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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

「SI VIS ME FLERE……」

 「音楽の疾風怒涛」の「表出原理」(ハンス・ハインリヒ・エッゲブレヒトが名付けたような)、音楽は死んだ響きや空疎な騒音でないために、「心の本当の絞り出し」であらねばならない、という格言は、カ−ル・フィリップ・エマヌエル・バッハによって一七五三年に言葉でつかまれた。曰く、他人を感涙させるには、自ら感涙せねばならない。「音楽家は、自分自身が感涙するのでなければ聴き手を感涙させることができない。だから彼は、聴き手に呼び起こそうとするあらゆるアフェクトへ自分自身を据えることがどうしても欠かせない。彼は聴き手に彼の感覚だと理解させて、聴き手を最良の共感で動かすのである。」(訳書一二六頁)アフェクトの外化形式の描写によるのでなく、内面から発する感情の伝達によってのみ、聴き手を感涙させることができる。

 しかしバッハが「音楽の疾風怒涛」の美的基本経験を語るこの文章は、古典主義の規範的な著作であるホラチウスの『アルス・ポエティカ』のほとんど粉飾のない引用に他ならない。「汝、我ヲ涙サセント欲スルト時[Si vis me flere……]、汝、先ンジテ自ラ苦 シムベシ。サスレバ汝ノ不幸、てれふぉぬすトペれうすニ、我涙スベシ。」(テレフォヌスとペレウスは、エウリピデスとソフォクレスの散逸した悲劇の主人公である。)崇高な様式、悲劇の genus sbulime における多彩で文飾豊かな演説によるのでなく、彼らの苦 しみを普通の言葉で簡潔かつ直接的に表出することで、テレフォヌスとペレウスが観客をとらえる。「悲劇ノ英雄ナルトモ、己レノ苦シミヲ平素ノ言葉ニテ悲嘆セリ[……]。」「表出原理」は悲劇の様式規則からの突出として現れる。

 カ−ル・フィリップ・エマヌエル・バッハの要請が音楽の表出原理を基礎づけたわけだが、それはバロック(エポックの始まりをヴィンツェンツィオ・ガリレイが、終わりをフリ−ドリヒ・ヴィルヘルム・マ−ルプルクが定式化したような)の模倣原理に対する暗黙の批判を目指していた。アフェクト提示に努める音楽家の手本は役者であった。ガリレイは作曲家に、舞台作品でなくマドリガルを書くときにも、劇場へ行き、状況の交替における言語の節回し、アクセント、テンポを観察するように助言する。「……」このようにガリレイでは音楽が模倣の模倣とみなされるわけだが、マ−ルプルクは音楽をアフェクトの絵画として記述する。「支配的なアフェクトの本質について、いかなる運動に魂が直面しているか、肉体がどのように受苦するか、何が肉体へ運動を与えるか、正確に見抜くべく努めねばならない[……]。」

 演技術との類比は、一八世紀後半の表出美学でも放棄されたのではなく、別に意味づけられた。「自分自身」を表出する衝動が、いつでもそのまま、無垢の「始原性」にある本当の感情と考えられたわけではない。決定的なのは、音楽家の伝える感覚が「彼自身」から感じ取れることであり、それが体験に根ざすのか、それとも「共感」、すなわち他の(現実ないし想像上の)人間への「成り代わり」から成立したのかということはどうでもよかった。カ−ル・フィリップ・エマヌエル・バッハは、解釈者がアフェクトの交替に自分自身を「据える」べきだと言っているのであって、作曲家が音に彼の伝記を記録すべきだと言っているのではない。「このこと[アフェクトへ自分自身を≪据える≫こと]は、表出的に作られた曲においてとりわけ遵守されねばならない。そうした曲が自分の書いたものであるときも他人の作品のこともあるだろうが、他人の作品であるときには、奏者は作曲家がその曲を作曲するときにもったのと同じ情念を感じねばならない。」(同上)表出原理はなによりも解釈の美学である。そしてそのようなものであるかぎり、表出原理は感情美学と激しく敵対したエドゥアルト・ハンスリックにも受け入れられていた。「演奏家は次のような恩恵を授かっている。彼は今まさに彼を支配している感情から自分の楽器を通じてすぐさま自己を解放し、自分の内面の荒れ狂う嵐、身を焦がす憧憬、朗らかな力と喜びを、息のように自分の演奏へ吹き込む。私の指の先端を伝わって内面の震えが直接打弦したり、弓を引いたり、歌においては何と自ら音として鳴り響くわけで、まさしくこのようにあらかじめ肉体へ内面が染み込んでいる状態 das korperlich Innige だからこそ 、演奏において、極めて個人的な気分を絞り出すことができる。主観性は、ここでは音のなかで直接的に鳴り響いて活動するのであって、音のなかでただ黙って形式をつくるだけではない。」(訳書一一七頁)

 クロップシュトックは一七五九年に、ホラチウスの「Si vis me flere……」という格 言をパラフレ−ズして、模倣と共感を区別した。他人の感覚へ成り代わる者は、単にその言語と身振りという外面を模倣するだけでなく、自ら感じ、詩人、役者、音楽家として「自分自身」を表出するが、彼は感覚の原因に直接触れる必要はない。「伝達」、すなわち受け入れこそが、美的表出原理の心理的な根であり実体である。他人の感情を私が共有し、私はそれを第三者へ言葉や音で伝達する。クロップシュトックが単なる模倣者(アフェクトの外面だけを示し、内面からアフェクトへ同化することがない者)を非難するのは、彼が役者だからではない。そうではなくて、単なる模倣者は作用を行使しない悪い役者である。彼が他人をとらえないのは、自分がとらわれていないからである。「バトゥ−は、アリストテレスにしたがって、文学の本質を最も明白な理由から模倣であるとした。だが、ホラチウスが言うこと−≪君が僕を涙させようとするときには、君が悲嘆すべきである≫−を実践する者は、ただ模倣するだけだろうか? 彼は、滑ったことのある者と同じ場所にいた。彼は自分で滑って見せた。私の喜びを、私が感じるとおりに感じる者がいるとしよう。私が恋人を失って、彼が私の悲しみに共感してそのことを他人に語るとき、彼は模倣するだろうか? 詩人に模倣以上のことを要求しないとすると、彼は役者に変身するが、彼は役者に成り代わっても無駄である。彼は自分の苦しみを完全に記述するだろうか? つまり彼は自分自身を模倣するだろうか?」「自分の苦しみ」を詩人が書く、というのは表出原理の限界例であって、規範ではない。中心カテゴリ−は、「体験」ではなく「共感」である。そして音楽の表出美学においても、ダニエル・シュ−バルトの要求 −作曲家が「自分の自我を音楽へ追い込む」べきだ−は例外であり極限である。


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