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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

ロマン主義とビ−ダ−マイヤ−−王政復古時代の音楽史的性格描写のために−

 「音楽のビ−ダ−マイヤ−」という言い方は、具体的な事実と符号するのか、それとも亡霊のように実体のない概念なのかはっきりしないのだが、とりあえず三つの前提にもとづいているようである。第一に、一八一五年から一八四八年までの王政復古時代−とりわけウィ−ンとベルリン、ライプチヒ−の文化史はビ−ダ−マイヤ−という単語(この単語は狭さ、親しみやすさ、教養の意欲を連想させる)で呼べる特徴をもち、この単語を日常言語から学問言語に転用しても大丈夫だと信じられている。(だが、時代の文学史や音楽史の特徴が本当に文化史の特徴と一致するのかはっきりしない。グリルパルツァ−とシュティフタ−、メ−リケとドロステにとって、ビ−ダ−マイヤ−というカテゴリ−は狭すぎる。)

 第二に、音楽史のなかには、ビ−ダ−マイヤ−(日常言語の語彙としての)と言いたくなる現象がある。ワルタ−・ニ−マンは一九一三年、ハンス・ヨアヒム・モ−ザ−は一八二四年に、つまりビ−ダ−マイヤ−概念が精神史と文学史の時代名として確立する一九三〇年前後に先立って、この言葉を音楽史上の現象とむすびつけていた。ロルツィングのジングシュピ−ル、ジルヒァ−の合唱曲、エドゥアルト・グレルの敬虔だが俗物的な歴史主義である。ただし、「ビ−ダ−マイヤ−」と「ロマン主義」は、お互いに相手を排斥するわけではない。ニ−マンによると、音楽の「ビ−ダ−マイヤ−」の代表は同時に「傍流ないし後発のロマン主義者」であり、モ−ザ−は、シュポアのビ−ダ−マイヤ−的な態度と「ロマン的な室内楽」を話題にした。

 第三に、「ビ−ダ−マイヤ−問題」は、学問史において「ロマン主義問題」の裏面になっている。音楽史家もどう言えばいいのかよくわからないのである。一方でなんとなく王政復古時代全体が(ただしドイツについて)ロマン主義時代だと言われているが、もう一方で、語の割引きされない意味での「ロマン主義者」はウェ−バ−、シュ−ベルト、シュ−マン、メンデルスゾ−ンだけだった、というグスタフ・ベッキングの議論も無視できない。(ちなみにベッキングはE・T・A・ホフマンとルイ・フェルディナント皇太子を「ロマン主義者の第一世代」と呼ぶが、この枠組みは信用できない。)「群小作家」はともかく、シュポアとマルシュナ−、ロルツィングとフリ−ドリヒ・シュナイダ−、レ−ヴェとロベルト・クランツを「傍流」として脇におしやっていいのだろうか、つまり、こうした音楽家たちが作曲家として低級であり、彼らの非ロマン的傾向(あるいはベッキングの厳格主義を緩和すると、部分的に非ロマン的な傾向)にかかわりなく、ロマン主義が「精神史」を刻印していると主張していいのだろうか? (「精神史」とは何なのか? 時代の文化史が本当にロマン主義者に支配されていたなどと言えるのだろうか。)

 ワルタ−・ニ−マンは「傍流ロマン主義者」を話題にしている。まるで低級なロマン主義者も、やはりロマン主義者だといわんばかりである。エルンスト・ビュッケンは「現実主義者」を語り(言いたいのはムソルグスキ−の意味での音楽のリアリズムではなく、社会の現実に作曲家が順応しているということである)、ホルスト・ホイスナ−は、音楽のビ−ダ−マイヤ−が固有の美的権利をもった様式であり、ロマン的な基準で測定されてはならないと主張する。ハインツ・フンクは「一八一五年から一八三〇年(あるいはそれ以前))に生まれたドイツの作曲家」をビ−ダ−マイヤ−へ「数え入れ」ようとしたが、これは間違っている。第一に、作曲史のうえで一八三〇年代、四〇年代はメンデルスゾ−ンとシュ−マンに刻印され、一八五〇年代、六〇年代はワ−グナ−とリストに刻印されているのですから(フンクも第一義的に制度史でなく作曲史を論じている)、「ビ−ダ−マイヤ−時代」、つまり一八三五年から一八六〇(六五)年がビ−ダ−マイヤ−に規定されたエポックだというのは難しい。そして第二に、一八一五年から一八三〇年には、カ−ル・ライネッケ、テオド−ル・キルヒナ−、コルネリウス・グルリットが生まれたが、ブルックナ−、ペ−タ−・コルネリウス、ヨアヒム・ラ−フも生まれており、クロイツァ−とロルツィングは数十歳年上である。

 音楽のビ−ダ−マイヤ−という概念の欠陥は、否定的メルクマ−ルだけを共有する諸現象(様々な理由からロマン主義へ数え入れたくない諸現象)の集合名に思えることである。シュポアとロルツィング、シュナイダ−とキルヒナ−、ジルヒァ−とロベルト・フランツ、それぞれの間の内的な距離はあまりにも大きく、様式概念−音楽のメルクマ−ル複合体をまとめる言い回し−を定式化するのが不可能に思われる。特徴的なのは、ホイスナ−がシュポアをロルツィングやニコライとともにビ−ダ−マイヤ−の作曲家へ数えたとたんにどうしても作曲史(ビ−ダ−マイヤ−を音楽様式として規定すること)から制度史へ逸脱してしまい、他方で作曲史とジャンル史を論じると−リ−トと抒情的ピアノ曲の台頭、オペラとジングシュピ−ルにおける情景描写の愛好、交響曲におけるリ−ト的主題法やピトレスクな主題法への傾斜が言及されている−ビ−ダ−マイヤ−とロマン主義の境界がわからなくなることである。(シュ−ベルトの《冬の旅》に本当に「ビ−ダ−マイヤ−的要素が刻印されている」だろうか?)文学史では、(ドイツで)ロマン主義が一八一五年以後解体してエピゴ−ネンへ堕落したので、王政復古時代全体を「ビ−ダ−マイヤ−時代」と呼ぶことができるわけだが、音楽史で時代全体を「ビ−ダ−マイヤ−」というひとつの視点から記述することには疑問がある(ホイスナ−は、ヴィルトゥオ−ゾ派のような現象まで含めたとき、そうしたことを試みたわけだが)。王政復古時代は、作曲史においてロマン主義のエポックであり、その境界は一方でシュ−ベルトの作品一、他方でメンデルスゾ−ンとシュ−マンの死によって明示されるからである。

 もうひとつ忘れてならないのは、王政復古時代には交響曲やまして弦楽四重奏曲ではなくオペラが決定的な音楽ジャンルと感じられており、イタリアオペラとフランスオペラがドイツでも−愛国者が《魔弾の射手》へ熱狂したにしても−公衆を支配していたということ、そしてイタリアとフランスの影響がビ−ダ−マイヤ−を代表するニコライとフロトウのような作曲家を考えるうえで示唆的だということである。作用史のうえでは−受容史が(ただの付録として)作曲史や思想史、制度史ほど重要でないという考えは疑わしい先入観である−、王政復古時代はロッシ−ニとマイヤ−ベアのエポックであり、ベ−ト−ヴェンとシュ−マンの時代ではなかった。振返って作曲史の様式化を音楽史そのものと考えるとそう思えてしまうのだが。

 異質なものの共存を「同時代における非同時代性」と考えようとすると、外的な年代のうえで出会っている現象を異なる発展段階へ帰属させることになるわけだが、これは間違っている。マイヤ−ベアの「ただの中道」(シュ−マン)がシュ−マンのロマン主義やジルヒァ−のビ−ダ−マイヤ−より「早い」のか「遅い」のか、誰もそんなことを決められない。(現象が成立時代を越えて持続するかどうか、ということは「内的な年代」の基準ではない。生き延びたものが「進歩」として「古びたもの」へ対立して貫徹されることもあるが、「古い真理」として「流行」に対立して主張されることもある。)

 他方で、諸傾向の対立(時代の目印は際立って対立するものが並立していることなのだが、並立に意味があるどうかということは、はっきりしない)をただの「諸様式」の分裂と規定することはできない。「様式」は、内側からまとまった音楽のメルクマ−ルの複合体と考えられねばならないからである。なるほど様式の統一は、あらゆる外化現象に確認できる実体的なモメントに示される必要はなく、機能関連に告知されることもある(たとえば音楽のバロックの内的なまとまりは−補完的な対立項の組み立てとして−機能的であり、実体的には記述できない)。しかしたとえ様式概念を鷹揚に水増しするとしても、音楽のビ−ダ−マイヤ−と呼ばれ得る諸現象は−音楽のロマン主義におけるような −作曲史と思想史を一体化した「様式」ではなく、むしろ「音楽文化」(この言い回しは当惑の表明である)であるかのように思われる。そこでは作曲史が本質的かつ内発的に−つまりただの経験的な偶然や外的強制によるのでなく−制度史と関連している。

 ヴァッケンロ−ダ−、ティ−ク、E・T・A・ホフマン、ロベルト・シュ−マンのロマン的音楽美学は一九世紀後半と二〇世紀に通俗化したので、それが挑発的な逆説として作用した時代へさかのぼって考えるのが難しい。だが一九世紀前半には、音楽が「それ自身で孤立した世界」だというティ−クの命題、つまり美的自律原理は、音楽の意味をそれ結びついたテクストやモデル、出来事や活動へ求める習慣とねじれた関係にあった。そして音楽が鳴り響く形式以外では近寄れない真理を啓示するというホフマンの主張は、音楽が文学や哲学に比べて劣った外化形式であり、「文化というより娯楽だ」(カント)という教養人の確信と衝突した。

 一方の傑出した天才と自律的作品、他方の一九世紀の歴史的現実(現実では、貴族文化の解体以後、芸術作品が別の実用対象と同じような条件に従属した)の間には矛盾があるように思われる。ロマン主義の「美的宗教」は、−イデオロギ−批判の時代から回顧して−尊大で現実からかけ離れていると疑われている。しかし自律原理が作曲技術へ影響したこと、しかも代表的と誰もが認める作曲技術へ影響したこと(ベ−ト−ヴェンの形式思考への影響は、ワ−グナ−の和声法やブラ−ムスの動機法への影響と同じくらい明白である)、そして天才美学が一般の意識へ普及したことは、具体的な事実、しかも「社会的な事実」(エミ−ル・ドゥルクハウムの厳格な規範に照らして)である。傑出した天才について、自律原理の帰結に敢然と敵対した公衆の保守的な部分が論争を挑んだが、その論争も原理的批判ではなく、因果律的な批判であった。ロマン的自律原理と「芸術時代」の強調的な芸術概念は音楽史的であり(ただし作曲史的、思想史的、受容史的であり、制度史的ではない)、一方のグランドオペラの「ただの中道」(シュ−マン)や、他方の音楽のビ−ダ−マイヤ−が代表する「現実主義的」立場と同じくらい「リアル」である。王政復古時代の作曲家は、定式風に言うと、工業時代の夜明けの経済と社会の傾向へ−それが「孤立した世界」というロマン的自律の要求に対立しないと考えたときには−組み込まれてもよかったし(「芸術であるとともにビジネス」であるグランドオペラのマニエリストのように)、それを逃れて工業以前の制度と伝統へ後ろ盾を求めることもできた。そして後者がビ−ダ−マイヤ−だと考えられそうである。

 立場の違いは音楽の新しさというカテゴリ−への関係の多様性に明白に認められる。作曲家が新しいものを発想しようとすることは、少なくとも部分的に経済的で社会的な強制だと考えられ、美的独創性の理念は、それを基礎づけたり、その原因になったりしたのではなく、それをただ表現したり、それに仮面をかぶせたにすぎない。だが、こうした前提から生じた帰結は多様であった。作曲家は、第一に、《悪魔ロベ−ル》以後のマイヤ−ベアのように耳目を集める新しさで成功して、そのパタ−ンをほとんど変更することなく堅持することもできたし、第二に、ワ−グナ−とリストのように自分自身のエピゴ−ネンになることを美的良心の命令として禁じて、次々極端な作曲技術を導きだして進歩することもできたし、第三に、ビ−ダ−マイヤ−の多くの作曲家のようにジャンル伝統、形式モデル、技術の登録済みの限界内に発想を求めて、細部を独創的して原理的に新しいことを言わないこともできた。(区別は理想型的な枠組みであり、これらのカテゴリ−は作曲家を一義的に分類しようとするものではなく、むしろ様々な混合を記述するためのものであることは言うまでもない。メンデルスゾ−ンには、関与度が同じではないにしても、あらゆる傾向が並立して見いだされる。)

 ロマン主義とビ−ダ−マイヤ−の間に境界線を引くことがこの用語を音楽史学の日常語で使用するための前提だが、この試みはやっかいである。ここで問題になるのは直接比較したり対比したりできない現象ないし現象複合体であり、それを正当に扱うには、視点を交替させなければならない。

 ロマン的音楽美学と音楽解釈やロマン的作曲を話題にできることを疑う者はいない(シュ−ベルトが「古典者」であり、ワ−グナ−は「現実主義者」ではないか、という議論はあるにしても)。しかし一九世紀前半の音楽理論も、王政復古時代の音楽制度も、「ロマン的」と形容したくなるものではない(一方で、たとえばバロック的な音楽制度の体系を話題にすることが十分可能だというのに)。アドルフ・ベルンハルト・マルクスのベ−ト−ヴェン解釈のト−ンと比喩はロマン的である(バロックの名残を留めつつ)。だが、マルクスの作曲学にロマン的傾向を探しても無駄である。そして一方の作曲史と思想史の様式としてのロマン主義と、他方の音楽制度の体系の間には、一七世紀や一八世紀に自明であったような内的関連が欠けている。王政復古時代のリ−トの夕べ、ジングアカデミ−、定期的な音楽祭がロマン的性格の作曲に対応する制度だ(グランドオペラが七月政権の精神の表現として制度と一体であり、パリ以外で《悪魔ロベ−ル》、《ユグノ−教徒》、《預言者》を上演するのは初演のただの反映である、というのと同じ意味で)、と主張する者はいないだろう。また、なるほど「シュ−ベルティア−デ」で生まれた作品の本質はロマン的であり、そこに集まったのは事情通だったが、制度としての「シュ−ベルティア−デ」はビ−ダ−マイヤ−現象である。そして唯一まぎれもなくロマン的な制度である「ダヴィド同盟」が、シュ−マンの空想のなかにしか存在しなかったのは象徴的である。

 反対に音楽のビ−ダ−マイヤ−の特徴は、一方で作曲技術が既存の制度へ親密に寄り添っていることであり、他方で音楽美学上の野心が奇妙なほど欠けていることである(「良い音楽家」として「書法」を信頼していたにしても)。あるいはより正確に言うと、リ−トの夕べ、ジングアカデミ−、音楽祭などの制度と内的、外的に結びついて成立した音楽作品(シュポアやフリ−ドリヒ・シュナイダ−、レ−ヴェのオラトリオ、ジルヒァ−の合唱曲)をひとつの概念、具体的には音楽のビ−ダ−マイヤ−という概念のもとに総括することは、−様式の統一を話題にすることはできないにしても(シュナイダ−やジルヒァ−と、シュポアやロルツィングの間に様式的な共通点はほとんどない)−有意義であるように思われる。一九世紀の「様式の解体」(それは「デカダンス」と嘆かれたり、支配者の様式とみなされる支配的様式の正統性からの「解放」と讃えられたりした)を踏まえると、音楽史記述が様式概念以外のものに基礎づけられねばならない(様式概念は強引な押しつけになるか、さもなければ、「時代の精神」に対応する作曲技術という本来の意味が切り刻まれて傷つけられることになるだろう)。そしてエポックを特徴づける制度からの距離(あるいは起源が古い制度の特徴的な変形)が二つの事実グル−プを区別するメルクマ−ルになっていることを示すことができたとすれば−しかもそれが別の基準と合致するかぎりで本質的なものであったとすれば−、分類概念を刻印して、音楽のビ−ダ−マイヤ−を同時代の音楽のロマン主義に対立する現象として話題にすることが、−作曲技術のうえで精密に測定できる様式ではないにもかかわらず−方法論的に正当化されるだろう。

 哲学へ背を向けること(いつも文学へ背を向けたわけではないが)が第二に区別メルクマ−ルだが、これは手紙、自伝、ジャ−ナリズムでの発言などから「ビ−ダ−マイヤ−の音楽美学」を組み立てる作業を排除するものではない(しかもそうした音楽美学は、「哲学者美学」を嫌っていたヘルマン・クレッチマ−から、「音楽家美学」として祝福されたかもしれない)。しかし決定的な違いは、ビ−ダ−マイヤ−の音楽美学がヒントを手がかりにして構成ないし再構成されねばならないのに対して、ロマン的美学は音楽史の事実として白日の下にあり、ロマン的な作品とほとんど同じくらい歴史に作用した事実だったことである。

 このように、音楽のロマン主義は第一義的に思想・作曲史に規定され、一方の音楽のビ−ダ−マイヤ−は制度・作曲史に規定される。(ロマン的)理念の体系と(非ロマン的)制度の体系の間には、王政復古時代に亀裂が走る。制度は支配的な理念の担い手でなく、理念は既存の制度の機能ではない。

 思想史と作曲史が−時代精神の命のもとに−いつも切れ目なく同調しているというのは精神史の先入観であり、音楽の現実の要請というより、むしろ方法論上の要請に基礎づけられていた。偏見なく考察すると、ロマン的音楽美学を支える理念は、歴史家のコンセンサス(いつも満場一致というわけではないが)によってロマン主義の代表とされた作品の傍らに、自立した存在を主張していた面がある。グスタフ・ベッキングは、ヴァッケンロ−ダ−とティ−クのロマン的音楽美学がウェ−バ−とシュ−ベルトのロマン的音楽より数十年早く成立し、思想史と作曲史が乖離しているという事実−実践の優先を確信する時代のプラグマティストなら逆説と考えるような事実−を否定ないし隠蔽しようとした。彼は、ヴァッケンロ−ダ−とティ−クと同時代(ということはベ−ト−ヴェンの同時代でもあるのだが)のロマン的作曲家を話題にして、そこにE・T・A・ホフマンやルイ・フェルディナント皇太子を数えた。だが、端的に言うと、この命題の根拠づけが既に矛盾している。ベッキングは、ホフマンとルイ・フェルディナント皇太子の音楽作品ではなく、音楽が発散する体験にロマン的性格−「精霊の王国」の予感−を付与するだけなのだから。「精霊の王国のための現実的表現はどこにもない。それはただ≪考えられる≫だけであり、人はそれを自由に聴き取らねばならない。」ホフマンは様式について鷹揚であり、非ロマン的な音楽−パレストリ−ナ、バッハ、モ−ツァルトの作品−も、熱狂的にロマン的「ジニスタン」へ引き入れた。ロマン的な予感のきっかけとして、ホフマンの非ロマン的作曲は別の非ロマン的作品と並立する。そしてホフマンが作曲家だからといって、ロマン主義とはみなしがたい様式の作品をロマン主義へ数え入れ、他方で、モ−ツァルトの音楽(ホフマンはそれをロマン的に−「無限の憧憬」の表現として−聴いた)にロマン主義のレッテルを貼ることに反対するのは、筋が通らない。作曲家の意図を唯一絶対の美的審級とみなすのでないかぎり、ベッキングの命題−それによって時代精神の統一が救済されるはずであった−は根拠薄弱である。そして思想史と作曲史をロマン主義において部分的に互いに独立させることは不可避的である。

 ロマン主義者の「第二」、「第三」世代へ分類されるウェ−バ−とシュ−ベルト、シュ−マンとメンデルスゾ−ンにおいてようやく、ベッキングによると、ロマン主義が音楽そのものへ−作曲された組み立てとして−「実現」され、「聞き取られる」だけの状態を脱する。(ワ−グナ−は、メンデルスゾ−ンやシュ−マンとほぼ同じ世代だが、ベッキングが音楽のロマン主義と考えるものを踏み越える。一八三〇年代、四〇年代のドイツ音楽が第一義的にメンデルスゾ−ンとシュ−マンに刻印され、一八五〇年代、六〇年代がリストとワ−グナ−に刻印されたという事実、つまりワ−グナ−とリストがシュ−マンとメンデルスゾ−ンとは別のエポックへ属するという事実は、ベッキングの世代図式とねじれた関係にある。)

 作曲史のロマン主義概念は、思想史のそれと同調しない(だからといって、思想史が作曲史ほど音楽史に関与しないということではないが)。そしてよく似た視点の乖離は、音楽のビ−ダ−マイヤ−を記述しようとするときにも浮上する。作曲史と制度史の密接な結合が音楽のビ−ダ−マイヤ−の本質だが、両者がいつも完全に同調していると期待するのは、音楽史への間違った要請を含む。音楽史の現実は単純な定式へまとまらない。

 王政復古時代の音楽クラブとリ−トの夕べ、ジングアカデミ−と音楽祭をためらいなく「ビ−ダ−マイヤ−制度」と呼ぶことはできない。ベルリン、ライプチヒ、ドレスデンのジングアカデミ−の成立年代は一八一五年以前である。そしてヘンデルのオラトリオの上演を中心とする音楽祭は、一七八〇年代ロンドンのヘンデル記念祭という先例に基礎づけられた。また、王政復古時代の制度は、一八四八年以後にも−表面上では衰退することなく−持続した。しかしそれでも、ビ−ダ−マイヤ−時代の特徴は、第一に音楽クラブの急速な普及(およそ多くの現象の起源は思想史、社会史においてむしろ予見にとどまり、現実への浸透と受容上の根拠こそが歴史的特徴づけの決定的モメントである)、そして第二に制度への狭い意味での市民的刻印である。王政復古時代のドイツの音楽文化を−過去の遺物である宮廷劇場と並んで−支えたのは、なによりも市民クラブであり、二〇世紀におけるような興業主(既に存在はしていたが)と国家機関ではなかった。

 作曲家はもはや依頼主(作曲家は経済的、社会的強制や精神的従属関係のために、彼らの影響を受け入れていた)へ依存せず、他方でしかし、匿名の公衆(彼らは均質に−拍手と切符の売れ行きによっていわゆる「統計的に」−反応するか、あるいはジャ−ナリズムへ「翻訳」されて反応する)だけに対面したのでもない。むしろ王政復古時代の市民制度−そこでは資金提供者の影響が優先された−は、歴史的に一方の貴族文化(世紀初頭のベ−ト−ヴェンを支えたような)と他方の近代大衆文化(公衆が古いもの好きや新しいもの好きといった特殊な聴取者層へ分解しても、匿名性というその基本性格は変わらない)を媒介した。

 市民的に刻印された音楽クラブは、言うまでもないことだが、一方で王政復古時代より古く、他方で世紀半ばを越えて生き延びた。それは貴族文化の陰で生まれ(多くの音楽史家は、共和主義に共感して初期形態を誇大視する)、二〇世紀に社会的に普及する。だが、ビ−ダ−マイヤ−時代においてのみ、音楽史を代表した。それは、第一に作曲史的に、シュポアやメンデルスゾ−ンのオラトリオといった重要な音楽作品が指向する審級であり、第二に社会史的に、宮廷劇場と並んで一級の音楽文化の担い手であり、第三に精神史的に、時代の支配的傾向の制度的表現であった。とりわけ愛国的共和主義は、まだ政党へ組織されず、クラブへ組織化されていたわけで、こうしたクラブでは、音楽が決して周縁的ではない役割を与えられた。

 ほとんど概観することのできないほとの無数の現象から理想型を構成すると、音楽クラブの特徴は仲間内の文化、教養機能、市民の代表具現性、三者が相互一体になっていることだといえるだろう。仲間内的な性格は、−付録であるにせよ、(納得ずくだったりそうでなかったりするが)主要事であるにせよ−音楽の傍らにあるのでなく、音楽内的なことだとみなされる。合唱クラブではそれが明白であり、交響曲演奏会では潜在的であった(語の近代的な意味での交響曲演奏会はまだ存在しない)。交響曲演奏会における「寄せ集め」、つまり交響曲楽章、オペラ断片、ヴィルトゥオ−ゾ的だったり感情豊かだったりする独奏曲を「寄せ集めた」プログラムはほぼ世紀半ばまで主流だったわけで、そこではまだ、教養機能と娯楽機能が分離されなかった。そして両者が移行しあうことは、ビ−ダ−マイヤ−時代に実践された市民の仲間内的な性格の特徴であった。世紀後半になってようやく−そして転換は演奏会という制度の機能変化に他ならない−、寄せ集めプログラムの演奏会が、一方の要求の高い交響曲演奏会と、他方の娯楽演奏会という両極へ分離した(ただしそれらが別の公衆へ規定される必要はなく、音楽が別の機能を果たしているにすぎない)。人工音楽と通俗音楽は、敏感な美的感情にとっては一致させがたい対立へ分裂した。

 代表具現性のモメントは、ベルリンの富裕市民の音楽文化においては、つまりメンデルスゾ−ン家の「日曜演奏会」のような私的演奏会を組織した「市民貴族」においては明白だが、どうしても顕在化せねばならなかったわけではない。教養を仲間内的な性格において保ち、仲間内的な性格が代表具現性へ到達し、代表具現性が教養によって支えられる、三者のこうした均衡は困難であり、それが成功したのは、市民の歴史における最も幸福な瞬間であった。

 大規模な音楽祭、とりわけ一八一七年以来のニ−ダ−ハイム音楽祭は、もうひとつの同じくらい重要な代表具現性に刻印された。ヘンデルのオラトリオとベ−ト−ヴェンの交響曲がプログラムの支柱であり、それは聴き手と演奏者(両者の境界は流動的であった)の意識において次のような機能を果たした。すなわち第一に音楽の権威や精神的な地位を音楽の別の概念(「あきらかに文化というより娯楽だ」というカントの侮蔑的定式で言語化されたような)と媒介し、第二に連帯性を音でとらえることである。王政復古時代のドイツ市民には、連帯性の別の公的表現がなかった。熱狂は政治的色調を帯びていた。

 仲間内的な性格、教養機能、市民の代表具現性、ビ−ダ−マイヤ−時代の音楽制度を特徴づける三者の関係は、世紀半ば以後、次第に希薄になった。仲間内的な性格は合唱へ通俗化し(教養機能の消失)、資金援助者は音楽クラブから撤退して、政治的モメントは音楽以外の形態へ移行することで削ぎ落とされ(代表具現性の損傷)、演奏会聴衆は匿名の大衆的公衆へ変貌した(仲間内的な性格の崩壊)。ビ−ダ−マイヤ−時代には移行しあっていた私的音楽文化と公的音楽文化が、次第に峻別された(周縁的なサ−クルにおいてのみ、従来の代表具現に似たものが死んだ過去の遺物として生き延びた)。テオド−ル・ビルロ−トによるウィ−ンの家庭演奏会はメンデルスゾ−ンの「日曜演奏会」の仲間内的な様式を思わせるが、これは一九世紀後半におけるビ−ダ−マイヤ−文化の名残であった。(演奏会場の作りが大きいことは、時代の典型であった。)

 音楽のビ−ダ−マイヤ−では、一方の市民的に刻印された制度と、他方の非ロマン的な若干の作曲傾向が密接に結びついていたことが明らかである。だが、制度へ適応することが低級な作曲水準とピッタリ重なり、音楽のビ−ダ−マイヤ−が低級な作品の総称としてロマン主義から区別されているわけではなく、しかもこのように主張しようとするときの感情を概念でつかむのは難しい。(ただし他方で、様式を比較して記述すれば美的判断を回避することができると思うのは幻想である。)

 エルンスト・ビュッケンの様式批判は、−ロマン主義概念と対立するカテゴリ−を求めて−音楽の「現実主義」を語った。しかし彼がシュポアとレ−ヴェを例として記述ないし素描したのは、むしろ一方で生活形態(「醒めた実践」に規定される)であり、他方で(「現実主義」が様式概念を意図したことと反するが)美的地位である。ビュッケンはシュポアの第一交響曲(一八一一)のラルゲットを「ビ−ダ−感覚」と描写するのだが(彼はベ−ト−ヴェンの第五交響曲の主題と比較する)、これは悪しき通俗性を隠蔽する語である。公衆がたやすく把握できるような息の短い「求積法的」フレ−ズを作曲家が書くときには、なるほどそれを「現実主義的」と呼べるかもしれないが、明晰なものへ「現実主義的」に自己規制した結果、シュポアの当該の譜例は、音楽様式として、「現実主義」ではなくハイドンに依存するエピゴ−ネンとなり、謙虚さが貧困へ転落している。ビュッケンの語用法には論理的粉飾が隠れている。「現実主義」という言い回しは、処世術を名指すために利用されている。ところが、この語は別の文脈で−ムソルグスキ−やヤナ−チェクに関して−様式を形容するので、シュポアにおいても「現実主義」(日々の要請の意味での)が音楽様式であるかのような錯覚が生じる。ビ−ダ−マイヤ−がロマン主義へ原理的かつ美学的に従属していることは、「現実主義」という(見せかけの)様式概念を刻印することで避けられるものではなく、やはりビ−ダ−マイヤ−の基盤である。

 音楽のビ−ダ−マイヤ−において作曲史が制度体系に依存しているというのは、−ビュッケンもそれを考えたのだが、現実主義というカテゴリ−を歪曲することに問題があった−「様式」ととらえられるのでなく、人工音楽が機能的に規定される状態(通常の人工音楽の機能規定は依然として自明であった)から美的に自律する状態へ至る歴史的発展の一段階と把握されるべきであろう。それは、一八世紀まで支配的であった従来の原理(それによると、機能性と芸術要求は相互に排除しあうのでなく支えあう)と、ロマン的な原理(芸術のための芸術という宣言がそこから導いた極端な格言によると、音楽作品の芸術性格はそれ自身の自律性と完結性、つまりカントの言う「目的を欠いた合目的性」を前提し、音楽外の出来事や行為へ依存する礼拝音楽や舞踏音楽などの機能的な音楽は通俗へ堕落する傾向にある)の間の移行形式である。

 音楽祭のために作曲された宗教的オラトリオは教会音楽ではなく演奏会音楽へ属し、機能芸術ではなく自律芸術であると思われている。だが、演奏会場が教会へ変貌するという感情(それはメンデルスゾ−ンがマタイ受難曲の上演でとらわれた感情であった)と王政復古時代の教養人を支配する確信、つまり礼拝行為にではなく宗教的な気分にキリスト教の実体が保たれているという確信は、一九世紀の概念にもとづいて教会音楽と呼ばれ得るはずのもの(歴史家は、二〇世紀の神学の規範の名のもとでそれを先験的に拒絶してはなるまい)の境界を流動的にする。シュナイダ−の《世界の審判》とメンデルスゾ−ンの《パウロ》が機能音楽へ数えられるべきだというのではない。しかし、仲間内的な性格・代表具現・娯楽という機能を捨象した近代演奏会制度へ思想史的に対応するような美的自律を話題にするのは難しい。

 対極にある一連の音楽制度と音楽ジャンル、つまり世俗性の総概念であるサロンとサロン曲についても、音楽祭と宗教的オラトリオとよく似たことが言える。サロン音楽に関して美的自律−音楽作品を鳴り響く思考の歩みと把握する忘我の瞑想−を語るなどというのは、「割にまともな」サロン音楽(フリ−ドリヒ・ヴィ−ク)に関してであっても、「芸術宗教」というカテゴリ−の水増しであろう。だが他方で、サロン曲が目指す代表具現性と娯楽性の「機能」は、壮麗さで力を誇示して「代表具現的公開性」をひけらかす礼拝行為や祝典行進における音楽伴奏の「機能」とは明らかに意味が違う。貴族のサロンを反映した市民サロンにおける美的教養の展示場としての代表具現や(「割にまともな」サロン音楽は「教養あるディレッタント」に規定された)、演奏会の態度を真似た娯楽は、亀裂なく機能的なわけではない。むしろ、教養理念が美的自律と精神的に対応し、「理想型」としての演奏会が美的自律と制度的に対応するかぎりにおいて、ここで問題になるのは、自律音楽の部分モメントへ依存した機能音楽である(そして自律音楽を部分的に模倣しているので−模倣が最も明白なのは喫茶店音楽である−、機能音楽だといえども、その擁護者が避けようとする美的判断に従属する)。

 このように機能性と美的自律を(人工音楽の領域内において)媒介するような制度とジャンルが王政復古時代を特徴づけるわけだが、これだけでは、音楽のビ−ダ−マイヤ−の概念を特徴づけたのでなく、同時代の音楽のロマン主義が「従属」したのと同じ条件をただ名指しただけではないか、との批判があるかもしれない。だが決定的なのは、音楽のロマン主義が制度の体系に「従属」しなかったことである(制度を変更するわけではないが)。音楽のロマン主義の目印は、−シュ−ベルトにおいて語られないが明白に感じられ、シュ−マンとワ−グナ−はあからさまに批判的であり、しばしばビ−ダ−マイヤ−へ傾斜するメンデルスゾ−ンの意識は分裂していたのだが−支配的な制度と思考法への対立である。支配的な制度と思考法は「単なる中道」(シュ−マン)であり、ロマン的音楽の理念−「それ自身で孤立した世界」、ホフマンのジニスタンの「美的真理」を分有すること−が適切に受容され、亀裂なく実現することを妨げる。反対に音楽のビ−ダ−マイヤ−は所与のものに適応する。ただし適応といっても、そのことで−ロマン的な宣言が主張するように−作品の美的価値が削ぎ落とされるわけではない。シュポアとシュナイダ−、レ−ヴェとロルツィングは、−「現実の原則」を損傷や妥協として拒絶するのではなく−音楽制度の既存の体系のために、制度が刻印した一般の音楽意識の限界内で作曲した。(メンデルスゾ−ンの振舞いは分裂していた。彼は出版する作品−つまりロマン的で強調的な意味での「作品」、「テクスト」と認可した曲−と、演奏したが出版させなかった曲を区別した。そして彼が後者の出版をためらったり、−男性合唱の場合のように−出版社の求めに抵抗しつつ応じたことについて、彼が作品へ「ビ−ダ−マイヤ−的に関与した」と言ってもいいだろう。ただしこれは、作曲技術的に規定できる様式の意味ではなく、音楽への態度の意味においてである。)

 音楽のビ−ダ−マイヤ−は極端に多様な書法の作曲家を包摂しており、「様式」−内的に結びついたメルクマ−ルの複合体−としてはほとんど規定不可能なのだが、それでもビ−ダ−マイヤ−をロマン主義から区別する若干の一般特徴を名指すことができる。そしてこれらの特徴は、既存の制度や音楽意識への親和性と直接関連している。

 第一に、音楽のペリオ−デ構造はビ−ダ−マイヤ−においてロマン主義におけるよりも規則的であり、古典におけるよりも図式的である。古典の音楽シンタクスは−シンメトリ−原理にもかかわらず−トラシビュロス・ゲオルギア−デスによると「非連続性」へ傾いており、そうした「非求積法的」構造は、「求積法」の規範からの例外(フ−ゴ・リ−マンは、それを簡単な構図の人工的仕上げと解釈した)としてではなく、固有の美的、作曲技術的な権利をもつ形象と理解されるべきである。一方、音楽のビ−ダ−マイヤ−ではシンタクスの規則性への依存が、単純さをジャンルのメルクマ−ルとする変奏チクルスや「小品」、ジングシュピ−ル、「民衆のト−ンのリ−ト」におけるだけでなく、交響曲とオラトリオにも認められる。「高い」様式を代表するジャンルにまで、もともと「中程の」ジャンルや「低い」ジャンルの特徴であったシンタクスが侵入する。

 第二に、音楽のビ−ダ−マイヤ−では大きなスパンの和声、つまり調の輪郭がほとんどいつも図式的である。およそ細部においてのみ、異例なものへ踏み込む(同じようなことは、対極にあるものの奇妙な共鳴というべきだが、王政復古時代のイタリアオペラにもあてはまる)。シュポアの半音階法は−表出的と誉められたり貶されたりするが−瞬間の作用へ尽きており、シュ−ベルトの長いスパンの−聴き手には見通しがたく、その意味で「非現実的な」−構想とは原理的に違う。シュ−ベルトの構想では、調性が半音階と異名同音の実験によって分光する。

 第三に、ロマン主義者は−ウェ−バ−の場合には若い頃の抵抗のあとからだが−「ベ−ト−ヴェン主義者」である。初期ベ−ト−ヴェンを信奉するだけでなく、とりわけベ−ト−ヴェンの後期作品を信奉し、後期作品は、一八三〇年前後にシュ−マンにとってもメンデルスゾ−ンにとっても(弦楽四重奏曲作品一二、一三)作曲の刺激になった。反対にビ−ダ−マイヤ−の作曲家たちは−シュポアもロルツィングとニコライも−モ−ツァルトと結びつき、−謙虚な距離を保ちつつ−その後継者であろうとする。そして考え方の違いは、様式の差だけでなく、とりわけ音楽伝統への態度をめぐる格言の深刻な対立を意味した。

 モ−ツァルトは王政復古時代の音楽史意識において古典を代表し、「時代を越えた」範例であり、死んだ過去のただのエポック様式ではないと感じられた。古典の個々の作曲技術のメルクマ−ルが、美的損失なく模倣できたわけではない(ビ−ダ−マイヤ−は一九世紀前半のモ−ツァルト・エピゴ−ネンと同じではない)。だが作曲家は、貧しい様式複写へ陥ることなく、「高貴な単純さ」という美的理念を堅持し、モ−ツァルトの作品におけるその完全な刻印と実現を称賛した。一方、ベ−ト−ヴェンは「ロマン主義者」、「独創的天才」とみなされ、あとに生まれた作曲家は−正統なベ−ト−ヴェン主義者であろうとすれば−彼を模倣してはならず、反対に、いつも新しく独自なことを言う努力を継承せねばならなかった。ベ−ト−ヴェンは、様式よりも美的倫理を代表しており、手本から独立することの手本であった。音楽のビ−ダ−マイヤ−の特徴は第一義的にモ−ツァルト崇拝であり、−エピゴ−ネン性へ抵抗したうえで−古典主義へ、すなわち歴史を越えた古典的な美的理念を別の音楽言語で新たに形成することへ傾斜した。シュポアは、いわば別の言葉でモ−ツァルトと同じことを言おうとした。ところがロマン主義は、−留保がないわけではないが−「天才時代」の美的規範である独創性の要求と同化した。ただし、シュ−マンのバッハ信奉は分裂している。一方でシュ−マンは、現在の「ただの中道」に優越する「ポエジ−的」な過去へ沈潜することで「新しいポエジ−時代」を呼び出そうとした。バッハ研究は、ベ−ト−ヴェン研究のように、独創的になるためのきっかけであり、自分のために利用された。他方で彼は、様式復興こそ目指さなかったものの(バッハ受容が外面的で重要でない副次作品はそのかぎりではないが)、バッハの理念−厳格であることによって表出性を失うのではなく、形態が豊かで極端に対位法的であることで「ポエジ−的」になる楽曲という理念−を別の音楽言語へ転用しようとした。

 ロマン主義という言い回しは一九世紀初頭には−古典という言い回しと同じように −様式や趣味の方向を示すだけでなく、同時に美的地位を示していた。歴史記述的モメントと美的規範のモメントの混濁が古典概念の特徴だが(そして混濁を解消するのは明晰化だが、削ぎ落としてもある)、ロマン主義概念でも、違うのは次のことだけである。すなわちロマン的なものは、模倣の手本や従属すべき規範ではなく、作品が分有したり排除される理念や空間として現れる。「ロマン的な趣味は稀だが、ロマン的才能はさらに少ない。だから、無限なるものの不可思議な王国を開くリラを爪弾くことのできる才能はほとんど存在しないのである。」E・T・A・ホフマンは、ベ−ト−ヴェンの第五交響曲論でこのように書いている。ロマン的なものという美的カテゴリ−は、ホフマンにおいて−フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルやヘ−ゲルの美学などにおけるほどではないが−歴史哲学の色調を帯びている。音楽のロマン主義では「芸術においてのみ認識されるべき特有の本質が純粋に語る」のだが、こうした音楽のロマン主義は、一八〇〇年前後の器楽でようやく達成された遅い発展段階である。古典概念におけるように、ロマン主義概念では、芸術特有の本質の顕現という美的イメ−ジが、エポック様式という歴史的イメ−ジ、および芸術の発展段階における頂点という歴史哲学的イメ−ジと結びつく。そして古典とロマン主義では、モ−ツァルトととりわけベ−ト−ヴェンという同じ作曲家が想定されている。決定的な違いは−そのことでベ−ト−ヴェンという概念とベ−ト−ヴェン主義者(のちの語用法では「ロマン主義者」)という概念を限定することができるようになるのだが−、一方で、書法の古典的「多様性」を空間−ホフマンのジニスタン−のロマン的「分有」へ読み換えることであり、他方で、「完成」という古典的理念と「無限性」というロマン的理念の対立である。

 こうしてロマン主義概念はもともと美的に肯定的に強調されるのだが、ビ−ダ−マイヤ−概念は、音楽史家の日常語において否定的な色調を帯びる。ワルタ−・ニ−マンにとって「ビ−ダ−マイヤ−」が「傍流ロマン主義者」の同義語であることは、明らかに判断を含んでおり、ハンス・ヨアヒム・モ−ザ−は、−感情的に共感しつつ見下して−「ビ−ダ−マイヤ−の小さな大家」を語ったとき、音楽のビ−ダ−マイヤ−の特徴は「群小作家異」に代表されることだと考えている。だが、明らかなことだが、ロマン主義とビ−ダ−マイヤ−の違いを美的な地位の差と規定することが回避され、しかもそれを一般的というより特殊的に根拠づけられるべきである。つまりこうした試みが求められるのは、ビ−ダ−マイヤ−が狭義の「様式」であり、様式は原理的に美的な価値考量を認めないからという一般的な理由からである以上に、特殊例として、ビ−ダ−マイヤ−をロマン主義の判断基準(独創性理念と自律思想)に従属させる手続きの正当性が明瞭に確定されないからである。

 フリ−ドリヒ・ブル−メは一九世紀に関する「天才性とエピゴ−ネン性」の対置を「見せかけの対立項」と批判した。それは、非独創的な音楽に対する歴史家にあるまじき尊大だからである。時代が必要とする音楽は、どれもそれだけで美的に正当である。だが、ブル−メの議論は、適切であるためには歴史的に細分化されねばならない。なるほど一七世紀や一八世紀前半には−つまりブル−メに依拠するとバロック時代には−、手本へ依存することが非難されるべきエピゴ−ネン性ではなく、称賛されるべき敬意であった。しかし二〇世紀には、あきらかに事態が逆転する。非独創性や中庸は、新音楽において−美学においても実践においても−余計なことだったといっても誇張ではない。

 一九世紀前半は、因習的なものとエピゴ−ネン的なものに関して、分裂した移行時代であったように思われる。王政復古時代の特徴は、一方で音楽をめぐる文献において−哲学的文献や文学的文献におけるだけでなくジャ−ナリズムにおいても−独創性と美的自律というロマン的イメ−ジがほとんど隙間なく浸透しており、他方で音楽実践では、非独創的なものや音楽外的機能の充足が一片の正当性を保っており、それが一世紀続いた。「楽長音楽」は、もはや称号ではなかったが、とりあえずまだ蔑称でもなかった。思想史ではロマン主義が支配的だったが、作曲史と制度史の日常では、音楽のビ−ダ−マイヤ−が軽侮すべからざる位置を占めていた。

 芸術と非芸術、「詩的」音楽と「散文的」音楽(シュ−マン)を厳密に区別することを目指すロマン的批評はビ−ダ−マイヤ−の音楽現象を正当に扱えないのだが、このことは「ト−ン」あるいは「美の多種性」の修辞学にもとづく作品をめぐる判断の断層に現れている。ひとつの「ト−ン」−「素朴的」、「感傷的」、「パトス的」、「優美的」など−はビ−ダ−マイヤ−において(「天才時代」の「体験美学」以前の数十年ないし数百年におけるのと同じように)、文学者ないし作曲家が人工的に選択する書法と考えられており、彼が止むに止まれず内発的に感じる表出形式ではなかった。リ−トやピアノ曲を「民衆のト−ン」あるいは「サロンのト−ン」に保つことは、作曲家の感情や性向の告白のの封じ込めではなく、単に彼がその「ト−ン」(そこには音楽のメルクマ−ルと連想や気分が混濁している)を打ち鳴らそうとしたことを意味するだけである。独創性の基準−作曲家が固有で非因習的なことを言うべきだ、という要請−は「ト−ン」の修辞学とねじれた位置にある。そして「不純さ」を話題にすることはできない。「純粋さ」−作曲家自身の虚飾なき表出−は意図されていないからである。(「ト−ンの交替」、つまりパトスから民衆のト−ンへ、ああるいは素朴さから会話のト−ンへ移行することは、美的、倫理的な性格が希薄なのではなく、芸術原理である。)

 ドイツの一八二〇年から一八三六年(メンデルスゾ−ンの《パウロ》の年)までのドイツの代表的オラトリオであるフリ−ドリヒ・シュナイダ−の《世界の審判》は、マルティン・ゲックがフェルディナント・ハントの『音芸術の美学』へ依拠して示したように、「ト−ンの交替」の原理へもとづいている。作品の形式は、巧みな計算に規定されて崇高、パトス、不可思議、恐怖、優美、優美をコントラスト体系で対立させる。「美の多種性」の美学はシュナイダ−によって−意識的であれ無意識的であれ−いわば「作曲され尽くして」いる。

 ゲックは独創性理念の対抗原理である「ト−ン」の修辞学を《世界の審判》に発見したが、他方でロマン的美学の基準に支えられて、シュナイダ−を表出的に内面から作曲しない単なる「感情刺激の編集者」と批判した。「美の多種性」を「作曲し尽くすこと」は、遅生まれのロマン主義者にしてみれば「不純」であり、様式伝統への依存は「通俗的」と思われた。「《世界の審判》は祝祭的通俗音楽の黄昏である」。シュナイダ−が弁護されべきだというのではない。反論したいのはただ一点、ビ−ダ−マイヤ−の「ト−ン」修辞学へもとづく作品を、ロマン的な「純粋さ」と「不純さ」の区別に依拠して判断する手続きである。ゲックは適切かもしれないが、根拠が非歴史的である。

 音楽のビ−ダ−マイヤ−はロマン主義の陰にある。「ト−ン」修辞学は忘れられ、作曲が音楽祭、ジングアカデミ−、リ−トの夕べ−サロンは言うまでもない−などの市民的な制度と親和していたことが通俗の疑念にさらされ、美的自律と機能性の間の移行時代は−この中間形式の精神的基盤である感情宗教や、市民の代表具現・教養への意欲・仲間内的な性格の媒介とともに−後世の者たちから「悪しき一九世紀」と感じられ、拒絶された。音楽文化という地下室の上部に理念や作品として持続したのは、ロマン主義起源のものであった。だから振り返ると王政復古時代が音楽のロマン主義の時代と思えるのだが、当時の人々に見えた現実の一九世紀前半は、むしろ音楽のビ−ダ−マイヤ−のエポックであった。


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