本書目次へ →翻訳目次へ  トップページへ

カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

序論


 本書のタイトル「古典的・ロマン的音楽美学」には、深刻な内的対立が表現されていると見えるかもしれないが、色あせた思想史のイメージを再考してみると、実はそんな対立は存在しない。一方のカール・フィリップ・モーリッツやフリードリヒ・フォン・シラーと、他方のE.T.A.ホフマンやアルトゥール・ショーペンハウアーの間の一致は根本的であり、かたや両者の違いは、無意味でないにせよ二次的である。誇張でなく、古典的かつロマン的な音楽美学や、古典的かつロマン的な音楽を語りうる。つまり、歴史的な方法を信奉する者が「完全さVollstaendigkeit」対「果てしなさUnendlichkeit」といった喚起的な概念でとらえた相違のかわりに、この時代の内的統一を全面に押し出すことができる。そのことがここ数十年で次第に明瞭になったのは、現代の美学理論が伝統から敢然と切断されたおかげである。20世紀における伝統の崩壊を通じて、伝統の中の「路線」対立ではなく、共通の基盤が目立つようになり、伝統を振り返る意識に強く印象づけられるようになったのである。

 「美学=感性論」の語は、18世紀半ばに由来する。そしてこの術語の鋳造と、この術語が意味する事態の成立が機を一にするというのは、誇張があるにしても、無意味な主張ではない。古典的・ロマン的音楽美学−−多感性Empfindsamkeitを含む−−を生み出したのは、バウムガルテン、カント、ヘーゲルの意味での美学=感性論ではなく、美の哲学の形による芸術論の伝承であり、美の哲学は知覚の理論に基礎づけられていた。

 ピタゴラスやプラトンの伝統は、古代から中世を経てバロックまで「musica theoretica 」として受け継がれており、音楽を「鳴り響く数学」と解釈した。協和が単純な数比にもとづき、不協和が複雑な数比にもとづくという事態は、「ある現象に含まれる比率こそがその現象の本質である」という信念を通じて、形而上的な意義を獲得した。(感覚的に判明なものの比率は単純であるという存在論は、紀元前5世紀に、四角形の対角線が無理数であることが発見されることで揺らいだのだが、そのことは等閑に付された。)17世紀の近代自然科学は、数を理念としての解釈することから脱し、そのことで哲学に再考を促し、ついには、1世紀遅れて、音楽美学に再考を強いた。また、知覚の理論を基礎にするような美学では、数学を参照する意味が失われた。音程の比は、カントが命題化したように、音楽の作用においては、止揚され消失するモメントだからである。

 アフェクト論は、オペラを中核とするバロックの音楽観を支配したが、18世紀後半になると、音楽の数学のように解消されはしなかったが、変換された。アフェクトをいわば外側から、その目印となる節回し・身振り・テンポの揺れで写し取り、アフェクトの音楽的ポートレートを作るという方法は、−−あやふやだったにしても−−、感情を内側から表出し、作曲家や演奏家の心の現実ないし架空の揺れを音で伝えるべきだという要求に代えられた。(美学理論ではリアルな感情が話題になっていたが、実際に問題になったのは、−−敢えて区別するとしたら−−架空の感情である。)

 模倣理論、すなわち、音楽の意味は外的ないし内的な動きあるいは状態(内的な動きないし状態がアフェクトに他ならない)を模倣することだという命題は、16世紀から18世紀の音楽観で意義をもち、音楽のアフェクトが所定の機能を果たすことで正当化された。音楽もまたミメーシスであり、外的ないし内的な自然を模倣するという考え方は、音楽が文学や絵画と一緒に美しい諸芸術(=芸術という統一概念の基礎)にまとめられたことで基礎づけられた。しかし、古典的・ロマン的美学では、第1に、音画、アフェクト描写、寓意−−ひとくくりに言えば「内的・外的自然の模倣」−−という問題の多い結び目が解きほぐされ、第2に、アフェクト描写が、前述のように、内側からの感情表出と読み替えられ、第3に、諸芸術の統一は、模倣原理とは別に、−−すなわち、共通の「詩的=創造的poetisch」実体があるという考えによって−−基礎づけられた。模倣理論の終焉は、古典的・ロマン的美学の始まりを告げている。

 最後に言及しておかねばならないのは、伝来の詩学規則が、18世紀後半と19世紀の美意識において軽んじられたことである。対位法・和声法・形式論の諸規範が価値を失ったわけではない。しかし、第1に、これらは必要な前提とみなされたにせよ、もはやそこに作品の芸術としての品格は想定されなくなった。作品の芸術としての品格は、とらえがたい非合理的な「詩的=創造的」モメントに求められた。そして第2に、音楽の歴史的連続性は、もはや規則体系を伝承することで支えられるのではなく、作品を伝承することで支えられるようになり、そうした伝承が、オペラと演奏会の強固なレパートリー(それは、古典テクストという美的地位を獲得した遺産である)にまとめられた。従うべき規則ではなく、作品が、伝承の実体となった。そして人は、作品の原作者と同じように模倣しえない存在となることによってのみ、原作者を模倣することができた。

 古典的・ロマン的音楽美学は、基本思想を発展させたひとつの体系ではなく、由来がバラバラで、古さが様々な諸部分を集めた複合体である。その歴史的な特徴を知る上で決定的なのは、個々の原理や理念(それらの前史はときとして遙かな過去へさかのぼる)ではなく、それらの原理や理念が、互いの意義をときに大きく、ときに小さく変えながら織りなす布置である。

 古典的・ロマン的芸術概念は、「美しい諸芸術」という術語によって、「アルス」や「テクネー」という、より古い概念(それらはいわゆる機械的技芸に属していた)から境界を分かたれるが、この術語は様々な芸術に共通する本質を名指しており、この共通の本質は、前述のように、18世紀後半と19世紀には「詩的=創造的poetisch」の語で言い換えられた。だがこれは、他の諸芸術を文学化することを意味してはいなかった。(音楽における「詩的理念」は、文学的題材である場合もあったが、作品の芸術としての品格を賭けた音楽形式のアイデアである場合もあった。つまり、「詩的=創造的」という言葉で肝心なのは、芸術としての要求であり、文学的な表紙を付けることではなかった。そんなものはなくてもよかった。)諸芸術の体系の輪郭は決して明確ではなかった。18世紀には、ときには舞踏、さらには造園がそこに含まれた。他方で、「美しい諸芸術」という概念は、あっという間に、狭すぎるとみなされるようになり、18世紀半ば以来、美の美学は崇高の美学で補完され、19世紀には、個性の美学と、ついには醜の美学が生まれた。(個性は、美の単なる部分モメントではなく、独立した美的理念と認められており、ロマン的美学を古典美学から分かつ属性のひとつであった。そして醜の美学とは、「黒いロマン主義」と呼ばれた諸傾向の理論に他ならない。)

 作品概念が古典的・ロマン的音楽美学の中核となる前提だということは、ようやくここ数十年で、つまり、作品概念が崩壊の危機に瀕し、自明でなくなってから、認識されるようになった。強固な輪郭のある形式を刻む作品、テクストという地位−−解釈の対象になりうるということ−−を築く作品を、1200年頃のノートルダム楽派の多声音楽で話題にできるとか、1400年頃のフィリップ・ドゥ・ヴィトリやギョーム・ドゥ・マショーで話題にできる、という主張には反論がありうるだろう。このカテゴリーは、「不滅で絶対的な作品opus perfectum et absolutum」という言い方で、16世紀に言葉でとらえられたにしても、すべてのメルクマールがそろい、古典的・ロマン的な作品概念がまとまるのは、ようやくその200年後のことである。決定的なのは、作品を解釈するということが、第1に、規則・規範ではなく霊感にのみ従う天才を取り出すことだということ、第2に、作品解釈は、自己完結して自律した形象、美学外の機能を果たすことなくそれ自身のために存在する形象をとらえることだということ、そして第3に、作品解釈は、自律の要請を音楽の論理で正当化することだということである(音楽の論理は、和声的・調的モメントと動機・主題モメントの相互作用で成り立ち、音楽の形式は、一般的なものと特殊なものの弁証法、すなわち、調的に基礎づけられた輪郭と個別的な旋律楽想−−そこから発展的変奏によって様々な帰結が導かれる−−の弁証法で構成される。)

 古典的・ロマン的美学の基礎にあるのは、パラダイム転換、すなわち、美学的反省の出発点となる考察モデルの交替である。17世紀と18世紀前半のアフェクト論は、音楽全般をとらえようとしているときですら、なんといってもオペラの理論であった。これに対して、古典的・ロマン的音楽美学の対象は、−−E.T.A.ホフマンと、のちのハンスリックがともに強調したように−−器楽、とりわけ交響曲である。「純粋で絶対的な音芸術」とみなされたものこそが、まるでテクストなどは音楽外の付け足しであるかのように、真の音楽とみなされた。声楽こそが本来の音楽だという古い先入見が、器楽にのみ音楽の本質が曇りなく表明されているという反対の先入見へ入れ替わった。後者は、前者と同じくらい根拠が薄弱なのだが。

 ロマン的音楽美学は感情美学だという思いこみは根深いが、フリードリヒ・シュレーゲル、ルートヴィヒ・ティーク、E.T.A.ホフマンなどのロマン主義者の音楽美学を「ロマン的音楽美学」と考えるのであれば−−そしてそれ以外に正当な規定はありえない−−、この見方は間違っている。ハンスリックは感情美学を「病的」と呼んだわけだが、感情美学は、多感性の遺物である。多感性は、確かに古典的・ロマン的な時代に支持を集め、19世紀をほとんど衰えることなく生き延びたが、既に1790年代には、いわば半地下に移され、大衆美学として−−侮蔑されながらもしぶとく−−信奉された。本来のロマン的音楽美学は、E.T.A.ホフマンにおいてジャーナリズムで強力に作用するべくヴァージョン・アップし、ショーペンハウアーによって体系的に基礎づけられたのだが、これは器楽の形而上学であった。そして、はっきりした境界線なしに神学へ移行してしまうほどの哲学的な野心こそが、ロマン的音楽美学を古典的音楽美学から区別するメルクマールのひとつである。ただし、2つの「路線」の年代上の隔たりは極めて小さく、両者は根本に違いのないただのヴァリアントであった。古典美学の概要が1780年代の素描される一方、ロマン的音楽美学はジャン・パウルとヴィルヘルム・ヴァッケンローダーによって、既に1790年代半ばにスケッチされたのであり、フランス革命から世紀転換まで10年に、古典美学とロマン的美学双方のほとんどすべての主なアイデアが出そろったと言っても過言ではない。

 古典的・ロマン的音楽美学は、19世紀後半の現実主義の傾向の痕跡をほとんど留めることなく、ほぼ無傷で、「現代」を自認した世紀転換の曙まで伝えられた。しかし改めて振り返ると、崩壊の兆候が、一見するだけだと見落しかねないが、世紀半ばに認められる。エドゥアルト・ハンスリックは、論文「音楽美について」の第2版で「形而上的」の語を「経験的」で置き換えた。このとき、語の入れ替えが滑稽だからといって、思想史的な兆候を見落としてはならない。形而上学は、実証的だと自認していた時代に、心理学によって追い落とされたのである。(現代音楽が誕生した時代には、心理学を評価したのは現象学だけだったのだが、結局、現象学から新しい存在論が生み出された。これは思想史の逆説だが、古典的・ロマン的音楽美学をめぐる本書の枠内では、この逆説を説明する余裕はない。)

 19世紀のはじめには、フリードリヒ・シュレーゲルとゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル以来、歴史哲学の形で美学理論と歴史意識の媒介・調停が可能であるかに思えたのだが、1848年の革命が挫折して、思想史に「ヘーゲル主義の凋落」が起きると、歴史主義が美学(規範を求めるかぎりにおける)を葬り去ったことが次第にはっきりしてきた。そして反美学を目指した芸術家の反抗は、知らず知らずのうちにではあれ、歴史主義と結びついた。彼らは、強調的な意味での「現代」概念をよりどころにしながら、すでにアカデミズと化していた古典主義の伝統を捨てようとしなかった。歴史主義は、芸術を、いわば超時間性から歴史性へ突き落とすのであり、歴史主義と音楽の「現代」は、古典的・ロマン的美学に対する控訴審級として、思想史の上で密接に結びつくのである。

 ジャンル詩学の解体、すなわち、作品をその鋳型となったジャンルで測るのではなく、もっぱら個別とみなし、その判断基準を作品そのものに求めるという傾向は、半ば潜在的ではあれ、既に古典美学に素描されはじめていた。そして19世紀後半から20世紀になると、ジャンルは、−−まだ伝承されてはいるが−−作品の芸術としての品格にとって意義を失うに至る。ベネデット・クローチェは、「ある形象が詩かどうかということは、その形象のジャンルと関係ない」という理由で、ジャンルの美的リアリティを否定した。もちろん彼は、歴史家としては(彼はそうであろうとしている)間違っている。しかし偽りのない感情で、彼自身の時代の芸術に起きた出来事を見据えていたのである。

 美学の歴史は(そもそも18世紀半ばより前に美学があったのか疑うことができるかもしれないが)、既におおまかに概観したように、18世紀後半と19世紀に、一方の、遙か過去にさかのぼる部分と、他方の、ようやく古典的・ロマン的な時代に生まれた部分から発展した。そしてそうした諸部分の中には、発展の終わりに解消したものもあり、19世紀後半におけるその解体を生き延びたものもある。それにもかかわらず、古典的・ロマン的音楽美学を歴史的複合体として語る意味はあるし、この歴史的複合体を、それがまだほとんど進化していなかった過去と、その伝承を保つよりむしろ破壊した未来とから、はっきり区画することが可能である。


本書目次へ →翻訳目次へ  トップページへ
tsiraisi@osk3.3web.ne.jp