曲目解説:大栗 裕/歌劇「赤い陣羽織」

白石知雄

(大阪フィルハーモニー交響楽団「大栗裕の世界」、2008年4月15日、いずみホール)

(本稿執筆では、大阪音楽大学の「大栗文庫」および音楽博物館(関西洋楽史資料)から資料面で多大なご協力をいただきました。)

大栗 裕/歌劇「赤い陣羽織」全3場

 木下順二原作・大栗裕作曲「赤い陣羽織」は、関西歌劇団の創作歌劇第1回公演として、1955年6月11, 12日に大阪・三越劇場で谷崎潤一郎原作・芝祐久作曲「白狐の湯」と二本立てで初演された。大栗裕は、初演プログラムにこんな文章を寄せている。

「この音楽は単にただこれだけのもので、私は高度の芸術性のみを追求したものではなく、寧ろ通俗的たらんとして書いて来たものであるから、先ず無条件に面白いものであり、人々に楽しんで貰うことにある。だから観ている間はゲラゲラと笑い、その後に忘れ去っていただくのが私にとって一番有難いことなのである。」

渾身の力作を「ただこれだけのもの」と書くところに、周囲から愛された人柄がうかがえる。関西交響楽団のホルン奏者から大抜擢された37歳のデビュー作である。

大阪は戦後日本のオペラ創作運動と縁が深い。團伊玖磨の歌劇「夕鶴」(1952年)の初演は大手前にあった毎日会館大阪朝日会館。第2作「きき耳ずきん」(1955年1954年)は、当時の有力鑑賞団体、大阪労音の制作だったの例会として東京での初演の翌年に宝塚大劇場と毎日会館で上演された。そして大栗裕の「赤い陣羽織」は、関西歌劇団の劇団長だった朝比奈隆と、歌舞伎演出家、武智鉄二(1912-1988)の出会いから生まれた。
 1954年春、関西オペラ・グループは関西歌劇団と改称して、関響とともに関西交響楽協会の傘下に入る[→補注1]。「オペラが定着するには、歌舞伎の伝統に学ぶべきだ」と考えた朝比奈隆は[→補注2]、4月の「お蝶夫人」公演で、旧知の歌舞伎役者、板東簑助(八代目三津五郎)から、歌舞伎界の注目を集めていた武智鉄二を紹介され、歌手たちを仕舞の稽古に通わせる猛特訓で歌舞伎調の舞台を実現する[→補注3]。同年11月の清水脩作曲「修禅寺物語」初演も、坂東鶴之助(五代目中村富十郎)の演技指導で歌舞伎のノウハウを生かす演出だった。
 そして年末に「オペラ・プティ」構想が発表される。経済的負担の軽い少人数、小編成オーケストラによる小さなオペラを年2本ペースで作る計画である。発案者の武智鉄二は、松平頼則、清瀬保二、黛敏郎、芥川也寸志、石桁真礼生、湯浅譲二など錚々たる作曲家の内諾を得ていたと言う。「赤い陣羽織」と「白狐の湯」は、最終的に「創作歌劇公演」と改称されたこの計画の第1回という位置づけだった。[→補注4](武智鉄二は、その後レビュー形式の「魔笛」、ファッションショー形式のストラヴィンスキー「結婚」、バレエ形式の石桁真礼生「卒塔婆小町」などの企画を手がけた。気鋭の演出家を得た昭和30年代の関西歌劇団は、世界的に見ても最先端の前衛劇団だったのである。)
 「赤い陣羽織」の原作は1947年に発表された戯曲で、ファリャのバレエで有名なアラルコンの小説「三角帽子」の自由な翻案。農夫の女房に村の有力者が横恋慕して、返り討ちに遭うストーリーの骨格は原作と同じである。武智鉄二はこの物語を狂言仕立てにしようと考えた。武智の説では、封建制で抑圧された中世農村から生まれた狂言は、「をかし」(現代語の滑稽を意味する「おかしい」より意味が広く、人間的な情感の発露を指す)の精神を本質として、権力に対抗するヒューマニズムの芸能であると言う。スペイン由来の風刺物語を日本流の「反権力」に接ぎ木しようというわけだ。
 初日まで半年しかない作曲は困難を極めた。木下順二は台詞の変更を一切認めず、武智鉄二は、試演や稽古で何度となくダメ出しする。大栗裕は「幾度か鉛筆を投げ付けて帰ろうかと思った」そうだ。
 出来上がった作品は、ほぼ全編が2拍子あるいは4拍子で、テンポ良く会話を繰り出す作りになっている。ピアノを含むユニークな編成の室内オーケストラは、絶妙の間で「合いの手」を入れる役割に徹する。しかし実は、全体が音楽的に一貫した構成を生み出す工夫もなされている。

第1場のおやじとおかかのやり取りでは、管弦楽に、のどかな田舎節(陽旋法、いわゆる「ヨナ抜き」)のメロディーが何度も現れる。お代官におかかが色っぽく応対する場面で半音を含む繊細な都節(陰旋法)に転じ、お代官がいなくなると、ふたたび田舎節に戻って、おやじが一節唄い、おかかの印象的な子守歌が続く。
 第2場は、おやじ、お代官それぞれの一人芝居から、お代官と子分の滑稽な会話を経て、庄やとおかかが加わるやりとりに至る丁々発止の芝居の見せ場。表現主義風心理描写や、おやじの着替えシーンの時代劇調など、音楽は「劇伴」の性格を強める。
 第3場でお代官の屋敷へ移動すると、門番の無表情な5度和音、奥方の高飛車な調子など、音楽に新たな要素が加わる(武智演出では奥方が歌舞伎の型で演じ、周囲の狂言仕立てと対比された)。そして騒動が収まり、おかかが奥方に感謝する場面で第1幕の子守歌が優しく響き、夫婦が仲直りすると、オーケストラは冒頭の田舎節のメロディーを朗らかに歌う。

補注(2008年11月1日追加)

(1) 1954年以前の関西オペラ・グループを、朝比奈隆は1953年のインタビュー(聞き手、宮沢縦一)で「研究団体」と呼んでいる。

 宮沢 では関西のオペラについてですが、関西にはオペラ団体というものがありますか。
 朝比奈 拵えたんです。関西オペラと称するものを……あれは四年くらい前になるかなそれをずっとやってます。さっき挙げたような歌い手だけしかないです。
 いままでやったのでは第一回は、「椿姫」をやって、「カルメン」とか「バタフライ」「カヴァレリア・ルスチカーナ」なんかです。オペラは商売になるような団体じャない。年に三回とか四回しかやらないのだから研究団体でしょう。いわば……、だからいろいろなことで、日本で西洋のオペラをやるというややこしい、無理なむずかしい問題と取組んでいる劇団なんですから、いろいろなことを自分でやってみよう。舞台装置も演出も装置は田中昭三と云って僕らの仲間の宝塚の人ですし、演出は中西(武夫)、宝塚出身の人ですが、演劇家がいるんです。それが演出をやります。
 宮沢 入場料はどの位ですか。
 朝比奈 百五十円か二百円だから台本も自分で書こう、演技も中西さんの自由、といってはおかしいが、自分の意見でやろう、装置も先例に余り拘泥しないで、自分で外国の本なんかいろいろ参照してやろうという、実験劇場みたいなつもりでやっているんです。
(『音楽之友』1953年7月号、99頁)

引用にあるように、入場料は「百五十円か二百円」と当時のオペラとしては格安だった(関西交響楽団定期演奏会は240円)。「研究公演でお客様からお金を頂くのはおかしい」という発想だと思われる。1954年4月以後、関西歌劇団に改称した後の公演は、入場料が500円前後に設定された。関西交響楽団とともに関西交響楽協会の傘下に加えて、関西歌劇団と改称して、武智鉄二を演出家に迎えた1954年以後の活動は、「研究団体」とは一線を画した本格興行を目指していたのである。

(2) 朝比奈隆は、関西歌劇団改組に先立つ1953年秋から1954年初頭にかけて、欧米を視察している(彼の初めてのヨーロッパ訪問)。フランクフルトでは、市立歌劇場「アラベラ」公演の立ち稽古を見学した。朝比奈が欧州からの帰国後、「オペラには(演劇としての)様式が必要だ」と繰り返し語ったのは(補注4も参照)、この「アラベラ」見学の体験にもとづくと思われる。

 深い霧に包まれた朝を、私は毎朝、近くの市立劇場の立稽古に出掛けて、傍近く、ギーラーの素晴しい演出を、目の当たり学ぶことが出来るのだ。ギーラーは既に、七十に近い老人であったが、その演技に対する若々しい情熱と、真剣な態度には誠に、驚くべきものがある。今朝も、ギーラーは、練習の済んだ後、ピアニストや、助手の朗を謝して帰らした後、暫く汗を収めながら、「私が、毎日細かいことばかり稽古をしていると思うだろうが、これだけが本当に、いい演技を作ることのできる方法なのだ」と繰返して云い訳のようにつぶやいて帰って行った。シュトラウスの現代劇「アラベラ」は「バラの騎士」と並んで、欧州の各歌劇場のもっとも人気のある出し物の一つであるが、ギーラーは、二十年前ドレスデンでの初演の時にも、シュトラウス自身の懇請により、特に招かれて演出を担当した人である。
 欧州最初の演劇の殿堂であるブルク劇場の錚々たる演出家であり、ウィーン大学教授である彼は、音楽についても専門家と変らない造詣を持ち、その練習を見ていると、旋律、歌詞などは、全部暗んじて、指揮者のショルティ、(フランクフルト歌劇の主任指揮者、若くして中々人気のあるハンガリア生れの音楽家《Solti》)がピアノの傍で、懸命にスコアをのぞいているのに、ギーラー教授はステージの中央に立つて、歌手達にリズムを与え、歌詞を指示しながら、きびきびと振をつけてゆく。仇っぽい、ウィーンの浮気女から、直情の田舎紳士、又は社交界の放蕩者なd、それぞれの性格を、矢継早に示してゆくのを見ると、彼自身まことに万花鏡のようである。
 歌手達も、深い尊敬を以って、この老教授の教えを受けている様子は誠に美しい。中でも、アラベラ(Arabella)に扮する、リヒター夫人(ソプラノ)はみるからに聡明そうなそして、謙虚な態度で終始しているのは、殊に私の心に響くものがあった。
(朝比奈隆「フランクフルト歌劇場から」、『音楽之友』1954年3月号、94-95頁)

(3) 1954年4月の「お蝶夫人」公演(朝比奈隆帰朝記念関西オペラ第8回公演、4月17、18日、歌舞伎座)について、小島幸(お蝶夫人)、市来崎のり子、桂斗伎子(以上スズキ)、朝比奈隆は、それぞれ次のように振り返っている。

 記者 この間の歌舞伎的な新演出の「バタフライ」の感想は。
 小島 今までのものとは全然違います、と思いました。今度の演出の方法が面白いというのか本当に「バタフライ」としては良いのじゃないかと思いました。
[……中略……]
 記者 次に市来崎さんは。
 市来崎 やはりその「バタフライ」でスズキをやらして頂きました。
 記者 動きにくかったようなことはないですか。
 市来崎 何かお行儀が悪いからお座布団の持ち方一つとか(笑声)物のすすめ方とか、そういうことなんか一々こう手をとって教えて頂きましたので、何かこう、判らして頂いたということと、それから動いていて非常に安心して動けるのではないかという気持ちが致します。今までやりながらこれで良いのかしらと何か曖昧な気持ちでしたけれども。
 小島 今度の演出がいわゆる日本人としての、私達の「バタフライ」としては一番良いのではないかという気がしますね。日本人的な……。
(「座談会 大阪の音楽家と語る」、『音楽之友』1954年10月号、114頁)
 記者 演技はやはり武智さんの訓練ですね。ちょっとした仕草もうまいものですね。
 朝比奈 僕は遠くで見ていましたけれども、主役の人達だけでなく脇役の人達も相当厳しい訓練を受けるわけです。一番僕がありがたいと思っているのは、コーラスみたいに、ちょっと出て行って立ったり坐ったり役がどうやら物になっているのは、武智先生や鶴之助[坂東鶴之助、現・中村富十郎、演技指導を担当]さんの賜物だと思うな。
 桂 「バタフライ」でずいぶんたたかれました。
 朝比奈 「お蝶夫人」のとき、ほんとうに手取り足取りだったね。廊下へ連れ出して名優連中がついてよくやってくれたんですからね。
 桂 だから手取り足取りということになった。
 朝比奈 石桁[眞禮生、関西歌劇団は1956年に彼の「卒塔婆小町」を上演]さんが初めて稽古を見に来たときに、ためいきをついていたものな。見ちゃいられないからね。座布団一つ持つことができないんですからね。お調さんが座布団をシャープレスに薦めるとき、座布団の端っこを持ってこうやって下げて来たんですよ。(笑)
(「創作オペラよもやま話 -- 「夫婦善哉」を中心に--」、『音楽之友』1957年6月号、p.108-113)

(4) 関西歌劇団創作歌劇第一回公演(1955年6月11、12日、大阪三越劇場)のパンフレットに、歌劇団団長で指揮者の朝比奈隆、演出の武智鉄二は、それぞれ次のような文章を寄せている。

 日本民族の新しい演劇 朝比奈隆
 現代の日本の大衆のために何か新しい演劇の様式が生まれなければならないということは長い間私たちの夢であった。
 それは所謂「新劇」ではなくて日本民族の生活と歴史、また数百年の間に発展して来た日本の古い演劇 -- 歌舞伎は勿論、能、狂言その他の舞台芸術を含めて -- の伝統の上にしっかりした根を下ろしたもの、そんなものを考え続けて来たのである。
 オペラの仕事に携るようになってからは別の意味から、この「新しい演劇」への憧憬は熾烈なものになった。
 「ヨーロッパの言語と劇作法の上に組立てられた音楽劇」というオペラの現実は私たちを途方に暮れさせた。少しでも適切に劇的で音楽的な訳詞を作る為に多年懸命の努力を尽したが、所詮限界の壁が固いし、本当に大衆と哀感を倶にするものなるには程遠い感は否めなかった。
 日本の言葉、日本の脚本、日本の音楽、そうして創り上げられる舞台はどんなにか生命に満ち本当に民族の心を揺り動かすであろうかと夢見たのである。
 偶々「お蝶夫人」の上演を機として直接、日本古典劇界の方法と技術を閃見するに及んで夢は勇気を伴う信念に変った。
 武智さんからの創作歌劇の提唱はまことにその機に合したもので直ちに私たちは腕を組んで立上がった。有能な若い作曲家たちも陣営に投じ、早くも半年で今日こゝに二つの作品を舞台に乗せるまでに運んだ。止る処を知らぬ武智鉄二氏の意欲と才能がこの仕事の最も有力な推進力であることは勿論であるが、その又背景に厳として立つ日本演劇、数世紀の伝統と蓄積が力強く私たちの作品と大衆とを結びつけてくれることを確信する。
創作歌劇の創造 武智鉄二
 オペラ演出にたずさわってみて、第一に気がついたことは、翻訳オペラにあっては、その基本的な文芸性が、外国語を日本語にうつしかえる時、音符の制約や語脈の相違のため、ことのほか貧困になり、又言葉の音楽への密着性が失われて、内容が飛躍的になってしまうということであった。
 オペラが、その創作の出発点に、戯曲を持っているにもかゝわらず、演劇であることを疑われたりするのは、そのような翻訳オペラの弱点が、いつの間にかオペラへの既成概念をつくり上げてしまっているからであろう。又、原語のオペラを聞いても、それぞれの民族の演劇伝統や詩の歴史の上に立った音楽と文学との相関性のようなものは、異民族であるわれわれには、充分に理解出来ない点が多い。このようなことが、外国製オペラに依存している我国の楽壇の人々を、いつのほどにか、オペラ・コムプレックスにおとし入れたのだと思う。
 この国のオペラ歌手たちが、演技を要求されなかったのは、実はそれを要求するほどの文芸性を、翻訳されたオペラ台本が持つていなかったことを、意味するにすぎない。私が歌劇運動の必要を痛切に感じたのは、オペラを真に止揚された楽劇にまで前進させるためには、まず第一に日本語に密着し、日本の音楽や演劇の民族的な歴史の流れの上に立つ歌劇を、われわれが、数多く持たねばならないということに、実際の演出上の経験を通じて、気付いてからのことであった。
 幸いにも私は、間もなく清水脩氏の「歌劇・修禅寺物語」の演出を担当した。この作品は日本語の伝統に則して作られた最初の歌劇であつた。それは立派な成功した作品であるが、その成功の多くはこの点につながっている。この作品を演出してみて、私は創作歌劇の言語の豊富なことゝ、演劇的内容の緻密なことゝに、今さらのように打たれた。そこでは演技力の低い歌手は、みぢめにオペラの有機的構成の外へ抛り出されて行くことが、まざまざと見せつけられた。私はこの仕事を通じて、私の進もうとしている方向の正しさを確認した。
 次に私は多くの作曲家にあって、民族歌劇創造のための協力を依頼した。私の最もうれしかったことに、その総ての作曲家が協力を約束してくれた。松平頼則、清瀬保二、清水脩、団伊玖磨、黛敏郎、芥川也寸志、石桁真礼生、湯浅譲二の諸氏である。そうして、第一回の発表のために、芝祐久氏の「白狐の湯」大栗裕氏の「赤い陣羽織」が書かれ、今日に至った次第である。
 谷崎潤一郎氏の代表的な一幕物「白狐の湯」と、木下順二氏の民族的な立場からよく消化された「三角帽子」の翻案物「赤い陣羽織」という、二つの全く傾向の異った作品が、作曲家の犠牲を通じて、対照的な歌劇に仕上ったことは、当然のことであり、又興味の深いことでもある。二つはまるで違った手法で演出され、そのどちらもが、私の今までの演出とは又違った形式を感じさせるだろう。これが現段階において、批評家や観客から、どのような受けとられ方をするか、私として最も楽しみな点はこれである。

[目次]