[論文一覧へ] [トップページへ]

中之島国際音楽祭2009 水都おおさか讃歌
演奏曲目について

白石知雄

(中之島音楽祭2009 水都おおさか讃歌、2009年10月2日、大阪市中央公会堂 大ホール)

 本日の前半の合唱は、まさしく「歌でつづる大阪」と言ってよいでしょう。

 かつて堂島は、全国の米の集配地でした。米の取引市場がのちの大阪証券取引所に発展したのですから、まさにここが商都・大阪の原点です。千原英喜さん(1957-)の編曲による「淀川三十石舟歌」は、堂島と京都を往復していた船頭の歌。米俵や旅人が乗る船のまわりに、くらわんか船の物売りが集まり、淀川は大変な活況を呈していました。

 淀川べりの台地にそびえるのが大阪城。「友よ 大阪の夜明けを見よう」は、大阪城ホールで今も続く年末の一大イベント「一万人の第九」を立ち上げた指揮者で作曲家の山本直純さん(1932-2002年)が、1984年12月2日の第2回のために作曲した合唱幻想曲です。

 北を流れる淀川とその支流、南の大和川というように、かつての大阪は、東から来て西の海へ注ぐ「東西」の動線が町の基軸でした(そのため古い大阪の地図は、東の大阪城を上、西の大阪湾を下にして描かれています)。こうした東西方向の水の流れに直交する「南北」軸の大動脈、御堂筋の道路・地下鉄ができたのは、ご存じのように関一市長時代の昭和初期です。上沼恵美子さんが海原千里・万里時代にシングル・リリースした40万枚のヒット曲、猪俣公章(1938-1993年)作曲「大阪ラプソディー」に歌われたネオン街、“二人づれ恋の街”の誕生です。

 ヨハン・シュトラウス(1825-1899年)の「美しく青きドナウ」は、そんな御堂筋・モダン大阪誕生の半世紀前に、諸外国との戦争に敗れて沈滞ムードだったウィーンを勇気づける曲をと頼まれて生まれたワルツです。しかしこうやって振り返ると、水都・大阪は、音楽の都ウィーンに負けない、たくさんの応援歌を持っていると言えるかもしれませんね。

*  *

 演奏会後半は、どちらも大阪が生んだクラシック界の大スター、ヴァイオリニスト辻久子さんとゆかりのある作品です。

 島之内の小間物問屋の長男に生まれた大栗裕(1918-1982年)は、天王寺商業学校の吹奏楽でホルンを吹くところから音楽人生をスタートします。でも、彼が初めて行ったクラシックの音楽会は、昭和7(1932)年、ヨーゼフ・シゲティの2度目の来日リサイタルだったそうです。

 戦後、昭和25(1950)年に、大栗裕は大阪フィルの前身、関西交響楽団に入団します。五年後に彼を歌劇「赤い陣羽織」の作曲家に抜擢したのは、指揮者の朝比奈隆です。朝比奈さんも、かつてはヴァイオリン弾きでした。大栗裕は、京都帝大文学部時代の朝比奈さんの若々しい演奏姿を客席で見ていたそうです。管楽器出身の大栗裕にとって、ヴァイオリンは、いつも憧れと尊敬の眼差しを注ぐ存在だったのかもしれません。

 辻久子さんの側から見ると、大栗裕や朝比奈隆は、関西の古参ヴァイオリニストだった父・吉之助とワイワイやっている「父の音楽仲間」。一緒に仕事をしたのは、昭和36(1961)年頃、花柳有洸の創作舞踊の会が最初でした。辻さんは、大栗作曲のヴァイオリン曲「青衣の女人」を、[梅田コマ劇場の中央で]踊り手の輪に囲まれながら弾いたそうです。その次は、昭和38(1968)年、毎日放送が芸術祭に出品した大栗裕のヴァイオリン協奏曲の放送と演奏会での初演。そして本日の演目、昭和41(1966)年の小組曲「淀の水車(みずぐるま)」が続きます。

 「淀の水車」は、昭和30年代にオペラやミュージカルを自主製作するなど、多彩な活動を行っていた大阪労音(労働者音楽協議会)の委嘱作品でした。第1曲「わらべ唄」は、子供が輪になって、おにを囲む、大阪の遊び唄“中の中の小坊さん”。第2曲「子守唄」は、大栗裕が昭和32(1957)年の歌劇「夫婦善哉」にも使った代表的な大阪民謡“天満の子守歌”。第3曲「はたらき唄」は三十石舟歌。演奏会前半の合唱とは一味違ったアレンジです。第4曲「獅子舞」は大阪の夏祭り、天神祭だんじりのリズムと、生國魂神社の獅子舞囃子の組み合わせです。吹奏楽編曲が人気の「大阪俗謡による幻想曲」と同じ素材が、華麗なコンサート・ピースに編み直されています。辻さんがリサイタルのアンコールで弾き、客席を涌かせてきた曲です。

*  *

 今年で生誕百年を迎えた貴志康一(1909-1937年)が幼少期を過ごしたのは、淀川のほとり、桜宮に近い網島でした。辻さんは、生前の面識はなかったそうですが、戦争中の追悼演奏会(指揮、尾高尚忠)やハルビン交響楽団の演奏会(指揮、朝比奈隆)で、貴志康一のヴァイオリン協奏曲を弾いています。自身もヴァイオリニストだった彼の作品は、1938年にわずか12歳で日本音楽コンクールで第1位に入賞した辻さんのずば抜けたテクニックがなければ、弾くことのできない難曲だったのです。

 また、辻さんは、貴志康一の妹、山本あやさんから、生前1934年にベルリンで出版された作品集の楽譜を託されました。戦後、貴志康一の存在が忘れられかけた時期もありましたが、そんな時にも、辻さんは、クライスラーやサラサーテと組み合わせて、貴志作品を積極的に取り上げました。海外演奏では、日本的なメロディーがとりわけ好評を博したそうです。

 本日の3曲は、いずれも、1933年にベルリンで仕上げられ、上記ベルリン・ビルンバッハ社刊「貴志康一 ヴァイオリン作品集」に収録されています。「漁夫の唄」は、貴志康一が多感な少年時代を過ごした芦屋の浜の情景。祖国を離れたベルリンで、1933年夏に作曲されました。「水夫の唄」は、日本に一時帰国したときに書き始めて、ベルリンで仕上げた作品。当初は“月とルンペン”の題のついていた、表現主義風の、物狂おしい月夜の曲です。「龍」は、長崎の祭りの印象とも、妙心寺法堂の豪壮な天井絵にもとづくとも言われています。ヴァイオリンは、しばしば人を惑わす悪魔の楽器と言われますが、西洋の悪魔の超絶技巧を、龍という「東洋の魔」に結びつける卓抜の着想です。

付記:この解説をまとめるにあたり、ヴァイオリニストの辻久子さんから数々の貴重なお話をうかがいました。また、大栗裕に関する記述は、大阪音楽大学「大栗文庫」研究プロジェクトの成果にもとづいています。本稿の執筆にご理解・ご協力をいただいた辻久子様、大阪音楽大学研究事務部門、付属図書館、音楽博物館の関係者の皆様に感謝いたします。

[論文一覧へ] [トップページへ]
tsiraisi@osk3.3web.ne.jp