シンポジウム・レポート「現代におけるヴァーグナー上演の意義と問題」

(白石知雄)

『日本音楽学会関西支部通信』第85号、2004年4月20日、日本音楽学会関西支部


日本音楽学会関西支部第310回例会
日時:2003年10月4日(土) 午後2時〜5時
場所:大阪音楽大学 第1キャンパスP号館ミレニアム・ホール
内容:シンポジウム「現代におけるヴァーグナー上演の意義と問題」
コーディネーター・司会:中村孝義(大阪音楽大学、ザ・カレッジオペラハウス館長)
パネリスト(50音順):
 海老澤敏(関東支部、新国立劇場副理事長、前日本音楽学会会長、当日欠席)
 「新国立劇場がトウキョウ・リング上演で目指したもの」
 岡本稔(非会員、音楽評論家)
 「現代ドイツにおけるヴァーグナー上演の実態と評価」
 東条硯夫(非会員、音楽評論家)
 「第2次大戦後のヴァーグナー上演史における現在の意義と問題」
 三宅幸夫(関東支部、慶應義塾大学)
 「ヴァーグナーのオペラ演出における読み替えの意義と問題」

シンポジウム・レポート

まず、コーディネーターの中村孝義氏から、このシンポジウムの趣旨の説明があった。

関西では、リヒァルト・ヴァーグナーの作品の上演に接する機会は少ない。しかし、東京では、四部作「ニーベルンクの指輪」だけでも、ここ数年で、三つのプロジェクトがある。

また、ベルリン国立歌劇場は、2002年のベルリン復活祭音楽祭 Berlin Festtage において、バレンボイムの指揮、クプファーの演出により、「さまよえるオランダ人」以降の十作品を一挙に上演した。

「なぜ今、これほどヴァーグナーが関心を持ってながめられているのか、そして、なぜ、これほど上演され、多くの人が集まるのか?」

これがこのシンポジウムの企画意図、とのことだった。なお、海老澤敏氏は、海外出張のため欠席。現在進行中の「トウキョウ・リング」について、主催者の立場からの報告は、残念ながら、実現しなかった。

三宅幸夫「ヴァーグナーのオペラ演出における読み替えの意義と問題」

最近のヴァーグナーの上演では、「読み替え」と呼ばれる現象が話題になっているらしい。例えば、「トウキョウ・リング」では、ラインの娘たちがクマの着ぐるみで登場し(「ラインの黄金」)、ブリュンヒルデが、おもちゃの木馬にまたがり(「ワルキューレ」)、鍛冶屋のミーメは、剣を電子レンジで鍛える(「ジークフリート」)。また、新規な演出は、ヴァーグナーに限定されたものではなく、岡本稔氏によると、「今やドイツの劇場における最先端は、モーツァルトの“読み替え”に移行しつつある」。

こうした試みは、従来の演出(1950〜60年代、暗闇から人物だけを浮かび上がらせた、ヴィーラント・ヴァーグナーの「象徴的」演出、1970年代、20世紀風の巨大ダムを背景に、ゲルマンの神々が、19世紀=ヴァーグナー時代のブルジョワの姿で登場する、フランスの演劇人パトリス・シェローの「演出の劇場 Regie-Theater」、1980年代、ブレヒトの異化演劇やメイエルホリドの「ビオ・メハニカ」の影響が認められるとも言われた、東ドイツ出身のオペラ演出家ハリー・クプファーの仕事など)と比較しながら、その是非が議論されているらしい。三宅幸夫氏の報告は、こうした現状を踏まえたものだった。

三宅氏は、最初に、「読み替え」という言葉の由来が曖昧であり、「むしろ、メタファーの一種ではないか」と断った上で、以下の二点を指摘した。

  1. 「読み替え」は、オペラの演出において、必ずしも新現象ではない。(例:ヴィーラント・ヴァーグナーの演出では、ゲルマンの神々がギリシア風の衣装を身にまとった。)
  2. 他の芸術には「読み替え」の長い伝統がある。(例:ピーテル・ブリューゲルの「幼児虐殺」(1567年)では、ルカ伝の挿話が、ベツレヘムからフランドルの冬景色へ置き換えられている。)

また、「現代の演出は、ここまで深く読み込んでいるという例」として、ハリー・クプファー(1935-)のバイロイト祝祭劇場(1989-1992)における「ジークフリートの葬送行進曲」の演出が紹介された。(クプファーの演出では、管弦楽によるライトモティーフを可視化するかのように、ト書きにはない、ブリュンヒルデやヴォータンが舞台上に姿を現し、物語を異化すると同時に、この場面の神話的・歴史的な位置を観客に印象づける。)

なお、「トウキョウ・リング」について、後の討論での三宅氏の見解は次の通り。「私の評価は“趣味が悪い”、“品がない”。ただ、人は普通、こういう批判を、ある種の優越感とともに語る。トウキョウ・リングは、そういう自分の固定した美意識を問い直すきっかけになる。」

岡本稔「現代ドイツにおけるヴァーグナー上演の実態と評価」

岡本稔氏によると、オペラの月刊誌「Opernwelt」の2002/2003シーズンの年間ベストテン(第1位:フランクフルト市立歌劇場、第2位:ハノーファー州立歌劇場とシュトゥットガルト州立歌劇場、ワースト1位:ベルリンの三つのオペラハウスの統合)に見られるように、ベルリンやミュンヘンの大劇場は、必ずしも、ドイツのジャーナリズムの支持を得ていない。報告では、中小劇場での演出例の紹介が続いた。(例えば、2000年に高い評価を得たシュトゥットガルト州立歌劇場の「指輪」公演では、四夜を別の演出家が担当し、「ラインの黄金」は戦前の温泉場。「ワルキューレ」に、ブリュンヒルデを包む魔の炎などは登場せず、「ジークフリート」はスラム街。「神々のたそがれ」では、ターザン風の野人ジークフリートが文明に出会い、堕落する。)

岡本氏によると、こうした演出には、およそ、次のような特徴がある。

  1. 視覚的な情報量が多く、装置家の比重が大きい。
  2. 演出の賞味期限が短い。(例:使われている最新パソコンが、すぐに旧式に見えてしまう、など。)
  3. バイロイト祝祭劇場への批判が演出の一つの軸になっている。(例:ミュンヘン州立歌劇場における「ラインの黄金」の舞台には、バイロイトを思わせる閑散とした客席と、三匹の金魚を入れた水槽が配置された。)

上記シュトゥットガルトの「指輪」最終夜を担当したペーター・コンヴィチュニー(1945-)の手法は、「教室の中のローエングリン」(ハンブルク州立歌劇場での演出)など、「外から押しつけた解釈」に見えることがある(質疑応答でのフロアからの指摘)。しかし、ドイツ、オーストリア全体で考えると、「大衆迎合」(中村氏)と受け取られるかもしれない新演出と、伝統的な演出(ヘッセン州立劇場、2002-2004年の「指輪」など)、「観光資源」(ウィーン国立歌劇場総監督、イオアン・ホレンダーの発言)としての大劇場が共存し、多様性が保たれているようだった。

東条硯夫「ヴァーグナー上演におけるスコアのエディションとカットの復元について」

東条硯夫氏は、上記、2002年のベルリン復活祭音楽祭について、「演出の陰で、バレンボイムが採用した版の問題が話題になっていないのは残念」(バレンボイムは原則的にノーカット上演を目指した)とした上で、ヴァーグナーの上演におけるカットの慣例と復元の試みが、エディションの問題(「タンホイザー」の、いわゆる「ドレスデン版」と「パリ版」など)とあわせて紹介された。

楽譜の一部が省略される理由には、東条氏によると、次のようなものがある。

  1. 歌手の負担軽減(「ローエングリン」、「タンホイザー」など)
  2. 政治的な理由(「ローエングリン」では、「ドイツは未来永劫、東方からの侵略を受けることはない」と歌う箇所がしばしばカットされる)
  3. 指揮者の判断(マンフレート・グルリット指揮、藤原歌劇団による「ニュルンベルクのマイスタージンガー」日本初演、1960年など)

ヴァーグナーのオペラの中で、「指輪」以後の作品に版の異同はほとんどなく、問題は、その前の三作品(「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、「ローエングリン」)とのことだった。

また、討論の中で、「今の指揮者は場面の効果に集中する傾向があり、かつてのフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュには、長時間にわたる持続があった」との指摘があった。これは、演奏の問題と、演出の問題を関連づける糸口になる視点かもしれない。

*   *   *

本会の会場となった大阪音楽大学ミレニアムホールは、三百人収容可能な本格的な多目的ホールだが、客席は閑散としていた。シンポジウム開始時で、入場者は約三十名。東京から来られたパネリストの三氏、万全の環境を整えてくださった大学関係者には、本当に申し分けないことだった。

参加者の約半数は非会員で、その多くが、日本ワーグナー協会の方々だと伝え聞いた。ヴァーグナーのオペラに関心をもち、予備知識がある人にとって、このシンポジウムは、ヴァーグナー上演の最新事情を知る機会なったのだろうか。

ヴァーグナーの作品には、それぞれの時代の最先端の知性・感性を刺激する何かがあるらしい。彼のオペラが、ニーチェやショウ、ボードレールなど、同時代の知識人を夢中にさせたことはよく知られている。また、東条氏の報告でも言及されたが、日本では、実作の上演に先立ち、ヴァーグナーが、ニーチェと関連する一種の哲学として紹介された。また、ポネルやクプファーの仕事は、二〇世紀芸術の華というべき現代演劇からのアプローチ。いわば、二つの世紀の「前衛」の出会いを演出する一面があったように思われる。

「トウキョウ・リング」の舞台は、しばしば、アメリカン・コミックを連想させると形容されている。最近の社会学や文化研究が論証しようとしているように、ポピュラー・カルチャーが、十九、二十世紀的な「教養」にとってかわる、知性・感性の現在進行形なのだとしたら、ヴァーグナーが、東京において、ポップな意匠と結びつくのは、むしろ、自然なことなのかもしれない。発表を聞きながら、私は、できれば、リメイクや文脈の切り替えが頻繁になされる、映画やポップ・アートに詳しい人の意見も、聞いてみたいと思った。

(白石知雄)

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