聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第二十八話、天馬ふたたび」




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 現在の城戸邸は午後八時も過ぎるとほとんどの区画が消灯する。
 終夜活動する部門のほとんどは既に都内の財閥ビルに移転済みで、この時間帯でもまともに稼働しているのは鋼鉄聖闘士スチールセイントたちが管轄する地下基地部門くらいだ。
 未だに人事不省に陥っている総帥城戸沙織の心労を少しでも和らげようとする辰巳と邪武の配慮である。

 そんな城戸邸を囲む広大な森の外、25階建てのビルの屋上から、暗視スコープも無しに暗闇を見通しているのは、カイとリザリオンの二名。
 青輝星闘士シアンスタインのナンバー1であるアルゴ座のイルピトアが、聖域サンクチュアリ戦とは別に送り込んだ切り札である。

「……シェインの情報以上だな」

 カイは、状況を確認して呆れかえった苦笑を浮かべた。
 記憶にあるよりもずいぶん拡張されている赤外線センサだの重量センサだの超音波測定器だのが、目立たないように、しかし膨大な数が仕込まれていた。
 当然それに連動する迎撃システムはスチールクロスの技術を応用したもので、雑魚の海闘士や冥闘士くらいなら軽々と迎撃できそうだ、と、これもシェインから聞いた話だ。

 もっとも、そんなものは実のところ障害のうちには入らない。
 真の障害は、ここからでも生命力を感じ取ることができる鋼鉄聖闘士二人、そして隠しようのない強大な小宇宙を持った神聖闘士が一人……瞬だ。
 聖域での決戦の最中でも、アテナの周辺に割く警護をここまで残したのは大したものだ。
 決戦の隙にアテナを暗殺することはない、というイルピトアの伝言を信用しきらなかったのだろう。
 それは正しい。
 何しろ現に自分たちがこうしてここにいるのだから。

 イルピトアからの厳命は二つだ。
 こちらからアテナに手を出すな。
 そして、ペガサス星矢の遺体を奪取せよ。
 いずれも、言われるまでもない。
 そのためにカイは今ここにいるのだ。

「それで、どうするつもりだ。
 事情が事情だけに今回はお前に従ってやる」

 リザリオンは纏っている聖衣の右腕のパーツを感慨とともに装着し直し、城戸邸に向き直った。
 その態度は、カイに対してある意味では脅迫に近い。
 お互いにわかった上でやっているので、カイは苦笑しながらポケットから手書きの地図を取り出した。

「ああ、そうしてくれると有り難い。
 まずは俺が邸内に入り込み、派手に暴れて護衛を引き付ける。
 お前は手薄になったところを見計らって、地下の霊安室に突入してくれ。
 遺体保存装置から引き剥がす前に、必ず星矢を凍気で冷凍してな」
「……イルピトアがわざわざ俺をこちらに向けた理由がそれか。
 お前ら、俺の凍気を何だと思っているんだ」

 心外という顔をしながらも、リザリオンはカイから素直に地図を受け取った。
 大型の冷凍宅配車を確保するよりは確かに手っ取り早いし、それ以上に確実だというイルピトアの考えは理解したのだろう。

「心強い味方だと思っているさ。今のところはな」
「フッ……、馬鹿馬鹿しいにもほどがある運命の皮肉だな」
「じゃあ、行ってくる」
「せいぜい楽しんでくるがいいさ」

 振り返らずに右手を挙げるだけで返礼してから、カイは屋上の縁をふわりと蹴って空中に飛び出した。
 同時に星衣の翼が大きく展開し、ビル風を制覇するようにその身に受けて滑空する。
 落下する速度が横方向への速度へと転換されるだけでなく、星衣の尾羽が後方の大気を烈震させて加速し、瞬時にして音速を通り越して敷地内に突入。
 赤外線センサの反応など遙か後ろに引き離して、まったくの無傷で城戸邸前の芝生に舞い降りた。
 城戸邸のシンボルともいえる全面を覆うガラス窓は、アクシアスによって先日一度破壊されたはずだったが、辰巳と邪武の配慮によるものだろう、速やかに設計時の姿を取り戻している。

 こうして見上げる日が来ることを、かつては想像だにしなかった。
 ようやくここまでたどり着いた。
 あと少しだ。
 だが、その前にしなければならないことがある。

「そうそう……、一度でいいからこれをやってみたかったんだった」

 苦笑とも嘲笑ともつかぬ、子供に戻ったような顔で唇を歪めてから、カイは右拳を握りしめ、思い切り振りかぶった。





 空調の音すら耳を澄まさなければわからないほどに静まりかえった邸内を、剣道四段辰巳徳丸は文字通り足音一つ立てずに歩いていた。
 今まさに聖域では聖闘士と星闘士の雌雄を決する決戦が繰り広げられていることは、アステリオンと彼を引き継いだギガースからの報告を潮が受けて確認している。
 ゆえに、辰巳は完全装備にて警戒の念を怠らなかった。
 最初から星闘士の親玉の口約束など信用してはいない。
 決戦の隙にお嬢様を狙う輩が来ることを、辰巳はほとんど確信に近い想いで待ち受けていた。
 邸内のことはそれこそ金具の一つに至るまで熟知しているつもりである。
 鋼鉄聖闘士たちの手による警備装置はもちろん信頼しているが、辰巳にとってはこここそが自らの宇宙、小宇宙とすらいえる世界である。
 かつての歴史的な剣豪たちが気配を遠くから察知できたのと同じように、辰巳が全力で気を張り詰めれば、城戸邸内の異常を電磁気センサよりも早く察することができた。
 それはもはや、予感といっても過言ではない領域まで研ぎ澄まされていた。
 ゆえに、辰巳はその異常が起こる数秒前に、襲来が来ることを予知し、身構えることができた。

 直後、辰巳の目の限界を超える……正真正銘の光速拳が邸外から幾千発と炸裂し、城戸邸正面を覆う全てのガラスを叩き割り、窓側の部屋を貫き、廊下までぶち抜いた。
 一斉に明かりの大半が消え、0.0数秒遅れて凄まじい大音響が響き渡る。
 辰巳は状況を確認しながら、光速拳の余波と瓦礫とが飛び交い激震する廊下を疾駆する。
 お嬢様の部屋は、先の騒動以来邸内の奥へと変更になっているため、今の攻撃は到達していないと推察される。
 しかし、これがお嬢様に対して危害を加えようとする者の襲撃でなければ何だというのだ。
 辰巳徳丸が今向かわなければならないのは、お嬢様の部屋に他ならない。
 その辰巳の予期した動きを後追いするかのように、何者かが高速で邸内を飛翔して来る……!
 非常灯の明かりだけが残った薄闇の中で、辰巳は踏み込んだ左足を反動に変えながら全身を捻り、その気配へ向けて全身全霊を込めた横薙ぎの抜剣を叩きつけた。

「おおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
「何ぃっっ!!?」

 瓦礫の降りしきる中を全身これ矢のように突っ込み、周囲全てを吹っ飛ばして来たカイだったが、それが故に、瓦礫に紛れて一切の気配無く繰り出されたこの一撃への反応が遅れた。
 眼前わずか1メートルにも満たないところで辛うじて目前に迫る切っ先に気づき、光速の動きで辛うじて左腕でのガードが間に合った。
 人類科学の最先端で鍛え上げた鋼と神話の遺産たる星衣とが激突する音が両者の耳を打つ。
 衝撃が反動となり両者を激突の中心から一旦遠ざけ、お互いに停止させる。

「この声っっ!?」

 だがそれ以上に、激突音の一瞬前に耳に入った声が、カイの足をその場に留めた。

「よもや……、瞬じゃなくアンタに止められようとはな……」

 薄闇に加えて瓦礫と埃が飛び交う中で姿を確認することができなくても、その声を忘れたことはなかった。
 笑いたくなるほどの感慨とともに、カイはその剣を手にした人影を見据える。
 彼我の距離はおよそ7メートルといったところ。
 挨拶代わりだとばかり、カイは自らの星衣の背に連なる羽を一枚引き抜き、吐息を吹きかけてその場に舞わせた。
 カイの手から離れた羽は七色の光を放ち、お互いの姿を照らし出す。

「は……?」

 カイの表情が止まった。
 光ゆえに光速で網膜に飛び込んだ人影の実像は、あまりにも想像とかけ離れていて、光速拳以上の衝撃でカイを打ちのめした。
 それはもう、感慨や恩讐や怨恨といった、抱えていた諸々の思いを全て吹き飛ばすほどに強烈で。

「ぶわはははははははははははははははは!!!」

 その場に立っていられなくなり、思わずカイは文字通りその場に笑い転げた。
 腹を抱えて仰向けになって瓦礫の上をごろごろ転がる自分は心底何をやってるんだろうと思うが、面白いのだから仕方がない。

「いやははははは!!もう……あー苦しい、最高!
 歳考えろって言いたいとこなのに、アンタ似合いすぎだろ!」

 執事姿か、ひょっとしたら剣道の防具姿だとばかり思っていたのに、よもや剣道の防具に戦国武者を思わされる装飾がされたデザインのスチールクロスを全身に纏っていようとは考えもしなかった。
 そういえばマリクが、城戸邸で鎧武者を見たと報告していたが、その理由をようやく理解した。

 一方、辰巳にしてみればわけがわからない。
 明らかに星衣とわかる防具を纏ったこの男は、頭を覆うマスクパーツを深く被っていて顔の上半分がよく見えない。
 わからないがしかし、とりあえずこいつがこの城戸邸に侵入してきた賊であり、自分の姿を見て笑っていることは間違いないのだ。

「何がおかしい貴様あ!」

 瓦礫の散乱する床をものともせず一気に踏み込んだ辰巳は、転がっている賊の首を一太刀で撥ねんとばかりに姿勢を思い切り下げつつ踏み込み、刀を叩きつけるように斜めに振り降ろした。
 剣道の試合ではまず有り得ないこの動きこそ、辰巳が沙織の護衛として実戦向けに修練を積んでいることの成果であり、実力の割になお四段に留まっている理由でもあった。
 その太刀筋は狙い違わず、笑い転げているカイの首筋を捉えようとする。

「うお危ねえっっっ!」

 今度も寸前で気づいたカイは、危ういところで首をわずかに動かして、太刀筋をマスクに当てて辛うじて窮地を凌いだ。
 それでも、しかと被っていたはずのマスクを弾き飛ばされて肝が冷えたところで、さすがに気を取り直して立ち上がる。

「あー、死ぬかと思った。
 殺す気かよ辰巳さん。ひっでえな」
「当たり前だ!何者かわからんが所詮星闘士だろう!
 お嬢様の身辺を騒がす賊など、この剣のサビと変えてくれるわ!」

 賊に酷いと言われるなど心外極まる辰巳は、次こそは殺るとばかりに刀を握り直した。
 そこで辰巳は、目の前にいる男の顔とようやく相対した。
 マスクを飛ばされて露わになったその顔は、思っていたよりも若い。
 何か、引っかかった。

「おいおい。何者かわからんが、はないだろう」

 カイはざんばらにした前髪を軽く掻き上げながら苦笑する。

「盟と違って嫡子じゃあないが、アンタの大事な大事な、旦那さまの息子だぜ」
「!!」

 辰巳は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
 そんなはずはない。
 生きているはずがない。
 思考に蓋をしていたところを無理やりこじ開けるのに時間が掛かった。
 言われてみれば、その顔には七年前の面影がはっきりと残る。
 忘れるはずがない。

「おまえは………………、魁!!!!!!」

 カイは……、いや、百人の孤児の最年長たる魁は、七年ぶりの挨拶とばかりに凄絶な笑みを浮かべて肯定の返事とした。

「憶えていてくれて嬉しいぜ、辰巳さん」
「何故……、何故お前が生きている……!」
「何を言ってやがる。アンタらきっちり調べたわけじゃないだろう」

 驚愕の事態に頭が追いつかず、わめき散らした辰巳だったが、そう言われてはっとさせられた。
 生きているはずがない、わけではないのだ。
 聖衣を持ち帰る様にとの厳命の下、世界各地に送られた城戸光政の百人の息子のうち、聖衣を持って帰ってきたのは星矢を始めとする十人のみ。
 あとの九十名は生死不明であるとの連絡を受けていた。
 ただし、これには公表されていないどころか沙織にさえ報告されていない例外がある。
 辰巳はある一人についてだけは、何が何でも生死を確認せねばならないと考え、その生存を掴んでいた。
 残る八十九名についても出来うる限りの捜索はしたものの、生死不明……いや、死亡したものと扱われていた。
 だが、その全てが確かに死亡したと確認されていたわけではなかった。

 特にこの男は、生死不明との報告を受けたときに意外ですらあった。
 紫龍や氷河と並んで、辰巳が生還候補の最有力と考えていた面子の一人だったのだ。
 生死不明との報告が入ったのは三年ほど前。
 聖衣獲得の一番乗りになるのではないかとの情報が入った直後のことだった。

「ずいぶんな扱いじゃないか。
 アンタらの命令で死地に赴いて、死んだかどうかもわからず放置とはな」

 魁の顔が笑ったままなのが、辰巳にはそら恐ろしかった。
 無論、辰巳にも言い分はある。
 聖闘士の修行地の大半は、現代科学の情報から隔絶された場所であることが多い。
 一応の連絡経路を確保するだけでもやっとで、修行地の中に常人が入れるはずがないのだ。
 エージェントを送り込んだら連絡途絶という事態を何十件か積み重ねたところで、辰巳は完全な追跡を断念せざるを得なかったのだ。

「お前が生きていたということは、他にも……」
「盟だけは生存を確認した。
 あとの八十八名は、全て死んでいたよ」

 断言した。
 辰巳の情報網でも確認できなかったことを。
 そこで辰巳は、魁の空白の三年間がそれを知るために充てられていたのだと思い至った。

「間違い、ないか」
「ああ。俺はそのために、星闘士になった」

 魁の纏う星衣は、背中に一対の翼と五筋の長い尾羽を持つ優美なもので、辰巳が知るどの聖衣の形状とも一致しなかった。
 あえていえば、鳳凰星座の聖衣にどこか似た印象を受ける。

「今の俺は……青輝星闘士、風鳥座エレシオナスの魁だ」

 風鳥とは、極楽鳥ともいう。
 エリシオンに住まうという伝説の鳥を、地獄から生還した男が纏っているのは必然か皮肉か。

「青輝星闘士……!
 いや、そんなことよりもだ……。
 そのために、星闘士になったとはどういう事だ!」

 星闘士の最高位にまで上り詰めたというその実力も、七年前の下馬評を思えば何ら不思議はなかった。
 しかしそれ以上に辰巳は魁の言動に引っかかった。
 なぜ、兄弟の生死を確認するためにわざわざ星闘士になどなる必要があるのか。

「……まともに遺体が残っている奴が何人いたと思う?」

 魁の返答は、それだけでは理解しがたいものだった。
 だがその問いかける事実は理解できる。
 聖闘士の修行地で生死不明になって、まともに遺体が残って墓がある方が珍しいのだと。

「一応の墓みたいなものがある奴は十人もいなかった。
 溺死したあげく遺体の破片が海溝で見つかったなんてのはまだいい方で、野生動物に喰われて骨すら残っていない奴も多かったよ」

 淡々と語る魁の口調の底に、彼が見て来たものが伺えて、辰巳は絶句させられた。

「どうにも行方がわからなくて、地獄まで聞きに行かないと死んだ場所が突き止められないのもいた。
 ああ、ハーデスが死ぬ前だぜ、もちろん」

 さらりと、魁はとんでもないことを言った。

「そうか……。生きたまま地獄へ行くために星闘士になったということか」
「違う違う。星闘士になっても地獄へは行けない。
 そこは星闘士の領分じゃないんだ。
 単純にエイトセンシズに目覚めて潜入してきただけだよ」
「は……?」
「何を驚く?
 星矢たちに出来たことだろ。俺にだってできる。
 まして、アテナなんかのためでなく、血を分けた兄弟たちのためならばな」

 グラード財団を纏める執事の長として、辰巳はこれでも嘘を見抜く目には自信があった。
 その自身の経験と目が告げていた。
 魁は何一つ偽りを言っていないと。
 この男は、死に別れた兄弟たちのために、その一念だけで、小宇宙の究極をも超えたエイトセンシズにまで至ったのだ。
 そしてまた、小宇宙を感じ取ることはできなくとも、剣士として気を感じることはできる。
 魁の纏っている死気は尋常なものではない。
 地獄から生還してきた、とは、文字通りの意味であってもおかしくないほどに。
 だが、同じく地獄、そしてエリシオンから生還してきた瞬や氷河たちとは、その気配が決定的に違っている。

 ここに那智がいれば気づいたであろう。
 その気配が、デスマスクのそれに酷似していることを。

「では……、何のために星闘士などになった……」
「弔いのためだ」

 魁の回答は簡潔でありながら、意味が分からなかった。
 何故弔いのために星闘士になど……とまで考えたところで辰巳は一つの可能性に突き当たった。
 地獄へ行くのに星闘士になる必要はないということは、地獄に行くことは本来の魁の目的とは直接関係がない。

「星闘士は……」

 自分の推測がそら恐ろしくて、辰巳はその想像を口に出すことが躊躇われた。
 いかに星矢たちと行動を共にしていたからといって、辰巳自身は一般人としての教育と修練を積んだ人間なのだ。
 竹刀で叩き伏せられないものは恐ろしいし、まして、それが現実にありうる証拠をいくつも見て来たのならばなおさらだ。
 それでも、その想像を確かめなければいけなかった。

「星闘士は、死者の声を聞くことができるのだな……」
「ご名答。さすが辰巳さん」

 そうでなければ、中には死後数年も経っていたであろう兄弟たちの消息を突き止めるなど不可能だ。
 そしてそれならば、魁が今身に纏っている死気にも納得が行く。
 非業の死を遂げた兄弟たちの消息を尋ね、その全てを弔ってきた。
 さらにその過程で地獄を垣間見ては、冥福など祈れるはずもない。
 魁が見て来たもの、魁が胸の内にため込んできたもの、魁が背負ってきたもの、それらが、辰巳の目にさえ朧に見えるほどの死気となってその場にあった。

「そして、今度は星矢を弔うためにここに来たのか」

 そこまで聞けば、この男が数年の空白を経て今この時ここに来た理由は容易に想像がついた。
 この城戸邸に併設された棟の一つには、ハーデスの一撃にて死んだ星矢の遺体が冷凍安置されている。
 八十九人目の弔いのために、今こうして……

「悪くない想像だが、違う」
「何?」
「星矢だけは例外だ。死後、遺体を冷凍保存してくれていたことが幸いだった」
「何を……?何を言っている……!?」

 叫びながらも辰巳は既に魁が何を言っているのかを否応なく思い知らされていた。
 そこまで聞けば答えは一つだ。
 あってはならないことだが、既につい先日、他ならぬハーデスの手によりその事態は起きている。

「おまえは……星矢を……」
「そう、蘇らせる」

 魁は躊躇いなく言い切った。

「方法は、ある」
「ハーデスにでも頼むつもりか……!
 冥王はもう消えたんだぞ!他ならぬ星矢たちとお嬢様の手によって!」
「安心しな。冥王など復活させないでうまくやるさ。
 そんなわけだからそこをどけ辰巳さん。
 悪い話じゃないだろ」

 魁の言うことが本当ならば、確かにここで魁の邪魔をすることは得策ではない。
 お嬢様も星矢が蘇ればお喜びになり、立ち直って下さるだろう。
 だがここで辰巳は魁の態度の変化を感じ取った。
 魁は、何かを伏せた。
 そんな友好的な用事ならば、何故ここまで城戸邸をぶち壊す必要があった。
 それに、そもそもだ。
 魁が、この辰巳徳丸にここまで友好的であるはずがないのだ。
 これでも辰巳は、和解したとはいえ星矢や邪武たちとの微妙な関係は自覚している。
 旦那様の命令だったとはいえ、幼少期の彼らを虐待した事実は消えるものではないからだ。
 その悔恨を今は飲み込み、魁に向かって刀を構え直す。

「……魁、本当はお前は、ここに……何をしに来た。
 俺への恨みなどどうでもよいとでもいうのか……」
「つくづく察しがいいな、辰巳さん。
 もちろん、アンタへの恨みを忘れた訳じゃないぜ」

 そこで一瞬、魁の瞳を剣呑な光がよぎった。

「だけど、これ以上犠牲者を増やすのは本意じゃない。
 仕方がないから、アンタも半殺しで勘弁してやるよ」

 魁はそう気軽な口調で右拳を握り直す。
 だがその拳は、かつての幼かった少年のものではなく、現青輝星闘士のものだ。

「噂に名高いスチールクロス、少しは信頼するぜ」

 その言葉を聞き終わる前に、辰巳は全力で踏み込んでいた。
 小宇宙も無しに青輝星闘士の速度に対抗できるはずがない。
 対抗できるとしたら、それは辰巳が魁に対して上回っている戦闘経験を十全に発揮し、魁が動こうとする気配を察して、光速の動きが始まる前に討つしかない。
 己の最速を駆り立てるように、全身を伸ばし、最も早く魁に到達するように剣を全力で突き込んだ。
 真剣であれば一撃で首をも飛ばすと言われ、昇段試験でも禁じ手とされた辰巳の渾身の一撃は、魁の星衣の胸元に到達し、

「うおおおおおおおおおおおっっ!!」

 それが星衣を裂く寸前に、辰巳の全身を無数の光速拳が捉えた。
 常人の領域を超えて鍛え上げたとはいえ、さすがに辰巳の眼には到底観測できる速度ではなく、気がついたときには痛みを感じるより先に全身が宙を舞い、廊下を軽く数十メートルは吹っ飛ばされていた。
 辰巳の後を追った威力が波及して、廊下の崩壊がそれに続いていく。
 そのまま廊下端の壁まで叩きつけられ、辰巳は頭から瓦礫の中に落下した。
 それでも落下のダメージであればスチールクロスは十分に耐久性を発揮する。
 おそらくは魁が手加減して頭部を意識的に外したのだろう、破壊を免れたスチールクロスのマスク部に、計測速度として光速の表示が点滅する。

「……青輝星闘士というのは……はったりでは、ないようだな……」
「確かに手加減はしたが、立ち上がってくるとはやるねえ辰巳さん。
 半殺しにするにしても、やり甲斐があるよ」

 こともなげに言い放つと、魁はさらにもう一連射の光速拳を叩きつけた。
 廊下の端の壁が砂糖菓子か何かのようにあっけなく崩壊し、再び吹っ飛ばされた辰巳の身体は庭の地面を二三度跳ねて転がった。
 魁はそれを追って、一跳びで辰巳の傍にまで到達する。
 風鳥座の名の通り、空でも飛んでいるかのような軽やかな身のこなしだった。

「まさかこれほどの防御力とは思わなかった。
 赤輝星闘士の星衣より上なんじゃないのか」

 うつ伏せに倒れていた辰巳の顔を蹴飛ばして、身体ごとひっくり返す。

「ぐほ……っ!」
「ふむ。思った以上にアンタ自身も壮健そうで何よりだ」

 魁の宣言とは裏腹に、さすがの辰巳も仰向けの体勢から容易に起き上がることはできなかった。
 だが魁はそれ以上の攻撃はせず、訝しげに邸内を振り返る。
 辰巳はその行動に激しい危機感を覚えた。
 魁は、何を待っている?

「瞬の奴、薄情だな。
 あの優しい男なら、一も二もなくアンタであっても助けに出てくると思ったんだが」

 その一言で辰巳は確信した。
 膨大な恨みを背に城戸邸に帰還したというのに、魁がわざわざ一旦邸内から出るような真似をするのは、彼自身が本命ではないからだ。
 やはり本命は、別にいる。




 鋼鉄聖闘士旗魚座マリンクロスの潮は、その魁の発言を監視カメラで把握するより早く動いていた。
 突入の時点でおかしいと思っていたのだ。
 やることがあまりにも派手すぎる。
 魁が自分の名を名乗った時点で、裏でイルピトアが糸を引いていることは即座に理解できた。
 潮はまだ相対したことのないイルピトアに対して、最大限の評価をもって当たると決めていた。
 イルピトアが失策を犯したとすれば、それは、ここに至るまでに自分の性癖を潮に見せすぎたということだろう。
 マリクへ連絡するために敵陣に国際電話を掛けてくるような男が、素直に魁一人で里帰りさせて正面突破、などとするはずがなかった。
 魁と組ませて本命に当たる者がもう一手か二手、必ず来る。
 問題はその手が何かだ。
 わざわざグラード財団を潰すなどという些末な理由ではあるまい。
 星矢たちの兄が聖域決戦に乗じて7年ぶりに姿を現したという事実から、その目的は二つにまで絞られる。
 星矢の遺体の奪取、もしくは、沙織の暗殺。

 どちらが本命か。
 現在切れるカードは、瞬、大地、潮自身の三枚。
 ただし、潮自身が制御室から動くとこの状況下で指揮系統が破綻する。
 辰巳の救援に向かいたいのはやまやまだが、それでは魁かイルピトアがしかけた陽動にまんまと乗ってしまうことになる。
 必然的に、瞬と大地の二人を星矢と沙織のどちらかに割り振ることになる。
 いかにイルピトアが策士でも、自らの星闘士カードをアクシアスに託して誓約させた以上、この機に乗じてアテナ暗殺を行わせる可能性は低い。
 おそらく本命が来るのは、星矢の遺体安置室。
 そして、冷徹に判断する。
 自分たち鋼鉄聖闘士は、現状どうあっても瞬には及ばない。
 悔しいが、それは違えてはならない現状認識だった。

 そうと察した潮は、無線で二人に指示を飛ばす。
 瞬は遺体安置室へ。大地はお嬢様の間へ。




「さっさと助けを呼んだらどうなんだ。
 スチールクロスには相互通信能力があると聞いているぞ。
 ヘルメットは壊れていないはずだ」
「こと……わる……!
 この剣道四段辰巳徳丸が、貴様一人を相手に助けを呼ぶなぞ、そんな格好悪いことができるものか……」

 潮からの指示は、ヘルメットの額前に取り付けられ装着者にしか見えないモニタにテキスト表示されていた。
 本命への対策は瞬と大地が当たる。
 せめて辰巳には、魁が本命の誰かと合流することを少しでも遅らせて欲しい。
 一対一なら瞬がそう簡単に敗れるはずがない。
 いや、勝てない相手など地上に幾人もいないだろう。
 ただし、その誰かと魁とを各個撃破するためには、辰巳が魁を少しでも長く食い止めておくことが必要だった。
 辰巳は痙攣して言うことを聞かない全身を叱咤して、刀の鞘を杖代わりに膝立ちになり、正面から魁を見据える。

「ったく……、この俺様が……、ガキども相手に、いい様だぜ……」
「ふらついてるじゃないか。無理すんなよ辰巳さん」
「ずいぶんと……、親切だな。魁よ……」
「言ったろう。アンタまで犠牲者にするつもりはない。
 あの災厄に振り回される人間はもうたくさんだ」
「何ぃ……?災厄だと」

 これは演技でも何でもなく、思わず辰巳は聞き返していた。

「違うのか、辰巳さん。
 星の子学園に居た幼少期に城戸光政に見い出され、城戸光政に永遠の忠誠を誓ったと聞くアンタにとって、あれが災厄以外のなんだというんだ。
 忠義を果たすべき後継者の盟すらそれに巻き込まれて連絡は途絶。
 その代わりに後継者となった、あの、お嬢さんという存在に、アンタが自分の中でどう折り合いを付けているのか聞きたいもんだ」
「魁……!貴様は……」

 見下ろす魁の表情は薄闇の中でさらに影になって辰巳には見えなかったが、「あの」と魁が言い放った瞬間の殺気はあまりに雄弁で、辰巳の全身を寒気で縛り付けるほどだった。
 小宇宙を感じ取ることができなくても、その背後に確かに見えた。
 莫大な怒り、悲しみ、憎しみを滾らせて青く青く輝く絶大なる風鳥のオーラが。
 魁の真の目的、真の目標が何であるか、辰巳ははっきりと悟っていた。

「お嬢様に手は出させんぞ!この辰巳徳丸の命に替えても!」
「相変わらずの分からず屋だな。
 あんたの命を奪ったら、俺はあのお嬢さんと同じになっちまうだろうが」

 殺意の欠片も無い、それなのに膨大な敵意が込められた声だった。

「同じなどと……、なり得んから安心しろ、魁……。
 お前はお嬢様のようにはなりえんし、なれるはずもない。
 お嬢様の孤独も、お嬢様の悲しみも、お前にはわからんだろう……!」
「わかりたくもない……!」

 光速拳の衝撃波ではなく、叫びを伴った生身の拳が辰巳の眉間に叩き込まれた。
 さしものスチールクロスのヘルメットも、この直撃には耐えきれずに粉々になるが、辰巳自身は倒れる寸前で踏みとどまり、叩きつけられた拳越しに魁を睨み付けた。

「聞きたいと言ったな、魁よ。
 旦那様に永遠の忠誠を誓ったこの俺が、何故お嬢様に忠誠を誓うのか」
「ああ……」
「旦那様が殉じられたからだ。己の生まれた星の運命の下に。
 あのお方が悩まれた姿も、嘆かれた姿も見てきた。
 百の恨み、百の憎しみ、百のそしりを受けようとも、己の運命に従うと旦那様は決められた。
 女神であられるお嬢様を守り、正義のために生きることが、旦那様が師父から授かった運命に他ならぬと信じたのだ。
 そしてお嬢様は旦那様の道に従って、正義のために生きると決められた。
 ならばそれに従うのがこの辰巳徳丸の生きる道よ。
 守護星座など無くとも、これが俺の星の運命だ!」
「……そうか。アンタの覚悟はよくわかった」

 拳を引いて、だが魁は敵意を収めることはなかった。

「かのアイオロスに続く今代に冠たる聖闘士として、それがアンタの道というのならばもはや翻意など勧めん。
 運命などという言葉で全てを斬り捨てることを決心したアンタとはわかり合えない。
 事実を知ることもなく、覚悟することもできず、自分が死ぬことの意味すらわからずに死んでいった、俺の兄弟達とは、けっして相容れない」

 辰巳はそこで、魁が本心から自分を助ける気でいたことを悟った。
 犠牲者というのは、そういうことなのだろう。
 魁にとっては、グラード財団の全てが犠牲者だったのだ。
 その心意気は有り難いと思うが、魁の言う通り、翻意などするつもりはなかった。

「問答はここまでだ。
 これだけ待っても瞬が来ない以上、どうやらこちらの狙いを読み切ったな。
 早々にリザリオンに追いつかねば瞬が殺されかねん」
「バカを言え、今のあいつは昔のような弱虫瞬ちゃんじゃないぞ。
 今の瞬を倒せる奴は、地上に幾人もおらん」
「知っている。海界でのあいつの戦績もな。
 わかった上で言っているんだ。瞬はリザリオンには勝てんと」






 手渡されたインカムを通じて潮からの指示を受け取った瞬は、そのとき既に星矢が眠る地下霊安室へ向かって疾走していた。
 これまで聖域、アスガルド、海界、冥界と数々の戦いをくぐり抜けてきた、歴戦の戦士としての瞬の経験と感覚が、潮の選択が正しいと告げていた。
 小宇宙を感じ取れたわけではなく、何かが迫ってきていると感じ取れたわけでもなかったが、何者かが狙って来ているという予見にも似た確信を抱いていた。
 霊安室の扉の前まで来たところで、中に二人の女性の気配があることを確認する。
 まだ侵入者は来ていない。
 ほっとしたところで、振り返る。
 今度ははっきりと感じられる。
 急速に迫ってくるこの気配は、一人のようにも複数のようにも思え……どこかで、感じたことがあるような気がした。

 危機感を覚え、即座に鎖を展開する。
 今回は聖域決戦に並行して星闘士が攻めてくることは予想していたので、予め神聖衣ゴッドクロスを纏っていた。
 もっとも、聖衣本体はハーデスの攻撃で死んでおり、貴鬼が各パーツを銀星砂スターダストサンドで補修して形を保っているいる状態だった。
 それでもさすがに青銅聖衣とは比較にならない防御面積、耐久力は残しているので、並の相手なら十分過ぎるほどだ。
 その中で、元々若干の自己修復能力を有する鎖だけは辛うじて生きていた。
 スチールクロスの技術を使って補強している状態とはいえ、瞬が意図的に操って配置する分にはそれほどの支障はない。
 扉を外から文字通り封鎖するとともに、地上階へ通じる階段へ向けて攻撃的な配置をとる。
 守って何とかなる相手ではないことは、うすうす予見できていた。
 既に、外の少し離れたところで開戦している小宇宙は感じられる。
 そちらもどこかで感じたことがあるような小宇宙である気がしたが、恐ろしく強大な小宇宙だった。
 潮の見立て通りその小宇宙が陽動を勤めるのだとしたら、本命の攻撃手の小宇宙も推して知るところだ。

 その推測を肯定するかのように、何者かがこの霊安室がある棟の扉を叩き壊して入って来る音がした。

「!!」

 瞬の背筋に寒気が走った。
 うっすらとした凍気を感じたのだが、それだけではない。
 侵入者が瞬の気配を察したのか、歩きながら小宇宙を燃え上がらせ始めたことで、その絶大な強さがはっきりとわかったのだ。
 単独でありながら、複数の小宇宙が合わさっているように思えるほど、強大であり、雄大であった。
 これまでに神々とすら戦った瞬にさえ、ここまでの小宇宙はそうそう記憶にない。
 厳密に比較すればタナトスなどに比べて劣るかも知れないが、それ以上にこの小宇宙が纏っている膨大な敵意が、瞬をして心胆を寒からしめた。
 金属のブーツが絨毯越しに石質の床を蹴る、聖闘士や星闘士に特有の足音が近づいてくるにつれて、侵入者が滾らせている小宇宙のオーラの色がはっきりとわかるようになってきた。

 青輝星闘士では、なかった。

 以前に射手座の星闘士マリクと共闘した際、青輝星闘士の小宇宙がどういうものかは見た。
 その青く輝く記憶よりもさらに強大なその小宇宙は、途方もなく黒かった。
 星闘士達が赤から青までの星の光を小宇宙の輝きに載せているというのに、その侵入者の小宇宙はまったくそこから外れた星の成れの果てともいうべき、ブラックホールの如き深淵の暗黒の色をしていた。

 侵入者が漂わせている小宇宙だけで、周囲の照明さえ拒絶するかのように薄闇に覆われつつあった。
 その薄闇の中に、ゆらりと侵入者の姿が垣間見える。
 真っ先に、侵入者が被っているヘッドパーツの特徴的な形状が目に留まった。
 よく見知ったその白鳥の姿を、ここでは黒鳥と言うべきか。

「キグナスの……暗黒ブラック、星闘士」
「二つ、違うな」

 侵入者の声は理知的ではあったが、聞き覚えの無いものだった。
 改めて侵入者の姿を見据えると、その姿はどこから見ても異様だった。
 纏っているのはおそらくは星衣だと思われる漆黒の夜空を思わせる輝きを持つ鎧ではあるのだが、一部のパーツはそれとは異なる黒さで輝きすら拒絶する色をしていた。
 全体的な形状は鋭角的で、両肩当ての上側がほぼ真横へ延び、先端で返って鋭角的な三角形を描き、胸当てまでを形成している。
 その胸当ては左右非対称で、心臓部を守るように輝きの無い黒のパーツが組み込まれていた。
 その形状にはどこか既視感があった。
 だがそれとは別に既視感を覚えさせる要素が他にもありすぎた。
 まず特徴的なのは、左腕のパーツに装着された丸盾で、あれはどう見ても紫龍のドラゴンの盾を暗黒に塗りつぶしたようにしか見えない。
 また両腕のパーツを丸ごと……つまりは左腕は丸盾ごと……鎖が取り巻いているが、それは瞬が今手にしているアンドロメダ鎖のように、左右の鎖は円形と角形とで異なる特徴的な形状をしており、そして盾と同様の暗黒色をしていた。
 そして、被っているマスクは、先ほど真っ先に目に入った白鳥……いや黒鳥の首と翼が意匠化された、氷河のそれに酷似した姿をしていた。
 近づいてきたことでようやくマスクに囲われた顔が見えて、その双眸はどこか懐かしげに瞬を睨み据えていた。

 浅黒い肌の男だった。

 その素顔にも見覚えは無い。
 だが、その素顔を見た瞬間、半ば無意識のうちに瞬は動いていた。
 鎖が全快であったなら、おそらく鎖の方が我慢できずに攻撃に転じようとしていただろう。
 そうでなくても、その男が放っている敵意は明確に瞬を目標として捉えていた。
 元より心優しいこの男が、他人から恨みや憎しみを買うことはほとんど無い。
 この男の顔は知らなくても、複合したようなこの小宇宙にはどこか微かに憶えがある。
 しかしその圧倒的なまでの敵意は、瞬には経験のないものであり、それがなおさらに危機感を駆り立てた。

「飛べよ!サンダー・ウェーブ!」

 瞬が角鎖を放つのと同時に、侵入者の左腕が翻り、盾を取り巻いていた円鎖が瞬時に展開する。
 渦巻き状に広がった鎖は、盾の中央を頂点とする円錐を形成した。
 サンダー・ウェーブの鎖は、その円錐の中から逃れられず、さながらブラックホールに飲み込まれるように、目標からずれて侵入者の左腕の盾の中央を直撃した。
 曲がりなりにも神聖衣の鎖と激突したというのに、その暗黒の盾は揺るぎもしなかった。

「これは……一体!?」
「……まだ、わからんか」

 侵入者は、怒りを込めた声で低く言い放つと共に、今度は右腕の角鎖を展開した。
 生き物のようにのたうつ変形正弦波の一閃は、鎖の暗黒と漂わせる小宇宙の暗黒とが合わさってそれ自体がほとんど視認不可能であり、しかも光速の動きで瞬に迫った。

「ッ!!」

 考えるよりも早く、もっとも使い慣れた防御、ローリングディフェンスを展開して辛うじてこれを凌いだ。
 かわそうなどと考えていたら確実によけきれなかっただろう。
 だが侵入者の鎖はローリングディフェンスの表面で弾かれながら、その波打つ動きで逆にローリングディフェンスをさらに外側から取り囲み、幾度も撥ねてローリングディフェンスの回転を突き崩していく。

「……そんな!?」
「手を抜くな。それがどれほど腹立たしいことか、貴様にはわからんのか」

 瞬としては手を抜いているつもりはない。
 侵入者の小宇宙の強大さを見て手を抜くほど傲慢ではないつもりだった。

「生身の拳を封じたまま、俺たちと戦っていたのだろうが」

 その意識を、一言で吹き飛ばされた。
 先に情報を奪われている以上、星闘士ならば瞬のこれまでの戦績を知っていてもおかしくないが、その結果を知っていてなお生身の拳を要求するというのはどういうことなのか。
 歴戦の戦士ではあっても、戦いを好まない瞬は、戦闘そのものに意義を見出すことができなかった。
 ある意味で瞬は、戦闘には勝敗という結果しか意義を認めていない。
 相手を無用に嬲ることなく痛めつけることなく……究極的には戦うことなく勝つことができれば、それが一番だと考えていた。
 かつて銀河戦争で邪武が激怒したのも瞬のその思考回路による。
 ついぞ、瞬はそれが理解できなかった。
 相手に全力を出させることなく敗れることが、どれほどの屈辱であるかを。

「聞いているぞ。
 ネビュラ・ストリーム、そしてネビュラ・ストームというそうだな。
 海界では七将軍海魔女のソレントさえ倒した技で、おそらくは魚座のアフロディーテを倒したのもその技だろう。
 俺たちとの戦いでは片鱗すら見せなかった技で……」

 この男は、どこまで知っているというのか。
 いや、それよりもだ。
 それらの戦いより前に、この星闘士と戦っている……
 瞬の頭の中で既視感が再び渦巻いていた。
 知っている……。
 確かに知っているはずだ……だが、

「どうした。
 黄金聖闘士や七将軍には使っても、俺たちにはその拳を振るう価値すらないというのか」

 そう言われたからといって、そうですかと使えるほど軽々しいものではない。
 本来、自分のために他人を傷つけることを、恐怖にも似た想いで避け続けてきた瞬である。
 アフロディーテとの戦いまでは、死に瀕してもその封印を解かなかった拳なのだ。
 この侵入者が何者かも思い出せずに振るうことなどできなかった。

「……ならば仕方がない。
 あいつへの義理はあるが我慢の限界だ。
 この拳を前にした危機的状況でもまだ生身の拳を振るわないというのなら、そのまま死ぬがいい」

 ゆらりと、侵入者の両腕が宙に何かを描いている。
 あれは……、
 あの、アンドロメダ座と肩を並べる、あの、十三の星からなる星座は……!!

「受けろ……!暗黒ブラック流星拳……!」

 侵入者は、おそらく意図的に、攻撃の前にその技名を告げた。
 それが、既視感の壁をこじ開ける最後の一打となった。

 そう、「彼」はなんと言っていた。

 ……暗黒流星拳は、別名、黒死拳ともいうのだ……

 違う、その前に……

 ……そいつは……にやられている……
 ……そいつは、……の暗黒流星拳にやられている……


 ……そいつは、ブラックペガサスの暗黒流星拳にやられている……


「暗黒……四天王フォー……!!」

 驚愕した瞬の全身に、ブラックペガサス・リザリオンの暗黒流星拳が降り注ぐ。
 宇宙よりも冷たい凍気を纏った幾億発の光速拳が、夜の地下の中でさえなおさらに突き抜けるほどの暗黒となってその場の全てを覆った。
 避けねば、と本能的に察した瞬だったが、流星が伴った黒い凍気に全身を縛られていて、かわすことも防御態勢を取ることもできなかった。
 チェーンはおろか、神聖衣の防御すらも無きが如く、全てを突き通すニュートリノさながらに黒い流星が瞬の身体を射貫く。

「うああああああああああっっっ!!」

 貫通しているというのに、同時に恐るべき破壊力で瞬の身体は軽々と吹き飛ばされ、扉に人型のクレーターが空くほど強烈に叩きつけられた。
 かつて城戸光政逝去の折、テロリストの襲来を防ぐことを目的としてスチールクロスの金属加工技術を応用して造られた複合構造の特殊鋼製の扉である。
 それが石造りの壁のごとく軽々と変形している。
 扉を封鎖していたのが瞬自身の円鎖でなければ、支えきれずに扉ごと粉砕されていただろう。

「ぐ……」

 暗黒流星拳の衝撃で半ば麻痺している全身を叱咤して扉から身体を引き剥がす。
 その原動力となったのは、かつて覚えたことがないほど明瞭極まる危機感だった。
 この敵は、間違いなく自分を狙う動機がある。

「ようやく、思い出してくれたようだな。
 そうだ、俺はブラックペガサス……、真の名をリザリオンという」
「ブラックペガサス……、生きているのはあなただけか……」

 確かに富士での戦いの後、彼ら暗黒四天王の中でその死を確認したのはブラックスワン、ブラックアンドロメダ、ブラックドラゴンの三人のみ。
 ブラックドラゴンの双子の兄と、ブラックペガサスの二人はその遺体を確認したわけではなかったが、前後の状況からして死んだものと思われていた。

「そうだ。
 暗黒四天王も残ったのは俺一人。
 あとは皆、お前達の身代わりになったようなものだ」

 そう、振り返ればあの戦いはその後に引き続く聖域との戦いの前哨戦でもあった。
 そうでなければ、いかに決闘だったとはいえ、暗黒聖闘士たちが全滅することはなかったかもしれない。
 いや、全滅ではなく、こうしてたった一人生き残っていたわけだが。

「僕たちへの復讐ならば、何故僕を速やかに殺さずに拳を振るわせようとするんだ……。
 あなたの纏っているそれは、仲間達の聖衣じゃないか……!」

 おそらくはペガサスの星衣をベースとしているのだろうが、それと複合して全身を彩るその冠、その鎖、その盾は、死んだ暗黒四天王たちの暗黒聖衣で間違いない。
 先ほど、一人にして複数の小宇宙が合わさって感じられたのも道理。
 今のブラックペガサス・リザリオンは、一人で暗黒四天王全てを背負っているに等しい。
 その一体感は、かつての彼ら一人一人から感じていた小宇宙を遙かに凌駕する。
 だからこそ、なおさらに瞬にとっては不可思議だった。
 復讐というのならば、何故早々に自分を殺してしまわないのかと。
 生身の拳をわざわざ振るわせようとするのは何故なのか。

「仲間だ……。そう、仲間だった。
 お前達と戦うまではそうとわかってはいなかったがな。
 全てに見放され、欲望のままに生きてきて、大切なものなど何もかも無くしたと思っていた俺たちだったが、ただ一つ、同じ煉獄にいた仲間を支えに生きてきた。
 そのことに、失ってからやっと気づいたのだから無様にもほどがあるが……気づかせてくれたお前達には、ある意味では感謝さえしている」

 それは、ひどく懐かしい言葉だった。
 かつて幾人かの孤児たちが、口癖のように言っていた。
 大切なものなど、何もかも無くしたと。
 それでも当時の瞬には兄一輝がいた。
 地獄の島アンドロメダ島に送られてからも、敬愛する師と、心優しい姉弟子に恵まれた。
 それでも、聖闘士となり日本に戻ってきた瞬にとって、何か大切なものが日本に残っていたわけではなかった。
 当初はその兄一輝が帰還せず、ようやく再会できたと思ったらその兄と骨肉の争いを繰り広げることになった。
 その瞬にとって、生きる糧ともいうべきものを得ることができたのは、皮肉にも彼ら暗黒四天王との戦いのおかげだった。
 彼らとの戦いの最中に、肩を並べて戦う友であり兄弟でもあった仲間の孤児たちとの間に、掛け替えのない絆が生まれたと言ってもいい。
 あのまま互いに銀河戦争を戦っていたら、今の自分は無かった。

 リザリオンが語る心情に嘘が無ければ、あのときの自分たちは、青銅聖闘士も暗黒聖闘士も、まるで鏡合わせのように、宿命の相手に自分たちを映し出していたのだろう。
 その相手を乗り越えた果てに得た仲間とともに、十二宮を突破し、海界を沈め、冥界を滅ぼした。
 振り返れば、あの時以来の仲間だった。
 そんなことすら、忘れていた。

「一輝様の指揮下にあったとはいえ、元は俺たちが仕掛けた喧嘩だ。
 復讐などお門違いだと諦めようとしたこともある」

 そこで、リザリオンは遠い目をした。

「だが、お前達が神話まで至ったことで、どうしてもこのままではいられなくなった。
 神々をも連破したお前達の栄光の歴史にとって、俺たちなど思い出すことも困難なほどにどうでもいい初戦の障害に過ぎないものだっただろう」

 瞬はそこで心中を悟られたかのように思い、背筋に冷たい汗が走った。
 リザリオンの双眸が、瞬の意識を飲み尽くさんばかりに輝く。

「忘れさせはせん……!
 お前達にも、この世界にも。
 俺たちがいたことを、俺たちが生きていたことを、この最終聖戦の時代に刻みつける。
 そのために、神聖闘士となり神話にまで到達した仇敵にして旧敵たるお前達を、完膚無きまでに打ち倒す。
 そのためには、俺が、俺たちが……アンドロメダ瞬、全力のお前を打ち倒さなければ意味がない……!」

 轟然とリザリオンの小宇宙が燃え上がる。
 纏っている星衣……いや暗黒聖衣と同様に、ペガサス、アンドロメダ、スワン、ドラゴンが合わさった、一人の人間に有らざる小宇宙は、かつての自分たちとの戦いを基準に計れる領域を遙かに凌駕していた。
 北天の雄たる四つの星座を冠する今のリザリオンは、南天を覆うアルゴ座のイルピトアにも匹敵するほどに、天を統べる恐るべき聖闘士となっていた。

「魁の手前、後回しでも構わんと思っていたが、奴が手こずっている今、この機を逃す手はない。
 さあ、全力で戦ってもらうぞアンドロメダ瞬。
 既に否が応でもお前は戦わなければならなくなっている。
 星矢が助かったところをみると、俺たちの誰かから聞いていなかったか?
 俺の暗黒流星拳がどういう拳か」

 そう、ブラックアンドロメダは何と言っていたか……?
 確か、黒死拳とは、拳を受けたところから身体が黒くなっていき、全身が覆われたときには命が無いという……
 ……先ほど、何発受けたか数えることも恐ろしい。

「わかっているようだな。
 これならばお前も本気にならざるを得まい。
 今すぐにでも俺を倒さねば、お前が背後に守るもの全てを奪ってやると知れ……!」

 瞬には最後の一言がだめ押しとなった。
 本来、自分のためならば喩え殺されたとしても瞬は自らの拳の封印を解かなかっただろう。
 だが今、瞬の背後には星矢の遺体と、それにすがる二人の女性がいる。
 星矢の宿命の敵であるリザリオンが星矢の遺体を手に入れて何をするつもりなのかはわからなかったが、それがまともな目的であるはずがない。
 そして、暗黒聖闘士とは、自らの拳を私利私欲のために使うことを厭わず、アテナにさえ見放された者たちだった。
 その筆頭であったリザリオンの前に、二人の女性を曝すわけにはいかない……!

「わかりました……。ブラックペガサス・リザリオン……」

 決意した瞬はチェーンを握り直した。
 そして、このチェーンを動かしていた微かなストリームの比ではない、唸り猛る見えざる気流が巻き起こる。

「ネビュラ・ストリーム!!」

 本来ならそれだけで身動き一つできなくなる爆風に、瞬はさらにチェーンを重ねてグレート・キャプチャーを仕掛けた。
 エリスさえ封じた瞬の全力での拘束技である。
 だがもちろんそれをこそ期待していたリザリオンは身体を拘束される前に間髪入れることなく反応する。

暗黒流翼星雲ブラック・ウィング・ネビュラ!!」

 リザリオンの角鎖が瞬時にしてその姿を変貌させた。
 先端が無数に分裂し、それが無数の怪奇な生物の姿になったのだ。
 強いていえば、それは翼のある蛇だろうか。
 瞬の鎖を巻き込み、爆風を切り裂いて突き進むそれは、もはや独立して命を持つもののように瞬に向かって殺到する。

「そんな……っ!!」

 そういえばブラックアンドロメダの暗黒流牙星雲ブラック・ファング・ネビュラも、鎖自体が命を持って襲いかかるという怪奇な奥義だった。
 だがよもや、ネビュラストリームの中でこれほど動けるとは……!

「キャスティングネット!!」

 引き戻したチェーンが幾重にも格子模様に交差して瞬の眼前に長大な壁を構成する。
 だがリザリオンの放った蛇は大半がキャスティングネットに阻まれながら、一部は身体をくねらせてそれを突破する。
 千変万化するアンドロメダチェーンではあるが、初見ではその敵の性質を見極めきれずに適合しきれないという欠点がある。
 そしてアンドロメダチェーン自体が、ハーデスに砕かれたまま復活しきれていないことも大きい。
 やむなく瞬は、チェーンを展開していたストリームを一気に加速し、キャスティングネットに沿って強烈な上昇気流を発生させて蛇たちを四散させた。

 だがそのストリームの集中は、リザリオンへの拘束が緩むことに繋がる。
 リザリオンはわずかに身じろぎしながら周囲に黒い凍気を展開していった。
 それはやがて、瞬にも見覚えのある黒吹雪ブラックブリザードを形成し、……いや、その威力も凍気も今のリザリオンの小宇宙で繰り出されるそれは、ネビュラストリームにも正面から対抗できるほどの強烈な吹雪として轟々と吹き付け、ネビュラの流れを断ち切っていこうとする。

「よもや、この期に及んでこの俺を拘束するだけで勝負が付くとは思っていないだろうな、アンドロメダ!」

 まさしくその通り、この期に及んでなお瞬はリザリオンを傷つけることなく撤退させることができないかと考えていたのだが、やはりそれは甘すぎる考えだった。
 リザリオンはネビュラストームの存在までも知っている。
 その必勝の戦歴を知っていてなおそれを要求している。
 それは、戦い自体に意味を見出せない瞬には理解しきれない思いではあったが、どうやらそれに応えなければならないようだ。
 そして、リザリオンの言う通り、このままの睨み合いでは既に黒死拳を受けている瞬は圧倒的に分が悪い。
 既に全身の各所が不自然な熱を持ってきている。
 この黒吹雪の中でそんな感触を覚えるのは、黒死拳の威力が進行しているからに他ならない。
 決着は急がなければならない。
 黒吹雪に対抗すべく、気流がさらに激しさを増していく。
 どこかに、今のリザリオンならばストームでも死なないという確信があったのかもしれない。
 かつてないほどに気流が激しさを増し、本来音を伝える媒体である空気の気流がマッハを超えることで、周囲の空間が全てプラズマ化していく。
 輝く気流はまさしく星雲が如く。
 その星雲を、全て一度に爆発させる……!

「……爆発しろ、ネビュラよ!!」

 小宇宙が相転移する。
 気流が嵐に、ストリームがストームとなる……その瞬間、

「!!」

 ついに黒吹雪とともにストリームを振り切ってリザリオンの身体が翻る。
 両腕から解放された黒い鎖からなる蛇たちが、黒い凍気に束ねられて、龍と化す……!

「デスクィーン黒龍覇!!」
「ネビュラストーム!!」

 龍が、星雲を食らった。
 ストームが、真っ正面から完膚無きまでに破られた。
 瞬時にして龍は瞬の身体を直撃する。

「そん……な……!!?」

 砕かれた。
 信じがたいことに、砕かれた。
 ハーデスの剣を受けて死んだときでさえ、神聖衣は形状を維持して瞬の身体を守り抜いた。
 それが今、四星座が合わさったリザリオンの必殺の一撃を受けて、神聖衣の胸部から腹部にかけての中心部分が、完膚無きまでに破壊された。
 さらには打ち込まれた黒い凍気が残りのパーツをも浸食していく。
 何ということか、黄金聖衣をも凌ぐ神々しい輝きを魅せていた神聖衣が、元の青銅聖衣へと戻っていく。

「うわあああああああああああっっっっ!!」

 そうなってはもはやアンドロメダの青銅聖衣は瞬の身体を守ることはできなかった。
 二つの鎖も砕け散り、龍のうねりに呑まれた瞬の身体は軽々と吹き飛ばされて天井を直撃した。
 それにとどまらず、龍の爪に振り回された瞬の身体が天井といわず壁といわず周囲の建材を切り裂き、砕き、ぶち抜いていく。
 たて続く全身を苛む衝撃が瞬の意識を刈り取っていく。
 やがて瞬の全身を黒い氷が覆い尽くしていき、黒い氷柱となって天井に突き刺さって、ようやくにして止まった。

「……まず一人」

 静寂と静止を確かめてから、左右のアンドロメダチェーンを両腕に巻き付け直す。

「弟の危機に駆けつけるかとも思ったが……」

 上下逆さまで天井からぶら下がったまま凍結している瞬を見上げながら、リザリオンは誰に届くでもなく呟いた。

「やはり弟よりもあちらが大事か、一輝様」

 一人得心がいったリザリオンは、既に半ば瓦礫と化していた霊安室の扉を一息に開け放った。
 四十畳ほどの広さの室内は、リザリオンが放ったものとは別種の、うっすらとした冷気に満ちていた。
 探すまでもなく、アクリルプレートと金属とで作られた冷却機能付きの棺が部屋の最奥に備え付けられており、その前には、リザリオンの行く手を遮るように二人の女性が立っていた。

「……どけ。女を殺すも犯すも、もう飽きた」

 端的に威しつける。
 暗黒聖闘士の最高位に上り詰めるほどに非道の限りを尽くした十余年から発せられたその言葉には嘘も誇張もない。
 だが、相手が歴戦の闘士でもない限り視線だけで気絶させることすらできるリザリオンの双眸に睨み付けられても、その二人はわずかに立ち眩んだだけで、その場に倒れもしなかった。

「どかないわ……!
 もう、星矢ちゃんに置いて行かれるのはまっぴら御免よ」

 リザリオンは知らなかったが、そう答えたのは星矢の幼馴染みの美穂であった。
 星矢が冥界から戻ってからというもの、ほとんどこの部屋から動くことなく付き添い続けていたために、頬はこけ、元の可憐さは見る影もない。
 だがその顔表に浮かんだ決死の覚悟は、リザリオンをしても感心させるほどのものだった。
 魁から聞いていたわけではなかったが、その言動から概ねの想像がついた。

「なるほど、星矢の女か」
「え……、そんな、それは……」

 あまりにもストレートなリザリオンの物言いに、美穂は思わず緊張の糸を一瞬解いてしまった。
 リザリオンは嘆息してから、視線に力を込め直して一念を放つ。
 立ちはだかろうとした二人の身体はふわりと宙に浮き、直後に軽く吹っ飛んで壁際に転がった。
 その間に悠然と棺に近づいたリザリオンは天板に手を掛けた。

「……期待通りか」

 アクリルの天板を通して見える棺の中の星矢は、冥界から帰還してよりかなりの日数が経っているにも関わらず、眠っているかのように元の姿を留めている。
 グラード財団の遺体保存技術は大したものだった。
 これならば魁やイルピトアの期待通りのことができるだろう。
 棺と冷却装置らしき箱を繋いでいるチューブを手に取り、凍気を込めつつ引きちぎろうとした。

「……その手を、離して下さい」

 静かなもう一つの声が、リザリオンの動きを止めた。
 リザリオン自身、何にひっかかったのかはわからなかった。
 明るい亜麻色の髪をしたその少女からは何の小宇宙も何の気概も感じられなかったのに、その声には、何か不可思議な圧力があった。

「……貴様、何者だ」

 興味を引かれたリザリオンは思わずそんなことを訊いていた。
 背中を強打し、立ち上がることもままならぬはずの少女は、床に手を突いてあえぐのをこらえ、真っ直ぐにリザリオンを見上げた。

「……私は、星矢の姉、星華といいます」
「ほう……」

 星矢の姉とはいえ、一般人に過ぎないように見えるこの少女から感じられる気配はなんなのか。
 小宇宙でもない、憎しみや怒りや悲しみといった負の感情もない。
 ただ、弟を守ろうと真摯な姉の姿なのだろうが、それだけでは無い何かを覚えた。
 それに、星矢の姉となれば、魁との約束を考えると下手に殺すこともできない。

「……大人しく転がっていろ。
 少なくとも貴様にとって悪いようにはならん」
「星矢をどうにかするというのなら、私も連れて行って下さい」
「自分が何を言っているのかわかっているか。
 地獄を上回る戦場に生身で引きずり込めと言っているようなものだぞ」
「構いません」

 一瞬の躊躇いもなく星華は言い切った。
 人生の半分を引き裂かれながら、生きて再会することが叶わなかった姉と弟である。
 再び別れるくらいならば、今度は地獄でもどこでも連れて行って欲しかった。
 星華がこれまで自殺しなかったのは、その行くべき地獄が消滅したことを聞いて、死しても星矢と再会できないと言われたからに過ぎない。
 しかし、少なくとも今よりもよい状況になるというこの男の言動にも嘘偽りは感じられなかった星華は、逆説的なことながら、この侵入者を信じてみたくなったのだ。
 何故、この侵入者に身近な気配を感じてしまうのか、星華自身にもわからなかったのだが。

「……魁に貸しを作っておくのも悪くないか。
 よかろう、連れて行ってやる」

 リザリオンは熟慮の末そう告げると、左腕の鎖を再び展開して、星華の身体を縛り上げた。
 アンドロメダの鎖としては本来正しい使い方になる。
 気を取り直して、星矢が入った棺を凍気で包み全体を完全に凍結させた後、チューブやケーブル類を引きちぎった。
 ひょいと棺を持ち上げたところで、妙なものがぶら下がっていることに気づいた。

「何をしている、女」

 棺にしがみついていた美穂は、リザリオンの凍気で両腕が氷結して棺と一体化していた。
 偶然ではあるまい。
 意図的でなければ凍気に包まれた時点で凍傷に耐えきれず手を離しているはずだった。
 頭から顔面まで黒き霜に覆われながら、美穂はリザリオンを睨み付けて叫んだ。

「……私も、連れて行きなさい!
 もう星矢ちゃんを見送るのは御免よ!
 この身体がどうなってもいいから、星矢ちゃんの行くところに私も行くわ!」

 星華と違ってこちらはただの小娘の叫びにしか聞こえなかった。
 だが、こうなれば一人も二人も同じ事だ。
 星矢の女とあればそれなりに利用価値もあり、イルピトアに引き渡せば性格の悪い使い方もするだろうと判断した。

「……星矢め、つくづく……」

 氷結して一体化した美穂の身体を無理やり棺から引き剥がし……感心したことに苦痛に顔を歪めても悲鳴一つ上げなかった……星華とともに円鎖で縛り上げ直して左肩に担ぐ。
 高速移動中に間違って舌を噛まれても面倒なので、とりあえず二人とも気絶させておく。
 星矢の棺は右肩に担ぎ上げて、さっさと出ることにした。
 霊安室から出ると、瞬を閉じ込めて置いた氷柱が半ばで折れて、瞬が床に転がされており、その瞬の身体に拳を打ち込んでいる人影があった。
 風鳥座の星衣は言わずと知れた魁である。
 瞬の危機を予見し、辰巳をようやく気絶させて駆けつけてみたが遅かったという格好だった。

「遅かったな」
「……」

 魁は振り返りもせずに頷くと、さらに瞬の身体に拳を撃ち込んだ。
 傷から黒く濁った血が吹き出る。
 それをさらに十数度、魁は繰り返した。

「文句は無かろうな」
「……やむを得まい」

 陽動としての役目を果たせなかった自分が悪いことはわかっているし、とどめを刺すことなく、黒死拳の進行も遅らせる凍気で包んだままにしていたことはリザリオンなりの配慮であることはわかっていた。
 それで現におそらく助かりそうな状況とあれば、魁もとやかく言う気はなかった。
 生きてくれればそれでいい。
 苦痛や傷の数などもう数えることも諦めた自分たちだった。
 溜息一つついて立ち上がり、リザリオンの方に向き直ったところで、

「……何が一体どうなってそうなった?」

 星矢の棺だけでなく二つの余計なものを担いだリザリオンの姿は、魁の想定を超えていた。

「酷い言われ様だな、これでも……」
「!」
「むぅ……!?」

 リザリオンが反論しかけたところで、魁はそれを制止して振り返った。
 ここに、いい知れぬ気配が近づいてきている。
 小宇宙を漂わせてはいるものの、さながら死にかけの幽鬼のような気配だが、そちらを凝視する魁の双眸には期待と緊張とがない交ぜになって燃え上がっていた。
 リザリオンも魁のただならぬ形相からこの気配が容易ならざるものだと察した。
 だが、神聖闘士の瞬を差し置いて、それ以上に警戒すべき相手とは……

「……まさかっ!?」
「来てくれたか……!
 待っていたぞ……!!
 この時を……!一日千秋の想いで待ちわびたぞ!!」

 魁の叩きつけるような叫びに応えたわけでもないだろうが、その気配がついに姿を現した。
 その気配と同様に、生者であるかどうかも疑わしいほどにやせ衰えた人影は、辛うじてここまで歩いてきたという風体だった。
 しかし、やつれて、頬がこけ、威厳の欠片も見えない姿ではあっても、それが誰であるかは見間違えようがない。

「城戸沙織……!」
「お嬢さん……、その様でこの場に来たことだけは誉めてやる……!」

 人事不省に陥っていたはずの、沙織に他ならなかった。

「リザリオン、ここは俺が引き受ける。お前は早く星矢をお嬢さんから離してくれ」
「……待て。城戸沙織に手を出せばさすがにイルピトアが黙っていないぞ」
「大丈夫だ。
 イルピトアが聖闘士たちに約束したのは、決戦の隙にお嬢さんを暗殺しないというもの」

 魁はそこで拳を握り締める。
 手元に沙織の首があったらへし折ってやるとでもいわんばかりに。

「お嬢さんがこちらに攻撃を仕掛けてきて、それを迎撃するのは暗殺ではあるまい……!」
「まさか……、イルピトアの奴、最初からそのつもりで……!」
「星矢を奪取すれば十中八九、さすがのお嬢さんも眠りから覚めて追いすがって来てくれると踏んでいたが、瞬が瀕死に陥ったのを感じてさすがに動き出したか。
 計画より少し早いが、それはそれでいい。
 だが、ずいぶんと神聖闘士には入れ込むじゃないか。
 俺たち八十九人は捨て置いたというのにな……!」
「星矢……、星矢……」

 うわごとのように呟く姿は、自分がどうしているのかおそらく理解しきっていないと見た。
 ここまでたどり着いただけでも奇跡に近い。
 だが魁は、ならばこそ唇を噛んだ。

「……ある意味一番厄介なパターンだな」

 もくろみがわずかに外れたことの口惜しさで、爆発しそうになる怒りを抑えながら、魁は小宇宙を轟々と燃え上がらせていく。
 リザリオンと違い、青輝星闘士として星衣の使い方を存分に心得たその小宇宙の色は、イルピトアにも匹敵するほどの青さで輝いていた。

「行け!リザリオン!」
「わかった。……まだ死ぬなよ」

 リザリオンが沙織の横を駆け抜ける際に星矢を奪取されないように、リザリオンを庇うように光速拳を集中させる。
 ほとんど無意識にであろう、星矢に向かって伸ばした沙織のやせ細った手が、軽々と光速拳によって弾かれて、沙織の姿勢が大きく泳ぐ。
 無様だった。
 脆弱だった。
 この場で心臓を狙い定めれば、すぐにでも仇は取れると見た。
 だが。

「ここで寝首を掻くくらいじゃ、俺たちの戦いは終わらないんだよ……!
 目を覚ませ!!お嬢さん!」

 光速拳を生身の腕で受けても、骨が折れたようにも見えない。
 完全に戦意喪失しているわけではなく、動き出したことで小宇宙が燃え始めていると踏んだ魁は賭けに出た。
 辛うじて狙いを外すようにしながら、青く輝く光速拳を沙織の周囲に叩きつける。

 くたばる前に目を覚ましてくれればそれでよい……!

 足元に光速拳が炸裂した衝撃で沙織の身体が宙を舞う。
 そこへ、腕や脚の一、二本ぐらい撃ち飛ばしても構わないと割り切った魁の追撃が放たれる直前、

「お嬢様ぁぁっっ!!!」
「何ィッ!?」

 彗星のように沙織の元へ投げつけられたものがあった。
 金色のそれは、沙織の眼前でピタリと静止し、自由落下しつつあった沙織の手に当然のように収まった。
 直後に殺到する魁の光速拳は、目に見えぬ圧倒的な斥力に阻まれて、一つ残らず魁の下へ跳ね返ってきた。

「うおおおおっっっ!?」

 手加減した攻撃だったとはいえ、予想外の事態に自らの攻撃をかわしきれなかった魁は膝をつきそうになるのを辛うじて堪える。
 もはや二度と、沙織の前で膝を突くつもりはなかった。
 姿勢を戻し、事態を把握する。
 沙織の手にあるのは、やはり勝利の女神ニケこと黄金の杖。
 それが飛んできた方向を見れば、それを絶妙のコントロールで投げつけた者の姿があった。

「鋼鉄聖闘士……!
 その形状、ランドクロスの大地だな……。いい判断だ」

 元々、潮の指示で沙織の部屋へ続く廊下の警護をしていた大地だったが、魁にやられて半死半生の辰巳が執念で察して知らせてきた事実にさすがに迷った。

 動くはずがないと思っていたお嬢様が、霊安室棟に向かっている。

 だがそこで、すぐに追いかけることはしなかった。
 鋼鉄聖闘士の役目は本来青銅聖闘士のサポートだ。
 どれほど口惜しく歯痒くてもそれが現実であるとわかっていた。
 人事不省となったお嬢様の盾となることに躊躇はないが、あえなく破られる無意味な盾となるつもりはない。
 自分が英雄になる必要はない。
 そのとき最もやるべきことを為せばよい。

 考え抜いた大地は、沙織の本来の私室に厳重に保管してあった黄金の杖を取りに行くことを選択した。
 黄金の杖にすら何一つ反応しなくなっていた沙織だが、自ら動いている今ならば、それによって女神の力を取り戻されるのではないかと期待をかけたのだ。
 他力本願にも程があるとの自嘲は、表に出すことはない。

 だが魁は敵方ながらその判断を大いに評価した。
 単に大地が沙織の盾となっただけなら、その次の一閃で結局は同じことになっただろう。
 だが、沙織が意識を取り戻したのならば状況はまったく変わる。
 話には聞いていたが、よもやこれほど完璧に跳ね返されるとは思っていなかった。
 これで容易には沙織の首を取れなくなった。
 しかし、沙織を見据えた魁はふっと笑った。

「感謝するぞ、大地。
 これでようやく、俺たちの念願が叶う」
「何ぃ……?」

 黄金の杖を両手で掴み、まさに杖として身体を支えている沙織の瞳には、先ほどまでとは違う、はっきりとした意志の光が見える。

「星……矢……」

 息も絶え絶えながら、星矢を連れて行った影を追おうとしているのか、身を翻した沙織の背中に魁は苦笑しながら声を掛けた。

「その執念は星矢の兄として評価しないでもないが、こっちの用事もあるんで付き合ってもらえますかね、お嬢さん」
「……!?」

 沙織はどこか親しげに声をかけてきたその青年の顔を一瞬凝視して、意志を取り戻したばかりの瞳に驚愕を浮かべた。
 その顔に残る面影、見忘れるはずもない。

「あなたは……、魁……?」
「ゴミのように捨てた者の名前をしかと憶えておいでとは光栄ですよ、お嬢さん」

 芝居がかったポーズを取った魁だったが、沙織に頭を下げることはしなかった。

「では、我々一同の名前を全て憶えておいでだろうな」

 魁のオーラが炎のように湧き立つ。
 本来青く輝くはずの小宇宙とは明らかに異なるその色は、赤や緑や白など様々な色が混じりながら膨れあがっていた。

「な……っ、あれは……!?」

 その中に、朧ながら人の顔が幾つも見えた大地は思わず目を瞬かせたが、それで目の前の現実が変わるわけではなかった。
 むしろより一層個々の顔がはっきりしていった。
 幼い顔が多い。
 下は七歳くらいから、上はせいぜい十三、四くらいまでか。
 ほとんどが黒髪の少年たちが誰なのか、もはや考えるまでもなくわかる。
 いくつかの顔は過去の記録を調べたときに写真で見た憶えすらある。
 全員が全員、城戸光政の子供達に他ならない。
 辰巳から聞いた話が正しければ、その数は八十八名。

 その全てが、沙織に向けて壮絶な怨嗟と憎悪の形相を向けていた。
 溢れ出る声なき声が空間に満ち、その場を冥界にも等しい死気に染めていく。
 近くにいた大地でさえその気配だけで思わず気が遠くなりそうだったが、怨念を直接向けられた沙織に掛かる圧力はその比ではなかった。

「ああああ……!!」

 なまじ意識を取り戻したがために、その向けられた膨大な怨念の意味するところを察しずにはいられない沙織は、思わず手で目を覆おうとし、辛うじてのところでそれをこらえた。
 それは、目を塞いで良いものではない。
 目を背けていいものではない。

「踏みとどまったことは誉めてやる……。
 ああそうだ、お嬢さん。
 貴方のために死んでいった俺の兄弟達だ……!」

 ここで会ったが百年目とばかりに、怨敵を前にした子供達が憎悪の中に悲しいばかりの歓喜を見せる。

……ようやくだ。
……ようやくにしてお嬢さんを殺せる。
……ついにここまで来た。
……この日本まで帰って来た。
……この城戸邸にまで帰って来た。
……八つ裂きに出来なかった城戸光政の分まで、せめてお嬢さんだけでも幾千幾万の肉片に切り刻み、二度と転生できぬようにしてしまえ!
……ああ!
……ああ!
……ああ!

 生者のテレパシーを凌駕する強烈な意識が幾重にも反響して、大地の頭にさえ流れ込んで来る。
 その短く散った一生を彩ったものは苦痛と絶望ばかりであり、それ故に純粋で苛烈で一切容赦の無い敵意が今の孤児たちの怨念を純化させていた。

「魁……、貴方は、みんなの魂を背負ってここまで来るために星闘士に……」
「もちろんそうだ、お嬢さん。
 貴方を必ず殺すという約束で、こうしてみんなで帰還した。
 七年ぶりの帰省が無駄にならなくて幸いだ」

 魁は淡々と微笑みさえ浮かべながら答えた。
 しかし実際には辛うじて取り繕っていた丁寧語が消えて、魁本人が滾らせている敵意も纏っている者たちの敵意も、なお一層苛烈なものになっていた。

「黙って聞いていれば……、全てお嬢様のせいだって言うのかよ、お前らは……!」

 嬲るような魁の態度に業を煮やした大地は、横から叫びを入れた。
 それでも、意識を強く張っていなければ、気を抜いた瞬間に祟り殺されそうだ。

「お嬢様が……アテナが何のために降臨されたと思っている。
 全てはこの地上の愛と正義のために、この最終聖戦の時代に神々の侵略からこの地上を守る戦いのために降臨されたんだぞ……!
 星衣を纏っている貴様がそれを知らないとは言わせない。
 恨み言を連ねているだけで、お前たちの神に利するつもりなら恥を知れよ!
 星矢たちの兄だってのならなおさらだ!!」
「ああ、そうだ。確かに今の俺はそれを知っている」

 そこで魁は大地にはっきりと視線を向けた。
 諦観ではなく、絶望でもなく、どこか哀れむような色を帯びた視線だった。

「だが黙れよ鋼鉄聖闘士。お前達は自分たちの幸福を知らない」
「……何?」
「シェインから聞いたが、お前達は光政の依頼で麻森博士がスチールクロスを開発するにあたり、最初から青銅聖闘士のサポート役として選ばれ、そのために修練を積んでここまで来たそうだな」
「ああそうだよ……、それを笑いたいか!?」
「逆だ。妬みだよ」

 魁は天を仰ぐように昔を振り返ってから大地を見据え直した。

「地上の愛と正義のために。
 生きているうちにそれだけでも知っていたら、せめてもまだ救われた奴もいただろう。
 だが、俺たちは何も知らされなかった。
 光政が親だと知っていた奴さえ数えるほどだった。
 自分の生まれも知らず、家族の行方も知らず、兄弟たちが隣に居たことも知らず、何のためにこの世の地獄に送り込まれたのかも知らず、自分の死が何のためなのかも知らず……」

 一区切りごとに、拳を振るうかのような裂帛の気合いが迸っていた。

「俺たちが聞かされていたのは、聖闘士同士の激突大会という古代の剣闘士と同じ身分への昇格だけだった。
 行くも地獄、帰るも地獄。
 無意味に無意味を重ね、何のために死んでいくのかもわからない。
 ならば、己を地獄に送り込んだ奴を恨む以外にどうすればいい。
 最初からアテナの聖闘士になることを知らされ、栄光の未来を目指していた幸福なお前達にはわかるまい……!」

 そう、確かに大地たちはその選抜に当たってさえ、おぼろげな目的を知らされており、大地、潮、翔の三人が選抜され揃った段階で、城戸光政翁と麻森博士から、その真の目的を告げられた上で目的に向かって邁進していた。
 けっしてアテナの聖闘士にはなり得ないことのコンプレックスを抱えながら、それでも地上の愛と正義のために戦うという誇りはこの胸にあった。
 その誇りも無しに、人間の世界でありながら星矢たちの修行にも匹敵しようとする過酷な訓練に耐えることができたとは到底思えない。
 それを称して幸福と告げた魁に、大地は反論する術が無かった。

 そしてその言葉は大地に向けられているようで、その実沙織にも向いていた。
 それは紛れもなく、沙織が……アテナがこの聖戦のために踏みにじってきた想いだからだ。
 神話の時代から、神々との戦いを繰り広げていた。
 その戦いの中で、守りきれなかった人々は幾万幾億に及ぶだろう。
 もっと力があれば、もっと自分がよい選択をしていたら、もっと多くの人々を救えたかも知れないと、神話の時代から悔いることは数え切れないほどあった。
 だがそれは、助けられなかった、という悲しみだった。
 すまなかったとは思う。
 だがそれに拘泥していては、残った人々を救えない。
 せめて生き残った人々を守り、人間の世界人間の時代を守っていくことで、まだ戦い続けることができた。

 聖闘士として自分に付き従ってきてくれた多くの者たちも死なせてきた。
 神話の時代からその一人一人、全てを憶えている。
 だが、自分とともに戦ってきてくれた彼ら彼女ら全てが、戦女神としての自分の誇りですらあり、その死を嘆くことはあっても、それで歩みを止めることはあってはならなかった。
 それが聖闘士として付き従った彼らの願いでもあったはずなのだから。

 だが、今目の前に突きつけられた恨みは、そんな人々の残した恨みとは決定的に異なる。
 降臨したてで幼かったとはいえ、彼らの命を、友を、兄弟を、家族を、誇りを、人生を、その選択の余地すらなく一方的に徹底的に完膚無きまでに踏みにじったのだから。

 晴れて生き残り聖闘士となった星矢に対してならば、それが運命だと告げたこともある。
 だが、同じ言葉をどうして彼らに言うことなどできようか。
 何一つ知らされずに死んだ無意味無意義な人生が、彼ら自身の星の運命に従ったものだったなどと。

「解ってくれたな、お嬢さん。
 だから俺は……、俺たちは……、貴方を殺しにここまで来た……!」

 だめ押しとばかりに、死神が高らかに宣言した。
 生者の声に亡者の声が唱和する。
 八十九名の声が、音速ながら光速拳をも凌ぐ威力で沙織を叩きのめした。

「……だが、お前達がアテナを殺して、それで何が救われる!
 アテナを殺して、神々の到来を招いて、この地上を滅ぼして、それで満足か!」

 アテナを守る聖闘士として、大地は辛うじて意識を振り絞って反論する。
 今ここで守らなければ、アテナは殺されてしまう。
 やっと立ち上がって下さったというのに、その命よりも先に、今度こそ本当にその心が。

「俺たち十人……いや、十一人か」
「……?」

 それが、何が救われる、という質問の答えだと一瞬わからなかった。

「今まさに兄弟達が戦っている聖域での決戦を放り出してこのタイミングでわざわざこちらに来たのはな、お嬢さんが死んでくれないと目が覚めそうにない兄弟が多すぎるからだ。
 連中揃いも揃って、聖衣を持ち帰る当初の目的を忘れて丸め込まれてしまった。
 だが他ならぬ俺が、俺たちが、お嬢さんを殺したと知れば、あいつらの目も覚めるだろう。
 何を目的にして、何を糧として六年間を生きてきたのかを思い出してくれるだろう。
 いや、もはやそうすることでしか醒めることが期待できない。
 どいつもこいつも、すっかりアテナの聖闘士気取りになってしまった。
 まさかあの一輝までお行儀よく聖闘士になってしまうとは思わなかったよ」

 迸る憎悪に駆られて銀河戦争を叩き潰した頃の一輝の反応こそが、実のところ正常だったのかもしれない。
 唯一絶対の忠誠を誓う邪武だけは論外として、彼らがいつ何をもって沙織を許したのか、実のところ定かではない。
 果たして今なお許していたのかもわからない。
 沙織がアテナであるという事実の流布によって、うやむやになっていただけで、過去については何ら精算されたわけではなかったのだから。

 そのことに思い至った大地は、それ以上の反論ができなくなった。
 その想像は危険ですらあったからだ。
 魁だけでなく、今生きている青銅聖闘士たちにさえ、離反する余地が残っているなどと……!

「貴方を殺して死んだみんなの恨みを晴らす。
 貴方を殺して生きているみんなを解放する」

 魁は、背負う兄弟達の想いを込めるように、ゆっくりと両の拳を握りしめた。
 沙織はしばし俯いていたが、やがてそっと顔を上げて、囁くような声を振り絞った。

「……大地、瞬をお願いします」

 魁の傍で倒れている瞬の身体から既に出血は止まっているが、魁のこれほどの小宇宙に当てられてもなお意識を取り戻す気配がない。
 魁がそのままにしているところを見ると死ぬことはないのかもしれないが、放置しておけば何が起こるかわからない。
 これからこの場で繰り広げられる激突に巻き込む可能性も高かった。

「しかし!」
「……お願いします。
 これは、私が戦わねばならないのです……。
 この地上のための戦いではなく、私自身の罪のための戦いなのですから……」
「お嬢さんの指示に従ってくれると助かるな、大地。
 お前達に妬むところはあっても恨みは無いんだ。悪かったな」

 邪武たちに代わってこの場を預かっていた者として断腸の想いではあった。
 悔しさと無念さで身体が震えたが、魁との実力差も既に嫌と言うほどわかっていた。
 自分が居てもわずか一度盾になるのがやっとだろう。
 無意味な玉砕は、鋼鉄聖闘士の本分ではない。
 この場は確かに瞬を助け、しかる後にやるべきことを為す。
 今の意識を取り戻したお嬢様は黄金の杖を手にしている。
 いかに魁が人外な力を身につけていたとしても、人間相手にそうそう遅れを取ることはないはず……。
 頷く動きのまま俯き、唇を血が出るほど噛み締めながら、大地は沙織と魁の指示に従って瞬の下へ駆け寄り、その身体を担ぎ上げた。

「血液検査を優先してやってくれ。
 一応の解毒はしたが、黒死拳について撃った本人も全て解っているわけじゃないらしいんでな」

 沈黙をもって回答として、大地は瞬を急いで運び去った。
 二人きりになった魁と沙織だが、どちらも二人だけでいるという意識は皆無だった。

「さて。いい覚悟ではあるが、つまりは理解しているんだろう?
 お嬢さん、貴方に何が出来る。
 貴方は何も出来ないはずだ。
 傷を癒すこともできないし、蘇らせることもできない。
 貴方のところにいたのでは、星矢に何もしてやれない。
 だから、星矢は連れて行く」
「……何を、するつもりですか。魁」
「決まっている」

 長々と話してきたのはこのためだ。
 囁く様に、だがしかし、けっして聞き間違えないように、その目的を叩きつける。

「星矢を蘇らせる」

 沙織の瞳がこれ以上無いというくらいに見開かれる。

「そんな……ことが」
「できる。
 少なくともイルピトアの揃えた材料を検証した限りでは俺はその結論に達した。
 あとはこちらの目的をわかっているイルピトアをどう出し抜くかが問題だが、それは俺の役目であって貴方が気にすることじゃない」

 あえて突き放すように、わからないであろう言葉を散りばめる。

「そして、二度と貴方の魔の手が及ばぬ様にする。
 残った俺たち全員に。
 そして、何より星矢にだ。
 神話からの因縁など知ったことではない。
 俺の弟を、これ以上貴方の好きに弄ばせたりはしない。
 星矢が蘇ったとしても、二度と貴方のために死なせたりはしない!」
「私の……ために……!」
「これが、俺が貴方に与える最後の絶望だ。
 この世に未練を残しながら死んでいけ。
 貴方には二度と星矢を抱かせない……!」

 その宣言は、星矢を死なせたことの自責に苛まれ続けていた沙織をさらに打ちのめすものだった。
 沙織が星矢の身を抱いたことは何度かあるが、いずれのときも、星矢が傷つき倒れて意識を失っているときか……そして、最期のときだけだった。
 その事実を否応なく思い出させられ、沙織の胸は黄金の矢よりも深く抉られる。

 しかし魁の告げた事実は、同時に救いでもあった。
 星矢が救われるのならば、それでもいい。
 星矢が蘇ってくれるのならば、この絶望に拘泥しなくてもいい。
 ならば、この身に課した使命を果たさねばならない。
 この悲しみを乗り越えるときが来た……!

 黄金の杖を握り直す。
 幾多の聖戦において手の中にあった勝利の女神。
 勝利と言いながら、どれほどの人々を犠牲にしてきたものか。
 振り返れば、前聖戦においてさえ、自分の戦略のために巻き込んでしまった愛しい人々がいた。
 死なせてしまったのではない。
 自分が殺したも同然だ。
 罪は消えない。
 罪は拭えない。
 罪は償えない。
 神々は地獄に堕ちることができない。
 神々のための地獄があると聞いたことはあるが、厳密な意味での神としての死を迎えていない以上、アテナとしてそこに到達したことはない。

 ならば所詮、戦女神に出来ることなど、戦うことしかないのだ。
 大地が言っていた通り、この時代はおそらく最終聖戦の時代だろう。
 神々と戦い、オリンポスの神々全てを敵に回してでも、人間を守ると誓ったのだ。
 それが終わったら、神話の時代からの因縁も全て終わり、星矢を、天馬を、ペガサスを、解放しよう。
 それで星矢が蘇るのならば、ならばなおさら今、自分は戦わなければならない……!

 小宇宙が蘇る。
 人間としての肉体が消耗しているとはいえ、ギリシャ神話に冠たるオリンポス十二神の戦女神。
 当然ながら本来人間の及ぶところではない。

 魁はその小宇宙を眺めて満足し、薄く頷いた。
 それは自らを納得させるものであり、今背負っている兄弟達への示唆でもあった。

 そうだ、向かってこい。
 そうでなければ意味が無い……!
 生きようとする貴方の執念を打ち砕いて、貴方を無念の海に沈めなければならない!
 この怒り、この嘆き、この憎しみの前に、オリンポス十二神何するものぞ。
 人間の範疇を超えねばならぬというのなら、それを遙かに超えて神々を滅ぼす。
 同じ兄弟の星矢に出来たことが、俺たち八十九人に出来ないはずがない。

 八十九人の意志を一つにして風鳥の小宇宙が天地を焦がさんばかりに燃え上がる。
 もはや青輝星闘士の範疇すら超えつつある絶大な小宇宙をその右拳に束ねて爆発させた。

「砕け散れェェッッッ!お嬢さん!!」

 右拳を先頭にして全身弾丸と化して沙織めがけて突っ込んだ。
 人間の世界の建造物が耐えられるはずもなく、地下の霊安室から地上部までが余波だけで跡形もなく吹き飛ぶ。
 瞬時にして空間ごと圧縮された大気が原子の形を維持できず、破壊されて光と化していく中、それでも目標を外すはずはない。
 だが、

「オオオオオッッッ!!?」

 届かない。
 黄金の杖が、勝利の女神ニケが輝くのを前にして、わずか一メートルにも満たない寸前まで肉薄しながら、その拳が沙織の眼前でそれ以上進まない。
 小宇宙、破壊力、衝撃波、その他諸々を重ね、圧縮し、押し込んでもなお突破できない。

「これが……神か……!」
「私はまだ、死ぬわけにはいかないのでしょう……魁!」

 その会話を為す声がお互い届いたわけではない。
 それでも、爆散する光の中で叩きつけた視線が互いの意志をこれ以上なく物語っていた。
 直後、神々特有の斥力が、魁を自らの拳撃ごと跳ね返して吹き飛ばした。
 沙織の眼前で重力崩壊を起こす寸前まで密集していた威力を丸ごと跳ね返された以上、魁もただでは済まなかった。

「うおおおおおおおおおっっっっ!!」

 城戸邸周囲の森を数百メートルに亘って蒸発させ、地面に手が届いてからは吹き飛ばされながら地面を砕くことでブレーキをかけ、さらに数百メートル転がったところでようやく魁は踏みとどまった。
 倒れてはならない。
 倒れてなどいられるか。
 クレーターと化した跡地の中央に立つ沙織を真っ直ぐに見据える。
 闇夜の中でも見逃しようがない、まばゆく輝く小宇宙は、まさしく神々しいと言うに相応しい。

 イルピトアとの約束を蹴って沙織を暗殺していればこんな苦労は不要だったろう。
 だが、それでは意味がない。
 何も知らないままに死なせはしない。
 あの神話から蘇った化け物に、俺たちのことを時の果てまで忘れさせはせん!

 逃がすものかとばかり、沙織の背後へ弾幕のように光速拳を展開させた後、前面からも再び渾身の力を込めて拳を放つ。
 一瞬の静止の後、それらがまたも跳ね返ってくる。
 それをさらに踏み込んで撃ち返す。
 さらにそれが跳ね返ってくる。

 天に唾する者は己自身に跳ね返ってくるという。
 それでも撃ち返す。
 何度でも撃ち返す。
 何度でも、何度でも、何度でも。
 繰り返す度に、魁の小宇宙と沙織の小宇宙とがせめぎ合い、膨大なエネルギーが蓄積されていく。

 沙織とて余裕があるわけではない。
 長期間にわたってまともに食事もしておらず、精神的にはまともに睡眠もとっていなかった以上、この世の人間としての生命力は著しく低下している。
 それでも、拳を叩きつける魁に対して膝を突くわけにはいかない。
 その憎悪も当然だと思うがゆえに、おろそかに対抗することなどできない。
 さりとてこの身で受ければさすがに死にかねないほどの執念が積み重ねられていた。
 歯を食いしばり、何度目かわからなくなるほどの応酬を繰り返す。

 繰り返すこと、八十八応酬。
 夜を切り裂き、もはや太陽よりも明るくなるほどに凝縮された恒星のごとき威力がなおも跳ね返って魁に迫る。

「それほどの力を持ちながら……」

 間を100メートル弱にまで詰めきったところで、魁は歯ぎしりの後に絶叫した。

「何故星矢を死なせたあああああああああああああッッッッッッッ!!!」

 音ではなく、小宇宙が叫ぶ。
 魁だけでなく、八十八人の兄弟の絶叫が今一度沙織へと殺到する。

 届け……!
 届け……!!
 届けぇえええええっっっ!!

 一瞬の静止。
 そこで、積み重なった威力が臨界点を超えた。

「!!」
「!!!」

 視界全てを覆う閃光が走る。
 両者ともにまずいとはわかったが、互いに全小宇宙を集中してせめぎ合っている中で、回避行動など取る余裕はもはや欠片も無かった。
 直後に、超新星のごとき大爆発が、両者を、周囲一帯全てを覆い尽くす。
 極限まで集約されたその威力は、沙織の手から黄金の杖さえ吹き飛ばす一方で、魁の青輝星闘士としての星衣すらも破壊していく。
 受けるダメージは圧倒的に魁の方が多いが、既に半死半生の沙織に対してその防御を突き破ったことは大きい。
 このままでは相討ちになると魁が覚悟したとき、一つの影が飛び込んで沙織の前へ立ちはだかった。

「……!」

 人間一人を丸ごとカバーできるほどの巨大な盾をかざし、自身もまた第二の盾となって沙織を守るべく踏みとどまる。

「大地……!いけません……!いくらあなたでも……!」

 それは、全能力を防御にのみ集約したランドクロスの究極形態の一つだった。
 大地自身の名に象徴されるスチールクロスの能力は、本来疾走ではなく防御こそが真骨頂なのである。
 もちろん、いくら現代科学の粋を集めたからといって、鋼鉄の盾では魁の全身全霊の前では紙切れに等しい。
 だがスチールクロスの破壊力駆動力を担う出力炉からのエネルギーが盾の前面に展開されていることで、小規模ながらこの爆発と同種の力で対抗することができた。
 それでも、青輝星闘士である魁が何十重にも重ねた一撃の前では、徐々に盾が耐えきれずに周囲から砕かれていく。
 その事態も、沙織の懸念もわかっていたが、大地は当然引くつもりなどない。

「せめてお嬢様の盾くらいにはならないと……、邪武に申し訳が立たないんだよ!」

 邪武がどれほど断腸の想いでこの場を任せて聖域へ行ったものか。
 それなのに任された自分たちが、単に瞬の運び役だけで終わってはあまりに申し訳が立たない。
 そして、サポート役に徹した鋼鉄聖闘士として、事態を読み切る目には自信があった。
 この一撃に、二度目はない。
 大地の読みでは、自分が倒れるのと引き替えに、魁も力尽きる。
 最終的にお嬢様の身命が守られればそれでよい……!

「おの……れ……!やはり鋼鉄聖闘士恐るべしか……!!」

 魁もまた、同じ推論に達していた。
 このまま行けば、大地の盾を消し飛ばして大地を倒すことはできても、お嬢さんを殺すことはできずに自分が先に力尽きる。
 それでは、この恨み、この怒り、この憎しみはどこへいけばいい……!

「……俺たちの、勝ちだ……!」

 盾の大半が砕かれてなお自分の身を盾として沙織の前に立ちはだかり、意識を失いながら大地が叫んだ。
 その叫び声が聞こえたわけではなかったが、魁は確かに敗北を覚悟した。
 だが、

「……世話のやける」
「!!」
「!!?」

 魁の前に、何の前触れもなく暗黒の塊が出現した。
 それは、ブラックドラゴンの盾を中心に、ブラックアンドロメダのチェーンを蜘蛛の巣のような放射状に展開し、そのチェーンの間を黒い氷で埋め尽くしたものだった。

「……リザ……リオン」

 そういえばこいつは自分一人ならばテレポーティションできたのだったと、魁は薄れる意識の中で思い出した。
 リザリオンは拡大した盾で魁を守りつつ、自身は爆風の中に突っ込んだ。
 色と姿こそ異なるが、リザリオンの星衣と暗黒聖衣も、いまや魁の星衣に匹敵するほどの防御力はある。
 少々、では済まないダメージを受けながらも爆心近くまで接近することに成功し、

「暗黒彗星拳……!!」

 魁と沙織の小宇宙が生み出した恒星のごとき爆発体へ、数億の黒い流星を束ねて叩きつけた。
 恒星がさらに巨大な爆発を起こす前に、リザリオンは小宇宙を全力で燃え上がらせてこれを押し切り、大気圏外までぶっ飛ばす。
 まるで日食のような暗黒が恒星の光を遮ったかと思うと、はるか上空で一際大きな爆発が起きた。
 さらに一度の爆風が吹き抜けていき……不意に、夜の暗さと静寂が戻った。

 棟の周囲にあったはずの木々は跡形もなく、無残に地面を抉ったクレーターの中に、生きているものはわずかに四つ。
 魁と大地が倒れ、沙織とリザリオンの二人が静かに対峙していた。
 一方は黄金の杖を手放して辛うじて立っている状態で。
 他方は聖衣と星衣に傷一つなく万全の状態で。

「テレビで見たことはあったが……そういえば直にツラを拝むのは初めてだな、アテナ」

 アテナに見放されたと言われる暗黒聖闘士として、リザリオンにもいくばくかの感慨があった。

「暗黒聖闘士の……、ブラックペガサス、ですね」
「ほう?自分が放置した暗黒聖衣なのによくわかったな」
「……認めたくはありませんが、貴方が守護星座と標榜しようとしているものが何かくらいはわかります」
「なるほど。
 かつて見放した暗黒聖闘士を前にしたら出会い頭に有り難い説教でもくれるかと思ったが……」

 そこでリザリオンは沙織の顔を見下ろすように睨め付けた。

「どうやら、事実は伝説とは若干異なるようだな。
 見放したというのはどうも違うようだが?」
「……少なくとも、貴方が聞いているであろう内容とは異なります」
「何百年も語り継いでいたらおかしくもなるか。
 少しは気に入っていたんだぜ、アテナに見放された暗黒聖闘士って肩書きは」

 言われて沙織は困ったような顔をした。
 もう少し敵対的な反応を予想していたのである。

「魁と違って俺は貴様を糾弾しにきたわけではない。
 これでも俺たちは貴様にはそれなりに感謝しているんだ。
 よくぞこんな危険なものを放置しておいてくれたものだが、それでもこれが無ければ俺たちは集わなかった」

 リザリオンは魁を守っていた暗黒聖衣の盾と鎖を拾い上げて左腕に戻す。
 魁は意識を失っているものの、星衣の防御力もあり、どうやら死なずに済んだ様だ。

「少なくとも星矢を蘇らせるまではこいつに死なれるわけにはいかん。
 俺一人ではイルピトアを出し抜くのはかなり困難でな」
「貴方は、魁の仲間なのですか?」

 見ればいわずもがなの事実ではあるが、沙織にとっては魁とリザリオンという組合せは極めて理解し難いものだった。

「こいつがどう思っているかは知らないが、少なくとも星矢を蘇らせるまではこちらはそのつもりだ。
 とはいえ、この場で貴様と戦うつもりはない。
 相討ち覚悟ならばこの場で貴様を殺すことは不可能ではないだろうが……、あいにく俺の目的は星矢たちであって貴様ではないし、俺が貴様を殺してしまってはこいつに恨まれる」

 その言葉には気負いも自惚れもなく、現状の疲弊した沙織を見ての冷静な判断であった。
 
「星矢は俺と魁に任せてもらう。
 所詮アテナといっても、今の貴様にできることは人間と大差がないのだろう?」
「……」

 突きつけたその言葉は、沙織の身体を縫い付けたように動けなくした。
 リザリオンは魁の身体を抱え上げると、そんな沙織に向かって歩き、手を伸ばせば容易に触れられるほどのすぐ間近を、堂々と通り抜けた。

「せいぜい祈っているがいい。
 地上の愛と正義のために。
 もっとも、力こそ正義が俺たち暗黒聖闘士の信条だがな」

 あまりの態度に沙織が手出しできないまま、リザリオンはクレーターを抜けて闇の中へ姿を消した。
 足音が去り、ようやく呪いが解けたようにその場に膝を突いた沙織は、とにかく状況の悪化を防ぐために、大地の周囲を生命の珠で包み、手当てができそうな城戸邸本邸地下シェルターまで運ぶことにした。
 霊安室棟から離れた城戸邸はどこまで破壊を免れているかわからなかったが、人の身である今の沙織にできることはそれしかなかった。








「……生きて、いるのか」
「不服か?」

 リザリオンの声に起こされるというのはさすがに不穏ではある。

「お嬢様はどうした?」
「心配するな。殺さずに置いておいた」
「……そうか」

 それは仕留めきれなかったということでもあるが、魁はひとまず挽回の機会はあると考えて安堵した。

「……手間をかけさせたな」
「無茶をしてくれる。あと一歩遅ければさすがに助からなかったぞ。
 まったく、これ以上俺に仲間の死を味わわせるな」

 吐き捨てるように言うと、リザリオンは手近のシートの背もたれを倒して寝転がった。
 目を閉じたリザリオンには見えていないとわかった上で、魁は頭を下げる。

 ここはイルピトアが所有する小型ジェット機の中である。
 滑走路無しの垂直離着陸が可能でありながら、無補給で10000キロの飛行が可能という代物で、グラード財団の秘密管轄にある技術が使われているらしい。
 なんでも星矢たちが聖域に乗り込むときに使われたものと同系機だという。
 大騒動を起こしてから成田や羽田からの離陸を待っていたのでは追いかけられてしまうため、今回パイロット付きで動員されたものだ。

「それで、どうするつもりだ。
 星矢は回収できたが、アテナを復活させてしまったのはいささか面倒だぞ。
 今回の状況を見る限りでは、少なくとも正攻法では倒せまい」

 これでもリザリオンはアテナをみくびっていたわけではない。
 相討ち覚悟なら倒せるとは思ったが、逆に言えば、それほどの覚悟がなければ倒せないということでもある。

「イルピトアは、アテナを倒せればよし、倒せずに復活したらそのときのことは考えてあると言っていた。
 おそらくあいつの作戦には支障はあるまい。
 俺としては作戦の練り直しが必要になったのは確かだがな……」

 手強いことは覚悟していたし、そうでなければならないと思っていたが、魁にとって相討ちでは意味がない。
 今回、リザリオンに救われていなければほとんど自爆に近かった。
 それでも膨大な小宇宙の壁を突破するのがやっとの有様では、次の手は根本から考え直さねばならない。
 神々の防御を無効化するような何かが必要だ。

 容易に思いつくものではないと考え直し、とりあえず星矢を確認することにする。
 予定通り、客室座席の一部を取っ払って取り付けた冷凍装置に繋げられていた。
 それはいいのだが、

「先ほど聞き損ねたんだが、何がどうしてこうなった?」

 両手両脚を拘束されて意識を失ったままの少女二人が星矢の棺の近くに転がされていた。

「星矢の女と星矢の姉だというので連れてきた。
 使い道はあるだろうし、星矢の姉というのならばお前の姉でもあるのだろう」
「……そうか、昔星矢が言っていたな。美穂ちゃんと……星華、だったか」

 七年前の記憶を辿って名前を思い出す。
 年長のため聞き役に回ることが多く、星矢からも少しは身の上話を聞いていたことが変なところで役に立った。

「配慮には感謝するし、役に立つことは間違いないが、一つだけ訂正しておく。
 彼女は俺の姉ではない」
「何?」

 興味をそそられたのか、寝転がっていた身体を起こしてリザリオンが向き直る。

「シェインとユリウスが城戸光政の遺伝子情報を調べたところ、性決定遺伝子に欠損があったらしい。
 細かい理由は説明されても理解できなかったが、ともかく城戸光政の子供には男しか生まれないのだそうだ」
「……ほう」
「そして、一番年上の俺はやや未熟児で生まれたと聞いている。
 俺より年上となると、城戸光政が色々やらかし始めた時期と微妙にズレる」
「ふむ……」

 自然、魁とリザリオンの視線は一人の人物に集中する。

「……星華、あんたは一体何者だ?」






 その内部での会話までを掴んでいたわけではないが、その移動位置を完全に掴んでいた者がいたことに、魁もリザリオンも気づかなかった。
 監視カメラのネットワークを駆使してジェット機に乗り込むリザリオンを追跡し、今もなお一路南下する軌跡を監視衛星で追いかけ続けていた。
 もう一人のサポート役として、戦わなかった分以上の戦果を得ることが彼にとっての至上命題だったのだ。
 向かっている方向は、先にシェインのハッキングを逆探知して突き止めた国と一致している。

「……ついに尻尾を掴んだぞ……星闘士!」

 大地と辰巳、瞬の三人を集中治療室に集めて治療を進める傍らで、潮は制御端末を叩きながら、鋼鉄聖闘士の誇りとともに静かに叫んだ。





第二十九話へ続く



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