短編「水のない都市」第二節
轟華絢爛第二巻反逆小説


 アイリスはサキが嫌いである。
 理由を挙げると、多分真っ先に来るのは
「アイリスのお兄ちゃんを取ろうとするから」
 だろう。
 だがそれを言ってしまうと、花組のみんながみんな大嫌いで、嫌いでないのは織姫だけということになってしまう。
 よって、これは本当の理由ではない。

 アイリスはそもそも人の心が読める。
 何度もあやめや米田、大神からも諭されて、人の心を読むのは悪いことだと解った最近では、その能力はまず使わなくなっていた。
 だが使えなくなったわけではなく、今まではごく自然と「聞こえる」とか「見える」と同じ様な感覚でいたのを、意識的に制御できるようにしただけである。
 よって、まだ人の心を読むことは可能である。
 可能であるので、読むとまでは行かなくてもその人が心に抱えている感情くらいはすぐにでも解ってしまう。

 アイリスが初対面のサキに感じたのは悪意だった。
 微笑みながらもその笑顔の裏で瞑いことを考えている目だった。
 なまじ年上のお姉さん……すなわち、アイリスを帝劇に連れてきてくれたあやめと共通項があるために、なおさらサキの漂わせる気配がアイリスには気に入らなかった。

 そのサキに、アイリスは妙なところで出会った。

「アラ、不思議なところで会ったわネ、アイリスちゃん」

 確かに不思議というか、妙な場所だ。
 ある意味では帝劇で最も広い場所とも言える部屋、舞台裏の大道具部屋である。
 最奥部を見た者は誰もいないとか噂されるが、少なくとも改築前ですら「つばさ」公演での複葉機を平然と収納できていたので、あながち本当かも知れない。
 舞台の最中ならともかく、ここで人間に会うことはまずない。
 すぐ横にある海の書き割りが自己主張しているような気もするが、気のせいだろう、多分。

「サキ……おねえちゃん……」

 とってつけた言い方、というのが適切な表現だろう。
 アイリスが本来おねえちゃんと呼ぶのはあやめと、そしてかえでくらいである。
 かといって、花組のみんなのように気軽に名前だけで呼ぶのはためらわれたのだ。
 怖い、と感じさせる何かのために。
 サキが何かをしまったように見えたけど……、こんなところで一体何を……

「こんなところに何しに来たの、アイリスちゃん」

 通信機をしまう動作の終わりをアイリスに見られたようなので、その質問が来る前に先手を打ってサキはアイリスに質問を向けた。

「べつに……何かしに来た訳じゃないもん」

 何か当てがあって来たわけではない。
 それは確かに嘘ではない。
 だが、途方に暮れて当てもなく歩いてきたので、ただどこかに行きたかったということもある。
 サキは、アイリスのその不安な言葉を見逃さなかった。

「アラそう?私には凄く悩んでいるように見えるんだけど」

 アイリスはびくっと震えて、思わず一歩引いていた。
 サキが怖い、というのはこう言うことも理由の一つにあげられる。
 まるで、何もかも見透かしたようなことを言う。

「一人で子供みたいにいじけて考えていても、何にもならないワ。
 相談ごとなら乗るわよ」

 サキは別に最初から理由の全てを予見して話を進めているのではなく、半ばカマをかけてみてアイリスが反応したので畳みかけたのである。
 ここでアイリスを従わせる万能の言葉「子供みたい」を入れるのは、諜報員の面目躍如である。
 これには逆らえずに、アイリスは思わず口を滑らせてしまった。

「レニが、おかしいの……」

 その一言にサキははっとなったが、アイリスに気づかれる前にその表情を隠し、ひとまず尋ね返す。

「レニは今度青い鳥でチルチルをやるのだったわね。
 別にレニなら、主役であっても問題ないでしょう」

 レニならそれが当然。
 任務を第一に考えようとするあの子ならば……。
 それが、おかしい……?

「それがね、ぼーっとお稽古の途中で考え込んじゃって、台詞を言わないことが何度もあったの。
 レニは今までそんなこと一度も無かったのに……」

 確かにそうである。
 夏公演リア王においても、特別公演眠れる森の美女においても、レニは欧州での評判を少しも損ねぬ完璧な演技を見せていた。
 まさしく、完璧に。
 だからこそ、アイリスの不安も当然であると言える。

「アラアラ、確かにそんなのレニらしくないわネ。
 途中って、どのあたりなの?」
「うん、チルチルがね、ミチルを守って森の王に向かって行くところ。
 『僕はミチルを守るために戦う』っていう台詞をいつも忘れちゃってるの」

 上手く話を持っていったので、アイリスもつい口を滑らせてくれた。
 しかし、その内容にはちょっと考え込んでしまった。
 劇場の秘書としてサキも脚本を一部貰っているから、影で愚かと冷笑しつつも話を合わせるために一応目を通している。

「ああ、思い出したワ。マリアさんの『少年よ、お前は一体なんのために戦うのだ』に対する答えネ」

 合点がいったと言うサキの顔が、一瞬すごく嫌な感じに思えてしまってアイリスは身体をすくめた。
 でも、サキがしっかり脚本の中身まで憶えていたので、それは素直に感心してしまう。
 何しろアイリスは、自分の台詞を憶えるだけで精一杯なのだ。
 実際にアイリスが台詞を忘れてしまうこともある。
 だが今の稽古場ではそれ以上にレニのミスが目立つので、アイリスのミスはそれほど問題にされていなかった。
 まだ。
 しかし、サキはそういった細かい事情も由里から聞いている。
 帝劇中の情報を一手に集約する由里が同じ事務室にいて、かつ発信好きであるというのは間諜にとってこれ以上ない好条件なのである。

「でもそのシーンならアイリスちゃんはレニの後ろにいるはずよネ。
 レニがそこで間違えるとわかっているなら、後ろからそれを補助できるようでないと立派な女優とは言えないわね」

 アイリスの心の隙を狙って、サキは柔らかい微笑みを浮かべつつ鋭い一言を放ち込んだ。

「出来るもん!アイリスだって帝劇の女優なんだから……!」
「残念だけど、そうは思えないわネ」

 振り絞るように言い返してきたアイリスの叫びを、サキは冷ややかにかわした。
 少々の背伸びをするアイリスに言いくるめられるような自分ではない。

「あなたは子供。何もわかっていないのよ。
 自分の不安を、レニを案じていると思いこんでいるようではネ」
「え……?」
「悩んでいるだけじゃ、こんなトコには来ないわよネ。
 逃げてきたんじゃないの?自分も主役をするという不安から……」
「ち、違うもん……っ」

 言い返そうとするアイリスだが、先ほどに比べて自分に自信が無くなってきた。
 見透かされた、という思いが否定できない。

「レニが失敗を続けている間は、自分の未熟さにスポットが当たることはない……そんな風に思っていたんじゃないの……?」

 怖かった。
 人の心を読むことが出来るアイリスは、しかし、自分の心を覗かれることをなおのこと恐れていたのかも知れない。
 サキはほぼ正確にアイリスの心境を読み切って言い当てたのだ。

「でも、みんなレニのことを心配している。
 レニが元に戻ったら、自分がどうなるかわからない……。
 誰も信じられなくなって、誰も来そうにないところに逃げてきたんじゃないの?」
「ちがうもん!」

 根拠の無いただの叫び。
 サキはそう見たし、事実そうであった。
 追い打ちというか止め代わりにもう一言放つ。

「どこが違うって言うの?」
「じゃあ……じゃあ、何でサキおねえちゃんはこんなところにいるの!」
「!」

 サキの表情が止まった。
 アイリスにしてみればほとんど反論のための反論だったのだが、その言葉はアイリスにも予期せぬ結果を招いていた。
 あのサキが、いつものらりくらりと大神をかわし続けているサキが、これくらいで動じるとは思わなかったのだ。
 でも、考えてみれば確かにおかしい。
 最初に上手くはぐらかされてしまったけど、こんな所に用なんか無いはずなのだ。
 それこそ、自分のように逃げてきたのでもない限り。

 窮鼠猫を噛む。
 虚をつかれたサキはなんとか我を取り戻したが、アイリスの視線は先ほどよりずっと迫力を増している。
 直視できずにサキは視線を逸らしつつ答えた。

「ここ、好きなのよネ」
「……おねえちゃん、嘘ついてる」

 いくら何でも、それくらいは心を読まなくても嘘だとわかる。

「アラ、本当よ。ここはいいわ……まるで、帝都みたいで」

 まるで、の言葉に、意図せずにそんな言葉が口をついて出たので、サキは顔に出さずに驚いた。
 帝都みたい……?

「帝都、みたい……?」

 アイリスのいぶかしむ声が、サキの混乱する思考に重ねられる。
 サキの返答が自分に向かってはいなかったことにアイリスは気づいた。
 口にした瞬間のサキは、睫毛が微かに降りて何かを思いだしているように見えた。
 嘘ではない。
 アイリスは確信した。

「ええ……広くて……孤独で……乾いていて……」

 我を忘れたかのようにつぶやくサキの姿は、アイリスが悔しさを通り越して憧れるくらい大人の女性だった。
 美しいけれど、影を纏い、あまりにも多くのものを見てきたような目で。

「どうして……?」

 かろうじてアイリスが漏らした言葉に、サキははっと我に返ったらしい。
 アイリスにもはっきりと解る。
 しまった、という顔だった。
 サキが見せた弱さ。
 そのおかげでアイリスは次の言葉を続けることができた。

「どうしてそんな場所が好きなの?
 ちがうもん!
 アイリスは嫌だったもん!
 ひとりぼっちで、ジャンポールたちしかいなくて、
 なんにも……なんにもなくて……
 ぜったい、ちがうもん!!」
「アイリス……」

 驚いた顔でつぶやいたサキの声に、いつものからかうような音色はない。
 遊びの敬称など取り払い、ただ、アイリスの名を呼んだ。

「そう……」

 それまで常に感じていたサキへの警戒心が消えていくのを、アイリスは感じていた。
 いつものサキじゃない。

「いいわね、アイリスは純粋で……」

 アイリスの前にかがみ込んで、二人の視線の高さが等しくなる。

 いい?

 改めてそう言われるとアイリスには自信が無くなる。
 サキを嫌いだと言うことが。

 嫌いだって言うのは間違いない。
 大神を陥落させようとして振る舞われているあの色香など大っ嫌いだけれども、
 だけど同時に大人の女性になることに憧れている自分がいることもまた事実だった。
 サキみたいに背が高くて胸があったら、自分は誰にも負けずにお兄ちゃんの恋人でいられるだろうに。
 嫉妬という感情がああなりたいという感情の裏返しであることを、実感していたわけではない。
 しかし、確かに感じる微かな憧れ。
 自分で自分が解らない。

 自分で自分が解らない。

 自分で自分が解らない。
 何故アイリスに自分の弱みまで見せてしまったのか。

 いい?

 自分は憧れていたというのだろうか。
 あの小娘たちみたいになりたかったというのだろうか。
 最初は見下していたのだ。
 男も知らずに気楽に暮らしているだけの小娘たちなど。

 だが、帝撃に入り込んでから能動的にも受動的にも彼女たちの過去を知る機会を得た。
 自分にもひけを取らぬほどの……こんなことで勝ってもうれしくもなんともない……壮絶な過去を秘めていることが、今を見ると信じられなかった。
 今、目の前にいるアイリスも、今しがた彼女自身が叫んだように、あまりにも深い孤独の中にいたのだ。
 その深さは、私と、どれほど違っていたものか。

 それなのに、今のアイリスはバカにしたくなるくらい、自分が莫迦に思えるくらいに、真っ直ぐだ。

「ごめんなさいネ、アイリス。
 私、嘘ついたわ」
「え?」

 嘘だと、アイリス自身がそう決めつけた。
 でも、今のサキは、何を嘘だと言ったのか、アイリスにはわからなかった。
 ただ、今の言葉は嘘ではなかったと、それだけがわかった。
 それ以上は、知ってはならないと、探ってはならないと、あやめや大神に諭されていたから、踏み込めなかった。

「だからネ、アイリス。
 私のような嘘つきに、ならないでネ」


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