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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

ロマン的音楽美学とウィ−ン 古典派

T

 「エポックの一列縦隊行進」−エルンスト・ブロッホは歴史哲学の古びた図式的な規律を軽侮してこのように呼んだわけだが、このイメ−ジはもはや放棄されてしまった。複数の時代傾向が分裂して併存することをもはや誰も否定できない。かつての名高い「様式統一」は、現在を拒絶した後進の世代が過去を憧れてでっちあげた仮象にすぎない。

 E・T・A・ホフマンのベ−ト−ヴェン解釈である「ロマン的ベ−ト−ヴェン像」は、ア−ノルト・シュミットによれば熱狂が生んだ誤解だが、同時代に由来しており、後の時代のものではない。(……)ロマン的音楽美学はヴァッケンロ−ダ−、ティ−クそしてホフマンに代表され、ウィ−ン古典派がハイドンの「ロシア四重奏曲」から出発するとすれば、両者は同じ時代に属し、同じ時代の精神を一方は言葉で他方は音でつかんだものと考えられる。

 しかし異質な傾向と伝統が同時共存すること以上にややこしいのは、一八〇〇年ごろにハイドン、モ−ツァルトの古典的音楽が古典的美学に対応したわけではなく、ヴァッケンロ−ダ−とティ−クのロマン的音楽美学がロマン的音楽に対応したわけでもないというパラドクスである。反省と作曲実践が分裂している。古典の美的理論、つまり古典の精神と意義を一般的な(なによりも哲学と文学に刻印された)意識に伝える理論の兆候はウィ−ンに存在しなかった。(欠落が意味するものは、グルックのオペラの作用を考えるとよくわかる。彼のオペラは、モ−ツァルト受容と比較した場合、随伴するジャ−ナリズムなしにこれほど作用したとは考えられない。)そして逆にヴァッケンロ−ダ−とティ−クのロマン的音楽美学は、音楽に(つまり特定の音楽ではなく音楽一般に)結びつけないかぎり抽象的である。後世から振り返ってはじめて、彼らの音楽美学は一八一四年以来の音楽のロマン主義を文学的に予見するものとみなされた。

 グスタス・ベッキンクは、ロマン的音楽美学とロマン的音楽の間の距離への苛立ちを緩和するべく、ホフマンとルイ・フェルディナント皇太子をロマン的作曲家の第一世代と説明した。ただし彼は、一九世紀初頭に成立したホフマンとルイ・フェルディナントの室内楽とピアノ音楽がロマン的な刻印を帯び、ロマン的に形成されていると主張することは避けた。ロマン的なものは、むしろ単なる意図にとどまり、それにもかかわらず(つまり本来的に作曲されることなく)、美的対象たる作品に付着しているというわけである。「それはただ考えられたにすぎない。それは実現され得ない」。「霊の世界」すなわちホフマンのいう「魔界 Dschinnstan」は、ロマン主義者の第一世代によって呼び覚まされたが、音でとらえられてはいない。ウェ−バ−とシュ−ベルトによってはじめて、「考えられたものが音によって単に奇跡へ解消されるのではなく、ありありと提示されねばならないという要求」が掲げられた。

 しかしロマン的連想を発散するだけでは、ある曲をロマン的と特徴づけるのに不十分である。「霊の声」を、ホフマンは彼が意味ありとみなすあらゆる音楽から聴き取った。パレストリ−ナのモテットにも、モ−ツァルトの交響曲にも。彼自身の初期作品の折衷主義(《ウンディ−ネ》はようやく一八一三/一四年に成立している)、つまりバッハとモ−ツァルトの様式の混合は、それをホフマン的な意味でロマン的だと感じること(ロマン的空想のきっかけと感じること)を妨げなかった。

 現象に達するのではなく、いわば外側から作品を把握するロマン的意図を何故美的に真摯に受けとめねばならないのか、ベッキンクには明瞭な説明がない。そして、彼は偽の解決を示したように思われる。ホフマンの文学作品では「霊の世界」そのものが日常の渦中に突如として出現するのではなく、秘密に満ちた彼岸への移行、跳躍が記されているにすぎない−ベックンクはこのように観察している。そのため彼は、ホフマンの音楽作品がロマン的連想を発散しており(=文学における跳躍という現象の類似物)、それだけで十分、この音楽をロマン的と特徴づけられると考えてしまった。しかし文学において移行は−彼が目指した「魔界」ではないにしても−詩的形態になっている。提示され言語となった移行は、単なる意図に留まるホフマンの音楽と比較できない。

 ベッキンクがホフマンとルイ・フェルディナントの音楽をロマン的と解釈する分析の詳細にも疑問がある。ベッキンクはルイ・フェルディナントのピアノ四重奏曲作品六のアダ−ジォ・レント・エ・アモロ−ソの冒頭と、ein Bild extremer Haltlosigkeit の旋律、和声を典型として引用する。しかし彼は、第五から一〇小節が一〇度の土台と慣習的カデンツにもとづき、半音階の強固な後ろ盾になっていることを見落としている。ここでロマン的「混乱」は話題にできない。

 このようにロマン的音楽美学がロマン的作曲家の第一世代の音楽作品と類縁関係にあるというテ−ゼは根拠薄弱なのだが、一方、ウィ−ン古典派が、貪欲な理性主義の時代にあるからといって、一七八〇年代の音楽的事件を概念でつかむような美学と対応しているだろう、と期待しても無駄である。

 ヘルム−ト・ク−ンのようにヴィンケルマンからヘ−ゲルまでの美学の発展を「古典的」と呼ぶことに疑問はない。しかし、一七五〇年から一八三〇年に構想された体系は、 −「古典的」美学の伝統からこぼれ落ちるショ−ペンハウア−の芸術哲学をのぞくと −なによりも文学と造形芸術の理論であり、音楽の理論ではない。音楽美学は周縁に位置するか、あるいは哲学者を当惑させるものであった。そして音楽美学は、美学体系全体が「古典的」性格を備えているのに反して、およそ「古典的」と呼べない未発達な姿をしている。『判断力批判』は古典的で規範的な作品であり、すくなくともシラ−が受容したのだから、エポックの主流である古典のドキュメントとみなすことができる。だが、そこには異質で慣習的な断片がかきあつめられており、それは音楽(カントは音楽を疑い、音楽に反対であった)の古典的美学でもなければ、古典的音楽の美学でもない。

 一七九五年にシラ−の『ホ−レン』に掲載されたクリスティアン・ゴットフリ−ト・ケルナ−の論文「音楽における性格描写について」には古典的音楽美学の兆候がある。ケルナ−は古代の伝統に沿って、性格すなわちエ−トスを情熱すなわちパトスと区別する。そしてカテゴリ−を対比して音楽における性格描写を要請することは、音楽史の切れ目、つまりバロック的アフェクトから古典的性格描写への移行の反映と考えられる。こうした移行は、オペラのみならず、器楽にも認められる。グリ−ジンガ−の報告によると、ハイドンは「交響曲でしばしば倫理的性格を描写している」。そして性格、エ−トスという概念をベ−ト−ヴェンが重視していたことは、あえて指摘するまでもないだろう。

 一方、古典的と呼び得る音楽美学は、形式概念を中核とするシラ−の芸術理論においてもその輪郭を素描されている。ただし一八世紀後半の音楽美学では、形式概念が混乱してつかみどころがない。カントは、音楽において形式を語るとき、音高の「数学的形式」(音程の背後にある比率)のことを考え、「数学的形式」を、音楽の感情作用のなかで消失する低級なモメントとみなした。音楽は、なによりもアフェクト表現とみなされていた。そして表出性を一方的に強調した結果、「数学的形式」ではない形式学の意味での形式、つまり部分を全体へまとめる関連が過小評価されてしまった。そして部分の関連を研究対象とする理論家さえもが、関連を「外的形式」、単なる「外装」と見下した。音楽の本質は、音楽に刻印され、音楽が放出するアフェクトに求められた。

 シラ−は違う。なるほど彼は、音楽のアフェクトの力を音楽の第一の特性とみなした。「しかし美の王国では盲目的な力など止揚されるのだから、音楽は形式によってのみ美的になるのである」。とはいえ、やはりシラ−も音楽を信頼しなかった。『人間の美的教育についての書簡』に次の一節がある。「音楽は、最も精妙なものであっても、その素材の性質のせいで、真の美的自由と親和するよりも、はるかに感覚と親和している」。だからシラ−は、形式原理を要請することしかできなかった。「最も雄弁な音楽は」−まだ達成されていないが−「形態となり、古代の静的な力で我々に作用しなければならない」。シラ−が大まかに素描した美学では、ウィ−ン古典派の歴史的現実−シラ−はそれを知らなかった−がユ−トピアの性格を帯びている。現実が可能性、単なる要求あるいは期待への色褪せている。

U

 ロマン的音楽美学とウィ−ン古典派は異なる伝統を代表しており、ホフマンのベ−ト−ヴェン論において、両者は交差するが合併していない。いずれにしても、音楽美学を通じて音楽史的事件が語られていると期待するのは間違いであるように思われる。音楽美学の体系ないし構想は、−音楽上の派閥争いにおける弁護や避難と違って−めったに音楽史のドキュメントとして直接解読できるものではない。関係は大抵いつも混乱しており、音楽美学がその時代の音楽の反映だという単純な決まり文句はあてにならない。

 しかも、音楽と音楽美学が一八〇〇年ごろ乖離していたという事実は次の事実を考慮するとパラドクスの外観であるように思われる。一般に音楽美学は、その対象である音楽の発展によって刻印される以上に、そのカテゴリ−の源泉である哲学と文学の伝統に刻印されている。同時に成立したヘ−ゲルとショ−ペンハウア−の音楽美学構想が対立しているのは(どちらもロッシ−ニに熱狂してベ−ト−ヴェンから距離をとっていた)、音楽の経験が違うからではなく、別の哲学的動機に基礎付けられているからであった。そしてシュ−マンの音楽美学思想はジャン・パウルに規定され、彼はジャン・パウルの言葉を活用してはじめて、ベ−ト−ヴェン、シュ−ベルト、ショパンの音楽が彼自身にとってどのような意味があるのか自覚できた(ジャン・パウルに対位法を学んだというしばしば引用されるシュ−マンの言葉はこの意味で理解されるべきであろう)。何故ウィ−ン古典派のエポックにロマン的音楽美学がロマン的音楽なしに成立したのか−音楽美学の発展において哲学と文学が優先的に伝承されたことがその理由のひとつである。なかでもヴァッケンロ−ダ−とティ−クは文学の歴史において把握されるべきであり、音楽の歴史においてではない。ハイドンではなくクロップシュトックが決定的な前提である。

 しかし他方で、音楽特有の印象が−哲学的、文学的な動機づけと並ぶ部分的動機づけとして−音楽美学の基礎になり体系としての普遍性の要求を隠れ蓑にしていることも稀ではない。音楽美学の構想は、ほとんどいつも包括的な理論、音楽の解釈として提唱される。後世の批判によってはじめて(ただしそれもまた、自らの構想を普遍的だとみなしている)、それがエポックの様式のドクマに冒されていたとわかる。カントが「刺激とお涙頂戴」を評価しなかったとき、彼はそれと知らずに古典主義者としてロココや多感性を非難した(……)。またヴァッケンロ−ダ−とティ−クの美学は、パレストリ−ナ、ペルゴレ−ジ、ハイドンを包摂するとされてはいるが、往復書簡が示すようにフリ−ドリヒ・ライヒァルトの音楽を経験したことに根ざしていた。ただしヴァッケンロ−ダ−が希求した美学的な帰結は、彼の音楽的前提をはるかに越えている。彼の音楽的前提は彼の美学を部分的にしか基礎づけていない。音楽的条件を規定することが再生産につながるとは限らない。ヴァッケンロ−ダ−然り、ショ−ペンハウア−然りである。ヴァッケンロ−ダ−の美学は、もしそれがライヒァルトの音楽の文学への反映でしかなかったとしたら、「ロマン的」でなかったことだろう。

 ヘルマン・クレッチマ−は一方の思弁的な「音楽美学」(あるいは「哲学者美学」)と他方の経験にもとづいた「音楽家美学」を峻別する。残念ながらこれは不適切である。作曲家は、美的反省に身を委ねるとき、哲学的カテゴリ−をどうしても頼りにするものなのだから(素朴な哲学も哲学である。もちろん疑わしい哲学ではあるが)。しかしクレッチマ−は「音楽美学」への不信感に耐えられなかった。「音楽美学」は長たらしい演説であり、「観照」よりも「概念」から生まれたものであるかのように思えたからである。

V

 音楽美学が哲学と文学に依存していることが最も明瞭に示すのは、音楽美学が一八、一九世紀には−「音楽家美学」を含めて−哲学するドイツであるプロテスタント・ドイツに限定されていたという事実である。(もっとも、この主張はヨゼフ・ナドラ−の厳格主義に帰依することを意味しない。彼はロマン主義研究を混乱させてしまった。ライヒァルトが東プロイセンに生まれシュ−バルトがシュヴァ−ベンに生まれたことは、哲学と文学の豊かな発展を促したプロテスタンティズムとほとんど何の関わりもない。)オ−ストリアと南のカトリック・ドイツでは、−マンハイム楽派とウィ−ン古典派が(はじめは北の美学者がハイドンにおける「高級」様式と「低級」様式の混合に反対していたのだが)音楽を制覇したことを誰も否定できないだろうが−音楽美学的反省がかすかな兆候の域を越えて成立できなかった。哲学的、文学的前提が欠けていたからである。(ア−ノルト・シュミッツが強調するように、ベ−ト−ヴェンにとって神学者ヨハン・ミヒァエル・ザイラ−が重要であったことを過小評価する必要はない。だがそれは、音楽美学の基礎として、カント、シェリンク、ヘ−ゲルの哲学と比べることのできるものではない。)

 オ−ストリアの音楽は、ハイドンからブルックナ−まで、明示的で言語化された美学を欠いた音楽である。(オ−ストリアの最初の美学者であるエドゥアルト・ハンスリクはブラ−ムス派であり、ブルックナ−の「無教養」に懐疑的であった。)だが一九世紀には、ハイドン、モ−ツァルトそしてベ−ト−ヴェンの作品が「古典」すなわち手本となる様式として顕揚され、その結果、音楽では(文学や造形芸術と違って)反省の欠如が例外というより規範だと思われるようになった。音楽をめぐる文献が「事象そのもの」つまり歴史的現象としての音楽に属しており、単なる付録と見下されてはならないという意識は、−ウェ−バ−、シュ−マン、リスト、ワ−グナ−がいたにもかかわらず−ドイツにおいて(フランスにおけるのとは違って)発達しなかった。反省は、ほとんどいつも自らを恥じている。「文学的」ロマン主義は、教養人にとっても、「非文学的」古典の陰の存在であった。

 このように音楽美学が南のカトリック圏で発達しなかった理由は明らかなのだが(グリルパルツァ−の反省はいつも断片的であった)、プロテスタント・ドイツで−文学の古典のような−音楽の古典が成立しなかったのは不可解である。(カ−ル・フィリップ・エマヌエル・バッハが「古典者」だというエルンスト・ビュッケンのテ−ゼは危うい。ハイドンとモ−ツァルトがバッハを参照し、北ドイツの音楽美学で「高貴な単純さ」が散発的に語られていたというだけでは、十分な根拠にならない。)カ−ル・フィリップ・エマヌエル・バッハ、ライヒェルト、ツェルタ−、ヨハン・アブラハム・ペ−タ−・シュルツは、いずれもウィ−ン古典派に匹敵する様式を代表しているとは言い難い。

 ただし理由のひとつははっきりしている。プロテスタント・ドイツは、内的にも外的にもイタリアから遠かったのである。音楽の古典とはオ−ストリア・イタリア様式(あるいはオ−ストリア・イタリア・フランス様式)のことだと考えられる(カ−ル・フィリップ・エマニエル・バッハは古典者として不十分であり、ケルビ−ニは明らかに古典者であった)。ドイツとイタリアの間の言語上の境界よりも、プロテスタント・ドイツと南のカトリック・ドイツの間の信条の境界が音楽史的に決定的であった。

 古典的音楽美学を欠いた古典的音楽とロマン的音楽を欠いたロマン的音楽美学が共存したというのは精神史の図式をかき乱すパラドクスだが、これはプロテスタント・ドイツと南のカトリック・ドイツの間の文化史的断層の帰結であるように思われる。前者は理性主義と思弁に傾き、後者では、−イタリア、フランス、オ−ストリアの伝統を媒介する「混合された趣味」によって−北になかったような音楽の古典の様式的前提が整っていた。ウィ−ン古典派は、あたかも精神における革命であるかのようなケ−ニヒスベルク、ベルリン、イエ−ナ、トュ−ビンゲンでの美的反省から切断されていた。そして逆に音楽美学は、なによりも哲学的、文学的条件に依存し、音楽的条件には二次的にしか依存しなかったので、時代の支配的様式である古典的で発展した様式から分離され、それにもかかわらず地域的になる危険を免れていた。

 しかしこれは、音楽特有の経験が音楽美学を部分的にしか動機づけなかったからといって、音楽特有の経験を軽視できるということではない。音楽の古典との直接的な結びつきを欠き、ハイドンとモ−ツァルトの作品と具体的な接点がなかったからこそ、−音楽への関心が乏しかったこととならんで−シラ−とケルナ−の古典的音楽美学は断片に留まったのである。また他方で、ヴァッケンロ−ダ−とティ−クのロマン的空想に火を付けたのが非古典的な−多感的で表出的な−音楽作品であったこともどうでもいいことではない。ヴァッケンロ−ダ−とティ−クがハイドンとモ−ツァルトの作品に触発されて『今日の器楽における魂の学』とラプソディ『交響曲』を構想したというのは根拠がない。論文のテクストと往復書簡にあらわれるのは、いつもライヒァルトであり、モ−ツァルトとハイドンは話題にならなかった。そしてヴァッケンロ−ダ−は、イタリアオペラにも内的な距離を感じていた。

W

 ヴァッケンロ−ダ−、ティ−ク、ホフマンの音楽美学がロマン的音楽を欠いたロマン的音楽美学だという端的なテ−ゼは次のような反論に直面する。ヴァッケンロ−ダ−とティ−クが参照したライヒァルトの音楽に「ロマン的」という形容詞を認めるか、それともクレメンス・ブレンタ−ノのように認めないか、これは言葉のうえでの論争であり事実をめぐる論争ではない。ライヒァルトやツムシュテ−クが「疾風怒涛のエピゴ−ネン」だろうが「前ロマン主義者」だろうが、一七九〇年代の多感的で表出的な音楽と、歴史家が慣習的に「ロマン的」と呼んでいる音楽美学の間に様式の一致ないし類縁性があることに何ら変わりがないではないか。

 だがこのような反論は、ロマン主義が、古典と同じように、単なる様式概念ではなく同時にランク概念であることを忘れている。(……。)古典の一部を様式的に予見する「前古典者」が古典者−規範的でエポックから傑出した作曲家−ではないように、「前ロマン主義者」はロマン主義者ではない。

 ホフマンはベ−ト−ヴェンの第五交響曲論で、ハイドン、モ−ツァルトそしてベ−ト−ヴェンの交響曲に「予感」した「ロマン的精神」を、「芸術の最も特異な本質を内的に把握すること」と規定した。つまりホフマンが考えるような「ロマン主義」は、音楽に関するかぎり、歴史哲学上の「古典」、エポックの完成である。そしてランクのイメ−ジは、ロマン主義がのちにエポックの様式として規定されるようになっても完全には放棄されなかった。ツムシュテ−クを「ロマン主義者」と呼ぶことには−プレイエルを「古典者」と呼ぶのと同じような−ためらいがある。そしてロマン的ピアノ曲を基礎づけたのは、シュ−バルトであってトマシェクではない。(ヴァルタ−・ニ−マンがロマン主義の何人かの作曲家を「副次的ロマン主義者」と呼んだのは問題である。彼は、歴史記述における価値判断を軽侮しているように思われる。)

 ヴァッケンロ−ダ−やティ−クと結びついていた「前ロマン主義」と、彼らが目指したロマン的音楽美学の間にはテクストに至るまで亀裂が走っている。ティ−クは『交響曲』で−作曲者名を告げずに−ライヒァルトのマクベス序曲(あるいは「交響曲」)を描写する。ベッキンクによると、それは「純粋な疾風怒涛の産物であり、作法などお構いなしで効果に満ちでおり、高貴さへ向かう濾過のモメントを欠いたまま直接的に感情と感覚に作用する傾向をもつ」。そしてティ−クの詩的パラフレ−ズは「寓意的な楽曲」という同じ精神に由来する。ティ−クは、ベッキンクの言い方を借りると、「音楽の疾風怒涛を歓迎し、それが直接的で無媒介に作用できることを嫉妬している」。音楽から残忍なものの詩的な堆積を聴き取ると、まるでティ−クの初期作品の時代へ逆戻りしたような気がする。ティ−クは、ロマン主義者になる前には「通俗的ロマン主義者」だったのである。

 これに対してマクベス序曲の描写に先立つ交響曲の美学には、もはや「効果に満ちた」身振りの痕跡がない。理論はむしろ混じり気なしにロマン的である。ティ−クは、−柔和であれ力強く心を揺さ振るものであれ−音楽の無媒介の効果に立ち戻るのではなく、人工的なパラダイスへの逃避を讃える。「芸術が不可思議なやり方で発見した」楽音は、「それ自体で閉じた世界」を作る。「人間の表現との類似にもとづかねばならない」声楽は−第一義的にそしてもっぱらオペラ美学であった一八世紀の音楽美学とは真っ向から対立して−二次的で「制約された音楽」とみなされる。「器楽においてはじめて」、芸術は「独立して自由になり、芸術が自らの法則だけを示す。芸術は目的なく遊戯的に空想しながら至高の目的を満たす。芸術はその暗黒の衝動に従い、最深のもの、最も不可思議なものをたわむれつつ表出する」。ティ−ク、ヴァッケンロ−ダ−、ホフマンのロマン的音楽美学は器楽の形而上学である。

 このことは、「前ロマン主義」−ライヒァルトのマクベス序曲の音楽の前ロマン主義とティ−クの初期作品の文学の前ロマン主義−から本来のロマン主義を区別する「質的跳躍」が芸術の形而上学への転向と同一視されてよいということではない。それではまるで、形而上学がア・プリオリに高級で優れており、多感性や疾風怒涛の単なる感情表出が低級でつまらないかのようである。ロマン的音楽哲学は一九世紀には擦り切れた通俗美学となり、実証主義者から単なる形而上学だと軽侮された。だから振り返って本来の作用(たとえばヴァッケンロ−ダ−、ティ−クに依存したのが間違いないショ−ペンハウア−が経験したのような作用)を再構成するには相当努力して歴史を意識する必要がある。一八〇〇年ごろにはロマン的音楽美学が新しく、音楽の疾風怒涛がエピゴ−ネンとして失墜しはじめていた。そして質的な新しさが精神的なランクを基礎づけ、新しいもののなかのやや古い部分を隠蔽できたのだが、しかし古い部分が解消されたわけではなかった。ヴァッケンロ−ダ−のテクストを一九世紀の「通俗ロマン主義」美学によっていわば誹謗中傷して、本来の意義への視線が転倒し、曇ってはならない。

 器楽の形而上学−ヘルダ−、ハイゼ、シュ−バルトの知らない形而上学−が音楽の意味をめぐる歴史に刻んだ切れ目は十分深いので、「ロマン主義」という用語を−広汎な帰結をもたらすものの歴史上の始まりの符丁として−ヴァッケンロ−ダ−、ティ−ク、ホフマンの音楽美学と結びつけるのは正当である。

X

 ロマン的音楽美学とウィ−ン古典派の同時共存は内的な異質さの年代上の外面であるように思われる。しかし両者の間の内的な異質さを否定できないのは歴史哲学的なパラドクスが耐え難いからではなく、内的な異質さが歴史的洞察に由来するものだからである。いずれにしても、ヴァッケンロ−ダ−の『今日の器楽の魂の学』がハイドンとモ−ツァルトの交響曲についての知識を前提していたというレオ・シュラ−デのテ−ゼは経験的な根拠がない。「《魔笛》の成功」が「ロマン的理念の普及を背景としてのみ把握できる」という補完的な主張についても同様である(《魔笛》は一〇年後、つまりツァヒァリアス・ヴェルナ−の版によってようやくウィ−ンで成功した)。

 他方で、ハンス・ハイウリヒ・エッゲブレヒトが示したようにホフマンのベ−ト−ヴェン解釈をいきなり「ロマン的な誤解」と見下すのも不十分である。ホフマンがベ−ト−ヴェンに発見した「ロマン主義」と後世の歴史家の判断によるとその作品が代表しているとされる「古典」が相容れないというのは、「ロマン的ベ−ト−ヴェン像」を軽侮する者が考えているほど確実なことではない。

 ホフマンの言語における「古典的」と「ロマン的」という概念の関係は分裂して込み入っている。二つの用語は一方で無関係に併存し、他方でアンチテ−ゼになっている一 ホフマンが「古典的」と呼ぶのは完全で規範的であり、しかもそれ成立したエポックやそれが代表する様式に依存しないものである。パレストリ−ナやバッハのミサやグルック、モ−ツァルトましてやスポンティ−ニのオペラも「古典的」と讃えられる。ベ−ト−ヴェンのエグモント序曲は、ホフマンによると表現性格において「ロマン的」であり、作曲技術の「手法」において「古典的」である。同じことはモ−ツァルトのオペラにもあてはまる。作品の本質が「ロマン的」であることとそれを「古典的」と評価することは相互に他を許容できる。両者は互いに関係がないからである。

二 古典的古代とロマン的近代を歴史哲学的・美学的に対置するのはアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルとジャン・パウルによって定着した考えだが、ホフマンもこうした対置を受け入れていた。「古代と近代あるいは異教とキリスト教という互いに対立する二つの極は芸術において彫刻と音楽という対極である」。「我々の音楽、すなわちキリスト教を生み落としたロマン的時代の産物は純粋に精神的なエ−テルのなかを泳ぎ、かの古代的存在のように生命へと彫塑的に足を踏み入れない」。ホフマンは標題音楽と音画を音楽に不適切で「彫塑的」、「描写的」なものへの領土侵氾として拒絶する。

 ホフマンはアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルとジャン・パウルから受け継いだ歴史哲学的・美学的アンチテ−ゼを、「器楽の解放」と呼び得る音楽史的な事件の深刻な意義についてのヴァッケンロ−ダ−の洞察と結びつける。彫塑的・描写的なものとは縁遠く「純粋に」音楽的なのは、ホフマンによると声楽ではなく器楽である。「独立した芸術としての音楽を問題にするときには器楽のことだけを考えるべきだ。器楽は他の芸術のあらゆるヴェ−ル、あらゆる混入を取りのぞき、器楽にのみ認識され得るこの芸術固有の本質を純粋に語っている」。ホフマンのテ−ゼは半世紀後に一見自明なものとして確立するが、古代の音楽概念の伝統を断ち切るものとして一八〇〇年ごろには突拍子もない考えに違いなかったことを見落としてはならない。

 ホフマンが「ロマン的」な時代の「本来の」音楽である器楽の対象と考えたのは−伝統的な声楽美学(そこでは人間の本性=自然の模倣が中心カテゴリ−であった)とは反対に−「超自然的なもの」と「不可思議なもの」であり、自然なものや地上的で身近なものではなかった。(「ハイドンは人間の生における人間的なものをロマン的につかんでいる」という一節は、ハイドンによる人間的なものの提示がロマン的色調を獲得したということであり、「古典的音楽についての同時代のロマン的構想において」、「具体的に人間的なもの」がその内包として強調されたということではない。)アフェクト論は器楽のロマン的形而上学と対立する。「ベ−ト−ヴェンは純粋にロマン的な(それゆえ真に音楽的な)作曲家であり、だからこそ彼にとって声楽で成功しなくてもよかった。声楽は無規定的な思慕を許さず、言葉で特定されたアフェクトだけを提示する」。(「無限の王国において感じられ」たものは、それが音楽であり「単なる自然の模倣」ではないかぎりにおいてのみアフェクトの提示である。)

 他方で、「ロマン的」なものは模倣や反復が不可能なものであり、手本という意味での「古典的」なものの規範的性格とは−潜在的にではあれ−対立する。ホフマンがグルクのオペラを「古典的傑作」としてモ−ツァルトの「高度なロマン主義」と区別するとき、彼が考えているのはグルックの古代的題材とモ−ツァルトの近代的題材の間の違いである以上にグルックの手本性(それはパリの正統的なグルック派と結びついていた)とモ−ツァルトの模倣不可能性(モ−ツァルトの後継者はエピゴ−ネンと判断された)の間の違いである。「だから評者は古く上首尾で力強い作品」−先に引用したグルックの「古典的傑作」−を「研究すべきで、モ−ツァルトの高度なロマン主義のあとを追い掛けるべきではないと考える」。(モ−ツァルトの作品は完全な芸術として「古典的」だが、手本となり模倣できるという意味での「古典的」ではない。一九世紀の古典概念は−独創性理念の支配下にあって−手本性よりも時間の超越を強調されていた。)

 このように、ホフマンが考えるロマン的なものは異教的古代に対するキリスト教近代、彫塑的・提示的なものに対する音楽的なもの、手本的なものに対する模倣不可能なもの、「制約された芸術」である声楽に対する「純粋」音楽、自然で地上的な具体性に対する「超人間性」と「不可思議性」、アフェクト提示のリアリズムに対する形而上学(その極端な帰結がショ−ペンハウア−であった)である。

 器楽には「超人間性」と「不可思議性」が声として保たれていると思われ、それが魅惑的に強調されたわけだが、そのことによってロマン的音楽美学はウィ−ン古典派の精神かた遠ざかる。ウィ−ン古典派の精神は思弁的形而上学の刻印を受けていなかった。ハイドンは、グリ−ジンガ−によると交響曲で「倫理的性格」を楽器により描写しようとしたわけで、モ−ツァルトとベ−ト−ヴェンも人間的ないし「英雄的」な尺度で交響曲を考えていた。しかし他方で、同時代の判断がハイドン、モ−ツァルトそしてベ−ト−ヴェンの交響曲のなかに、イタリアオペラに規定された慣習的な音楽概念との断絶の兆しを認識していたことを真摯に受け取らねばならない。つまり北ドイツの美学者だけが器楽の圧倒的な新しさを感じ、「ロマン的」という流行語によってそれを特徴づけようとしたわけではなかった。スタンダ−ルはおよそロマン主義者ではなく、……彼の趣味はチマロ−ザとパイジェルロによって形成されたのだが、彼もまたハイドンの交響曲を「ロマン的」空想の表現と感じ、アリオストやシェ−クスピアを連想している。「……」。

 このように、古典的器楽(古典全般ではない)のロマン的解釈は歪んでいるとはいえひとつの認識の表現である。ヴァッケンロ−ダ−、ティ−ク、ホフマンは哲学と文学の伝統から形而上学的定式を取り出して、音楽概念の根本的転換と感じたことを表現した。この定式はヴィ−ン古典派の精神を捉え損なっている。しかしプロテスタント・ドイツと南のカトリック・ドイツの間の文化史的断層に起因する距離は次の事実と比べれば副次的である。深刻な歴史的変化はロマン的音楽美学によって言葉でつかまれたのであり、それが強調され広汎に作用したことが事件の重大さと対応していたのである。


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