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[補足] 聴き手の自由について

 音楽の著作権について、先にチャート的な文章をまとめましたが、その時、ひとつだけ、そこに盛り込むことができず、内心、気になっていることがあります。

 それが、「聴き手の自由」とでも言うようなお話です。

 音楽の作者を尊重する、それはいい。その重要性は、繰り返し真剣に考え、受け止めなければいけない。

 でも、もし、そういう態度「だけ」が、あまねく浸透してしまったら(=「作者の意向」が常にすべてに優先する、という極端な状況に万が一なってしまったら)、おそらく、音楽の世界は、かなり窮屈になってしまうと思います。そして、

「誰がなんと言おうと知るか、オレはワタシは、気に入ったものを、気に入ったやり方で楽みたいんだ!」

 というような欲求が、澱のように蓄積して、いつか人は「逆ギレ」してしまいそうな気がします。

 実際、「音楽の著作権」とか「楽曲を作った人の立場」とかを口にすると、しばしば、周りがヒイてしまっている気配を感じることがあります。どうしても、「優等生的」(=良心派的?)、オールマイティ的に受け止められてしまうみたいなんですよね。

 音楽研究家の間でも、特にクラシック音楽は、作者(作曲家)を尊重しすぎなのではないか、という声があります。

 例えば、渡辺裕という人は、そうした反省を日本で唱える急先鋒だった人で、彼の『聴衆の誕生』(1989年、春秋社)という本は、18,19世紀のヨーロッパの聴衆が、作者偏重の空気の中で、いかに窮屈な思いをしてきたか(演奏会で「作者に失礼のない」お行儀を要求されるetc.)、そして、20世紀前半のアメリカや1980年代の日本で、どうやって、より自由な音楽聴取が模索されてきたか、ということを試論的にまとめています。

 そして、増田聡君(渡辺氏の弟子のひとり)は、こういう議論を前提に、音楽の著作権をめぐる議論を、聴き手の自由などの視点からラディカルに組み替えられないかと模索しているようです。

 実は、このあたりの話は、私にとって、すこし生々しすぎる話題だったりします。渡辺氏は私の大学時代の研究室の恩師のひとり、増田君は後輩です。そして学生時代の私は、「作者偏重」の守旧派の代表ということになっていました。

 だから、本来ならば、この話は、彼らの目に触れないだろう、この場所で、遠吠えのように語ってはいけないような気がしています。そして、私は、彼らの前できちんとこの話ができるほど、この問題をきちんと咀嚼できてはいない……。

 でも、音楽の著作権という話題の流れとしては、「聴き手の立場」の話は、避けて通れないことだろうなあ、とも思っています。

 (そして、ややコジツケ的ですが、ユーザーにとっての快適さを「Zen of Palm」というスローガンのもとに探っている、パームの世界にいると、この種も話題について、啓発される部分が少なからずある(あった)と感じています。)

 とりあえず、今は、こうしてトピックだけを立てておいて、機会があれば、少しずつ具体的な話を書き継いでゆこうと思います。

 以上、一応の決意表明。ちょっと生硬で青臭い文章なので、もしかしたら、消してしまうかもしれませんが……。

P. S.
 まだ、実質的に何かをここで提言できているわけではないので、ここまでお読みくださった奇特な皆様、しばらく、静かに見守ってやってくださいませ。m(_ _)m


all these contents are written in Japanese
by 白石 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)