本書目次へ →翻訳目次へ  トップページへ

カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

E・T・A・ホフマンのベ−ト−ヴェン論と崇高の美学

 E・T・A・ホフマンのベ−ト−ヴェン第五交響曲論は一八一〇年に『一般音楽新聞』に発表され、発想豊かなベ−ト−ヴェン礼賛の美しい証言と感じられてきたが、同時に「ロマン的ベ−ト−ヴェン像」を含む誤解の典拠として、ロマン的音楽美学のドキュメントともみなされている。ホフマンの音楽美学が、いくつかの本質的メルクマ−ルにおいてベ−ト−ヴェンの依拠する原則と矛盾するのは否定できない。ホフマンが「純粋」器楽を「ロマン的」と呼び、おしなべて「概念で規定できる感情を押しやり、名状しがたいものへ身を投じている」と主張するとき、彼はル−トヴィヒ・ティ−クの考え−交響曲は「この世界に」あるのではなく、「謎めいた言語で謎を語り、蓋然性の法則に依存せず、物語や性格を含む必要がなく、純粋にポエジ−的な世界にとどまっている」−に接近する。ティ−クは「芸術が独立して自由」である器楽を「まだ制約された芸術でしかない」声楽から際立たせる。「声楽は大げさな語り、演説でしかない」。だがティ−クは彼がその美学を基礎づけようとした絶対音楽を修辞学や性格描写から解放して形而上的なものへ高めることで、ベ−ト−ヴェンと明らかに矛盾してしまった。ベ−ト−ヴェンはソナタと交響曲を「カタル」芸術、鳴り響く「性格描写」と把握していたのだから。

 他方で、ホフマンが「古典的」交響曲に「ロマン的」解釈モデルを押しつけたというのという単純化されたイメ−ジは歪んでいる、もしくは少なくとも不十分である。第五交響曲論の基礎になるいくつかのカテゴリ−は、ヴァッケンロ−ダ−とティ−クのロマン的音楽美学や、カ−ル・フィリップ・モ−リッツとクリスティアン・ゴットフリ−ト・ケルナ−に見いだせる古典的音楽美学の散発的な兆候に由来するのではなく、古典およびロマン主義と並立し、交響曲の美学および文学理論において一八世紀まで遡ることができる理念史的伝統に由来する。それは文学において、クロップシュトック、ジャン・パウルそしてヘルダ−リンの作品に表明された伝統である。そしてベ−ト−ヴェンがヴァッケンロ−ダ−とティ−クのロマン主義と内的に疎遠であったとすると、クロップシュトックやゲッティンゲンの森の詩社の詩学(ホフマンのベ−ト−ヴェン論は、後述するように少なからずその刻印を受けている)は、ベ−ト−ヴェンを育み、彼が身につけていた伝統の一部に属している。

 一八世紀後半のドイツで大きな様式の器楽と結びついていたイメ−ジを代表するのは、間違いなく、アブラハム・ペ−タ−・シュルツがズルツァ−の『美しい諸芸術の一般理論』に寄稿した「交響曲」の項目である。シュルツが交響曲で鋳造されたとする様式は高く、崇高である。「交響曲は偉大なもの、祝祭的なもの、崇高なものの表現に優れている。」シュルツが交響曲から想起した文学モデルは讃歌であった。「交響曲のアレグロは、文学でいうとピンダロスの讃歌である。それは崇高で、讃歌のように聴き手の魂を揺さぶり、成功するためには讃歌と同じ精神、讃歌と同じ崇高な想像力、讃歌と同じ芸術の知識が必要である。」讃歌の特徴は、一八世紀の理解によると、感情抒情詩と思想抒情詩という二分法に適合せず、熱狂に支えられた反省、あるいは反省に貫かれた熱狂を表現する。カ−ル・フィエト−ルは『ドイツの讃歌の歴史』で、ヘルダ−リンの讃歌の様式を「熟慮と情念の両面から同時にピンダロスの崇高な高みへ」到達しようとする試みと特徴づけた。だが、まさに情念と熟慮、熱狂と反省というモメントの布置こそが、シュルツおよびホフマンにおいて交響曲の理論を規定する。交響曲における「崇高」と「揺さぶり」は、シュルツにおいて「芸術の知識」(作曲家が交響曲というジャンルで「成功する」ために身につけねばならないような)の裏面である。そしてホフマンは第五交響曲について、一方で讃歌のディテュランブス的なト−ンの言語で記述する。「ベ−ト−ヴェンの音楽は、あの不滅の憧憬を作動させる。これこそがロマン主義の本質である。」他方で彼は、音楽の「構造」にあらわれた「熟慮」、「芸術の不断の研究」なしにはありえないような「熟慮」を称賛する。「……。」

@ホフマンのベ−ト−ヴェン論のカテゴリ−上の基本モデル−ディテュランブス的な部分と分析的な部分への分節にも反映している基本モデル−は、古典とロマン主義から独立して、クロップシュトックとゲッティンゲンの森の詩社へ向かう音楽美学の伝統に由来する。そして交響曲美学が讃歌の理論に依存していることは、シュルツにおいて言い回しの細部にまで痕づけることができる。[……。]

 交響曲の美学は、シュルツが定式化したように讃歌の理論に依存していたわけだが、ただしこれは、それ以前の音楽美学に基礎づけられることなく、詩学から単純に転用されたわけではない。いくつかの本質的判断基準は、萌芽的であまり強調されないことだが、交響曲の理論に既に存在した定式であった。ヨハン・アドルフ・シャイベは既に一七三九年に、つまり振り返って「ギャラント」とみなされることになったエポックにおいて既に、崇高、驚愕、目立ちを交響曲の特徴的メルクマ−ルに数えた。作曲家が「炎を燃やし、霊感豊か」でなければ、決して「印象的で崇高な交響曲を生み出す」ことはできない。そして「突然の移行」(シュルツ流にいえば)は、既にシャイベにとっても交響的様式であった。「予期しない発想が聴き手をいわば予測なしに驚かさねばならない。」「予測できない変更で別のものが続かねばならない。」

 一八一〇年にホフマンが第五交響曲の圧倒的印象を言葉でとらえようとしたときに結びつくことのできた一八世紀の美学をこのように素描できるとすると、他方でこの批評の基礎になるカテゴリ−上のモデルは、ホフマンの著作において決してベ−ト−ヴェンに限定されなかった。ホフマンは一八二一年にガスパ−ル・スポンティ−ニの《オリンピア》の提灯持ち的論文を書いてベルリンの音楽政治に介入したわけだが、そこでは第一幕のフィナ−レについて、一方で「畏怖の作用」と「内的卒倒の表現」を語り、他方で音楽思想の発展を語っている。曰く、それは「彼の天才を示すのみならず、彼が熟慮によって音の王国を支配していることの証である」。作品が生み出す揺さぶりと作品の構想における熟慮−……−は、声楽においても、器楽におけるように「大きな様式」の目印であった。ホフマンが理想として想定したこのような様式では、記念碑性と差異化が互いに排斥しあうのではなく、相互浸透する。

 「ロマン主義」はスポンティ−ニ論において、他ではふんだんに用いられるのに、どこでも言及されない(モ−ツァルトに関する言及を除くと)。それゆえ、ベ−ト−ヴェン論においても、本来の交響曲美学(それは「揺さぶり」と「熟慮」というカテゴリ−の周囲を旋回する)と音楽の「ロマン主義」をめぐる狂気乱舞は、一見そう思えるほど密接には結びついていないのではないか、と推測される。そして交響的様式をめぐるホフマンの理論の本質的基本特徴が一八世紀に由来し、その「天才美学」がそう簡単に「ロマン主義」と同一視できないとすると(ベ−ト−ヴェン研究においても同様のことが確認されており、彼はルソ−に親しんだ一方で、ヴァッケンロ−ダ−、ティ−ク、ノヴァ−リス、フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルとは内的に疎遠であった)、他方でホフマンの解釈モデルは、一九世紀の音楽評論家、しかもフリ−ドリヒ・ロホリッツのようにおよそロマン主義者と呼べない評論家にも共有されていた。交響曲の理論を崇高の美学から発展させるという思想は、ロマン主義に採用され、ロマン主義によって特徴的に変形されたが、ロマン主義の専有物ではなかった。

 ただしロホリッツは「崇高」概念を(それは一九世紀初頭の美学者言語では、パレストリ−ナの声楽様式からベ−ト−ヴェンの器楽様式まで包摂していた)大雑把すぎるとみなし、用語法のうえで「崇高」(その刻印は古い教会音楽に認められる)と「偉大」(近代交響曲にあらわれるような)を区別した。(ホフマンは、古い教会音楽の崇高な様式と近代器楽のそれを思想的に媒介するという問題を、一八一四年の論文『新旧の教会音楽』で歴史哲学的問題へ転換した。)

 「偉大」は、ロホリッツの考えでは「力強く、揺さぶる」ものである。「偉大の感情は、崇高の感情よりも−こう言うことも許されるだろうが−世俗的である。それは、一層暴力的でアフェクトにあふれ、引き攫うものである。」讃歌の理論に由来する「見せかけの無秩序」というメルクマ−ルも、ロホリッツで繰り返される。「偉大な性格の音楽は量で圧倒する。一見するとひとつになりそうもない旋律と和声進行が、旋律・和声の全体へ結びつけられる。」また驚愕、すなわち予測できない突然の移行について、ロホリッツはシュルツとほとんど同じ言葉で書いている。「未知の調への逸脱は密かに行なわれるのではなく、目立ち、迅速に行なわれる。」ただし、一見「ひとつになりそうもない」ものから「全体」を生み出すこと−ホフマンの言い方では、暴威における「マイスタ−の高度な熟慮」−は、一八世紀の考えによると、ズルツァ−が『美しい諸芸術の一般理論』の「崇高」の項で総括したように崇高な様式の本質である。「無秩序と混乱から秩序が生まれたとき、そこで物理的・倫理的な世界における見せかけの無秩序から全体の最も美しい秩序が生じたことを正しく見抜いた者にとって、それは崇高な思想である。」

 ロホリッツは崇高と偉大の違いを基礎づけてパレストリ−ナのミサとベ−ト−ヴェンの交響曲を同じカテゴリ−で統括するまいとしたわけだが、崇高と偉大の区別は−別の解釈において−シラ−の論文『崇高について』まで遡る。だが美学の日常言語では、この区別がそれほど切実ではない。用語上の区別は、ホフマンのベ−ト−ヴェン論が崇高の美学に根ざしているという事実を何ら揺るがすものではない。エドマンド・バ−クの『崇高と美についての我々の理想の起源をめぐる哲学的研究』は一八世紀の示唆に富む美学書のひとつだが、彼はロホリッツが「偉大」のメルクマ−ルとしたものを「崇高」の特性に数えており、それはホフマンがベ−ト−ヴェンの第五交響曲の圧倒的な作用を描写した特性と同じものである。「……。」「畏怖」はバ−クによると「崇高の最高の作用」である。そして「恐れ」は「怯えとともに驚き」を高め、「残忍」をもたらす「仄暗さ」とともに崇高のメルクマ−ルに数えられている。また「不滅」は、「精神を一種の快活な恐れで満たし、崇高の最も特有な作用であり、最も確実なメルクマ−ルである。」(シラ−によると、崇高の感情の特徴は「感情の混合である。それは絶頂において畏怖として表明される恐怖と、恍惚へ高まり得る快活の組合せである。」)

 崇高の美学は、誇張でなく交響曲理論の最も古い伝統に数えることができるわけだが、ホフマンのベ−ト−ヴェン論において意味を転換させられた。この意味転換は、些末なものとして無視されるべきではないが、性急に「ロマン的」のレッテルを貼られるべきでもない。ホフマンが依拠したジャン・パウルは、『美学入門』でロマン主義者に若干の刺激を与えたわけだが、ロマン主義の旗頭と特徴づけられる存在でもないからである。

 ホフマンは細部の言い回しに至るまでジャン・パウルに依存している。「ロマン的な趣味は稀であり、ロマン的才能はさらに稀である。」「このようにロマン的才能は、ロマン的な趣味と同じくらい稀である。」「彼は、熟慮の点でもハイドンとモ−ツァルトを押し退けている。彼は自我を音の内的な王国から分かち、限界のない主人として現われる。」「今やより高い熟慮があり、それは内的な世界そのものを二分し、自我と創造の王国に分かつ。」ただし、語が一致しているからといって背後の思想の違いを見落とすべきではない。ジャン・パウルの「高い熟慮」はそれが向けられる事象に取り組む意識ではなく、同時に自らへ回帰する(「人間が合わせ鏡で行き来する自己意識」)。これに対してホフマンが言いたいのは、ベ−ト−ヴェンが無反省に「想像力の炎と瞬間的な閃きに身を委ねる」のではなく、ファンタジ−と計算を均衡させている、ということである。ホフマンはベ−ト−ヴェンの「熟慮」を讃え、それを第五交響曲の構造分析で具体的に示そうとしたのだが、こうした「熟慮」は、ロマン主義者が文学の本質的メルクマ−ルと述べた、詩的プロセスにおける自己反省ではなく、単に作曲上の反省である。それは交響曲の理論でも讃歌の詩学でも、そしてさらにはあらゆる崇高様式の美学において以前から熱狂の抵抗体であった。熱狂を理念が貫くべきであり、さもなければ熱狂は単なる浮ついた感情、鎖から離れた想像力にとどまる。

 このように熟慮はホフマンとジャン・パウルにおいて、たとえばダニエル・シュ−バルトが音楽の疾風怒涛の文学における先駆けとして要求したような爆発的感情美学へ対抗する審級なのだが、他方で、ジャン・パウルに由来する概念さえもが、ホフマンのベ−ト−ヴェン論においてはベ−ト−ヴェンの「意味づけのロマン的転換」の最も顕著な言語上の目印と感じられてきた。ホフマンの第五交響曲の構造分析では「無限の憧憬」が「真の統一」、「内的関連」と美的に対応し、中心的な機能を果たしている。音楽の外面が「一見無秩序」だが、「聴き手は持続する感情、名状しがたく予感に満ちた憧憬に深く内的にとらえられ、最後の和音までこの感情が保たれる。……。」構造的統一と美的統一は同じものの裏表である。

 『美学入門』の「ロマン的ポエジ−の源泉」の章で、ジャン・パウルは−シラ−、シュレ−ゲル兄弟、のちのゾルガ−やヘ−ゲルとよく似たカテゴリ−で−キリスト教近代と異教古代を対比する理論を素描する。この美的で文化史な類型論は様々な論者に変奏されており、一八〇〇年ごろには哲学的教養人に自明の思考形式であった。つまり外的世界と内的不滅、限界と無限、素朴と反省ないし感傷、自然さの安定した所有と自然への憧憬が対置される。「……。」「無規定的な憧れ」を最も適切に表現する芸術、「無限の憧憬」の芸術は、ジャン・パウルによると音楽である。

 つまり「無限の憧憬」という概念は、歴史的に理解して空疎な美的思い込みを避けるとすると、ことさら「ロマン的」なカテゴリ−をモデルとする理論に結びついていたのではなく、一八世紀後半の哲学の共有財産であり、シラ−とフリ−ドリヒ・シュレ−ゲルは、隔たりをもち敵対する心情にもかかわらずこの概念を共有していた。『素朴文学と感傷文学』で、シラ−は古代詩人と近代詩人の類型を区別する。「前者は有限芸術を通じて力を発揮する。後者は無限芸術に向いている。」ただし「無限芸術」は、自然に疎外され理想を希求しており、到達し得ないものにそれでも到達しようとする試みとして、憧憬に刻印される。「……。」近代文学は自然を経験として所有するのではなく、理想として求め憧れるので、音楽と内的に親和する(古代文学は造形芸術と親和する)。シラ−はクロップシュトックを「音楽的詩人」と特徴づける。「……。」(ホフマンは標題音楽を美的誤謬、「彫塑と対立する芸術を彫塑的に扱う」ことだと批判しており、シラ−と同じカテゴリ−体系を前提して議論している。)

 キリスト教近代がジャン・パウルとホフマン(そしてシュレ−ゲル兄弟とのちのゾルガ−とヘ−ゲル)に「ロマン的」と呼ばれたのは、上述の美的・歴史哲学的図式の意味転換の言語上の目印と考えられる。ただし意味転換は変奏あるいは色調の変化であり、カテゴリ−体系の深刻な構造変化とは思えない。「古典的」美学と「ロマン的」美学の対比という理念史的エポック区分によって、ジャン・パウルとホフマンはシラ−と分離されてきたわけだが、この対比は話題にしがたい。両陣営ともに、よく似た言葉で音楽の本質を無限のイメ−ジや憧憬の感情と結びつけ、ひとつの概念複合体にまとめているのだから。

 ただしそれでも、「無限の憧憬」という疑念をホフマンが組み込んだ崇高の美学のコンテクストで解釈すると、違いが非常に明白になる。ホフマンのベ−ト−ヴェン論の解釈者に見落とされてきたのは、あまりに厳格すぎると思えるかもしれないが、ホフマンが「無限の憧憬」を、崇高ないし偉大な様式の圧倒的な音楽手段による恐れへの反応として描写していることである。「巨大な影が波打ち、次第に我々を取り込み、我々のなかのすべてを無化して無限の憧憬の苦しみだけが残る。」「ベ−ト−ヴェンの音楽は畏怖、怯え、卒倒、苦しみの梃子を動かし、ロマン主義の本質である無限の憧憬を呼び覚ます。」「無限の憧憬」という概念をそれが立つ体系的な位置で規定するならば、それはカントが草案してシラ−がジャ−ナリスティックな形にまとめたような崇高の美学でイメ−ジされるような位置に据えられる。人間の理性は、暴力的に揺さぶる自然作用に対して身体的な無力を感じた瞬間に最もはっきり当惑を示す。「我々が崇高と呼ぶ客体は、それをイメ−ジするときに我々の感覚的本性がその容量を感じるが、我々の理性的本性は当惑、容量の自由を感じる。」カントの崇高の理論はホフマンによるベ−ト−ヴェン描写において、半ば消された基本モデルだが、その輪郭を再構成することができなくはない。ただし外的な力による暴威に内側で抵抗するのは、カントにおけるのと違って、人間が自らを「知的存在」に調教する理性ではなく、「無限の王国」へ人間を攫ってゆく「規定されない憧れ」である。カントとシラ−を支配した倫理的パトスは宗教的(似非宗教だとの疑惑にさらされてはいるが)パトスへ解消された。シラ−は崇高な印象に対する無力からの避難所を「知的」なものにおける堅実さと確実さに見いだしたわけだが、いまでは不安定な場所へ引き寄せられる憧憬が、形而上的予感に繋留されている。崇高な恐怖を裁く審級は、ホフマンの場合、近代の感傷的精神によると考えられていた。それは、シラ−が時代の目印と認めたつつ、崇高の理論では無視した精神である。

 ホフマンの第五交響曲論にはベ−ト−ヴェンへの内的な近さと遠さが示されているが、これは、熱狂的な理解かロマン的な歪曲か、という単純な定式にまとめられない。ベ−ト−ヴェンがホフマンに宛てた一八二〇年三月二三日の手紙は好意的だがありきたりであり、ベ−ト−ヴェンが一〇年前の批評の命題を受け入れたという結論は、弁護できない誇張であろう。

 他方で、ホフマンのベ−ト−ヴェン論が「古典的」作品を「ロマン的」に解釈しており、思考形式の理念史的断絶ゆえにこれは深刻な意味転換に他ならない、とする単純でわかりやすい議論は、ホフマンの出発点である崇高の美学が既に一八世紀から交響曲美学の前提であったという事実を前にすると心許ない。歴史分析が紋切型に終始しないためには、分裂した状況を正視して、パラドクスを定式化せねばならない。讃歌の詩学に傾く交響曲の理論は、一八世紀には作曲実践と接合していなかった。素直に「ピンダロスの讃歌」と比較できそうな作品は非常に少ない(ベ−ト−ヴェンの尺度で時代全体を測ることがなかったとしても)。振り返ってみると、交響曲の美学は一八世紀にいわば予見として定式化されたのであり、ベ−ト−ヴェンによって真に解決され、作曲のうえで実現されたのである。そして、ピンダロスの讃歌の詩学に依拠することで交響曲の性格描写に適した言葉が見いだされたのは、少なからず否定的に、美学の当惑として基礎づけることができるだろう。美学に同調する聴衆である「通と愛好家」は、音楽を聴くときにテクストや言葉に規定されたアフェクトに方向づけられることに慣れており、器楽のようにその意味が語られず、表現性格が楽章内部で突然交替すると、美的に混乱して、ジャン・ジャック・ルソ−のように器楽をゴチャゴチャした騒音と拒絶するか、「見かけの無秩序」に美的な権利を与える理論をでっちあげた。「ピンダロスの讃歌」の理論を支える前提は崇高の美学であり、この美学は伝ロンギノスの書物が再発見されて以来、古代を正当化する礎であった。交響曲を至高のものへ高めるのは、空疎な騒音という見下しへの一種の対案であった。

 ベ−ト−ヴェンの交響曲が崇高な様式を代表するというのは、性格描写が一面的であること(それは少なくとも、受容史においてベ−ト−ヴェンにおけるジャンルの「理想型」が第三、第五、第九から抽出されていることに明らかである)と無関係である。音楽の崇高を記念碑性と差異化の均衡、揺さぶりと熟慮の均衡と考えれば、ベ−ト−ヴェンが崇高と親和するのが明らかであり、否定できない(それは彼がヘンデルに熱狂したことにも、またカントから抜き書きした「星のきらめく空」という外的無限と「道徳法則」という内的無限の布置にもあらわれている)。そしてベ−ト−ヴェンの作品があらゆる音楽ジャンルにわたっているにもかかわらず、同時代人にとっても後世の者にとっても、彼がなによりも交響曲作家と把握されているのは、彼がこのジャンルと結びつけられながら解決されてこなかった企てを実現したからであろう。(モ−ツァルトのト短調交響曲は音楽公衆の意識にほとんど浮上していなかった。)歴史的事態をパラドクスにまとめれば、交響曲は絶えずそのように評価されながら、しかしそのようなものではなかった。そしてベ−ト−ヴェンによってようやく、交響曲が交響曲になったのである。

 ホフマンの第五交響曲論はベ−ト−ヴェンの交響曲が達成した音楽史的事件、つまり一八世紀の満たされざる美的意図の実現と理解できる事件のの歴史的ドキュメントである。ホフマンが狂気乱舞と記述をからみあわせたことの意義は、崇高の美学をヨハン・アブラハム・ペ−タ−・シュルツの知らない言語でとらえたこと、そして歴史哲学のきらいがある命題を構造分析で具体的に裏付け、一八世紀以来の美学的プログラムをベ−ト−ヴェンが実現する様を言葉で跡付る試みであったことにある。だからホフマンが扱ったカテゴリ−は、そこに痕跡を残している素性から判断されるべきではなく、それが交響曲論の文脈で果たしている役割から判断されるべきである。決定的なのは、ホフマンが第五交響曲で称賛した揺さぶりと熟慮の均衡が讃歌理論のトポスであったことだけでなく、美的性格描写から音楽分析が発展させられ、「高度な熟慮」の賜である「内的構造」が作品の崇高様式の圧倒的な作用の裏面であり条件であるとみなされたことである。そしてホフマンはジャン・パウルから「無限の憧憬」という概念を借り受けて、カントとシラ−が鋳造した崇高の美学における倫理的モメントを宗教的モメントへ塗り替えたわけだが、このことに意味があるのは、美学の草案から構造分析の草案が生じたからである。「無限の憧憬」は気分モメントのための言語的暗号であり、ホフマンは作品の内的関連をつくる主題関連にその作曲上の対応物を認めた。「リズムの身振り」が絶えず回帰して楽章を内的にまとめるわけだが、この「リズムの身振り」は形而上的憧憬の暗号であり、クリスティアン・ゴットフリ−ト・ケルナ−の意味での音楽性格の描写(ケルナ−によるとエ−トスの鳴り響く表現はなによりもリズムに示される)とは考えられなかった。このことは明らかにベ−ト−ヴェンが意図したものの「ロマン的」変容である。だが本質的なのは、ホフマンが事態の歴史的影響力を把握していたことである。一八世紀美学が予見した交響曲の「理想型」がベ−ト−ヴェンによる実現こそがここでの事態であり、全体としてホフマンの批評は、細部が妥当かどうかということではなく、対象に見合う水準を適切に選択していることで正当化される。


本書目次へ →翻訳目次へ  トップページへ
tsiraisi@osk3.3web.ne.jp