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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

形式美学と模倣原理

 論文『音楽美について』を一八五四年に締め括っていた段落を、エドゥアルト・ハンスリックはのちの版で、あたかも自分を引きさらった形而上的熱狂に恥じたかのように、除した。「この精神的内包は、聴き手の心においても、音芸術の美を別の大きな美しい理念と結びつける。音楽はそれに固有な美だけで絶対的に聴き手に作用するのではなく、同時に宇宙の大きな運動の鳴り響く模倣として作用する。深く秘かな自然との関係は、音の意義を音そのものを越えて高め、人間の才能による作品において同時に無限を感じさせる。音楽の要素である響き、楽音、リズム、強さ、弱さはユニヴァ−ス全体に存在するので、人間は音楽にもユニヴァ−ス全体を見いだす。」

 ハンスリックが世界の比喩、「鳴り響き運動する形式」はユニヴァ−スだという譬えを、思弁的な耽溺ともども切り離したわけだが、これをフェリクス・プリンツはロベルト・ツィマ−マンの影響と説明した。ハンスリックは、象徴的飛躍が「特殊音楽的」なものの醒めた実証的美学と一致しないと説得された。これと逆にヘルマン・ロッツェは、この比喩をめぐるハンスリックの線描画をいわば油絵に仕上げ、この比喩を、彼がハンスリックと取り組むことで発展させた音楽美学(そこでは同意と反論、そして訂正を装った同化がごっちゃになっている)の決定的モメントとみなした。「我々が世界全体を見渡すと、世界は無原則な多様性へ分解するのでなく、被造物のしっかりした種が様々な段階の近親関係で結びつけられ、あらゆる種がそれぞれのやり方で発展していることがわかるし、あらゆる種が外の世界に取り巻かれて発展するのに十分な条件を備えていることがわかる。そしてこうした直観から細かい点を取りのぞくと、ある調和に満ちたイメ−ジが残る。そこでは、あらゆる個々の生きた衝動が単独で空疎に広がるのでなく、そのイメ−ジを高めて強化し、目標へ導く運動が随伴していることが予想される。−そしてこのような偉大なイメ−ジを我々が語ることができるのは、このイメ−ジをそれ自体から音楽へ変貌させることによってである。我々はすぐさま悟る、音芸術の課題は、世界のこのような構造の深い幸福を表現するなのだということを。あらゆる個々の経験的感情は、その特殊な反映にすぎないのである。」音楽美は、ロッツェによると「鳴り響き運動する形式」そのものではなく、ユニヴァ−スとの類似に基礎づけられる。「我々がこの注釈を残した霊感豊かな文筆家[ハンスリック]の正当性を認めるのは次の点においてである。すなわち音楽は、生起する現象の動的なものだけを、出来事の形象だけを反映する。だが我々は、この形象の価値をそれ固有の価値とみなさない。こうした形象は、無数の財宝を想起させることで美しい。財宝は、現象が同じリズムをもつことで思考可能になり、そのことでのみ思考可能なのである。」世界の比喩はどうしても宇宙のムシカ musica mundana の理念を想起させるわけだが、違いを見落としてはならない。古代と中世では音楽の音組織のアレゴリ−機能が問題であり、一九世紀では音楽芸術作品の象徴性が問題になっている。そして世界の比喩は、ツィマ−マンによると付録であり、ロッツェによると中心である。

 ハンスリックが決まりをつけるためだけにレトリックを駆使したのだと考えるべきではないだろう。のちの版で同様に削除された別の箇所には、「鳴り響き運動する形式」をめぐる中心的な文章が直接先行している。「[……]それは、鳴り響き運動する形式が同時に高度なレヴェルであの偉大な世界法則を反映する象徴的な意義深さを所有できる場合においてである。そして我々は、こうした意義深さをあらゆる芸術美に見いだす。」

 ロマン的精神が復興したピタゴラス主義の単なる名残や斑晶(ダルベルク、ノヴァ−リス、シェリングに現れるような)と説明するだけでは不十分である。決定的なのは、むしろ古典的・ロマン的美学にハンスリックが結びついていたことであり、世界の比喩、それ自体に基礎づけられて完結した芸術作品という理念、そして人工音楽が「概念なしに精神能力がある素材による精神の自由な創造」だという考え、これらの間には、体系的な関連が存在した。

 カ−ル・フィリップ・モ−リッツは一七八八年に『美の造形的模倣力について』という論文−古典美学の基礎文献のひとつ−において、「美の概念は、それ自身で存続する全体の概念と切れ目なく結びついている」という文章の前提と含意を反省した。込み入った議論の結論が世界の比喩であり、モ−リッツでは、それが単なる小宇宙と大宇宙のアナロジ−の引用、すなわち教養伝統の金庫からもちだした質草ではない。それは、自己完結した全体としての芸術作品という概念は自明ではなく、問題であり、しかも逆説である、という意識に支えられた反省から生成している。「純粋な美、すなわち自然という思考力が包摂できないものの偉大な全体の調和的な関係の総概念との比較点はどこにあるのだろうか? 自然のあちこちに分散する個々の美は、あの偉大な全体のあらゆる関係の総概念を多少なりとも示しているかぎりにおいてのみ美しいのである。」固定したピタゴラス的定式は、モ−リッツにおいて思考の運動と融合している。一方の「美しい作品」と他方の自然全体の類似というイメ−ジは、次の諸前提の帰結である。第一に、美は概念によってではなく、直観によってつかまれる。第二に、芸術作品は自己完結した関連として現れるべきである。第三に、それにもかかわらず、自然こそが「本来的に唯一の真の全体」である。「だが美しい作品では」−モ−リッツの「美」の概念はいつも自然美を含むが、美学の中心対象は芸術作品である−「個々の部分の全体への多様な関連[すなわち形式]は我々の悟性だけによって思考されるのでなく、また悟性によって思考されるのでもなく、むしろ我々の外感へのみ働きかけるべきであり、我々の想像力によってのみ包摂されるべきである。そのかぎりにおいて、我々の感覚という手段は美を再びその尺度で記述する。それ以外では、自然全体の関連(それは我々に考えられる最大の全体であり、あらゆる関連を自らのうちにつかんでいる)が我々にとっても最高の美であろう。もしもそれを我々の想像力が一瞬で包摂することができたとすれば。やはり、もののこうした偉大な関連こそが本来的に唯一の真の全体なのだから、その内部にある個々の全体などというものは、がたいものの連鎖を無視しており、どれも想像にすぎないのだが」−つまり、芸術作品の美的自律は厳密に考えると虚構なのだが−「しかしこうして想像されたものであっても、全体として考察すると、我々のイメ−ジのなかにある例の偉大な全体と類似せねばならず、永遠の堅固な規則に従わねばならない。そうすることで、想像されたものが全面的に頂点に立ち、それ固有の存在に依拠することになる。」芸術作品の知覚できる完結性は、単なる仮象でないためには、自然全体の知覚できない体系関連の反映と把握されねばならない。世界の比喩、類似あるいは分有というイメ−ジは、モ−リッツの場合、美学理論に建て増された付足しではなく、ハンスリックがしたように議論から損傷なく除去することはできず、「美しい作品」の自律を基礎づける機能を果たしている。ハンスリックがツィマ−マンの影響で象徴性を侮り、無用な文章として捨てたとき、彼は次のような批判に対してほとんど無防備になった。自己完結した作品、「それ自身で成り立つ美」という理念は「想像」、しかも正当化を欠いた「想像」ではないのか?

 モ−リッツは芸術作品の自律理念をその象徴性格と結びつけたわけだが、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルは一八〇一年にベルリンでの『美しい文学と芸術の講義』でモ−リッツの議論を熱狂的に引用し、モ−リッツの議論を、「美しい作品」と世界全体の類似は傑出した天才が「産出スル自然 natura naturans」(もはや「産出サレタ自然 natura naturata」ではない)と把握された自然を分有していることに基礎づけられる、という考えで補完した。「natura naturata」の模倣を求める通常の模倣理論への批判、天才 信仰の格言、作品と形式の美学の基礎づけ(この美学理論の中心カテゴリ−は閉じた機能的組み立てとしての「それ自身で成り立つ」作品である)がシュレ−ゲルでは相互浸透し、解きがたい関連をつくる。

 「自然の単純な模倣」は、シュレ−ゲルの批判的提示では美的通俗とみなされる。「自然といっても、多くの人々は人間の芸術的作為なしに現存するもの以上のことを考えません。このように否定的な[芸術(テクネ−)との違いに規定された]自然概念に、同じように受動的な模倣による自然概念を組み合わせると、これは単なる模倣、複写、反復になっていまい、芸術はもはや飯の種にならない[役に立たない]稼業になってしまいます。」美学や芸術理論の歴史では、自然の模倣が−アリストテレスの用語で言えば−経験的所与を単に複写することだけでなく、素材に不完全に刻印された事の本質形式の鍛え上げることを意味していたのだが、シュレ−ゲルはこれを無視して、彼が批判する散文的原理と彼が目指すポエジ−的原理の対比を鋭く際立たせる。彼は、美学理論における自然の位置をめぐって論戦を挑んだわけではない。だが、彼は自然を産出活動として思弁的、「哲学的」に把握するのであって、現存するものの総体として「経験的」に把握しない。「世界を生気なく経験的に眺めると、ものがあるだけです。でも哲学的に眺めると、すべてが永遠の生成において、止まることのない創造において把握されます。創造されて共生する大量の現象は、私たちにいわばぶちあたってきます。ですから、太古の昔以来[シュレ−ゲルが考えているのは古代のピュシス]、人間もこのようにすべてに作用する生成の力を理念の統一にまとめてきました。そしてこれが、本来の最高の意味における自然なのです。」所与の知覚できる自然(natura naturata)を、シュレ−ゲルは−ラテン語で呼 ぶのにスコラ的本能を欠いており−思弁的に開示される自然(natura naturans)と対 比する。そして単なる複写(imitatio)としての模倣を、見習い(aemulatio)としての 模倣と対置する。後者は手本を模写してなぞるのでなく、手本をまねてふるまう。「自然をこのように最良の意味で、つまり生産されたものの集積としてではなく、自ら生産するものとして受けとめ、模倣という言い回しについても高貴な意味で、つまり人間の見せかけを見習うのでなく、行動の格率に同化することとして受けとめたとすると、基本法には、批判されるべきものや、付け加えられるべきものはありません。芸術は自然を模倣すべきです。つまり芸術は、自然のように自力で創造し、組織されつつ組織し、生きた作品を作るべきです。」だが、模倣原理の掘り下げは、その解体を意味しない。音楽へ転用すると、シュレ−ゲルの解釈はこういうことである。音楽作品の美的存在理由は外的ないし内的な自然の模倣(音画やアフェクト提示)へ求められるべきでなく、鳴り響く形象がそれ自身に基礎づけられた閉じた機能関連として、つまり「有機体」、内発的に「組織する」原理の産物として現れることにある。模倣原理のシュレ−ゲル的な読み換えは、形式美学の素描を生み出す。

 ただし、見習い(aemulatio)概念は、古典的・ロマン的美学が考えたような芸術と自 然の関係を規定するのに不十分である。カントが一七九〇年にコ−ド化した天才美学では、産出する自然(natura naturans)を天才が分有すること(単なる見習いではない)で 芸術が生まれる。「天才とは芸術に規則を与える才能(自然の賜物)である。この才能は、芸術家に生得の生産能力として自然に属するのだから、次のように言うこともできる。すなわち天才は生得の心の気質(ingenium)であり、この心の気質を通じて、自然が芸術に規則を与えるのである。」(46)天才が自然を分有するという考えは、イメ−ジだけを取り出すと古代起源の紋切型だが、一八〇〇年前後の文脈では芸術の形而上的な意義と価値を基礎づけた。一方で、−ジャンバティスタ・ヴィ−コ風に−人間が自分の制作したものを根本的に認識できることを前提し、他方で、芸術の生産性を natura naturansの分有と把握すると、産出する自然の作用ぶりは知覚を許さぬのではなく、哲学的思弁を通じて開示されるわけで、芸術作品から最も良く読み取れることになる。芸術は、だからこそシェリングにおいて形而上学の装置とみなされる。

 このように、天才美学と自律思想は−模倣原理と対立し−密接に結びついて現れる。芸術が「それ自身による世界」だということは、古典的・ロマン的美学では、芸術が経験的な事物の模写や模倣を軽侮することを意味するが、自然との関連を破壊されたことを意味しない。むしろ芸術は、−natura naturans を分有する天才の作品として−その起源を自然に負っている。そして同じ産出する自然の活動は、所与の−人間が作ったわけではない−「natura naturata」の背後にも想定されねばならない。


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