仕事の記録と日記

白石知雄

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2003年3月31日(月)

午後7時、いずみホール(京橋)で飯守泰次郎指揮・関西フィルの「ブラームスと国民楽派」シリーズ。シベリウスのヴァイオリン協奏曲のオーケストラは、伊福部昭のように土俗的な表情。遠慮なくかぶさって来るので、ヴァイオリン独奏の大谷玲子さんは、常に目一杯弾かざるを得なかったようです。

午後8時、ザ・フェニックスホール(梅田)へ移動して、ヴァイオリンのナンドール・セデルケニさんが弾くハンガリー音楽(フバイとブラームス、後者はヴァイオリンの清水玲子との二重奏)。昨年12月に続く二度目の共演で、ピアノの小坂圭太さんとも、遠慮なく、やりあっている様子。スロー・テンポでも、ぐっとタメて、予備拍なしに強拍へ切り込んで来るのが、ジプシー流なのでしょうか(「短い音符+長い音符」のいわゆる「ロンバルディア・リズム」はその典型)。この間合い、病みつきになります。また、チャルダッシュの裏拍は、鞭がピシッとしなるような躍動感。二拍子の裏打ちといっても、マーチのように歩いたり、フレンチ・カンカンのようにスキップしているのではなく、太股の筋肉がしなるジャンプですね。伊東信宏さんが、朝日新聞に「生涯を裏打ちの八分音符で終える、ハンガリーのオペレッタ劇場のヴィオラ奏者に憧れる」と書いていた意味が、少しわかったような気がしました。


2003年3月30日(日)

午後、京都コンサートホールの建物内で、井上隆平さんのヴァイオリン・リサイタル(3F小ホール)と、小林研一郎指揮・大フィル特別演奏会(2F大ホール)を半分ずつ聞くという、乱暴なことをしてしまいました。小林亜矢乃さん(コバケン氏の娘さん)が弾くショパンのピアノ協奏曲は、ピアノもオーケストラも、よく言えばロシア風の、ドロっとした演奏。井上さんのリサイタルは、最後のシューベルトの幻想曲を会場内で聴くことができなかったのが残念でした。


2003年3月29日(土)

栗東芸術文化会館さきらは、5台のグランド・ピアノを所有する豪勢なホール(広大な前庭を擁する建物も立派なもの)。ファツィオーリ製のピアノ(明るい響きで、古いピアノの感覚を留めたハンド・メイド)を使った菊池洋子さん(イモラ音楽院在学中)の国内初リサイタルは、聞いていてワクワクする、素晴らしい演奏でした。


2003年3月27日(木)

演奏会評の記録を更新。『音楽現代』に、ウーヴェ・ムントのことを書きました。


2003年3月26日(水)

田部京子ピアノ・リサイタル(京都コンサートホール)。「さすらい人幻想曲」は、バランスのとれたシューベルトでした。


2003年3月25日(火)

大学・大学院・研究員時代、13年間(!)にわたって、私の制度上の指導教官(のひとり)だった山口修教授(大阪大学文学部)の退官記念祝賀会がありました(千里阪急ホテル)。驚異的な数の学位取得者を生み出し、新時代の大学院運営を積極的に推し進めた方でした。


2003年3月23日(日)

午後、渡邊玲奈フルート・リサイタル(バロック・ザール)。高音がきれいに延びて、速いパッセージも鳴りきっている立派な演奏。ソナタや組曲を4つ(ヘンデル、プロコフィエフ、ダマースマン、リーバーマン)、他に技巧的な作品を2曲(ユン・イサンの「ソリ」、テレマンの「無伴奏ファンタジア」)。大変な演奏会でした。


2003年3月22日(土)

午後、コレギウム・ムジクム・テレマンによるテレマン「ブロッケス受難曲(東梅田教会)。前回のヘンデルと比べると、曲の配置、コントラストが工夫されていて、はるかに聞きやすい音楽。

夜、倉田優フルート・リサイタル(バロック・ザール)。クリフォード・ベンソンは、余裕のある良いピアノでした。


2003年3月21日(金)

NHKBS2で、深夜、ウーヴェ・ムント指揮NHK響の大阪公演(2月25日)が放映されていました。ベートーヴェンの交響曲第8番、京響を振った時より表情づけが繊細で、表情が明るかったのに驚きました。やはり、オペラ、オペレッタが向いている人なのかも。


2003年3月20日(木)

中村伸吾ピアノ・リサイタル(ザ・フェニックスホール)。バッハ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスをこつこつ弾き分ける職人仕事。


2003年3月19日(水)

飯守泰次郎指揮、関西フィル定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)。メシアン「忘れられた捧げ物」とブラームス「ドイツ・レクイエム」。後者のバリトン三原剛さんの声に聞き惚れました。


2003年3月17日(月)

3/8の私の感想に対して、増田聡さんが返事を書いてくださったようです(ロック少年リハビリ日記03-03-14)。ご多忙の中、恐れ入ります。

「紀要ごときの論文」と書いておられますが、記憶違いでなければ、論文の内容は、昨秋の日本音楽学会全国大会の「若手研究者が学会の現状にもの申すシンポジウム」の報告にもとづくものと思います。要するに、音楽学(会)への苦言・提言。一応、私も学会の会員なので、自分なりの感想をまとめておくことは、(私自身にとって)意味があると判断したので、3/8の文章を書きました。

もともと、自分自身のために書いていることですし、増田さんの返事を読んで、こちらの考えが変わった、というようなことは、今のところ、ほとんど起きていません。ただ、一点、「音楽(の)分析」についてだけ、新たに思いついたことがあるので、書き足すことにします。あくまで、ひとりごと、として。

「音楽(の)分析」ですが、この行為は、考えてみると、音楽学の専有物ではないような(そうであってほしい)気がします。必要があれば、作曲家でも演奏家でも聴き手でも、適宜やっているはずです。それに、民族音楽風な見方になりますが、カラオケなどで「Aメロ」「サビ」というような言い方で歌が分節したり、歌い手さんが、デモテープを聞きながら、歌詞カードに線や図形を書き込んで、メロディラインを覚たりするのも立派な分析。学者でないのに分析が巧みな人が出現するのは、特に不思議ではないことなのかもしれませんね。私自身は、人に教わって、本を読んで、見よう見まねで音楽を分析することしかできないですけれど。


2003年3月16日(日)

午後、「文楽人形と京フィル 曽根崎心中〜道行の段〜」(いずみホール)。小オーケストラ(京フィル)と歌(ソプラノ、西垣千賀子、テノール、西垣俊朗)の音楽を丸山和範が作曲して(テクスト、ひらのりょうこ)、これにあわせて、徳兵衛(吉田文吾)とお初(吉田文司)の人形が演じる趣向。いわば文楽オペラの試みでしょうか。国立文楽劇場の人たちが、とても協力的(ノリノリ?)だったみたいです。

終演後、昨日のレクチャーコンサートのメンバーによるクラヴィコードのワークショップへ(大阪教育大学)。最後の数分しか聞くことはできませんでしたが……。


2003年3月15日(土)

午後、玉井菜採(Vn)、船曳千智(Pf)のデュオ・リサイタル(豊中アクア文化ホール)。……といっても、実際は、ヴァイオリン・ソナタ3曲(モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス)と無伴奏ヴァイオリン1曲(イザイ第3番)。ベートーヴェンのヘ長調ソナタを、のどかな「春」というニックネームなど忘れて、ダイナミックに演奏してくれました。

夜、レクチャーコンサート「ピアノはいつピアノになったか?」の第1回「ピアノの誕生」(ザ・フェニックスホール)。3年計画の大きな行事(企画・構成:伊東信宏)が遂に始まりました。

松本彰先生(新潟大学)のレクチャーのポイントは、18世紀に(ひょっとすると19世紀も?)、クリストフォリのピアノと、チェンバロ、クラヴィコードという3種類の性格の異なる鍵盤楽器(クラヴィコードが予想をはるかに超えて繊細で、小回りの利く楽器なのに驚きました、チェンバロとも全然性質が違う)が、ほぼ平行して使われていたということだろうと思います。どうやら、○○という作曲家(の××という曲)は、どの楽器で弾くのが適切、という「ひとつの正解」があるわけではなさそうです。宮廷のサロンで、つぎつぎ楽器を取り替えて、曲のニュアンスが変わるのを楽しんでいた、というのは、いかにもありそうな贅沢ですし。

また、もしそうだとすると、音楽家の側でも、3種類の楽器(奏法が少しずつ違う)、全部に対応できて当然だったのかも。そういえば、先日の演奏会で、箏の奏者は、十三弦と地唄、三弦、十七弦、4つを習得してはじめて一人前と認められると聞きました。ドイツでも、19世紀初頭のウェーバーは、歌曲を書いて、仲間内で歌い、鍵盤楽器やギターで自ら伴奏したようです。サロンの音楽家は、日本でもヨーロッパでも、ツブシが利かないと、つとまらなかったということでしょうか。


2003年3月14日(金)

京響定期演奏会(京都コンサートホール)。松村禎三「管弦楽のための前奏曲」は、子供の頃LPで聞いたのを思い出します。その記憶よりも、かなり混沌とした印象を受けました。ベルク「ヴァイオリン協奏曲」(独奏、角田美樹)もオーケストラが鈍重。ブラームス「交響曲第4番」は、ヴァイオリンを対抗配置にして、コントラバスを最奥のヒナ壇に並べていました。通常の配列では、向かって左に高音楽器、右に低音楽器が並んで、ステレオ風に音が分離して聞こえますが、この配列だと、低音(再奥)の上に、中音域の弦・管楽器(舞台中程)の和音が重なり、ヴァイオリン(最http://vega21.com/?1047824753前列)をトッピングする、層状のコンパクトな音になるようです。そのかわり、ベースのピッチが悪いと、響きが、かなり濁りますね。


2003年3月13日(木)

川井郁子コンサート(ザ・シンフォニーホール)。進行・構成・台本がしっかり作られている、とてもまじめなショウ。演奏は、ピアソラやチゴイネル・ワイゼンを弾いた後半がいまひとつ。

演奏会評の記録を更新しました。


2003年3月12日(水)

横山佳世子さんの箏曲リサイタル(ザ・フェニックスホール)。松阪春栄から廣瀬量平、沢井忠夫まで。


2003年3月9日(日)

南千勢子さんのハンガリー狂詩曲全曲演奏会II(びわ湖ホール小ホール)。思い切りの良い打鍵と、よく通る高音が気持ちよいけれど、安全運転すぎるように思いました。

伊東信宏先生の新著『ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む』(春秋社)を送っていただきました。早速読んで、6曲のエステルハージ・ソナタ(とりあえず冒頭楽章だけ)を、弾いてみたりしました。

伊東先生の分析には出てきませんけれど、第4ソナタは、両手の10度の平行進行と、「a-fis-g-e....」から透けて聞こえる「a-g...」と「fis-e...」の隠れた3度平行があいまって、鍵盤楽器で弾くと、とても響きが豊かで、カンタービレの性格が際だつようです。(その後、右手と左手のデュエット・シーンがあったり、展開部に、「歌」のない間奏風の箇所があったり、再現部で旋律がテノール声部に移ったり、この楽章は際だって「声楽的」な気がします。)一方、第5ソナタは、まるでオーケストラの交響曲をピアノ独奏に編曲したかのような厚い書法。第6ソナタでは、狩りのソナタと言いたくなる「ホルン5度」の動機があちこちに飛び交っています。たぶん、こういう主題の際だった性格づけも、セット内の多様性の一環なのでしょうね。(そういえば、当時は他の楽器の曲のクラヴィアへの編曲が多数出版されていたようです。また、18世紀のクラヴィア書法は、自律的に発展したわけではなく、他の楽器の効果を広範に模倣することで豊かになってきたのだ、という主張を以前、読んだ記憶があります。Klaus Hortchansky, "Nachahmung und 'Orginalton' im Klavierspiel des 18.Jahrhunderts".)

また、第3ソナタを見て、クレメンス・キューンの『音楽形式学』のハイドン分析を思い出しました。各フレーズの終止が差異化されていて(同じ完全終止でも、主音「ド」での終止、第3音「ミ」での終止、「ソ」での終止を使い分けるなど)、これに、伊東先生が指摘するアポジャトゥーラや女性終止の連想が加わり、しかも、同じ女性終止でも、伴奏形が毎回違ったりしています。聞き手を飽きさせない自在な会話術。

ただ、そういう主題のコノテーションや、旋律と和声の相互連関という視点は、今回の分析では、除外されているようです。その意味で、分析の章は、その他の章に比べて、やや「禁欲的」な印象を受けました。読み物としては、ちょっと残念かも……。

プフィッツナーが馬鹿にして「楽曲解説風」と呼んだ手法、すなわち、作品のめだつ細目――ある主題や和音、色彩効果、シンタクスの例外など――を、相互のつながりや全体の音楽形式とのつながりなど無視して取り出す手法は、許し難いことだし、しばしば滑稽で、シェンカーやレティのような厳密な方法論者による非難から擁護するには値しないかもしれない。しかし、他方で、欠落のある不連続性には、萌芽的であれ、分析の未来が秘められている。ひとつの実体が楽曲全体に浸透し、遍在することによって、音楽の統一が生まれる、このような発想は、狂気すれすれの強迫観念となる危険がある。

カール・ダールハウスは「音楽形式の理論のために」でこんなことを書いています。でも、楽曲の統一という強迫観念を回避するために、分析の語り口まで「楽曲解説風」にしてしまうというのは(彼の「19世紀の音楽」はそんな感じですが)、そんなに簡単ではないし、大変な贅沢なのかもしれませんね。


2003年3月8日(土)

びわ湖ホール声楽アンサンブル定期演奏会(びわ湖ホール小ホール)。ブラームス「新しい愛の歌」、ダラピッコラ「ミケランジェロの詩による2つの歌」など。若杉弘は、選曲から立ち居振る舞いまで、怖いくらい卒がない人ですね。

増田聡『音階論とポピュラー音楽研究―小泉文夫による歌謡曲論の理論的前提―』の感想。

  1. もしかすると、増田さんとは立場が違うのかもしれませんが、私は、音楽分析と、生活世界の音楽談義は、いわば別の言語システムのようなものではないか、だから、両者を融合するバベルの塔を夢想する必要はないし、音楽について、多様な語り方が乱立したって一向にかまわない、と思っています。両者をすりあわせることが、一種の相互チェック機能を果たすことはもちろんあると思いますが。

  2. その上で、音楽分析におけるメロディの扱いが、現状で杜撰かもしれない、とは思います。音階・旋法の抽出ばっかりやっていないで、和声との関係を調べたり、できることは、もっと色々あるはずだし、メロディの重要度というか、創作、演奏、聴取におけるメロディの関与度は、曲ごと、ジャンルごとの違うはず。音楽研究者の方々には、是非とも、不断の努力と切磋琢磨で、音楽分析の手法を鍛えていただきたいものだと思いました。

  3. ニュースステーションにおける佐藤良明氏の「プレゼン」は、確かに、うまくいっていなかったと思います。でも、象牙の塔(音階・旋法論)と外界(マスコミ)の齟齬、というより、音階・旋法「しか」論拠がない、「研究」(なのだろうか?)のツメの甘さが露呈したにすぎない、と私には見えました。むしろ、あの人の話は、仮説をひとつ思いついたのでとりあえず公開します(無保証ですが、よかったら自己責任でお使いください)、ということではないのでしょうか。もしも私がポピュラー音楽研究者だったとしたら、オンラインのフリーソフトを利用するような感覚で、上手くいくところだけ、ありがたく使わせていただくかも。著者にクレームは、何かお門違いな気がします。素人じゃないんだから、バグフィクスは、自力でやりましょう。(笑)


2003年3月7日(金)

大阪シンフォニカー定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)。こちらも「パウル・ザッヒャーの遺産」と銘打っていました。関西フィルのシリーズとの関係はよくわかりません。指揮は曽我大介。ザッヒャーがらみのオネゲル「交響曲第2番」よりも、シベリウス「交響曲第2番」のほうが、熱心に取り組まれていたように聞こえましたが……。


2003年3月6日(木)

佐野健二のリュート音楽の楽しみ第50夜「シェークスピアの音楽」(千里阪急ホテル、クリスタルチャペル)。お近くのお住まいの奥様方が、開演5分前頃から三々五々集まって来るサロン・コンサート。外は大変な雨でしたが、みなさんお車で、駐車場に直付けだから、大丈夫だったみたいです。


2003年3月5日(水)

関西フィルハーモニー「パウル・ザッヒャーの遺産シリーズ」Vol.2(いずみホール)。企画(ザッヒャーとバーゼル室内合奏団が委嘱した20世紀の佳作をいずみホールで演奏)、春らしい選曲(尾高尚忠「フルート協奏曲」、ストラヴィンスキー「バーゼル協奏曲」、メンデルスゾーン「スコットランド」交響曲)、演奏(指揮、藤岡幸夫、フルート、高木綾子)、全部おもしろかったです。プレトーク(藤岡)も。

藤岡という人は、演奏をコンパクトにまとめる技術があって、でも、ディレッタント風の音楽好きの好奇心を持ち続けていて、社交的で、メンデルスゾーンと相性が良さそうですね。


2003年3月4日(火)

いずみホールのオルガン演奏会(演奏、アンドレーア・マルコン、ナビゲーター、井上圭子)。バロック北ドイツ(ブクステフーデ、ベーム)、イタリア(フレスコバルディ、ストラーチェ)とバッハ。明るい音を選んだ華やかな演奏は、このホールの反応の良いオルガンの特性を活かしたということでもあるのでしょうか。

草野厚氏の本を読む前から決めていたことですが、今年は、できるだけ、オルガンの演奏会を聴こうと思っています。(あの本については、実際にオルガンを見て、聴いて、具体的な経験をもってから、判断したいと思います。)


2003年3月3日(月)

『朝日新聞』大阪版夕刊に、2/22の「フルコース“クセナキス尽くし”」(豊中市立ローズ文化ホール)の紹介記事が出ていました。担当記者が各種芸能イベントの寸評を書くコーナーで、「(雨)」の署名。「学園祭のノリ」という形容が、的確だと思いました。

2/28の「キョウト・カウンターポイント」(京都芸術センター)もそうでしたが、「現代音楽」の末裔は、そういう「学生のノリ」を頼って、細々と生きながらえている状況のようですね。(いずみシンフォニエッタのような、音楽ホールの免罪符的な事業をのぞけば……。)

楽曲解説の記録を更新しました。


2003年3月2日(日)

西本智実(指揮)、玉井菜採(ヴァイオリン)、京都市交響楽団クラシック名曲シリーズ(びわ湖ホール)。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のカデンツァは、手間暇かけて弾き込まれていて、まるで、繊細な和菓子みたい。


2003年3月1日(土)

演奏会評の記録を更新しました。



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by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)