民族藝術の四つ辻 研究ノート:武智鉄二と関西歌劇団

白石知雄(音楽)

『民族藝術学会会報』第72号、2008年2月18日、民族藝術学会、6頁


大阪船場出身の作曲家、大栗裕(1918-1982)の足跡をたどってみたいと思い立ち、大阪音楽大学が所蔵する自筆譜等の資料を少しずつ読み進めている。細かい情報を集めて可能性を絞りこむ地味な作業……のはずなのだが、いつしか脱線と横滑りの誘惑に駆られるようになった。大栗の初期のオペラを演出した武智鉄二(1912-1988)のことが気になって仕方がないのだ。

ご存知のように、武智鉄二の活動範囲は幅広い。私財を投じた関西実験劇場(「武智歌舞伎」)で扇雀、鶴之助を世に出す一方で、義妹の夫、花登筺がいたOSミュージックホールで「ヌード能」を企画。1965年の映画監督作品「黒い[雪]」で猥褻罪容疑裁判を闘い、1974年に宮田輝や山口淑子とともに自民党から参院選へ出馬、落選。1981年に私淑した谷崎潤一郎の「白日夢」を二度目の映画化……。第二次大戦末期にコンクリート製軍用艦「武智丸」を建造することになる豪商、武智正次郎の長男[次男]として大阪に生まれてから、妻の日本舞踊家、川口秀子やその娘で大島渚「白昼の通り魔」の主演女優、川口小枝らに看取られ没するまでの生涯をまとめた評伝はまだなく、彼の全活動を誰が適切に語り得るのか見当もつかない。

武智鉄二が関西歌劇団でオペラを演出したのは、1954年から東京へ移住する1959年までのわずか六年間だが、演目は多岐にわたる。当時注目されたのは、「蝶々夫人」と清水脩の新作「修禅寺物語」において、八代目坂東三津五郎らの指導を仰ぎ、歌舞伎の所作を本格導入したことだった。しかし実は、歌舞伎調は演目の一部にとどまる。ヒロインをレジスタンスに見立てる「カルメン」の政治化、ストラヴィンスキーの室内オペラ「結婚」の紹介、小劇場用の新作を委嘱する「創作オペラ・シリーズ」、甲子園球場と大阪球場の「アイーダ」野外上演など、むしろ、音楽劇の可能性を多方向へ押し広げるモダニストぶりが目立つ。

武智鉄二自身は、歌舞伎とオペラを結びつけるのは「朝比奈さんの着想なんです」と説明している(『音楽之友』1955年8月号128頁)。そして指揮者の朝比奈隆は、関西歌劇団の創作オペラについて、「私はシンフォニーは国際的なものだけれども、オペラは民族と結びついたものだと思っています」と語る(『音楽藝術』1958年2月号147頁)。渡欧してヨーロッパのオペラを見聞した実感なのか、「民族芸術の創造」を掲げた労音と関西歌劇団が当時、協力関係にあったことへの配慮なのか、発言の背景は別途検討すべきだが、自ら訳詞を作って日本語上演にこだわるなど、たしかに朝比奈は、作曲家の「原典」重視の交響曲演奏とは異なる態度でオペラに取り組んでいた。

1980年代以後、朝比奈隆は「ドイツの交響曲」にレパートリーを絞る。そして作曲家の大栗裕は、1982年4月、朝比奈の晩年の舞台ザ・シンフォニーホールが開館する半年前に亡くなった。武智鉄二の発案で生まれた「赤い陣羽織」(1955年)は狂言オペラ、「夫婦善哉」(1957年)は大阪弁の語りを生かす世話物オペラと見ることができるだろう。音楽劇における地域性の徹底、すなわちローカルなものが同時にジャンル横断的なモダニズムとして機能し得た時代は懐古の対象なのか、それとも再評価すべき知見を秘めているのか。春になったら脱線を自粛して、大栗裕の総譜をさらに読み進めたいと思う。

追記(2008年8月21日)

本稿は、京都在住の演劇評論家、権藤芳一さんのご厚意で、権藤さんが武智鉄二の評伝執筆の準備作業として『上方芸能』に連載中の論考「武智鉄二資料集成54」(『上方芸能』169、134-135頁)にも転載していただきました。

また、同連載で、誤記のご指摘(映画「黒い雲」→「黒い雪」)をいただくとともに、いくつかの注釈を加えていただきました。権藤先生ありがとうございました。

  1. 「義妹の夫花登筺 -- 義妹とは泉康子さんのことで、彼女は武智主宰の雑誌『歌舞伎評論』の〈発行人〉としても名を連ねている。花登との結婚期間は短くすぐ離婚した。花登は後に女優星由里子と結婚している。」(同135頁)
  2. 「妻の日本舞踊家・川口秀子とその娘・川口小枝 -- 川口秀子は武智の晩年の妻であったが、小枝は武智の実子ではない。」(同135頁)

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