仕事の記録と日記

白石知雄

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2003年9月30日(火)

清水淳彦ピアノ・リサイタル(いずみホール)。モーツァルトの3つの短調作品(「幻想曲」ニ短調、「幻想曲」ハ短調、「ソナタ」ハ短調)と、シューマン「アラベスク」と「幻想曲」。ケレン味のない解釈で、淡々と音楽を切り出す姿勢に頭が下がります。


2003年9月29日(月)

昨日にひきつづいて、内田樹『ためらいの倫理学』から「正しい日本のおじさんの道」を読みました。

内田さんは、林道義氏の『フェミニズムの害毒』の主張を次のように要約したうえで、

「夫婦は平等の方がいい。子供は小さいときは母親が親しく育てる方がいい。父親も子育てに参加すべきである。個人と国家の中間には家族、地域社会など中間的な公共的集団が介在した方がいい。近代家族制度のプラス要素はきちんと評価した方がいい。保育園にゼロ歳から預けることにはデメリットの方が多い。社会全体で家族崩壊母性喪失が進行しているが、フェミニストたちには危機感が希薄であり、むしろそれを歓迎している風に見えるのはけしからんことである。フェミニズムに理解を示すのが男性インテリの条件みたいになっているのは良くない。「朝日新聞」の家庭欄からは近年アンチ・フェミニスト的な言説は組織的にに排除されている。「ワイフ」の田中君子はひどいやつだ……などなど。」

これらの主張を、「日本のインテリ・リベラルおじさんの常識」と呼び、(田中の件を除いて)賛成だと書いておられます。

「私はこれらの主張に基本的には(田中の件を除いて)賛成である。これは『日本のインテリ・リベラルおじさん』の常識である。」

そしてエッセイの最後を、

「『正しい日本のおじさん』の生き方をいかに綱領化するか、それが現在の思想的急務であると私は思う。」

と締めくくっておられます。

でも、そんなに肩肘張って「綱領化」するまでもなく、「おじさんの思想」は、今も十分に支配的な気がします。

私の同世代(30代半ば)の知人のサラリーマンの方々は、日々、職場で、「新製品は女性がターゲットだから……」と性差の把握と強化に知恵を絞っておられるようです。また、彼らが、オフタイムの地域その他のイベントで、「受付は、花が欲しいので、女性陣にお願い!」と言っているのを、私は何度も目撃しました。心配ご無用。「おじさんの思考」は、サラリーマンの現場で、驚くほど円滑に、次世代へ継承されつつあるようです。内田さんは、「多数派」に支えられた、実に安泰なお立場におられると思います。

内田さんは、このエッセイで、レヴィ=ストロースなどを引きながら、「野生の思考」に言及しておられますが、おそらく、「おじさんの思考」は、歴史的に時空を限定できる現象ですよね。「良妻賢母」とか「家事が女性の基本」いう観念は、昭和初期に登場した婦人雑誌が、サラリーマン家庭の「主婦」向けに打ち出したのが最初だと、どこかで読んだ記憶があります。そして、そういう「良妻賢母」の夫たちは、まさに、内田さんが「日本の宝」と呼ぶ高度成長の戦士たち。

「誰が何と言おうと、この人たちが戦後日本を支えてきたのである。私のような人間が好き勝手なことをして生きてこられたのは、(うちの父や兄に代表される)この『インテリ・リベラルおじさん』たちの忍耐と勤労の成果を私が収奪してきたからである。」

日本の高度成長の陰で衰退した農家の生活では、夫婦総出で働き、家事や子育ては、老人や年長の子供の仕事だったようです。(私の母は、6人兄弟の次女で、学校から帰宅すると、年少の弟、妹たちの世話をしていたと聞いています。また、祖母が晩年寝たきりになった時には、家と農地を次いだ末の弟の子供たち=孫たちが、最後まで看病していたそうです。私の両親自体は、大阪に出てきた、典型的な「おじさん」+「良妻賢母」でしたが。)

景気が良かった時代は、非「おじさん」層であっても、それなりの「おこぼれ」に預かることができた時代だったように思います。でも、この先、あんな時代が再来するとはとても思えませんし、「おじさん」陣営が思想の綱領化を叫び、急進化しているようですから、もし非「おじさん」陣営というのがあるとしたら、そこに属する方々も、気を引き締めて、時代に即した新戦略を練らないと、悲惨なことになりそうですね。「おじさん」たちは、権謀術数に長けていますから。(圧倒的な多数派なのに、あたかも少数派に転落したかのような危機感を煽り、自らの放蕩への懺悔で泣きをからめて、陣営の引き締めを計る内田さんのレトリックは、まさに「おじさん」。さすがです。)

(ところで、このエッセイには、唐突に「リベラル」の語が出てくるのですが、これが私には、よくわからなかったのです。「自由民主党」とか「自由競争」とかの意味での自由なのでしょうか。)


2003年9月28日(日)

内田樹「アンチ・フェミニズム宣言」(『ためらいの倫理学』角川文庫)について。

私は、「マルクス主義者」ではないので、

「マルクスを疑ってかかるということが、まずもってお前が『プチブル』である動かぬ証拠である」

マルクスを疑うことがタブーであるとは思いません。また、エンゲルスが『資本論』の序文に書いたと内田さんが紹介している、

「マルクスが彼の時代のイデオロギーから自由であったのは、彼が天才だったからである」

という判断にも同意しません。

でも、最近しばしばいわれているように、たぶん、マルクスとエンゲルスは、一身同体ではなかったのだろうと想像しています。

内田さんは、『ドイツ・イデオロギー』で、マルクスがこう書いているのを読み、

「すべてのドイツ人哲学者は、ドイツ語でものを考え、ドイツ風の飯を喰い、ドイツ風の服などを着て暮らしているので、『ドイツ的なものの考え方』にどっぷり漬かっている……」

「おお、なんと過激な主張であろう」と感激しつつ、疑問を感じられたそうです。

「なぜマルクスはドイツ語で考え、ドイツ風の暮らしをしているのに『ドイツ的なものの考え方』に染まらないのであろうか、という当然の疑問に逢着した。なぜ青年カール・マルクス一人はドイツの経済的下部構造によってもその意識を規定されず、常に上空飛行的な俯瞰を行い得たのであろうか。答えを探したが、どこにも書いていない。」

でも、どうなんでしょう。内田さんは、マルクスの文章を、こういう風に読んだのだと思います。

「すべてのドイツ人哲学者は、ドイツ語でものを考え [私、カール・マルクスも然り]、ドイツ風の飯を喰い[私、カール・マルクスも然り]、ドイツ風の服などを着て暮らしているので [私、カール・マルクスも然り]、「ドイツ的なものの考え方」にどっぷり漬かっている [だが、私、カール・マルクスは「ドイツ的」には考えない。]」

確かにこれは、独善的で不可解です。でも、同じ文章を、次のように読むことも、可能ではないでしょうか。

「すべてのドイツ人哲学者は、ドイツ語でものを考え [私、カール・マルクスも然り]、ドイツ風の飯を喰い[私、カール・マルクスも然り]、ドイツ風の服などを着て暮らしているので [私、カール・マルクスも然り]、「ドイツ的なものの考え方」にどっぷり漬かっている [私、カール・マルクスも然り。情けないことである。トホホ。]」

はたして、マルクスが「トホホ」なドイツ人だったのか、エンゲルス以下の「マルクス主義者」たち(そして内田さんご自身)が信じたような「上空飛行」の人だったのか、私にはよくわかりません。よくわからないから、私は、マルクスという人について判断することを「ためらって」今日に至っています。

内田さんは、このエッセイ、「アンチ・フェミニズム宣言」の最後を次のように結んでおられます。

「様々な社会的不合理(性差別もその一つだ)を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、『自分は間違っているかもしれない』と考えることのできる知性であって、『私は正しい』ことを論証できる知性ではない。」

でも、内田さんご自身は、マルクスの文章に別の読み方があるかもしれない、という可能性に「ためらう」ことなく(「自分は間違っているかもしれない」という知性を作動させることなく)、ひたすら、「マルクス主義者」=「正義の人」について語っておられます(巧妙に、論点を、マルクス自身から「マルクス主義者」へずらしながら)。確かに、内田さんは、「正義の人」ではないでしょうけれど、「懐疑の人」というよりも、時には細かい詮索を飛び越えてしまえる「勇気の人」だと、私には思えました(学生運動の嵐が吹き荒れる物騒な時代を生きるには、「勇気」が必要だったということなのでしょうか。そして、「マルクス主義者」は、今日、見る影もなく凋落したわけで、ロジックを飛び越えた、あの時の「勇気」が、内田さんに今日をもたらした、ということにもなるのでしょうか。)

議論を飛び越える「勇気」、そして、その飛躍を「懐疑」の問題に変換するレトリック、これが内田さんの人生の「奥義」なのかなあ、と思いました。(他人の心情を不遠慮にのぞき込むような詮索をして、大変、申し訳ないのですが……。)

私には、内田さんのような「勇気」はないような気がします。「勇気」が「論理」を飛び越える、もしかしたら「右翼的」かもしれない倫理のメカニズムには、ある程度、興味がありますけれど。そして、「勇気」と「論理」をどのように配分して生きるかというのは、いうまでもなく、どちらが正しいか、という正誤問題ではなく、善悪の問題。内田さんは、ちょっとした「ワル」なんですよね。

「私は『正義の人』が嫌いである。」

とエッセイの冒頭で高らかに宣言しておられるのですから、自明ではあるわけですが……。


2003年9月27日(土)

ザ・フェニックスホールのレクチャー・コンサート第3回「ベートーヴェンのもう一つの顔」(講師:渡辺裕、フォルテピアノ:渡辺順生)。ベートーヴェンの初期ソナタが面白い、というのは、吉田秀和の頃から通の間で言われ続けていることのようですが、当時の楽器や演奏習慣を見直すことで、話がさらに説得的になったような気がします。

ソナタの中に、オーケストラや弦楽合奏の模倣が認められたり(18世紀には、他の音楽の編曲が鍵盤楽器のレパートリーの大きな部分を占めていた)、サロンで、蓋を閉じた間接音で聴くのが似合いそうな楽章が含まれていたり、作品13-3の第2楽章のように、C. P. E. バッハ直系の独白調の楽章があったり(18世紀後半は一人称の日記文学、書簡体文学が大流行した時代)。この時期の鍵盤楽器の音楽には、ピアノ・リサイタル成立以前の(ソロ・リサイタルというピアニストの「冒険」は、1830年頃、リストらによって始められたと考えられています)様々な文脈が交差しているようです。

ベートーヴェンによって、芸術音楽は「美的自律」への決定的な一歩を踏み出したと言われます。彼の初期作品を見ていると、それは、「美的」でないものを括弧に入れた抽象化の道であると同時に、現実世界では結びつき得ない多様な文脈(祝祭としての公開演奏会、社交としての半公開サロン、私的な告白など)を、いわば力づくでねじって結び合わせる媒介(メディア)、強力な磁場のようなものだったのではないか、という気がしてきました。(シューマンの室内楽やブラームスの交響曲は、ベートーヴェンの「美的自律」の後継者。一方、ベルリオーズの標題音楽は、ベートーヴェンの音楽の強力なメディア機能を受け継ごうとしたのかもしれませんね。)


2003年9月25日(木)

ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルのヴァイオリン・リサイタル(神戸新聞松方ホール)。1月に、乾いた響きの京都文化芸術会館で聴いたときとは見違える色気のある演奏でした。特に、前半のベートーヴェンの第2ソナタ(華奢で神経過敏な若々しい音楽)と、R・シュトラウスのソナタ(「ドン・ファン」のような覇気と、「バラの騎士」の元帥夫人のような倦怠)。加藤洋之さんのピアノも、相変わらずすばらしかったです。


2003年9月23日(火)

午後、オーケストラ・アンサンブル金沢の大阪定期公演(ザ・シンフォニーホール)。ミラ・ゲオルギエヴァの個性的なヴァイオリンが聞き物だったでしょうか(チャイコフスキーの協奏曲)。他に、ベートーヴェン交響曲第7番、西村朗「鳥のヘテロフォニー」。

夜、土居知子ピアノリサイタル(バロックザール)。遅刻したので、前半は最後のモーツァルト「トルコ行進曲付き」ソナタしか聴けませんでした。きれいに響いていました。後半はシューマン「謝肉祭」。丁寧に弾いてくださったので、改めて、よくできた曲だと再確認しました。


2003年9月22日(月)

演奏会評の記録を更新。『京都新聞』から、8月の鈴木貴彦ピアノリサイタルの批評、9月のお薦めコンサートの掲載紙を送っていただきました。


2003年9月21日(日)

楽曲解説の記録を更新。茨木市のバリアフリーコンサートが宝塚歌劇内バウホールで開いた演奏会の楽曲解説を書きました。


2003年9月20日(土)

午後、日本音楽学会・東洋音楽学会合同の関西支部例会(大阪音楽大学)。渡辺裕先生(前大阪大学助教授)、鎌谷靜男先生(大阪音楽大学名誉教授)、谷村晃先生(大阪大学名誉教授)、馬淵卯三郎先生(大阪教育大学名誉教授)を迎えて、二次会は、同窓会のような雰囲気でした。

演奏会評の記録を更新。『音楽現代』10月号に、7月のいずみシンフォニエッタ大阪の定期演奏会の批評を書きました。


2003年9月19日(金)その2

近衛秀麿指揮、日本フィルのDVDを観ました。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番。例えば第1楽章の主題を例に取ると、1小節目の旋回音型(| es-f-es-d-es-f |)と2小節目の4分音符の下行音型(| g - es- c - b |)で、拍の感じ方も、アクセントの位置や配分も、物理的な速度も弾き分けさせているようでした。

一方、その後、テレビ(朝日放送、関西ローカル)で放映されていた金聖響・大阪センチュリー交響楽団のシューベルト「未完成」交響曲(金聖響・新世紀浪漫派シリーズ第1回の録画)は、完全に均質化されたパルスの上に乗った、まるで無重力の宇宙遊泳のような演奏。

一般に、近衛氏のスタイルは「ロマンチック」(楽譜に明示されないテンポの揺れがあるから)、新世紀・金聖響のスタイルは「ピリオド・アプローチ」(テンポの揺れはおろか、ビブラートすら排除しているから)と言われています。でも、19世紀初頭のヨーロッパは、まだ「新即物主義」を経験していないわけですから、均質なパルスを前提するのは、「ピリオド(同時代)」の感覚ではないでしょうね。もしかすると、近衛氏が見よう見まねで身につけていた「訛り」のほうが、古いテンポ(あるいはリズムやメトルム)の感覚に近いのかもしれません。

そういう不均質な時間感覚を現在のオーケストラにもちこもうとすると、おそらく、20世紀の実験音楽以上に頑強で危機的な抵抗に遭遇するだろうとは思いますが……。そして、金聖響という人は、そういう「しがらみ」から自由な無重力感が支持されているのだと思いますが。


2003年9月19日(金)

阪哲朗の指揮で、関西フィル「オーケストラへの招待」シリーズ(ザ・シンフォニーホール)。シューマンの交響曲第1番は、足の早い演奏でしたが、しばしば不器用といわれる分厚いオーケストレーションから、驚くほどたくさんの意味を汲み取っていました。ウゴルスキーと共演したブラームスのピアノ協奏曲第1番も、関西フィルだということを忘れさせる幸福なひととき。


2003年9月18日(木)

ベルギーの作曲家・指揮者ディクル・ブロッセ指揮の広島交響楽団定期演奏会(広島厚生年金会館)。弦楽器を柔らかく響かせるチャイコフスキーの弦楽セレナードは、オーケストラにとって良い経験になったのではないでしょうか。他に、ブロッセ「ミレニアム序曲」(マイクロソフト社の委嘱作だったとか)、ムソルグスキー/ラヴェル「展覧会の絵」。ホール音響のせいで、ひな壇上の管楽器が、弦に溶けず、強くダイレクトに客席へ届いてしまうのは、本当に残念なことだと思いました。


2003年9月17日(水)

大植英次指揮・大阪フィル定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)。5月のマーラー「復活」に続いて、今回の「幻想」交響曲も、大植の師、バーンスタインが強い愛着をもっていた作品。ちょっと煩わしいはっきりと要求を示し続ける指揮ぶりで、演奏前には、客席に向かって「阪神、優勝おめでとうございます」の一言で客席を湧かせて、演奏後のカーテンコールには、タイガース縞のハッピを来て登場。若くして単身、大阪に乗り込むというのは、どれだけ「おみやげ」を用意しても安心できない、負荷のかかることなのでしょうか。それとも、単に、そういう人なのでしょうか? 第1楽章冒頭の茫然自失したようなピアニシモ、「断頭台への行進」の音色を交錯させるサイケデリックな対位法、「ワルプルギスの夜」の遠くから接近してくる魔女のクラリネットや、くすんだグレゴリオ聖歌、幕切れのハリウッド映画のようにきちんと計算された恐怖と熱狂。立派な仕事でした。他には、ベルリオーズ「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲、リスト「ピアノ協奏曲」第1番(独奏、小川典子)。


2003年9月16日(火)

イシハラ・リリック・アンサンブル演奏会(イシハラホール)。10周年記念のオール・モーツァルト・プログラム。モーツァルトだけの演奏会は、刺激が強すぎて苦手ですが、今回は、交響曲第29番をメインに、若い頃の珍しい作品を交えて、(後半は)少なくとも、退屈ではなかったです。ひたすら、美しさをめざし、作曲家を賛美し続ける演奏。無垢で無邪気な音楽家というモーツァルトに対する人々の集合無意識が、会場を満たしていたような気がしました。

そういえば、初夏に日本を縦断したユベール・スダーン(ザルツブルグ・モーツァルテウム管弦楽団の指揮者だった人)が、その渦中にいて、越え出ようとしていたのは、まさにこういう時空なのでしょうね。(スダーン在任中のモーツァルテウム管京都公演−−パンフレットには花柄があしらわれ、海老沢敏氏その他のエッセイ満載−−の模様については、当時書いた『京都新聞』の批評をご参照ください。入手困難とは思いますが。)スダーン氏を、東京交響楽団が次期音楽監督に選んだのは、英断だと思います。


2003年9月15日(月)

午後、日下紗矢子・京響デビューコンサート(京都コンサートホール)。しっかりした音だけれど、決して力まかせにならず、聡明に構成されたヴァイオリンでした(チャイコフスキーの協奏曲)。オーケストラも、細心の演奏で答える、幸福なひととき。指揮は西本智実。他に、ウェーバー「オベロン」序曲、プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」抜粋。

楽曲解説の記録を更新。上の演奏会の解説を書きました。(その関係で、打ち上げにも参加させていただきました。中井美穂さんも来ておられて、少々、舞い上がってしまいました。阪神が18年ぶりに優勝したこの日は、個人的にも、記憶に残る一日になりました。)


2003年9月13日(土)

午後、土肥みゆきさんの日本歌曲伴奏リサイタル(京都府立府民ホール・アルティ)。今回出演のソプラノの斉藤言子さんの輝かしい声、日本語として明確に聞き取ることのできる発声が素晴らしかったです。また、ゆっくり明確に語られる土肥さんのスピーチも、この演奏会の楽しみのひとつ。土肥さんの「声」を聞いていると、本当に日本語を大切にしておられることに感動します。今回は、戦時中、音楽学校時代の空襲体験のお話をしてくださいました。


2003年9月12日(金)

大阪フィルいずみホール定期演奏会。大植英次の登場。ハイドン「軍隊」交響曲は、序奏の繊細な表情が印象に残りました。バルトーク「弦楽のディベルティメント」は終楽章に挿入された独奏の数々が達者。後半は、ドヴォルザーク「スラヴ舞曲」全16曲のマラソン演奏。


2003年9月11日(木)

藤岡幸夫指揮・関西フィル/パウル・ザッヒャーの遺産シリーズ第3回(いずみホール)。オネゲル交響曲第2番は、むきだしで弦楽器の力量を問われる大変な曲ですね。後半は、シューベルト交響曲第9番。同時代の音楽ということで、ベートーヴェンで培われたピリオド奏法のノウハウ(ひきしまったテンポや管楽器の色彩感を生かした合奏バランス)をもちこんだ演奏。すっきりまとまっていました。(個人的には、やや立派すぎる仕上がりのような気がしました。曖昧なテンポで、もう少し隙のあるシューベルトも聞いてみたいです。)


2003年9月10日(水)

昨年のブーレーズとの公演が話題になったマーラー・ユーゲントのOBたちによるマーラー・チェンバー・オーケストラの演奏会(ザ・シンフォニーホール)。指揮はダニエル・ハーディング。現代奏法とピリオド奏法を大胆に組み合わせた演奏は、賛否両論がありそう。アカデミー・オフ・エンシェント・ミュージックや18世紀オーケストラを当たり前のように聞いて育ったというイギリスの若手指揮者にとって、ピリオド奏法は、もはや、過去の奏法の復元というアクチュアルな実験ではなく、取捨選択して、他の様式と組み合わせることが可能な演奏法の「ストック」のひとつなのでしょう。演奏様式の混交は、意識的な操作というのではないかもしれませんが、それでも十分、怪物的でした。曲目は、ベートーヴェン交響曲第1、3番。ピアノ協奏曲第1番(独奏、梯剛之)。


2003年9月9日(火)

午後、大阪文化祭洋楽部門の一次審査会でした(ドーンセンター)。


2003年9月7日(日)

午後、ピアノの武知朋子さん(柔らかい音で弦楽器を包む演奏)と、高木和弘以下、長岡京室内アンサンブルのメンバーによる弦楽四重奏の演奏会(バロックザール)。長岡京が、合奏の洗練だけに収斂してしまうのではなく、こういう風に、活動を多方向に広げてゆく場になるというのは、本当に素晴らしいことだと思います。


2003年9月6日(土)

午前中、貴志康一展(芦屋市美術博物館)。さほど大きなスペースではないですが、写真・楽譜・紙の資料・音源等が過不足なく展示された、良い資料展でした。貴志康一がベルリンで制作・上演した日本紹介の映画も、VTRで観ることができました。日本観光ガイドとして、今でも通用しそうな内容。いわゆる「外国人の目」でみた日本ということになるのでしょうか。近代がそのような「まなざし」を形成したというのは、既に言い古されたことで、21世紀のジャーナリズムに提起できる「問題」ではないと思いますが、どのような経緯で関西出身の音楽家が、この立場にたどりついたのか、現在につながる歴史として、知っておきたいと思いました。

午後、びわ湖ホール声楽アンサンブルのホール5周年記念演奏会(びわ湖ホール大ホール)。遅刻して、後半のオペラ・アリア集だけ聴きました。共演の京都フィルハーモニー室内合奏団(指揮、小崎雅弘)が、ちょっと騒々しかったが残念でした。歌に沿って、バランスを整える余裕がなかったのでしょうか。


2003年9月5日(金)

大阪センチュリー交響楽団の金聖響専任指揮者就任披露定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)。ベートーヴェンの交響曲第1、3番。いわゆるピリオド奏法(イン・テンポ、ノン・レガート、管楽器の剥き出しの音など「ピリオド奏法」と呼んで簡単に片づけるのもどうかとは思いますが)を基礎にして、所々に、彼自身の「趣味」で味付けする要領の良い仕事ぶりでした。踊るような指揮で、時々、不思議なフレージングを示すのをみて、もしかするとこの人は、ドイツ音楽から別の言語にベートーヴェンを翻訳しようとしたいのかな、と思いました。オーケストラが極めて優秀。


2003年9月4日(木)

渡辺裕『宝塚歌劇の変容と日本近代』(新書館)
同『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社)

渡辺先生の近著を、ようやく読ませていただきました。先生の14年前の「問題提起の書」(V頁)『聴衆の誕生』では、80年代の「新人類」に対して、驚きと好奇のまなざしが向けられていました。

この新しい聴衆たちには、我々にとっての「クラシック」の代名詞であったバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンという、あの「巨匠」たちに対する思い入れがほとんどなく、あまつさえこれらの作曲家たちに関する「常識」すらろくに持ち合わせていないということに気づいたときには、跳び上がらんばかりに驚いた。(I頁)

しかしその後、本書でも取り上げるような現代の様々な音楽現象を注意深く眺めてみると、どうもこれらは単なる「音楽の堕落」といったことで片づく話ではなく、現代において生じている社会構造や文化全体のあり方の変質と深く関わった、かなり根本的な性格のものであるということに気づきはじめた。(I-II頁)

先生の尽きることのない知的好奇心が、今度は(ちなみに、『モダン・ラプソディ』も再び「問題提起の書」(34頁)とされています)、日本の大正・昭和初期の「和洋折衷」状況を再発見したということになるのでしょうか。

第二次大戦前に出ていた書籍や雑誌等の文献はもとより、SPレコードやパンフレットの類にいたるまで、いろいろなオリジナル資料にアクセスすることができるようになり、そこから開けてくる世界があまりに面白いので、すっかりハマってしまった。(『モダン・ラプソディ』306頁)

最初は、そのケッタイさかげんに思わず笑ってしまったりするのだが、コレクションの数が増え、類似のものが累積されてくるにつれ、また、文献などでその背景や周辺の状況がわかってくるにつけても、この「異世界」にはそれなりのロジックがあり、その基準に照らしてみれば、一見ケッタイに見えるこれらの録音にも十分な存在理由があることがだんだんわかってきた。(同上)

不意に遭遇した「差異」への好奇のまなざしが、「内省」を経て、「発見」をもたらすというのは、まさに、自然科学(リンゴの落下から万有引力を発見する)に代表される「近代の知」の典型的な「物語」。先生は、まさに、近代の知識人です。勉強になります。

ただ、細かいことのようですが、タカラヅカを「大阪」と括ることには、多少、違和感を覚えました。

現在の宝塚線沿線に暮らす人にとって、関西を、大阪(梅田)を中心とする放射状の図式でイメージするのは、ごく自然なことなのだろうと思います(先生が赴任しておられた大阪大学の最寄り駅は、同線石橋駅)。

現在の交通網において、宝塚は、大阪の「郊外」(のひとつ)に見えます。

宝塚
 | 
(石橋)
 | 
神戸 ------ 大阪 ------------ 京都

しかし、手元の資料をみると、例えば、昭和6年の阪急電鉄沿線案内図では、大阪と宝塚が、上の図のように直線で結ばれるのではなく、大阪・石橋・宝塚・西宮で構成される四角形の対角線の位置に描かれています(『阪神間モダニズム』淡交社、2-3頁)。

宝塚 ------ 石橋
 |   | 
神戸 ------ 西宮 ------ 大阪

なんとなく、この図のほうが、阪急電鉄社主で、宝塚劇場を作った小林一三のヴィジョンを反映しているような気がします。阪急電鉄は、宝塚と大阪を結ぶこと(宝塚線)から出発しましたが、その後、「大阪−神戸」間(神戸線)、「西宮北口−宝塚」間(西宝線)などを相次いで開通させています。西宮から三宮にいたる地域は、阪神電車(三宮−大阪間)の開通以来、大阪へ通勤可能な郊外住宅地として一挙に開発が進んだと聞きます。瀬戸内海に開けた南向きの斜面は、理想的な住環境の「健康地」と喧伝され、実際に、朝日新聞社主の村山家など、多くの大阪商人やビジネスの成功者たちが、競って当地に移り住んだようです。これが、今日の豪邸、高級住宅街の基礎。路線網拡大の経緯を見るかぎり、阪急の場合も、郊外開発のメインターゲットは、明らかにこの地域だっただろうと思われます。(もちろん、池田、雲雀丘花屋敷など、宝塚線沿線の開発も行ったそうですが。)だとすると、宝塚も、阪神間の「健康地」に住む人々のための娯楽場という意味合いが強まっていった可能性が高いのではないかという感じがするのです。

阪急電鉄が開発した神戸岡本の住宅は、建築として、まさに、和洋折衷を特徴としていたそうです(前掲の『阪神間モダニズム』参照)。また、宝塚には、庶民のための安価な劇場だけでなく、宝塚ホテルのような社交場も造られています。阪急の構想は、大阪の「庶民」から芦屋のブルジョワ(芦屋では、洋館の一角に茶室を造る和洋折衷が流行っていたらしい)までを視野に収めていたような気がします。

昭和にはいると、宝塚劇場が輸入もののレビューに傾斜する一方で、「高級芸術」のほうでは、宝塚交響楽団の指揮者、ヨゼフ・ラスカらに学んだ貴志康一(大阪生まれ、芦屋育ち)のような音楽家が現れますし、第二次大戦後の関西楽壇を支えた朝比奈隆は、周知のように、他でもなく「阪急電鉄」に入社していた時期があり、芦屋在住の亡命ロシア人音楽家、ウィルヘルム・メッテルに学んでいます。

さらに駄目押しすると、渡辺先生の前任者で、大阪大学の音楽学講座初代教授だった谷村晃先生(1927年生)も、退官記念パーティ(1991年)の際に配布された「業績目録」添付の年譜によると、大阪の商家の家系のご出身で、昭和の初めに、一家で阪神間に移住されたようです。(ちなみに、谷村先生の1987年の還暦記念パーティは、ご自身のご希望により、宝塚ホテルで開催されました。)

はたして、東京の「郊外」、例えば武蔵野などが、どの程度、東京の社会・文化の中で意味をもっているのか、寡聞にして知りませんが、少なくとも「関西」(「大阪」というより、この呼称のほうが、文化の単位としては適切な気がします)では、阪神間というもっぱら住宅街である地域が、良くも悪くも、文化のヘゲモニーの一翼を担っているように思います。前にも少し書きましたが、関西のクラシック音楽にかかわっていると、日々、その思いが募ります。

渡辺先生の「モダン・ラプソディ」には、阪神間モダニズムがすっぽり抜け落ちているように見えます。(『宝塚劇場の変容と日本近代』42-46頁に、小林一三の「壮大な構想」「当時としてみればまだかなり現実離れしたものであったに違いなく」等の記述はありますが、この構想が「現実」の阪神間へ、現在に直結する帰結をもたらしたことには言及されていないようです。)ちょっと勿体ない気がしました。大阪と京都の間(大阪から見ると北東=鬼門の方角)に住んでいる私には、阪神間の「健康地」の生活文化もまた、「異世界」に見えるのですが……。

(別の話になりますが、おそらく、大阪の「庶民のお笑い」という表象−−吉本興業は昭和生まれの「近代」企業−−も、一方の京都の伝統芸能、他方の阪神間モダニズムとの緊張関係の中で存立しているのではないでしょうか。そういえば、「コテコテの大阪弁」という河内弁をベースにした人工言語を操る芸人さんの中には、実は、和歌山出身の明石家さんまなど、西日本各地の地方出身の方が少なくないですよね。)


2003年9月3日(水)

神戸市混声合唱団の秋の定期演奏会(神戸文化ホール中ホール)。唱歌、懐かしの流行歌、美しく青きドナウやハレルヤなどを、芸術歌曲や交響曲であるかのように組み立てる独特の演奏。指揮は、宇野功芳氏。


2003年9月2日(火)

増田聡「『文化現象』の総体に挑む−−ポピュラー音楽研究のいま」(朝日新聞夕刊)

「メディア論」をキーワードに、ポピュラー音楽研究の問題意識を解説する達意の文章。

「テレビやレコードや新聞だけがメディアなのではない。音楽もまた、人々の意識や感覚を強力に構築するメディア(媒介)なのだ。」

ポピュラー音楽研究がどこへ向かおうとしているのか、これまでずっとモヤモヤしていた疑問が氷塊した気がします。

楽曲解説の記録を更新。好例の大フィルメンバーによる室内楽のパンフレットに楽曲解説を書きました。


2003年9月1日(月)

演奏会評の記録を更新。『関西音楽新聞』に、7/16の相沢吏江子さんのベートーヴェン演奏会の批評が出ました。



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by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)