仕事の記録と日記

白石知雄

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2004年2月29日(日)

午前11時から、栗東芸術文化会館さきらで、長岡京室内アンサンブルのレコーディングを見学。

夜、関西フィルによる演奏会形式のドイツ・オペラ・シリーズ第3回ウェーバー「魔弾の射手」(ザ・シンフォニーホール)。唖然とする俗悪な演出でした。

第3幕フィナーレ(このオペラの中で、唯一切れ目なしに、通しでされている)が聞き所、それ以前の部分は「前フリ」に過ぎないと考えたのか、ディテールをカットしたり、過剰な解説で芝居の流れを平気で寸断。また、ストーリーのつじつまを合わせのために、ご丁寧に、ウェーバーがカットしたF. キントの台本のプロローグ(ここで結末の伏線が明示される)を復活していました。

まるで、貸借対照法の収支を合わせるかのように、作品の最後に帳尻がぴたりと合って、クライマックスが訪れる、というのは、いわば、芸術における「資本主義とプロテスタンティズムの精神」の発想。

一方、オペラ(少なくとも18世紀以前の宮廷オペラや19世紀以後のイタリア・オペラやフランスのグランド・オペラ)は、本質的に蕩尽の文化、最後に破産しようと、「今ここ」の充足を求める芸能。

……というのを前提にして、ウェーバーも、生粋の劇場人だと私は思っています。

例えば、第1幕冒頭の群衆シーン(と火花が飛び散るようなコン・ブリオの音楽)は、一挙に物語の「現場」へと観客を巻き込む場面であるはずです(若き日のC. クライバーの鮮烈な録音はその典型、今日の関西フィルの弦の疾走感も素晴らしかったです)。その前に、説明的な「しょぼい」プロローグがあっては、観客の期待を萎えさせるだけでしょう。これを復活させるのは、明らかに「非オペラ的」な発想ということになると思います。こんな調子で、今日は、せっかくの熱い料理が、ことごとく、くだらないナレーションで冷まされてしまう、最悪の3時間でした。

(しかも、推理ドラマのトリックを先に解説してしまう、できの悪い映画解説者のように、音楽の聞き所まで、ナレーションで、すべて事前にしゃべっていました。)

ワーグナーは、典型的にフィナーレ重視型の作曲家ですが、18世紀のオペラは、個々の途中経過がリアルタイムに面白くなければならないし、個々のディテールが面白ければ、それで十分。「神々のたそがれ」の幕切れの音楽だけを抜粋するというのは、まだ、考えられなくもないですが、モーツァルトの「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」の最後の重唱には、幕引きの意味しかありません。ウェーバーの場合も、主役たちのアリアや、「笑いの合唱」、「狼谷の場面」など、聞き所は前半に並んでいます。

今回の演出・構成・台本が、どうしてこうなったのか、具体的な経緯は知りませんが、フィナーレを、まるで「マイスタージンガー」の最後の「ドイツ万歳」風に盛り上げようという、右翼的発想は、大いなる勘違い(時代錯誤?)のような気がします。

(領主や猟師長が、歓呼の声に応えるように、鷹揚に手を上げる動作も、変な感じ。ウェーバーの音楽の躍動感は、「お上」を讃えているわけではないのに……。「花娘の合唱」で、8人の女性が、一斉に右手を上げるのも、「ハイル・ヒットラー」のようで。もっと、やりようがなかったのかと思いました。)

もしかすると、ワーグナーに至る「古き良きドイツの精神」で、ウェーバーの「最良の部分」を顕揚しているつもりだったのでしょうか。

むしろ、「魔弾の射手」の、歌と語りとメロドラマが混在する歌芝居には、シュトラウスやレハールのオペレッタにつながる猥雑さがあるように思います。そして、「魔弾の射手」のウェーバーは、楽劇の祖先というより、最良の「劇伴音楽」だと、私は思っています。

もともと、マンハイムやミュンヘンなど、ライン河畔や南ドイツの明るく社交的な文化風土になじんでいたウェーバーが、プロイセン(ベルリン)やザクセン(ドレスデン)で上演するために、「かりそめに」身にまとっていたにすぎなかった北ドイツ風の重厚さ(実際には換骨奪胎されていて、それほど重くも深くもない)を、あたかも、ウェーバーの音楽の核心であるかのように誇張するのは、趣味が悪いと思います。

この公演は、かなり楽しみにしていただけに、そして、演奏が悪くはなかったので、なおさら、不愉快。


2004年2月28日(土)

長岡京室内アンサンブル演奏会(栗東芸術文化会館さきら大ホール)。前半は、2組の弦楽四重奏の形で演奏するシューベルトの舞曲集や、三拍子の特徴的なリズムを、各パートがキャッチボールのように受け渡すギャヌー「シャコンヌ」(委嘱作品)など、これまで以上に、室内楽的な、個人の役割の大きな曲が取り上げられていました。


2004年2月24日(火)

演奏会評の記録を更新。『京都新聞』に、京フィル定期演奏会の批評を書きました。


2004年2月23日(月)

大阪フィルのメンバーによる室内楽の愉しみ(大阪フィル会館)。ミヨーがブラジル時代に書いたフルート、オーボエ、クラリネット、ピアノのためのソナタは、「未開な南国」(文明国から見た)風の湿った響きや、粗野な音というイメージを表に立てて、多調性などを実験している曲。1910〜20年代は、アナーキーな時代だったのですね。

楽曲解説の記録を更新。上記「大阪フィルのメンバーによる室内楽の愉しみVOL.36」の解説を書きました。


2004年2月21日(土)

いずみホールの9人のピアニストによるベートーヴェン・ピアノソナタ全曲シリーズ最終回、コンスタンチン・リフシッツによるop.26「葬送つき」、op.90第ホ短調、op.106「ハンマークラヴィア」。もやがかかったようなピアニシモの中に、ガツンと重い和音を打ち込んだり、宝探しのように、意外な表情を引き出そうとする演奏。「ハンマークラヴィア」の巨大さは、もともと、サウンドとしての面白さを目指さずに書かれたようなところがあるので、音響的な工夫だけでは、歯が立たないように思いました。


2004年2月19日(木)

夜、中島慎子ヴァイオリン・リサイタル(中之島公会堂中集会室)。遅刻したので、シューベルト「幻想曲」とシューマン「ソナタ第2番」だけ聞きました(ピアノ、加藤洋之)。フレージングや表情の付け方など、あれこれ考えて、工夫した演奏だったと思うのですが、ポイントがはっきりしない印象を受けました。委細かまわず、ポンとヴァイオリンがイニシアチヴを取る場面などが、あったほうが、よかったのではないでしょうか。


2004年2月15日(日)

午後、京響名曲コンサート(京都コンサートホール)。指揮者のマイケル・ギルバートは、ごく最近のマズア時代まで、ニューヨーク・フィルのコンサート・マスターを務めた人。弦楽器をたっぷり歌わせて、とても、わかりやすい音楽を作ってくれました。モーツァルト「ピアノ協奏曲第9番」(ピアノ、小山実稚恵)と、マーラー「交響曲第1番」。

演奏会評の記録を更新。『音楽現代』3月号に、神戸市室内合奏団と大谷玲子ヴァイオリン・リサイタルの批評を書きました。


2004年2月14日(土)

ザ・フェニックスホールのレクチャーコンサート・シリーズ第5回「鍵盤上のベルカント〜ショパンとオペラ」。講師のシルヴァン・ギニヤールさんが、日本で、こうしてまとまった形でショパンについて話してくださるのは、初めてのこと。ギニヤールさんの論文や考えは、学生の頃から知っていて、ショパンについて話したり書いたりする時のベースにさせていただいてきたのですが、ご自身のコンセプトにそった形で演奏(ピアノ、幡谷幸子)を作り込んだり、ベル・カントの声(ソプラノ、梅村憲子)と重ね合わせたり、という試みを、実際に聴くことは、本当に充実した経験になりました。

話が魅力的すぎて、そのあとに演奏するのは、かなり厳しい試練。でも、上手く行けば名誉だし、失敗しても、不名誉ではない、生産的な「賭け」だったように思います。(「弟子たちから見たショパン」という本を読むと、パリのショパンのレッスンも、そういうものであって、いわば、レッスン自体が「芸術」だったようです。)

厳密なルールと監視で音楽家を追い込むコンサート・コンクール的なプレッシャーとは似て非なる状況。音楽と音楽学の間に、相互監視的な(=どこかサディスティックな)形ではない、説得と訓育のインターフェースがあり得るのだと、改めて、思いました。(……19世紀の音楽学は、そういうサロン的な知から生まれたという側面があるように思います。音楽学のブルジョワ性を考えるような、「文化論的研究」――cartural studiesをこう訳してはいけないのでしょうか――でも、これは、大事なポイントだったりするのではないでしょうか?)


2004年2月12日(火)

大植英次・大阪フィル定期(ザ・シンフォニーホール)。ショスタコーヴィチ「交響曲第7番」。昨年の井上道義指揮の「第5番」のときにも思ったのですが、ショスタコーヴィチは、本当は、ピアニシモの音楽家であるように感じました。

大植さんは、先のいずみホールのモーツァルトの時もそうでしたが、音楽と距離を保って「鑑賞」するのではなく、音をぎゅっとつかんで、こねまわしたり、音に直接さわって、ぬめりやざらつき、温度などを感じたり、身体感覚から出発しているような印象を受けました。このアプローチには、オーケストラの「凝り」をほぐす絶大な効用があるようです。おそらく、国際的に通用する、最新のオーケストラ操縦法なのだろうと思います。

たぶん、大植さんは、広い舞台に出てゆく(そうならざるを得ない)ような気がします。それが、どういうタイミングになるかによって、大フィルが、一緒に行くのか、そうしないのか、態度を問われる時が来るのかも、と、ふと、夢のようなことを考えてしまいました。世の中、そんなに甘くないでしょうけれど。


2004年2月11日(水)

いずみシンフォニエッタ第7回定期演奏会(いずみホール)。こういうグループを運営しようとしたら、レジデンス・オーケストラの存在意義とか、20世紀のいわゆる「難解な」音楽が(まるで慈善事業のように)取り上げられるだけで無前提に肯定されて良いのか、とか、色々とポリシーが問われざるを得ないと思います。でも、実際の舞台を支えているのは、関西の腕利きを集めている豪華なイメージと、目先の課題を限られた時間でまとめねばならない、「お祭り」特有の集中力とハイ・テンション。私には、問題を半永久的に先送りする自転車操業に思えるのですが、評判は、悪くないようです。(「上手い」ことは、無条件に価値なのか、というのは、豪華キャストのレジデンス・オーケストラに関して問われるべき、大事な問題のような気がするのですが……。)

この種の自転車操業は、関係者それぞれが、目先の小さな「メリット」に動機づけられる構造になっていて、誰も責任をとりようのない形で存続する傾向があるように思います。このグループの場合は、どうなのでしょう。レスピーギ「ボッティチェルリの3枚の絵」、ハイドン「告別」交響曲、イベール「アルト・サックス協奏曲」、西村朗「室内交響曲」第2番(=「世界初演」、プログラムには明記されていませんが、おそらく、同時に、「地球初演」、「宇宙初演」、「大阪市中央区城見一の四の七〇初演」)。


2004年2月10日(火)

演奏会評の記録を更新。『京都新聞』に、ブダペスト国立オペレッタ劇場京都公演の批評と、2月のお薦め演奏会紹介を書きました。


2004年2月8日(日)

午後、音楽家と舞踊家(orグループ)を引き合わせて、ひとつのステージを作らせてみよう、という京都府の企画「ダンスの未来」Vol.2(京都府立府民ホール・アルティ)。前半は、宮本妥子(打楽器)+小川珠絵、後半は、瓢箪楽団の三木俊治+花嵐。後者が、日本の「カミガミ」の誕生+祭りの音楽、という、一般性のある(無難な?)コンセプトから出発しているのに対して、前者は、具体的な音から出発して、即興的or分析的に動きをつけるアプローチ。こちらの方が、冒険的で面白かったのですが、まだ、道半ば、という印象は残りました。音と身体の関係をロジカルにつきつめるのだとしたら、「音→動き」だけでなく、「動き→音」等々のパターンも試せるとよかったのでは、と思いました。


2004年2月7日(土)

午後、京フィルが20世紀の音楽を取り上げる定期演奏会「ムジカ・ノヴァ」(京都コンサートホール小ホール)。武満徹の丁寧な演奏が印象的でした。また、コルンゴルト「空騒ぎ」組曲を聴き、ラスカの舞台音楽(1/24参照)のことを思い出しました。ラスカについて考えるとしたら、20世紀初頭オーストリアのバレエという文脈を立てるべきではないか、と思いました。(同じ1920年代だからといって、パリのバレエ・リュスを持ち出すのではなく。)

夜、藤岡幸夫・関西フィルの「パウル・ザッヒャーの遺産」Vol.4=最終回(いずみホール)。外山雄三「ディベルティメント」(日本民謡を、いわば原色で、スクリーンに大写しにするような書き方に、ふと、コープランドを連想しました。上野正章氏によると、日本の占領時代に、アメリカの「現代音楽」が大量に紹介された時期があるとか。もしかすると、外山さんは、その世代?)。マルティヌー「2群の弦楽合奏とピアノ、ティンパニの協奏曲」(小さな音型が積み重なる、ざわめきのような音が印象的、大ざっぱな感想ですが、こういう音が、スメタナからバルトーク、リゲティまで、東欧の音楽家にしばしば出てくるように思うのですが、気のせいでしょうか)。シューマン「交響曲第2番」(相変わらず、不器用な指揮ぶりですが、「体裁より、音楽」と言わんばかりの、空回りしない躍動感)。このシリーズは、「客寄せ」的な協奏曲のない潔い選曲で、弦楽器を中心に、回を追うごとにまとまってきて、とても良い仕事だったのではないでしょうか。


2004年2月5日(木)

大植英次・大フィルのオール・モーツァルト・プログラム(いずみホール)。最後の「ジュピター」は、音楽の生々しい手触り、凹凸や、ざらつきや湿り気といった音の触感を感じさせる鮮やかな演奏でした。前半の3つの交響曲(第1番――大植のチェンバロはやや作為的――と第39番)は、オーケストラが乗ってこず、空回り。


2004年2月1日(日)

演奏会評の記録を更新。『関西音楽新聞』に、昨年末の唐澤まゆこソプラノ・リサイタルの批評を書きました。



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by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)