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歴史カテゴリ−としての「新しい音楽」

カール・ダールハウス

Carl DAHLHAUS, "'Neue Musik' als historische Kategorie", in: ders., Schoenberg und andre: Gesammelte Aufsaetze zur Neuen Musik, Schott 1978.


 新しい音楽の概念は、20世紀に成立した作品の一部を他の大多数から区別するのに役立っており、無反省に使っていると含蓄がありそうだが、概念を分析しはじめると空疎であったり、矛盾が目立ったりする。新しさの本質が一回的な瞬間と結びついた質なのだとすると、それを50年も続いた時代のレッテルに使うのはおかしいのではないだろうか? 一回的な経験を指す概念が、歴史的なレッテルにねじ曲げられている。そしてこの15年来の前衛をかつての新しい音楽と区別するために、「最も新しい音楽」という最上級を使うような奇妙な事態まで到来している。

 しかし、新しい音楽という表現を時代名に固定するのは、逆説的なことだが、歴史家の用語法に影響しているといえなくもない。アルス・ノヴァという名称は、14世紀の新しい記譜法(ars nova notandi)を意味していたのが、1320年から1380年のフランス音楽の総称になっており、このことは、本来の意味に基礎づけられたのではなく、新しい音楽という時代名を無意識に受け入れたことに基礎づけられているかもしれない。歴史家は、歴史用語を作るときにも、現在の言語習慣に依存するのである。新しさを時代全体の本質と説明するのは、いずれにしても14世紀には疎遠な発想であった。

 だが、そもそもアルス・アンティクァやアルス・ノヴァを時代として話題にすることにどのような意味があるのだろうか? ごく控えめに反省してみただけでも、アルス・アンティクァが1250年前後には新しい音楽であり、アルス・ノヴァが1380年前後には古い音楽だったということにならないだろうか? 歴史家は、「アルス・ノヴァ」と「ヌオヴァ・ムジカ」のような奇怪な作品名を大げさに強調する傾向があり、まるで歴史の精神が切れ目を儲けようとしてこれらのタイトルを指示したかのように考えているが、これはどういうことなのだろうか?

 新しさの概念は、エルンスト・ブロッホが言ったように邪悪であり、歴史カテゴリ−としては、避けられないと同時に、ぐらついている。避けられないのは、歴史学の対象が変化であり、固執や均質な繰り返しではないという些末な意味においてである。ぐらついているのは、歴史は連続性として把握されねばならないという原理から考えて、新しさも古さにどこかで帰着させられるだろうからである。新しさを歴史的に説明できるのは、それがもはや新しくないかぎりにおいてである。新しさはそれ自身からではなく、その反対から見て、それに還元できない残滓として理解される。新しさは、逆説的に言うと、歴史学本来の対象であると同時に、歴史学の余りである。

 心理学では、新しさが情報内容によるだけでなく、期待によっても測られる。新しさには、古さが関与する。つまり、新しさは革命の連鎖を続けるか、さもなければ、数百年続いた正統な伝統に対抗して主張される。多くの時代の教会音楽のように変化がほとんどない領域では、習慣へのごくわずかな攻撃が転換とみなされる。反対に、近年袋小路に陥った観のあるポスト・セリ−音楽では、音楽思考そのものを転覆させる変化があったときに、それが事件として把握され、受け入れられる。

 さらに、新しさには、音楽の様々な層で別の尺度がある。しかもそれは、ただの段階的な差異ではない。新しいという判断は、ポピュラ−音楽におけるのと、秘教的な音楽におけるのとで意味が違う。娯楽音楽では、何を新しいと考えるのかということが、その歴史をめぐる考えに依存する。そして歴史的な発展を話題にできるのか、それとも流行の交替と言ったほうがいいのか、よくわからない。だが、去年の流行と入れ替わったに過ぎない新しさは、期を画する歴史的な事件と比較できない。ジャ−ナリズムの言語は、流行を事件として書き立てて、事件を流行と見下すので、違いがわからなくなるのだが。

 音楽における新しさの概念をめぐる困難と逆説は、数行で解決できるものではない。だから、新しい音楽の時代と感じられたものを他の時代と区別するのか何なのか、ごく大まかに素描するに留めることをお許し願いたい。「アルス・ノヴァ」や「ヌオヴァ・ムジカ」のような作品名を強調しすぎることに疑いを抱き、歴史家は歴史の切れ目を強調しすぎると不審に思うのもよくわかる。だが、それは正しくない。アドリアン・ヴィラ−ルトが1559年にモテットとマドリガルの集成に与えた「アルス・ノヴァ」というタイトルが音楽史上のひとつの時代の名称だと主張されたことはないが、ヴィラ−ルトが新しい音楽を基礎づけたという命題を基礎づける証拠はかなりある。ホモフォニ−書法と表出的な半音階は、ヴィラ−ルトの弟子ツァルリ−ノのルネサンス意識や、モンテヴェルディの主要を思わせるし、やはりヴィラ−ルトの弟子であったシプリアン・ドゥ・ロ−ルは、第二作法の最初の作曲家であった。1600年前後の新しさは別のものに代表されるが、ヴィラ−ルトの伝統を引き継いでいると思われていた。

 それにもかかわらず、歴史家が歴史の切れ目を特定して、その意味を判断しようとするとき、どうしてカッチ−ニのモノディであって、ヴィラ−ルトのマドリガルをヌオヴァ・ムジカとみなさないのだろうか? 疑問を敷衍すると、1320年、1430年、1600年、1740年、1910年の事件は、1500年、1680年、1780年、1830年、1950年に起きたことより重要だったのだろうか? ジョスカンの「完全なアルス」やハイドンの「新しく特別な方法」は、デュファイの「耳に快い対位法」やヨハン・シュタ−ミツの交響様式ほど歴史に関与していないのだろうか? ある時代が強調的な意味での新しさで形容されるのは、質的な差異によるのか、それとも段階的な差異によるのだろうか? 切れ目の深さが問題なのか、それとも切れ目の性格なのだろうか?

1 新しさの概念をとりまくイメ−ジの複合体を分析すると、最初に思いつくのは、些末だが驚くべきモメントである。つまり新しさは、100年か200年続く長い発展の始めの段階であり、中間や終わりの段階ではない。1500年前後のネ−デルランド楽派や1800年前後のドイツ楽派のような古典は「新しい」の形容と結びつかないし、14世紀のアルス・スブティリオ−ルや16世紀の表出的な半音階のようなマニエリズムも同様である。しかし表現性格や作曲技術に関して、シュトックハウゼンの言う「発見と発明」という具体的な新しさの度合いが、始めの段階において、中間や終わりの段階のそれよりも原理的に大きいというのは、根拠薄弱な主張である。強調的な意味での新しさが話題になるとき、そこで新しいのは、すでに達成されたものではなく、予告された未知の可能性である。1601年の「新しい音楽(ヌオヴァ・ムジカ)」であったカッチ−ニのモノディは、先行するルカ・マレンツォなどのマドリガルに比べると、予想より貧弱なのではなく、積極的に新しい。進歩は還元にもとづいていた。そして、それでもモノディが17世紀の新しい音楽と感じられるのは、そこから帰結が導かれたからである。幼稚なものへ逆戻りすることは、長い発展の前提であった。1600年前後の新しい音楽は(1430年前後や1750年前後もそうだが)、未来を示唆する性格をもつ。それがそうであるものではなく、そうであり得るものによって、新しい音楽の概念が目指すような新しさが測られる。それが示す貧弱さは、いわば未来の豊かさを約束している。

2 新しさは古さとの対立を自覚しており、反省や反論の傾向をもつ。反論は、切実であるほど、それだけ一層理不尽に思える。対位法の圧倒的な伝統を挑発したヴィンツェンツィオ・ガリレイとフィレンツェのカメラ−タは、抽象的な音楽の尺度で測ると党派的で奇妙である。彼らがそれでも画期的なのは、新しさを文章で代弁したド−ニなどが成果をあげたからである。そして同じように、1740年前後にジャ−ナリズムが影響を行使して、様式転換という感情を言語で助長したことを見下してはいけない。

 歴史家は時代の分裂を象徴的な事件によって素描することを好み、過去の論争を驚くほど真面目に受け取るものだが、新しさにとって、反論が強烈に記録されることは、画期的とみなされるのにむしろ有利に作用する。モ−ツァルトによるオペラ・ブッファの改革が、グルックによるオペラ・セリアと抒情悲劇の改革に劣らないほど重要だといってもおかしくはない。しかし他方で、グルックはジャ−ナリズムの目にとまったが、モ−ツァルトは無視された。そして改革オペラに権威を与えたのはジャ−ナリズムであり、これも作品ともども歴史的事実であった。時代の産声は、追随者によって成就される預言に似ていることがしばしばである。

 音楽をめぐる文献は、文学をめぐる文献と同じように、事象そのものに属している。音楽を聴いて指摘されることは、音楽について読まれたことに部分的に依存する。音楽の知覚は読書の思い出、文学的記憶の痕跡に冒されている。しかも孤立した「純粋に音楽的」な聴取に努めることは、せいぜい150年の歴史しかない感性意識の要求であり、これもま た文学に媒介されている。文学的なものは、音楽の部分モメントであり、そのつどの新しさ、それ自身だけではよくわからない新しさにおいてはなおさらである。

3 新しさの概念が一瞬だけでなく、時代を通じて持続するのは、新しい音楽の傍らに古い音楽が存続していたときであるように思われる(17世紀の第一作法のように周縁の伝統としてであれ、20世紀におけるように支配的な伝統としてであれ)。そして1740年前後の新しい音楽のようにライヴァルが数年で死滅した場合には、新しいというレッテルが必要なくなる。

 しかし新しさの本当のライヴァルは、古いと思われている音楽ではなく、「中庸な現代派」(ロベルト・シュ−マンが言う「ただの中道」)か、あるいは音楽がことの自然に基礎づけられて歴史を超越していると主張する教条主義である(この主張は、ヒンデミットの『作曲学の手引き』とフックスの『パルナソスへの階梯』に共通する)。

 リュッティヒのヤコブスによる14世紀のアルス・ノヴァへの批判は諦めに満ちている。新しさが表出的だと嘆かれるが、その存在権を原理的に拒絶していない。ヤコブスは、抵抗を覚えながらも、アルス・アンティクァがすぎさったことを意識していた。

 1600年前後のアルトゥ−ジとモンテヴェルディの論争は違う。17世紀の新しい音楽であった第二作法に対立したのは、アルス・アンティクァではなく、それを擁護する者にとって時間を超越していた教条主義であった。ツァルリ−ノは1553年に、まるで音楽の自然権であるかのように教条を法典化している。18世紀に鋳造された「純粋な書法」の概念が「純粋な教説」の概念を想起させるのも偶然ではない。モンテヴェルディは古い様式と新しい様式を区別すると同時に、音楽技術の自然な基礎づけと歴史的な基礎づけの間の矛盾をも考えていたかのようである。第一作法の特徴は、自然法則のような外見を整えた教説として定式化されたことであり(フックスもまだ、趣味の交替が、対位法という同じ実体の束の間の衣装だと考えていた)、第二作法は、同時代の人々にとってもすでに歴史現象として意識されたし、その発展段階は、マドリガル、モノディ、協奏様式と相互に区別された。そして歴史的と考えられたからこそ、モンテヴェルディが第二作法の概念にマドリガルのポリフォニ−と初期オペラのモノディをまとめることができたのである。

 19、20世紀の美学と歴史理論では、新しさが「ただの中道」、すなわち理性的な中庸と対峙しており、古さは、むしろかつて新しかったものと考えられたので、新しさの基礎になり、敵にはならなかった。歴史意識は、骨董趣味ではなく、歴史における絶えざる新しさの意識であるかぎりにおいて、進歩の道具になる。そしてそれは、革命の伝統という逆説的な概念として、ベ−ト−ヴェンから、ベルリオ−ズ、リスト、ワ−グナ−を経て、シェ−ンベルクまで続いている。敵は中庸である。シェ−ンベルクによると、中庸はロ−マへ通じない唯一の道である。

4 伝統とは自明なもののことであり、支配的であるかぎり反省されない。それは、解体の危機や疑念に襲われたときにようやく、そのようなものとして意識される。そして伝統が緊張した自意識にとらわれると、伝統は自らを守ることをやめる。

 ライヴァルからみると、伝統は古さであり、歴史的に判断されるものになる。そして反対に、古さは、それを自認するものにとっては伝統、すなわち持続する自明性であって、滅びゆく過去ではない。つまり古さの概念は、新しさという対立概念もそうだが、中立的カテゴリ−ではまったくない。新しいものの側から古いとみなされるものは、1600年前後の制御された対位法であれ、1740年前後のバスに支えられた音楽のイメ−ジであれ、1910年前後の調的和声であれ、それを信奉する者にとっては自明であり、古くない。自然に明白だからである。有機体モデルは、音楽が老いを免れないとイメ−ジすると新しさを弁護する歴史図式になるが、作り物と対立する成熟の概念は、保守的カテゴリ−である。

5 新しさを軽侮する者と称賛する者は、別の感情を抱きながら、ある同じ見解を共有している。曰く、新しさは、唐突であるほど一層深刻に、歴史の連続性を断絶させる。1600年前後には、伝統との差異が峻烈に感じられていたのが間違いない。−しかしそれにもかかわらず、古さへの反発を強調するのは間違っている。既存のものが粘り強い力をもつのと比べて、成功した革命は奇妙なほど無力である。新しさは、まだ不確実なときには、古さを解消せずに傍らに残す。17世紀にも、20世紀にも、新しい音楽である第二作法が、古い音楽を補完的対立として容認した。そして1740年前後には、さしあたり古い様式が消失して、「博学」が「ギャラント」に唐突に駆逐されたが、一世代あとになって、ハイドンの作品20以後の弦楽四重奏曲とモ−ツァルトのバッハ回帰によって、軌道修正された。1740年前後の急激な転換は抽象的な音楽史によって、つまり孤立した問題史として把握できることではなく、社会史的な基礎づけが必要である。しかし反対に、数十年後に対位法の断絶した伝統が復興したのは、いわば音楽史に内在する論理を貫徹しており、社会史のモメントと無関係である。

6 新しさは伝統の支配と対峙するが、しばしば抑圧された伝統に由来する。それは下剋上に似ている。地方的であったり社会の周縁にあったために、それまでほとんど注目されないか見下されていたものが、中心に躍り出て、支配的様式を規定する。

 ヨハネス・ティンクトリスが時代の始まりと讃えたような1430年前後の新しい音楽は、大まかに言って、地方的であったイギリス、イタリアの技術と様式を数百年来の覇権を誇っていたフランス音楽が導入することで成り立っている。フォ−ブルドンをデュファイが受け入れて、人工的に読み換えたのが決定的なモメントであったというハインリヒ・ベッセラ−の仮説が適切だとすると、15世紀の音楽における新しさは、それまで遠ざけられていた些末なものを高級化した結果だといえるだろう。

 様式転換では、それまで二次的であった伝統が前景に迫り出すという仮説は、低級音楽が「堕落した文化財」だというハンス・ナウマンの主張を補完する。そして17世紀のヌオヴァ・ムジカであったカッチ−ニのモノディも、少なくとも部分的に、16世紀までさかのぼる周縁的な音楽実践の手法(バスモデルに支えられた即興歌)を人工的に定式化している。モノディは、1600年前後に唐突に−ポリフォニ−からの反転として−生まれたのではなく、要求の低い機会音楽を支配的様式へ高めたのではないだろうか。

 18世紀の新しい音楽が信奉者から大衆的だと讃えられ、反対者から些末だと軽侮されたのはよく知られているので、ハイドンに対する北ドイツの批判を詳細に引用するまでもないだろう。これに対して、あまり目立たないことだが、19世紀前半にも、新しい様式が古い様式の周縁的なモメントと結びついている。ロマン主義を特徴づけるジャンルであったリ−ト、抒情的ピアノ曲、標題音楽は、どれも1820年前後に高級化されるまで、人口に膾炙していたのに日の当たらない、二次的ジャンルであった。しかし他方で、1910年前後の様式転換では、音楽の新しさが周縁的ないし些末な伝統の高級化だという説明が成り立たない。なるほど20年代の新即物主義にはこの図式があてはまる。だが、歴史理論の仮説が適切に思えるからといって、シェ−ンベルクの無調への移行が今世紀前半の音楽において決定的な事件であったという確信を疑う必要はないだろう。

7 音楽の新しさは周縁的であった伝統と結びつくことが多いという観察は、様式転換が「趣味の担い手の類型」の交替と結びついていたという文学社会学者レヴィン・シュッキングの命題を思わせる。変更された趣味は、別の社会層、新しい公衆の趣味である。しかしシュックングの一見啓発的な説明図式を音楽史へ転用しても上手くいかない。音楽史の切れ目は、社会史のそれと一致しない。

 14世紀のアルス・ノヴァは同じ「literati」に支えられていた。グロケオのヨハネスの証言によると、彼らが1300年前後のモテットの公衆であった(教養人の秘かなサ−クルを公衆と呼ぶのが許されるとすれば)。アルス・アンティクァとアルス・ノヴァは、音楽がまったく違うかもしれないが、社会的な違いがない。そして100年後の1430年前後の切れ 目も、「趣味の担い手の類型」の交替を意味しない。ディジョンのブルゴ−ニュ宮廷の社会構造は、1400年前後の音楽のマニエリズムであったムジカ・スブティリオ−ルの中心地アヴィニョンの教皇宮廷のそれと原則として同じであった。

 17世紀初頭のモノディは秘教的な音楽、人文主義貴族のサ−クルの芸術だったが、16世紀のムジカ・レゼルヴァ−タ、マドリガルの表出的なポリフォニ−芸術を支えたのも彼らであった。音楽史的な新しさが、社会的には伝統に支えられている。

 1740年前後の様式転換が市民音楽文化の成立と関連するというのは、学問の常識になってしまっている。だが、この単純でわかりやすい仮説は、啓発的かもしれないが、信用できない。第一に、18世紀の市民文化の背後には16世紀のそれがある。第二に、傑出した市民国家であるイギリスは、ヘンデルの死後、音楽史的に意味を失った。そして第三に、18世紀にはメタスタ−ジオ類型の宮廷でのオペラ・セリアが、その市民的対抗物であるオペラ・ブッファと同時に発展した。文学における啓蒙が市民の時代だったが、音楽における啓蒙はそうではなかった。

 最後に20世紀においても、様式転換と「趣味の担い手の類型」の交替には関係がない。新しい音楽の公衆は、特殊な公衆だが、従来の音楽のそれから具体的な社会学的基準で区別することができない。それでも区別が成り立つのである。

 他方で、「趣味の担い手の類型」の概念が細分化されねばならない。音楽史において決定的な集団が、音楽社会学的に代表的である公衆と一致するとはかぎらないからである。音楽社会学の代表概念は曖昧である。それは、些末さへ傾斜してそれを否定しない大量の聴き手ではなく、その趣味が公論の最上位に位置づけられるような集団である。経験的に調査すると、おそらく、室内楽演奏会と交響曲演奏会の聴き手が、自己判断によっても、大多数の判断によっても、支配的な「趣味の担い手の類型」だということになるだろう。反対に、新しい音楽は社会に受け入れられないことに耐えている。「現代の音楽」が日常的に意味するのはジャズである。しかし音楽社会学の基準によると少数派である集団(ライヴァルから「シェ−ンベルク・クラブ」と呼ばれた「私的音楽演奏協会」など)が、音楽史的に振り返ると決定的である。歴史への関与度と社会への関与度は分裂して、新しい音楽を支えつつ社会を代表する集団など存在しないかのようであり、「趣味の担い手の類型」の概念は空疎なものになっている。

8 1600年前後や18世紀半ばに期を画した新しい音楽は、それが駆逐した古い音楽よりも貧弱であった。破壊された伝統に照らすと、新しいものは、みすぼらしく退化しているかのようだが、これを素朴だと誤解してはいけない。カッチ−ニやモンテヴェルディのモノディにしても、150年後のシュタ−ミツの交響曲とカ−ル・フィリップ・エマヌエル・バ ハのソナタにしても、計算に依存しており、狂暴なほどに構成されている。新しさは、異常に細分化されたポリフォニ−への発展に反発して背を向けているが、とらわれなく幼稚だというより、マニエリスティックである。始まりは単純であり、単純なものには大衆性(不当にも、マニエリズムに対立すると考えられてきたもの)があると思っていると、この事実を見誤る。

 マニエリズムが固有の権利をもつ様式であり、堕落形式でないことを否定する者はいないだろう。しかし他方で、それが後期的な段階であり、発展の最後だという先入観は根強い。当惑を乗り越えてマニエリスティックな形象と取り組むときに見えてくる実験性は、帰結を誘発する始まりであることを含意しているというのに。

 ヘルム−ト・フッケがマニエリズムと考えた1600年前後のムシカ・レゼルヴァ−タは、マドリガル以外にモノディ、しかも後年のサラセ−ニやベ−リの表出的で半音階的なそれではなく、単純さという様式の仮面をかぶった初期モノディをも含んでいた。カッチ−ニは対位法に反発していたが、マドリガルとモノディは、対立する「2つの音楽文化」−−アウグスト・ハルム風に言えば−ではなく、第二作法というひとつの様式のなかにあって、相互作用で結びついた両極の形式だと思われていた。第二作法は、モンテヴェルディによると16世紀半ばまでさかのぼり、シプリアン・ドゥ・ロ−ルやマレンツィオなどのマトリガル作家をも含んでいる。だが、期を画したことが否定できない第二作法がマニエリズムと把握できるとすると、マニエリズムが後期段階でそのあとは没落するしかないというイメ−ジや、始まりがいつも大衆的で単純だというそれと相補的なイメ−ジを廃棄せねばならない。有機体モデルは、歴史理論の図式として疑わしい。

 18世紀のマニエリズムはめったに話題にならない。なるほどマンハイム楽派の交響曲のシンタクスが分断されていることや、効果的なデュナ−ミクが楽曲構造から発展するというより、それ自身の力に導かれていることはマニエリスティックである。しかし文学や芸術史に対応しない音楽のマニエリズムを叫ぶにはためらいがある。そのかわりに、文学より数十年先行した疾風怒涛が話題になる。

 マレンツィオとジェスアルド、シュタ−ミツとフィリップ・エマヌエル・バッハ、のちのベルリオ−ズ−これらすべてのマニエリストに共通する特徴的なメルクマ−ルがあれば、レッテルは何でもいい。そしてそれは、技術の誇示と極端な表出の交差である。手段が結果に完全には解消されない。手段は隠されず、むしろ展示されている。他方で計算とアフェクトが密接に結びつき、排斥しあうのでなく、弁証法的に連関している。フィリップ・エマヌエル・バッハのソナタとファンタジアの表出が素朴だと信じるのは、そのこと自体が素朴である。

 技術の理性と感情表現を抱き合せる者は、「不純」で「作り物」の言葉を語っていると批判される。反論するとすれば、役割として演じられた感情を「不純」というのはナンセンスである(音楽のアフェクトは劇場のそれと似ていなくもないのである)。美学では、「不純」が疑わしいカテゴリ−だが、このカテゴリ−を破壊することこそ、マニエリズムの理論の課題なのではないだろうか。

9 期を画す新しい音楽は、広範な帰結を生み出すことによって、始まりそのものが萌芽的であっても許される。決定的なのは、新しさが孤立した作品として直接的に何を意味するかではなく、歴史的な事件として間接的にどう作用したかである。カッチ−ニとペ−リのフィレンツェのオペラは新しい音楽の典型である。歴史への影響がなければ、それは無数の古代趣味の実験のひとつにすぎなかっただろう。そして歴史家は、人文主義の讃歌作曲や、ニコラ・ヴィンチュンティ−ノのエンハ−モニ−と同じように一過性の現象と見下していたことだろう。

 新しさの概念は歴史作用の概念と切り離せないが、これは芸術史というより、政治史のカテゴリ−であるように思われる。結果を生まない政治事件は無であり、およそ政治事件ではない。ところが芸術作品は、歴史作用がなくても、芸術作品である。バッハは歴史的に何も始めなかったというアルベルト・シュヴァイツァ−の命題は正しいが、それでもバッハの意義は変わらない。音楽の歴史は作品伝承の歴史であり、相互に連関する事件の歴史に尽きないので、何が音楽の歴史に属するかという決定には、歴史判断だけでなく、美学判断も関与する。端的に言うと、音楽史記述のジレンマは、歴史作用と美学的ランクという2つの基準の間を往復せねばならないことにある。2つの審級は、しばしば補完しあっているが、対立することもある。音楽史家は、二重の真理という原理を操作する。そしてこのことは、新しさの概念と古典性の概念が対立するとき、明白になる。

 とりあえず単純に、一方が発展の始まりで、他方が頂点を意味していると考えられる。だが、新しさが歴史のカテゴリ−で、古典性が美学のカテゴリ−であることを思い起していただきたい。新しい音楽は、カッチ−ニのモノディやシュタ−ミツの交響曲のように前段階であり、歴史に完全に解消されて、いわば使い尽くされるが、一方、古典的なものは歴史から突出しているように思える。古典は孤立して完結した作品として生き延びる。ところが、新しさはそれ自身が生き延びるのでなく、後継者に解消される。新しさは、古典と違って、作品というより事件である。

 だが他方で、新しさは、シェ−ンベルクの第2弦楽四重奏曲やピアノ曲作品11に付着しているように美学のモメントでもある。はじめという質、「一番目」という質は、一見すると一過性のようだが、逆説的に持続する。50年過ぎても、それがほとんど目減りすることなく感じ取れる。しかもそれは、感性的な特性であって、歴史意識の迂回路を通過した間接的なただの歴史特性ではない。

 この試みは、20世紀だけでなく、14世紀や17世紀を含めて新しい音楽を話題にする習慣を動機づけ、もしかすると正当化しているかもしれないものの輪郭を大まかに素描したわけだが、新しい音楽の概念をこのように歴史カテゴリ−として分析したからといって、新しい音楽という歴史類型が繰り返し戻ってくるという枠組みを結論として提示しているつもりはない。ここでは、類似を示唆しただけである。そして類似は、結論ではなく、概念操作の手順であって、別の視点からみた以上に、一致点と相違点を明白に示すことをめざしている。時代を互いに関連づける共通点が、相違点ほど関与的でないという印象を受けたとしてもかまわない。枠組みを破壊するのは、むしろ歴史研究の常道である。歴史家は、利用した概念を細分化して、最後に解体してしまうものである。しかし、枠組み作りをはじめから放棄していると、デ−タは、自分から語り始めるどころか、沈黙してしまうのである。


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