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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

「言葉のないリ−ト(無言歌)」

 形式と内容、現象と意味が「一致」あるいは「相互一体化」あるいは「相互浸透」すべきだというのは、古典的・ロマン的美学(バロックと現代へ挟まれた)の基本的な格言である。この格言を普遍的な原理として一般化してはならないが、一七七〇年から一九世紀半ばまでのエポックにこの格言が妥当したことは間違いない。そして感情が音楽の内容あるいは意味だという前提が時代の常識であったかぎりにおいて、感情美学が芸術作品としての(ただの刺激構造ではない)音楽の美学を目指す場合の難関は、形式と内容の弁証法の方法論的な基準をクリア−することであった。

 冷酷なリアリズムへ陥らないのであれば、感情美学をめぐる議論が次の前提から出発してもいいだろう。すなわち、音楽によって表出ないし提示された感情は、音楽の表現形式や提示形式の「外側」や「前」に予め「与えられている」のではなく、音楽「において」はじめて「存在」する。しかし他方で、もっぱら音楽「を通じて」存在する感情を問題にするのだという主張は、正反対の方向へ引き裂かれて混乱する。音楽で提示された感情は、提示された以外のやりかたで「把握」できない。表現が感情を「指し示す」のではなく、感情を「現前」させる。ところがそれにもかかわらず、「鳴り響く感情」(フリ−ドリヒ・テオド−ル・フィッシャ−)では、現象と意味の「一致」が無媒介に与えられるのでなく、媒介の結果として生まれる。

 形式と内容の弁証法は、ヘ−ゲルによって決定的に定式化された。『論理学』によると、「内容と形式がまったく同一であるものだけが真の芸術作品である。」だが同一性は弁証法的に生まれる。「内容と形式の絶対的な関係」は「両者の相互転換」において成り立つ。「内容は、形式が内容へ転換したものに他ならず、形式は、内容が形式へ転換したものに他ならない。」

 ただし弁証法は、要求を掲げるだけの美学における潤いのない輪郭で終わらないためには具体化されねばならない。そして内容から形式への「移行」やその逆という命題を理解するためには、一八世紀末から一九世紀半ば−ヨハン・ニコラウス・フォルケルからフリ−ドリヒ・テオド−ル・フィッシャ−まで−の音楽美学において、連続的な問題史を構成してはいないにしても中心的な主題であったひとつの問題、音楽で表出された感情が「特定される」か、「特定されない」か、という問いから出発すべきであるように思われる。

 この問いが切実かつ重要だったのは、音楽作品の芸術性格が、もはや啓蒙時代におけるような一般的規範や手本を指向することにではなく、一回的な個性と独創性に求められたからである。すなわち音楽作品の実体とみなされていた感情が特定されるときにも、特殊かつ一回的なものに特定されねばならず、一般的なもの(たとえば名指しうるアフェクト)に特定されてはならなかった。「美しい」芸術の作品の意義や意味は、美的現象形式の彼岸の理念にあるのではなく、理念を個別的形象としての作品へ実現することにある、このことは、遅くともカントの『判断力批判』(一七九〇)以来確実とされていた。(ヘ−ゲルは美を「理念の感覚的現前」と定義したが、「理念」を「感覚的現前」と区別して把握できるのかよくわからないので、この定義も古典的芸術概念を越えている。)

 フェリクス・メンデルスゾ−ンは言語を信頼しておらず、華麗な文筆家だったのに音楽を決して言葉にすることがなかった。そして「言葉を欠いたリ−ト(無言歌)」というタイトル−タイトルの歴史における「発見」のひとつ−が意味しているのは、ピアノのリ−トが歌われたリ−トのただの影だというのではなく、逆に「言葉を欠いたリ−ト」こそ「本来の」リ−トだということである。マルク・アンドレ・スシェイへ宛てたメンデルスゾ−ンの一八四二年一〇月一五日の手紙は、しばしば引用されるが、ほとんどまともに解釈されたことがない。「世間では、音楽が多義的だと常日頃から言われます。音楽は何を考えているのかよくわからないが、言葉は万人に理解できる、というわけです。でも私は逆だと思います。話全体ではなく、ひとつひとつの言葉を取り出したとしても、正しい音楽に比べると、言葉は多義的で特定されず、誤解されやすいのではないでしょうか。正しい音楽は、言葉よりも数千倍すぐれたもので魂を満たします。音楽−私の愛する音楽−は言葉で特定されない考えを話すのではなくて、特定されたことを話します。音楽によるこのような考えを言葉で話そうとするとどうしても不満が残るのですが、音楽だと上手くいきます。そしてこれは、考えのせいではなく、言葉のせいです。言葉ではこれが精一杯なのです。この曲[《無言歌》の数曲]で何を考えたかと尋ねられても、私は、あるがままのリ−トですと答えるでしょう。どれか一曲について特定の言葉を思いついたとしても、私はそれを他人に話したくありません。言葉の意味は人それぞれに受け取り方が違うからです。リ−トだけがすべての人に同じことを語り、同じ感情を呼び覚ますことができます。でもこの感情を言葉で話すことはできないのです。」

 メンデルスゾ−ンがまず「考え」を語り、次に「感情」を語っていることに惑わされてはいけない。「考え」はあきらかにイメ−ジを意味しており、その対象はなによりも感情だからである。常に美学の精髄と思われてきたこの手紙の驚くべき本質は、むしろメンデルスゾ−ンが「特定されない」感情という概念(通俗美学の中心的なカテゴリ−)に、音楽(絶対音楽の手段)で「特定された」感情という理念を敢然と対置したことにある。

 音楽が表出する感情は特定されないのに、そこに音楽作品の美的実体が求められている、エドゥアルト・ハンスリックはこのようなイメ−ジを「悪しき感情美学」批判の攻撃目標にした。そして最終審級において、ハンスリックの議論は隙がなく、反論できないように思われる。音楽が連想させるのは特定されない感情だが、これを話題にすることは、ハンスリックによると、「動的なものとアフェクト」の提示−運動の緩急や強弱の模倣 −のことを言っているかぎり無害である。とはいえ、特定されないものが音楽作品の美的実体になるはずがない。「だが音楽作品における肯定的なもの、創造的なものとな何だろうか? 特定されない感情そのものは内容ではない。芸術が内容を獲得せねばならないとすると、問題は形成されたものである。あらゆる芸術活動は、一般的な理念の個別化、特定されないものから特定されたものを鋳造すること、一般的なものから特殊なものを鋳造することで成り立つ。」したがって美的実体を特定することが作品を支える前提であり、芸術性格への要請として掲げられるとすれば、感情美学は迷路へ陥る。特定された感情として、ハンスリックは概念で特定された感情−名指しうるアフェクト−をイメ−ジすることしかできず、音楽が概念を提示することは原理的に不可能だからである。「音楽が≪特定された言語≫になって概念を反映することなどできるだろうか? 音楽は特定された感情など表出できない、という結論を否定できるだろうか? 感情が特定されるためには、概念が核になる必要があるのではないだろうか?」声楽では言葉が感情の「動的なもの」を明確なアフェクトへ結びつけて、感情を特定できるわけだが、これもハンスリックには有効な批判にならない。「定冠詞つきの」音楽の理論としての美学は、声楽から抽出されないからである。「器楽ができないことを音楽ができると言ってはならない。器楽だけが純粋に絶対的な音芸術だからである。」しかし、感情を言葉で伝えて概念で特定することが「音楽外的」モメントであり、音楽美学の出発点にならないとすると、特定されたもの(音楽作品の芸術性格の条件)は、感情にではなく、音構造に求められねばならない。「音楽におけるこのように理念的なものは音に関するものであり、概念を音へ翻訳したものではない。特定された情念を音楽で描写しようとする意図ではなく、特定された旋律を発明することが跳躍点であり、作曲家のその後の創造の出発点である。」

 メンデルスゾ−ンも、ハンスリックと同じ前提を共有していた。音楽の美的実体は「特定」されねばならないが、感情を概念で「特定」するのは「音楽外的」であり、音楽美学の基礎づけにならない。それにもかかわらず、メンデルスゾ−ンの美学は感情美学である。音構造で特定されることは、ハンスリックによると感情で特定されることと対立するのだが、実際には感情美学の基礎になったり、感情美学と対応する。

 感情(ハンスリックなら感情の「動的なもの」と言うだろうもの)は、音構造によって「形式」をつくるための「質料」であり、音楽は−スコラ哲学流に言うと−「潜在的な」感情を「活性化」する、このような考えは普通でないが、検証可能である。そして感情と音構造の間の関係の特定するために、人は弁証法的な規定へ転じることもできるだろう。ヘ−ゲルによると(メンデルスゾ−ンは彼の講義を聴講していた)、内容が形式へ「反転」するだけでなく、形式も内容へ「反転」する。

 音楽で表出された感情が特定されていれば音楽は特定されている−それは「音楽外的」に予め特定されたものを音楽で模倣しているのではない−というメンデルスゾ−ンの確信は、メンデルスゾ−ンと相容れないはずのリヒァルト・ワ−グナ−においても、フランツ・リストの交響詩に関して反復される。「一方、音楽家は普通の人生の出来事をまったく無視して、その偶然や細部を排除し、そのすべてを具体的な感情内包に従って崇高にする。具体的な感情内包は、音楽においてのみ特定されるのである。」「普通の人生」から抽出された感情内包が「具体的」だという主張は、さしあたり逆説的に思える。しかしワ−グナ−が言いたいのは、メンデルスゾ−ンと驚くほど一致するのだが、概念によることなく、音楽「だけ」で特定できるということである。言葉の言語と音言語をめぐるワ−グナ−の美学は、ニ−チェが見抜いたように、潜在的に(ほとんど文面にあらわれないが)絶対音楽の理念を基礎にしており、ワ−グナ−はショ−ペンハウア−の形而上学を通じて絶対音楽へ帰依した。ショ−ペンハウア−の形而上学は、《トリスタンとイゾルデ》を構想する際の経験と合致したからである。


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