仕事の記録と日記
■日記 > 過去の日記
2002年11月30日(土)
チェコ・フィル京都公演。ロシア人指揮者クライフベルクの、いわばショスタコービチの側から見たマーラー(「巨人」)。
2002年11月29日(金)
片桐仁美メゾソプラノ・リサイタル。盛りだくさんの内容でしたが、個人的には、リストの歌曲が印象に残りました。歌は、ハンガリーのジプシーをドイツ語で語り、ピアノは、パリのサロン音楽の色彩感。
2002年11月28日(木)
藍川由美「小関祐而歌曲集」(COCO-80098)
発声には、非常に気をつかっているようですが、他は、楽器も(「ピアノ・スタインウェイ」)、録音スタイルも、なにもかもが「クラシック音楽」。(小関祐而、高木東六といえば、パロマ提供「歌合戦!」、阿久悠、都倉俊一といえば「スター誕生」……。)
2002年11月27日(水)
リュート野入志津子と打楽器マッシモ・カッラーノのデュオ(京都府立府民ホール・アルティ)。騒々しくないパーカッションが新鮮。(アンコールは、なぜかトルコ風味だったミラノ古謡。これは激しかったですが、そこがまた良い。)
*楽曲解説の記録を更新しました。
2002年11月26日(火)
種谷睦子マリンバ&打楽器リサイタル(いずみホール)。ここ数年のいずみホール・邦人室内楽シリーズ(サントリー音楽財団コンサート)の総集編?
2002年11月25日(月)その3
藤本葉子ソプラノリサイタル(イシハラ・ホール)。17日の奈良ゆみさんに続いて、再びベリオ「セクエンツァIII」。奈良さん(言葉の部分と他の部分がくっきり分離)とは逆に、英語を、笑い声や嗚咽、破裂音などに埋めこんで、聞き取れなくするアプローチ。両者の中間、言葉がわかるかわからないかの境界にとどまるのが理想とは思いますが、難曲ですね。客席から予告なく「乱入」する演出は良かったと思います。
他は、コルンゴルトのシェークスピア歌曲、ツェムリンスキーのメーテルリンク歌曲、モンポウ、カントルーブ、ヴァイル。
2002年11月25日(月)その2
ガイドの女性から「私たちは新聞や放送の報道は信じない。確かな情報はバスの中で口から口に伝わってゆく囁き声から得られるのです」と教えてもらったのを覚えている。
今話題の国のこと……のような、そうではないような。
吉田秀和「音楽展望――グールド没後20年 奇跡生んだ57年のソ連訪問 閉ざされた国の乾き癒す」。
2002年11月25日(月)
藍川由美『これでいいのか、にっぽんのうた』
『「演歌」のススメ』(ともに文春新書)
を読んでみました。
日本の近代歌曲(彼女が言う「にっぽんのうた」)は、口語体のテクストに、西欧(特にドイツ)の歌曲の技法もしくは理念を援用して作曲された「混血児」。なんというか、生まれながらに「いかがわしい」ジャンルです。しかも、半ば過去(「昭和は遠くなりにけり」)、半ば生きた伝統(文部省唱歌)ですから、歴史的な距離感もつかみにくい。おそらく、「君子」は近づかない、「危うい」領域なのだと思います。
もちろん、だからこそ「オイシイ」素材だとも言えるわけで、人文・社会科学の最新概念を総動員すれば、さぞかし「賢い」近代日本歌曲論ができあがるだろうと思います。
でも、この人はそうではなくて、現場の歌手で、歌いながら考えようとしているようです。
言葉づかいや議論の進め方はナイーヴ。つっこむスキはいろいろありそうです。しかし、現場の「突撃レポート」として、かなり良心的なのではないでしょうか。
平均律とか、小泉文夫の音律論とかが出てくるのは、とりあえずなじみの概念装置から出発したというだけで、別に、そういう(ちょっと古めの)概念装置に忠誠を誓っているわけではない、と私には読めました。
テキスト批判から出発するのだって、手続きとしてはおかしくない。言葉遣いに不用意なところはあるかもしれませんけれど、そこに著者の「思想信条」を読みとるのは、やや過剰反応のような気がします。
私にはこの本に肩入れする何の義理もないですし、本の内容と売り方(タイトル^^;;)には、妙なギャップがあると感じます。
でも、それにしても、
「古賀政男の作品は歌手の勝手な歌い回しを排して楽譜通り歌わなくてはならない」と主張する原理主義をこの本から抽出するのは、あまり面白い読み方ではないかも……。(あれは、たんに、古賀政男がメリスマを「楽譜に詳細に書く」モダニストだった、というだけの話でしょう。党派を超えて(笑)、なかなか「使える」エピソードだと思うのですが?)
2002年11月24日(日)その2
『朝日新聞』読書欄にて、青柳いずみこ氏(ピアニスト・文筆家)が、許光俊氏(ドイツ文学・音楽評論)の新刊を絶賛。^^;
2002年11月24日(日)
クララ・ヴィークとロベルト・シューマンといえば、クララの父でシューマンのピアノの師でもあったフリードリヒ・ヴィークの反対を押し切り、結婚した音楽家夫婦ですが、彼らのことを調べていて、その「頑固親父」フリードリヒ・ヴィークのことが気になってきました。
最初の妻(クララの実母)と離婚した直後から、娘クララへのピアノの英才教育をはじめて云々という、娘との二人三脚ぶり。クララとロベルトの交際を妨害するエゲツナイやり口の数々(結局、シューマンへの名誉毀損で禁固刑を命じられたとか)。そして、娘クララから見限られても(シューマンの死後クララは実母を引き取り、父ヴィークとは別居のまま)、クララを育てたピアノ教師という名声はゆるがず、1853年に音楽論Clavier und Gesang: Didaktisches und Polemischesを出版、1875年に重版が出ているので、それなりに読まれたようです。(cf. C. ケネソン『音楽の神童たち』、Claudia de Vries: Die Pianistin Clara Wieck-Schumann. etc.)
現実にその人の指導で才能が花開いたという事実は、なかなか手強いこと。教育に関する議論は、人を育ててナンボ、なのでしょうね。
一方、クララ・シューマンも、晩年まで弟子をとって教えていたようです。なんとなく、存在そのものが、ヴィーク的父権性のアンチテーゼのようにも見えます。
父と娘の数十年を費やした持久戦――というお話に仕立てると、それなりに面白いかもしれません。
*演奏会評の記録を更新しました。
2002年11月22日(金)その2
パリ管首席ホルン奏者アンドレ・カザレを迎えた室内楽(京都コンサートホール小ホール、ヴァイオリン梅原ひまり、ピアノ大谷正和)。プーランク「エレジー」(ホルンとピアノ、十二音技法のパロディではじまる)や、エネスコ「幼き頃の印象」(ヴァイオリンとピアノ、鳥の鳴き真似など多彩)など、珍しい曲を聞くことができました。
2002年11月22日(金)
「学者」には、ブームの上昇気流に乗って「文化人」として発言する「芸」と、ブームの後の残骸を整理して再利用できるようにする「研究」と、大まかに二つの機能が期待されているような気がします。
日本の音楽学は、「低迷」していることになっているようですが(でも、未だかつて日本の音楽学は栄えたことなど一度もなく、この状態が「低迷」だとしたら、それは昨日今日に始まったことではない……)、少なくとも、「文化人」(=将来を憂う人たち)VS「研究者」(=旧態然)のような対立を演出するのは、作戦としてあまり得策には思えないですね。
そんなの、外から見たら、「どっちもどっち」、コップの中の騒ぎにしか見えないでしょう。両方必要に決まってるし。
まあ、そういう、内輪の「ニセの勝負」を捏造して、勝手に勝ち負けを決めることで、「学者」の皆さんは日常の退屈をまぎらしたり、内輪向けの宣伝活動をしているのかもしれませんが……。
2002年11月21日(木)
「大阪、元気クラシック」という大阪府主催の企画の第2期は、若手奏者によるヴァイオリン協奏曲。第3回の大谷玲子さん(チャイコフスキーの協奏曲)は、気取らない演奏でした。
2002年11月20日(水)
京都定期。幻想交響曲は、大友・京響ではかつてない、充実した響きでした。
2002年11月19日(火)
*演奏会評の記録を更新しました。
2002年11月18日(月)
驫木裕子ピアノ・リサイタル(宝塚ベガ・ホール)。モンポウのピアノ曲を面白く聞かせていただきました。
2002年11月17日(日)
午後、ソプラノの奈良ゆみさんの「ソロ・ヴォイス」(演出、ミッシェル・ワッセルマン)。廃校になった木造校舎を使った空間(京都芸術センター、フリースペース)は、なかなか良かったです。
夜、斉藤秀雄が日本フィルを指揮している映像を観ました(チャイコフスキーのセレナード、ベートーヴェンの交響曲第5番)。曲がはじまってから終わるまで、「斎藤先生」は、絶えず、何らかの合図をオーケストラに送り続けていました。この勤勉さもまた、小澤征爾らに伝承されているような気がします。
2002年11月16日(土)
中西誠ピアノリサイタル(学園前ホール)。ベートーヴェンの「幻想曲風ソナタ」と、シューベルト、シューマンによる「ソナタ風」な幻想曲。よく考えられた選曲、演奏。
2002年11月15日(金)
ブゾーニ「トゥーランドット」(ザ・カレッジオペラハウス)。想像していたよりもはるかにスリリングな、オペラ伝統への挑発。
2002年11月14日(木)
バスの動きを軸に和声やメロディを組み立てる通奏低音の技法や、ソナタ形式の「主調vs属調」という二元論的調設計は、18世紀の人々が、現在よりも和声に敏感だったことを示唆しているのではないかと、ドイツの音楽学者カール・ダールハウスがどこかに書いていたような気がします。
その論法(あり得ないことではない)でいけば、19世紀の聴衆(オペラやサロン音楽に耽溺)は、メロディの表情を、現在ではありえないほど細かく聞き分けていたのではないかと思われますし、20世紀のジャズやクラシック演奏の「新即物主義」(をレコードで繰り返し聴き込む習慣)は、テンポとリズムに極度にシビアな耳を生みだし(私が子供の頃は、まだ、楽器の初歩で「イン・テンポ」を叩き込む風潮が強く残っていました)、20世紀後半のリスナーは、シンセサイザと高性能ステレオのおかげで、音色のニュアンスに極度に敏感になった、と大ざっぱにまとめることができるのかもしれません。
ブリュッヘン率いる18世紀オーケストラのベートーヴェン(14日、京都コンサートホール)は、ピリオド楽器の色とりどりの響きをブレンドした、典型的に「20世紀後半」的な演奏。通奏低音風に低音セクションを尊重するそぶりなどなく、そもそも、その都度の響きを「和音」として響かせる意志さえ希薄な様子。「無重力」と言いたくなるくらい、機能和声的な意味づけは、聞こえてきませんでした。(むしろ、彼らがドビュッシーやウェーベルンを演奏したら面白いかも。)
「音楽的な意味」をつかみ損ねているから駄目、などとはまったく思いませんが(リッチな演奏でした)、生真面目で、正直者で、価値観がひとつ、「ツブシ」が効かなそうなところは、このグループの弱点かも、と思いました。(アーノンクールやレオンハルトのような老獪さはないみたい。)
ブリュッヘン以外の人が18世紀オーケストラを客演指揮、というような新展開は……ないんでしょうね。
2002年11月13日(水)
10日(日)は、ピアノフォルテ伴奏(渡辺順生)の「冬の旅」(クラウス・オッカー)。今日は、ザ・フェニックスホールの企画で、バロック・バイオリンのスタンデイジとコレギウム・ムジクム・テレマンの共演。明日は、18世紀オーケストラのベートーヴェン(京都コンサートホール)。古楽器・ピリオド楽器の演奏を聴く機会が続いています。
2002年11月7日(木)
田隅靖子さんのピアノリサイタル「夜の音楽」(ザ・フェニックスホール、バルトーク「夜の音楽」、シューマン「夜の曲」、リスト「眠られぬ夜、問いと答え」、フォーレ「夜想曲」、プーランク「ナゼルの夜会」)。渋いプログラムで、音楽に集中できる演奏会でした。
2002年11月2日(土)
中出悦子さんのチェンバロ・リサイタル(ザ・フェニックスホール)。土曜日の午後、お話を交えた演奏会でした。
2002年11月1日(金)
*演奏会評の記録を更新しました。
by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)