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ムシカ・ポエティカと音楽のポエジ−

カ−ル・ダ−ルハウス

Carl Dahlhaus "Musica poetica und musikalische Poesie", Archiv fuer Musikwissenschaft 1866, S.110-24.


 「ムシカ・ポエティカ musica poetica」という用語は16世紀に鋳造されて18世紀半ばまで伝承され、「作曲学」を意味する。プロテスタントのカント−ル、リステニウス Nicolaus Listenius が1557年にはじめて「ムシカ・プラクティカ musica practica」と「ムシカ・ポエティカ」を分割したとき考えていたのは、アリストテレス風に冷静な、音楽作品を「作ること Machen」と「準備すること Verfertigen」であった。だが1800年ごろ、「音楽のポエジ− musicalische Poesie」と結びついたイメ−ジは正反対に転換していた。コッホ Heinrich Christoph Koch の作曲学では、規則にしたがって作られたもの das Gemachte が音楽の「機械的 mechanisch な部分」であり、音楽の「ポエジ−的 poetisch な部分」と区別された。「音楽のポエジ−」は教えられないものの総概念とみなされている。

 だが端的な対比は大雑把な単純化ゆえのことである。「ムシカ・ポエティカ」も「音楽のポエジ−」も多義的である。そしてこれらの概念と結びついていた思考を理解するには、解決が模索された問題を再構成せねばならない。

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 中世の音楽理論は「ポエタ poeta」を論ずるときにボエティウス Boethius を参照した。そして彼は、「ポエタの能力」は「歌を準備すること」だ、としてあまり評価しなかった。歌を準備する者は、なるほど音楽の周囲にいるが、本来の音楽である数の秩序の考察から分離されている。「ポエタの能力」は「……」であり、不名誉とみなされた。取り扱うこと operatio は思索すること contemplatio の陰にあった。

 レジ−ノ・フォン・プリュム Regino von Prum は900年ごろ、「自然的本能」を「神的本能」に近いとしたが、他方でボエティウスを受け継いで、取り扱いを思索の下に位置づけた。人間が作ったものは目的や目標ではなく、神、自然からの所与、あるいは天賦の自然を把握するための手段とみなされる。それらを満たすのは思索における自然的本能である。

 16世紀になってようやく、音楽理論に価値評価が転倒する兆しがみえる。アロンPietro Aron は1545年に「天賦のポエタ poeta nascitor」という言い回しを作曲家に適用し、おそらくフィニ−ノ Marsilio Ficino に依拠しているのだろうが、音楽芸術作品の成立が「学習」によるのではなく、むしろ「天の影響」の賜物だと主張する。コクリコAdrian Petit Coclico は1552年に、おそらくボエティウスの伝統に意識的に対抗して、「ポエタの能力」を称賛する。作曲家における「ポエタの能力」は「理論」と「数学」よりはるかに優れている。コクリコは、「自然的本能」こそ「歌を準備する者 poeticus の発火点」だと書いている。作曲家が詩人なのは、彼が熱狂に駆りたてられるかぎりにおいてである。

 これに対して16、17世紀のドイツのカント−ルの作曲理論では、「ムシクス・ポエティクス musicus poeticus」が作る者 fabricator や組み立てる者 aedificator とみなされた。リステニウスは書いている。曰く、作曲家は「不滅で絶対的な作品 opus perfectum et absolutum」を残す。だが楽譜が閉じた作品 poema であり作曲学がムシカ・ポエティカであるというイメ−ジは、自明のことなどではなかった。クインティリアヌス Quintilianus に依拠して、諸芸術は作品 opus を目指す「制作的 poetisch」芸術と「活動として in agendo」作用する「実践的 praktisch」芸術に分離され、当然のこととして音楽−上手く歌う技術、熟練、知識−はまず「実践的」芸術に算入された。16世紀の代表的な詩人スカリジェル Julius Caesar Scaliger は、歌の存在形態が諸芸術においては準備段階だと述べている。書き記されたテクストは、リステニウスによって「不滅で絶対的な作品」と考えられたわけだが、一般的には演奏(= operatio)という目的のための単なる手段とみなされていた。テクストが閉じた作品だ、というイメ−ジは音楽理論家の間でも希薄であった。たとえばファ−バ− Heinrich Faber とドレスラ− Gallus Dressler は「ムシカ・ポエティカ」と「不滅で絶対的な作品」という言葉を受け継ぎつつ、その意味を歪めている。彼らは「作曲 compositio」だけでなく、「即興 sortisatio」も「ムシカ・ポエティカ」に数えているのだから。

 心理的にも、「ムシカ・ポエティカ」は人文主義の世紀において、心許ない概念であった。リステニウスはドイツのプロテスタントでヴィッテンベルクの修道士であり、「不滅で絶対的な作品」を準備することにともなう努力と労働を称賛した。だがイタリアの人文主義者は、音楽を庇護する自由学芸 ars liberaris という概念から古代の労働蔑視を感じ取った。「作ること」と「準備すること」は機械的技術 ars mechanica のメルクマ−ルであり、俗物性を嫌疑をかけられた。アロンは「天の影響」を語って音楽の栄誉を根拠づけた。ツァルリ−ノ Gioseffo Zarlino は、カプチン派だったが音楽の目的として上品な娯楽性を強調し、音楽を建築(それは単なる「有用な技術」、つまり一種の機械的技術とされた)より高級な自由学芸と持ち上げた。カッチ−ニ Giulio Caccini は歌に「高貴で軽快」な態度を求めた。作る者や組み立てる者の意味でムシクス・ポエティクスを語ることは侮辱であった。

 プロテスタントの音楽理論家は一般的カント−ル、つまり教会音楽家であると同時にラテン語学校の教師であった。上品な心という理想は彼らにそぐわなかった。音楽が自由学芸に数えられたことは、北ドイツでは音楽が鳴り響く数学つまり数比論の対象であることを意味したにすぎない。作曲実践が称賛されたとき、ラテン語教師には修辞学と制作学の類似が思い浮かんだ。ブルマイスタ− Joachim Burmeister は『ムシカ・ポエティカ』で「……」と述べ、ベルンハルト Christoph Bernhard は、「音楽」は「高級であり、無数の言い回しゆえに……修辞学を連想させる」と書いている。

 作曲家を作る者ないし組み立てる者と考えることは雄弁家、詩人、説教師のイメ−ジで補完された(あるいはそれに置き換えられた)。つまりムシカ・ポエティカの概念には新たな意味が加わった。制作された語りを通常の語りと区別するメルクマ−ルである文彩 ornatus が音楽の作品 poema にも再認され、ムシカ・ポエティカの対象になった。

 修辞学と制作学は、音楽との類似が文彩という媒介概念に支えられているかぎり、分離される必要がなかった。区別が明確になるのは、音楽解釈の二つの学科の一方であるアフェクト論と模倣原理のどちらかが、一面的に強調されるようになってからである。音楽の目的はアフェクトを喚起することだとされると、修辞学との近さが決定的になる。アフェクト論はアリストテレス的修辞学の一部だったからである。これに対して音楽の第一の目的が対象ないし事件を提示することだとされると、アリストテレス的制作学の模倣原理が連想される。カルヴィシウス Seth Calvisius は「Ut pictura poesis」という言い回しを音楽に転用して、対象の模像である音楽の作曲は修辞学よりも詩 Poesie や絵画と比較されるべきだと考えた。

 音楽の修辞学的音型や制作学的音型という概念は多義的である。この概念は対象や事件の鳴り響く模像とならんで、アフェクト表現の手段や、さらにはフ−ガのような純粋に音楽的な事象も包摂していた。フ−ガは、音楽における素直な語り oratio simplex である単純な対位法と対比して、文彩ある語り oratio ornatus とみなされた。また異例な不協和や学校規則への抵触も、音型として正当化された。作曲家には、雄弁家や詩人のように、文法家の肩書きを外すことも許されたのである。

 17世紀のムシクス・ポエティクスは教育者、雄弁家、そして画家であった。

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 音楽の目標はポエジ−になることだという言い回しは18世紀の音楽美学でも堅持された。シャイベ Jochann Adolf Scheibe は1745年に(100年前リッピウス Johann Lippius がやったように)三種類の音楽を区別して、それを三つの発展段階と考えた。「貧弱でその場かぎりの散文」、「程々だが流暢で快適な語り」、「巧妙でありったけの装飾を施した詩」である。言葉遣いは従来と一致しているが、その背後に考え方の深刻な相違が潜んでいる。18世紀の音楽美学は、顕在的であれ潜在的であれ、なによりもオペラの美学である。「音楽の書法を理性的でポエジ−的な書法に近づけること」(シャイベ)がはじまったのは、音楽美学が「オペラを受け入れ」たからである。シャイベは器楽もカンタ−ビレで「語るよう」であることを期待する。協奏曲やソナタを作曲したい者は「いつも特定の人物の性格、状況、感情をイメ−ジし、想像力を押し広げてその人物が語っているのを聴いているかのように思えなければなりません」。作曲家は、「心を動かし、表出的に作れたとき」、詩人の名に値する。作る者や組み立てる者であったカント−ル風のムシクス・ポエティクスは単なる「機械職人」の嫌疑をかけられた。そして「機械」は18世紀の言葉では「ポエジ−」の反対である。

 音楽理論のうえではメロディ概念の意味の転換を読み取ることができる。17世紀や18世紀前半には「メロディ」が多声書法を意味し、「メロポエット Melopoet」が対位法を仕上げる者を意味した。このややこしい語用法は古代と近代のハ−モニ−概念の交錯に由来する。制御された音関連を総称する「ハ−モニ−」は古代の用語法や16世紀に新たな用語法によると、メロディの部分モメントであった(リズム、言葉とともに)。だが多声書法も16世紀からハ−モニ−だと考えられ「ハ−モニ−」と呼ばれた。そして概念が交差した結果、対位法はメロディの部分モメントだと思われるようになった。カルヴィシウスは多声書法の教科書を「メロピイア Melopiia……」と呼んでいる。

 既に17世紀にド−ニ Giovanni Battista Doni はオペラを古代の用語法で弁護しようとして、メロディ概念に対位法を含み入れることに反対した。だがメロディ概念が主声部に限定されるのはようやく1730年ごろであった。マテゾン Johann Matteson とルソ−において「メロディ」は「ハ−モニ−」と対立する概念であり、「メロポエット」は対位法を仕上げる者でなく、「よく歌い」、「心を動かす」主声部を発明する者である。

 だが発明すなわち「力の詩作」は「天賦の才能をもつ者 poeta nascitor」の仕事とされた。音楽制作学は多声書法の学から天才美学へ転換した。「純粋な書法」すなわち音楽について教え得るものは、キルンベルガ− Johann Philipp Kirnberger によると−彼は「音楽の純粋書法の芸術」について数百ペ−ジ書き連ねたのだが−作曲家に「ほとんど役立たない」。「……」。

 器楽は「語る」ことなく何も「イメ−ジさせ」ないのだから、「単なる騒音」である−シャイベにはこのように書かれている。そしてクヴァンツは1852年に「飽くなき躍動感や非常な困難は驚嘆させる Verwunderung が、とりたてて心を動かさない」とコメントする。器楽は「機械的」で「ポエジ−的」ではない。ヒラ− Johann Adam Hiller は二年後に器楽が「驚嘆させる」と語るが、考えていることはクヴァンツと同じである。「跳躍、スピ−ド感、分割」が驚嘆させるが、心は虚ろである。「不可思議 das Wunderbare」 は「自然さ das Naturliche」すなわち音楽の「感情言語」と対立する。

 だが1780年ごろには「不可思議」が音楽美学で尊重される。器楽の理論はボトナ−とクロップシュトックの詩学 Poetik を受容した。自然さと理性の感覚ではなく、崇高と不可思議の感覚が真の詩人を作る。シュルツ Johann Abraham Peter Schultz はズルツァ−の『美しい諸芸術の一般理論』において、「交響曲」は「偉大なもの、祝祭的なもの、崇高なものに適している」と書いている。交響曲のアレグロは「文学 Poesie でいうとピンダロスのオ−ドである」。「……」。交響曲は聴き手に感情の混乱をもたらし、崇高のメルクマ−ルである「オ−ドの無秩序」と類似する。エマヌエル・バッハは1801年に『一般音楽新聞』で「第二のクロップシュトック」と称賛された。「……」。

 ヴァッケンロ−ダ−の『今日の器楽の心の学』もピンダロス詩学に依拠している。「他のどの芸術も、感情をこれほど芸術的で大胆かつ文学的に、それゆえ冷血漢にも浸透するやり方で描写できない」。「芸術的で大胆かつ文学的」、オ−ド理論の余韻は聞き逃しようがない。

 ル−トヴィヒ・ティ−クはヴァッケンロ−ダ−の思想を先鋭化した。器楽は、「それ独自の道を進み、テクストや下敷きとなるポエジ−から自由に自前で詩作して、自らポエジ−的 poetisch にコメントする」とき、「最高のポエジ−的言語」を語る。器楽が自らポエジ−的にコメントするという言い方はフリ−ドリヒ・シュレ−ゲルの音楽と哲学をめぐる断章を思い起させる。シュレ−ゲルは「いわゆる自然さという平板な視点」を拒絶する。それでは「音楽が感情の言語しか話さず」、「哲学へ向かうあらゆる純粋器楽の傾向が不可能に」なる。「器楽は自前でテクストを作りださねばならないのではないか? そして主題は、ちょうど哲学的な一連の理念における瞑想の対象のように、音楽において発展、確定、変奏、対比されないのか?」 器楽が「自前でコメントする」というのは、シュレ−ゲルの断章を解釈に利用すると、音楽が「感情の言語」としてではなく、「それ自体で孤立した世界」としてポエジ−だということを意味する。心に虚ろな「驚嘆」から形而上的驚きが生まれたのである。

 「音楽のポエジ−」という概念は18世紀と19世紀前半に、ほとんど解きほぐせないほど豊かな意味を発生させた。音楽のための文学のことなのか、音楽作品なのか、それとも音楽についての詩的パラフレ−ズなのか、一般的には判定できない。ともあれ、鳴り響く「心の言語」と「それ自体で孤立した世界」としての「純粋音楽」がどちらも「音楽のポエジ−」と呼ばれたのは美的用語法が不安定だったからである。シントラ−によればベ−ト−ヴェンは「ポエジ−的理念」という表現を「しばしば用いた」わけだが、この表現には多様でしかも対立する解釈が成り立つ。「ポエジ−的理念」はア−ノルト・シェリンクが考えたように「秘められたプログラム」なのか、それとも作曲すなわち音楽のポイエシスが基礎となる音楽的思考のことなのか?

 歴史的証言と呼び得るシントラ−、リ−ス、ツェルニ−などの報告は、形式美学と内容美学、あるいは自律美学と他律美学という対立にとらわれるかぎり矛盾に満ちている。だがこれは不幸な二者択一であり、19世紀後半に由来する。テクストは、間違った問いに答えさせられて混乱している。1800年ごろの音楽美学の用語法を規定ないし色付けていたのは絶対音楽と標題音楽の論争ではなく、「ポエジ−的」と「機械的 mechanisch」、「散文的 prosaisch」、「歴史的 historisch」を区別する試みであった。

 ヴィルトゥオ−ゾ性だけでなく、学習フ−ガの形でのフ−ガも単なる機械との嫌疑にかけられていた。フ−ガについてのベ−ト−ヴェンの次の言葉は「ポエジ−」と「機械」という対比に依拠している。「今では、古びた形式にも別の十分ポエジ−的な要素をもちこむべきだ」。

 ティ−クは「ポエジ−」と「散文」の対比を、音楽は「散文的」現実から距離を置けばそれだけ「ポエジ−的」になる、という命題で根拠づけた。ベ−ト−ヴェンはさらに冷静であった。《田園》のスケッチには次のメモがある。「どんな絵画も、器楽であんまり突っ込みすぎると台無しになる」。彼は音画そのものに躊躇したのではなく、細部の誇張つまり「ポエジ−の物質主義」(ジャン・パウル)に躊躇した。決定的なのは「ポエジ−的」模倣と「散文的」模倣の違いであり、絶対音楽と標題音楽の対比ではない。「ポエジ−的模倣」は、ジャン・パウルにおいて、「二重の自然つまり内的自然と外的自然を同時に模倣し、両者が反射しあうとき」に成立する。ベ−ト−ヴェンの言葉、「絵画より感情の表現を」も同じことを言っている。

 ベ−ト−ヴェンの大部分の作品が性格、気分、状況を読み込んでいるのは否定できない。だが「ポエジ−的理念」が文学的プログラムだと考えるのには躊躇したい。音楽美学では、文学理論におけるのと同じように「ポエジ−的」が「歴史的」と区別されていた。そしてフリ−ドリヒ・ロホリッツやのちのロベルト・シュ−マンは標題音楽、つまり事件を音楽で物語ることを「歴史的」と呼んだ。シントラ−も、「ポエジ−」と「歴史」の区別を前提として、「ベ−ト−ヴェンの作品に個々の文学を」あてはめるやり方を拒絶する。曰く、それは「特定の現実という枠にあまりにとらわれすぎている」。音楽作品の標題として叙事的ポエジ−や劇的ポエジ−は「歴史的」であり、「ポエジ−的」でない。

 音楽のロマン主義者は「ベ−ト−ヴェン主義者」であった。ポエジ−がロベルト・シュ−マンの批評の中心概念であり、ジャン・パウルの詩学から音楽美学を発展させた。ポイエシスは第一にミメ−シス、手本の複写、現実模倣と対立する概念とみなされている。第二にシュ−マンは「散文」、「通俗」、「平板」、「一般性」との対比を強調する。散文的経験と対比すると「ポエジ−」は「超感覚的」であり、散文的日常の限界と対比すると「自由」である。第二に「ポエジ−的」は「機械的」、「作られたもの」に対抗し、単なるヴィルトゥオ−ゾ性、音楽の職人仕事に安住する俗物性に対抗する。

 だが、音楽の「ポエジ−化 Poetisierung」は「文学化 Literarisierung」を意味しない。音楽をめぐる文学的パラフレ−ズが「音楽のポエジ−」という概念から理解されるべきで、その逆ではない。E・T・A・ホフマンとシュ−マンの「音楽のポエジ−による空想」は、音楽的模像をポエジ−的原像へ還元することではなく、「音楽のポエジ−」と「ポエジ−のポエジ−」が出会う王国を発見する試みである。シュ−マンは書く。「ある芸術の美学は別の芸術の美学である」。


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