palm - music

データベースとしてのPDA?

2005年1月3、5、6日の日記(ただし6日の日記は、あまりにも長くなったので、このページに書き下ろし)、および、mixi日記の関連エントリー(2005年1月4日)の再録です。

2005年01月03日

データベースとのおつきあい

2004年まででわかったことは、日本の市場はPDAを受け入れないということ。

ENSISのLokiさんの指摘は、直球ど真ん中という感じで、ちょっとドキッとしました。

対抗馬が携帯電話だからではなく(ケータイのお粗末なPIMを見よ)、日本人の文化にデータベース化(各省庁のサイトを見よ)とか、スケジューリング(本屋で『手帳活用』の棚が季節的にあるのを見よ)という発想が馴染んでいないため。

人(日本の文化?)が、(まだ?)「データベース」に慣れていない、というのは、確かに、そうかもと思いました。

前に、木彫り熊Kentaroさんの

5年前、あれだけこぞってPDA(Palm)を使ってた人達は一体どこへ行ってしまったんだろう?

というつぶやきがありましたが、お膳立ては、そろっていたと思うのです。

Palmは、間違いなく、よくできたプロダクトだと思うし、

おそらく、「誰のためのデザイン?」のドナルド・ノーマンも納得するはず。(このあたり、mixi方面ごく一部で、話題が出ていました……。)

[追記] ドナルド・ノーマンがPalmPilotに言及した1999年の興味深い記事。(当時ハンドスプリング社だったロブ灰谷氏も登場。)

数千ものクリックが死んでゆく(Wired News)

みちろうさんに教えてもらいました。ありがとうございました。

楽しくて親切なコミュニティがある(あった)し、

PalmFanとか、Clie User Club!とか、PUG-Jからたどれる、各種ユーザー会とか。

機長が圧倒的な筆力で作り上げた、強力な「物語」もあったし。

ある時期まで、Palmを使うことは、「パーム航空」という「物語」の登場人物になること、機長が演出するエンタテインメントに、「出演」することだったと思うのです。

でも、どんなに吸引力のある「入り口」があっても、その先は、個人個人が、スケジュールなり、アドレスなり、テキストなり(クリエや最近の機種だったら、音楽や画像や映像も)のデータベースを運用していかなきゃならないわけですよね。

そこに意味や利点や価値や魅力を見いだせなければ、人は、PDAから離れていくだろう、と。

ただ、これは、PDAだけの話ではなくて、ひょっとすると、パソコンについても、言えることかな、と思ったりします。

(PDAとパソコンの連携が、HotSyncという技術はあるにしても、その先が、いまいち複雑というのを含めて。)

メールとウェブとワープロ、最近だったら、テレビ(DVD再生を含む)の代わり。というのが、パソコンの主な使い方で、個人やネットワークのデータベースとしての運用は、ようやく、目処がついたところではないかと思うのです。

個人的には、音楽関係の情報収集で、ウェブが使えると思えるようになったのは、ここ1、2年のことのような気がしています。ウェブ上の情報の質と量が急にアップしたような印象。ブロードバンド対応でプロバイダのディスクスペースが増えたとか、Googleで検索が便利になったとか、ブログで情報の公開が楽になったとか、の相乗効果なのでしょうか。

話は変わりますが、少し前から、読み物系サイトの人たちが、コンピュータの基礎を解説した本を出すという流れが、ちょっと面白いなあと、思っていました。

「窓と林檎の物語」の梅津信幸さんによる、情報理論の画期的にわかりやすい入門書とか、「闘わないプログラマ」のLeptonさんが、ネットワーク技術の本を書いたりとか。

順を追って話を聞いたら、コンピュータがやっていることって、必ずしも、難解な呪文(映画「マトリックス」の、雨のように降り注ぐコードみたいな)ではないんですね。

データベースに慣れて、等身大でつきあうようなスタンス(量に圧倒されて立ちすくまないノウハウ)というのも、そういうことなのではないか、と思ったりします。

ひょっとすると、データベース的発想に、基礎から少しずつ慣れ親しんでいけるような解説のしかたが、ありうるのではないか、と。

Palmで言えば、

もちろん、「Project Palm」は世に出て欲しいと思うわけですが、

個人的には、山田さんが、あちこちに、折にふれて書いたおられた文章を、もう一度、まとめて読み直すことができたらなあ、と思っています。

技術的なことだけではなくて、PDAと楽しくつきあうための知恵みたいなことを、色々、書いておられたように思うのです。

mixiの日記より
2005年01月04日 02:33

データベースは一覧表ではない

palm - musicに書いた、データベースの話の続きメモ。

データベースってなんだ、という話をするとしたら、データベースは「一覧表」ではない、というのは、「つかみ」になるかも、と思ったりしました。

全貌をみとおせない量が溜まった時に、威力を発揮するわけだし。あと、定型フォームも、データベースに必須ではないですよね。あれは、ファイリング&プログラミングしやすいように、ああなっているだけで。

データベースは、そういう一定の「かたち」というより、物事を関連づける「ものの見方」の一種なのかな、と思ったりします。

上手に説明している概説書って、ないのでしょうか?

(……と、ここまで書いて、昔書いた、私の拙い修士論文は、強引に言えば、シューベルトの作曲技法が、物語的(発展的)というより、データベース的だ、と言おうとしていたような気がしてきたのですが、そのことは、また別の機会に。)

[補足] シューベルト(1797-1828)は、フランス革命後の反動の時代、王政復古のウィーンの音楽家。当時は、ドイツ語圏の市民社会黎明期で、シューベルトは、官憲の目の届かない、市民や下級貴族の小さなサークルで支持を集めた、いわば「オタク的同人誌作曲家」です。

生没年は、ベートーヴェン(1770-1828)の後半生とぴったり重なります。

ベートーヴェンは、「始め・中・終わり」と首尾一貫した構造をがっちり組み立てるタイプ(主題・動機の「発展」が得意技)ですが、シューベルトは、ほとんど同じ作曲技法を使うのに、印象が随分違う。全貌が見えないアイデアの貯蔵庫から、任意の要素を取り出して、組み替え続けているように見える、とされています(これを「ヴァリアント技法」と呼びます)。

戦後西ドイツで、特に60年代以後の「カウンター・カルチャー」世代の人たちが、まるで「父殺し」のように、シューベルトの「アンチ・ベートーヴェン」的作曲技法に着目して、研究が一挙に進みました。

2005年01月05日

スケジュールやアドレス帳もデータベース(たぶん)

先日のデータベースの話の続きというか補足というか……。

データベースというと、所定のフォーマットでデータがずらっと並んだものをイメージするわけですけど(で、そういうデータベースや辞書も、PDAに入っていると便利なわけですが……)、

Lokiさんの発言を読んで、私が、思ったのは、

「予定表やアドレス帳も、メモ帳も、データベースなんだ」

ということなんです。(Lokiさんの意図がそういうところにあったのかどうかは、わからないのですが。)

で、昔、山田さんが、(たしか@niftyに)書いていたことを思い出しました。

原文が見つからないので、うろ覚えですが、

「PDAを使い続けるコツは、分類や書式、体裁を気にしないこと」

というような話だったと記憶しています。

アドレスの登録は、名前だけ書いておいて、あとは、メールの署名などを、そのまま「ノート」に貼り付けておけばいいし、スケジュールも、「会議」とかだけ書いておいて、細かいことは、やっぱり、メールや書類を「ノート」に貼り付け。

あとでその項目を探したい時は、適当なキーワードで検索すればいい、と。

たしかに、そうやって、何でもどんどん入れておくようにすると、PDA自体が、個人用データベースみたいになっていくんですよね。

「予定表」を講義ノートに

その応用みたいなことですが、私は、「予定表」(datebk3)を、大学の授業の「ネタ帳」のようにして使っています。

授業に使えそうな話を思いつくと(よく朝の電車の中で思いつくのです)、予定表に、「繰り越し項目」の形で、「音楽史 Mozart」「美学 中世のmusica」みたいな見出しで書き込んでおきます。

で、授業が終わると、日付を、来年の同じ時期に先送りする。

2、3年続けているうちに、ほぼ「予定表」の中に、講義ノートができあがってしまいました。しかも、毎年、その話をする時期になると、ちゃんと関連項目が予定表にあらわれる、と。

「アドレス帳」の一口メモ

あと、これは特に珍しいことではないと思うのですが、初めて行った建物(コンサートホールなど)は、アドレス帳に項目を作って、「地下鉄○○番出口を出て左折」とか、行き方のメモを残すようにしています。

行き方さえわかれば、別に、住所や電話番号は必要ないので。

最初の一歩をどうするか?

ただし、こんな感じの自分用データは、貯まれば貯まるほど便利になるわけですけど、そうなるまでが問題なんですよね。

ふと思ったのですが、例えば、iTunesやiPhotoは、最初に起動すると、ハードディスク内の音楽や画像を全部、リストアップしてくれますよね。

あんな感じで、PalmDesktopが、手元の文書やメールをガーっと全文検索&解析して、年月日を見つけたら予定表へ、メールアドレスを見つけたらアドレス帳へ、という感じで取り込んでくれたら、使い始めの敷居が低くなるかも。どうでしょう?

2005年01月06日

予想外に、いろいろな反応(あるいは、たぶん、偶然と思いますが、関連がありそうにも思える話)がウェブ上(一部mixi)に出ておりますので、ゆるやかにそのあたりを踏まえつつ、最後にいくつか落ち穂拾い。

話をはぐらかすことについて

データベース云々という話は、既にお気づきかと思いますが、話題が、どんどん横滑りしております。

発端になったENSIS(とヘッダのタイトルに表記されているけれど正式名称は違うそうです、失礼しました)のLokiさんのエントリーは、Clie User Club!終了&モバイルプラザご訪問を受けたお話でした。

でも、私は、それについて、特にClie User Club!終了については、何も書けそうにないので、迂回しようとあがいております。

しかも、私のは、「データベース」という言葉の意味をズラしてみよう、と妙な気を起こしつつ書いた文章。

そして、ちょっと書いた具体例は、「予定表」を、スケジュール管理ならざる何かとして使おう、という話……。

まあ、そんな風に、どんどん話が飛ぶ方が、面白そうな気がした、ということです。

クリクラ終了。ショック!

でも、そんな時だからこそ、大ボラを吹いてみようじゃないか……と、そこまで整然と考えていたわけではないですが、気分はそんな感じです。

データベースとしてのカレンダー

現状、今の私には、「予定表」を本末転倒っぽく使う、というのが、ちょうど良いみたいです。

ただ、「年月日」に関わるあらゆる情報を扱えるツールがあって、

例えば、

等々を、一括して扱えたら、面白いかも、と空想しないではないです。

実際にそういうものを誰かが作ったとして、本当に使うかどうかは、わからないですが。

データベースとしての予定表(というよりカレンダー?)ということで思い浮かべていたのは、そんなイメージです。

記録文書と情報公開

「予定表」というアプリケーションが、なぜ「未来」を書くことになっていたり、「○○以前を一括削除」みたいな機能がついているのか。

ひょっとすると、技術的な問題なのかもしれませんが、

これで充分ということになっているのは、過去の記録は、別のところに残すのが前提なのかな、という気がします。

ヨーロッパに行くと、小さな町でも、公文書館みたいなところがあって、そこには、何でこんなものまで、と思うものまで保存されているようです。

そういう施設に、18世紀ハンガリーの宮廷音楽家の給与明細とか、19世紀末ロシア警察の検死所見、みたいなものが残っているおかげで、

ハイドン時代のオーケストラの編成を推測できたり、

チャイコフスキーは自殺なのか病死なのか、というのを100年以上あとから、推理できたりする。

あと、日本国憲法の成立過程を検証できたりするのは、アメリカで過去公文書が、ほぼ全面的に公開されているから、らしいですよね。

もし、欧米の人たちが、過去はバシバシ捨てて先へ進むスタイルで仕事をしているのだとしたら(このイメージが当たっているかどうか自信はないです、あくまで「もし」の仮定です)、あとのフォロー(記録)体制を信頼しているからこそ、なのではないかな、と思ったりします。

でも、なんかこう、今の日本の役所や商習慣みたいに、前傾姿勢を取り入れる一方で、年(年度)が変わる時には、過去を水に流して、まっさらな「謹賀新年」、循環的な時間意識でリセットされると、本当に、何も残らない。

(一方、ヨーロッパの「Happy New Year」は、深夜零時零分に花火を打ち上げて、乾杯して、それで終わりですよね。1月2日には、すぐに仕事を再開するし。)

多少不完全でも、過去の予定表をとっておこうと思うのは、少なくとも私の場合、「思い出」というより、何か起きたときに、いいくるめられないための備えという意味合いがあるかなあ、と思っています。

「素晴らしき我が日本国」

最後に、また、大きく話、飛びます。

さきほど、「話の横滑り」ということを書きましたが、「日本」とか「日本人」というのは、私にとっては、できれば避けて通りたい、できれば話をはぐらかしたい、と思ってしまう言葉の最有力候補。

でも、敢えて足を踏み入れてしまえば、「時間」とのつきあい方も、「データベース的知」も、「日本」の文化のなかには、むしろ、ありすぎるくらいある(あった)のではないかと思っています。

「六曜」とか俳句の「歳時記」とか。

あと、データベース的ということでは、

漢籍を出典にして子供の名前や元号を決めるとか、

和歌の本歌取りとか、武術・剣術の型とか、囲碁(将棋)の定石(定跡)とか、「四十八通りの……(以下自粛)」とか。

例えば、前にどこかに書いたかもしれませんが、囲碁の用語(「ヒカルの碁」で飛び交ったような)では、

石が盤上に2つ並んでいる状態が、前後関係や周囲の状況、着手の意図などによって、

「ノビ」「ナラビ」「サガリ」「ブツカリ」「ツナギ」「デ(ル)」

と何通りにも言い分けられます。

でも、実戦の具体的な局面では、この手は「ナラビ」(「ノビ」でも「サガリ」でもない)という風に見えるわけです。

こういう用語法は、すごく面白いデータベースになっているように思います。

で、そういう感覚が脇に追いやられたのは、巨視的に言えば、やっぱり、19世紀の後半、ちょうど「進化論」とか、「産業革命」とかで、ブルジョワな皆様方が前へ前へと進んでいた時代。かなり窮屈な形で、日本が「近代化」した結果かなあ、と、月並みな意見ですが、そんな風に言えてしまうのかもしれません。

言わせてもらえばですねえ、「神々の御代から血筋が途切れることなく続いている」、とか、「免許制度」としての「家元」とかいうのは、とっても「近代的」な発想で、あまり「日本の伝統文化」な感じではない、と思うのです。

今現在、目の前にいるこの人は、競争を勝ち抜いてきた現役ナンバーワン(あるいは、争うまでもなく「自ずと」そのような位置にあらせられる「やんごとなき方」)なのだから、この人を信用しておけばいい、というのだったら、データベースは不要。

でも、実際の「王権」や「家元」は、入り組んだ姻戚(師弟)関係や政治状況の中で、

それこそ、「ノビ」と「ナラビ」と「サガリ」を区別するみたいなデータベースに照らしつつ、養子縁組したり、継承順位を決めたりして、存続してきたわけでしょう。

それを「万世一系」と言ってしまうツリー的な発想こそが、近代の抑圧! 今こそ、データベース的知の回復を、みたいに立論すると、「ポストモダン」になるんだと思います。

「オタク」=データベース的発想のニュータイプ、という東浩紀「動物化するポストモダン」は、たぶん、そういうことなのでしょう。

別にそれに荷担せよ、と言いたいわけではないですが、とりあえず、手当たり次第に情報を集めておくと、色々、面白いことが起きると思うのですよ。

「本来の用途・目的」とか、あまり、堅いこといわずに、ね。

それから、「○○の終わり」みたいな「線分モデル」(世の中の現象に、始点と終点を想定する)は、「もう、ええやん(いいんじゃないの)」という感じがあるので、これこそ、迂回してノーコメントということで……。


all these contents are written in Japanese
by 白石 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)