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一九世紀前半の音楽文献における「古典的」と「ロマン的」

アルノ・フォルヒェルト

Arno Forchert "Klassich" und "romantisch" in der Musikliteratur des fruhen 19 Jahrhunderts, in: Musikforshcung 31 (1978)


 音楽芸術が詩なとど違って概念を欠いた感情を通じて語っており、だから後に熟考すべきものを残さないというのは、カントが音楽についての述べた忌まわしい注釈であり、音楽家と音楽愛好家は、この注釈に抵抗するばかりであった。しかし実際のところ音楽に独自の概念性を発展させるのは難しい。そして音楽家と音楽論者は、いつの時代にも、つまり作曲の技術的側面を音楽芸術の本質や作用を越えて反省しようとするときでも、概念を別の学科から取り入れざるを得ないと感じている。ある学科から別の学科へ概念を移植するのは常に難しいものではある。だがまさにそうした困難を、我々は音楽特有の問題としてとりわけ明確に認識することができるのではないだろうか。

 一九世紀の音楽文献が別の学科から借りてきた概念のなかでも「古典的・ロマン的」という対概念は様々な理由から興味深い。まずは「古典的」と「ロマン的」を適用するやり方と、この対概念に対する理解の変転が、一九世紀の音楽観の特徴の一端をあらわにするからである。そして次に、この対概念の移植が−かなり遅れたとはいえ−文学の領域で新旧論争として長い前史をもつ問題を音楽文献に持ち込んだからでもある。そして最後に、この対概念の歴史は古典とロマン主義という音楽の時代概念への固定に行き着いており、この二つの時代概念が、問題を胎むとはいえ、一九世紀の音楽と音楽史についての我々の見方にとって非常に重要だからである。

 ただし「古典的」と「ロマン的」という用語の音楽文献における意味の歴史を調べることはとても難しい。二つの用語は、既に一八〇〇年前後の一般美学文献や文学批評文献において多義的だからである。この研究では、一方でこれらの用語の適用に意義を認めつつさしあたりこれらの用語とは独立して構築された音楽的事象にも配慮せねばならず、他方でこの二つの概念には、音楽には最初は相関物がなかったような本来の意味が結びついていたのだから。

 「古典的」という概念も複雑ではあるが、一八世紀末のドイツ語文献における用法をみると、大きく分けて三つの主要な意味を区別できる。一方で「古典的」とみなされたのは、次の世代の創作のモデルとみなされた作品、とりわけ文学作品であった。他方で「古典的」とみなされたのは一回的で反復できず、それゆえ歴史を越えた完全さという状態が達成されているかぎりでの古代の芸術、とりわけギリシャ彫刻である。そして最後に「古典的」とみなされたのは、過去の時代、ここでも古代であり、そこでの芸術形象は、キリスト教時代の芸術とは根本的に違う原理に支配されていた。換言すると、「古典的」という概念は一八〇〇年頃、詩学的かつ美学的かつ歴史的に理解されていた。一八世紀末のフランスの文献やフランスに依存したドイツの文献では「古典的」という概念が主に詩学的に理解され、「古典的」の美学的理解を基礎づけたのはヴィンケルマンのギリシャ体験とその後継者であった。そしてシラ−、シュレ−ゲル兄弟、シェリンクなどの文献によって、「古典的」感覚がアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルによって「ロマン的」と対比されたものとは歴史的に隔たっている、という意識が次第に呼び覚まされた。

 しかしここに挙げた諸相は、一八〇〇年頃にはどれも音楽に適用されなかった。音楽は古代の古典的芸術全盛期を顧みることもできず、手本と認められた作品のカノンという一般意識を顧みることもできなかった。音楽には、むしろル−トヴィヒ・ティ−クが一七九九年に『芸術をめぐる幻想』で述べた言葉の言葉が通用していた。「音楽は、我々がいかにしてそれを手に入れたにしても、あらゆる芸術のなかで最も若い。音楽はまだ本当の古典時代を経験していない。偉大な巨匠がこの領域のいくつかの部分を打ち建てたが、誰もまだ全体を包摂していないし、これまでほとんどの芸術家は、完全な全体を作品において提示していない」。だから音楽文献における「古典的」という概念の歴史は、一方でモデルと認められた音楽の傑作がカノンを次第に形成するプロセスであり、他方で特定の歴史の断片が音楽芸術における全盛期として美化されるプロセスである。ただし両者は世紀転換期になってようやく生じている。そしてまずは「ロマン的」という概念と隣接しており、あとになってから「ロマン的」という概念と対比して境界づけられた。端的に言えば、「ロマン的」という概念が音楽に転用されてはじめて、次の世代が現在に至るまで注目するような「古典的」音楽や「古典的」作曲家といった概念を構築するための前提が整ったのである。

 「ロマン的」も世紀転換期の一般的用語法では様々な意味レヴェルのある概念であった。しかしアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルによる「古典的」芸術と「ロマン的」芸術の区別におけるような歴史的な意味を除くと、この概念にはなによりもある世代の生の感情が表現されている。それは、ハンス・ロベルト・ヤウスの言葉によれば、自分たちの不完全な現在への不満をことさら明確に感じるといったものである。このような意味での「ロマン的」は特殊な性質をもった感覚であり、そこでは近さと遠さ、親しいものと未知なもの、意識されるものと予感されるもの、限界の知覚と永遠への憧れが、解きがたい矛盾において結び付けられている。このような生の感情に最も強くフィットした芸術は音楽、とりわけ既にヴァッケンロ−ダ−が「放埒な無垢」、概念を欠き「実り豊かで予言的な両義性の深淵」と讃えた器楽であった。「古典的」場合と違って、ロマン的」という概念を音楽現象に適用するのは当初から有意味であった。「ロマン的」は音楽一般の形容であるとともに、現代の傑作を過去の傑作から区別する質的メルクマ−ルという意味でも用いられている。近年になってようやく、音楽は独自の本質を見いだしたからである。このような意味では、たとえばヨハン・フリ−トリヒ・ライヒァルトが一八〇五年にプロイセン宮廷での一八世紀後半の音楽の発展を回顧して次のように述べている。「バッハ、グラウン、ベンダの器楽は次第に衰退し、ついにはハイドン、モ−ツァルトとその後継者による天才的でロマン的な作品に駆逐されている」。

 ライヒァルトがハイドンとモ−ツァルトの天才的でロマン的な作品という言い方をしていることは、既に上述のプロセスの一部である。一方で、かつては手仕事的な完全さや形式的均整そして表現の密度が一致した手本とみなされていた一連の作品が次第に高められてカノンとして評価され、他方で、音楽史の特定の断片、とりわけドイツ音楽の特定の断片が神聖化され、ナショナルな性格を理想的なやり方で実現した音楽発展の頂点となった。この二つの現象は、はじめは密接に結びついていたが、次第に平行化する。一方で傑作というカノンの形成は、既に閉じたものとなり議論の余地のない時代を前提としており、他方でドイツ音楽の全盛期や覇権を確信することは、器楽とりわけ交響曲を代表的ジャンルとして一般に評価するアクチュアルな意味づけにもとづいていたからである。なるほど既に世紀転換期には、ハイドンとモ−ツァルトが「指導的ヒ−ロ−」としてゲ−テとシラ−の世代と比較されていた。しかしゲ−テやシラ−と同じように、ハイドンとモ−ツァルトは一般の意識においてまずは現代の芸術家であり、異なるジャンルの代表であった。ハイドンのヨ−ロッパ的名声は、彼の器楽にもとづき、モ−ツァルトの名声はそのオペラ作品にもとづいていた。

 だが一九世紀初頭にはイメ−ジが変わりはじめる。一方で交響曲というジャンルが注目を集めるようになる。イタリアオペラやフランス序曲と違って、交響曲はハイドンが発展させた典型的にドイツ的なジャンルとみなされ、モ−ツァルトも最後の三つの交響曲で決定的な貢献をしたからである。そしてまた、ベ−ト−ヴェンの名声が一八〇〇年以後、様式的にとてつもない革新を感じさせた一連の作品によって高まり、次第にハイドンとモ−ツァルト−精神的、社会的に革命時代の変化に本質的には触れていない時空の作曲家 −と現在の思考、感性の距離が意識されるようになったからである。世紀の始まり以来の歴史論は、ハイドンとモ−ツァルトの時代を既に閉じたものとして記述し(一八一〇年にハイドンとモ−ツァルトは同時代人のなかでの「聖なる多様性のなかの統一」と讃えられている)、同時に音楽とりわけドイツ音楽の新しいロマン的な時代の黎明と記述している。ゲオルク・ル−トヴィヒ・ペ−タ−・ジ−フェルスのような著者にとって、それまでの時代は既に音楽の発展における頂点である。彼は、一八〇七年の論文でハイドンとモ−ツァルトの創作を悟性と想像力のアンチテ−ゼ的な構成と位置付け、それがあらゆる芸術世界を指導して完結させると考えた。両者の対立は、二人の巨匠において完全なやり方で形象化されたというわけである。近い過去の意義についての見方をさらに明確に示すのは、一八〇六年に出版されたハイドンとモ−ツァルトの交響曲のスコア出版を祝う論文である。「偉大で完全な管弦楽交響曲は、ドイツ世界においてまずはハイドンとモ−ツァルト−によるわけで、新し器楽の最高の輝かしい頂点である。交響曲はこの独自のジャンルを正当に支配するのみならず、さらなる正当性をもって、その威力を器楽の他のジャンルでも証明している(さもなければ、何故我々のピアノソナタや協奏曲が交響曲に接近しているというのか?)。……以下省略……」。

 ここには後に切り離されることになる二つの規定が現われている。一方がハイドンとモ−ツァルトの作品の規範性というイメ−ジである。その規範性は、将来の交響曲作曲のみならず、他のジャンルの作曲にも有効である。そして他方がドイツ起源の現代のあらゆる音楽活動の領域に影を落とす器楽の全盛期というイメ−ジである。二つの相を切り離すことは、ベ−ト−ヴェンの出現に画期的な意味を認められた瞬間から必要になった。ベ−ト−ヴェンの交響曲創作がドイツ器楽の全盛期を推し進めたのは間違いなかったからである。しかしベ−ト−ヴェンの作品は将来の作曲の規範にはふさわしくなかった。ベ−ト−ヴェン交響曲は規範的ではなく反復不可能であり、独創性を極端に顕揚していた。次の時代には次第に二つの異なる概念領域が問題になり、ついには「古典的」という概念が、同じやり方で同じ扱いを受けるようになった。「古典的」という概念も、一方で美学的、様式的に規定され、他方でジャンル史的、国的に規定されるようになった。ただしまだ世紀始めには、「古典的」という概念を音楽に転用するのに問題があった。「古典的」音楽をこの言葉特有の意味で用いるのはパラドクスとみなされたからである。あらゆる音楽の本質のみならず、新しい器楽はとりわけ「ロマン的」だとみられていた。音楽特有の「ロマン的古典性」といったものがあり得ることを、先に紹介したジルフェルスが一八一七年の論文で示している。そこで彼は、フランスの音楽上の国性を修辞的・弁論的と書き、ドイツ音楽を詩的・ロマン的表現と対比している。そして次に、だからフランス音楽がいつも言葉を必要とし、一方ドイツ音楽のロマン的傾向がドイツの「古典的器楽作曲家」を獲得したのだと結論づけている。

 当初は難解とされた《エロイカ》がヨ−ロッパのコンサ−トホ−ルを闊歩するようになって以来、ベ−ト−ヴェンは文句なく現代の最も重要な器楽作曲家とみなされた。しかしそのことが、それまでドイツ音楽の名声を支えていたハイドンとモ−ツァルトという二人組が、ハイドン・モ−ツァルト・ベ−ト−ヴェンという三人組になり、それが不可分一体の名前、ほとんど紋切型ともいえる定式へまとまって、ついには「ドイツ音楽芸術の三人のヒ−ロ−」とだけ言えば十分だというほどになった。三つの個性から国を自覚するための客体、民族精神の代表が育まれた。人は音楽芸術がドイツ特有の領域であり、そこに民族精神の代表があると信じたのである。既に一八〇五年には(おそらく史上はじめて)三人の巨匠の組合せが現われた。クリスティアン・フリ−ドリヒ・ミヒァエリスの論文『音楽における崇高について』である。当初は純粋な並列であったものが、E・T・A・ホフマンの名高い一八一〇年のベ−ト−ヴェンの第五交響曲論で、三位一体的な全体をつくる互いに異なる三人の巨匠という構成になった。このロマン的器楽の全体において、ホフマンによれば、ハイドンが人間的なもの、モ−ツァルトが超人間的なものをロマン的に提示した。だがベ−ト−ヴェンの音楽は、こうして提示されたものへの一切の距離を乗り越え、あらゆる対象性の残滓を根絶し、我々自身のなかで「驚愕、恐怖、卒倒、苦悩の梃子を動かし、ロマン主義の本質である永遠の憧憬を呼び覚ます」。ホフマンの構成の独創性は、ベ−ト−ヴェンの交響曲の新しさを定式化するのではなく、その新しさを既にハイドンとモ−ツァルトによって発展させられた器楽の可能性の完成と、それを越えた理想の実現として提示したことにある。ホフマンが彼の論文で目指したのは、三人の巨匠の形態化原理の共通点を伝統の連続として導くことではなく、ベ−ト−ヴェンの音楽における新しく異質なものを弁護することであった。彼が構成したのは、ハイドン、モ−ツァルト、ベ−ト−ヴェンの作品をまとめた時代の統一ではなく、ベ−ト−ヴェンの特殊な独自性が歴史的な必然であり、内的に正当であることを明確にすることであった。

 ホフマンのベ−ト−ヴェン論は無数の模倣者のモデルとなり、次々新たに空想豊かな趣向を凝らしたイメ−ジが提示された。そこでは、三人の巨匠の創作が朝・昼・夜、子供・青年・大人、春・夏・秋など同工異曲の無数のものに譬えられた。またホフマンの論文は、一連の重要な構成の出発点にもなった。とりわけ二〇年代はじめ以来、ヘ−ゲルの哲学的思考の影響が音楽文献でも次第に明確で注目すべきものになった。なるほど既に一八一五年にはライプチヒの美学者(のちにゲッティンゲンの哲学教授)アマデウス・ヴェントの論文が公表され、そこで彼はハイドン、モ−ツァルト、ベ−ト−ヴェンの違いを、方法的で計画的な形態化、有機的形態化、幻想的で自由な形態化として提示している。だがホフマンと異なり、三人の巨匠の違いがここでは器楽の統一的発展の三つのモメントと解釈され、モ−ツァルトの有機的形態化が頂点であり、ベ−ト−ヴェンの創作は既にその終焉を予感させている。約二〇年後の一八三六年に、ヴェントは彼の構想を流行していたヘ−ゲルの用語法にあてはめた。ヘ−ゲルが象徴的、古典的、ロマン的芸術形式を理念と現象の関係の交替に還元したように、ヴェントはハイドンからベ−ト−ヴェンへの展開において、素材と形式のその都度異なるやり方での関係が実現されているとした。今度はハイドンが、形式がまだ素材を支配している作曲家とみなされている。モ−ツァルトでは「形式と素材の完全な相互浸透」が認められ、一方ベ−ト−ヴェンでは二つのモメントが再び乖離して、素材が形式に対して過重である。そしてヘ−ゲルにおいて古典的芸術形式の芸術がその独自の概念を完全に実現しているように、ヴェントにとって−ここが初期論文と後期論文の違いなのだが−モ−ツァルトは「古典的なペリオ−デ」と総称された時代の本来の頂点である。

 ヴェントの構成においても、「古典的」の二つの相がまだ一体である。ひとつは、ハイドン、モ−ツァルト、ベ−ト−ヴェンの創作を包括する理性的芸術全盛の時節という相であり、もうひとつは、素材と形式が特定と規範的と感じられる作品において完全に調和するという様式の理想の相である。だが既に両者の分離も認められる。「古典的」という概念は、ヴェントにおいて、三人の巨匠の作品の作用に規定された時空にのみ適用されているが、それは彼らの作品の様式の統一的な特徴という意味ではない。彼らの作品は非常に多彩であり、「ベ−ト−ヴェンによってもたらされた偉大なエポックに、世俗音楽がそのエネルギ−と意義の頂点に駆け昇った」のは、ヴェントにとってもはや自明である。ヴェントは「古典的なペリオ−デ」とベ−ト−ヴェンのエポックを区別する。彼はペリオ−デとエポックという二つの概念の本来の意味に従っている。ペリオ−デは波状運動を特徴とする。そこでは最初の準備段階から中間の頂点段階そして最後の終結段階が相次いで現われる。これに対してエポックでは、エネルギ−の隆起ないし傑出した人格がその時代を刻印する。ペリオ−デとエポックの区別によってはじめて、ヴェントの議論の十全な意味が明らかになり、ヘ−ゲル美学との接点も明確になる。ヴェントの議論は、暗黙のものではあれ、ベ−ト−ヴェンのエポックをヘ−ゲルの言うロマン的芸術形式と平行させることで、ヘ−ゲル美学から三段階の全体構想の曖昧な位置付けをも受け入れた。ヘ−ゲルにおいて、ロマン的芸術形式は、古典的芸術形式に比べて美の現われという相で劣り、精神の自己実現プロセスの相で勝っている。同じようにヴェントのモデルにおいて、ベ−ト−ヴェンのエポックはモ−ツァルトのエポックの理想的完全には達していないが、エネルギ−と意義ではモ−ツァルトのエポックを越えている。還元すると、ベ−ト−ヴェンの音楽はまだドイツ音楽芸術の「古典的ペリオ−デ」に属しているが、その精神は既に「ロマン的」である。

 ハイドンとモ−ツァルトのエポックとベ−ト−ヴェンのエポックの間に線引きするのはヴェントだけではない。それは一八二〇年代はじめ以来、とくにベ−ト−ヴェンの後期作品が無理解と感動とともに世に現われて以来、一般的になった。典型的なのは一八三四年に出版されたラファエル・ゲオルク・キ−ゼヴェッタ−の『ヨ−ロッパ西欧の音楽の歴史』である。そこでのエポック区分をみると、ハイドンとモ−ツァルトの名前が最後から二つめの章に現われ、ベ−ト−ヴェンとロッシ−ニは音楽の最新のエポックに現われる。これは一八四六年のフランツ・ブレンデルとも共通する。そして一八三七年にヴォルフガンク・ロベルト・グリ−ペンケルルは次のように書いている。「ベ−ト−ヴェンはその先行者からはっきり区別される。ハイドンとモ−ツァルトの間に検証できるような類似が、ベ−ト−ヴェンについては考えられない」。

 しかしベ−ト−ヴェンの後期作品に音楽のまったく新しいエポックの黎明を見た者にとっても、ハイドン・モ−ツァルト・ベ−ト−ヴェンという名前がつくる弁証法的三位一体のイメ−ジは説得力のある思考モデルであった。ヴェントの構成ではモ−ツァルトが内的中心点であったが、彼にとってもベ−ト−ヴェンの創作は鳴り響く統合であり、ハイドンとモ−ツァルトが準備したものの成就であった。既に一八二四年に、アドルフ・ベルンハルト・マルクスは『ベルリン一般音楽新聞』でモ−ツァルトを抒情的で主観的な傾向の交響曲の作曲家、ハイドンを主観的で対象を提示する傾向の器楽の創造者とアンチテ−ゼ的に対比し、ベ−ト−ヴェンをその主要作品で主観的表現と客観的提示を統一した作曲家とみなしている。そして一八四六年になっても、『ウィ−ン一般音楽新聞』にユリウス・ヴェントという偽名でマルクスの構成をほとんど変更していない論文が発表されている。ここではハイドンが子供っぽい心をもった素朴に感じる巨匠、モ−ツァルトが青年風の魅力的な感情を満たす巨匠、ベ−ト−ヴェンが芸術をいわば大人にした巨匠とみなされている。ベ−ト−ヴェンでは、外的に触発された感覚が外に押し出されている。感情は、作品に刻印され、客観的な内包と内部を満たす生命を同時に特徴づけている。

 ただし、ハイドン・モ−ツァルト・ベ−ト−ヴェンという三位一体が頂点を中心にもつペリオ−デなのか前進する発展なのかはともかく、この主の記述の目的は、いつも調和がとれて計画的で理性的な歴史経過を構成することであり、経験的な発見を記述することではなかった。これに対応して、作品のなかからドイツ音楽史の近年の発展の必然性、論理性と一般的な意義を導きだすのに適した音楽的メルクマ−ルだけが選び出されている。しかしこうした思考モデルの目的がドイツの音楽芸術の黄金時代を褒めたたえることであるのが明らかだったにもかかわらず、ヴェントが一七六〇年から一八二七年までの時代を「古典的ペリオ−デ」と呼んだことには、ほとんど後継者がなかった。ドイツ語による音楽論者の大部分が、「古典的」という形容詞を依然として特定の作曲家あるいは作品に結びつけている(この場合、「古典的傑作」と呼ばれたのは、ハイドン、モ−ツァルト、ベ−ト−ヴェンだけでなく、バッハ、ヘンデル、グルック、そしてさらに古い教会様式によるイタリアの作曲家などである)。唯一ロベルト・シュ−マンは、ヴェントの用語法を受け入れて、アドルフ・ヘンゼルトの作品一の批評のなかでプロイセンのルイ・フェルヂナント皇太子を「古典的ペリオ−デのロマン主義者」、ヘンゼルトを「ロマン的ペリオ−デの古典主義者」と呼んでいる。

 しかし同じシュ−マンが別の文脈で「古い古典的楽派」の作品に対するライプチヒの聴衆の趣味を語るときには、既に秘かに「新しいロマン的楽派」という対立概念が想定されている。このような言い方には、近年の音楽史についてのドイツ的というよりフランス的な視点と対応する考え方が認められる。フランスの音楽批評は一八三〇年ごろからドイツの音楽雑誌で注目されるようになり、その影響下で次第に「ロマン的」という概念の意味が変転する。また「古典的」についての理解もこれと無関係ではいられなかった。一般的な生の姿勢の音楽的表現という「ロマン的」なものの古い意味と並んで、「ロマン的」なものには、ベ−ト−ヴェンに精神的に主導された作曲家の一派の名称という意味が現われる。こうした意味の変転は、ドイツではさらに容易に徹底した。ベ−ト−ヴェンの創作において特別なやり方であらゆる音楽を凌駕しているものをロマン的と見る考え方は、既に普及していたからである。[……省略……]

 ドイツにおけるのと同じようにフランスでも、「ロマン的」という概念には音楽に転用されるまでに長く複雑な前史があった。よく知られており様々に取り上げられてきたようにアウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルの定義がスタ−ル夫人によってフランスに紹介されて以来、「古典的・ロマン的」という対概念は二〇年代に覇権を争う党派形成の出発点となり、パリでは飽くなき文学論の対象になった。その場合、この二つの概念には次第に新たな意味が加わった。シュレ−ゲルの対概念に読み込まれていた歴史的要素が抑圧されることで、この対概念は一方で「古典的ジャンル」と「ロマン的ジャンル」を区別する様式概念とみなされ、他方で近代文学信奉者をアカデミ−・フランセ−ズの保守主義から区別して、新しいものと旧いもの、アクチュアルなものと使い古されたものを価値評価するレッテルとして利用された。新しいものの信奉者と旧いものの信奉者の間の論争は、若干遅れてパリの音楽ジャ−ナリズムにも飛び火した。そして文学の領域でヴィクトル・ユゴ−を取り巻く若い文学者のサ−クルがアカデミ−MP庇護を非難したように、音楽でもベルリオ−ズ、リスト、ショパンの信奉者が「ロマン的」な「活動派」だと考えられた。彼らは近代の作曲が少数の保守的な音楽理論家の無理解な判断を受けていることに反抗していた。ジョセフ・ドルティグが一八三一年に『パリ雑誌』の記事に書いているように、保守的な音楽理論課は旧態依然たる規則を提唱していたが、それは実際のところ「彼らの頭のなかに辛うじて残っているだけの恣意的な言い草」であった。ドルティグをさらに引用すると、彼は次に同時代の文学の状況を引き合いにだしている。「文学の古典派やアカデミ−派に相当するのが、音楽ではコンセルヴァトワ−ルなのだ」。

 フランソワ=ジョセフ・フェティスは『パリ雑誌』の編集者であり、ドルティグが槍玉にあげる保守的な音楽理論家のひとりだが、「古典的」と「ロマン的」という概念を反対派とよく似たやり方で用いている。ただし根本的に違うのは、彼にとって旧いものが規則への盲従のではなく、巨匠的な手本であることであり、彼は「ロマン的」音楽を非常に疑っている。彼はベ−ト−ヴェンをロマン派の精神的な父(「アクチュアルな一派の統領」)とみなし、その立場を文学におけるゲ−テに譬えている。既にベ−ト−ヴェンもハイドンやモ−ツァルトがその作品で規範的に実現したような様式の純粋さをもたらさなかった。ベ−ト−ヴェンの独創性への感嘆にもかかわらず、フェティスは彼の作品のバランスの悪さ、関連の欠如、偉大な美と生硬で珍妙なものの混在をあげつらう。まさにこうした特性こそが、フェティスによれば「音楽におけるロマン派」の主導者であり手本なのであり、彼らはベ−ト−ヴェンをも乗り越えようとしている。

 『パリ雑誌』のベ−ト−ヴェン論は、一八二八年はじめに『ライプチヒ一般音楽新聞』の記事でドイツの読者にも知らされた。この記事について編集者ゴットフリ−ト・イルヘルム・フィンク(彼はパリの同僚と同じく保守的であった)は、若干の注釈を加えた。それによると、ベ−ト−ヴェンについてのフェティスのまことに不十分な判断が撤回され、「ベ−ト−ヴェンのロマン主義に感嘆することを認めた正当性」が強調されている。ベ−ト−ヴェンの足元に跪く若い作曲家についての見解が、フェティスとフィンクでは完全に一致した。フィンクもベ−ト−ヴェンの模倣を邪道とみなしている。『ライプチヒ一般音楽新聞』の考えは長い間固定している。ロマン主義者ベ−ト−ヴェンは称賛するが、「ロマン派」は拒絶する。フィンクは一八三五年に書いている。「良い指導を受けたいものは、ロマン派にならない」。彼はハイドンとモ−ツァルトを作曲の道に入る者の手本として推奨している。

 どのような音楽のサ−クルが「ロマン派」に算入され、それが肯定的な古いロマン主義概念と混濁しているのか述べておこう。その場合、その対立者は決して一致していない。フェティスは「音楽のロマン派」としてさしあたりフンメル、ウェ−バ−、シュポアのようなドイツの作曲家を考えているが、ドイツの保守派が拒絶するのは何よりもフランスから来たものである。この場合の根拠が必ずしも音楽的事実ではなく、相当に政治的動機が作用しているのは明らかである。大部分のドイツの批評家にとって、パリで七月革命以後に成功した作品だというだけで、拒絶する十分な根拠になった。こうした態度は、さしあたり強烈な反響を呼んだ出し物、オ−ベ−ル、エロ−ル、マイヤ−ベアの成功したオペラ、そして時代の流行台本作家スクリ−ブに向けられている。

 こうしたグル−プは「新フランス楽派」と呼ばれ、ドイツのあらゆる音楽ジャ−ナリズムがほとんど区別なく彼らを非難した。同じ名称−そして同じような拒絶の態度−は、まもなくパリの器楽作曲家にも転用された。たとえばグスタフ・シリンクは、ドイツ器楽から逸脱するフランスのロマン主義概念の例としてリスト、ベルリオ−ズ、ショパン、オ−ベ−ル、アレヴィなどの作品を示し、その社会的な特徴が次のような態度にあるとした。彼らは、「これまでに芸術の規則とされたものをまとめて打倒」しようとしている。これが、「ロマン主義」という言葉で言われているものと最良の定義である。一八三〇年ごろのパリの作曲家についての別の名称には次のようなものがある。「ロマン的幻想派」、「悪魔のロマン主義」、「過剰にロマン的」、「パイパ−ロマン主義」、「似非ロマン主義」、「新ロマン主義」。批判的な性格をもつこれらの表現は、フランス音楽を拒絶するフィンクの『ライプチヒ一般音楽新聞』のような保守派機関だけの特徴ではない。シュ−マンの『新音楽雑誌』でも、同じようなやり方で「フランスの新ロマン派」が判定されているし、シュ−マン自身が一八三七年に、「粗雑で薄汚れた物質主義がフランスの新ロマン主義を堕落させる」と言っている。

 しかしパリのロマン派に対するシュ−マンの関係は曖昧である。独自性や大胆さに惹かれるとともにその強烈さを嫌悪し、極端な自己主張と実践的な効果には根本的な違和感を感じているのだが、一方で彼は、反ロマン派陣営の弱点を的確に見抜いている。彼らはそこに現われた新しさを拒絶するが、その代わりに現われるべき作品について口をつぐんだままである。保守的な理論家と新しい方向を目指す音楽家の間の争いにおいて、シュ−マンは当然なから創造的芸術家の側に立つ。こうした曖昧さと対応して、彼はフィンクが二重の意味で用いたロマン主義概念を温存するだけでなく、「古典的」なものという概念にも新たな意味のワリアントを付け加える。二〇年代フランスの文学論争における概念の批判的用法に依拠しながら、シュ−マンは保守的な規則にしがみつく者という意味での「古典主義者」と「ハイドンとモ−ツァルトのペリオ−デの古典性」を区別する。

 シュ−マンは、そもそも「古典的ペリシテ人」と「ロマン的な形式軽侮者」という二者択一を避けようとする。モシュレスは一八三六年に、ベルリオ−ズ、リスト、ヒラ−、ショパンとともにシュ−マンをパリ以外に住む音楽家のなかでの新たなロマン的傾向(=ベ−ト−ヴェンの後期作品に結びつこうとする傾向)とみなし、ヨハン・ペ−タ−・ライザ−は一八三八年に彼をライプチヒの「ロマン派」のボスと命名した。そしてユリウス・ベッカ−は、次の年にそれまでほとんどいつも否定的な意味でのみ用いられていた「新ロマン派」という概念を用いて「ロマン派」を小説で神聖化した。しかしシュ−マン自身は、「古典的」と「ロマン的」が対立ではないような音楽に加担する。ハインリヒ・ハイメの『ロマン派』が出版された一八三三年に、シュ−マンは次のように書いている。「音楽はそれ自体がロマン的なのに、ことさらロマン派をつくれるなどというのは信じられない」。だからシュ−マンにしてみれば、「現代の一般的教養のはるか前方を急ぐ」フランスの作曲家のロマン主義とバッハ、ヘンデル、グルックの作品にみられる「古代のロマン主義」を対置するのは矛盾ではない。このような意味での「ロマン的」なものは、派閥とも時代とも結びつかず、かつてのロマン主義理解におけるように、概念を欠いた器楽に特有の性質である。古典的なものとロマン的なものの相互浸透こそが、霊感あふれる真の芸術作品を既成の規範に沿って作られた職人の製品から区別する質であり、それはシュ−マンがティ−クとジャン・パウルに依存して考えた詩的なものと同義である。そして詩的なものと同様に、ロマン的なものはあらゆる芸術ジャンルに適用できる。シュ−マンの雑誌が当初から加担していたプログラムは「ロマン派」の目的を実現することではなく、「若い詩人の未来」を準備することである。それは「かつての偉大な巨匠を示すことによって」、また「若い才能 −その最良のものはロマン主義者とも呼ばれるだろう−を優遇することによって」到来するはずであった。

 二つの異なるロマン主義概念、つまりシュ−マンが芸術の理想としていた時間を越えたロマン的で詩的なものと、進歩を目指す作曲家の一派の名称としてのロマン主義は、三〇年代なかばには既に互いにかなり隔たっていた。両者を統一的な理解にまとめる試み(シュ−マンはショパンとヘンゼルトの初期作品について、まだそれを試みていた)は挫折した。むしろロマン主義概念の分岐は、それと密接に結びついた「古典的」なものという概念に明確な輪郭をもつ様々なニュアンスを与えた。ベ−ト−ヴェンに音楽の「ロマン派」の出発点を見た者にとって、それまでにも意識されていたハイドン、モ−ツァルトとベ−ト−ヴェンの距離は二つの時代の橋渡しできない深い断絶へと広がり、他方でこうした「ロマン派」の作品に現代の創造力の減退を見いだした者は、ベ−ト−ヴェンの創作でドイツ音楽の偉大な時代が決定的な終焉を迎えたというイメ−ジを確信する。前者の場合、「古典的」なものの代表はハイドンとモ−ツァルトである。[……中略……]一方後者において、ドイツ器楽の傑作の創造者はハイドン・モ−ツァルト・ベ−ト−ヴェンの三位一体である。[……省略……]

 以上のことから我々は注目すべき事実を析出できる。前世紀の半ばまで、「古典的なもの」という概念には二つの意味があり、そのどちらも我々の今日の古典理解とは重ならないのである。今日一般に「ウィ−ン古典派」と考えられているものは、むしろヘ−ゲル哲学の影響下で成立した三位一体の構成と一致する。それは歴史経過の断片を、エポックの境界など無視して厳格な論理形式で提示しようとするものであった。ヘ−ゲルの歴史観は、もちろんもはや我々のものではない。そこで様式の特定は、「古典的エポック」とみなされたハイドンの創作の成熟期からベ−ト−ヴェンの死までの時期を切り出すことを歴史的に正当化できなければならない。しかし今日の我々の古典概念の問題性は、まさしくこのように定義が主に様式批判的な知見に支えられていることにある。こうした古典概念の成立は今世紀のはじめである。そのころ、芸術史で発展した様式批判の方法が音楽学研究でも実を結び、歴史的、美学的な思弁は次第に詳細な作品分析の背後に押しやられた。作品分析の助けを借りてはじめて、「ウィ−ン古典派様式」とバロックの「古い古典的」巨匠の様式を区別する技術的基準を規定できるようになった。ただし様式批判的方法は、バロックと古典の様式要素を区別するのに有益である一方、古典的形態化とロマン的形態化のメルクマ−ルを明確に線引きすることにほとんど役立たなかった。

 フリ−ドリヒ・ブル−メは古典とロマン主義がひとつのエポックをつくると考えているが、この考えは様式批判に支えられているようである。しかしひとつのエポックという見方は、同時代の証言(それは一九世紀初頭にエポックを画する変化の意識を記録している)からあまりにもかけ離れている。一方、古典的エポックの独立性が確信されるときには、そのはじまりを様式批判的に規定して、そのおわりを歴史的に(ベ−ト−ヴェンの中期と後期の伝記的断絶あるいはベ−ト−ヴェンの死の日付)規定するのが普通である。だが過去を振り返ってみてわかるのは、現在の我々の古典概念の基礎であるハイドン・モ−ツァルト・ベ−ト−ヴェンの三位一体が、作品の一体性ではなく、作品創造者の歴史的意義の一体性とみなされていたことである。ベ−ト−ヴェンの音楽が発散する新しい感覚は、その作品の様式が根本的に変化したことに根拠づけられるのではなく、むしろ作品の受容の在り方が変化したことに根拠づけられる。

 変化の根拠は、世紀転換期に音楽の聴衆が組み替えられはじめたという事情に求められるだろう。それは作品を特殊音楽的カテゴリ−で把握する通と愛好家から、音楽についての知識が乏しく、芸術と美について豊富な一般教養を備えた音楽の友への組み替えである。ベ−ト−ヴェンの音楽は様式の点でハイドンとモ−ツァルトの書法よりもはるか複雑であり、その純粋に音楽的な意味を把握することは、こうした新しい聴衆には不可能でもあり、彼らはそのことに関心もなかった。一方アマデウス・ヴェントは、ベ−ト−ヴェンの作品が「想像力に取りつかれた感情に支配され、転調の歩みを規定している」と信じたが、もしそのとおりだとすると、ベ−ト−ヴェンの作品は精神的なものに関心をもつ聴衆を感動させるだけでなく、作品の理解(転調の歩みを規定する想像力の歩みの詳しい特性を問いただすこと)が必要でもある。音楽的関連が不問に付されるのではなく、それが表現を高める個々のモメントとの心理的結合によってはじめて生み出されるはずだという新しい聴取法こそ注目すべきものである。一九世紀初頭に叫ばれたエポックを画する分離の意識は、「古典的」と「ロマン的」という概念に込められた意識なのである。


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