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鍵盤で作曲すること

ヴェルナ−・ブラウン


Werner BRAUN, "Komponieren am Klavier", Archiv fuer Musikwissenschaft 23 (1966), S.125-143.


 鍵盤楽器で作曲すること、つまり別の編成の作品を準備するときにもこの楽器の助けを借りることは、専門家にとっても一般に非常に慎重であるべき行為とみなされている。既にカ−ル・マリア・フォン・ウェ−バ−が警告を発している。ピアノは音楽的記憶を呼び起こし、本当に「新しい」音楽を許さないからである。あからさまな自負心をもって、エクト−ル・ベルリオ−ズはピアノ演奏を勉強しなかったと断言している。彼は、ウェ−バ−と同じようにピアノ的な習慣の圧政を語り、楽器なしには作曲できない、という素人考えを馬鹿にする。一九〇九年になると、フ−ゴ・リ−マンが、音楽創造活動の真面目なやり方についての確信を書いている。音楽創造活動は、彼にしてみれば純粋に精神的な自然である。「正しい作曲家」は、書き留める前に作品をあらゆる細部までイメ−ジできる、つまり「内面で聴く」ことができる。ピアノや管弦楽で響きを試しても、特に新しいものは生まれない。我々は即興を音楽の最も刹那的な形態だと考えるが、リ−マンは即興さえもが予め詳細に固定された草案の再生産にすぎないとみなす。決定的な審級は、いつでも、芸術家の「想像力」である。

 リ−マンの命題は、ごく最近まで当然正当なことだと思われていた。一二音音楽やセリ−音楽の作曲家が仕事をピアノで始めることは、ほとんどありえない。彼らは包括的な芸術法則を執行する。いわゆる「セリ−」という素材が提供する可能性は計測可能であり、自由な演奏など彼らには理解できない。

 にもかかわらず、最近一五年間の音楽の発展には、リ−マンの確信と矛盾する傾向がある。音楽の青年運動は、残念ながらイデオロギ−と文化政策へ波及してしまったが、機械的なきっかけから作用豊かな近代音楽が生まれ得ることの証明になっている。舞踏教師ジャック・ダルクロ−ズの印象をもとに、エルンスト・フェラントは即興の豊かな過去について画期的な著作を残したが、即興の歴史は途絶えることなく、ジョン・ケ−ジの前衛派で再び新たに開花している。

 体系的に考察すると、リ−マンのプログラムへ別の疑問も生じる。音の記憶と音楽の想像力は、ピアノでの自発的な実験を何故排除すべきなのか、よくわからない。ゲ−テの時代には、この点でまったく別の考えがあった。ベ−ト−ヴェン、ヨハン・ネポムク・フンメル、ダニエル・シュタイベルトの自由な演奏に深く感動して、スイスの音楽教師で音楽美学者であったハンス・ゲオルク・ネ−ゲリは考えた。ピアノを弾く人間の手が創造的な精神と「最も内面的な絆」でつながっており、「芸術作品の多くはたまたまピアノで発見されたのではなく、ピアノ演奏を通じて発見されたのであり、いわば精神から取り出され」たのである。

 あきらかにリ−マンは、一般的で時代を越えて傑出した音楽的才能の現象を、特定の彼に馴染みの彼に理解できる表現形式と同一化しようと試みている。だが、音楽の創作プロセスをめぐる判断は、豊かな研究と比較素材を前提する。人間の類型と運命の多様性を知ったうえで問わねばならない。いかに素質が成果へ転換するのか、たとえば試し演奏から出発してあとの段階で書き留めて仕上げられるのか、それとも慎重に計画を草案して、音楽の経過を素描してから楽器で調整するのか。

 二つの方法は、固有のやりかたで直接的、かつ間接的に芸術作品へ向かう。そのどちらが優先されるのか、それは様々な前提へ依存する。どんな人間でも彼の時代の条件に支配されている。若者は、分別ある年寄りよりインスピレ−ションを頼りにする。伝統と環境条件が芸術家の気質を作り、特定の方向へ導く。そして、音楽ジャンルの音楽様式が異なる作曲態度を要求する。たとえば弦楽四重奏は、通常、抒情的ピアノ曲よりも博学であることを前提とする。現代の状況では、音楽素材への特徴的な立場が個人の思い付きで決まるのではなく、エポック全体へ刻印を押している。以前の時代でもそうだったと期待していいのではないだろうか。

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 事実、既に一五五〇年前後から、音楽論には我々のテ−マをめぐる無数の発言が含まれている。ほとんどいつも、こうした発言は、それぞれの時代の作曲実践の否定的現象に対して批判的な立場を取る文脈で現れる。バロック時代の理論家たちは、手軽な経験まかせの態度で不満足な多声作品を作る作者たちを糾弾した。指の感覚と耳の印象だけにもとづいた仕事は、良い音楽書法に抵触する。理性的な作曲とは、「感覚をともなう理性が完全な作品を組み立てることである」。「芸術規則」に注意を払えばいつでも美しい響きが生まれるのであって、耳に快いものだけでは、学問的な要求を満足させることができない。このような考えには、中世と古代の思想の遺産が生き延びている。ただの感覚印象は人を欺くものであって、人間の思慮のない、いわば盲目な行いは望ましくない。……(中略)……

 しかし、一般的な理論家の発言だけから鍵盤楽器での作曲を記述しようとするのは問題だろう。一七世紀後半から、個々の音楽家の作曲の仕方の報告、個人的な告白、創作プロセスを示す図像などが多くなり、伝承された音楽とともに、創造的な音楽現象における技術的な助けについてのまとまったドキュメントが可能になる。

 鍵盤楽器演奏を通じて自我を芸術へ調律する方法については、非常に豊富な証言がある。我々の時代には、イゴ−ル・ストラヴィンスキ−がそれを強調していた。調子を出すために、彼は古い大作曲家を弾いたり、自分で即興している。……いかに多くの音楽家がこのような手段で創造の喜びを招き入れたことか。比較的遅く、一八世紀前半になってようやく、このことが記述されるようになるが、古い記述がないのは、音楽を数比として論じる中世以来の傾向の後遺症であろう。自己の芸術への調律は、音楽の強力な作用についての無数の物語において、暗黙のうちに想定されていたように思われる。

 これは、弦楽器の伝統においては、ごく一般的な創造行為の準備である。だが、作曲を支えるためには、鍵盤楽器が最も適している。ドロ−ンやミクスチュアに限定されない運動するポリフォニ−が可能だからである。このことは、用語法からもわかる。一六世紀から一八世紀まで、「symphonia」という表現は和声的書法、力強い作曲、そして弦つき鍵盤楽器を意味し、また鍵盤楽器は単に「楽器 Instrument」とも呼ばれていた。和声法の初心者は、鍵盤楽器で作曲技術を初めて経験する。彼は、まず和音の掴みという小さな領域で勉強する。鍵盤の名称は簡単に音符へ置き換えることができるので、彼は演奏音型の配列を楽譜へ変換できる。楽器なしに和音の記号だけで低声部に取り組んだり、旋律に和声づけするときでも、彼は解答が正しいのかどうか、鍵盤楽器で鳴らして初めて納得する。彼は、楽譜や自分の想像力よりも、耳の判断を信頼する。

 このような単純な事例で描写されたこと、つまり指の位置で音を固定することと、書き留めたものの響きをチェックすることは、もっと要求の高い形で鍵盤楽器で作曲する場合にも、その基礎になっている。最初に経験的なチェック手続きを話題にしたのは、それがどんな種類の音楽にでも適用できるからである。個々の和音あるいは和音連結を調整したり、全体の関連を調べることもできる。個々の和音の結合を調べることは、異例な音程の組み合わせを試みて響きのイメ−ジがないときには不可欠な作業である。規則から熟慮の末に逸脱することがなければ、芸術に進歩はない。「正しい」、「間違っている」といった明晰な判断は、「良い」、「あまり良くない」、「珍しい」、「ひどい」といったそれほど拘束力のない表現に変わり、ついには、規則違反が「免許」を得て、規則集へ登録される。そして次に別のところでも、同じようなゲ−ムが始まる。……(中略)……

 チェック作業では、鍵盤楽器が補助として明確に限定された機能を果たすわけだが、掴みを固定するとき、とりわけ即興を書き留め、仕上げるときには、演奏と作曲が同時進行する。「調律」を基礎にして作曲された音楽は、しばしば自由なファンタジ−へ流れこむ。楽器は喚起力を放つ。楽器は、演奏し聴いたことのあるものの記憶を呼び覚まし、手に馴染んだ楽器特有の言い回しの記憶を呼び覚ます。このような経験のおかげて新しいものが浮かび、形成される。ほとんど無意識的な組み合わせが錯綜する。指は、ほとんど自分で仕事する。演奏している間に、すぐあとの演奏が準備される。前に演奏されたものの印象はすぐに色褪せて、現在が今を満たす。あるものは、別のものへ連想でつながる。この種の即興は、作曲家に生の素材を提供する。彼は、ほとんど偶然的に動機や音型を発見して展開し、面白い組み合わせ、和音、対位法などの重要な細部を発見する。「作曲家は野獣が暴れるように前奏を弾く」(イゴ−ル・ストラヴィンスキ−『音楽の詩学』)。同じことを、既に一五〇年前にヨ−ゼフ・ハイドンも気付いていた。

 同じように活動的なブレイン・スト−ミングは、以前から存在した。だが、自白が欠けている。我々は、「狂暴な」音楽実践について十分な情報を得るためには、鍵盤楽器音楽やオルガン音楽における「ファンタジア」、「カプリチオ」、「プレアンブルム」、「プレリュ−ド」などのタイトルが、主に自由な演奏を固定したり、模倣したのだと考えねばなるまい。長い間持続して刻印されているジャンル様式は、いわゆる前奏における主に右手の素早い音階進行と、異質な要素の組み立てである。部分や動機法のゆるい組み立ては、あきらかに即興的な形成法によることを示している。こうした音楽を蘇生させ、矛盾なく認識するには、演奏によって時間を解凍せねばならない。また、ここでは素材を記譜することが目標ではなく、外的なきっかけが目標である。オルガンプレリュ−ドは楽器の調律、あるいは熟練したヴィルトゥオ−ゾの指慣らしのための音楽であり、こうした目標を踏まえ、これらが要求の低い音楽として扱われてしまうだろう。こうした音楽をそのまま書き留めても、芸術的には奇妙なものである。即興は瞬間に生きるが、独奏芸術を書き留めるには時間がかかる。

 いつの時代にもこの問題が議論された。実践 usus の絶えざる衝動を技芸 ars の領域 へ受け入れて中性化することをどのように身につけ、どのように達成するか、様式史はそのドキュメントである。我々は、楽器奏者がほとんど自己否定に努めて、博学な多声書法の態度を身に付けようとした時代を知っている。一方、こうした時代と反対に、多くの自由な一連の流行趣味が結実した時代もあった。結局、音楽素材に対するこの二つの極限の間に多様な作曲法がある。以下詳述するのは、西欧音楽史に広く刻印されたこうした相互作用を浮き彫りにすることである。

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 ネ−デルランド楽派が影響力をもった一五、一六世紀は、人の声を響かせることが音楽の必須条件だった時代である。当時の主要な音楽家たちは歌手出身である。偶然を排した記譜法、旋法的な調性、リガトゥ−ラとメリスマ、これらは依然としてグレゴリウス聖歌を彷彿とさせる。「モテット」というジャンル名のもとで、動機をいつも新しいやり方で模倣する「ヴァリエタス」が「調」、テクスト、しばしば三部分的な分節の統一とひとつになっていった。このような様式を身につけるには、音楽書法の周到な知識だけでなく、高度に精神的な組織力が前提される。個々の模倣グル−プの間を切れ目なく移行させねばならなかったからである。一方、カデンツでは、四声部を豊かに交換させることが期待された。また、絶えずテクストの要請にも注意が払われねばならない。中断のあとには完全な終止音型を据えねばならず、聖書の言葉に合わせて個々の声部や全声部が運動しなければならない。これらすべての問題を見通すために、史上初めて総譜が使われるようになり、従来のように各声部の水平的進行を見いだすことと平行して、すべてのパ−トを同時に草案することが教えられた。規則を学んで適用し、「名作を模倣」すること、つまり有名な作品を分析して模倣することは、一六、一七世紀のほとんどすべての教科書が掲げる要求である。手本と取り組み、新しい記譜法や新しい秩序と声部設定に取り組まねばならなかったわけで(時にミサに多くみられる、無数のパロディを通じて勉強されたのであろう)、このような作業工程では、鍵盤楽器の助けを借りることがあまりなかった。モテットと声楽ミサの作曲は、本質的に書き物机の作業であったと思われる。

 だが、まさにこの時代に鍵盤楽器の音楽、小オルガンや弦つき鍵盤楽器の音楽が始まり、公衆の関心を集めていた。ドイツ、フランス、イタリア、スペインの一六世紀の出版物は、これらの国々の教養市民が自由な器楽曲の多彩なレパ−トリ−(舞曲と声楽編曲)を自分で演奏したり、演奏させて楽しんだことを示している。作者はたいていオルガン奏者である。オルガン芸術は、一五五〇年頃までほとんど耳と記憶にたよっていた。盲目の音楽家という類型がこの頃しばしば登場する。後世になっても、オルガン奏者には即興能力が望まれ、その成果が評価された。聴くことしかできない器楽芸術から楽譜で見ることもできる器楽芸術への移行は宗教改革時期に大きな一歩を踏み出し、その後徐々に進行したのだが、音楽の書きもの文化の見地からすると異質に思われ、それが楽器に寄り添う音楽実践の欠陥だとみなされた。音楽規則の純粋な遺産は鍵盤楽器とリュ−トの演奏サ−クルにおいて無効になった。鍵盤と弦の掴みは「声部」を混濁させる傾向にあったからである。一六、一七世紀の編曲における定旋律などの古いものの脱落、手の掴みに合わせて広い音程を保った導声部と低声部の自由な付け加え、要約風の記譜、個々の旋律線の強調、大きな跳躍と和音分割などの器楽主義、これらすべてが、ラッソ−時代の理論家やその後継者には奇異に映った。イタリアの曲集「Intabulatura nova」(一五五一)におけるよう な平行五度と平行オクタ−ヴが、新しい芸術の特色である。

 このような状況のなかで、一五五六年にヴィッテンベルクの音楽家フィンク Hermann Finck は、オルガン奏者の破廉恥なヴィルトゥオ−ゾ性(明確なメンス−ラ、タクトゥス、トヌスがなく、良きファンタジアもない!)を批判し、これらがクラヴィコ−ドの掴みを直接固定した軽侮すべきものだと考えた。響きの豊かなゴンベ−ル様式に忠誠を誓うフィンクのような音楽家は、はるかに強く実践と結びついた中部ドイツの同僚たちの作曲から、「渾然としたカオス」、つまりクラウズラをもたないまとまりのなさ、調関係の不明瞭さ、その他の欠陥を聴き取った。

 詳細に細部を記述するとき、フィンクは最後に伝統的な確信を語ることを忘れなかった。我々は、いたるところで、オルガン奏者という職業の地位が疑われ、揶揄されていることに気付く。オルニトパ−チ Andreas Ornitoparch が一五一七年に出版したプラハ城の 想像力あるオルガン奏者についての描写は、まだ大きく作用していた。オルニトパ−チが紹介するオルガン奏者は、メンス−ラ論を知らないのに、偉大な人文主義者ガフリウス Fanchinus Gaf(f)urius の著作を批判しようとした。この種の人々にとって、学者の判断よりも耳こそが手がかりであった。彼らは洞察力と知識で作曲するのではなく、彼ら自身の活動経験を基礎にして作曲する。

 また、フィンクの批判が当時の鍵盤楽器芸術の広い範囲へ妥当するものではないことも指摘しておくべきだろう。有名な旋律やテクスチュア全体の借用にもとづく作曲、つまり定旋律編曲が批判されたわけではない。この領域では、原曲が細部に至るまでパラフレ−ズされる核として作用する。こうした曲を職人芸的に形態化することで北ドイツのオルガン奏者たちが称賛を得ていたのであって、彼らは、「対位法化」、つまり旋律を土台とする声部の発見を長い間伝承していた。だが、後世のオルガン奏者たちは、次第にリ−ド、舞踏、コラ−ル旋律などを借用するようになった。即興演奏家はひとつの「ソジェット」を長い間記憶にとどめることができた。彼は、それをその場で加工し、拡大したり縮小したり、ストレッタしたすることで、技巧豊かでまとまった作品という印象をうみだすことができる。自由なオブリガ−ト演奏の能力は、一六世紀前半以来、大きな教会のほとんどすべてのオルガン奏者に期待された。バッハの《音楽の捧げ物》は、もともと即興演奏にもとづいていたし、モ−ツァルトはヴァン・スヴェ−テン男爵の屋敷でフ−ガを即興演奏した。まとまりがなく、慣習的でつながりのない動機の群れへ解体する危険は、旋律と旋律構造の一体性によって回避された。

 だが、あからさまな定旋律編曲は、中世の遺物とみなされ、フィンクの時代には原型をとどめなかった。おそらく、無数の単一主題ファンタジアやリチェルカ−レが「音楽声部にもとづく」、つまり恣意的で「抽象的な」、あとからまとめた音の列ないし階名へもとづく、と呼ばれたのは定旋律編曲と区別するためだろう。こうした芸術形象の楽曲構成法は、まずミサ作曲で試みられた。ジョスカンが通常文を「Hercules Dux Ferrariae」で始めているように冒頭に献呈者の名前を織り込み、作曲したのである。ジョヴァンニ・ガブリエリからグレゴリオ・ストロッチまでの器楽では、音列がもはや「語らない」。音列は、まとめや統一を含めて、純粋に音楽的な課題に奉仕する。

 一六〇〇年以後、鍵盤楽器で作曲することへの警告が頻繁になる。先に紹介したアルトゥ−ジ、スカッキ、プリンツなどの理論家の他に、キルヒャ− Athanasius Kircher、ベ ドデッカ− Philipp Friedrich Boddecker、ベ−ア Johann Beer などがこの方法へ反対 した。彼らの議論は様々な点で一致する。スカッキは、アルトゥ−ジの第二論考にもとづいて、クラヴィコ−ドが「幻覚」的性格をもつと主張し、「通常的」なものと「装飾的」なものを区別する。ベドデッカ−がシュツットガルトの同僚ザミュエル・カプリコルヌスの作品を「鍵盤楽器で探したような性格」だと判断することにも、アルトゥ−ジとスカッキの影響が感じられる。キルヒァ−によると、正しく作曲するためには知識と洞察力、「名作の模倣」が必要なだけでなく、作曲されるテクストが求める主題、調、語、テンポ、メンス−ラ、協和を予め身につけていることが必要である。クラヴィチェンバロの経験を気軽に信頼する者は、協和と不協和の組み合わせを誤り、間違った箇所で半音を使用し、三全音から長六度への移行という禁則を犯す。このように調、メンス−ラを示唆して、クラウズラの欠落を批判するのは、フィンクとオルニトパッチを思わせる。ブットシュテットは、ベ−アとキルヒァ−に依拠し、また彼らからの引用を、個人的な観察、つまり「鍵盤楽器」で作った四声体が声楽では別に響くという観察を付け加えている。

 こうした批判の山は、一方で、バロックの学問の理想が一種の思弁的で構造論へ傾斜したからだと説明できるが、他方で、時代の音楽生活の深刻な転換を示してもいる。我々は、イタリアに始まる通奏低音より、むしろ器楽芸術の歴史へのイギリスの偉大な貢献を考えてみたい。この国のヴァ−ジナル奏者では、演奏技術の多様性と、もともと実践の領域から生まれた変奏曲における主題の集中が、ほとんど古典的なバランスに達している。このようにひどく自由な定旋律技術の一形態は、即興演奏の一種として好まれた。リ−ト風の形象に保護されて、リ−ト形象へ対立する対位法が近代的な「演奏音型」のゼクエンツへ生育しており、ゼクエンツの非常な高揚力と総合力ゆえに、モデルを指向することがほとんど余計だと思えるほどである。

 しかし経験的で自発的な作業法は、独奏芸術の領域だけに下地があって一般に認知されるようになったのではない。フランスとイギリスの王宮での芝居がかった出し物も、音楽の新しい職業倫理の成立を促した。貴族の輝かしい祝典での簡単な音楽の需要の激増を満足させるために、計画さえたバレ−と仮面舞踏のための旋律と低声部を稽古責任者である舞踏主任が作り、内声その他の仕上げは、おそらくもっと「学識のある」はずの音楽家に委ねられた。このような作業分担は、グラレアヌスによる、「phonascen」(「定旋律」 の作者)と「symphoneten」(作曲家)の区別を思い起させる。だが、この人文主義者の 旋律概念がグレゴリオ聖歌を背景とし、教会旋法の教説をモデルにしている一方で、バロックのやり方では、旋律と低声部として上声と詳細な基礎が考えられている。一六〇〇年前後の多くの出し物が二声で伝承されていることは、これを仕上げるのが二次的なことで、作品より提示の問題と考えられていたことを確信させる。

 このように音楽の土台への評価が高まり、国王の二四のヴァイオリンが三々五々入ったり、管楽器が加わってそれを強調したわけだが、これは、ホモフォニ−様式を基礎にして、彫塑的な動機、含蓄のあるリズム、そして作用豊かなコントラストがともなうことでのみ可能であった。メンス−ラと「調」の統一など問題にできない。良い発想は、念入りの仕上げより優先された。良い発想を支え、固定することは、伝承された修辞学的な補助手段をもはや必要としなかった。人は直接的な現象、つまり「インスピレ−ション」で考えた。こうして宮廷芸術を世界的に認知させた人物であるジャン・バプティスト・リュリの創作プロセスは、飛翔する天才のものと描写された。それは、もはや連続的な学識ではなかった。気分がすぐれないときには、彼は仕事を放置した。だが夜中に着想が浮かぶと、彼はそれをすぐさま利用した。彼は歌いながら鍵盤楽器で作曲した。鍵盤が「タバコの煙」でヤニだらけになったころ、「旋律が彼に匂ってきた」。すると彼は、経験的に見付けたものを助手に口頭で伝えて仕上げさせた。

 同じような事情はイギリスとフランスで定着し、ヨ−ロッパの他の国々の音楽生活をも刻印した。二声の記号のない土台だけを書いた楽譜が、一七世紀以後のイタリアオペラやドイツの器楽で使用されている。「フランス風」を目指したブリ−グロイスナ−の《音楽による食卓の楽しみ》(一六六八)は、ヴィルトゥオ−ゾのリュ−ト音楽へ由来する。彼の宮廷での同僚シュタンレイが、それを「四声へ仕上げた」。ケ−ニヒスベルクの宮廷楽長サバスティア−ニは一六六二年の婚礼の舞踏に「律儀に」内声をつけて出版するのをあきらめた。それは「アリア[旋律]と土台の良好な関係を促すどころか阻害し」、舞踏に必要ないからである。「そのかわりにありったけのヴァイオリンで上声を演奏させて、土台をしっかり編成すればいい」。リュリの芸術との平行関係は明らかである。一方、宗教音楽でも、よく似た傾向が認められる。生命力のあるバロックの宗教音楽旋律は、もはや詩人が職人的に作ったものではなく、有名な作曲家によってまとめられた。……(中略)……

 このころ、鍵盤楽器の台頭も伝えられた。これは一番好まれた素人楽器になり、リュ−トと最も激しく競合した。鍵盤楽器は学校で公認され、小オルガンの定着とともに、声楽の階名唱法を音名唱法へ解消した。「名作の模倣」は、芸術的な価値のあるパロディ作曲へ向かうのではなく、伝統的なやり方での対位法研究あるいは趣味形成に利用された。作曲学では、声部や音程の正しい結合よりも、響きの美しい移行が重視された。オルガン奏者は、通奏低音を定式化された掴みで組み立てることを通じて、即興演奏のための基礎を固めた。一七世紀の始めから鍵盤楽器で作曲することが公言され、このような活動をする音楽家が描写されるのも、驚くにはあたらない。ゲッピングのカント−ル、ダニエル・シュペ−ルは一六八七年に、初心者が世間の手軽な曲を作るには、まずテクストのための旋律を考え、クラヴィコ−ドで試してから書き留め、低声部をメモして、最後に鍵盤上で、内声の適切な協和、不協和を補充するべきだと書いている。しかも、最古の音楽事典は、「リチェルカ−タ」の見出し語のもとで、「和声進行や草稿」の模索をもはや嫌悪するのでなく、「作曲家がそれを整った曲へ適用」したがっていると観察している。保守的なオルガン奏者ブットシュテットとは反対に、啓蒙されたヨハン・マテゾンは自己調律の技術を定式化する。人は「ファンタジアで自分の創意を」繋ぎ止め、「鍛え上げ」るべきである。彼は音芸術家に鍵盤楽器の本格的な演奏経験を要求している。鍵盤楽器は、「和声の組み立ての明白な概念をどの楽器より広範に与えることができる。楽器がないときでも、頭のなかだけで和声をイメ−ジできるようになるはずである。」マテゾンのように和音の掴みの複雑な性格を生き生きと意識して、あらゆる不協和な響きを「非和声的な三和音」とみなす者は、生の「経験」の段階を克服し、直観的にイメ−ジを容易に再生するが、彼は和声を革新しない。彼は、「作曲道具」で個々の和音の構成したりチェックしたりするのではなく、出来上がった作品を試す。

 このような点から、ヨハン・セバスティアン・バッハの異質さが明白になる。彼は、ケ−テン時代に彼の様式の決定的特徴をクラヴィコ−ドで見出だし、チェンバロのファンタジアとフ−ガで大胆な実験の実例を残した。それは、即興的形成法が紋切型へ陥るものだという従来の立場に輝かしく抵抗し、「独創的」な音楽の典型として、息子たちの疾風怒涛の手本になることができた。

V

 バッハに言及したところで歴史的概説を中断せねばならない。世紀半ばの自由な演奏派は、より貴族的な性格のウィ−ン古典派において没落ないし特殊化されたが、ロマン派で新たに即興的形成が花開いた。だが、即興がしがみつかねばならない瞬間のはかなさを素朴に意識するのではなく、一八世紀以来の音言語をピアノ的な技術の影響が覆っている。こうしたことには、独立した研究が必要である。だが、音楽史にとって実に重要なこの時期も、鍵盤楽器で作曲することについては特に新しい貢献をせず、ヨ−ロッパの器楽奏者たちが緩慢で苦労の多い経過のなかで導入してきたものを仕上げただけであったように思われる。ロマン派の即興的形成は新しい響きを試し、動機を推移なく並列し、目の覚めるようなコントラストを作り、大きな音楽の流れをリ−トや舞踏のような周期性法則で建築する。鍵盤楽器やオルガンの即興演奏が自由な経過の規則と形式を確立していれば、音楽の近代はさらに包括的な意味で器楽に刻印されたことだろう。だが、器楽の成立は、音楽の不変の秩序の崩壊から導かれており、本来的に対立する「遊び Spiel」と「設定 Setzen」が次第に接近し相互浸透するプロセスとして記述される。だが、音楽の自由が一旦達 成されたあととなっては、鍵盤楽器がもはや必要とはされていない。一九世紀後半の作曲家は、芸術的に決定的な優越感を抱くことができた。

 今日、我々はこうした意識の危機を体験している。楽器の自由を叫ぶことは二重の否定であるかのようであり、ア−ノルト・シェ−ンベルクとその楽派の新しいポリフォニ−が新しい結合の存在を示唆している。にもかかわらず、ヨ−ロッパの偉大な鍵盤楽器文化は作用しつづける。組織化され尽くした現代音楽の無調性は、オルガンと鍵盤楽器の発達して響きが均等な調律を前提しているからである。鍵盤楽器は、一五、一六世紀の音楽論におけるように、再び「楽器」として把握される以上に「体系」として把握されている。実践上の作曲補助についての我々の考察は、その本来的な限界を示している。たとえばピエ−ル・ブ−レ−ズが要求するような振動空間の自由な分割を考えると、鍵盤楽器の体系としての可能性も使い尽くされたかのようではある。だが、伝承され、歴史のある鍵盤楽器の役割が音楽の尺度として、またその方向を示す手段として無用になるのかどうか、それは思弁的な問いであり、あまり学問的な問いではないだろう。


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