palm - music

■diary > 過去の日記

2003年3月31日(月)

アメリカ人は、交通事故で明らかに自分に過失があっても謝らない、とよく言われますが、たぶん、それは、言ったもん勝ち、ということではないですよね。思い切り自己主張するのは、決着がつかないときのジャッジの場が確保されているからではないかと思います。法廷ドラマでよくでてくる陪審員裁判というやつ。あの息詰まるやりとりやディベートが、私にとっての「自由の国アメリカ」のイメージかな、という気がしています。(「スタートレック」で一番印象に残っているのは、アンドロイドのデータ少佐が裁判で「人権」を勝ち取る回だし、「十二人の怒れる男」とか「12人の優しい日本人」は、もう台詞全部覚えるくらい何度も観てるかも。)

人それぞれ価値観は多種多様だし、みんな好き勝手にやりたい。「だからこそ」、「自由でいたいからこそ」、好き嫌いや直感で決めつけてはいけないことがある、ということだと思うんですよね。それを教えてくれたのがアメリカだったはず。

戦争が、たくさんの民間人を巻き添えにする「国」対「国」の総力戦になったのは、たぶん、20世紀になってからのことだろうと思います(=ダイナマイトや飛行機ができてから)。国レベルでのやりたい放題を抑止できないのは、経験やノウハウが足りないのだろうという気がします。国連のルール作りとか、戦争裁判所とかは、机上の空論、という意見もあるみたいですけど、長い目でみたら、その方向しかないのではないでしょうか。もめ事の度に総力戦をやっていたら、保たないですよ。たまたま今の大統領が愚かだ、というより、世の中のしくみ(国と国との利害の調整)の深刻な機能不全という感じがします。


2003年3月27日(木)

アメリカ側から発信されている戦場の映像は、開戦直後の戦車や歩兵の列が進んでいくのを観るだけも怖い気がしていました。(その後は観ていません。)画面の光景は、子供の頃から繰り返し詳細に聞かされ、見せられてきた50年前の世界大戦と、ほとんど変わっていませんよね。過去の話として見聞きするだけでも恐ろしかったことが、現実にまた(まだ)起きているというというのは、やっぱり承伏しがたいと思ってしまいます。

そして、確かに今、それを見聞している自分自身に命の危険はまったくないわけですけど、それでも、なんだか、「巻き込まれている」という感じがして仕方がないです。

昔、熱帯雨林を守るためワリバシの使用を止めよう、という不思議な運動がありましたが、あれに比べたら、ずっと具体的に、日本が戦争(賛成)の「恩恵」にあずかりそうな状況であるわけですよね。ええんかいな、と、やっぱり思ってしまいます。(戦後復興でアメリカの巨大企業が優先的にイラクに入る手はずになっているらしい、と聞いて、歴史の教科書で習った「朝鮮戦争の特需景気」というのを言葉を思い出しました。子供の頃は、かなり無邪気に「朝鮮戦争のおかげで日本は助かったらしい」「日本はラッキーだったんだ」という風に思ってしまっていましたが、かなり、あくどいことですよね。)


2003年3月23日(日)

いつも思うのですが、政治について、気の利いたことや威勢の良いことを書くのって、実はそれほど難しいことではないんですよね。でも、本当に考えなければいけないのは、言葉に行動が伴っているかどうか、ということなのだろうと思います。(敢えて口先だけに徹するとか、逆に、現行不一致を避けるために、行動が伴わないことは一切、口にしない、というのも、ひとつの生き方だとは思いますが……。)

では、間接民主制のこの国で、一般人が主張を通すためにどうすれば良いのか? デモや集会、署名・請願というのも、ひとつの方法。でも、多くの人が好んで指摘するように、現実は民主主義である以前に資本主義で動いていますし、政府だって、現状では巨大な会社みたいなもの。企業における不買運動に相当するような一般生活者の集団ボイコットが可能であれば、きっとそれが一番強力なのではないか、と思ったりします。

例えば、納税拒否って、巧妙かつ組織的にやれば、かなり有効だったりしないのでしょうか? 薄く広く、みんなで一斉にやれば、そう簡単に摘発できない気がするし、暴動を起こすよりは、ずっと可能性があることのような気がしたりするのですが……。そういう、実現可能な非合法って、反政府の人たちは、良いアイデアを持っていたりしないのでしょうか?

実現の可能性は薄いだろうと思いますが、すくなくとも、そこまで想定して覚悟を決めれば、政治的な無力感は払拭できるんじゃないかな、と思ったりします。

もちろん、見て見ぬ振りをしたり、曖昧にやりすごすしたり、逃げたりするのも、とても大切な智恵だと思いますけど。

P. S. ちなみに、今、日本でもさかんに行われつつある街頭デモは、――参加する予定はないですが――どんどんやれば良いと思います。事前に関係機関に届け出るところからはじまって、デモを実現するのは、相当、手間と労力がかかるはず。揶揄するのは簡単ですけど、そのエネルギーは、尊重すべきと思います。その上で、もっと何かできないのかな、と思うわけです。(乱暴な意見だとは思いますが……。)


2003年3月21日(金)

私は、大学で音楽学というのを専攻していました。研究室には、日本の民族音楽学の草分けのひとりのような先生がいて、私も、民族音楽(いわゆるワールド・ミュージック)の基礎もひととおり勉強しました。

民族音楽研究の基本は現地調査(フィールドワーク)。そして現地調査で重要なのは、研究者の思いこみ(先入観)を排して、相手の文化を尊重すること。でも、言うのは簡単ですが、現場では色々なことが起きるようです。

大学の先輩が調査に入ったボルネオの狩猟・採種民族の村では、狩りのあとの酒の席で、各人の排便(うんこ)自慢がはじまるのだそうです。「俺は、今日、こんに立派なのを出したぞ」云々、と。

この先輩は、探検部出身で、生きている虫をつまんでそのまま食べたりするタフ(と言うのか?)な人なので、面白がっていたそうです。でも、潔癖で繊細な人だったら、つらい状況かもしれませんね。

先輩の解釈によると、彼らは、自然(=神が宿る場所)から得たものを、体内に「入れる」こと(=input)と、消化物を「出して」自然(神)に帰すこと(=output)を、どちらも、神と交流する重要な行動と位置づけているのだそうです。

ちなみに、彼らの間には、鳥の声(=神の声)を聞き取り(=耳に音を「入れる」=input)、それをまねて歌う(=声を「出す」=output)という「鳥の聞きなし」がさかんなのだとか。「食事・排泄」(食物を「入れて」「出す」)と、音楽(音を「入れて」「出す」)が、彼らの文化では、パラレルな構造になっているようです。

幸か不幸か、彼らは、糞尿を偏愛する「スカトロ趣味」だったわけではないみたい。(^^)

残念ながら、アラブについて、私は具体的なことは知りません。でも、何かあるんだろうな、という感じがずっとしています。多くの人がそう思っていると思いますが……。

ブッシュの戦争を、一昨年のテロや10年前の湾岸戦争と関連づけて正当化する見方があるようです。でも、過去にさかのぼるなら、その当時から再三言われている、イスラム世界とアメリカの軋轢をあわせて考えるべきなのではないでしょうか?

「イスラムとアメリカ」というそのものズバリのタイトルの本を書いた東大の山内昌之先生が、最近、NHK教育で世界史の講座を担当しておられるようです。番組タイトルも、放映スケジュールをよく知らないのですが、何度か偶然、観て、イスラム世界の価値観を、とても上手に紹介しているなあと感動しました。

確かに、フセインは独裁者なのでしょう。身を守るためだったら、交渉を引き延ばすくらいのことはするでしょう。でも、そうした障害は読み込んだ上で、辛抱強く、決定的な証拠が見つかるまで待つべきだと思います。「ボルネオ人はスカトロ趣味だ!」式の勘違いの可能性は極力排除すべきだし、そのための手間を惜しんではならない気がします。

また、フランスやドイツの戦争反対は、かなり戦略的だ、という意見もあって、それも一理ありそう(F1やFIFAを見ていると、ヨーロッパの大人たちは、とんでもなくしたたかだと思います)。でも、同時に忘れてならないのは、ヨーロッパが、歴史的にイスラム世界と何百年もつきあっているし、今もヨーロッパには、イスラム系の人たちが、たくさん住んでいるということ。ヨーロッパにとって、イスラムとの関係は、「気に入らないから一発殴る」では済まない長期的な課題なのだと思います。

既に、9.11テロの直後から、この種の話は、再三、色々なところで見かけることのような気がしますが、そういう言葉が耳に入らない(聞きたくない? 知らなかったことにしたい?)人たちが確実にいるみたいですね。

アメリカの戦争ヒステリーの治療は、イラクとつきあうのと同じくらい手間がかかりそう。こういう人たちは、反対されると、ますます使命感に燃えそうですし。

(一方、日本の小泉純一郎くんは、一昨日の午後、国会の党首討論の中継を見ていたら、何度も、薄ら笑いを浮かべていました。戦争の是非を論じているのですから、状況を考えたら、普通、笑いませんよね。ひょっとしたら、内政問題から矛先が逸れて、首相の座はひとまず安泰という安堵の笑み、彼は保身しか考えていないということでしょうか。まあ、野党の追及は甘かったですし、余裕の笑みは、議論の相手を挑発するディベートの技術なのかもしれません。と同時に、「理想論では済まないのだよ」と野党をあざ笑っているようにも見えました。現に、日本の対応については、そういう意見が多いみたい。でも、日米同盟がこの先、有効に機能するなんていうのは、それこそ「理想論」だと思います。戦争に反対している人は、何もするなと「反対のための反対」を唱えているわけではなく、まだ待て、焦るな、と言っているのだと思います。そして、私は、言うまでもなく政治の部外者、「外野」ですが、「外野」だからこそ自由に言えることがあるし、「外野」にもわかるような透明性は大切なことだと思っています。)

別に目新しい論点はどこにもないと思いますけれど、自分の考えを整理するために作文しました。


2003年3月20日(木)

私は、アメリカが行おうとしている殺戮と、それを全面支持している日本政府に反対です。

何ができるということはないんですけど、ちゃんと、言葉にしておこうかと思ったもので。今日は、それだけです。


2003年3月19日(水)

パムフェス2003は、大盛況だったようですね。スタッフの皆さん、お疲れさまでした。参加やお手伝いはできませんでしたが、その分、PAG-J配布のDOCを少しずつ読んで、楽しませていただいています。本当に読み応えがありますね。(^^)


2003年3月5日(水)

TG50、発表になりましたね。本日夕方、大阪、心斎橋のソニータワーで、実物を見てきました。キーボードがあって、メニュー呼び出しのボタンがあって、これなら、パームが初めての人(おじさん?)でも迷わないでしょうね。癖がなくて。アルミのつや消しは、なんとなく、電子辞書を連想しました。

TG50は、Tシリーズ(私はクリエの中で一番好きかも)の後継と言われていますが、機械そのものやデザインでTを受け継いでいるという感じはしなかったです。ビジネス向けという方向性を強化、継承したということなのかもしれませんね。これだけわかりやすく作っておけば、買ってすぐ使えると思ってもらえるだろう、と。

同じキーボード付きといっても、treoとは、デザイン(キー配列とか、ハードキーの位置とかフリップカバーとか)も、サイズも、別物ですね。


2003年3月3日(月)

iBookにATOKを入れました。(ことえりも、辞書を替えたらかなり変換効率が良くなると聞いてはいたのですが、どうも変換のクセに馴れることができなくて……。)ATOKは、ユーザ辞書もWindowsでずっと使っていたものを持ってきたので、今までとまったく同じ感じで使えそうです。

ただ、キーバインドは、ことえり、気に入ってました。特に、「control+K」でカタカナ変換というのをよく使いました。(音楽関係の辞書にまずないような人名・外来語を入力するのに便利。)そこで、ATOKのほうも、キー配列だけは「ことえり風」にカスタマイズ。PCでは、「VJE」のキーバインドが、ことえりに近いらしいですね。



all these contents are written in Japanese
by 白石 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)