仕事の記録と日記

白石知雄

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2004年3月30日(火)

『音楽学』49/2が送られてきました。(いちおう日本音楽学会の会員なので。)学会誌は、これから、書評に力を入れる方針だと伝え聞いた記憶があります。日本のバロック音楽研究の草分け、服部幸三『西洋音楽史バロック』を、チュービンゲンのバッハ研究所に長年勤めた小林義武氏が論評するとか、批評する音楽学者、岡田暁生(編)『ピアノを弾く身体』にこもる積年の楽器への愛憎を、もしかしたら研究者・論客としての方が闊達かもしれないピアニスト、岡田敦子氏が診断するとか……。学会政治的には、楽しめる企画なのかなと思いました。

大学に研究職を得た人の投稿がほとんどない、というのがこの学会誌の特徴のような気がします。面白い話を書ける人は、出版社に原稿を売ってしまうし、手早く業績を作るとしたら、大学の紀要に書くほうが、話は早いということなのでしょうか。

もしも、学会誌が研究者の情報共有をめざすとしたら、レトリック抜きの10枚程度の速報的なレポートをたくさん載せるようにしたらいいのでは、と思いました。書評だけが活性化すると、まるで、大学の先生たちが、政治と社交にしか興味がないように見えてしまいますから……。


2004年3月26日(金)

関西フィル定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)。指揮者のボッセは、これまで神戸市室内合奏団で何度も経験していますが、今日、はじめて、面白く聴くことができました。メンデルスゾーンの序曲「静かな海と幸福な航海」、バッハ「チェンバロ協奏曲」イ長調(独奏:曽根麻矢子)、ベートーヴェン「交響曲第3番」。

ベルリオーズやワーグナーのように楽器の音色を混ぜ合わせることなく、四声体が透けて見える音のバランス、清潔なアーティキュレーションなど、これが、メンデルスゾーン以来のライプチヒ・ゲヴァントハウスの伝統的なやり方なのかな、という気がします。

4小節、8小節のフレーズでも、それぞれ力点の置き方が違ったり、音のちょっとした抑揚で表情が変わったり、内声やバスの介入をきっかけに、状況が流動化したり、フーゴ・リーマンのフレーズ論(=日本語に訳されているメイヤーのリズム論の源流)の格好のサンプルになりそうな演奏でした。


2004年3月25日(木)

御喜美江アコーディオン・リサイタル(京都府立府民ホール・アルティ)。人の声のように歌わせることもできるし、敢えて、辻音楽師のように不器用に音楽を歪めることもできるし、出来過ぎと思うくらい、アコーディオンを面白く聞かせてくれる人でした。まじめな牧師風のフッソングとは好対照かも。DJ風のトークも上手。


2004年3月21日(日)

楽曲解説の記録を更新。アゼリア新人推薦演奏会の曲目解説を書きました。


2004年3月20日(土)

午後、一柳慧のオペラ「モモ」(関西歌劇団、メイシアター)。時間をめぐる哲学ということだと思いますが、ここまで禁欲的な音楽を、なぜオペラにしたのか、よくわかりませんでした。視覚効果や舞台空間と結びつく要素がほとんどないので、オラトリオか合唱曲として、成立してしまう気がします。

演奏会評の記録を更新。『ムジカ・ノーヴァ』に黒田亜樹ピアノ・リサイタル、『ショパン』に昨年12月の3つのピアノ演奏会の批評を書きました。


2004年3月18日(木)その2

900円コンサートを続けている22世紀クラブ主催の演奏会(京都府立府民ホール・アルティ)。テーマは「子守歌」。公募した歌詞による合唱曲の初演や、打楽器の中村功さんの指導による、口三味線のサンバなど。「打楽器のリズムは、大阪のだんじり(「コン、コン、チキ〜、チン、……」)でも、サルサやサンバでも、現地では口唱歌(くちしょうが)で習得する」、という中村さんの指摘に、なるほどと思わされました。つまり、打楽器=リズムは、それ自体が「歌」なのだと。中村さんによる、コンガの口唱歌は感動的なものでした。

岡田加津子さんの「ステッキなカサなり」も再演されました。岡田さんによると、「私は、コツコツという靴音、それも、タップではない、普通の靴音が好きだった」とのこと。こちらは、カサを振り回して遊んだ子供時代、SM的な男(カサ)と女(ハイヒール)、フラメンコ、「メリー・ポピンズ」など、さまざまな連想・記号を、いわば、カサのS字の柄でひっかけては、外してゆく、軽やかなパフォーマンス。


2004年3月18日(木)

人文系学者のマスコミ進出というと、私は、つい、植島啓司氏のことを思い出してしまいます。90年代初めに、恋愛やギャンブルについて発言して「売れて」いた宗教社会学者。研究室の若い学生たちも、憧れたりしているようでした。

あるテレビの旅番組でのこと。彼が、フィリピンの豪華ホテルに泊まって、カジノ三昧、という体験レポート=接待を受けていました。ギャンブルは惨敗。最後のシーンで、「スッカラカンなので、これから、身一つで空港へ向かいます」と語ってVTRは終了。これを受けた、スタジオ(大石恵)のコメントは、「帰りの飛行機代で最後にひと勝負して欲しかったです」というものでした(おそらく台本の棒読みだと思いますが……)。

最近の嶋田伸助のような司会者だと、「文化人」は最後の一線を越えないものだ、というのを踏まえて、そのことをネタにしつつ、フォローしてくれたりするのでしょうか。当時は、まだ、「文化人」と「芸能人」の区画が残っていることになっていて、お互い、よそよそしく、つきあっていたようです。

もちろん、「本当に」帰りの飛行機代を賭けるかどうか、ということが問題なのではなくて、テレビ的にそう見える、ということなのだと思います。日本(研究室)への帰り道をキープするなら、それなりに、それすら賭けてエンターテインメントする、というなら、それなりの動き方がある、というのは、今も変わらないことのような気がします。(海外観光地で群れる日本人は、かなりみっともないですから。)植島啓司さんは、2002年に関西大学の教授を辞めて、「現在、大阪と東京に事務所をかまえて学者、作家として活躍中」だそうです。


2004年3月16日(火)

金聖響指揮・大阪センチュリー交響楽団定期(ザ・シンフォニーホール)。曲目は、ベートーヴェンの交響曲第4、7番。

会場で配布されたパンフレットを見ると、第4交響曲の解説(服部智行さん)に、次の一文がありました。

16歳のベートーヴェンがピアノで即興演奏しているのを聴いたモーツァルトが「この子はいつか必ず有名になるぞ!」と驚嘆したという逸話が残っているが、若い頃には即興演奏家として名を馳せていたベートーヴェンにとって《交響曲 第4番》の作曲過程は、かつて得意としていた即興演奏に近いものだったのではないだろうか。

「第4」の作曲過程が、即興演奏に近いというテーゼの是非はともかく、前段に、なぜ、モーツァルトの逸話(1787年4月のベートーヴェンのウィーン訪問をめぐるエピソード)を持ってきたのか、読んでいて、ちょっと戸惑いました。ベートーヴェンをめぐるエピソードには、真偽不詳なものが少なくないというのは、おそらく、今や常識と言ってよいと思いますが、確か、この逸話も裏付けがなかったはず……。いわゆる「ピリオド奏法」を踏まえた「新時代の演奏」が売り、とされる金聖響のベートーヴェンに、どうして、古色蒼然とした19世紀の「ベートーヴェン神話」なのだろう、ベートーヴェンの即興演奏に関する証言は、他にもいろいろあるのに、と。

ダールハウス(しばしば、史料や引用の扱いが杜撰と批判されている)ですら(Beethoven und seine Zeit, Laaber, 1987, S.10)、

1787 -- Im Fruehjahr reiste Beethoven nach Wien, wo er wahrscheinlich Mozart traf.

と、真偽をぼかして書いています。

平野昭氏は、モーツァルトのエピソードを引用した上で(『ベートーヴェン』、新潮文庫、一九八五年、23頁)、

残念ながらこの言葉の真偽のほどは明らかではない。確実なのはベートヴェンが後年に弟子のチェルニーに語っているように、モーツァルトのピアノ演奏を聴いていたと言うことである。[...] ところで、彼が実際にモーツァルトから何らかのレッスンを受けたかは疑問である。

セイヤーの『ベートーヴェンの生涯』(第1巻、1866年)を信じるとしたら、このエピソードは、オットー・ヤーンがモーツァルト伝の中で、ベートーヴェンの友人指揮者、ザイフリート(Ignaz von Seyfried, 1778-1841)を引用したことで広まった、ということになるようです(私が参照したのは、フォーブズの校訂版、Thayer's Life of Beethoven revised and edited by Elliot Forbes, Princeton, 1964, (reprint, 1970), p.87)。

The oft-repeated anecdote of Beethoven's introduction to Mozart is stripped by Professor Jahn of Seyfried's superlatives and in these terms: "Beethoven, who as a youth of great promise came to Vienna in the spring of 1787, but was obliged to return to Bonn after a brief sojourn, was taken to Mozart and at that musician's request played something for him which he, taking it for granted that it was a show-piece prepared for the occasion, prased in a rather cool manner. Beethoven observing this, begged Mozart to give him a theme for improvisation. He always played admirably when excited and now he was inspired, too, by the presence of the master whom he reverenced greatly; he played in such a style that Mozart, whose attention and interest grew more and more, finally went silently to some friends who were sitting in an adjoining room, and said, vivaciously, 'Keep your eyes on him; some day he will give the world something to talk about.'"

この箇所へのフォーブズの注釈は、ほぼ平野説と同じ見解のようです(p.88)。

[...] it is presumed that there was some occasion, public or private, attended by Beethoven at which Mozart performed on the piano. It is an open question whether Beethoven played before an assembled company; the newspapers of this period report only performances by such "wonder-children" as Johann Nepomuk Hummel (born 1778) and the ten-year-old Cesarius Scheidl [...].

服部さんは、音楽学の訓練を受けた方のようなので(「芸術学博士」だとか)、当然、すべてご承知の上でのことなのだろうとは思いますが……。


2004年3月15日(月)

演奏会評の記録を更新。『音楽現代』に、1月の大阪シンフォニカー交響楽団、いずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会の批評を書きました。


2004年3月14日(日)

大井浩明チェンバロ・リサイタル(バロックザール)。骨董趣味を一掃して、古楽の(「20世紀音楽」に劣らない)膨大なレパートリーから、響きの多様性、リズムの多様性といった明確なポイントに沿って曲を選び出し、現代の作品とフラットに並べて、展示する。「モダニズム」のお手本のようなライブでした。面白かった。アンコールは、Nestle。これも、スイス留学の成果(笑)。

楽曲解説の記録を更新。茨木のバリアフリーコンサートの曲目解説を書きました。


2004年3月13日(土)

びわ湖ホール声楽アンサンブルによるパーセル「ディドーとエネアス」(びわ湖ホール小ホール、演奏会形式)。合唱に活力があって、想像していたよりも「市民的」なオペラだと思いました。前半のヘンデル・オペラ抜粋は中途半端。やるなら、別の機会に、本格的に取り組んで欲しかったです。


2004年3月12日(金)その2

大阪シンフォニカー定期(ザ・シンフォニーホール)。ウラディーミル・ヴァーレク指揮のドヴォルザーク特集の2回目。前回同様、驚くほどよくトレーニングしたと感心しましたが、やや、融通が効かない人なのかも。チェロ協奏曲のソリスト、マリン・カザク(茶目っ気のある人みたい)も、どこか窮屈そうに見えました。後半は、交響曲第7番。


2004年3月12日(金)

カール・ダールハウス「音楽史の基礎概念」(Grundlagen der Musikgeshichte、直訳すれば「音楽史の基礎」だと思いますが、たしか、既に、同名の書物が存在するので、基礎「概念」となったのでしょうか?)が翻訳されたようですね。私も日本語で読めればよいのに、と思ったことがありましたが……、このタイミングで出ると、正直、今更という感じは否めないですね。

ダールハウスは、現代音楽の評論("Schoenberg und andere"所収)から出発して、先輩批評家シュトゥッケンシュミットの後任として、ベルリン工科大学の音楽学講座という、音楽学者としては「周縁的」なポストに就いた人。そういう「傍流」の人が、音楽史叢書というプロジェクトの監修者になって、「音楽通史」をまとめなければならなくなって、そのための、いわば「綱領」として1977年に書いたのが、この本だと思います。(そういう意味のことが、序文に書いてあったはず。)原著は、200ページ余りのペーパーバックです。

ダールハウスは、両大戦間の1928年に生まれて、ベルリンの壁崩壊の1989年に亡くなった人ですが、要するに、戦後西ドイツで、「西欧芸術音楽」という「危険な」文化遺産を目減りさせずに保護するのは、どれだけ気を遣うことだったか、ということだと思います。「西欧 Abendland」は、神聖ローマ帝国(「第三帝国」のひとつ前の帝国)に由来する観念でしょうし、近代の「芸術音楽」というと、どうしても、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナーというドイツ音楽の話が出てこざるをえません。(ダールハウスがワーグナーについて論じているのは、なんとなく、核兵器を管理する原子物理学者という感じがします。)

明らかにそれが論じられているのに、ダールハウスは、「西欧」「芸術」「音楽」といった「大文字」の概念を避けて、戦後民主主義下でも通用しそうな造語(芸術音楽を「人工音楽」と言い換えるなど)と、同時代文献から抽出した括弧つきの述語(近世・近代音楽の芸術への志向を"musica poetica"、"poetische Musik"など、それぞれの時代の言葉で名指すなど)の組み合わせで通しています。「音楽は歴史現象だ」という姿勢も、「西欧芸術音楽」を、政治から合法的に隔離する緊急避難の措置でしょう。

ただしそれは、「素性」を隠し、「偽名」を通したスパイの生き方というわけでもなく、西欧の芸術音楽は、もともと人為的な構成物だ(テクネーはピュシスの対義語)という前提(開き直り?)があったのだろうと思います。

「冷戦下の知恵」を伝える歴史資料だと思います。

今はもう、そういう時代ではないですし、ドイツの音楽学雑誌を見ても、もはや、「ダールハウス文体」で書く人は、ほとんどいないような気がします。

ダールハウスに依存するのではなく、彼が参照している原典に、直接あたれば、それで済むことのはずです。

[追記] 訳者あとがきに、「その [=音楽史に関するダールハウスの研究の] 根底には美的現在性をもつ自律的な音楽作品という理念への揺るぎない信念があった」とありますが、そういう風に言ってしまうと、話が平板になる気がしました。(音楽学者には、哲学的に見て「ボンクラ」が多いかもしれませんが、「私の意見」を正直に書いたら論文ができあがる、と考えるほど、ダールハウスは素朴ではないし、かといって、ダールハウスの文章は、主題とは別のところに書き手の実存が刻印された「読み物」には、なっていないです。良くも悪くも、過不足なくまとまった研究論文。アドルノとは、随分、印象が違います。)

ダールハウスの文章に、「美的自律」の話題が出てくるのは、それが、西ドイツで音楽学者として発言するときに、当然、押さえておくべき文脈のひとつ、擁護・批判の争点だったから、ということで良いのではないかと思います。

ダールハウスの文章は、証人が次々召還される裁判記録のようなところがあります。(「「しかし」「しかしながら」「一方では……他方では……」といった表現が続くのはそのため。ジャーナリストの文体とか、カント的、と形容されているようです、カントも、もともとジャーナリストのようなことをしていたそうですから、結局、どちらでも同じことになるのでしょうか。)

で、ドイツの「証人」たちは、日本人と違って理屈っぽくて、頑強に「美的自律」をめぐって語り続けているものだから、どうしても、その証言の吟味に手間をかけることになってしまったのでしょう。

ただし、できあがった論文では、各々の発言が、きれいに三すくみ、四すくみになるように配置されているように思います。文章の構造が「錯綜」していることは、まずないです。(ダールハウスがどういう文脈を想定しているのかわからなくて、「道に迷う」ことはあるかもしれませんが、アドルノのように、話を飛躍させたり、歪ませたりすることのない、とても、律儀で無駄のない文章です。)

論争を裁く手つきとか、そこに差し挟まれた「決め」のフレーズなどは、鮮やかだな、と思います。だから、そうした論争がアクチュアルだった時代には、具体的なノウハウとして、参考にできたのだろうと思います。(1997年にドイツへ行った時に、ダールハウスの描いた構図をもとに、弟子筋が書いたと思われる音楽学ハウツー本をいくつか見かけました。ドイツでは、ダールハウスの「裁定」は、実際に、「役に立った」みたいですね。)

けれども、今は時代が違いますし、今後、同じ問題について「再審請求」するとしたら、別の構成、別の証人が必要でしょう。「ダールハウスに依存するのではなく、彼が参照している原典に、直接あたるべき」というのは、そういう意味で書きました。

[追記 ここまで]

なぜ、このタイミングで、ダールハウスが日本語に翻訳されたのでしょう。日本に、戦後的な意味での「西洋音楽」を保護したい人たちがいる、ということでしょうか。もし、そうだとしたら、ダールハウスを盾にするのは、やめて欲しいですね。ダールハウスは病弱で、人工透析を繰り返しながら、ぎりぎりまで働き続けていたと伝え聞きます。安らかに眠っていただきたいです。それが、多少なりとも「西洋音楽」に関わった者の、礼節であるように思います。

もちろん、読むのは自由ですし、読みたい人が読める状態を整備するのは、悪いことではないと思いますけれど。

[追記] その後、訳文を少しだけのぞいてみたら、かなり不器用な訳語があちこちに……(interesselos=「超利害関係的」とか)。


2004年3月11日(木)

大友直人指揮、京響定期(京都コンサートホール)。前半は、ブルッフ「ヴァイオリン協奏曲」。独奏の岩谷祐之は、ちょっと頑張りすぎだったかも。以前に聞いたプロコフィエフの協奏曲は、抑制の聞いた繊細な演奏だった記憶があるのですが……。大友さんは、ブルッフの四声体に淡く色づけしたような音楽(メンデルスゾーン伝来の、いわゆる「ライプチヒ派」の書法)よりも、後半のブルックナー(交響曲第7番)のワーグナー流サウンドの方が向いている気がしました。すっきりしたテンポで、スケルツォの木管など、かわいらしすぎる、とは思いましたが。


2004年3月9日(火)

午後、仕事で京都に来られた渡辺裕先生(東京大学)をお迎えして、京都女子大で田中正平の純正調オルガンを見学。夜は、そのまま、大阪で先生を囲む会。音楽学のポスト・ドクターの皆さんの近況(惨状?)を、色々とお伺いすることができました。

大学は「生き残りを賭けて」、「闘わなければならない」のだ、という論調をよく目にしますが、国立大学の文系学部は、最近広まりつつあるPh. D風の学位授与システムと、教官評価の業績主義を組み合わせることで、大学院生の効率的な「使い捨て」に、成功しつつあるようです。

「博士」を作ることは、大学、講座、担当指導教官の「実績」として、評価ポイントになるようです。研究テーマを自由に選ばせてくれる等々といったこととは別の次元で、あなたの研究は、着実に「組織」の役にたっています。先生への恩返しの絶好の機会です。

一方、学位を取得した当人は、大学から籍がなくなるわけですから、あなたが「組織」の恩恵を得ることはなく、あなたの将来を「組織」は、一切、関知しません。あとは野となれ……、先生に、迷惑はかかりませんから、安心して、学位をとりましょう。

ちなみに、現場では、「博士号は、研究の通過点と考えて、今できることをまとめなさい。やり残したことは、学位を取ってから引き続き、研究すればよい」と指導されていると聞きます。けれども、大学等の研究機関に所属していない者は、大学図書館を利用することさえ困難になります。任官できなかったポスト・ドクターが、その後、研究を継続することは、事実上、不可能です。博士課程は、心ゆくまで研究ができる、最後のひとときです。その幸せをじっくりかみしめながら、学位論文をまとめましょう。

(日本学術振興会が、ポスト・ドクターを対象に特別研究員という制度を設けており、特別研究員は、文部科学省の科学研究費を申請することもできます。でも、私が知る限り、受け入れ先大学側に、特別研究員のための施設――専用の研究室orデスク等――を提供する余裕はなく、まして、研究施設の運営に関する発言権はありません。「研究員」という肩書きは、大学組織において、有名無実。もし、あなたの研究室に「特別研究員」がいたとしても、相手にする必要はありません。その人は、ただの「居候」です。)

教官の採用基準は「業績主義」。大学は今「闘っている」最中で、即戦力が求められているそうですから、学位だけがあって、その後の「業績」のない人が新規採用されることは、ありえません。博士号を取ったら、即座に研究に見切りをつけて、別の仕事を探しましょう。

Ph. D風の学位システムができて、まだ間がないので、「博士=学者」と誤解する迂闊な人も、たまには、いるようです。でも、定職のない「博士」を信用するほど、世間は甘くはありません。制度が浸透するにつれて、「博士」の効力は、着実に減ってゆくことでしょう。あなたに「詐欺師」「ホラ吹き」の才覚があるとしたら話は別ですが(そういう人は普通、文系大学院には残らない)、学位には、生活の上で、さしたる利用価値はありません。

まあ、こうなることは、Ph. D風の学位制度がはじまった時点で予測されたことですし、皆さん、言われなくても、ご存じだとは思いますが……。

*2/7〜3/7の日記を書き足しました。


2004年3月7日(日)

異色の弦楽三重奏(「誰がヴィオラを殺したか」というCDを出しているという意味では「ヴィオラのない弦楽四重奏」と呼ぶべきでしょうか)トリオロジーの演奏会「90分で回る世界一周旅行」(びわ湖ホール小ホール)。ひとりでチェロとピアノを同時に弾いて、バラードを1曲まるまる演奏したり、過剰なまでに芸達者。でも、真面目に徹することも、エンターテインメントに徹することも避けていて、とてもハラハラさせる不安定さを抱えたグループでした。アンコールも、エンリコ・モリコーネ(聴衆がサビの部分にコーラスで参加)で、客席と一体感を盛り上げたかと重うと、最後は、ラジカセ伴奏で、「シンジュク! タカナワ・プリンスホテル!」と連呼するラップ。ツッパってます。


2004年3月6日(土)

2003年度青山音楽賞授賞式(バロックザール)。受賞者は、成果披露演奏会を開くことができて、演奏家を支援する姿勢がはっきりしている音楽賞。授賞式でも、披露演奏がありました。昨年末に行きそびれた、岡田加津子さんの作品「ステッキなカサなり」も、観ることができました。靴音と、カサで床をコツコツ叩く音で、男と女がやりとりする、フラメンコ風の世界。アイデアがきちんと展開されていて、さすが。ただ、二人の姿勢や関係性にヴァリエーションがある一方で、耳に聞こえてくるものは、靴音とカサの音だと、どうしても、あまり変化がないのが、惜しい気がしました。短いものをひとつ見ただけなので、あまり、断定的なことは言えませんが……。また、京都で作品発表のご予定があるということなので、それを楽しみにしたいと思います。



all these contents are written in Japanese
by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)