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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

カ−ル・フィリップ・モ−リッツと古典的音楽美学の問題

 「ハルトクノプフは鞄からフル−トを取り出し、先生の素晴らしいレチタティ−ヴォを快い和音で伴奏する。−彼は、即興で悟性の言語を感情の言語へ翻訳した。音楽はそのためにあるのだから。彼はしばしば前段を話し、後段をフル−トで続けた。彼は思想を吸い込み、フル−トの音で吐き出して、悟性から心へ分け入った。」ここに引用したカ−ル・フィリップ・モ−リッツの寓意的風刺小説『アンドレアス・ハルトクノプフ』は一七八五年(年号表記は一七八六年)に出版された。モ−リッツが音楽について語る言語は、一七八〇年代の多感主義の常道である。そして、ハルトクノプフが即興したのがアルカディア的でメランコリ−的なフル−トなのも偶然ではない。スタ−ン夫人の長編では、この楽器の嘆息するような音で、狂ったマリアは旅先のトリストラム・シャンディに憂欝な物語を語る。「このとき彼女はフル−トを手に取り、この苦しい物語を話した。私は飛び上がり、のろのろと自分の道を進んだのである。」(九巻二四章)

 特徴的なのは、モ−リッツでもスタ−ンでも、旋律の単純さと技巧のなさが心に触れたことである。多感主義の音楽美学は、−バロックのアフェクト論や古典とロマン主義の芸術哲学と違って−自然音としての音楽の美学に傾き、芸術作品としての音楽の美学ではなかった。ハルトクノプフは「音楽を情念に作用させる技術を理解した。−だから彼はフル−トを鞄に携えていたのである。−そして彼は練習に励み、何気ない二、三の身振りで心の動揺を和らげるまでになった。悩みを解決し、弱気なものへ新しい希望を吹き込むことができた。彼はしかるべき音を選んで取り出す以外に何も技巧を弄しなかった。−しかもしばしば、非常に単純なカデンツや旋律が、不可思議な作用を生み出した。」だが、ハルトクノプフの多感な気分は、ほとんどわからないうちにロマン的な気分へ移行し、音楽は、もはや人間が人間へ語って共感の絆を結ぶ心の言語ではなく、思いがけず心の最奥へ触れて心に遥かな精霊の王国への予感を呼び覚まし、魂に無限の憧憬を喚起する。「誰もが少なくとも一度は人生で経験することだが、まったく何でもない音が遠くから聞こえてきて、魂がそれらしい気分にあるときには、実に不可思議なエフェクトが魂へ行使される。それは、まるで無数の思い出、無数の仄暗いイメ−ジがこの音から生まれ、それらの思い出やイメ−ジが、心を書き表わし得ない悲しみで包むかのようである。」「無限の憧憬」が「敬虔」に音楽に聴き耽る心を天上界へ高めるわけで、こうした無限の憧憬について、ヘルダ−はようやく一八〇〇年に『カリゴネ』で(つまりモ−リッツ、ジャン・パウル、ヴァッケンロ−ダ−よりも遅れて)語っている。一七九〇年代には、魅惑の心理学であった多感美学がロマン的美学へ解消され、ロマン的美学が音楽について形而上的なカテゴリ−で語っていた。そして多感主義が求める感傷が仲間内の感情−音楽は共感、すなわち魂の融合を基礎づけた−だったとすると、「無限の憧憬」は孤独によって、すなわち「神聖」と讃えられた芸術へのひとりぼっちの瞑想によって育まれた。

 多感的反省からロマン的反省への移行が『アンドレアス・ハルトクノプフ』の音楽美学的逸話を思想史のドキュメントにするわけだが、こうした移行はジャン・パウルにおいて(彼はモ−リッツの長編に感嘆していた)、一〇年後の『ヘスペルス』(一七九五)で同じように素描できる。カ−ル・シュタ−ミツの交響曲の作用は、『真夏の一九日』の描写によると、まずはアフェグロで耳に単なる刺激として飛込み、アダ−ジォで心に触れる。ジャン・パウルが依拠する美学はまったく慣習的であり、「調和した旋律学」というアレグロの特徴づけはヨハン・アブラハム・ペ−タ−・シュルツへ遡る。シュルツはズルツァ−の『美しい諸芸術の一般理論』で、アレグロを「ピンダロスの讃歌」(それは「崇高で震撼させる」)に譬えている。「シュタ−ミツは−凡庸な宮廷楽長が思いつかないようなドラマ的な計画にしたがって−、次第に耳から心へ高まった。アレグロからアダ−ジォへ移ると、この偉大な作曲家は次第に輪を狭めて胸から心へ進み、ついには心へ達して陶酔のあまり卒倒させる。」だが、ジャン・パウルは心への注入 Herzenergiesung を言 葉でとらえて主人公へ話しかけるうちに、感情を哲学的な反省へ高め、感涙 Ruhrung す る気分から夢想する形而上性へ転換する。それは、同時期にヴァッケンロ−ダ−とティ−クがロマン的音楽美学の草案で達成したのと同じ形而上性である。「信頼するヴィクト−ル! 人間には、まだ満たされない偉大な希望がある。それは名前もなく、自分の対象を探している。だが、君が与えた名前や喜びは、どれも違う。[……]この偉大で恐ろし希望は、僕たちの精神を高めるが、苦痛をともなう。ああ! 僕たちは、地上で高みへ同じ癇癪をぶつけよう。だが、名前を与えることのできないこの希望を、人間の精神は僕たちの弦と音と呼んでいる。−憧憬する精神は激しく泣き、もはや平静を失って、音の忘我の慟哭のうちに叫ぶ。それの名前が僕にはないんだ。[……]」ロマン的音楽美学は、文学における語り得ないものというトポスから生じた。音楽は言葉にまとめることができないものを表現する。そしてモ−リッツの『アンドレアス・ハルトクノプフ』とジャン・パウルの『ヘスペルス』といった長編小説において、ロマン的音楽美学の前史が素描されている。

 『アンドレアス・ハルトクノプフ』において、長編の文脈では目立たず、論考の形でプログラム化されてはいないにしても、音楽をめぐる多感的心理学からロマン的形而上学への移行が達成されたわけだが、モ−リッツは二年後に、論文『美の造形的模倣について』(一七八八)で古典的ないし古典主義的美学の輪郭を草案した。この美学は−タイトルに反して−「造形」芸術へ限定されず、音楽については潜在的に、文学については顕在的に体系へ取り込んでいる。

 モ−リッツは芸術それ自身とそれが発する作用を峻別する。作品が観察者のためにそこにいるのでなく、観察者が作品のためにそこにいる。芸術は、自律的に自らのために存在する。芸術性格、すなわち「美」は、共同体の機能から独立した質である。「すなわち我々が美を一般性において認識できるのは、我々が有用なものから遠く対峙して、そこからできるかぎり鋭く区別されることによってである。」だが、作品が自律的で、ものの自然的、社会的関係の全体から抜け出ているとすると、それ自身が全体、すなわち部分と機能の自己完結した体系とみなされねばならない。「ここから我々は次のように考える。有用である必要がないためには、不可避的に、それ自身で存立する全体であらねばならず、美の概念は、それ自身で存続する全体の概念と切れ目なく結びついている。」ところが、現実にそれ自身で閉じた体系として成立し得る関連は、自然全体だけである。そして芸術作品は、自律に達するために、「自然全体における最高の美の複写」として現れねばならない。「なぜならやはり、もののこうした偉大な関連こそが本来的に唯一の美の全体だからである。その内部にある個々の全体などというものは、解きがたいもの連鎖を無視しており、どれも想像にすぎない。−しかしこうして想像されたものであっても、全体として考察すると、我々のイメ−ジのなかにある例の偉大な全体と類似せねばならず、永遠の堅固な規則に従わねばならない。そうすることで、想像されたものが全面的に頂点に立ち、それ固有の存在に依拠することになる。」「想像された」の語でモ−リッツは芸術作品の全体と自然の全体の関係を名指すのだが、これはひどくあぶなっかしい。芸術作品の完結は、一方で「虚構的」であり、自然においてのみ形而上的な現実性をもつものの美的仮象だが、他方で「形成しつつ出現し」、それは自然を見習いつつ自然を分有する「想像力」によってである。モ−リッツの論文のタイトルが目論んでいる「模倣」は、生成する自然(natura naturans)の見習い(aemulatio)であり、対象として与えられた自然(natura naturata)の模倣(imitatio)ではない。「その全体存在における自然の創造 力についての感官と美の尺度が、自然そのものから発して眼と魂へ押しつけられたのだとすれば、感官は自然を直観することで満足しない。感官はそれを模倣し、その後を追いかけて、その秘密の作業場を覗き、胸の燃え盛る炎において、自然がそうするのと同じように作り、創造する。」「造形する」活動は一般的に創造的と把握されており、特に「造形」芸術へ結びつけられない。「最高の美」は「想像力で把握できる」とともに、「眼に見えるし、耳に聞こえる」べきでもある。そして三位一体の定式は、ほかでもなく文学、造形芸術、音楽を想定している。しかも自然の大宇宙の理念を芸術作品の小宇宙が「複写」するという理念は、なによりも音楽美学的な思考であるように思われる。モ−リッツが「全体の調和的な構築における最高の美」を語るとき、音楽の構造を世界全体の構造と関連させるピタゴラス主義の伝統が想起される。ただし、「音楽」と考えられたのは第一義的に音関係の背後にある数学的構造であり、鳴り響く現象は「本来の音楽」のただの模像ないし影とみなされていた。音楽作品(音組織ではない)がユニヴァ−スの構築の類似だというイメ−ジは、ピタゴラス主義をゲ−テ時代の作品自律美学の意味で読み換えることで成立する。

 モ−リッツが考えたような「美の造形的模倣」は、「生成する自然[最高の美としての]との創造的な競合」を意味する。そしてモ−リッツの芸術理論は、古典的な天才自律美学である(カントの『判断力批判』より二年早い)。「想像された」全体性−完結性は一方で美的仮象だが、他方で「創造力」から生成される−は、「自然全体における最高の美の模写」として芸術作品になる。だが、小宇宙の感覚像がそのようなものであり得るのは、天才が行使する「活動力」が、自然全体で作用するものと同じだからである。「だが、活動的な力の地平は、造形する天才において、自然そのものと同じくらい広くあらねばならない。つまり、有機体は繊細に織りあげられ、すべてを包む自然との接触点を多くもたねばならない。いわば、自然という大きなもののあらゆる関係の極外限が、この小さなもののなかで並立するのだから、お互いをごっちゃにしないだけの十分な空間がなければならない。」

 心への注入としての音楽へ耽溺し、感じる魂の間に共感を生み出す多感美学と、自律的な作品からシェリングが讃えた「美の崇高な無関心」で距離を置く古典的芸術理論、両者の対立は鋭く、カ−ル・フィリップ・モ−リッツのように音楽をめぐってほとんど同時に感涙口調と厳格口調で語ることなど考えられないほどである。

 矛盾を説明するために、文学者モ−リッツが音楽を周縁的と感じ、知識が浅いことにも、折衷主義へ深く関与して文学上の目的のために音楽美学のバラバラな断片に同化することにもためらいがなかったのだ、と想定することもできるだろう。一八世紀後半のほとんどあらゆる音楽美学のアイデアがモ−リッツの作品へ集められている。多感な心理学は、ロマン的形而上学への移行しながら『アンドレアス・ハルトクノプフ』でピタゴラス主義とも結びつく(ピタゴラス主義は、他方で既に述べたように、論文『美の造形的模倣について』の文脈にも最登場する)。「ハルトクノプフは音楽と天文学を結びつける。−彼は私にあの夜、天文学の一部を彼のフル−トの模倣しがたい音で教えた。−この音は、通の耳には厭わしかったかもしれない。あまりにも簡潔だったからである。」そうかと思うと、ダニエル・シュ−バルトを思わせる耽溺的な口調で音楽が「感情の言語」として話題になり(「彼は思想を吸い込み、フル−トの音で吐き出して、悟性から心へ分け入った」−ペダンティックで理性的な音楽心理学の素描はヨハン・マテゾンかヨハン・ニコラウス・フォルケルのようである)、特定のリズム音型を輪郭の明確な名付け得るアフェクトとみなす心理学も排除されなかった。

 既にピタゴラス主義は、ノヴァ−リスとシェリングが受容したように、古典的というよりロマン的な音楽哲学の小道具だが、他方で、ロマン主義の中心理念である芸術宗教をもモ−リッツは受け入れる。長編小説『新しいチェチリア』(一七九三)の遺稿断片においてである。「私はほとんど毎日ボルゲ−ゼ宮に神聖な芸術を訪れ、宗教的な敬虔さで崇高な天才の作品に私の感嘆を捧げた[……]。」ヴァッケンロ−ダ−が、どうしても思い起される箇所である。

 モ−リッツが思想史の境界にとらわれないことで混乱が生じているが、折衷主義を語り、ディレッタントだから音楽美学のアイデアと表面的に同化して、前提が分裂したままても気にしなかったのだ、と考えるのはためらわれる。なるほどモ−リッツは音楽の愛好家にすぎないが、−自伝的長編『アントン・ライザ−』が示すように−教養ある愛好家であった。しかも論文『美の造形的模倣について』の思考の発展は厳格なので、モ−リッツが気分屋の哲学者で、体系へ傾斜することなく音楽美学のアイデアを場当たり的に取り上げた、という想定は不適切に思える。とりわけ年代を調べてみると、折衷主義という批判が根拠薄弱であり、むしろ「予見的折衷主義」という挑発的な逆説を語りたくなる。モ−リッツは、古典主義的な自律美学をカントの『判断力批判』(一七九〇)の二年前に定式化し(一七八八)、多感的な「心への注入」から「無限の憧憬」というキ−ワ−ドへの移行を『アンドレアス・ハルトクノプフ』(一七八五ないし一七八六)でジャン・パウルの『ヘスペルス』(一七九五)の一〇年前に果たし、芸術を宗教として崇拝する狂気乱舞については、『新しいチェチリア』(一七九三)でヴァッケンロ−ダ−の『芸術を愛する修業僧の心情告白』(一七九七)に数年先駆けた。

 このようにモ−リッツは、恣意的な同化によるよりも、予見の天才によって抜きんでているわけだが、他方で、ヨアヒム・シュルンプフのようにモ−リッツの音楽美学の散乱する断片を調停しようとする試みは失敗する。強引に調和させていることが明白だからである。『アンドレアス・ハルトクノプフ』と論文『美の造形的模倣について』を媒介するために、シュルンプフはハルトクノプフが耽溺的な多感主義へ依拠したことを否定する。彼の主張によれば、ハルトクノプフが「フル−トの音で吐き出」す「感情の言語」は、「内面性の直接的な表現」ではなく、「より高い言語」ないし「空想の言語」である。モ−リッツの長編において、多感主義がロマン的形而上学(「より高い言語」をめぐる反省は、E・T・A・ホフマンの音楽美学において「サンスクリット」である)へ徐々に移行することは否定できない。しかし感涙の礼拝(そこでは音楽が魂の「共感」へ作用し、仲間内の機能を果たす)と、シュルンプフが同じ文脈で引用した自律美学の定式(「それ自身で完成したもの」の概念をめぐる論文で、モ−リッツは「目的を自分から対象へ旋回させること」を語った)の間には、途方もない断絶がある。ハルトクノプフのフル−トの音は技巧がないから心へ介入するのであって、「それ自身で完成したもの」ではない。逆に、「それ自身で完成した」芸術作品は、モ−リッツが芸術理論の論文で強調したように、心に触れて、音楽ならぬ感涙する自我へ注入されるのではなく、むしろ自己と世界を忘れた瞑想を要求している。

 一七九〇年、自伝的長編小説『アントン・ライザ−』の最終巻(第四巻)でモ−リッツは気取りへ堕落した多感主義を揶揄する。そして風刺は仮借なく、自らの過去−敬虔主義的な魂の物語−への苛立ちから生じている。モ−リッツは、自伝的な審判の日に自分自身を裁く。だが、彼が間違った多感主義へ対置した芸術理論は、論文『美の造形的模倣について』で発展させた自律美学のほうである。一七八八年の抽象的な論考が、一七九〇年に心理学的、伝記的に解読された。古典主義はモ−リッツを救う彼岸であり、−ヴァッケンロ−ダ−のベルクリンガ−ように−感情の耽溺の犠牲になって、芸術をめぐる幻想から芸術の道へ迷い込むことが回避される。

 このように、少なくとも見かけ上では、モ−リッツが一七八五年に『アンドレアス・ハルトクノプフ』で音楽について語る多感な口調と、一七八八年に発展させた(潜在的に音楽をも含む)古典主義的な理論の間の対立は、唐突な宗旨替えの兆しと理解できる。一七九〇年に出版されたハルトクノプフ小説の続編、『ハルトクノプフの伝道師時代』では、−作用美学であった多感主義への反動として−作品自律美学が徹底された。しかも伝道師は、芸術がそれ自身のためにそこにあり、それが行使する作用は本質的でない、と考える。「ハルトクノプフの冒頭の説教は近寄りがたい完全な作品であり、それ自身で価値をもち、偶然をもそこから取り出すことはできなかった。」(皮肉は明らかだが、皮肉が生み出す距離は決して解消されない。)ただし、音楽について『伝道師時代』はほとんど語らない。日雇い人夫と伝道師の生活をめぐる瞑想のタイトルが「交響曲」となっている理由を説明するのは難しい。空想のなかで、浮遊する聴き手が一七九〇年前後のアレグロとアダ−ジォの楽章性格に結びつけようとした内容は、空疎な推測にもとづいている。(いずれにしても、この一節をモ−リッツの音楽美学のドキュメントとして具体的に解釈することはできない。)

 しかし、モ−リッツが一七八五年と一八九〇年の間に−ゲ−テとの親交に触発されて−多感的音楽美学から古典主義的音楽美学へ転向したという推測は、−全面撤回する必要はないが−事実に反する。一七八五年に論文『美の造形的模倣について』で体系的に提示された芸術理論の基礎は、既に一七八五年に、つまり『アンドレアス・ハルトクノプフ』の感情への耽溺と同じ時期に素描された。『自己完成なる概念のもとにあらゆる美しい芸術と学問を統一する試み』である。「だが、美について考察するとき、私は目的を自分から対象そのものへ旋回させる。私は目的を自分のなかにあるものとしてではなく、それ自身で完全なものと考える。それは、それ自身において全体であり、それ自身で私に満足を与える。私が美しい対象を自分へ関係づけるのではなく、むしろ私がそこへ関係する。」芸術作品へ沈潜する瞑想は、自分の感情の楽しみとして自分の内部へ篭もる多感主義の反対である。「美が我々の考察を美そのものへ引き寄せるとき、美は我々の考察を我々自身から一時的に引き離すのではなく、我々が、美しい対象において自分自身を失うのである。」

 タイトルで「あらゆる美しい芸術」と言っているのだから、音楽を論考の理論から排除するのは、哲学として乱暴である。(おそらく造形芸術の古典主義的な美学と音楽の多感主義的な美学を並べるのが不可能あるいはナンセンスと思えたのだと推測するのは、一七八五年の段階では不可能ではないが。)まず最初にモ−リッツが一七八五年という同じ年に小説では多感的な音楽美学、論考では古典主義的な音楽美学を語っているという渾然とした矛盾に立ち戻ろう。しかも、多感な心理学は『アンドレアス・ハルトクノプフ』で音楽のロマン的形而上学と絡んでいるのだから(音楽のロマン的形而上学は、一七八五年には『試み』の古典主義的な宣言と同じくらい新しく、「予見的」であった)、矛盾を緩和して、多感的な心理学を自律美学の傍らの単なる名残と語ることはできない。

 論考と小説の音楽美学の矛盾は、『試み』と『アンドレアス・ハルトクノプフ』が同じ時期に成立したので、信条の交替と解釈することができないとすると、次に浮上するのは論文と文学という形式の違いから矛盾を説明する努力であろう。つまり、体系の要請に引きずられて音楽が論考へ組み込まれたのだから、これを字義どおりに受け取る必要がないと、推定するか、あるいは逆に、『アンドレアス・ハルトクノプフ』の風刺的な性格に着目して、音楽美学的なパッセ−ジも小説構成の単なる小道具なのだから、それを作者自身の考えとしてそのまま引用することは原理的に禁じられている、と指定することもできそうである。

 だが、モ−リッツが一七八五年に『自己完成なる概念のもとにあらゆる美しい芸術と学問を統一する試み』で素描した美学理論は、ひとつの芸術から抽出されて二次的に別の芸術へ転用されたのではない。文学も造形芸術も変形を蒙っていない。反省の対象は「芸術一般」である、定式におけるだけでなく、思考の構造においても。そして一七八八年の論文『美の造形的模倣について』では、モ−リッツがもっぱら造形芸術を例示するように思えるが、このときにも、文学と音楽を組み入れることは単なる修辞ではない。論考の基礎になる構想の力点は諸芸術の差異の彼岸にあるからである。構想は生まれながらに体系的である。また、既に述べたように、モ−リッツで根本的な意味をもっている芸術作品の小宇宙と自然全体の大宇宙の類比は、音楽哲学の伝統の一部である。

 風刺的で寓意的なハルトクノプフ小説の文脈における多感的な音楽美学の意味を規定するのは、論考を分析して、言われたこととその形式機能の関係を跡付ける以上に難しい。アンドレアス・ハルトクノプフは、フル−ト演奏で多感な恍惚を生み出し、ロマン的な瞑想を誘っており、著者の共感に支えられた登場人物であると感じられるわけだが、しかし皮肉から保護されているわけではない。とはいえ、音楽美学的なパッセ−ジに揶揄や風刺の痕跡はない。また−構造分析的な議論が決定的なのだとすれば−、ハルトクノプフの音楽美学は、寓意的長編小説の発展ラインをつくる弁証法的な精神の葛藤に触れることがない。真の博愛と偽の博愛、真のキリスト教と偽のキリスト教、真の神話と偽の神話、ハルトクノプフが教会の人々やハ−ゲブック、エ−レンプライス、G氏との出会いや衝突をめぐるこれらの問題は、音楽をめぐる理論に影響を及ぼさないし、逆に音楽が論争である役割を演じることもない。音楽美学的な反省は小説の「内的形式」とほとんど結びつかないのだから、それを切り出して、字義どおり受け取ることも許されるだろう。ここでは小説の一節は引用可能な断片ではなく、全体構造の部分モメントとして解釈されるべきだ、という格言に固執する必要はない。いずれにしても、ハルトクノプフの音楽美学を「偽の多感主義」(一七九〇年に『アントン・ライザ−』第四巻で揶揄されたような)のドキュメントとして拒絶する理由はない。皮肉を話題にするのであれば、『修道士時代』の説教の章(この章のフモ−ルは、モ−リッツが論考で宣言した作品自律美学の極端な結末へ向けられている)における皮肉こそ、『アンドレアス・ハルトクノプフ』での音楽の心への注入の描写など比較にならないほど辛辣である。

 歴史家を困惑させる多感的音楽美学と厳格な古典的音楽美学の奇妙な並立が心理的に可能であった伝記的条件は、モ−リッツに刻印された敬虔主義(『アントン・ライザ−』で描写されたような)へ求められねばなるまい。感情と共感の礼拝、信者が一方で自分の心の高ぶりを無限の意義へ高め、他方でそれを絶えず考察し、分節してその純粋さを試す礼拝、こうした礼拝が敬虔主義に根ざしており、その痕跡は、アントン・ハルトクノプフの音楽への心への注入に、のちのヨゼフ・ベルクリンガ−におけるのと同じように見いだすことができる。

 他方でロベルト・ミンダ−が示したように、作品自律美学の本質的な特徴は、モ−リッツがクインティリアヌス的なギドン夫人の祈祷書を「独自に転用」したことから生まれた。モ−リッツが論文『美の造形的模倣について』で芸術家の忘我、作品における高揚と犠牲を語り、芸術家がそれらをもたらさねばならないと言うとき−「このように理解すると、次のように言うことができる。芸術家は彼の作品を愛から作品へまとめて、自らを作品に捧げ、作品へ注入するのである」−、ミンダ−が紹介するギドン夫人の厳格な文章との類似は明白である。ロマン的な「芸術宗教」は、一七九三年に『新しいチェチリア』で言語的にも表明されたわけだが、心理的にはモ−リッツの作品自律美学に予め登録されている。

 ただし、多感主義と古典主義がモ−リッツにおいて心理的、伝記的に同じ層に根ざしていることは、両者の間に事実として横たわる矛盾を解消するのでなく、何故発展可能であり、堪え難いと感じられなかったのか、説明するにすぎない。個人の偶然性ではなく一七九〇年代の時代の思想的状況から出発する基礎づけは、今のところまだない。

 音楽美学はほとんどいつも−批判や弁護の性格を帯びた文書をのぞくと−「音楽一般」の理論として定式化されてきた。音楽美学的命題をそこから抽出する当の対象が、一八世紀にはなによりもオペラであり、一九世紀には交響曲だったわけで、このことは暗黙の了解だったのだが明言されなったので、無用な対立を巻きおこした。アフェクト美学者ないし感情美学者と形式主義者の論争は、一方が声楽を語り、他方が器楽を語っていることを意識すれば、対立を緩和する。

 モ−リッツの音楽美学を貫く亀裂についても、少なくとも部分的には、一方の多感な心への注入と他方の古典主義的理論では、話題になる音楽ジャンルが違っていることに原因がある。「古い」宣言と「新しい」宣言は、音楽の並立する別の「空間」に属している(一七九〇年前後には、それらが別の社会階層に支えられていたわけではないが)。

 心に沁みるハルトクノプフのフル−ト旋律は、モ−リッツがしばしば強調するように、ひどく単純で技巧を欠く。「音楽における最高のものは、その最も単純な要素の知識にある。」(この文章は多感的にもピタゴラス的にも解釈できるし、モ−リッツでは両者が相互乗り入れしている。驚くべきは、ハルトクノプフの「何気ない」「二、三のつかみ」が心の最奥へ触れる音楽を生み出すことと、音楽と天文学の神秘的な関連への反省が結びついていることである。)

 一八世紀後半の多感主義は、サヴィアの子供の「二、三音のアリア」で発火するにせよ、遠くから聞こえるたったひとつの音で形而上的な白昼夢へ引きさらわれるにせよ、通俗美学の簡略版でロマン的、古典的な理論の時代(そこでは、大きな器楽をモデルとする作品自律美学が発展した)にも生き延びた。多感主義は陰にあったが無視できない。そして、モ−リッツの音楽美学における矛盾も既に、「二つの音楽文化」の対立の反映と考えられる。モ−リッツは、「音楽」について語るとき、論考におけるのと小説におけるのでは別のことについて話している。

 マルセル・プル−ストに至るまで、小説家はいつでも感情美学の親派であり、感情美学は簡潔な(しかもプル−ストでは低級な)音楽の美学であった。反対に哲学的論考は、交響曲を対象とする古典主義的理論の展示場である。だが、多感的なパッセ−ジが輪郭のしっかりした現象(ハルトクノプフのフル−ト旋律)へ結びついているのと違って、論文『美の造形的模倣について』における音楽美学的反省はとらえどころなく抽象的で、「音楽一般」を語ったことでほとんど「無対象」になっている。交響曲−あるいは弦楽四重奏−の理論が音楽の作品自律美学に結実するのは、ようやくE・T・A・ホフマンとエドゥアルト・ハンスリックがそれを誤解の余地なく語ってからのことである。

 だが、古典主義的音楽美学(モ−リッツの一七八五年と一七八八年の論文はその最初期のドキュメント)が奇妙に抽象的なのは、論考の文学上のジャンル性格に基礎づけられるのでなく、一七九〇年前後に古典的ないし古典主義的な音楽美学の発展を阻害していた困難と結びついている。シラ−はこの問題を最も明確に認識し、発言していた。『人間の美的教育をめぐる書簡』に次のようにある。「最も霊感豊かな音楽であっても、真の美的自由に耐える以上に、その素材ゆえに感覚と親和している。」作品自律美学はシラ−によって要請としてのみ定式化されたが、一方で現実、すなわち音楽受容の実態は、多感主義と疾風怒涛の原理に規定されていたかのようである。「音楽は、最高に高貴な段階において内包になり、古代の静かな力で我々に作用せねばならない。」彼は古典的音楽の理論を定式化したが、それは一七九五年のシラ−にとって、まだ実現の見込みがないユ−トピアであった。

 一七九〇年前後に古典的ないし古典主義的な音楽美学(「古典的」なのは、それが古典的音楽の美学だからであり、「古典主義的」なのは、それがヴィンケルマンの古典主義に思想上の起源があったからである)を取り巻いていた思想的状況は、逆説的であった。文学と造形芸術の理論に由来する刺激は作品自律美学を目指し、形式概念を中心カテゴリ−としていた。そして器楽の発展ではハイドンとモ−ツァルトが一定の水準に到達しており、それと理論的に対応するのが、同じ時期の古典的音楽美学の定式化であったかのように思える。ところが、音楽と哲学の具体的前提が揃っているのに、古典的音楽美学は抽象的で断片的な形でしか現れなかった。古典主義的な美学者(モ−リッツ、シラ−、クリスティアン・ゴットフリ−ト・ケルナ−)は、交響曲が「それ自身で完成したもの」という概念を音楽の直観で充足するとは認識しなかったし、作曲家たちはウィ−ンにいて哲学の発展から隔絶されており、理論的な達成へまったく注目しなかった。

 モ−リッツが音楽美学の古典主義を定式化し、同時に小説で音楽の「扇動的な力」を讃えたのは、シラ−におけるのと同じように、美的要請と音楽の現実の間の違いと考えられる(ただしモ−リッツは、シラ−と違って現実を拒絶しなかった)。音楽の受容は、モ−リッツが経験したように多感主義に規定されていたし、それは『アンドレアス・ハルトクノプフ』に描写されたとおりである。そしてそれに反対する古典主義は、虚空をつかんだかのように抽象的であった。古典主義は「真実において」交響曲の美学だったわけで、交響曲はモ−リッツの自律命題と同時期に古典へ高まり、理論の要請を実現したのだが、モ−リッツはこのことを知らなかったし、おそらく予感すらしなかったのである。


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