これは「空疎な経過」に他ならない。ひきずるような前打音と甘いアルペジオ、緊張した休止と突然のスフォルツァ−ト、これらを、タイトルが示す「より高いものへの傾向」とみなさないのであれば。

(譜例)

 余りもので「意味」の仮象を示唆すると、みすぼらしさが一層痛々しく強調される。単純なものを強調して、単純さを抜け出そうと虚しく努力することで、単純なものが些末になる。情熱的なアクセントは、衣装を着せられたものの貧しさを強調する。

 粗末音楽は量産品である。快適な享受を妨げないためには、習慣の境界を越えてはならない。だが同時に、他を出し抜いて記憶してもらうためには、目立たなければならない。擦り切れたものを魅力的に見せたとき、些末音楽の美的な理想が達成される。

 俗悪な強調を手のこんだ差異化と区別するのは、装飾的な余りものに居直るところである。差異化されたものは簡単なものから無理なく発展するのだが、些末な効果は、芸術手段における成り上がり者であって、単純な形象をやり過ごすのでなく、そこに目印をつける。図式とアクセントが互いに競いあっており、矛盾した交差のなかで、俗悪な作用が生まれる。

 マイヤ−ベアは《悪魔ロベ−ル》で単純な動機を強いアクセントで目立たせているが、これは、旋律的な原因のないデュナ−ミクの作用である。

(譜例)

明暗のコントラストは、細部の性格にも、上位の形式経過にも基礎づけられていない。無害な形象に音楽演出家が介入して、コントラストを無理強いしている。テオド−ル・ビルロ−トの判断によると、「マイヤ−ベアは、まるでウェ−バ−のように、些末や粗野を恐れない。彼はこれらを、別の繊細で音楽的な作用に使うことができるのである」。

 マイヤ−ベアの《ロミ−ダとコスタンツァ》(一八一七年)の序曲のリズムは、まるで装飾を貼りつけたかのようである。

(譜例)

この動機は、二つの分散和音という簡単な図式に還元できる。そして一小節目と三小節目の音の反復は、そのうえに着せられた付点リズムの衣装の背後に依然として透けている。単純さとアクセントは、差異化された形象として結びつくのではなく、二枚の写真を重ねて撮ったかのようである。

 関連のないデュナ−ミクやリズムの効果と同じような役割を果たす些末なアクセントの手段として、異質な部分を羅列するポプリの手法がある。予期しないものが絶えず入れ替わるので、聴き手は些末音楽の計算どおりに幻惑されて、注目を強いられる。

(譜例)

ジョヴァンニ・ピチ−ニのアリア《ポンペイの最高の日》(一八二三年)は、簡単なカンタ−ビレではじまる。ところが、ピチ−ニは、旋律に艶やかなトリルを付けて、単純さが演技だと暴露する。二小節あとで、ピチ−ニは中断する。後楽節ではなく、断固とした身振りと諦めの身振りが続き、そのパトスは、半音階で変位したフリジア風のカデンツに解消される(f-a-dis/e-gis-e)。そして極端なものを媒介して、突然の反転を発展として 正当化するかわりに、ピチ−ニは、さらなるクリシェを繰り出すことで満足する。「ペリオ−デ」の最後は、ロッシ−ニ・リズムであり、それまでのものが補完されるのでなく、イロニ−で消去される。旋律は、バラバラな刺激のポプリだが、刺激が非常に密に詰め込まれているので、聴き手は隙間を見付けることができず、音楽から目をそらすことができない。論理がモンタ−ジュに置き換わり、発展の連鎖は、あらゆる瞬間を「面白く」みせる努力に置き換わる。

 関連のない部分を羅列するポプリと同じように、「様式の分裂」(オペラの口調がリ−トに侵入したり、ヴィルトゥオ−ゾの態度が室内楽に侵入すること)も、偶然の欠陥ではなく、計算された効果である。フェルディナン・エロ−ルは、ロマンスを快適な気分ではじめる。

譜例

ところが、中間部はパントマイムになる。強調されたオクタ−ヴ跳躍、半音階の中間音、フェルマ−タへの停滞、これらはオペラ様式の残滓である。ロマンスで想定される市民の娘は、一瞬、舞台上にいるような気持ちになるが、冒頭の旋律が再現すると、俗悪な現実へ連れ戻される。

 「芸術家が……現実に反する感動的な手段、すなわち憧れと感傷性という手段に逃げ込み、睫毛を涙で濡らそうとして、おお神よ!という思いを手にしようとするとき、彼の顔は、なるほど現実を越えて天に向かっている。しかし彼は、まるで蝙蝠のように、鳥でもなければ、動物でもなく、地上にも天上にも帰属しない。そしてこうした美には嫌味がないといえないし、こうした人倫には、弱点とへつらいがないとはいえない。こうした場合の理性には、平板さがないとはいえないし、そこで演じられる幸福と不幸について言うと、前者は常識的だと言えなくもないし、後者に不安がないとはいえず、どちらも馬鹿馬鹿しいものである……」。ヘ−ゲルの判断は、残酷なほど具体的である。


本書目次へ →翻訳目次へ  トップページへ
tsiraisi@osk3.3web.ne.jp