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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

カントの音楽美学について

 哲学的で思弁的な音楽美学への関心は、歴史的で心理的な対象と現象を優先することに慣れてしまっているので希薄になっている。だからカントのカテゴリ−、原理、命題を理解するように音楽通や音楽愛好家を勧誘するには、詳細な正当化が必要であるように思われる。人は、個々の音楽美学的な論点をカントに求めようとしないし、『判断力批判』や『人類学』に一八世紀後半の音楽観についてのヒントを求めようともしない。前者は時代錯誤的であり、後者はやっかいなのだろう。とはいえ、音楽と哲学という二つの学科が生産的であった時代における両学科の関係は、歴史家の注目を集めるはずである。両者を関係づける音楽美学という言葉は、哲学的に基礎づけられた音楽史的現象と考えられてよいからである。音楽をめぐる直観としての音楽美学は、哲学の問題設定から生まれ、文化体系のなかでの音楽の位置を新たに規定した。それは、哲学から概念を借りただけでなく、それ自体が哲学であるような音楽思考である。歴史的な事実として哲学的教養の発展が芸術の特殊な生産性と合流したことが、哲学の一学科としての美学、もしくはある哲学的問題をめぐる学科としての美学の前提である。美学は、哲学の学科となるために哲学の中心的な問題と本質的に結びつかねばならなかったのである。そしてカントの音楽美学は、彼の批判体系の文脈で理解されねばならない。

 カントが美学的に考えはじめたのは、『純粋理性批判』の認識理論としての結論に不満だったからだと思われる。経験の形式(悟性の諸カテゴリ−や空間と時間という「純粋な直観形式」)が経験の素材(感官の無規定的でアモルフ的な感覚)と媒介されず分離していることに、彼自身が不満であった。経験の素材の特殊性における個々の対象、つまり美学の対象は、直観の統一体、とりわけ概念の統一体として体系のなかに場所をみいだしていない。第三の「批判」において、カントは判断力を、感覚と悟性を媒介する認識能力として導入する。判断力は、特殊性を一般性のもので把握し、しかも特殊性を消失させない。美的判断力としての判断力は反省的である(規定的ではない)。判断力は、所与の特殊性に一般性を見いだすのであって、特殊性を所与の一般性へ統括するわけではないからである(El)。カントは、広義の美的判断(「ここで美的判断力と呼ぶのは、規定の基盤が主観的でしかありえない判断である」(1))を趣味判断(美を対象とする判断)や芸術判断(趣味判断を越えて芸術作品の「文化価値」へ向かう判断)から区別している。

 趣味判断とは次のようなものである。その性質についていえば「概念を欠き、主観的に一般的」(6-8)であり、その関係についていえば、「目的を欠いた合目的性」(2)へ結びつけられ、再びその性質についていえば、「私利私欲を排した快」(2)であり、その存在様 態は「主観的に不可欠」(18)である。このような規定は、パラドクスの形式をとっており、カントはこのパラドクスを「理念」によって解消する。「理念」は、カントによれば「主観的に不可欠」な想定であり、「統制的原理」である。それは、表象の無限の並列を閉じ、モメントの無限の多様性を統一する。

 それゆえカントの疑問は次の三つである。

  1. 趣味判断の通用可能性
  2. 美的対象が判断される方法
  3. 美的対象に対する我々の態度

 1、趣味判断を「概念を欠き、主観的に一般的」(つまりあらゆる主観に通用する)と規定したことは、「共通感官の理念」(20)を示している。共通感官は、−たとえば美的判断を条件づける時代精神のように−歴史的ないし心理的に理解されてはならない。それは、「理性の要請」(22)である。彼は、判断の一致を外的な量で根拠づけるのではなく、「一般的な理想」といったもので根拠づける。美的判断が一般的に伝達可能であり、一般的に通用するのは、悟性の規則によるのでも、経験的な所与によるのでもない。美的判断は、むしろ「例示的」、「明示できない一般規則の例のようなもの」(18)である。

 2、我々の認識能力にとって、対象の「合目的性」(適合性)はあらゆる認識の「主観的に不可欠な」前提である(つまりそれもまた「理念」である)。美的態度は、合目的性そのものをただ直観することに固執し、目的、規定された認識を実現しない。「認識の一部となりえないような表象の主観的なものとは、表象と結びついた快適ないし不快適である」(El)。

 3、趣味判断は「認識諸能力の自由な遊び」(9)、「このような快適さ(美的な快)を 基盤とする認識諸能力の遊びの自発性」(El)にもとづいている。認識諸能力の美的調和において、感覚と概念の分裂が鎮まる。美的な快は、対象を理論的ないし実践倫理的、感覚的な私利私欲にさらすのではなく、対象をその特殊性について「自己目的的に」自由にそれ自体として存在させる。

 カントの規定を我々に馴染みのイメ−ジと結びつけるとすると、「悟性概念なしの一般性」は、対象をカテゴリ−にあてはめることなく、対象の特殊性を受け取るような洞察だと考えられる。そして「目的を欠いた合目的性」は、ある対象のモメントの多様性を関連豊かな統一として把握できるような観察だと考えていいだろう。美的判断において、特殊なものと一般的なもの、手段と目的、悟性概念の無規定的な感覚がもはや苛烈に分離されるのではなく、「互いに浸透」している。しかも美的領域における「理念」、つまり「美的理念」においてそうなのである。

 音楽の最下領域は個々の楽音である。それは「感覚の(時間における)単なる遊び」である。なぜならカントは、オイラ−の理論(我々は個々の色彩におけるエ−テルの振動と個々の楽音における空気の振動を既に「印象の規則的な遊び」として知覚しているので、「色彩と楽音は単なる感覚ではなく、既に多様性をもった統一の形式的規定であり、それ自体が美に数え入れられ得る」(14)という理論)を疑っていたからである。個々の楽音は、なるほど純粋であれば快適である。しかし快適なものは単なる「刺激」(心理的な意味ではなく通俗的な意味において)であり、趣味判断の対象ではない。そして「純粋さは、形式の快に何かを加味するものではない」。そうではなくて、純粋さは「形式の快をより厳密で、より規定的、より完全で、より直観しやすくする」(14)。複数の楽音が結合してはじめて、カントはそれを(留保つきではあるが)「数学的形式」とみなす。「数学的形式」によって、特殊なものは一般性のもとで把握され、美と把握される。楽音間の差異は「概念的な区別」であり、音の連続を把握することは、もはや「感覚の単なる遊び」ではなく、「複数の感覚の遊びの形式を判断する作用」である。カントは、「音楽の躍動における比率という数学的なもの」と「音階における緊張の多様性による(感覚の単なる段階的変化ではない)質的な変化の知覚」(51)を考えている。

 だがカントにしてみれば、楽音の連続が快を伝える数学的形式であるというだけでは、音楽における美の根拠として不十分だったようである。「このような数学的形式は、規定された概念によって表象されず、そこには快だけが付着している。快は、こうした互いに随伴したり継起したりする数多くの感覚についての反省、および感覚のこのような遊びについての反省と結びつき、誰にでも通用する美の条件となっている。そして反省によることで、趣味は誰もがアプリオリに云々できる判断としての権利を認められる。しかし音楽が生み出す刺激と心の動きには、数学がいささかなりとも関与していないし、数学は避けようのない条件でしかない……」(53)。そして具体的な音楽は「むしろ快適さに奉仕しており、美しい芸術に数え入れられない」(54)。「音楽において主題なきファンタジ−[規定なしに音楽を把握させ、統一するアフェクト]と呼ばれるもの、テクストのないすべての音楽」は、「何も表象しない自由な美」(16)である。音楽の美である「数学的形式」は、具体的な作品の作用にとって副次的であり、純粋な趣味判断を越える芸術判断において、音楽は「文化というより娯楽」(53)である。カントは、音楽を美的なものの最高領域から閉め出している。その「形式美」が初歩的であり、「文化」へ発展せず、感覚的に快適な作用へ解消されているかぎりにおいて。

 美は「複数の感覚が遊ぶ形式」と規定される一方で、「美的理念の表現」(51)と規定されている。なるほど音楽は「感覚の美しい遊び」だが、形式美は音楽の印象の背後に隠れたモメントでしかない。形式美というモメントは、感覚的な快適さの猛威によって駆逐されてしまうので、音楽はそれ自体としてではなく、詩の助けを借りてはじめて「美的理念の表現」になる。「音楽は、なるほど概念にかかわりなく、単なる感覚を通して語るので、詩と異なり、熟慮すべきものをあとに残さない。にもかかわらず、音楽は詩よりも一層多様に、また一時的にせよ一層深く心を動かす。しかしそれは、文化というよりも娯楽である。[……]音楽の刺激は一般的に伝わるが、それは次の諸点にもとづいているように思われる。あらゆる言語表現は、関連しあってその表現の意味に適合するト−ンをもつ。そしてこのようなト−ンは、多かれ少なかれ話し手のアフェクトを表示し、反作用的に聴き手にもそれを喚起する。すると聴き手のなかで、今後は逆に、そのようなト−ンをもった言語で表現されるような理念までもが呼び起こされる。また(言語の)ト−ンを変えることがいわば一般的で、すべての人間に理解できる感覚言語であるように、音芸術も、ト−ンの変化を強調のために、つまりアフェクトの言語として行使し、連想の規則にしたがって、ト−ンの変化と自然的に結びついた美的理念を一般的に伝える。しかしこのような美的理念は概念ではなく、規定された思想でもない。だからこれらの感覚が結合した形式(和声と旋律)は、言語の形式に代わり、その比率の調律によって[……]名付けられない豊富な思想のまとまった全体の美的理念を、その曲を支配するアフェクトが示す一定の主題にそって表現することに役立つだけである」(53)。

 「美的理念」という概念は、カントの美学の隠れた中心である。我々にはさしあたりこの概念の表面的な定義が与えられているにすぎないのだが(=「美的判断の領域における理念」としての「美的理念」)、この概念は、芸術判断の領域でその豊かな内包を開花させている。「私が美的理念と呼ぶのは、次のような想像力の表象である。それは、多くを考えさせるが、しかし規定された思想や概念にあてはめることができないので、言語に達すことがなく、言語で理解できない」。それは、「多くの名付けられない概念について考えさせ、名付けられないものの感情が認識能力を活気づかせ、単なる文字としての言語や精神と結びつく」(49)。美的理念は、感覚の単なる遊びを認識能力の遊びへの媒介する。それは、趣味判断が「知的なもの」を「仰ぎみる」媒体である。音楽は、このような要請から排除されているようである。言語とのアナロジ−によってのみ、音楽は「名付けられない豊富な思想のまとまった全体の美的理念を[……]表現する」。

 間違いなく、このような言い方には、批判以前の美学から批判的・観念論的な美学への移行が記録されている。美的理念として示されたのは、批判以前の表象である。それは、芸術において対象化されており、同時に「アフェクトの客体」であるような表象である(カントは第五四節でもまだそのように定義している)。先に引用した第五三節の箇所で、カントは美的判断における美的対象を強調し、美的理念を「名付けられない豊富な思想のまとまった全体」として提示する。振り返ってみると、「理念」はカントにとって「統制的原理」であり、表象の無限の並列を閉じて統一する。「美的理念」は、主観的な美的判断の領域における理念であり、「美的理念」によって、多様な感覚と思想の遊びは把握可能な統一体になる。美的理念は、同時に(芸術作品に客観的に提示された)主題に沿うことによって、感覚と思想の多様性の統一を芸術作品の内容と結びつける。批判的概念としての美的理念が、芸術作品に対象化されたものという批判以前の表象から切り離されないという両義牲が、美的主体と美的客体の関係を認識させるのである。ただし「美は美的理念の表現である」という一節は美的理念を内容と結びつけており、形式的で内容を問わないものとしての美の概念と矛盾するように思われる。このような困難は、美的理念を「活性化原理」と考え、有機体思想とのアナロジ−で「自足する美的合目的性」という概念だと理解することで解消できる。さらに、「一般性の理念」は、一方で概念を欠いた一般的な美的判断の前提であり、他方で倫理的な理性の要請である。そして最後に、美的理念は、概念とのアナロジ−によって、「まとまった全体」を提示する。美的理念は、たんなる直観においては、なるほど(「想像力の表象」として)概念の背後に引きこもっているが、「美的全体性」の理念として概念を乗り越え、人間の能力の全体性を反映したイメ−ジとなる。美的理念を活性化原理と規定することと、倫理的要請、そして全体性という目的概念との関連は、「文化価値」という概念に合流する。こうして「美は美的理念の表現である」という文章が背景を獲得する。しかし、このような背景は、趣味判断の定義も矛盾してはいない。美的な快は、なるほど(否定的に規定すると)私利私欲を排した(つまり認識や行為とはかかわりがない)わけだが、趣味判断の肯定的な規定(概念を欠いた一般性、目的を欠いた合目的性)は、「文化価値」を示唆している。そして「文化価値」は、美的理念という概念にますます接近するように発展するのである。芸術は、「快適が同時に文化であり、精神と理念が同調する」ときに、ようやく「文化価値」という概念に合致するのである。

 もう一度第五三節に戻ろう。カントがアフェクト論に向かっているのは歴史的な「偶然」であって、体系的な必然ではないように思える。なぜなら、音楽が美的理念を呼び起こし統一として現われるために自らを関連づけるとされた「主題」が、アフェクト以外の内容であることも考えられるからである。カントはひとつの可能性を見落としている。なぜなら、彼は音楽の時間性を一面的に判断しているからである。カントは、音楽を「文化」の領域から排除する。その「形式美」(楽音の比率)が感覚的な快適さに覆い隠されているのみならず、音楽が単なる「移ろいゆく印象」だからである。音楽は「完全に消え去り」(53)、時間のなかに存立せず、鳴り響くとともに鳴り止み、統一として現われることができないからである。カントはあらゆる音楽的瞬間が過去の再生産と後続への見通しを自らのうちに封じ込めていることを見逃した。「音楽における感覚の遊び」が「認識能力の遊び」となり、時間というモメントがその十全な権利を獲得できるような脈絡が考えられるはずなのに、作り出されていない。我々は次のように問いたい。音楽の「主題」はどのようにしてより包括的に定義されるべきなのだろうか? 音楽の「主題」は一方で「形式美」へ、他方で音楽の「移ろい」へとどのように関係づけられているのだろうか? そして我々はその場合に、時間を「純粋な直観形式」としてではなく、前進する「人間的な」時間と考えたい。我々が考えるのは、堆積し、次第に豊かになる過去を自らの内に担うような時間である。


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