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大栗裕と民俗仏教
-- 《交響管弦楽のための組曲「雲水讃」》の成立と改訂 --

白石知雄

(『大阪音楽大学研究紀要』49、2011年、31-51頁)


大阪音楽大学紀要は本年度からPDF版のみとなり、大学ホームページからダウンロードできます。譜例等を含む完全版はリンク先のPDFでご覧下さい。http://www.daion.ac.jp/about_ocm/publish/journal/index.html
補足:大栗裕の《雲水讃》については、http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110325/p1もあわせてご参照ください。

要旨

本論は、大栗裕(1918-1982)の《交響管弦楽のための組曲「雲水讃」》の成立と改訂を残された資料から解明する試みである。現存する複数の録音、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫が所蔵する自筆総譜とパート譜から、全3楽章の組曲として1961年11月27年に朝日放送で放送初演(第16回文部省芸術祭参加)されたこの作品が、1962年1月12日までに冒頭楽章を削除して全2楽章とされ、1964年1月に、終楽章の序奏を削除して確定されたことが明らかになった。また、大栗文庫が所蔵する、京都・吉祥院天満宮大祭(おそらく1961年8月25日分)の六斎念仏芸能の録音から、この作品が吉祥院六斎念仏の「発願」、「つつて」、「お月さん」、「安達ヶ原」、「四ツ太鼓」の素材を用いていることが判明した。

0. はじめに

 《交響管弦楽のための組曲「雲水讃」》(注1) (以下、《雲水讃》と略記する)は、大栗裕(1918-1982年)の管弦楽作品のなかで、少なくとも生前は、彼の出世作《大阪俗謡による幻想曲》(1956年初演)に次いで演奏回数が多かった。朝比奈隆がしばしばヨーロッパで指揮したからである。(注2) だが、その成立経緯には不明な点がいくつかある。まず、曲名と題材の関係がはっきりしない。「雲水讃」、すなわち、禅の修行僧を讃える、という標題は、素直に受け取れば禅との関連を期待させるが、実際にこの曲で用いられているのは、西国巡礼御詠歌と、京都の六斎念仏である。観音信仰の巡礼歌や、阿弥陀信仰の念仏踊りから派生したとされる芸能に取材した作品が、どうして禅と結びつくのか?

 しかも、速筆で多忙だった大栗裕には珍しいことだが、この作品は、第16回文部省芸術祭参加作品(注3) として朝日放送ラジオで初演されてから(1961年11月27日)(注4) 、1964年1月に総譜を確定する(後述)までの3年間に、少なくとも2度改訂された。大栗裕は、《雲水讃》を演奏会初演した大阪フィルハーモニー交響楽団第15回定期演奏会(1962年1月12日)(注5) のプログラムのなかで、「自作について」として曲の成り立ちを次のように説明している。

 直接的には朝日放送の伊藤プロデューサーから京都に残る六斉[ママ]念仏を主題として何かオーケストラ曲を書かないかということをいわれたのに始まった。六斉念仏の評判は以前から聞いていたので、素材としては申し分なかったけれども、扨、仕事にとりかかって見ると意外にも事の困難さにタジログこと屡々であった。それでも何とか書き上げたものの「芸術祭参加作品」として放送されたのを聞くとやはり私自身色々と不満も残った。
 幸い今度大阪フィルの定期演奏会で朝比奈先生がこの曲をとり上げていただくことになり引き続いてローマ、ライプチヒ、ドレスデン、ハンブルグ等で演奏して下さる事に成ったので構成上の改訂を加えたプログラムにベートーベン、チャイコフスキーと一緒に並ぶ光栄さに喜ぶよりも、私の曲の拙さに私自身世をはかなんで現世を逃避するようなことにならなければ良いがと考えている。(大栗 1962)

作曲者は、創作中に「事の困難さにタジログこと屡々であった」と書いているが、改訂はこのとき一度で済まず、「事の困難」の決着は2年後まで持ち越される。

 現在、この作品については、自筆総譜のほかに、放送初演番組を含む複数の録音とパート譜、そして作曲時に参照されたと思われる資料録音が見つかっている。ここでは、この作品を本格的に検討するための準備作業として、ひとまず成立・改訂経緯を整理する。

 なお、この研究では、総譜・パート譜とともに、各種録音資料が、作品の改訂経緯を解明する有力な手掛かりになった。20世紀以後、音楽家は、放送・レコードなど新しい情報メディアで音楽活動を展開し、個人でも録音機材を駆使するようになった。音楽作品の成立史研究も、もはや紙の資料だけに頼るわけにはいかない。本稿には、20世紀音楽の研究がメディア横断的にならざるを得ないことを示す実例としての意義が多少はあるかもしれない。

1. 自筆総譜と録音資料にみる改訂の概要

(1) 1964年の自筆総譜の概要

 大阪音楽大学付属図書館大栗文庫(以下、大栗文庫と呼ぶ)にA-027の整理番号で保管されている手書き総譜が、この作品の現存する唯一の自筆資料である。鉛筆で書かれた全2楽章の総譜には、大栗裕の筆跡による譜面のほかに、複数の筆跡で、指揮者の覚え書きと思われる書き込みがあり、この総譜は実際の演奏で使用されたと考えられる。「ABC朝日放送」のロゴマークの入った24段五線紙の第1から42頁が第1楽章、第43から96頁が第2楽章で、厚紙の表紙と裏表紙が付けられている。ノンブルはない。

 表紙と第1頁の記載は「交響管絃楽のための組曲[/]“雲水讃”[/]大栗裕作曲[/]1961. NOV.」(改行箇所にスラッシュ[/]を挿入した、以下同様)。一方、第1楽章の曲末(第42頁)に「1961. 10. 23 Am2.25」、第2楽章の曲頭(第45頁)に「1964. Jan」、曲末(第96頁)に「Ende[/]1964. Jan」と手書きの記入がある。表紙の1961年11月は放送で初演された稿の完成時期、第2楽章の1964年1月は、改訂を経て現存する総譜が確定した時期を指すと思われる。以下、本稿ではこの総譜を「1964年総譜」と呼ぶことにする。

 第1楽章は、4分の4拍子32小節で採譜された御詠歌をゆったりしたテンポ(Lento)で4回繰り返す。(以下、小節番号をT.1等と略記する。)

前奏(T.1-3)           Lento 4分の4拍子
御詠歌1(T.4-34)      Vn, Va                       (pp)
[T.35-69は削除]
間奏1(70-73)
御詠歌2(T.74-105)    Vn, Va, Vc                   (mf)
間奏2(T.106-108)
御詠歌3(T.109-140)   Fl, Ob, Cl, Fg, Hr, Vn, Va   (ff)
間奏3(T.141-147)
御詠歌4(T.148-179)   Fl, Cl                       (mp)
後奏(T.180-183)

旋律を受け持つ楽器と強弱(括弧内のpp、ff等)の変化は、巡礼の歌が遠くから徐々に接近して(御詠歌1→2→3)、再び遠ざかる効果(御詠歌4)を狙ったと思われる。

 第2楽章は、打楽器のリズムを強調した快速な(Allegro molto)リフレイン主題(α)の合間に2つのエピソード(β、γ)が挿入されるロンド風の構成(αβαγα)であり、最後に速度を落とし、まったく新しい素材(X)が出現してコーダの役割を果たす。

α (T.1-76)     リフレイン主題、Allegro molto、4分の2拍子
β (T.77-140)   第1エピソード、Poco piu mosso
α (T.141-178)  リフレイン主題、Tempo I
γ (T.179-262)  第2エピソード
[T.263-307は削除]
α (T.308-349)  リフレイン主題(Tempo I)
X (T.350-363)  コーダ、Andante、4分の4拍子

 なお、この総譜には、計2箇所「Cut」と指定された箇所がある。上記一覧では中括弧[ ]で表示した。第1楽章のT.35-69は、御詠歌1回分に相当するが、放送初演以来、この箇所を演奏した例はなく、現存するパート譜でも省略されている。おそらく初演前の段階で削除されたと思われる。第2楽章のT.263-307は、Xと記号化したT.350以下と同じ素材だが、削除の経緯は(2)以下で検討する。

(2) 1961年の放送初演の概要

 筆者は、2007年に大阪フィルハーモニー交響楽団が創立60周年を記念して貴志康一、大栗裕、松下眞一の作品を特集した「関西の作曲家によるコンサート」の曲目解説を依頼された際(白石 2007)、同楽団が《雲水讃》の2種類の録音を所蔵していることを知り、今回その内容を詳細に確認する機会を得た。そのひとつが、1961年11月27日のこの作品の放送初演の録音である(以下これを録音【1】とする、放送日等は注(4)参照)。冒頭と最後のアナウンサーによるナレーションを含めた収録時間は約25分。冒頭のナレーションに、「この組曲は3つの小品からできており、その素材を京都の吉祥院、西賀茂西方寺で取材したものです」(下線は引用者)という説明がある。(注6) 放送初演の段階では、この作品は現行総譜の全2楽章ではなく「3つの小品」、すなわち全3楽章だった。1964年総譜の第1楽章の前に、1961年の放送初演では、もうひとつ、いわば「原冒頭楽章」とでも言うべき楽章があった。

 この「原冒頭楽章」、放送初演時の第1楽章の録音を聴くと、曲が1964年総譜の第2楽章のコーダに出現したのと同じ旋律(X)で始まっていることがわかる。緩やかなテンポの旋律が一種のガイド役になって、よりテンポの速い2つのエピソードを導く(X-a-X-b-X)。リフレイン主題とエピソードのテンポがはっきり異なるので、ロンドには聞こえない。ちょうどムソルグスキー《展覧会の絵》で、展示品をプロムナードがつなぐのに似た構成と言えるかもしれない。楽譜が現存しないので、かわりに曲の開始からの時間(「分:秒」の形式で表示)を添えて、この楽章の構成をまとめると、次のようになる。

X (00:00-03:58)	リフレイン主題
a (03:59-05:33)	第1エピソード
X (05:34-06:04)	リフレイン主題
b (06:05-08:55)	第2エピソード
X (08:56-09:56)	リフレイン主題

 御詠歌を用いた中間楽章は、録音を聴く限り1964年総譜の第1楽章と同じである。

 そして最終楽章は、1964年総譜第2楽章のT.1-349と一致している。1964年総譜のT.263-307に指定されていた「Cut」は放送初演の段階ではまだなされていなかったらしく、この部分も省略なく演奏されている。そして録音はT.349でプッツリ切れたように終わってしまう。1964年総譜のT.350以下は改訂時に付け加えられたようだ。1961年の放送初演の録音は、最終楽章がAndante maestosoにテンポを落として第1楽章の旋律Xを回想したあとで(T.263-307)、Allegroのリフレイン主題へ復帰して終わる。1964年総譜は、この回想風の減速(T.263-307)を削除して、その代わりに楽章の最後に、同じ旋律素材によるコーダ(T.350-363)を置いたわけである。

1961年段階の最終楽章:αβαγ X α
1964年段階の最終楽章:αβαγ    α X

 やや説明が錯綜したので、ここまでに判明したことを整理しておく。放送初演時の3つの楽章の構成上の特徴は、冒頭楽章のゆるやかなリフレイン旋律が、最終楽章でも回想される特別な存在だったことである。この素材を他と区別するために「X」として、その他の素材に、登場順に「a, b, c...」と記号を付け直してみると(中間楽章の御詠歌がc、最終楽章のリフレイン主題と2つのエピソードがそれぞれd、e、f)、1961年の放送初演の段階と1964年総譜の作品全体の構想は、それぞれ次のように図示することができる。(楽章の切れ目はピリオド「.」で表示した。)

                    I.          II.    III.
録音【1】(1961)   X a X b X . cccc . dedf X d
                                I.     II.
自筆総譜(1964)                cccc . dedf   d X

 大栗裕の音楽は、民俗的な素材を用いるため、しばしば「土俗的」と形容される。複数の楽章に多彩な素材を盛り込む組曲は、単純なメドレーに陥る危険と背中合わせの企画だったと思われる。しかし出来上がった作品では、特定の素材(X)に構成の楔となる重みを与える一方で、中間楽章における素材の執拗な反復(cccc)と、最終楽章におけるロンド風の素材の多様性(dedfd)を対照して、変化と統一の均衡が図られている。素材の組み合わせ(composition)を工夫する作曲家(組み立てる人composer)の手つきは、決して泥臭いものではない。

(3) 1962-1963年の演奏の概要

 (2)で述べた大阪フィルハーモニー交響楽団所蔵のもうひとつの録音(以下、録音【2】とする)の演奏日時は特定できていない。しかし幸いなことに、遺族から大栗文庫に寄贈された一群のオープンリールテープのなかに、演奏日時を特定できる《雲水讃》の別の録音がある。この録音テープ(以下、録音【3】とする)の外箱には、「DRESDEN[/]PHILHARMONIE[/]Probe[/]Mozart Es dur[/]Symphonie[/]OGURI[/]"Unsui-San"」と鉛筆で記入されている。朝比奈隆が1962年2月17、18日にドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団を客演指揮した際のリハーサルの録音だと考えられる(岩野、小野寺 2009: 2)。このドレスデンの録音(録音【3】)は、終楽章の途中で終わっており、音質は極めて悪いが、演奏スタイル(各楽章各部分のテンポ設定など)が大阪フィル所蔵の録音(録音【2】)と酷似している。この事実から逆算して、大阪フィル所蔵の録音(録音【2】)も朝比奈隆の指揮だと思われる。もしかすると、これは1962年1月の演奏会初演(大阪フィルハーモニー交響楽団第15回定期演奏会、詳細は注(2)参照)のライヴ録音なのかもしれない。

 この2つの録音はどちらも2楽章構成で、最初の楽章は1964年総譜の第1楽章、すなわち御詠歌の楽章と完全に一致する。ところが2つめの楽章には、1964年総譜に存在しない序奏がある(録音【2】では00:00-03:47)。しかもこの序奏は、1961年の放送初演における冒頭楽章の最初の部分(録音【1】の00:00-03:58)、すなわち旋律素材Xを提示する部分と一致する。どうやら作曲者は、放送初演時の第1楽章の破棄を決断したのち、その冒頭部分だけでも残そうと考えたらしい。

 さらに録音を聴き進めると、(2)で検討した最終楽章のコーダの改訂は、既にこの段階で完了している。この段階での最終楽章は、旋律素材Xの序奏風の提示ではじまり、Allegroのロンド風の主部を経て、旋律素材Xを用いたコーダで終わる。そしてここで改めて、上記(2)で検討した1961年の放送初演時の録音(録音【1】)と、この1962-1963年頃と思われる録音(録音【2】)を聴き比べると、放送初演時の冒頭楽章のコーダ(録音【1】第1楽章の08:56-09:56)と、1962-1963年頃の録音の「最終」楽章のコーダ(録音【2】第2楽章の09:26-11:36)がほぼ同じであることに気づく。1962-1963年の段階では、破棄された「原冒頭楽章」の冒頭と末尾の部分が、最終楽章のロンドを前後から挟む形(X dedfd X)で再利用されていたらしいのである。

 以上の観察結果をまとめると、次のようになる。

                       I.          II.      III.
録音【1】(1961)      X a X b X . cccc .   dedf  X d
                                   I.     II.
録音【2】(1962-1963)             cccc . X dedf    d X
                                   I.       II.
自筆総譜(1964)                   cccc .   dedf    d X

2. パート譜にみる改訂の詳細

 大阪フィルハーモニー交響楽団から大栗文庫に寄贈されたパート譜を精査することで、さらに詳細な改訂経緯がわかる。パート譜はすべて手書きで、様々な筆跡が混在している。今回、整理の手掛かりになったのは、用いられている紙の種類や刻印されたロゴマークであった(楽器名のあとのアラビア数字は現存する部数を指す)。

【1】「ABC朝日放送」のロゴマーク入り10段五線紙
 Violin I 5、Violin II 5、Viola 4、Violoncello 3
【2】「大阪フィルハーモニー交響楽団のロゴマーク入り10段五線紙
 Flute II(第2楽章の序奏部のみ) 1、Flute III(第2楽章の序奏部と主部の一部のみ) 1、Bass Clarinet 1、Fagot I 1、Fagot II 1、Trombone I 1、Trombone II 1、Trombone III 1、Tuba 1、Timpani 1、Percussion I 1、Percussion II 1、Violin I 2、Violin II 1、Viola 6、Violoncello 3、Contrabass 5
【3】「Ava Copy」のロゴマーク入り10段五線紙
 Violin I 6、Violin II 6
【4】「Osaka Philharmonic Society」のロゴマーク入り10段五線紙
 Violin I 1、Violin II 1、Viola 1、Violoncello 1、Contrabass 1

 パート譜【1】、【2】、【3】は全2楽章で2つめの楽章に序奏があり、前章(3)で検討した1962年から1963年の録音(録音【2】、【3】)と一致する。一方、パート譜【4】は、全2楽章で2つめの楽章に序奏がなく、内容は1964年総譜と一致する。

 パート譜【1】は、全2楽章への改訂を反映しているにもかかわらず、この作品を放送初演した「ABC朝日放送」のロゴマークの入った紙が使われている。おそらく、放送初演で用いたパート譜を改訂後に切り貼りしたと思われる。改訂前・放送初演時の譜面の状態を垣間見ることができる資料である。

 まず、タイトルに揺れがあったことがわかる。改訂後に作成された【2】、【3】、【4】の表紙タイトルは、英語表記の「Suite “Un Sui San”[/]H. Ohguri」で統一されている。パート譜【1】も、表紙だけは、「大阪フィルハーモニー交響楽団」のロゴマーク入り五線紙を使って作り直されて、同じ英語タイトルが書かれている。ところが【1】のいくつかには、これとは別に「“管絃楽の為の組曲” 大栗裕 曲」と書かれた紙が紛れ込んでいる。おそらくこれは、1961年の放送初演時のパート譜の表紙の流用であり、放送初演時のパート譜には、このタイトルが記されていたと思われる。つまりパート譜を作成する段階では、まだ曲名が確定しておらず、《雲水讃》という曲名は、放送初演の直前に決定した可能性がある。

 パート譜【2】で注目すべきは、いくつかの譜面の末尾に書かれた日付入りの署名である。これらの日付から、パート譜【2】が大阪フィルハーモニー交響楽団による演奏会初演(チューバのパート譜に「Osaka Philharmonisches Orchester[/]den 12 Jan」の記入)から、少なくとも1963年春(バス・クラリネットのパート譜に「63.4.19」の記入)まで使用されていたことがわかる。おそらく1962年の演奏会初演の際、大半のパート譜が「大阪フィルハーモニー交響楽団」のロゴマーク入り五線紙を使って新たに作り直されたのだろう。

 パート譜【3】の成立事情ははっきりしない。古い譜面の切り貼り(パート譜【1】)が混ざった状態を改善するために、写譜業者に清書を依頼したのだろうか。

 パート譜【4】は、表紙に鉛筆で「Extra (Original)」と書き入れられている。1964年1月に2つめの楽章の序奏を削除することが確定して、この決定を反映したパート譜を作成するための原本だったのだろうか。

 《雲水讃》の改訂経緯を知る手掛かりは、これですべて出揃った。大阪フィルハーモニー交響楽団が作成した楽団と朝比奈隆の演奏記録(大阪フィルハーモニー協会 1997と2007、岩野、小野寺 2009)を参照しながら、ここまでの情報を年表にまとめておく。

 また、補足資料として、パート譜【1】と【2】から放送初演段階の冒頭楽章の流用部分を取り出して、論文末に総譜の形で掲載した(譜例5)。オーボエ、クラリネット、トランペットが欠けてはいるが、破棄されて失われてしまった「原冒頭楽章」の冒頭部分の概要がこれでわかる。(注7)

1961年10月23日 御詠歌の楽章(放送初演時の中間楽章、1964年総譜の第1楽章)を完成。
   11月   全楽章を完成。パート譜作成。 → パート譜【1】
        この段階のタイトルは「管絃楽の為の組曲」。
   11月   放送のための録音。この頃タイトル「雲水讃」が決定か?
   11月27日 第16回文部省芸術祭参加作品として放送初演。 → 録音【1】
   12月頃  全2楽章に改訂。新しいパート譜を作成。 → パート譜【2】
1962年1月12日  大阪フィルハーモニー交響楽団により演奏会初演。 → 録音【2】か?
   1月〜3月 朝比奈隆が渡欧。各地で《雲水讃》を指揮。
   2月17、18日ドレスデン・フィルハーモニーなど。 → 録音【3】
1964年1月    最終楽章の序奏を削除。 → 1964年総譜
        新しいパート譜を作成か? → パート譜【4】
   2月〜3月 朝比奈隆が渡欧。各地で《雲水讃》を指揮。
(以下、1966年、1967年、1973年に朝比奈隆が欧州で《雲水讃》を指揮した記録がある。)

3. 《雲水讃》と吉祥院六斎念仏

 作曲者本人は、1962年の演奏会初演時に「朝日放送の伊藤プロデューサーから京都に残る六斉念仏を主題として何かオーケストラ曲を書かないかということをいわれた」と書くに留めているが(大栗 1962、本稿冒頭の引用参照)、前年の放送初演時のナレーションは「その素材を京都の吉祥院、西賀茂西方寺で取材したもの」と取材先を特定している(録音【1】、1.の(2)参照)。そして大阪音楽大学付属図書館には、外箱に「六斎念仏」と記載された一巻のオープンリールテープが作曲者の遺族から寄贈されている(以下、録音【4】とする)。ここには、取材時に現地で収録したと思われる音が入っている。(注8)

 京都の六斎念仏は、六斎日の念仏講が、京都の市街地周辺部の農村で、都市文化を取り込み芸能化したものだと見ることができる。地蔵盆などと結びつき、現在は主に夏の祭礼で奏演されている(京都の六斎念仏については八木 2002: 102-132など)。西賀茂の西方寺は、毎年8月16日の送り火で「舟形」を受け持っている。住職の鐘を合図に船山の松明に点火した若衆は、下山後に太鼓と当り鉦を用いた念仏踊りを行う。一方、菅原道真を祀る吉祥院天満宮の毎夏8月25日の大祭で奉納される六斎念仏は、鉦と篠笛、大小数種の太鼓を用い、踊りや狂言を取り入れるなど、芸能としてのヴァラエティに富んでいる。五山の送り火という伝統行事に関連する古風な念仏踊りと、多様な芸を見せる祭礼の奉納と、2つの典型を選んで取材したのだろう。

 しかし結論から言うと、西方寺の念仏踊りについては、仮に取材した事実があるとしても、実際の作曲でその素材を用いた形跡はない。大栗文庫所蔵の録音テープ(録音【4】)は吉祥院六斎念仏だけを収録しており、《雲水讃》は、そのいくつかを用いて作られている。表1に、1979年の現地調査で吉祥院六斎念仏のレパートリーとして確認された音曲(芸能史研究会 1979: 72-84)、大栗文庫のテープ(録音【4】)に収録された音曲、《雲水讃》の1961年の放送初演(録音【1】)に旋律・リズムの使用が確認できる音曲、そして参考までに、筆者が実地に確認した2010年8月25日の吉祥院天満宮大祭での演奏曲をまとめた。

表1:吉祥院六斎念仏と大栗裕の《雲水讃》

(1) 1961年放送初演録音の冒頭楽章と「発願」、「つつて」、「お月さん」

 京都の六斎念仏の演目の多くは笛と太鼓と踊りで華麗に芸能化しているが、最初の「発願」は当り鉦だけを用いた声明であり、宗教行為の性格を保っている。吉祥院六斎念仏では、往生礼讃偈の一節「発願已至心帰命 南無阿弥陀仏」を唱える。その出だしは次のとおりである。(長く引き延ばされた音の正確な拍数は採譜困難なので、ここではすべて全音符で記した。また、声の細かい音の揺れは、四分音符でその概略を示唆するに留めた。)(注9)

譜例1:吉祥院六斎念仏の「発願」冒頭

本稿1.で作品の構成上の楔であることを確認した《雲水讃》放送初演段階の第1楽章のリフレイン旋律(譜例5のT.1-27の低音弦楽器)はこの声明の節回しを細かい声の揺れに至るまで忠実に採譜している。そして続くT.28-38は、当り鉦と豆太鼓を伴う「南無阿弥陀仏」の称名に相当する。朗々と歌うホルンに、弦楽器がなめらかなグリッサンドと入念な強弱の変化で表情を付けた和音で応じて、オーケストラならではの効果を発揮する箇所だが、旋律線と鉦のリズムは、吉祥院六斎念仏の該当箇所と正確に一致する。

譜例2:吉祥院六斎念仏の「発願」より

 吉祥院の六斎念仏では、「発願」に続けて笛と豆太鼓による音曲、「つつて」と「お月さん」が演奏される。《雲水讃》においても、放送初演時点の冒頭楽章では、上で述べた「発願」に続けて、T.39-45の打楽器によるブリッジ(パート譜が残っていないので譜例5では空白)をはさんで、T.46-61は「つつて」冒頭の前奏風の篠笛をフルートで正確に写し取っている。T.62以下のフル・オーケストラによる第1のエピソード(a)も「つつて」の素材にもとづき、第2のエピソード(b)には「お月さん」のいくつかの旋律断片が用いられている。もはや譜面が一切残っていない箇所だが、曲の一端を示すために、「つつて」(録音【4】の02:54-02:58)の篠笛と、《雲水讃》の対応箇所(録音【1】第1楽章の03:59-04:12、譜例5のT.62-66に相当する箇所)の旋律を採譜して以下に掲載した。原曲を忠実に編曲した「発願」と違って、作曲者はここで、f-g-b-g-f-d-c-d-fという旋律の輪郭を保ちながら、f-g-b-gという特徴的な音程を強調し、自由にリズムを伸び縮みさせている。譜例4はあくまで筆者の聞き取りにもとづく採譜なので、リズムの細部が大栗裕の譜面を復元し損ねている可能性はあるが、録音を耳で確認しただけでも、「つつて」と「お月さん」については、編曲の域を越えた処理が施されていることがわかる。

譜例3:吉祥院六斎念仏の「つつて」より
譜例4:大栗裕《雲水讃》1961年放送初演時の冒頭楽章より(録音を採譜した復元案)

(2) 1961年放送初演録音の最終楽章と「四ツ太鼓」、「安達ヶ原」

 六斎念仏は踊り念仏に由来するとされるが、現在の伝承者の意識では、なんといっても太鼓の芸能である。六斎の芸を身につけようとする者は(現在の保存会に至る吉祥院六斎念仏の伝承組織の変遷は、相原 2003: 57-61)、全員まず四ツ太鼓をやり、一定の技量を認められると大小の太鼓を使った曲芸打ちへ進む。豆太鼓を華麗に打ち回す音曲は、卓越した奏者だけに許された六斎芸能の花形、コンチェルトのソリストに似た位置を占める。たとえば大栗文庫所蔵録音に含まれる「盛衰記」は、現在の伝承者が「久しぶりにいい太鼓を聴いた」と感嘆する1961年当時の名手の奏演の記録である。

 大栗裕の《雲水讃》は、篠笛の旋律の音程を忠実になぞる一方、太鼓の特定のリズム型を使った箇所は少ない。最終楽章は、リフレイン主題(d)が打楽器のリズムを強調し、2つのエピソード(eとf)への導入やリフレイン主題への復帰を常に打楽器が先導するなど、打楽器が活躍して、いかにも六斎風ではあるのだが。

 また、京都の六斎念仏では、いくつかの音曲が能・狂言・歌舞伎などに由来する名前で呼ばれ、実際に扮装や所作を伴う場合がある。吉祥院六斎念仏が伝承する「岩見重太郎」や「安達ヶ原」はそうした狂言仕立ての典型である。《雲水讃》最終楽章の第1エピソード(e)には、「安達ヶ原」の篠笛のユーモラスな旋律が用いられている。1979年の調査報告書(芸能史研究会 1979)に掲載された採譜例と、《雲水讃》の1964年総譜の第2楽章T.77以下を比較すれば、原曲の旋律をかなり忠実にオーケストラ編曲していることがわかる。

 なお、同じ楽章の第2エピソード(f)の冒頭のフルートの旋律(T.183-189)は、吉祥院六斎念仏で四ツ太鼓の前奏として伝承されている笛の節回しに似ているが、T.190以後の管楽器の旋律の出典はまだ特定できていない。この作品は、御詠歌を除くほぼすべての旋律素材が吉祥院六斎念仏の音曲にもとづいているので、この部分だけ旋律を作曲者が自作したとは考え難い。今後さらに調査を続けたい。

4. 大栗裕と民俗仏教

 以上のように、残された各種録音資料を精査することで、《雲水讃》と吉祥院六斎念仏の結びつきが密接かつ具体的であったことがはっきりする。一方、もうひとつの楽章(放送初演時の第2楽章、1962年の改訂以後の第1楽章)で御詠歌が用いられた意図を知る手掛かりは、今のところ作曲者自身の言葉だけである。大栗裕は、本稿冒頭でその一部を紹介した自作解説を以下のように書き出している。

 私は小さい時分「大きくなったら禅宗の坊さんか、山奥にある小学校の先生にでもなろう」と大真面目に考えていた。今の私を知っている人がこんなことをきけばふき出してしまうであろうが、その頃に本当の夢であった。恐らくこのような宗教的な雰囲気に憧憬に似た気持を持つに至ったのは、小学校の頃高野山に夏季休暇を利用した林間学舎に行って、子供心に――当時の高野山は今とちがってはるかに静寂であった。――こんなところに一生住んでみたいと思ったからにちがいない。私は人が思う程あつかましくもなければ気も強くない。さびしがりやで小心寞々とした弱い男だと今でも思っている。その様な性格が現世をイントンする逃避的な考え方に自ら同調していったのであろう。それにもう一つ、私の父は非常な美声である。これは私自身も認めるのだが、やはり子供の頃、有馬へ病後の休養に出かけて、父と一緒に妙見山に登った時、摂津の空に訝するように音吐朗々と御詠歌を唱えたのを記憶している。この声は私の耳に未だ昨日の事のように鮮かに残っている。それやこれやが、現世甚だ生ぐささ極まる人生を生きている私にこの《雲水讃》を作ろうとする考えを抱かせたはるかな原因であったろう。(大栗 1962)

 六斎念仏取材が作品を委嘱した放送局の提案だったのに対して、御詠歌は作曲者の私的な思い出と結び付き、作曲者自身の判断で作中に取り入れられた。《雲水讃》において、御詠歌は六斎念仏の間に割り込み、遠くから近づき、再び遠ざかる。ここに作者は、遠い少年時代の思い出が蘇り、再び消えていく様を重ね合わせていたのかもしれない。

 そして「雲水」を讃えるタイトルは、もはや作中の素材を離れて、作者の私的な感慨、「禅宗の坊さん」になりたかったという年来の思いを込めたものだったようである。タイトルが作品の内実と一致していない印象は拭えないが、大栗裕は、六斎念仏を取材して仏教への思いを新たにしたのだろう。多彩な音曲のなかでも「発願」の声明と念仏を重視して、放送初演時の冒頭楽章を破棄した後にも、「発願」部分を残そうとしたのは、そのせいかもしれない。

 《雲水讃》は念仏衆の六斎芸能と西国巡礼の御詠歌を組み合わせて、民俗芸能や民衆の生活と結びついた仏教、いわば民俗仏教を讃える形にまとめられている。しかしどうやら、作者の仏教への関心はそれだけに留まってはいない。この作品に先だち、大栗裕は、白隠禅師坐禅和讃を男声合唱で歌う創作日本舞踊《円》のための音楽(1958年)や、法華経の挿話にもとづく合唱曲《火宅》(1959年)を作曲しており、《雲水讃》の総譜が確定した3ヵ月後の1964年4月には京都女子大学教育学部教授に就任して、以後、1965年の合唱曲《歎異抄》を皮切りに浄土系伝統教団のための仏教洋楽をいくつも手がけることになる。作品の佇まいと、そこへ寄せる作者の志向・まなざしの若干の不一致が、この作品の過渡的な危うさであり、特別な魅力でもある。

付記:《雲水讃》のパート譜が改訂の詳細を知る鍵だと気づいたのは、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫スタッフのひとり、垣田祐里さんがパート譜の記載のばらつきを指摘してくれたことがきっかけだった。大阪フィルハーモニー交響楽団顧問の小野寺昭爾さんには、本文で取り上げた録音資料だけでなく、朝比奈隆のヨーロッパでの演奏会のプログラムなど、貴重な資料の閲覧を許可していただいた。今回活用した大阪フィルハーモニー交響楽団第15回定期演奏会のプログラムは、大阪音楽大学音楽博物館所蔵資料である。京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター准教授の田井竜一さんからご教示いただいた六斎念仏に関する様々な資料、そして、大栗裕が取材した当時と変わらぬ姿で芸能を伝承している吉祥院六斎念仏保存会の皆さんの数々の貴重な証言は、今後の研究でさらに有効に生かしていかねばならないと考えている。ご協力いただいた皆さんに、心より感謝します。

1) 大栗裕は、後述するように、自筆総譜のタイトルに「交響管絃楽の」と「絃」の字を用いているが、初演のプログラムの表記などを見るかぎりでは旧字体への特別なこだわりは認められない。本稿では、自筆譜の記載そのものを引用する場合を除き、「交響管弦楽の」と「弦」の字を用いることにする。 [→本文へ戻る]

2) 大阪フィルハーモニー交響楽団は、国内外で《大阪俗謡による幻想曲》を少なくとも数十回演奏している。しかし、朝比奈隆が客演指揮したヨーロッパのオーケストラ演奏会に限れば、《大阪俗謡による幻想曲》の演奏は8公演。《雲水讃》は、これを上回る14公演で取り上げられている(岩野、小野寺 2009)。 [→本文へ戻る]

3) 第16回芸術祭音楽部門の参加作品は、公演によるもの25件、放送によるもの21件、合唱コンクール8件。朝日放送は、大栗裕《雲水讃》のほかに、小倉朗《小管弦楽のためのセレナード》、合唱コンクールに石井歓《青い葦とりんどうの話》を出品した。芸術祭賞は、宮下秀冽《日本楽器のための組曲》(日本放送協会)と松平頼則《古代歌謡「風俗」》(中部日本放送株式会社)、合唱コンクールの枠で清瀬保二《冬のもてこし春だから》(中部日本放送株式会社)、高田三郎《わたしの願い》(日本放送協会)の4作品が受賞した(文部省 1962)。 [→本文へ戻る]

4) 朝日放送、森正指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団。『朝日放送の50年』における放送日時の表記は「61.11.26 日 24:30-25:00」。日曜日深夜、日付が27日に変わってからの放送である(朝日放送社史編集室 2000: 99)。同日この直前の24時15分から24時30分には、注(3)で述べた小倉朗の作品が放送された(文部省 1962: 23)。 [→本文へ戻る]

5) 1962年1月12日、毎日ホール。朝比奈隆の指揮、江藤俊哉の独奏で、大栗裕《雲水讃》、ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》作品61、チャイコフスキー《交響曲第4番》作品46が演奏された。大阪フィルの定期演奏会で大栗裕の作品が取り上げられるのは、これが最初である。 [→本文へ戻る]

6) 番組冒頭のナレーション全文は以下のとおり。「第16回文部省芸術祭音楽部門参加、大栗裕作曲《交響管弦楽のための組曲「雲水讃」》、管弦楽、大阪フィルハーモニー交響楽団、指揮、森正さんです。この組曲は3つの小品からできており、その素材を京都の吉祥院、西賀茂西方寺で取材したものです。」 [→本文へ戻る]

7) 具体的には、パート譜【1】の弦楽器分と、パート譜【2】の管・打楽器分をもとに譜例5を作成した。これらのパート譜のうち、パート譜【1】の第1ヴァイオリンの譜面には、初演時の冒頭楽章がT.78まで記載されている。このパート譜を、初演時と改訂後の録音(録音【1】、録音【2】)と照合すると、初演時の冒頭楽章を改訂後の最終楽章の序奏に流用する際に、T.39-44の打楽器だけで演奏される6小節がカットされたことがわかる。譜例5に記載した練習番号「1」から「7」はこのパート譜に従っている。他のパート譜に残るのは、改訂後の最終楽章の序奏に流用されたT.61までである。管・打楽器は、T.39-44を削除した状態で作り直されている。そしてこれらのパート譜の練習番号は、「1」→「A」、「2」→「B」、「3」→「C」、「5」→「D」と付け直されている。(練習番号「4」に相当するT.39-44は削除。)なお、譜例5の総譜を作成する際、木管楽器は各楽器1段、ホルンとトロンボーンはそれぞれ2段にまとめた。T.39以後は、フルートと打楽器だけで演奏されるので、この2つの楽器と、さらに先まで記載が続く第1ヴァイオリンだけを掲載した。アーティキュレーション等を含め、パート譜の状態を反映することを優先して、表記の不一致等の統一は行っていない。 [→本文へ戻る]

8) この録音テープの現在の状態は表2に示した通りである。

表2:大阪音楽大学付属図書館大栗文庫所蔵録音テープ「六斎念仏」の内容

 もともと、テープ幅一杯を使うモノラル片方向1トラック毎秒19cmの方式で約30分間(0分15秒から30分33秒まで)、ほぼテープの先端から終端まで六斎念仏が収録されていたと考えられる。その上に、モノラル往復2トラック毎秒9.5cm方式で別の録音が上書きされている。往路(トラックAと表記)で上書き録音されているのはレコード、テレビ音声、音源不明のラテン音楽だが、曲名などは現在特定できていない。復路(トラックBと表記)には、放送のエア・チェックと思われる音が2種類入っている。その結果、「発願」に続く「つつて」は途中で途切れており、「四ツ太鼓」の途中までの約10分間にどのような音曲が収録されていたのか、もはや知る術はない。しかし、現存する部分だけを聴いても、舞台の床を踏みならす音などが鮮明に入っているので、実際の上演の同時録音だとみて間違いないだろう。
 「月世界旅行」は、大栗裕が音楽を担当したNHK大阪放送局制作のラジオ放送劇、「真夏の夜の夢」はベンジャミン・ブリテンのオペラの放送である。前者は自筆譜の記載によると1962年7月1日放送。後者は二期会の1962年5月31日から6月14日にかけての公演(日本初演)を収録した7月8日のNHK教育テレビ「芸術劇場」もしくは同月23日のNHK-FMラジオ「歌劇の夕べ」だと思われる(洋楽放送70年史プロジェクト 1997: 174)。六斎念仏は、前年1961年8月25日の吉祥院天満宮大祭を取材・録音した可能性が高い。 [→本文へ戻る]

9) 「発願」の録音は、やや杜撰なことだが、最初の3音を録音し損ねており、譜例4の4つめの音からはじまっている。《雲水讃》の旋律も同様に最初の3音が欠けている(譜例5のT.1以下)。大栗裕は、この録音テープだけを参照して作曲を進めてしまったものと思われる。 [→本文へ戻る]

参照楽譜

大栗裕、「交響管絃楽のための組曲『雲水讃』」、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫A-027、オーケストラ総譜とパート譜一式、1964年1月。

参考文献

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田井竜一 2006 「桂地蔵前六斎念仏 -- その特質と伝承をめぐって --」、『日本伝統音楽研究』3、41-66頁。
二期会 2003 『二期会創立50周年記念 二期会史』。
ふれあい吉祥院ネットワーク 2007 『ふれあい吉祥院11年の歩み』、NPO法人ふれあい吉祥院ネットワーク。
文化庁 1976 『芸術祭30年史 資料編』(上)。
文部省 1962 『昭和36年度第16回芸術祭総覧』。
八木透(編著) 2002 『京都の夏祭りと民俗信仰』、昭和堂。
洋楽放送70年史プロジェクト 1997 『洋楽放送70年史1925-1995』。

譜例5: 大栗裕《雲水讃》1961年放送初演時第1楽章冒頭部分(パート譜より復元)
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