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カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』

《タウリスのイピゲネイア》におけるエ−トスとパトス

 哲学と文学の古典者における音楽美学(カント、ゲ−テ、シラ−の音楽美学)は一方で古典的音楽美学であり、他方で音楽の古典の美学である、このようなイメ−ジは単純に腑に落ちるかもしれないが、あまりにも図式的で現実を正当に評価していない。現実における思想史と音楽史の発展は、時代精神があらゆる領域へ均等に浸透する、というドグマが要請するほど割れ目なく均質ではない。古典的文学者が、音楽の古典を代表する作品を古典的音楽美学の草案へまとめられる基準で判断することは、例外であり通例ではない。

 シラ−は、一八〇〇年にクリスティアン・ゴットフリ−ト・ケルナ−への手紙でハイドンの《天地創造》について、「性格のない混合物」で、反発を覚えた、と書いている。「反対に、私はグルックの《タウリスのイピゲネイア》に無上の喜びを覚えました。私は、いまだかつて音楽にこれほど純粋で美しく動かされたことはありません。これは調和の世界であり、まさに魂へ食い入り、甘美で気高い悲しみを発散します。」シラ−の大げさな言葉−「いまだかつて」グルックの音楽ドラマ「ほど美しく動か」すものがない−を理論的内包のない賛辞とみなすのは間違っている。この手紙は、むしろ深刻な美的経験を言葉でつかんだ表現と受け取られねばならない。この表現の意味は他でもなく、シラ−がグルックの《タウリスのイピゲネイア》に古典的音楽の理念−彼は『人間の美的教育をめぐる書簡』で、それが実現できそうもないと思ったのだが−の実現を目撃したということである。

 シラ−は、一七九四年に『人間の美的教育をめぐる書簡』を書いたとき、音楽の扇動的で感覚と感情を虜にする(そのかぎりで内面の自由を脅かす)力を音楽の第一の美的特性とみなした。第二二書簡に次のようにある。「もっとも霊感豊かな音楽であっても、真の美的自由に耐える以上に、その素材ゆえに感覚と親和している。」シラ−は疾風怒涛の表出美学(それは同時に感覚的なエフェクトの美学であった)を規範、理想としては放棄したが、音楽の現実の記述として保持した。そして彼は形式原理を一面的な感覚の扇動と対比したが、形式原理は当面、単なる要請、音楽美学のユ−トピアであった。「音楽は、最高に高貴な段階において内包になり[≪内包≫は≪形式衝動≫の帰結、≪素材衝動≫の対立審級である]、古代の静かな力で我々に作用せねばならない。」それは、そうあるべきだったが、そうではなかった。音楽の「最高に高貴な段階」にシラ−は魅了されたが、彼は一七九四年には、その実現をどこにも見いださなかった。

 だからこそなおさら、一八〇〇年(ワイマ−ルでの初演時)のグルックの《タウリスのイピゲネイア》の古典性の印象は強烈であった。シラ−が音楽に「動かされた」と感じたのは、感覚と感情へ作用する「素材的」な力のためである。だが、彼が「純粋に美しく動かされた」のは(「純粋に美しく動かされた」という表現は、ヴィンケルマンの「静かな偉大さ」という言葉とほとんど同じような逆説だが、この定式は、少なくとも形式衝動と素材衝動の対立する傾向を苦労してまとめようとしている)、「素材的」なものが作品の「内包」へ「止揚」されたからである。ケルナ−への一七九五年五月一〇日の手紙には次のように書かれている。「明らかに、音楽の力はその身体的、素材的な才能にもとづいています。しかし美の王国ではあらゆる力が、それが盲目であるかぎり[≪盲目≫という表現はカントが概念と区別して使った直観の語を思い起させる]止揚されるべきですから、音楽は形式を通じてのみ美的になります。ただし形式は音楽として作用せず、その音楽的な力[感覚と感情を扇動する力]において美的に作用します。形式がなければ、音楽は我々に盲目的に提供されますが、形式がその自由を救います。ところが美的なものを示すのは、自由そのものではなく、受苦において[音楽の感覚と感情への作用にさらされた受動性において]主張されるかぎりでの自由です。こうした受苦は音によって生み出されますし、このように音が我々へ影響し、我々の感覚と親和するのは、自然法則だけにもとづいています。一方、美的なものでは自然法則と同時に自由法則が優勢であるべきです。ですから、美しい[つまり扇動、≪刺激≫、≪お涙頂戴≫に限定されない]芸術として作用するには、音楽に性格が欠かせません。」形式ないし形態は、「我々の自由」を「救う」(感覚と感情への作用にさらされることへの抵抗体として)。そしてシラ−は「自由法則」を要求し、それゆえ「音楽に性格が欠かせない」と結論する。性格、すなわちエ−トスの持続において、感覚とアフェクトの力、我々を右往左往させる力に対抗する内面の自由が確保されるからである。シラ−がハイドンの《天地創造》を「無性格」(彼の美的判断が不当なのは言うまでもないが)と感じたとすれば、二つの作品の対比から次のように判断してもいいだろう。つまりシラ−にとって、《タウリスのイピゲネイア》では音楽の性格提示(そこには形式原理が透徹している)が決定的モメントであり、それがグルックのドラマを音楽における古典性の典型にしている。

 シラ−の一七九五年五月一〇日の手紙は、同じ年に『ホ−エン』に掲載されたケルナ−の論文『音楽における性格提示について』と結びついていた。(ドイツの古典的音楽美学は、一般の歴史意識では同時期のロマン的音楽美学の陰に隠れており、その輪郭が希薄に素描されているにすぎないが、そこで性格概念が中心的な意義をもつことは、ハインリヒ・ベッセラ−に認められ、ウォルフガング・ザイフェルトによって詳細に言及されている。)ケルナ−は性格とアフェクト−エ−トスとパトス−を対比した。「魂と呼ばれるものについて、我々は固執するものと流転するもの、心と心の運動、性格−エ−トス −と情念の状態−パトス−を区別する。音楽家がどちらを提示しようとするか、これがどうでもいいだろうか?」だが、どうして音楽で「提示を望まれるもの」が性格、すなわちエ−トスなのか−バロックの理論におけるようにアフェクトやパトスではないのか−、思考の歩みはさしあたり美学的議論に終始して、多様性における統一という紋切型で支えられているが、厳密に分析すると歴史哲学的構成が明らかになり、そこでは歴史的な段階進行の素描と美学体系の草案が相互に浸透しあっている。「[……]だが、音楽家には容易に狂気が生まれ、心の運動を自立したものとして感覚化してしまう。音のカオスを蔓延させることで満足し、情念のでたらめな混合を表現するとき、音楽家は容易に遊ぶことができるが、芸術家の称号を要求できない。反対に、統一の欲求を認識するとき、彼は情念の状態の羅列[すなわち≪情念のでたらめな混合≫]に虚しさを感じる。ここにあるのは多様性、絶えざる変化、生成と衰退だけである。音楽家があるひとつの状態へ留まろうとすると、それはひとつの流れ、単調で緩慢なものになる。彼が変化を提示しようとするとき、固執するもの[《性格》の統一]が前提になり、変化は固執において現れるのである。」(「固執するもの」を欠いた変化は、ケルナ−によると「カオス的」である。)ケルナ−のような古典主義者は、極端なものの間を右往左往する音楽の疾風怒涛の臆面のない表出性を、「情念のでたらめな混合」とみなした。「あるひとつの状態へ留まること」、すなわち「style d'une teneur」は、後期バロックや(部分的には)メタスタ−ジオのオペラ類型のメルクマ−ルである。「変化における固執」−心の状態の交替を基礎にした性格の統一−という定式で、ケルナ−は古典の中心的な美的理念をパラフレ−ズする。この理念は、「カオス的」変化という命題と「ひとつの流れ」への固執という反対命題の統合として現れる。そしてケルナ−とほとんど同じように、ヘ−ゲルは三〇年後(ドイツ古典美学終焉の時代)に、内面から作用する性格と人間にいわば外側から介入するパトスの関係を定式化した。「十全な個別性[閉じた性格]の内部で開花することで、パトスはその規定性において、もはや提示の唯一無二の関心として[バロックのアリアにおけるような静止するアフェクトの表現として]現れるのではなく、行為する性格の−主要面ではあっても−ひとつの関心にすぎなくなる。人間はひとつの神といったものを己れのパトスとして自らのうちに背負っているではなく、」−ヘ−ゲルは、神がパトスに囚われる、という解釈と、神がパトスの人格化として現れる、という解釈の間を揺れる−「人間の心は大きく広いわけで、ひとりの真の人間には多くの神々が宿っており、人間は、彼の心に神々の仲間内に分散していた力をすべて封じ込めている。オリンポス全体が人間の胸の内部にある。」

 ケルナ−は「音楽における性格提示」という美的理念を論文の最後で音楽理論的に精密化しようとするが、この試みは端緒にとどまっており、不十分である(ケルナ−を、マックス・フリ−トレンダ−がそうしたように「音痴」と嫌う必要はないにしても)。「響きの運動において、我々は持続の区別と特性[音質]の区別を見いだす。どちらも性格提示にとって非常に重要である。音の長さの交替における規則性−リズム−が運動の自立性を特徴づける[それは、心の状態やアフェクトの呪縛に対抗する内面の自由のモメントである]。我々がこのような規則に知覚するのは、生きた存在における固執であり、それはあらゆる別の変化[アフェクトは≪外側≫から魂へ介入するものとみなされている]から独立して主張される。」このようにリズムは固執として性格を提示するのだが、旋律(正確には調的構造)は、交替する心の状態の表現とみなされる。「旋律によってじかに提示されるのは、固執とは反対に流転するもの、生命の個々の瞬間における段階である。[……]旋律の統一は個々の音の主要音への関係にもとづくのだが、こうした関係には目標への努力、近づいたり遠ざかったりして、最後に目標へ到達して安定する努力が現れる。」ケルナ−がリズムと旋律(調性)をエ−トスの提示とパトスの表現として対置し、一方のリズムと他方の旋律(調性)の間に固執的モメントと変化的モメントの弁証法を語らなかったことには違和感を覚えるかもしれないが、おそらくこれは単純な対立項を好んだからではなく、次のことに理由があるのだろう。すなわちケルナ−は、「性格」の概念でどうしても形態(シラ−の意味での)を連想してしまい、旋律を統一と考えることはできたが、リズムと違って形態と考えることができなかった。ケルナ−によれば−フォルケルにおけるように−鳴り響く「魂の言語」が調的構造によって規定性を獲得するが、調的構造は彼にとって本来的に「音楽的」なモメントとみなされた。そして「音楽的」は、一八〇〇年前後の美学における対比体系では、「彫塑的」、「形態的」への対立モメントを意味した。

 エ−トスとパトスの対比というケルナ−の古典的音楽美学の草案の基礎となる対立項から、グルックの《タウリスのイピゲネイア》では作品の中心理念が育っている。この作品の内的な筋は、オレステスが背負うパトスをイピゲネイアに満ちたエ−トスが止揚することである。

 オレステスのパトスは、後期バロックとメタスタ−ジオ的オペラ類型における音楽修辞学の対象であるアフェクトから、ドラマにおける条件によっても、機能によっても区別される。そしてこの違いは、作品の歴史的な位置を規定する上で根本的である。それまでのオペラでは陰謀(それはドラマの技術として過小評価されてはならない)が駆動モメント、アフェクトの拡大を促すような状況の源泉として現れるわけだが、オレステスのパトスは運命に囚われている。そして音楽ドラマのバロック的理念と古典的理念の間には陰謀と運命の対立があり、この対立は非常に明確な断層を示している。

 「混乱ないし陰謀」は、クリスティアン・フリ−ドリヒ・フノルトによるとオペラの「主要な仕掛け」だが、それに対する美的判断は、孤立した現象からでなく、作品全体における機能から出発すべきであろう。従来のオペラ伝統の解体をグルックの音楽ドラマが論争的に際立たせたわけだが、こうした従来のオペラの形式法則(陰謀の効用と欠点はそれについてのみ測定されるべきであろう)は、一方の、個々の静止したアフェクトを描きあげるアリアの「style d'une teneur」と、他方の、アリアの連続を支配するコントラスト原理の間の媒介されない対比から成り立つ。「コントラストを作るアフェクトの数珠つなぎは、様式が転換したにもかかわらず、オペラ本来の魂にほとんど一五〇年間守り続けられた。」(ヘルマン・ア−ベルト)端的に表現すると、アフェクトこそが音楽ドラマを進行させるモメントであり、絶えざる発展(性格の)ではなく、唐突な交替(「情念の状態」の間の)が従来のオペラの基礎になる形式原理である。

 「あらゆるアフェクトの経過が主要事である。アフェクトは個々の形態へ分割されるが、自立した≪性格≫としての特権をまったく与えられていない。」(同上)含蓄のある作品では、アフェクトの交替がコントラストと段階づけを技巧豊かに組み立てる。これに対して個々のドラマ上の人格は−性格、すなわち異なる状況と心の状態を貫く刻印へと固定するのでなく−単なるアフェクトの展示場であり、アフェクトは天候の変化のように魂へ飛び込む。筋、すなわち陰謀は手段であり、アフェクト提示がドラマの目的である。これは対話ドラマでも歌ドラマでも変わらない。(バロックオペラが「非ドラマ的」であり、単なる「音楽オペラ」だった、というイメ−ジは非歴史的である。音楽は音でつかまれたアフェクトと理解された。だが、筋とアフェクトの間の手段・目的関係は、オペラと芝居が共有するドラマ作法の前提であった。「ドラマ的」性格や「非ドラマ的」性格を判定したいのであれば、オペラ類型を同時代のドラマと比較しなければ意味がない。陰謀と「混乱」(バロックオペラでは肯定的な用語)が不純に思えようとも、対話ドラマと、単なる「音楽オペラ」と誤解されている歌ドラマの間に原理的な違いはほとんどない。)

 後期バロックとメタスタ−ジオのオペラではドラマ上の人物が「ひとつのアフェクト」の寓意ないし擬人化だ、という主張は間違っているか、少なくとも粗雑な単純化である。だが他方で、人物が情念の交替の展示場か、いつも同じアフェクトを担っているか、という違いは二次的であり、この二つの可能性はひとつの原理から生み出される。従来のオペラ本来の構成的モメントは、「抽象ニオケル」アフェクト(ショ−ペンハウア−流に言えば)であって、人物ではない。グルックのオレステスのパトスはオレステス固有である。だが、ヘンデルのジュリアス・シ−ザ−を右往左往させるアフェクトは、幸福、あるいは陰謀の不幸に見舞われる人格から、原理的に切り離すことができる。シ−ザ−だろうが誰だろうが、愛のアリアに軍隊調アリアを続ける人物はどうでもいい。「抽象ニオケル」コントラストが決定的である。

 オレステスを動かすアフェクトとバロックオペラの人物の「情念の状態」の違いを、ヘ−ゲルは対話ドラマについて定式化した。「一般的な力は、対自的にその自立性において[つまり神々として]登場するだけでなく、人間の胸に生き、人間の心をその最も内面的なものにおいて動かすのだが、このような一般的な力は古代にならってパトスと呼ばれ得る。この語の翻訳は困難である。《情念》はいつも矮小で低級な副次概念を思わせる。我々は、人間が情念に陥るべきではない、と要求している。[……]この意味でのパトスはそれ自体で正当化される心の力であって、理性と自由意志の本質的な内包である。たとえばオレステスがその母を殺すのも、我々が情念と呼ぶような心の内面的な運動からではない。彼を行動へ駆り立てたパトスは、真摯で冷静な考量によっている。」「情念」への過小評価には、−「混乱と陰謀」をめぐる判決におけるのと同じように−バロックの伝統に対する古典主義的先入観がある。そしてヘ−ゲルがオレステスのパトスに「理性と自由意志」を見いだしたと信じたとき、彼は神話(それは、あまりとらわれのない目には盲目的な罪の連鎖と思える)を古典的に曇らせている。だが、それにもかかわらず、ヘ−ゲルによるパトスとアフェクトの区別は、一八世紀の音楽ドラマにおける様式転換の解釈の基礎となる洞察を含む。従来のオペラにおけるアフェクトは、陰謀のもつれがもたらす状況の交替から生じる。陰謀のメカニズムは、アフェクトのコントラストや段階づけの計算された配列(そこでは「情念の状態」が性格の統一の支えなしに「自立的なもの」として広がっている)と正確に対応するドラマ作法である。一方オレステスのパトスは、彼が陥る状況とは無関係であり、むしろ運命に囚われた「一般的な力」である。従来のオペラにおけるアフェクトの交替と唐突な反転は、グルックにおけるパトスの「単調」と対立する(ルソ−やアルテアガなど多くの同時代人は、《アルチェステ》へのカルツァビギのテクストを単調だと罵っている)。オレステスはアフェクト(状況の交替によって別のと交換できるような)ではなく、逃れられないパトスに満たされて現れる。

 従来のオペラにおける人物は、陰謀の規則に沿ってアフェクトに動かされており、文字通り「無性格」である。そこには性格(右往左往させるアフェクトの嵐に抵抗し、交替を貫くような)がない。だが、「自立したもの」としてアフェクトを提示することが、一方の人類心理についての確信と他方のオペラの形式原理にどの程度基礎づけられているのか、規定するのは難しい。一八世紀前半の「アフェクトオペラ」では、内側から作用して発展する性格ではなく、状況の交替によって唐突に転換するアフェクトが音楽提示の対象だったわけで、そこにパロック的な人間観が生き延びていたのは間違いない。だが他方で、既に一七三五年には−フランチェスコ・ロセリ−ニの『メタスタ−ジオ神父の《デモフォ−テ》をめぐる考察』によって−、メタスタ−ジオのオペラ台本における性格の切り裂きと不一致が咎められており、性格よりアフェクトを優先することは、オペラにおいては人工的な理由から形式原理と主張され得たとしても、どうやら心理についての当時のイメ−ジと矛盾したらしい。メタスタ−ジオは、一七四七年に次のように自己弁護した。すなわち、オペラ文学におけるアフェクトの転換は、性格の不一致へ結びつけられるのでなく、状況の交替へ基礎づけられる(状況へ身を任せたことに不一致があるかのように)。カルツァビギは、まず一七五五年に『メタスタ−ジオ神父のドラマ文学の研究』でメタスタ−ジオの立場を受け入れたが、のちに、アルテアガに向けた一七九〇年の『反論』ではロセリ−ニの批判的な議論へ帰依した。

 性格の統一と恒常性(心の状態の交替を基礎にして)の要求はドラマ作法上の要請として示唆に富むが、他方で、それを満たす作曲上の手段を概念でつかむのは難しい。アフェクトを表現できる音楽上の紋切型の記述可能な貯蔵庫は豊かだが、音楽上のエ−トス提示の原理は空疎でほとんどつかみようがない。ケルナ−の音楽美学の草案において音楽技術が不明瞭なのは、偶然的欠陥でなく、典型的欠陥である。

 音楽上の性格提示を−古典的音楽美学の中心カテゴリ−としての歴史的意義という点で−理解する道が開けるのは、答えを与えようとする問いを認識したときである。歴史的解釈は、美的ないしドラマ作法的カテゴリ−が特定の作曲技術的状況に介入していることを前提せねばならない。つまり、バロックの「style d'une teneur」の解体後にいかに音楽の統一が可能か、ということが問題になる状況があった。(ケルナ−は、音楽を脅かす危険とみなしたものを特徴づけるために、「情念のでたらめな混合を表現する音のカオス」を語った。)音楽構造の非連続性への傾斜、主題の対比と狭い空間における心の状態のめまぐるしい交替は、音楽形式を破砕したくなければ、内的なまとまりを保証する原理で調停されねばならなかった。そしてアフェクトと動機の流れの統一を放棄したあとで音楽の結び目として期待されたは、他でもなく性格の統一であった。(ソナタ形式の理論 −それは声楽にとっても代表的な図式であった−では、一八〇〇年前後になってもまだ主題のコントラストが構成的モメントと呼ばれなかったのだが、これは主題を旋律形象であると同時に性格であると考える習慣に依存する。旋律のコントラストと性格の統一 −美的「単一主題法」−のどちらを強調するか、という選択においては統一モメントが強調された。バロック以後の音楽を、「情念の状態」の「カオス」だ、という批判から守るためである。)

 美的モメントと作曲技術的モメントは相互浸透している。そして一八世紀には音楽的事実関係が美的言語で理解され、二〇世紀には作曲技術の用語法で考えられる傾向にあるわけで、こうした違いを意識する者は、一八世紀と二〇世紀双方の一面性を調停するために一方の表現形式を他方へ翻訳することができるだろうし、そうすれば、美的モメントと作曲技術的モメントを媒介するものこそが本来考えられていたもの(様々な用語法に取り巻かれながら)だとわかるだろう。音楽上の性格提示は単なる美的問題ではなく、作曲技術の問題でもあると理解されねばならない。主題のコントラストにおいて統一モメントを目指す概念である「コントラストの導出」は、心の状態の交替における性格の恒常性(「変化における固執」)と一八〇〇年前後に記述された美的モメントに対応する作曲技術(のひとつ)だと考えられる。

 「コントラストの導出」はハイドンの交響曲における「倫理的性格」の提示と対応するが、これは第一義的に器楽の技術である。オペラ作曲における性格提示−アフェクト表現への反論−は別の前提に支えられている。グルックの《タウリスのイピゲネイア》でイピゲネイアが直面する様々な状況、「情念の状態」において同一に保たれるモメントは「ト−ン」である。アンナ・アマリエ・ア−ベルトはグルックの「讃歌のト−ン」を語ったが、他方で、様式の特徴づけを思想史的特徴づけで補完するために、イピゲネイアのいわばあらゆる時代の精神を音でとらえているかに思える旋律法を、「人間性のト−ン」の刻印と呼ぶこともできるだろう。イフゲネイアのエ−トスでは、神話的な罪の連鎖(癒しが再び別の罪になるような)が救済による結末を見いだす。

 人間性のト−ンを構成する音楽のメルクマ−ルを−当面素描的にだが−意識しようと試みるなら、さしあたり単純さの強調が目に留まる。強烈な固執は、《ああ、可愛そうなイピゲネイア》(第二幕第六場)のようなアリアにおいて、簡潔な−二四小節間トニカ、ドミナント、サブドミナントに限定された−和声図式で示される。簡潔なパトスは古典的である(そして美的情緒の古典主義は様式の古典主義の前提であり得る)。「高貴な単純さ」の要請は、高く崇高な(つまり「高貴な」)様式が簡潔な外面形態においても(バロック君主の豪奢な飾りと修辞音型なしに)可能であることを意味する。そして、リズムの均質さに把握されるような簡潔で段階が少ない和声を強調することは、グルックにおいて−ベ−ト−ヴェン、ケルビ−ニ、スポンティ−ニでもそうだが−バロック的な概念によると相互に排除しあうとされたもの、つまり低い様式の簡潔さと高い様式の強調を結びつけようとする様式の理想の刻印とみなされる。美的宥和、それまで分離されていた様式を交差させることは、一九世紀の市民が夢見た社会的宥和の暗号である。「人間性のト−ン」では、「低いもの」と「高いもの」の対立が止揚される。

 和声リズム(あるいは和声デュナ−ミク)の現象に刻印された簡潔さのパトスは、イピゲネイアのエトスが表現するト−ンにおいて、同じように特徴的なシンタクス的モメント、つまり旋律的、メトリ−ク的な規則性と不規則性の相互一体化というモメントと結びつく。アリア《おお、私を救って下さった女神よ》(第一幕第一場)の冒頭にとって、四小節グル−プの規則性は単なる天蓋にすぎない。個々のフレ−ズが11/2+11/2+1という図式に沿って組み立てられるからである。だが分節の不規則性は他方で規則的なものへ組み込まれ(両モメントは同時に知覚される)、そのことで旋律(それはイピゲネイアが「忌まわしい生」から逃避的に救済されたことを示すのだが)に付与されたト−ンは、非日常的な情緒と感情を表現するとともに、自由における安息を表現する。ドラマの最後の救済は、イピゲネイアのアリアの音楽のト−ンに予め登録されている。それは「音楽の精神から」生成する。

 イピゲネイアのエ−トスとその音楽的表現である人間性のト−ンは、オレステスを見舞う運命という外的な力にびくともしない内面の力である。「性格があるところには断じて運命がなく、運命の連鎖に性格が絡めとられることはない。」(ワルタ−・ベンヤミン『運命と性格』)オレステスのパトスには神話的な罪の連鎖が表明され、イピゲネイアのエ−トスにはその突破が表明される。そして最後の救済の瞬間に、オレステスが数小節で(《この女性に》第四幕第七場)「讃歌のト−ン」へ高まり、舞台的にディアナの介入によって起きたことを音楽で確定する。

 人間性のト−ンは一般性を目指すわけだが、グルックのドラマでは、イピゲネイアによって音楽で具現される特殊な性格になっている。だが、このことは作品の筋に基礎づけられる。(尼僧の合唱では、イピゲネイアの特殊性が人間性のト−ンの意味でいわば「一般化」されるが、ドラマの組み立てにおいてイピゲネイアと尼僧たちは不可分一体であり、ト−ンの個別性が止揚されたり、削ぎ落とされることはない。)「讃歌のト−ン」は個別的な性格の表現として現れ、一方でオレステス(彼のパトスは「内面のフリア」であり、エリニョンはその可視的反映である)、他方でトアス(彼は不安から怒りを爆発させる暴君というバロックの類型を想起させる)と対比される。(ピュラデスは、性格というより友情の寓意である。)

 しかも筋は、−これこそが作品の眼目なのだが−グルックの後期ドラマが代表する音楽史の状況と同調している。オレステスのパトス−そしてさらに明白にはアフェクトへ取りつかれたトアス−にはバロックの伝統が生きている(陰謀のメカニズムが発散する対比的アフェクトと運命に囚われた持続するパトスという深刻な違いはあるが)。だがイピゲネイアのパトスから、古典主義的古典時代の精神が語りかける。そして、オレステスのパトスがイピゲネイアに止揚されて救済される音楽ドラマ的瞬間は、音楽史的瞬間の彫像ないし暗号のように思われる。この瞬間に、音楽の単なる扇動的な力(シラ−が実感するとともに不信感を抱いたような)が性格提示(それは古典の形式理念の音楽形態と考えられる)によって調停されたのである。


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