仕事の記録と日記

白石知雄

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2003年8月29日(金)

午後、兵庫県の芸術文化センター音楽監督に就任した佐渡裕のプロデュースで「ヘンゼルとグレーテル」(明石市立産業交流センター)。歌手3人、アンサンブル6人の小編成ですが、舞台や照明は本格的。前半は、客席の子供たちと一緒に歌って踊り、後半はテンポの良い寸劇。全部で約1時間。子供たちにとっては、丁度良い出し物でした。演出・進行役・タップと、伊藤敬子が大活躍。


2003年8月28日(木)

バッハの無伴奏チェロ組曲を、リレー形式で毎回異なるチェリストが弾く「さまざまな、それぞれのバッハ」シリーズ第2回、河野文昭さんによる第3、2、6番(京都府立府民ホール・アルティ)。曲間に、作品のことやチェロのことを丁寧に解説しながら進む、河野さんらしいスタイルでした。勉強になりました。良い演奏会でした。


2003年8月27日(水)

ヴァイオリンの鈴木麻里とピアノの藤井快哉のデュオ(ザ・フェニックスホール、ホールが企画を公募したエヴォリューション・シリーズ)。曲目は、ストラヴィンスキー「イタリア組曲」、ラヴェル「ツィガーヌ」、クライスラーの小品集、R・シュトラウスのソナタ。「ヴァイオリン・リサイタル」(ヴァイオリン奏者=ソリストが、ピアニスト=伴奏者を雇って開く)で聞き慣れた曲ばかりですが、お二人の演奏は、細部まで綿密に表現を整えた本格的なデュオ。アメリカ、インディアナ大学で知り合い、一緒に組むようになったそうです。


2003年8月23日(土)

東京混声合唱団いずみホール定期演奏会No.8。田中信昭指揮活動50年記念とのこと。モンテヴェルディは、今では、古楽系の少人数のアンサンブル・スタイルで聴くことが多いですが、田中氏は、タイミングやパート間のバランスを一元的に(いわば一点透視図法のように)制御する「モダン」な指揮者。関西の合唱団(混声合唱団ローレル・エコー、「新しい合唱音楽研究会・関西」)との合同演奏(三善晃「蜜蜂と鯨たちに捧げるオード」、詩:白石かずこ)を仕切る姿は、さまになります。他に、野平一郎「光の庭」(詩:松浦寿輝、点描的でストイックな音楽、不思議な響きがして、面白くなってきたな、と思ったところで曲が終わってしまいました)、一柳慧「隠岐のミチザネ」(詩:大岡信、舞台上を歩きながらの朗読・朗唱・歌唱が堆積する一柳版シアターピース、「菅原ノ道真は/隠岐ノ守に任ぜられ/[…]/貧しく辛い人々を詠んだ/[…]/たしかにこれは千百年も前のはなし/[…]/(けれど)これはほとんど現代のこと」、今時、「民衆の貧しい生活」という身も蓋もないメッセージを、映画音楽風のわかりやすい音で提示するアナクロニズムは、おそらく確信犯)。


2003年8月22日(金)

藤岡幸夫指揮・関西フィルハーモニーの「ミート・ザ・クラシック」第7回(いずみホール)。前半は、ルロイ・アンダーソンや「指揮者に挑戦」コーナー、吉松隆「アトム」組曲(リメイク版「アトム」のテーマによる)、後半は「シェエラザード」。クラシック入門コンサートというと、つい、子供たちのための音楽会と考えてしまいますし、「アトム」等の選曲も、そういう趣旨だろうと思います。でも、実際に「指揮者」コーナーに登場したのは、30代のアマチュア・オケ経験者と、70代(60代だったかも)の男性。そろそろ、大人のためのクラシック入門、というプログラムも必要なのでしょうか……。前半に気軽に楽しむ小品、後半に大曲という構成は、バランスが良いですね。


2003年8月20日(水)

演奏会評の記録を更新。『ムジカ・ノーヴァ』9月号に、志賀雅子さんのピアノ・リサイタル、『音楽現代』9月号に大阪シンフォニカー交響楽団6月定期演奏会の批評を書きました。


2003年8月18日(月)

演奏会評の記録を更新。『京都新聞』夕刊(8/14)に、7/26の宮本妥子さんのパーカッションライブの批評が出ました。


2003年8月16日(土)

午後、大阪府主催、関西のオーケストラによる演奏会シリーズ「大阪・元気クラシック」、第3期(若手指揮者を起用、色々な楽器の協奏曲と定番名曲の組み合わせ)の3回目(NHK大阪ホール)。指揮者の斉藤一郎は、派手な風貌で、行動力満点という様子ですが、音が整理されていて、耳の良い人かも、と思いました。音の組み立て方も、概して、ピアノ演奏をそのまま大写しにしたように、旋律とバスを立たせるベーシックなもの。「乱暴者」ではないですね。曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲(独奏、奈良田朋子)とベートーヴェンの「英雄」。


2003年8月15日(金)その2

解説の仕事をたのまれて、少しグノーのことを調べました。グノーがオペラ「ファウスト」や「ロメオとジュリエット」を書いたのは、文化史で「現代(モダン)」がはじまったとされる第二帝政期。世紀前半のドイツやフランスのロマン主義者たちは、シェークスピアを熱狂と混沌の「近代(モダンな)」文学ととらえていたようで、ベルリオーズの標題交響曲は、その典型。グノーの時代は、「ロメオとジュリエット」が甘いメロドラマと見なされるようになる転換点なのかな、というようなことを、ふと思いました。


2003年8月15日(金)

先月の関西フィル定期演奏会で貴志康一の作品(「日本組曲」から「花見」と「道頓堀」)が取り上げられ、そのことで、その後、音楽評論家の小石忠男さんとお話する機会があったりして、ここ数日、貴志康一のことを少し調べはじめています。

一口で言うと、貴志康一というのは、関西のクラシック音楽における「芦屋」(いわゆる「阪神間モダニズム」)の意味を考える糸口になるのかな、という気がしています。貴志康一や朝比奈隆を育てたのが、阪神間のブルジョワ文化(とりわけ、ラスカやメッテルなど、当地に滞在していた亡命ロシア人音楽家)だった等々ということだけでなく、現在でも、「芦屋」的価値観のようなものが、関西(阪神間)のクラシック音楽の底流にあるような気が、なんとなく、しています。高級家具のような、きらびやかな響きが好まれるところとか、議論・詮索よりも、効果と快適さが好まれるところとか……。


2003年8月2日(土)

午後、鈴木貴彦によるブーレーズ「アンシーズ」、「ピアノソナタ第3番」とジャン・バラケ「ピアノソナタ」(バロックザール)。奇妙な音楽としてではなく、いわば「美しい」音楽として、端正に演奏してくださいました。バラケは日本初演。


2003年8月1日(金)

「囃子堂」と題して、能囃子(謡と囃子)をコンサートホールで、音楽として聴いてみようという企画(京都コンサート小ホール)。わかりやすい解説もあって、違和感なく「鑑賞」できたのではないでしょうか。「よお〜!」「はっ!」という掛け声(まさに「囃し」)を含めて、音楽なのだ、というのが面白いことだと、改めて思いました。考えてみれば、西欧のオーケストラや室内楽も、指揮や、奏者たちの身振りや目配せなしには、アンサンブルが成立しないわけで、純粋な音・耳だけの芸術ではないですね。



all these contents are written in Japanese
by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)