仕事の記録と日記

白石知雄

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2004年6月30日(水)

演奏会評の記録を更新。『関西音楽新聞』に、シュトゥッツマンの「冬の旅」の批評を書きました。


2004年6月28日(月)

演奏会評の記録を更新。『京都新聞』、5月は大友直人指揮、京響定期について書きました。1月に、岡田暁生さんが、京響について『朝日新聞』で啖呵を切ったのを読んで(「超一流の外来オケ公演よりも、地元オケの必死の演奏を私は取る」)、正直言って、面倒なことになったな、と思いました。「京響友の会」会長(←京響メンバー表では、常任指揮者より上に名前が出ている!)のご子息が、全国紙文化欄で、公然と京響応援を宣言するという、ずいぶん、露骨なことが起きてしまったわけですから、やはり、それなりのリアクションをせざるをえないかな、気が重いな、と……。1月に京都フィル評で、「地元の楽団に、巧拙とは別次元で応援団が付くとしたら、これは、よくある話。ところが、京フィルは、最近、“現代音楽”を積極的に取り上げている。気軽に応援しがたい跳ね馬ぶりが、なんとも頼もしい。……」と書き、今回、京響の大友直人分(岡田さんが取り上げた首席客演指揮者・岩城宏之分ではなく)を改めて取り上げたのは、そういう意味もあります。『京都新聞』6月は、モザイク・カルテット京都公演について書きました


2004年6月27日(日)

午後、京都新聞トマト倶楽部の「京響コンサート」(京都コンサートホール)。定評のある中堅ソリスト二人による協奏曲。漆原朝子さんは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を新古典主義風にクールに弾く試み。概してうまくいっていたと思いますが、メロディをとりまく装飾音型が、意味を失って宙に浮くのが、このアプローチの原理的限界ではあるかな、と思いました。韓伽娜さんのベートーヴェン(ピアノ協奏曲第3番)は、今時めったいない、呼吸の深い演奏でした。今回の梅田俊明さんもそうですが、日本の「有能」とされる指揮者で、これを受け止めることのできる人は、ちょっといないかも。

演奏会評の記録を更新。愛知県芸術劇場のN響公演のプログラムに、ドヴォルザークのシューベルト論について、書きました。


2004年6月26日(土)

午後、岡城千歳さんのピアノ(栗東文化芸術会館さきら)も、面白い演奏会だったようで、できれば聴きたかったのですが、京都造形芸術大学「春秋座」、三絃の高田和子さんのシリーズ第2回「高橋悠治との仕事」へ行きました。前半は、高橋悠治の三絃や、尺八、箏を用いた作品5曲。後半は、出演者全員でケージ「Variation III」。高橋悠治が、藤井貞和の寝たきりの子供の詩に作曲した「寝物語」など、二十一世紀まで仕事を続けているというのは、ちょっと不思議な気がしました。高橋悠治は、ケージのチャンス・オペレーションについて、(私が可能性を選ぶのではなく)「神託によって選ばれるのだ」と説明していました。ケージ自身の言葉だそうですが、改めて新鮮な気がしました。


2004年6月25日(金)

四方恭子「無伴奏ヴァイオリンの夕べ」(京都府立文化芸術会館)。

国際コンクールの輝かしい入賞歴をもつ、若手や中堅の(多くの場合、女性の)日本人ヴァイオリニストが、一種のイニシエーションのように「イザイ無伴奏ソナタ全曲演奏会」を開いてしまうのは、こういう人たちが、今、置かれている(あまり幸福ではないのかもしれない)立場の「兆候」のような気がしてならないのですが、

(パートナーがいない「無伴奏」→試験やコンクールの延長?/ベンダやバッハやパガニーニではなく、プロコフィエフやバルトークでもなく、ウジューヌ・イザイ→難しいけど曲芸ではなく、バロックほど古くなく、現代曲ほど混沌としていない、「心」で「感じる」クラシック、演奏史的にも、師弟関係の系譜をたどれる「私」の「身内」/全曲一挙上演→成果の数値化・定量化?etc.……)

四方さんは、イザイ(第2、4番)を、バッハ(ソナタ第3番、パルティータ第3番)やパガニーニ(奇想曲第4番)、クライスラー(レチタティーヴォとスケルツォ)と組み合わせることで、鮮やかに、別の文脈を示してくれているように思いました。


2004年6月23日(水)

サロメ・ハレール、ソプラノ・リサイタル(京都府立府民ホール・アルティ)。フランス語の近現代歌曲集。といっても、フォーレ「5つのヴェネチアの歌」、ブリテン「イリュミナシオン」、他にバロー、カプレ。

近代のヨーロッパ芸術音楽は、良くも悪くも「自律」の道を歩んできた、と言われますが、オペラにせよ、歌曲にせよ、実はほとんどの作曲家が、歌(=詩への作曲)にも取り組んでいたわけで、そうした声楽の広がりを見直すだけでも、いわゆる「大文字の音楽史」(特に日本では器楽史が叙述の主軸)とは、随分、景色が違って見えるのではないか。ふと、そんなことを思いました。


2004年6月20日(日)

京都フィルハーモニー室内合奏団のドヴォルザーク没後100年記念特別演奏会(京都コンサートホール)。指揮者に関西フィル・コンサートマスターのバブアゼを招いて、ソリストは、林裕(チェロ協奏曲)と日下紗矢子(ヴァイオリン協奏曲)。管楽器などにも関西のオーケストラからエキストラが入り、力の入った記念演奏会でした。

ただ、オーケストラは、やはり急ごしらえという印象はぬぐいがたく、やはり、合奏の核になるような位置に、しっかりした人が常にいる、というのが理想かなと思います。このところ次々打ち出している企画が、一過性の盛り上がりで終わっては勿体ないので、今が正念場かも。

演奏会評の記録を更新。『ムジカ・ノヴァ』に、山田冨士子ピアノ・リサイタル、『ショパン』に小川恵子ピアノ・リサイタルの批評を書きました。


2004年6月15日(火)

演奏会評の記録を更新。『音楽現代』に、大谷玲子「イザイ無伴奏ソナタ全曲演奏会」の批評を書きました。


2004年6月13日(日)

午後、福井敬テノールリサイタル(びわ湖ホール小ホール)。トスティやレスピーギの歌曲や、山田耕筰も、全部、泣きの入った大仰なヴェリズモのアリアのようになるので、聴いていて、ちょっと辛かったです。トークから感じられる単純明快なキャラクターと、歌謡ショウ的な選曲・構成、大物然とした声。三者がうまくかみ合わない印象。舞台の人、ということなのでしょうか。


2004年6月12日(土)

16:30から、京都御所脇の洛陽教会で、チェンバロ三橋桜子、バロック・フルートの太田里子のデュオRIKM(りくむ)の結成コンサート。表現力豊かなフルートと、イメージを確実に音にすることのできるチェンバロ。これからの成果に期待しています。次回は10月、大阪。

終了後、大阪へ。フェニックスホールのレクチャーコンサート「ヴィルトゥオーソ狂想曲!」(講師:岡田暁生、演奏:北住淳)は、最後のリスト「ノルマの回想」のみ、廊下で聞くことができました。(あと1分早く到着していれば、会場に入れたのですが……。)

モシュコフスキーとリスト、厳選された4曲のプログラム。

「《ノルマ》の「タールベルクのハープ」は、タールベルク自身のどの作品も顔色をなくすほど難しく、華やかで、記念碑的なものになりました。ここには「世界一のピアニストは俺だ!」というリストの強烈な自負を見て取ることが出来るでしょう。上流階級の女性たち、慇懃な会話、評判や噂話、ゴシップと恋、そしてここに出入りする人々の気取りと見得とプライド。まさにこうした空気の中から、ヴィルトゥオーソの文化は生まれてきたのでした。」

この世界には「中心(頂点)」というものがあり、そこに我々は立っている――そのような「確信/夢」を生きた時代・階級の文化が、それにふさわしく処遇された講演会・演奏会だったのだろうと思います。

ただし、ヴィルトゥオーソは、あくまで、特定の歴史条件下でのみ可能な「夢」。そのことは、「音楽学者」=「歴史家」である岡田さんご本人も、レジュメの最初に断っておられるようです。

話の面白さに感染して、「ヴィルトゥオーソの復権」を叫んだり、「それにひきかえ、昨今のピアニストは……」と口走ってしまうのは、どこか三島由紀夫風に後ろ向きな「夢」と「現実」の取り違え。ヴィルトゥオーソを「達者な指回しの曲芸師」と矮小化するのと五十歩百歩の、滑稽なことではないかという気がします。

(滑稽さも、人生の欠かせない要素ではあるでしょうが。)

ところで、サン・シモン主義者だったフランツ・リストは、「世界一」のヴィルトゥオーソだったと同時に(だったからこそ?)、「芸術家の地位について」(1835)という論文を書き、芸術家の互助組織を構想し、後年、後進の東欧の音楽家などを積極的に支援しました。

晩年、「法服の悪魔」と揶揄されることになったリストの中には、どうやらかなり早くから、「悪魔」と「隣人愛」が同居していたようです。

(田川健一『キリスト教思想への招待』によると、キリスト教の「隣人愛」概念のベースには、「法外な金持ちは罪、無条件で地獄落ち」という庶民感覚がある、ということになるようですが、リストは、そういうバランス感覚を保ちえた人であるように見えます。)

一方、岡田暁生さんのオペラ研究の出発点になったR・シュトラウスは、最近何かと話題の音楽著作権制度(作曲家が音楽経済のヒエラルキーの「頂点」に君臨することを保証する制度)の推進者で、シュトラウスの遺族は、今も、ドイツで優雅な生活を送っていると聞きます。

功成り名を遂げたと言ってよい岡田暁生さんは、後半生をどのように過ごされるのでしょうね。


2004年6月10日(木)

関西フィルのいずみホールシリーズ第1回。昨年までの「ザッヒャー・シリーズ」などのような明確な企画意図は見えないのですが、ともあれ、藤岡幸夫の指揮で、ショスタコービチ「室内交響曲」、プロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第2番」(独奏、二村英仁)、シベリウス「交響曲第5番」。

楽曲解説の記録を更新。大阪フィルの室内楽演奏会の解説を書きました。


2004年6月6日(日)

京都府立府民ホール・アルティで始まった玉井菜採の3年連続シリーズの第1回。「ヴァイオリン・リサイタル」ということですが、「曲者」ピアニスト、清水和音と組んだ「デュオ」という印象でした。ラヴェル(ソナタ)とメシアン(主題と変奏)、特に面白く聴かせてもらいました。


2004年6月5日(土)

午後、三木稔のオペラ「春琴抄」(いずみホール)。演奏会形式ということですが、舞台後方とオルガンのあるバルコニーを効果的に使った舞台。釜洞祐子さんの春琴は、ハマリ役。


2004年6月4日(金)

大植英次指揮、北ドイツ放送ハノーファー交響楽団(ザ・シンフォニーホール)。タンホイザー序曲を聴いたかぎりでは、堅実なドイツの地方オーケストラという印象。大植氏の細部を作り込むやり方に、大フィルほど敏感には反応できていないように思いました。シュトゥッツマン(マーラー「亡き子を偲ぶ歌」)は相変わらず素晴らしい。(体調不良のため前半で失礼して、後半のブラームスの交響曲第1番は聴くことができませんでした。)


2004年6月2日(水)

神戸女学院大学院音楽研究科で、磯山雅先生を迎えて公開講座「バッハのカンタータ オリジナル・パート譜の発見をめぐって」。新聞報道などでは、はっきりしなかった部分まで、詳しい説明を聞かせていただくことができました。国立音大学外での報告は、これが初めてだったそうです。



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by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)