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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

「遥かなる霊の王国の秘密の言葉」−E・T・A・ホフマンの美学における教会音楽とオペラ−

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 ロマン的音楽美学はヴァッケンロ−ダ−とティ−クに基礎づけられて、ホフマンによってジャ−ナリスティックな形式を与えられ、ショ−ペンハウア−により哲学体系に繋留されたわけだが、それは器楽の形而上学、しかも絶対的で非標題的な器楽、つまり概念的に規定されたアフェクトから解放された器楽の形而上学であった。ホフマンはベ−ト−ヴェンの第五交響曲論(一八一〇)で書いている。「独立した芸術としての音楽を話題にするのであれば器楽を考えるべきだろう。器楽は別の芸術のあらゆるヴェ−ル、混入物を削ぎ落とし、音楽にのみ認識されるべき芸術の特有の本質を純粋に語る。音楽はあらゆる芸術のなかで最もロマン的である。−いや、ほとんど音楽だけが純粋にロマン的だと言ってもいいほどである。−オルフェウスの竪琴はオルクスの門を開いた。音楽は人間に未知の王国を開示する。それは外的な感覚世界と何も共有しない。感覚世界は人間を取り巻き、そこでは人間があらゆる概念に規定できる感情に還元してしまう。しかし音楽は、名状しがたいものへ身を委ねる。」

 ただしホフマン美学の中心となる「ロマン的」という概念は、芸術理論の基礎カテゴリ−の常として意味が広く、極めて多様な意味の間に内的関連を見いだすのが不可能なほどである。「遥かなる霊の王国」の「秘密の言葉」として音楽が「我々に鳴り響く」。それは形而上的な魔界あるいはアトランティスなのかもしれないし、その現世を越えた存在を我々はベ−ト−ヴェン交響曲を聴くときに思慕し、「無限の憧憬」に駆り立てられる。だがそのような存在を魔法オペラや妖精オペラの具体的な舞台人物から受け取ることもできる。そして他方でホフマンは、近代器楽のロマン的実質を宗教的だと感じ、パレストリ−ナ様式に真の教会様式を認めたという思いを払拭できなかった。

 後世の人間の特権を行使して問題に巻き込まれるのを避け、確実な歴史的距離を保ったうえで、全くの混乱と言い放つこともできるだろう。しかしホフマンが巻き込まれた矛盾を真摯に受けとめようと試みるのも徒労ではない。これは論理が苦手な夢想家の単なる思考の迷宮ではなく、一世紀の間作用しつづけ、事象そのものに基礎づけられた難題だからである。これは事象から遊離した反省ではない。

 音楽は絶対的で自足する器楽としてのみ「芸術の自らの内に認識される特有の本質を純粋に語っている」というのは、美的自律が語の強調的な意味での芸術性格の条件であることを意味する。「外的形態」を求める音楽は美的実質を削ぎ落としており、一九世紀には「機能音楽」として通俗の烙印を押された。教会音楽とオペラでは少なくとも部分的に音楽の「特有の本質」(器楽が表明するような)が疎外されるので、「形而上的作品」(ニ−チェが《トリスタンとイゾルデ》をこう形容した)としての解釈の可能性と結びついた極端な芸術の要請が脅かされている。しかし他方で絶対器楽の形而上的本質は、教会音楽の宗教的実質やオペラのロマン的性格と親和する。絶対器楽が思慕する「霊の王国」は、最終的に一方でロマン的オペラ(霊の王国の本質をつかんだオペラ)において舞台として実現し、他方で教会音楽(その宗教的実質は過去から現在まで保護されされ続けねばならないはずである)において「敬虔」と同調する。既にヴァッケンロ−ダ−も、交響曲やミサに対する適切な態度として敬虔を要求していた。

 ホフマンは教会音楽とオペラを−『新旧の教会音楽』(一八一四)と対話篇『詩人と作曲家』(一八一三)において−奇妙に接近させている。しかしそれは狂信者の冒涜として見下されるべきではなく、あるジャンルと別のジャンルの問題を類推的な思考形式で解決しようとする芸術哲学として真摯に受けとめられるべきであろう。「古い」音楽悲劇(グルックのオペラ)にホフマンは「古い教会音楽」(パレストリ−ナからバッハ、ヘンデルまでのミサとオラトリオ)との「内的近親関係」を発見し、オペラにおいて教会音楽におけるような「神聖な様式」を語ることをためらわず、それを現在では失われた過去の傑出した偉大さによって基礎づけた。「我々の音楽悲劇は、天才的な作曲家を全く独自なやり方で、高度にして−敢えてこう言ってしまえば−神聖な様式に引き付けた。そしてそれは、光の王国で人間が不可思議なやり方でチェルビンとセラフィンの黄金のハ−プの音に踊るかのようだ。そこでは人間にその固有の存在の秘密が明かされる。−フェルディナント、私が望むのは、教会音楽とかつての作曲家が独自で壮麗な様式を作り上げたかの悲劇オペラの間の内的近親関係を暗示することなんだ。新しい様式はそこから何のアイデアも受け取っていないのだよ。」

 現在は「貧弱な時代」であり、教会音楽の宗教的実質もオペラのロマン的性格も萎縮しているが、ホフマンの考えでは諦めることはない。音楽の形而上的本質は交響曲という別のジャンルに−ヘ−ゲル的な意味で−いわば「止揚」されているからである。ホフマンは自ら教会音楽とオペラを作曲しており、真の教会音楽と真のオペラを絶対器楽の精神で復興するという理念に取りつかれていた。そして交響曲への礼賛の歌(それはホフマンが立脚する美学的コンテクストから切り離すことができない)が最後にオペラと教会音楽を刷新するための絶対音楽という意味づけを目指したという推定は、さしあたり突拍子がないと思えるかもしれないが、本筋を外れてはいない。

 オペラがさしあたりアフェクト(つまり概念で規定できる感情)のドラマに他ならないとすると、交響曲でその「特有の本質」を知った音楽によって、オペラは地上から天上界へ半ば持ち上げられる。「歌においてはそこに現われたポエジ−を規定するアフェクトが言葉で暗示される。歌においては音楽の魔力が賢者の美酒の奇跡のように作用する。二、三滴飲んだだけで強烈に酔わせるのだ。オペラが我々に与えてくれるあらゆる情熱、愛、嫌悪、怒り、疑惑はロマン主義の紫の光の音楽をまとっている。そして生を感じた者さえもが、自らを越えて無限の王国へ導かれる。」しかし近代器楽にいわば結集したように思われる「ロマン主義の紫の微光」は、新しい教会音楽、つまり現在実現しているというよりむしろホフマンが予見して希求していたような教会音楽にも降り注ぐ。「今や確実なのは、今日の作曲家にとって、音楽が内面の問題ではなく、今風の豊かさを満載した装飾の問題だということである。多彩な楽器の輝きは高みの雲に鳴り響き、いたるところで微光をたたえている。何故人は目を閉ざすのだろう? それが進歩する世界精神そのものだというのに。世界精神は秘密の芸術において、この内的な感動へ誘う時代の最新の芸術において輝いているというのに。」「秘密の芸術」では「前進する世界精神」によって古い教会音楽の形而上的実質が乗り越えられ、近代交響曲は、今度は逆に教会音楽の救済から出発する。「おそらく確実なのは、器楽が近年、かつての巨匠が思い及ばなかった高みへ達したことである。」

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 ホフマンの教会音楽美学は歴史哲学的に基礎づけられ、そのことで神学の激しい反論を浴びている。だが歴史家は、このことを確認するだけであり、神学と歴史哲学の党派争いに加担して、判断を下すことはできない。

 「人間は軽率」だが、「管理する精神」は古い教会音楽の実質を見捨てることなく、近代器楽に譲り渡した。「管理する精神」は別の箇所で「管理する世界精神」と呼ばれているので、ヘ−ゲルの歴史哲学をどうしても連想してしまう。「人間は軽率なので管理する精神にこらえきれなかった。管理する精神は暗闇のなかで進歩するので、深く切り込む者、感覚の混乱した盲目−そこでは神聖なものや真のものから見離された人間がうごめいている−から目を反らす者にのみ真の光を示す。光は精神の存在を告げ、闇を破り、精神の存在を信奉する。」

 「神聖な音芸術」(ユストゥス・ティボ−トがそう呼ぶような)の本質が交響曲に止揚されているという理念、つまりベ−ト−ヴェンがパレストリ−ナの後継者だという理念を徹底させると、コンサ−ト−ホ−ルがいくつかの音楽作品によって−そしてそれらが宗教的なものへ超越する美的敬虔とともに聴かれるかぎり−教会へ変貌することだろう。宗教的なものが神聖化される裏には、世俗的なものの神聖化があった。ホフマンは教会音楽を復興しようとしたわけだが、しかし教会音楽は象徴的音楽ではなく、現実の礼拝音楽である。そして改革は、ホフマンによるとジンク・アカデミ−から始めることができる。彼はジンク・アカデミ−を礼拝に持ち込もうとした。「カトリック圏ではこのようなアカデミ−が教会の音楽礼拝を演奏しているようだが、エヴァンゲリスト圏では、礼拝の間に教会音楽が演奏される。」(カトリックの音楽礼拝とエヴァンゲリストの教会音楽の違いは、教会音楽が礼拝の一部か礼拝の付属物かということにある。)

 ただし「音楽儀礼」という概念は深く二つに引き裂かれている。そして音楽が儀礼に奉仕するだけでなく、音楽は「それ自体が儀礼」であるとホフマンが繰り返し強調するとき、彼は神学的にひどく不安定なテ−ゼを提唱している。このテ−ゼは、歴史哲学的にしか弁護できない。(なるほどシュライエルマッハ−の感情宗教は敬虔な美的瞑想が宗教感情へ向う道を開いた。しかしこれは、音楽「それ自体が儀礼」であるというイメ−ジを正当化するのではなく、芸術を宗教的覚醒の手段として正当化している。)

 正統的な教会音楽が言葉の実体性、神の言葉を伝える言葉の実体性への確信を失うことなど考えられない。言葉に対する深刻な疑念を前提とする美学−そして言葉への疑念は「純粋」な絶対音楽を形而上的ものへ高めることと表裏一体である−は、教会音楽の基盤に抵触する。教会音楽は、福音の言葉を支え、それに光を当てることで礼拝に貢献しているのだから。(器楽が許されないわけではないが、器楽も礼拝の式次第に拘束されている。)

 ホフマン美学の中心である絶対器楽の形而上学は、音楽が言葉を越えた言語だという理念に触発されている。音楽は、名状しがたく、言葉が到達しえないものを表現し、あるいは思慕させる言葉である。ホフマン美学と神学を隔てる断絶を橋渡しすることはできない。言葉が形而上的に無力だというのはロマン的音楽美学の基礎だが、教会音楽のドクマを破壊する格言である。

 言語的モメントと音楽的モメントの伝統的な機能は、ホフマンによってほとんど逆転された。「純粋に音楽的なもの」−ホフマンの音楽概念が転倒しているのは、古代やキリスト教の伝統とは正対立に言葉を捨象し、言葉を「音楽外的」なものと呼んだ点においてである−が宗教的実質の担い手とみなされ、言葉は単なるヴェ−ル、注釈とみなされる。(その極端は帰結が、教会音楽問題に踏み込むものではないが、ショ−ペンハウア−の過激な定式である。『意志と表象としての世界』によると、音楽がテクストを絵解きするのではなく、テクストが音楽を絵解きする。テクストは音楽の本質形式の単なる現象形式であり、原則として交換できるし偶然的である。)

 音楽は−絶対器楽として−言葉を越えて高まって名状しがたいものへ到達し、その形而上的本質を示す。「形而上的作品」として音楽は実質的に宗教的なのだから、ホフマンの考えによると、教会音楽の復興は交響曲の精神から可能になるにちがいない。だが「純粋」な絶対音楽として天上的なものを呼び覚ますという要求は、礼拝音楽が原則として奉仕する音楽すなわち非絶対的な音楽であるという前提と一致しない。音楽の形而上的解釈は美的自律を前提する。「外壁」−テクスト、舞台の出来事、礼拝的・世俗的式次第、概念に規定されたアフェクト−から解放された音楽はそれ自体に基礎づけられるべきであり、ホフマンの交響曲礼賛の歌−「音楽にのみ認識されるべき芸術の特有の本質を純粋に語る」−がベ−ト−ヴェンの第五交響曲の「内的構造」の研究に対応していたのも偶然ではない。交響曲の構造は、動機関連のネットとして作品の美的自律を基礎づけている。だが教会音楽は、礼拝の式次第や言葉の伴奏として、基本的に異種混合的である(そしてそれは美的でもあるのだから、作曲技法のうえでもそうでなければならない。「純粋に音楽的」に構成された「内的構造」は、不可能ではないが不必要である)。つまり儀式に依存することは音楽の芸術性格を脅かすが、他方で形而上的解釈の前提でもある。そして形而上的解釈の妥当性が、ひるがえって教会音楽を交響曲の精神で復興するというホフマンのユ−トピアを支えている。ホフマンは、端的に言うと、音楽の自律を主張すると同時に否定せねばならなかった。自律を主張せねばならないのは、それが絶対器楽の宗教的実質の条件であり、希求された新しい宗教音楽へ流入すべきだからである。自律を否定せねばならないのは、儀礼という目的が自律−そして敬虔の源泉である形而上性−とねじれた関係にあるからである。

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 ホフマンが新しい教会音楽の成立を語る比喩は、彼が真のロマン的オペラに熱中するときの比喩と同じである。そしてこれは偶然ではない。二つのジャンルでホフマンを触発するのは絶対器楽の精神にもとづく再生という同じ理念だからである。新しい教会音楽への「我々の希望が成就する時代は遠くなさそうだし、信心深い生活は平安で喜ばしくはじまりそうである。そして音楽は自由で力強くセラフィンの飛翔を続け、新たに彼岸へ飛翔しはじめる。彼岸こそ音楽の故郷であり、慰めと至福をもって、人間の不安定な胸に射し込むのだ!」「詩人はロマン主義の遥かな王国へ大胆に飛翔する準備を進める。そこで彼は生へもちこむべき不可思議なものが生き生きと新鮮な色彩で輝くのを見いだし、自らそれを信じるのである。」教会音楽が住まう「彼岸」とオペラが住まう「ロマン的な王国」は互いに区別なく合流する。

 しかし音楽がすべて宗教的存在だとすると特殊な教会音楽は厳密に考えると余計であるという問題は、オペラ美学でも別の形で繰り返される。音楽−「純粋な」絶対器楽−は「遥かな霊の王国」の「秘密の言葉」なのだから、舞台上で現実のものとなり、美的に現前する必要がないからである。音楽のロマン主義が劇場のロマン主義であらねばならないことをホフマンは前提したに違いないのだが、これは根拠づけられていない。また舞台の魔法に変貌するときには通俗化の危険を避けるのが難しい。そしてなんといってもオペラ台本は、霊の世界だけに取り組むのではなく、ドラマでなければならない。つまり、ウンディ−ネ、メルジ−ネ、ルシャルカとハンス・ハイリンクの故郷である魔界と通常の現実の間の葛藤でなければならない。ところが現実を音楽で提示することは音楽の「特有の本質」に反し、空間のドラマ構造上の対比のために標題的で非ロマン的なものへ堕落する。ロマン的オペラは、音楽ドラマであることを放棄しないかぎり、その基礎となるロマン的なものの理念をあらゆる瞬間に正当化することができない。

 ロマン的なものを「衣装と装飾」で通俗化する危険がワ−グナ−を「見えないドラマ」という逆説的な要求へ駆り立てたわけだが、ホフマンもこの危険を見抜いていた。「はたして考えたことを言葉で語ることができるだろうか? はたして音楽が我々に鳴り響かせる彼岸の国以外の何かを告げることができるだろうか?」ただしホフマンが「遥かなる霊の王国」を機械技術の危機にさらす劇場の悪業と対置したかったのは、通用の魔法オペラと妖精オペラで「ロマン的」という用語を独占していた「子供じみて霊を欠いた霊」を真のロマン的想像力の幻影で追い出すことであった。「真のロマン的オペラを創作するのは、天才的で霊感あふれる詩人だけである。彼らだけが、霊の世界の不可思議な現象に生命を与えるのだから。」

 ホフマンが大まかに素描した(閉じた理論の構想が計画されていないのは、断層や裂目を避けられなかったからであろう)オペラのドラマトゥルギ−は、熱狂的な言葉による矛盾を無視しても、深く二つに分裂している。一方で彼は、詩人と作曲家がロマン主義の「遥かな王国」に協力して取り組むことを熱望する。(宗教的な比喩は、オペラ美学と教会音楽美学を結ぶ潜在的な関連を思い起させる。)「そこでは詩人と音楽家が教会の最も気心の知れた同僚である。言葉と音の秘密は同じものであり、それが彼らに最高の洗礼を与えるのだから。」

 他方で劇場人としてのホフマンは、オペラにおいて言葉ではなく舞台上の出来事の総概念である台本が決定的であり、シナリオを単なるパントマイムとして理解させるリブレットのほうがこのジャンルの形式法則をよりよく満たすことを知っていた。「観客は目撃した出来事から台本の概念をほとんど言葉なしに理解できなければならない。」つまりホフマンは、不本意ながら、詩人の言葉があまり重要ではないことを知っていた。ただし彼は、のちにヴェルディが「場面の説明 parora scenica」と呼んだものと、音楽表現の道具 以外の何物でもないテクストの一部の間の根本的な違いを意識しなかった。個々のキ−ワ−ドを強調するドラマトゥルギ−的・機能的・「舞台的」な言葉は観客に理解されるべきであり、協奏的部分 pezzo concertato の疑似言語はもはやそれ自体で語るのではなく、音楽の存在を助けるべきなのだが、両者の区別はホフマンの詩学的前提と一致しなかった。「言葉について言うと、作曲家が一番気に入るのは提示すべき情熱や状況を力強く的確に語るような言葉である。」「parora scenica」という概念との接点は明らかである。だが疑似言語の理論はホフマンから遠い。

 pezzo concertato は、ヘ−ゲルが「情緒のああ!やおお!」と呼んだものによって言 語的に基礎づけられれば十分であり、声楽特有のカンタ−ビレの極端な刻印が問題になっているかぎり、器楽の精神によるオペラの復興という思想とは橋渡しできない断層で隔てられていると思えるかもしれない。だが二つの原理は、音楽は名状しがたいものを表現する、言語を越えた言語である、という前提を共有しており、ワ−グナ−では両者がしばしば合流する。たとえば《マイスタ−ジンガ−》の五重唱では、pezzo concertato の伝統 と交響的様式の伝統が区別なく合流している。

 ホフマンは、言葉とシナリオの関係をめぐる問題を解決しようとしたのではなく、むしろその問題を避けたわけだが、彼はロマン的オペラの理念とドラマトゥルギ−的構造の間にめったに埋められたことのない断絶があるのだという事実を、およそ意識していなかったように思われる。そもそもたった一回だけしか、ホフマンの念頭にあったロマン的なものは劇場の出来事にならなかった。つまりたった一回だけしか、「不可思議なもの」、「遥かな霊の王国」は日常の現実に姿を現さなかった。《ウンディ−ネ》と《ハンス・ハイリンク》から《さまよえるオランダ人》と《ロ−エングリン》を経て《ルシャルカ》へ至るロマン的オペラは、同じ問題についての様々な解決ないし解決の試みだと考えることができる。そしてその問題とは、ロマン的瞬間からそれを越えた悲劇的弁証法、しかもオペラ台本に基礎づけられ、音楽がロマン的性格を放棄せずそれを提示できるような弁証法を発展させることである。

 地上の日常世界が天上的でロマン的な世界と葛藤に陥り、「意味されたものを壮麗な言葉で語る」一方で、音楽が「ある別のものを彼岸の奇跡として告知し、我々に彼岸の音を聴かせる」ように仕向けること、これは既に述べたようにドラマとしてのロマン的オペラの構造である。そして美的断絶をホフマンは高らかに要求する。「詩人はロマン主義の遥かな王国へ大胆に飛翔する準備を進めて」、もはやその思いを癒やすことができない。「遥かな王国」と対立する空間を地上的なアフェクトの世界として示すこともできるし(《ウンディ−ネ》)、陳腐なもので音楽的なリスクを冒すこともできる(《さまよえるオランダ人》におけるダ−ラント)。あるいは様式の断絶を避けるために対立空間をデ−モン化して、空間の対比を黒魔術と白魔術の葛藤として出現させることもできる(《ロ−エングリン》)。−最後の例をのぞくと、作曲家はいつでも、葛藤をわからせるために、本来のロマン的な魔術を部分的に放棄しなければならない。

 このように、ホフマンが教会音楽に関して巻き込まれた困難がある程度繰り返されている。そこでは音楽の形而上的実質が痛切に感じられている。しかし音楽は言葉を越えて高まる一方で、礼拝機能ゆえに言葉へ引き戻されるという矛盾を抱えている。さまよえるオランダ人はロマン的瞬間のイメ−ジのもとで出現するので、まるでロマン的イメ−ジのなかから登場したかのように思われる。またロ−エングリンは、ロマン的瞬間にエルザの幻影から現実に呼び出される。こうしたロマン的瞬間は、言葉を必要とせず言葉に耐えられないような状況である。そして逆に教会音楽の宗教的実質とオペラのロマン的なものが絶対器楽に止揚され、そこからいわば帰還するという理念は、熱狂的な意図だが、劇場や礼拝の現実においてほとんど現前できない。ホフマンの念頭にあったものをワ−グナ−は「鳴り響く沈黙」という概念でとらえた。それは言葉が拒絶され、「オ−ケストラ旋律」だけが−ショ−ペンハウア−に触発された表現で言うと−「世界の内的本質を語る」状況であり、真にロマン的な状況である。そもそもホフマンが基礎づけようとしたロマン的オペラはユ−トピアであり、彼が思慕した新しい教会音楽も同様である。


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