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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

諸芸術の体系と音楽

 ワルタ−・パ−タ−の文「あらゆる芸術は音楽の地位を憧れる」は、パ−タ−が気付いていないことだが、一八世紀後半、一七九〇年代にさかのぼる伝統に根ざしている。それは古典的傾向とロマン的傾向が交錯する、美学の全歴史のなかでも最も実り豊かな一〇年であった。

 パ−タ−は、当然のように集合名詞としての「芸術」の概念から出発しているし、この概念は日常の語用法にすり込まれているが、不安定でわかりにくいものであることを見落としてはならない。建築、彫刻、絵画、文学、音楽が「美しい諸芸術」というひとつのグル−プであり(一八世紀の分類では、舞踏と造園術がそこに数え入れられることもあったし、建築が排除されることもあった)、グル−プにまとめることが、集合名詞としての「芸術」の本質(諸芸術に共通して、しかも人間の他の活動から区別されるような)に基礎づけられているというのは、言語習慣の外見の自明性を疑いだすと、説明するのが難しいのである。

 パ−タ−の文は逆説に他ならない。解決できそうにない問題を解こうとしているからである。「芸術」の本質を問うとき、すなわち、一八世紀半ばに揺らぎをはらみつつ形成された五つの「美しい諸芸術」のカノンに共通する実体を問うとき、どのような暗やみへ引き入れられるのか、つまり、どれくらい深い形而上学へ向かうのか、あるいはどのように卑俗な事態へ向かうのか、ほとんどわからない。

 ル−トヴィヒ・ティ−クは一七九九年に『芸術をめぐる幻想』で、「楽器の音」が−「自然の生み出す音」と違って−「それ自身のための世界」だと言った。「この音こそ、芸術が不可思議なやり方で発見して、極めて多様な道に探し求めたものである。音の本性はまったく違っている。それは模倣しないし、美化しない。それはそれ自身で孤立した世界である、」「美しい諸芸術」を結びつける原理が、文面で話題になっているわけではない。しかしティ−クは、自分が提唱する自律美学を、模倣原理や美化という考え方、すなわち一八世紀後半の芸術理論が「芸術」の本質を把握するのに利用した考え方と区画している。

 美しい諸芸術の体系を整理した論文のなかで最も影響力があったのは、バトゥ−師の著作『同一の原理へ還元された美しい諸芸術』(一七四六)と、『百科全書』にダランベ−ルがバトゥ−に依拠して書いた「序論」であった。バトゥ−もダランベ−ルも、芸術の本質を模倣に求めた。そしてこれは、もともと古代に文学と絵画にのみ結び付けられていた原理だが(「詩は絵画のように」というホラチウスの格言が繰り返し引用された)、一八世紀には、躊躇いもあったが、建築と音楽にも適用された。音楽が人間の内的自然や、人間を取り巻く外的自然を模倣すべきだという要求が、一方のアフェクト論と、他方の音画を生み出した。

 模倣原理は古代という起源によって正当化されていたわけだが、ヨハン・ゲオルク・ズルツァ−はドイツ語の百科事典の基礎になった『美しい諸芸術の一般理論』で、ティ−クが言及する第二の原理である美化を、模倣原理と対置した。「様々に教えられているような自然の曖昧な模倣にではなく、人間に必要なものすべてを美化することにこそ、美しい諸芸術の本質が求められねばならない。」ズルツァ−が諸芸術のカノンないし体系の線引きを避けたのは(彼は雄弁さを重視しているが、歴史記述を排斥している)、偶然ではない。「人間に必要なものすべてを美化すること」は、一八世紀に徐々に形成された狭義の芸術の原理というよりも、工芸の原理である。強調的な芸術概念は、今では些末になったが、一八世紀には逆説であったわけで、ズルツァ−のように健全な人間理性を信じた大衆哲学者とは疎遠であった。

 模倣原理の考察モデルは文学と絵画であった。反対に、美しい諸芸術の本質を必要なものの美化に求める考えは、ズルツァ−の論文からわかるように、建築と修辞学から抽出された。そして、「それ自身のための世界」をイメ−ジする自律美学は、なによりも音楽の経験に支えられている(ただしティ−クは、文学を「可能的な世界」の提示と説明するヨハン・ヤコブ・ブライティンガ−に依存しているが)。「芸術」の本質に関する互いに競合する様々な規定と、諸芸術の典型をめぐる選択、両者の間には相互作用があって、どちらが原因で、どちらが結果だと決めることができない。

 ティ−クでは「芸術」がまだ話題になっていなかったが、模倣原理と美化原理への反論の当然の帰結として、カントの後継者のひとりであった哲学者のクリスティアン・フリ−ドリヒ・ミヒァエリスは、音楽を他の諸芸術の手本だと讃えている。一八〇八年に『一般音楽新聞』に発表された論文『音楽の理想をめぐって』のなかで、彼はティ−クと同じように、模倣原理と自律原理を対比した。「美しい諸芸術のなかで、音楽ほど理想的で独創的に[「独創的」は「それ自身に基礎づけられた」という意味である]人間を作品で提示する芸術はない。美しい芸術が自然の模倣でしかないという主張は、音楽よりも視覚にこそあてはまる。もしも音楽が音の繰り返しでしかなく、芸術規則のない死んだ世界として聴かれるとしたら、音楽とはなんとみじめた芸術だろう! 音楽は音の無限に多様な全体を生み出し、旋律と和声の作曲において、我々の空想力をまったく独自の世界で魅了する。我々は、芸のない現実にこのように独創的なものを探しても無駄である。」「まったく独自の世界」は、「芸術規則」によって、自然やその模倣から線引きされるわけで、これはティ−クが言う「それ自身で孤立した世界」と同じである。しかし同時にミヒァエリスの対立項は、ルソ−とラモ−の間での旋律と和声の優先権をめぐる論争を想起させる。ルソ−が考えでは、旋律は理念の隣にあって、原言語を反映しており、人間と人間感情の自然、ヘ−ゲルが言う「心情の感嘆詞」を直接表明する。反対に、和声は自然音を芸術にする原理であり、ラモ−によると、和声原理によってようやく音楽が音楽になる。(この論争は、しばしば誤解されるような上声部と多声書法の間の優先権争いではない。両者の間で対立しているのは、鳴り響く感嘆詞と制御された音関連−音関連は、旋律においても、和声におけるのと同じように作用する協和原理に依拠している−のどちらが音楽の本来の実体かということである。)

 「まったく独自な世界」であるかぎりにおいて、音楽が他のすべての芸術の手本になるという、ティ−クに含意されていたが明言されなかった命題を、ミヒァエリスは誤解の余地なく定式化した。「それ[音楽]は、芸術の精神を自由と特異性において純粋に提示する。制作して創造する想像力は、音芸術において完全な力となる。完成した音楽作品の価値は次の点にある。音楽作品は、別のものをイメ−ジしたり、意味するのではなく、それ自身で存立し、他の比較できない独自の本質で存立しているのである。」自律美学の原理−音楽の本質は音楽外の意味ではなく、音楽という存在にあるという主張−を、ミヒァエリスは五〇年後のハンスリックと同じくらい端的に定式化した。しかし、ハンスリックとミヒァエリスの間の文学的な違いは作用史において決定的であり、ハンスリックが著作のなかで挑発的な命題を華麗な文体で提示したのに対して、ミヒァエリスは、雑誌の数段の要約をまとめただけであり、カントに依存した大衆哲学者の乾いた調子は目立たなかった。

 E・T・A・ホフマンが一八一〇年に『一般音楽新聞』にベ−ト−ヴェンの第五交響曲論を出版したとき、彼が二年前のミヒァエリスの論文を念頭においていたのはほぼ確実だろう。要約と評論(ロマン的音楽美学の原典となった評論)の間の一致は、偶然だと思えない。ミヒァエリスによると、音楽は「芸術の精神を自由と特異性において純粋に提示する」。そしてホフマンによると、「自立した芸術としての音楽を話題にするとき、いつも器楽のことだけを考えるべきである。それは、別の芸術のあらゆるヴェ−ル、あらゆる混入物を削ぎ落として、芸術にのみ認識されるべき芸術特有の本質を純粋に語っている」。カント主義者ミヒァエリスの古典美学と、ホフマンによる器楽のロマン的形而上学を結びつける決定的モメントは、美的自律という考えであり、音楽はその典型とみなされている。ミヒァエリスにしても、ホフマンにしても、集合名詞の「芸術」そのものを話題にしており、その本来の本質のモデルを音楽に認めている。だから音楽は、ホフマンによると「純粋にロマン的」なのである(そして「純粋にロマン的」は、「純粋にポエジ−的」や「純粋に芸術的」と言い換えることもできるだろう)。自律原理は、カ−ル・フィリップ・モ−リッツからカントを経てミヒァエリスに至る古典的音楽美学を、ル−トヴィヒ・ティ−クとE・T・A・ホフマン、さらには実証主義者エドゥアルト・ハンスリックをも結びつける考え方である。ホフマンによるロマン的なものを字義どおりに受け取るかぎりにおいて、ロマン的音楽美学の本質モメントは特殊ロマン的ではない。(この事態を逆説と感じるべきではない。事象の特殊性こそが本質的だという考えは、ハンスリックにおいて体系全体に関わる錯誤をもたらしたように、先入観である。)

 ホフマンも、アフェクトの提示がオペラでは、器楽と違って欠かせないと考えており、そのアフェクト解釈はミヒァエリスを想起させる。ホフマンによると、「オペラが我々に与えるあらゆる情念−愛、嫌悪、怒り、疑いなど−は、音楽にロマン主義の紫の光を帯びさせる」。そして同じような言葉で、ミヒァエリスは、感情が音楽によって遠ざけられるという印象を語っている。「音楽がある種の情念、アフェクト、気分、表現を示すとき、音楽はいわば描写しているのだが、それは、現実の個々の自然を希薄で不完全にしか感じさせないようなやり方によってである」。音楽は、感情の現実を模倣するのでなく、反対に、日常では失われた感情にそれ本来の現実を与える、このような考え方はヴァッケンロ−ダ−に由来する。彼の論文『音芸術の不可思議』では、「いわゆる感情」について次のように書かれている。我々は、感情を「地上的な存在の混乱から解き放つ。感情は我々を美しい敬虔へ誘い、独自のやり方で保証している」。感情が生ける現在の瞬間にあるのではなく、回想のなかで−とりわけ音楽が呼び起こすような回想のなかで−本来の現実を獲得するというのは、文学において二〇世紀になっても非常に重視されている考え方である。

 音楽が回想された感情だというイメ−ジと、音楽が「それ自身で孤立した世界」だという考え方は、ロマン的音楽美学を支える二つの原理だが、体系へ固定されるのではなく、いわば想念の浮遊する布置を形成しており、手でつかもうとすると消え去ってしまう。だがまさにそのことによって、音楽が他の諸芸術の手本になったのであり、冒頭で引用したワルタ−・パ−タ−の文は、ティ−クとヴァッケンロ−ダ−を基礎にしたアルトゥ−ル・ショ−ペンハウア−の注釈に予見されている(ただし、これはショ−ペンハウア−の遺稿から見つかったものなので、パ−タ−は知りえなかった)。「音楽を傾聴するとき、人はもはやそれ以上のものを欲望しない。すべてをもち、目標にたどりついている。この芸術はすべてを充足しており、世界は、そのなかで完全に反復され、語られている。それは諸芸術で第一位の芸術、王位にある芸術である。音楽のようになることが、あらゆる芸術の目標である。」


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