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シューベルトに魅せられた人々、受容史の万華鏡

白石知雄

東京交響楽団SYMPHONY 2008年4月号

ウィーンに縁のある音楽家は数多いけれど、生粋のウィーンっ子といえば、やはりシューベルトとヨハン・シュトラウス父子だろう。シューベルトの「軍隊行進曲」を地元のピアニストで聴く味わいは、ウィンナー・ワルツの妙味に匹敵する。彼はまちがいなく「音楽の都」が育てた作曲家、ウィーンの秘蔵っ子だ。

ところが、一皮めくると、彼の音楽には荒涼とした闇が口を開いている。たとえば「菩提樹」のメロディーは民謡のように覚えやすいけれど、歌曲集「冬の旅」では、ピアノ・パートが前後の曲と動機的な関連で結びつき、歌詞を読み返すと、「過去」(木陰の休息)と「現在」(吹きさらしの孤独な旅)の関係は予想外に入りくんでいる。

しかもシューベルトの重要な作品のいくつかは、死後かなり経ってから発掘された。1828年にウィーンで31歳の生涯を閉じてから11年後にハ長調の大交響曲が初演され、さらにその26年後にロ短調の「未完成」交響曲が公表される。シューベルトは死後の「後日談」こそが面白い。ここでは、やや駆け足になるが、その概略をスケッチしてみたい。

●「歌曲王」とビーダーマイヤー

フランツ・シューベルト(1797-1828)の父親はウィーン近郊で小学校長を務める名士で、少年時代は、王宮礼拝堂の合唱団員に選ばれて、宮廷音楽家サリエリから特別レッスンを受ける優秀な生徒だった。しかし、ナポレオン戦争後の不景気もあり定職が見つからず、友人の家を転々とする生活……。シューベルトの経歴は、最近話題の「高学歴ワーキングプア」を思わせる。彼の歌曲が孤独な放浪・失恋・片想いを歌うのは、不遇な音楽家の「心の叫び」に見える。

しかし、最近の研究によると、実はシューベルトの歌曲や舞曲はむしろ順調にウィーンで演奏・出版されていた。収入も相当あっただろう。生前の「実像」は、むしろ新しい時代に適応した自由人音楽家のモデル・ケースと言ってよい。

歌曲や舞曲を支持したのは、ドイツ文化史で「ビーダーマイヤー」と呼ばれている新興市民層だった。働きつづけて地位と財産を得たが、倹約が身につき、質素な生活様式を好む人々。「バラの騎士」のファーニナルを思わせる彼らは、青春を懐かしむようにロマンチックな歌に共感して、娘たちにピアノを習わせた。シューベルトの歌曲は、穏健なビーダーマイヤーの「心の調べ」だったのである。

●ロマン主義の熱狂

一方シューマン、リスト、ベルリオーズなど1830年代にデビューした若い世代は、ビーダーマイヤー文化を嫌う過激なアウトサイダーたちだった。彼らはロマン主義の名の下に、シューベルトを独創的な「器楽」の先駆者として評価した。

たとえばリストは多くの歌曲を華麗なピアノ独奏曲にアレンジして、「さすらい人」幻想曲を協奏曲に作り替えた。ベルリオーズが「魔王」を管弦楽伴奏に編曲した例もある。歌曲の詩(言葉)は、どうしても現実に引き寄せて理解されがちだ。ロマンチストたちは、敢えて言葉を引きはがし、あるいは、言葉を圧倒する超絶技巧やオーケストレーションを施すことで、シューベルトを「絶対音楽」という「言語を越えた王国」に迎え入れたのだ。

同じ頃、シューマンはウィーンでシューベルトの「大ハ長調」交響曲の存在を知り熱狂した。そして敬愛する先輩の霊が憑依したかのように、「大ハ長調」発見の3年後に懸案だった最初の交響曲(「春の交響曲」)を完成する。

ロマン主義は、「芸術が世界を変える」と本気で信じた若いアーチストによる19世紀のカウンター・カルチャーだった。そしてシューベルトは、ヒッピーにとってのジョン・レノンのように、若者の「守護聖人」になったのである。

●「作曲家全集」の時代

19世紀半ばを過ぎてシューマンやショパンが世を去り、リストがピアニストを引退して、ワーグナーがスイスへ亡命した頃から、ロマン主義はアナーキーな破壊力を失い、音楽は教養人の「精神の娯楽」になった。ウィーンの評論家ハンスリックが「音楽とは、鳴り響きつつ動く形式である」と宣言して音楽芸術を現実から「隔離」し、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出た大作曲家の作品全集が愛好家の書斎を飾る。音楽の「平和利用」時代の到来である。シューベルトの作品全集は没後生誕百年目の1897年に完成した。室内楽や宗教音楽の全貌が知られるようになり、シューベルトのイメージは、「ロマン派の先駆者」から「最後の古典派」、ベートーヴェンに匹敵する「本格派」へと塗り替えられた。

「シューベルトはロマン派か古典派か」という果てしない議論がここからはじまる。そしてシューベルトの「古典化」は、彼の作品に対するピリオド・アプローチにも、微妙な問題を投げかけているように思われる。

私たちは、往年のウィーン・フィル奏者の室内楽やシュナーベルのピアノを「古き良きスタイル」として愛聴してきた。しかし19世紀末や20世紀初めの演奏は、当時出たばかりの「全集」にもとづく新しい取り組みだったのである。シューベルトに作曲当時から続く「伝統」は存在しない。この事実は、慣習的な演奏法を見直す論拠になるだろう。しかしそれではどう弾くか。シューベルトの演奏様式を決めようとするとき、私たちは新たな難問に遭遇することになる。

●それぞれの時代、それぞれのシューベルト

シューベルトの友人に、ヨハン・クリソストムス・ゼンというスイスの反体制詩人がいた。シューベルトはこの詩人の巻き添えで警察に拘留されたことがある。学生運動の記憶が生々しかった1970年代には、シューベルト自身が反体制活動に関与した可能性が真剣に論じられた。若気の至りを暴露するためではなく、当時は「批判精神こそが芸術の力」と信じられていたからである。わかりやすいメロディ−の下で神出鬼没に転調する彼の和声法は、そう言われると、地下組織の「秘密の抜け道」のようではある。

シューベルトへの眼差しは、ビーダーマイヤー、ロマン派、教養主義など、それぞれの時代の色に染まり、変転してきた。これからさらに別の見方が生まれるだろう。シューベルトには、まだ謎が残っている。

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