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清く正しい音楽学会を創ったのは誰か?:『日本音楽学会30年史』(『音楽学』第33巻特別号、1987年)【短縮版】

はてなダイアリーに3回に分けて書いた文章 から、雑談等を削除した短縮版です。

0. はじめに

「山根・服部論争」とその背景に狙いを絞って音楽学会の成立事情を整理したら、音楽の批評と研究に関して何か言えるのではないか、と思ってこの文章を書き始めたのですが……、書き終えてみると、どうやら音楽学会の成立時に東京藝大と音楽之友社がプログラムした「日本の音楽学」は、批評と正面から切り結ぶタイプのものではなく、周囲から注意深く隔離された、いわば清く正しい、「深窓の学問」みたいなところがありそうな気がしています。

1. 学会設立の呼びかけ人

日本音楽学会の本部は設立以来ずっと東京藝大にあります。

なぜ本部が東京藝大なのかというと、1949-1952年に東京藝大音楽学部長だった加藤成之(美学)が、初代会長として学会の設立に尽力した経緯によるようです。年史の記述によると、まず、1951年11月に藝大音楽学部長の加藤と同教員?(美学)の土田貞夫、東大教授(フランス文学)の小松清、同助教授(東洋音楽史)の岸辺成雄が集まり、彼らが呼びかけ人になって発起人会を組織して(発起人会メンバーについては(5)を参照)、……という一連の学会設立の動きのなかで、場所を提供して便宜をはかるなどした藝大に自ずと本部を置くことになったようです。

加藤成之(1893-1969)は、

加藤成之 かとう-よしゆき
1893−1969大正-昭和時代の音楽美学者。
明治26年9月6日生まれ。加藤弘之の孫。浜尾四郎,古川緑波(ろっぱ)の兄。東北帝大講師,東京音楽学校(現東京芸大)教授をつとめ,音楽史,音楽美学を担当する。昭和24年同校校長,同年学制改革で東京芸大初代音楽学部長となる。32年から女子美大学長。貴族院議員。昭和44年6月30日死去。75歳。東京出身。東京帝大卒。
(http://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%88%90%E4%B9%8B)

土田貞夫先生(1908- )のプロフィールは、無知を恥じるばかりですが、私はほとんど存じ上げません。

『詩と音楽美の特質』(1969年、カワイ楽譜)が玉川大学出版部から再刊されたときの著者略歴(1976年現在)によると、

土田貞夫(つちださだお) 1908年秋田県に生れる。1933年東京大学文学部美学科卒業。日本大学芸術学部教授、東京学芸大学教授を歴任。1972年定年退官。現在は慶應義塾大学、日本大学等にて美学、音楽を講ず。

東京藝大との関係は出ていません。もう一度『30年史』を見直すと、1951年11月17日の会合の記録での所属は「東京芸術大学」ですが、1952年5月10日現在の「音楽学会々員名簿」での所属は「神奈川大学教授」になっています。

小松清(1899-1975)は、日本の洋楽史で言うと、小松耕輔の弟。フランス文学者とされますが、マルローやジッドを紹介した小松清(1900-1962)とは別人なのだそうです。

小松清(1) こまつ-きよし
1899−1975昭和時代の音楽評論家,フランス文学者。
明治32年4月15日生まれ。小松耕輔の弟。東京帝大在学中に東京音楽学校(現東京芸大)でピアノと作曲をまなぶ。昭和24年東大教授。のち東京芸大,東海大の教授。フランス音楽の紹介につとめた。昭和50年4月12日死去。75歳。秋田県出身。著作に「西洋音楽の鑑賞」など。
(http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E6%B8%85%281%29)

他の資料によると、小松清(小松1899のほう)は、一高教授から1949年に東大教授へ、ということなので、教養部のフランス語教師だった、ということでしょうか?

岸辺成雄(1912-2005)は、東洋音楽研究の重鎮でさすがにウィキペディアにも項目が立っていて、

岸辺 成雄(きしべ しげお、1912年6月16日 - 2005年1月4日)は、音楽学者。東京大学名誉教授。
東京に生まれた。教育者岸辺福雄の子。1932年東京帝国大学文学部東洋史学科入学、卒業後、第一高等学校教授、49年東大教養学部助教授、1961年「唐代音楽の歴史的研究」で東大文学博士、学士院賞受賞。62年教授、73年定年退官、名誉教授、帝京大学教授。東洋音楽学会会長。
(http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B2%B8%E8%BE%BA%E6%88%90%E9%9B%84)

小松清と同じく、一高教授から東大駒場へ、という経歴。

まとめると、1951年の秋に東京藝大の先生が東大駒場の先生を誘って、日本に音楽学の学会を作ろうという初動のブートストラップを引いた。そしてこれが順当に1952年4月5日、東京藝大音楽学部会議室での設立総会へつながった、ということであるようです。

岸辺成雄の卒寿記念で作成された年譜をみると、昭和11年(1936年)の東洋音楽学会設立は、岸辺とイスラム音楽史の飯田忠純の提案によるものだったようです。彼が加藤学部長に誘われたのは、学会を創った経験を買われたのかもしれませんね。しかも、岸辺は音楽学会ができた1952年の春から停年になる1979年3月まで27年間、東京藝大の非常勤講師を務めています。小松清も、上で引用した略歴によると、時期ははっきりしないのですが東京藝大教授に迎えられたそうですから、音楽学会は、かぎりなく「藝大の先生が作った学会」と見て良さそうです。

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では、なぜ、東京藝大の加藤先生が音楽学会設立に理解を示してくださったのか?

昭和24年(1949年)の藝大に楽理科が設置されています。1949年に楽理の一期生が入学したとすると、音楽学会設立の1952年には卒業年次の4年生。そろそろ楽理から最初の卒業生が出ようかという頃合いです。音楽学会設立の2年後、1954年には大学院楽理専攻科が設置されています。私には、偶然とは思えないです。

それからもうひとつ、学会創立は、戦後の大学制度改革のなかで、音楽学校が「大学」化したこととも無関係ではないかもしれません。

戦前の高等教育は帝国大学、私立大学、旧制高校、専門学校など年限も性格も多様だったのが、1949年から4年制大学へ一元化されるようになったんですよね。上野の音楽学校も、戦前は音楽取調掛以来の音楽教員の養成機関であり、近代の式楽としての洋楽の実技を教える専門学校だったわけですが、1949年からは、美術学校と合併して、4年制の大学になりました。

音楽の研究を「学問」の一領域として確立することができれば、音楽の学校が「大学」として存在している理由をすっきり説明することができる。新制藝大の初代音楽学部長として、加藤成之は、そんなことを考えていたのではないでしょうか? だとしたら、新制への移行と同時に楽理科を開設したことと、ひきつづいて、藝大主導で音楽学会を創立したことは、音楽学校の「大学」としての制度的な基盤を固める一連の構想の一環だったと解釈できるかもしれません。

服部幸三は、『30年史』の「物故会員のプロフィール」、加藤成之の項目で、こんな書き方をしています。

すべてにつけ、穏やかで、しゃれた感覚の持ち主でいらして、大概のことは人任せだが、大切なことには思いをひめ、ものごとの進み行きを見守るというところがあった。音楽学会の初代会長を勤められるについても、私はそのような先生のお気持ちを幾度も伺ったが、その細部はかすれがちなお声とともに、胸の中にしまって置きたいと思う。(46頁)

勿体ぶった思わせぶりな書き方ですが、簡単には公言できない「何か」を伝えられていたようにも受け取れます。服部先生は、加藤学部長&会長の考えていたことを、身近で聞いたり、感じ取ったりして行動していたのかもしれませんね。

なお、当初この1952年4月5日の集まりは「音楽学会設立総会」と呼ばれ、同年10/27に同志社大学等・京都で行われた集まりは「昭和27年度秋季大会」とされ、この秋の集まりが「第1回大会」と呼ばれてもいたようですが、1953年(昭和28年)11月以前のどこかの段階で、1952年4月の集まり=「第1回全国大会」、1952年10月の集まり=「第2回全国大会」、1953年4月の集まり=「第3回全国大会」、1953年11月の集まり=「第4回全国大会」とカウントし直されたようです。

当初の学会名は「音楽学会」です。

既に昭和11年(1936)から東洋音楽学会があり、設立時には、暗黙のうちに、これとの対比で「西洋音楽(史)の学会」が想定されていたようですが、上記のように最初から東洋史・東洋音楽史の岸辺先生も学会の主要メンバーですし、大学にポストを持つ会員(の予備軍)としては哲学出身の美学(音楽美学)研究者が一大勢力であり、音楽教育学の人達を巻き込むべきだとの意見を持つ会員もいたようです。

また、当時は「音楽学」という言葉が一般に知られておらず、学会名称を「日本音楽学会」とすると「日本音楽の学会」と誤解される恐れがあるという意見もあったのだとか。(この話は、長く音楽学会内部で語り伝えられていましたね。)諸事情を勘案したうえでの「音楽学会」だったようです。現在の名称「日本音楽学会 The musicological Society of Japan」に改称したのはかなり遅く、昭和61年(1986年)です。

2. 学会史の資料、設立直後の会報の意義

東京藝大の学会本部には設立時以来の資料が保管されていて、これが、30年史のデータの基礎になったようです。

本部には「一点もの」(会議記録やスタッフの業務日誌など1点しかなくて、すべてが網羅的に揃っているか定かではないけれど、残っていれば貴重で有力な手掛かりになるであろう資料)のほかに、設立当初以来の会報もあるようです。

後述するように、学会機関誌『音楽学』の創刊は、紆余曲折があり、学会設立の2年後1954年まで遅れます。初期の会報は、機関誌創刊前の2年間の学会の動きを知る、ほぼ唯一のまとまった配付物です。そのような意義に鑑みると、(もちろん、しかるべき筋を通して本部へ行けば、閲覧させてもらえるのでしょうけれど)初期の会報を一般に閲覧可能な形に公開してもいいのではないか、と私は思います。(後述する音楽評論家との「論争」が、会報にどのように記録されているのか、知りたいですし。)

3. 『音楽藝術』と設立直後の音楽学会

1952年4月に音楽学会が設立されてから、1954年10月25日付けで学会機関誌『音楽学』が発行されるまでの1年半の間に、音楽之友社の音楽雑誌『音楽藝術』に、音楽学会の動静を伝える複数の記事が出ています。

最初の記事は、1953年3月号。

ここで「第一回全国大会」と呼ばれているのは、設立年10月の同志社大学等における「昭和27年度秋季大会」。先に述べたように、その後、公式記録では「第2回全国大会」とカウントし直されることになる集まりです。京都での集まりだからなのか、座談会参加者の過半数、12人中7人は学会関西支部の設立当時のメンバーです。

「第一回」を名乗る全国大会を開催した記念すべきタイミングとはいえ、一般音楽雑誌に、音楽学という耳慣れない学問を標榜する12人の座談が13頁にわたって掲載されるのはかなり異例であるように思います。後述する音楽之友社と音楽学会との協力関係との関連で考察したい記事です。

続いて、(私が見つけたかぎりでは)計4回、「音楽学会通信」という1〜2頁の記事があります。

1953年8月の最初の「音楽学会通信」の「学会雑誌」の項目で、機関誌が音楽之友社から紀要形式で刊行予定であることが告知されています。音楽之友社との間で機関誌出版についての提携話がまとまり、機関誌刊行までの「つなぎ」として、同社発行の雑誌に学会通信欄を確保することになった、という経緯であるような印象を受けます。

同じ号の「春季大会」という言い方から、この段階では、まだ、大会のナンバリングが旧いままで確定していなかったことがわかります。1954年2月号の「第四回全国大会」は、現在の公式記録と同じ数え方です。この大会でナンバリングの混乱が解消されました。

なお、この「第四回全国大会」の報告記事には、以下の記述があります。

研究討論会
前記の研究発表を中心に個的別[ママ、個別的の誤植と思われる]に討論が行われ、特に音楽美論と音楽史方法論に関して白熱的な議論が展開されていつた。この討論の一部は本誌に掲載の予定。(『音楽藝術』1954年2月号、124頁)

音楽美学と音楽史方法論に関する討論会の記録を本誌に掲載予定というわけですが、これに対応するのが半年後に出た以下の記事だと思われます。

掲載されたのは「美学部門」の討論だけで、音楽史方法論についての記録は、『音楽藝術』には出ていません。そしてこの2ヵ月後、1954年10月に、いよいよ音楽学会の機関誌『音楽学』が創刊されますが、ここに第4回大会の記録はありません。

第4回全国大会の「音楽史方法論」をめぐる「白熱的な議論」とは、どのようなものだったのか? 実はこれが、日本音楽学会の黎明期の歴史において私が一番知りたいところなのですが、詳細は後述します。

ともあれ、この討論会記録で、『音楽藝術』における音楽学会の通信・報告記事は打ち止めになり、音楽之友社と音楽学会の協力関係の舞台は、機関誌『音楽学』へ移ります。

4. 『音楽学』と音楽之友社

『日本音楽学会30年史』から、機関誌に関連する記述を拾ってみます。

例会、大会の活動が徐々に軌道にのっていったのに対して、学会設立当初から懸案とされてきていた機関誌は、出版社の問題がなかなかまとまらず思うにまかせぬ状態にあった。当初予定されていた創元社からの出版が白紙に戻されるなど紆余曲折の末、1953年、音楽之友社が出版元となることに決定し、1954年10月25日に創刊号が発行された。これは、A5版と現在より小さくタテ組のものであったが、2年後に発行された第2号からは、現在のB5版、ヨコ組のものになり、以後年1回ずつ定期的に刊行されることになる。(「30年史の概要」、3頁)

創元社は、大阪で本の小売りからはじめて、印刷、製本、出版へと成長した会社なのだそうです。東京の本の取り次ぎをしていた関係で、はやくから東京支社があり、昭和の初めには、「文芸評論家の小林秀雄を編集顧問に迎え、大阪とともに編集活動を行って」いたのだとか。

http://www.sogensha.co.jp/com_history/index.html

上記、創元社サイトを見ると、大阪の織田作之助『夫婦善哉』のみならず、谷崎潤一郎『春琴抄』、『芦刈』、『吉野葛』、『陰翳礼賛』、『猫と庄造と二人のをんな』、横光利一『機械』、川端康成『雪国』、中原中也『在りし日の歌』、三好達治『艸千里』など、昭和前期の名作が並んでいます。

戦後も、小林秀雄『無常といふ事』、大岡昇平『俘虜記』を手がけています。人脈的にも、吉田秀和と近そうです。音楽学会ができるというので、文壇に近い吉田が、筋の良い(と彼が考える)出版社を紹介した、ということだったのでしょうか。

ところが、

しかし1948年(昭和23年)、猛烈なインフレが出版界を襲い、倒産が続出しました。創元社でも、すでに独立採算制となっていた東京拠点を 1954年(昭和29年)「東京創元社」と別会社とし、厳しい経営環境を経験しました。現在ではともに独自分野の出版を続け、姉妹会社の友好は続いています。
(http://www.sogensha.co.jp/com_history/index.html)

音楽学会ができた頃は会社の経営が厳しく、とてもじゃないけれど、お金のない学会の援助ができる状態ではなかったのだと思われます。

上記(3)で指摘したように、1953年6月頃(『音楽藝術』8月号発刊のタイミング)には、音友との話が大筋でまとまっていたと推測されます。そこでは、「紀要形式」となることが明言されています。

ところが、こういう証言もあります。

 当初、学会成立を促進した人々の間でも、園部氏ほどではないにしても、学会に評論的な色彩を含ませようとする傾向がなお伏在していた。学会の機関誌の形態をどうするかについて、それがあらわとなった。さて小松清氏、土田貞夫氏、私が機関誌の編集委員にえらばれた。小松氏は、ベートーヴェン号とかローマン主義号というように、「特集号」の形式を時に入れて、一般並みに売れるようにしようという考えであった。私は、いま発足しかかっている音楽学会は、評論界からまず脱皮すべきである、という考えをもっていたので、機関誌は学術論文集として紀要形式をとるべきであることを主張した。
 ところで、創刊号は早速出さねばならないことになり、小松氏と私との対立した意見はお預けのままで、小松氏は音楽之友社社長目黒三策氏と交渉され、当時の「音楽芸術」の型をとりあえずとることとして、実際の編集については、土田貞夫氏が実質的に担当し、創刊号はおくればせながら、学会創立から2年おくれて発刊された。昭和29年9月であった。[……]小松氏と意見があわなかった私は、創刊号については殆どタッチしなかった。[……]第2号編集のとき、機関誌の形式が再び審議された。こんどは私の紀要形式案が採用されて、今日に至っている。(神保常彦)(「学会回想録」、8頁)

神保先生は30年史の編集委員長でもあり、先に引用した「30年史の概要」が判型等にこだわっているのは、神保先生ご自身の体験をある程度反映した記述だと推察されます。機関誌の判型を当時の『音楽藝術』と同じA5縦組みにするか、現在のようなB5横組みにするか、という議論は、特集形式で一般向けにするか、紀要形式で評論から一線を画するか、という編集方針の対立とリンクしていたようです。

ただ、神保先生の証言は少し事実と食い違うところもあって、機関誌創刊号は、『音楽藝術』と同じA5縦組みではありましたが、先の告知記事にもあるように、特集形式ではなく、内容は紀要形式です。

(神保先生の回想に園部三郎の名前が出て来ますが、1952年1月の音楽学会発起人会で、先生は「園部三郎氏とかなりやりあった」のだそうです。先生側の言い分では、

園部氏は音楽学に対して積極的に懐疑的な態度であった。だから学会を評論性の強い方向へ持っていこうとした。少なくとも私にはそう思われた。私は当時、ドイツの音楽学会のような音楽学の研究に専心する地道な学問研究をする場ができることをひそかに望んでいたのである。(同上)

「評論vs音楽学」という対立の火種については、このあとでもう一度とりあげます。)

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こうして、『音楽学』は音楽之友社と提携する形でスタートしましたが、その後の変遷に関する「30年史の概要」の説明は以下の通りです。

さて、8巻以来年4号の発行を続け、1974年には学術刊行物の指定も受けた機関誌であるが、1976年、音楽之友社から従来のような出版援助は行えないとの申し入れがあった。[……]結局、1978年には機関誌の編集、発行については音楽之友社が行なうが、販売をアカデミア・ミュージック株式会社に委託することになり、年間に80ページのものを3回発行していく運びとなった。(「30年史の概要」、5頁)

この記述から、音楽之友社との提携は、「出版援助」と言い換えうるようなものであったことがわかります。音楽学会が会員から徴収した会費で編集・発行のコストをすべてまかなっているわけではなく、その一部を音楽之友社が「出版援助」として引き受けていたようです。1978年にこの体制が見直された、というのが上の記述ですが、この見直し以前がどうだったかということについては、こういう証言が「回想録」に出てきます。

卒業後大学院に進んだ私は、同級生の海老沢敏君と一緒に音楽学会の機関誌『音楽学』の編集を担当する幹事を命じられ、音楽学会の裏方としてお手伝いをすることになりました。[……]当時の学会誌の編集は、今日のように学会の側にきちんとした査読の委員会があるという態勢ではなく、音楽之友社の好意にかなり寄り掛かっている部分が大きかったと思います。勿論、建前の上では学会が論文を集め、その素材を本にする作業を音楽之友社に依頼する形ではありましたが、実際の作業にあたっては、必ずしもその通りには行かないケースもありました。或るとき、音楽之友社側から手伝いに来てくれていた、というよりも実際的には編集の主役であった、「音楽芸術」編集長の(故)渡辺氏が、一本の電話を受けて、突如1ページ分を削って音楽之友社の広告を入れなければならない、と言い出したのです。[……](丹羽正明)(「学会回想録」、20頁)

かくして最終的には、渡辺氏の手で、「〈座談会〉ヨーロッパ音楽界の近況 -- 山根銀二氏を囲んで」の原稿が雑誌編集の要領で1ページ分短くカットされることになったのだそうです(同21頁)。これは、丹羽氏自身によると、「もう時効にかかっているかもしれませんが、こんな乱暴な処理が実は一度だけありました」ということなので、毎回の常態ではなかったのでしょう。(付記:この座談会は1956年11月1日発行の『音楽学』第2巻、64-73頁に掲載されています。)

この丹羽正明の回想は、彼が東大を卒業した翌年に編集を手伝った『音楽学』第2巻に関するものですが、前後の巻を見ると、音楽之友社は第1、3、4巻の見返しなどの目立つ箇所に複数、分量にして1〜2頁相当の広告を掲載しています。ところが、第2巻は途中の15頁に全面広告があるだけです。(同巻の裏表紙とその見返しには、アカデミア図書株式会社、国際出版社、日本楽器、アルヒーヴレコードそれぞれ半面の広告が並んでいます。)

丹羽の書き方だと、なにやら、上層部(営業?)からの電話で、友社から送り込まれた編集者が強引に広告を1ページ増量したかのようですが、おそらくそうではなく、本来掲載する手筈になっていた自社広告を入れ忘れたことが校了段階でわかり、電話確認の上、やむなく座談会の記事を短くして、広告スペースを作ったのだと思われます。(山根銀二の座談会は、カットしても10頁ある長大なものです。他の学会員と違って、山根は音楽之友社とツーカーの間柄なので、カットの埋め合わせはどうにでもなる、という判断だったのでしょう。)

学会を初期に「若手」として支えて、のちに大成された先生方は世俗にまみれた大学外に不審の目を向ける傾向が強いのですが、でも、現物の仕上がりから状況を推測すると、仕方がなかったんじゃないでしょうか。しかも、第2巻は、判型がB5横組みに変わった最初の巻ですから、予測できないことが起きても無理はない。

なお、丹羽の回想には、「みすず書房」の広告を「みみず書房」と誤植して広告料をもらい損ねた失敗談がありますが、これは、第6巻第2号61頁で、株式会社「むじか」が「むかじ」となっているのを指すと思われます。第1巻から第8巻あたりまで目を通しましたが、みすず書房の広告は見当たりません。

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それからもうひとつ、丹羽氏の回想でなるほどと思ったのは、大学院生が学会幹事として機関誌編集を手伝う慣習が学会創立当時からあったらしいということです。内容が紀要形式であるにせよ、音楽之友社『音楽藝術』の編集スタッフと直接一緒に仕事をするわけですから、下世話な言い方をすれば、音楽の世界で生きていこうとする若い院生にとって、これは音楽ジャーナリズムへの強いコネクションだっただろうと思います。

(「音楽学会がどのような団体としてスタートしたか」を考えるときに、先の神保先生の文章に出てきた「ドイツの音楽学会のような地道な学問研究の場」という理念と、「楽理科卒業生のためのキャリア・パス」という実践的な効用は、両輪のようなものだったのではないかと思います。)

5. 音楽評論家と音楽学会

音楽学会は設立後しばらく、陰に陽に、評論家とどうつきあうか、に苦慮していたらしき形跡があります。

(a) 発起人会での園部三郎と神保常彦の対立

『30年史』に掲載された音楽学会記録ノートの写真によると、1951年(昭和26年)12月に発送した学会発起人候補者への依頼状に受諾の返事があったとされているのは、以下の22人(順不同)。

瀧遼一(東京水産大学)、桂近幸(茨城大学)、園部三郎(東京工業大学)、大築邦雄(横浜国立大学)、吉田秀和(中央大学)、相陸奥男、中山真一郎(愛知大学)、林幸先(鹿児島大学)、長広俊雄(京都大学)、岸辺成雄(東京大学)、小松耕輔(お茶の水大学)、小泉治(明治学院大学)、結城錦一(東亜大学)、張源祥(関西学院大学)、吉田辰雄(東京学芸大学)、筧潤二(日本大学)、小松清(東京大学)、辻壮一(立教大学)、加藤成之(東京藝術大学)、土田貞夫(東京藝術大学)、長谷川良夫(東京藝術大学)、吉川英士(東邦音楽大学)

この段階で、音楽評論家の園部三郎、吉田秀和の名前が発起人に見えます。そして翌52年1月12日に第一回発起人会が21名の出席で行われて、この席で神保先生が園部とやりあったらしいことは、(4)で引用した通りです。このやりとりは、批評と研究の差異が学会運営上の「火種」になりうることが明白になった最初の出来事と位置づけることができそうです。

(b) 厳格な会則

「30年史の概要」は、会則に言及して次のように書いています。

正会員の資格として「イ、学士であって音楽学を専攻するもの(卒業論文が音楽学であること) ロ、音楽学を専攻する旧制大学院学生(新制大学院学生は2年以上の教程を要する) ハ、大学で音楽学を教授し、或いはした者 ニ、音楽学を専攻し、業績ある者、(以上、イ、ロ、ハに該当する者は自動的に正会員になり得、ニに該当する者は、理事会の審査を要する)」と規定されているのはいささか厳格にすぎるとも思われるが、これは、まだ音楽学の学問性が世に十分理解されていなかった当時の学会として、ディレッタントやいわゆる評論家を避けようという配慮があったためと思われる。

どうして文中の「評論家」の語に「いわゆる」がくっついているのか、ともあれ、音楽学会は、ディレッタントと評論家をそのままで正会員とは認めない方針で発足し、今日に至っているということのようです。

(c) 音楽評論家の公開講演の是非

そして、大宮真琴氏、皆川達夫氏とともに、幹事として実務に奔走していた若き日の服部幸三先生が登場します。

服部幸三先生は、回想のなかで、まず、1952年11月の京都における「秋季大会」(のちに「第2回全国大会」とカウントし直された集まり)について、次のような裏話を披露します。

京都大会に関しては、当初山根銀二氏、吉田秀和氏などに公開講演をお願いしては、という案がありましたが、結局は立ち消えになりました。評論家対音楽学者の肌合いの違いは、学会設立当初から微妙な軋みを生じていたように思います。(「学会回想録」、10頁)

大会記録をみると、結局、「秋季大会」は1952年(昭和27年)10月27日、同志社大学栄光館にて、学会員の辻壮一先生と張源祥先生の講演で開幕したようです。

音楽評論家の公開講演を提案したのは、先の神保先生の回想で学会誌での特集形式を主張したとされる小松清先生だったようです。『30年史』の「物故会員のプロフィール」の小松清の項目で、皆川達夫が次のように書いています。

純学問的方向にあった音楽学会のなかでは、しばしば御意見が孤立されることもありました。名のしられた評論家に学会大会の講演依頼されたり、学会誌にシューマンやラヴェルやらの特集を企画されて、〈学会はペン・クラブではない〉ときびしい批判をうけておられましたが、しかしそれも発足したばかりの音楽学会をいちはやくひろく世に知らせようという善意から発していることは、誰の目にも明らかでした。(46頁)

皆川先生は、学者と評論家の差異を、服部先生のように「肌合い」と気性・性格へと帰着させるのではなく、学会とペン・クラブの違いという組織論の視点を示唆しています。また、一般雑誌風の特集形式や評論家との提携が、評論と学問の差異への無理解ではなく、学会の外部へのアピールという一定の積極的な意味があったことを指摘します。どちらも、事態を立体的に考察するための重要な指摘だと言えそうです。

また、細かい言い回しの問題ですが、ここで、「講演依頼“された”」となっているのは、ちょっとドキリとするところです。[ケース1] 吉田・山根の両評論家に講演を依頼しようという「発案」(上記、服部の言い回し)が学会内部に出て、そのまま立ち消えになったというのであればまだしも、[ケース2] 実際に講演依頼が両評論家に「されて」おり(上記、皆川の言い回し)、それがあとから撤回されたのであれば、ちょっとした不祥事です。(しかも、[ケース3] 正式に決まる前に小松先生が二人の評論家と既に話をつけてしまっていたとしたら、学会の会議は、険悪な雰囲気になったのではないかと……。)事実はどうだったのか、『30年史』だけでは、はっきりしません。

そして余談ですが、皆川先生は、そんな小松先生をとても尊敬していたようです。

小松氏は、いつも周囲の人びとをあたたかかくつつむ何かを身につけておられました。当時10代末のわたくしには、年をとったらあのようなお年寄りになりたいと、つくづく思われたものでした。それだけに氏の御葬儀のおりに音楽学会関係者の参列がきわめてすくなかったことを、わたくしは今でも口惜しく思われたなりません。(47頁)

『日本音楽学会30年史』のなかで、私は当初、前のほうにでている会員の回想録から主に情報を拾っていたのですが、後ろのほうにある「物故会員のプロフィール」も、それぞれの先生方の思いのこもった文章であることに、あとで気づきました。

服部先生による加藤成之の回想は、すでに(1)で引用しました。谷村先生による張源祥の回想については、(7)をご参照ください。

(d) 山根銀二と服部幸三の一時間の激論

この京都大会の一年後、「第4回全国大会」で決定的な事件が起きたようです。服部先生の回想の引用を続けます。

その軋みが、ついに爆発したのが、昭和28年11月8日から9日にかけて、東京芸術大学で行われた大会の研究討論会の席でした。[……]とくに話題になったのは、岸辺成雄氏が発表された「世界音楽史の構造試案」をめぐる議論でした。ところが、その席に評論家、批評家として当時の論壇を牛耳っていた山根銀二氏が突然現われ、形式的には岸辺成雄氏を擁護する姿勢をとりながら、音楽学者などというものは音楽の実体に弱く、世界の情勢を何も知らない、こんな学会は無用の長物だとばかり、滔々たる学会批判を試みたのです。ここは一歩も譲ってはならぬと考え、およそ1時間も議論を戦わせました。[……]討論会のあと、大会事務のために使わせていただいていた学部長室にもどった私は、そのまま十二指腸潰瘍の発作で倒れてしまいました。いわゆる評論家のタイプの方が、学会の公けの席にねじ込んだのは、これが最後であったと思います。(同上)

山根銀二は、1945年末に「東京新聞」紙上で山田耕筰の戦争犯罪を糾弾する論争を展開して、翌年から同紙の音楽批評を担当。1950年に武満徹の「二つのレント」を「音楽以前」と評した逸話など、1953-1954年の欧米旅行後に吉田秀和が台頭するまで、たしかに「当時の論壇を牛耳っていた」印象のある存在だったようです。

ただし、上記(3)でご紹介したように、この「白熱の議論」の具体的な内容は、全国大会という公然の場での出来事であるにもかかわらず、不明です。

『音楽藝術』で内容を掲載すると予告されながら、実際には研究討論会前半の美学部門の討論だけが掲載されて、後半の歴史部門の岸辺成雄先生の発表をめぐるやりとりは、同誌に掲載されませんでした。はたして、誌面・紙数の都合等によるのか、山根・服部論争の内容が音楽雑誌にふさわしくない何かを含んでいたのか……。山根銀二は、当時、この雑誌の顧問ですし、まもなく音楽学会は自前の機関誌を創刊して、『音楽藝術』が世話を焼く義理がなくなるタイミングでの事件ですから、ややこしい話をうやむやにしたようにも見えます。

山根銀二側がこの件について何か書いているのかどうかも、よくわかりません。少なくとも『30年史』には一方の当事者、服部幸三のかなり攻撃的な口調の回想だけが載り、山根は、「当時の論壇を牛耳」り、学会の場に「突然現われ」、慇懃無礼な態度で(「形式的には岸辺成雄氏を擁護する姿勢をとりながら」)、「滔々たる学会批判を試み」る絵に描いたようなワルモノです。

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服部幸三と同じく学会幹事としてこの大会の運営にも関わっていたと思われる皆川達夫先生は、『30年史』でこの一件に次のようにコメントしています。

 当時は音楽学というと、音楽の実際とは何の関係もない不要かつ不毛のタワ言か世迷い言という受けとり方が一般的で、作曲家も演奏家も、いや音楽評論家までが露骨に反感をしめすことがすくなくなかったのです。
 〈オンガクガクなどと、アゴがガクガクする語呂の悪いきたない言葉を平気で使っていること自体が、あの連中の耳の悪い証拠だ〉と言ったある作曲家、〈バッハをチェンバロで弾けとは何事です。バッハはピアノで弾くべきです。そういうことを言うのが音楽学者の悪いクセだ〉と怒りだしたある音楽評論家。……前に服部幸三氏が記しておられた山根銀二氏との大立廻りも、ひとえに音楽学にたいする当時の偏見と反感とが背景にあったわけです。(「学会回想録」、11頁)

事件をその時代背景から説き起こそうとする皆川先生の態度は、いかにも歴史家。

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でも、それじゃあ、山根銀二の側に「言い分」はなかったのでしょうか?

ワンクッションおいて、まず音楽之友社の立場を考えてみると、学会への支援はおそらく「先行投資」だと思います。学会の連中は、若くて優秀な書き手を育ててくれるかもしれないし、売れる音楽書を書いてくれるかもしれないからです。異例に大きな誌面を割いて座談会を2度も掲載したのは、そのような思惑込みでの判断だったのではないでしょうか。(学会機関誌への広告掲載を本社が厳命したのも、友社が、学会への支援において、「商売」を決して忘れていないことを感じさせます。)

そしてこのような動きは、それまで音楽雑誌に執筆してきたフリーの音楽評論家にとって、注目せざるをえないことだったはずです。いずれ、「学問」を収めた若い連中が出てくるかもしれないし、どうやら音楽之友社は、その可能性を計算に入れているらしい。しかも実際に、雑誌に大きな記事がドカドカと出てしまったのですから……。

なるほど、まだできたばかりのヨチヨチ歩きの学会側から見れば、評論家たちが、力に物を云わせて「ねじ込んで来た」と見えたのかもしれません。「地道な学問の場」を夢みる神保先生のような立場からすると、悪童に楽園を荒らされるような感じがあったかもしれません。でも、そのように一方的に自分たちを「無実の被害者」と表象する学会の方々は、自分たちが出版社と「持ちつ持たれつ」の関係を作らねばやっていけない存在であり、その甘やかされた有り様が、外からどう見えるかということに対して、無自覚すぎたのではないでしょうか。

「若者文化」は戦後の産物と言われることがありますが、音楽学会創立当時の音楽之友社との関係は、どこかしら、「甘え上手な若者」のようにも見えます。

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(3)でご紹介した『音楽藝術』1953年3月号の音楽学会創立時の座談会は、石倉小三郎が明治・大正期に遡って日本における洋学研究の歴史を振り返るなど、地に足の着いた堅実な話題に終始しています。音楽学会の旗揚げは、たとえば早坂文雄や清瀬保二を苛立たせた1949年の柴田南雄のバルトーク論などと比べると、旧世代への無理解や切り捨てのそぶりのない、穏当なものです。

また、1956年の『音楽学』第2巻には、(4)で引用した丹羽正明の回想にあるように、山根銀二を囲む座談会が掲載されています。正確なタイトルは「日本の音楽学の課題 -- 帰国した山根銀二氏を囲んで海外事情をきく --」、参加者は野村良雄、吉川英士、土田貞夫、岸辺成雄。編集後記に、幹事だった丹羽正明の文責で次のような説明があります。

○巻末に掲載の座談会は、ヨーロッパ、ソ連及び中国を視察して最近帰国された本学会会員山根銀二氏を囲んで行われたもので、日本における音楽学研究態度の反省に何らかの形で役に立つのではないかと思います。(『音楽学』第2号、1956年、72頁)

「日本における音楽学研究態度の反省」という言い方は、暗に1953年の研究討論会での山根・服部論争との関連を示唆しているように思われます。

長大な座談会記録の前半では、山根がヨーロッパ、ソ連、中国の旅程を延々と事細かに語っています。一般の商業雑誌ならともかく、学術雑誌(会員には留学経験者が少なくない)に、こういう情報が求められているのかどうか。

座談会後半では、西洋に追いつき追い越せ、という動きが一段落したあとには、再び「日本」や「東洋」が問題になるはずだ、という話題で参加者の話が弾んでいます。山根銀二は、当時、日本音楽や中国の動向に関心を寄せていたようで、日本音楽の吉川先生、東洋音楽の岸辺先生と意気投合しているような文面になっています。

これが「手打ちの席」なのだとしたら、山根に調子を合わせて、機嫌を取っていると読むこともできるかもしれません。編集後記の「何らかの形で役に立つのではないかと思います」という棒読み口調は、こうした議論が当時の“気鋭の若手”にまったく響かなかったことを伺わせます。

しかし、改めて思い返してみると、山根・服部論争の発端は、第4回大会での岸辺成雄の発表です(1953年11月8日、岸辺成雄「世界音楽史の構想試案」)。発表後の研究討論会の席に山根銀二は「突然現われ」たそうですから、彼は発表そのものを聞いていないのでしょう。そして服部幸三は、山根の「岸辺成雄氏を擁護する姿勢」が「形式的」だった(真意は違った)と書いていますが、上の座談会で岸辺と山根が語り合うのを読むと、当人同士の話は、ちゃんとかみ合っています。

もしかすると、山根銀二は、『音楽藝術』で適宜報じられていた音楽学会の動向に素直に関心を抱いていたのではないか。だからこそ、多忙なスケジュールを割いて、(岸辺の発表には間に合わなかったけれども)上野の東京藝大へ足を運んだのではないか。発表そのものを聞かずに発言するのは確かに不作法であり、多少ピントのぼけた話をしてしまったかもしれないけれども、自身も東洋音楽に関心を持っていたので、率直に「岸辺成雄氏を擁護」しようとしたのではないか? 売り言葉に買い言葉で、1時間も言い争っていれば、それだけではないところへ話が飛び火したかもしれませんが、服部幸三が噛みついたのは、山根銀二を誤解して、世間に流布するダーティーなイメージ(山根は演奏会を聴かずに批評を書いた、という風説がまことしやかに囁かれていたらしい)に惑わされた勇み足だった可能性がありはしなかったのでしょうか?

真相はどうだったのか? 「山根・服部論争」の記録が、もし残っているのであれば、是非公開して頂きたいです。

6. まとめ

(1)で、音楽学会は東京藝大楽理科卒業生を音楽業界へ送り出す一種のキャリア・パス[および「大学」化した音楽学校の学知的側面を内外にアピールする取り組み]として設計されたのではないか、と書きました。そして(3)と(4)で言いたかったのは、そうした当時の藝大首脳陣の思惑が、楽譜・楽書の出版を生業とする音楽之友社の目黒三策社長の経営戦略と(かなりの程度)合致していたのではないかということです。

その一方で、実際に音楽学会を舞台に活躍することになる方々の間には、神保常彦先生や服部幸三先生の発言に顕著なように、「学問を批評から自立させること」、「地道な専門知に邁進すること」という理念が強固に意識されていたようです。両先生をはじめとして、皆川達夫先生、少し遅れて海老沢敏先生や小泉文夫先生など、大正末から昭和ヒトケタの生まれで、これから世に出ようとする20代で音楽学会の創立に立ち会い、音楽学の各分野を代表する学者になった方々は、個人差や分野ごとの諸事情による差があるにしても、おおむね、そのようなエートスを共有していたと見ていいのではないでしょうか。

学会の成立経緯を見ていくと、音楽学会は、こうした「昭和ヒトケタ世代」が創ったというよりも、東京藝大と音楽之友社によって「創られた」と見るほうが整合的であるような気がしてきます。「昭和ヒトケタ」とそれに続く世代は、加藤成之学部長と目黒三策社長が整備した人材育成の苗代で、スクスクと育てられた人達であり、その高潔な理念には、どこかしら人工培養された側面があったのではないか、と思われるのです。

(兆候的なのは、この世代の先生方が、しばしば「音楽学会には自由でリベラルな気風があった」と回想していることです。音楽学会の運営会議では、先生方が若い幹事や院生にも発言の場を与えてくれた、等々のエピソードが披露されています。これは、ひとつには、若い世代が「戦前の封建体質」(と当時しばしば表象されたと言われている)を脱却する未来への希望とされていた時代風潮の反映かもしれませんが、もっと具体的に、新しい人材を育てることが、音楽大学にとっても音楽出版社にとっても、音楽学会というシステムの最大のミッションであり、だからこそ、若手研究者は有意に「ちやほやされていた」可能性がありそうです。)

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どちらかといえば、私は音楽学会を「創った」人々のほうに興味があります。東大総長を祖父にもつ加藤一族とは何なのか、あるいは、再三書いておりますが、音楽之友社とは何なのか、そして、山根銀二は本当に「ワル」だったのか、といったことです。

(園部・山根を学会が警戒したのは、本当は評論家との軋轢以上に、左翼思想を恐れていたのではないか、という気がするのですが、この件は、私にはまだよくわからないことが多すぎるので、検討を保留します。)

それから、制度設計というのは何でもそうですけれど、藝大と音友の蜜月は功罪相半ばだろうとは思います。

藝大と音友が用意した「苗代」に安住する分には、音楽学は幸福で居心地のいい楽園です。そして今でも、楽理科卒業生のそのようなライフ・プランはある程度可能なのだろうと思います。おそらく、このキャリア・デザインを死守できるかどうかが、藝大楽理科系音楽学の存亡を賭けた生命線なのだろうと思われます。

でも、芸術の高等教育は、戦後の制度で「大学」化しましたが、大学としては特殊であるなあと思わざるを得ません。(音楽学校の「大学」化の是非は戦後の音楽雑誌でも時々話題になっていました。)それから、音楽之友社は、楽譜・学書の分野では老舗ですけれども、出版業界全体のなかでみると、決して事業規模は大きくありません。音楽大学や音楽出版には、大学一般や出版一般とは違う特殊な事情・慣習等がありそうです。そしてそのような「業界」へ制度設計が特化する傾向が強いがゆえに、日本の音楽学=日本音楽学会には、ある種の「ローカル・ルール」が形成されているように思います。

そして、楽理=音楽学が国内の音楽大学に標準装備されるにつれて、日本音楽学会の発想法が、(ローカル・ルールを含めて)作曲や演奏など、音楽業界全般に知らず知らずのうちに広がっているようにも思われます。

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他方で、音楽之友社の側にも、音楽学会に投資した成果は、それなりにあったのではないかと思われます。『音楽藝術』の編集スタッフにとって、学者という奇怪な人種と一緒に仕事をすることは、旧来型の音楽雑誌とは異なる学術雑誌の編集法を学ぶ機会であったと思われます。

楽理科の人材をライターとして使うようになっただけでなく、(4)でも書きましたが、『音楽芸術』が、A5縦組みからB5横組みへ移行するときには、『音楽学』を編集した経験が何らかの形で生かされたのではないかと思われます。文芸雑誌風の縦組みの『音楽藝術』が、1960年代になって、学術雑誌を思わせる横組みに変貌したことは、「現代音楽=アカデミック」という観念連合を促進したと思われます。音楽学は、学問の内容というだけでなく、その存在がかもしだすイメージの点でも、1960年代の音楽文化の一翼を担ったと言えるのではないでしょうか。

あと、論文に欧文サマリー、というスタイルも学術雑誌特有で、ひょっとすると、『音楽藝術』の臨時増刊号として不定期に刊行された作曲年鑑『日本の作曲』が英文・日本語併記だったのは、そーゆーやりかたで「国際性」を意思表示することの付加価値を編集スタッフが知っていたがゆえに実現したことだったのかもしれません。わたくしは、ここにも、学問を内容というよりスタイルとして消費する音楽出版文化を感じます。(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100719/p1

戦後日本の「現代音楽」の周辺には、このように「スタイルとしての音楽学」を受容した形跡があるように思います。

7. やり残したこと:美学系音楽学者とは何者か?

(1)で少しだけ書いたように、創立当時の音楽学会には、かなりの数の哲学系・美学系の学者が入っています。今でも、音楽学会の発表・論文には一定数の美学的論考が含まれています。これは、旧帝国大学以来の制度設計の影響もあって、1950年頃の日本の大学で音楽を専門とする研究職は、美学美術史講座に所属するのが一般的だったという現実の反映でもあると思います。そして設立当時の音楽学会会員の、音楽学会はリベラルだという発言には、美学会ほど窮屈ではない、というニュアンスが含まれていたようです。

学会史で言えば、音楽学会が美学会とどのような関係にあったのか、という問題です。これは、今のわたくしには手に負えない課題です。

そしてこれは、音楽学会関西支部の特殊事情ともリンクしていそうです。関東では、本郷の東大文学部美学講座が音楽学会とはつかず離れず、一定の距離を保っているような印象がありますが、関西支部の場合、創立時の主要メンバーの多くが京大美学出身ですし、当時の若手幹事だった「昭和ヒトケタ」世代も、多くが京大美学の同窓生です。学会設立当時から、関西支部は例会の形態も内容も、研究演奏会が多かったりして、関東支部とは独立している印象があります。そして恩師・谷村晃は、『30年史』の関西支部に関する記述には、事実と違っているところがあるから、直さなければいけない、とよく言っていました。(具体的なことをお伺いするチャンスがないまま、先生は亡くなってしまいました……。)

おそらく、こうした京大美学系音楽学者の先生方は、関東支部の動きを、先方が「中央」であり、こちらが「地方」であるというようなヒエラルキーで見ておらず、上野の音楽学校が何かやっとるけれども、こっちはこっちで自由にやらせてもらいます、というスタンスで、関西のお坊ちゃん特有の社交術で上手に話を合わせながらも、好きにやっていたのだと思います。関西から「異色の学者」がときどき出てくるのは、そういう風土が背景にありそうです。

『30年史』の「物故会員のプロフィール」の張源祥の項目を、当時日本音楽学会の会長でもあった谷村先生は、こんな風にまとめています。

氏にとって始めから音楽学は人文科学のなかに正しく位置づけられていなければならないものであった。氏が音楽美学の専攻できる美学科の創設に情熱を傾けたり、音楽学会関西支部長を長年[1956-1970年の14年間]勤めたり、美学会や東洋音楽学会においても大きい発言力と影響力を持ったこと、また私財を投じて関西音楽学研究所を創設したこと、これらすべては音楽の研究を人文科学のうちに正しく位置づけ、その市民権を獲得しようとする試み以外の何ものでもなかったと言える。しかも氏の生涯を通じての音楽美学の本質の追求には、一種倫理的な価値観が影を落として、氏の生き方を規定していたとも言える。張源祥氏のこの和の精神は大きい遺産として、今日もなお日本音楽学会関西支部に生き続けていると思う。(谷村晃)(48頁)

東京藝大楽理科の加藤成之&服部幸三が音楽学校の舵取り、戦後日本の高等教育行政の一大転換のなかで藝大が何をすべきか、というような、制度の設計・維持の意識が強かったと思われるのに対して、関西の京大美学系の張源祥&谷村晃は、学問システムとしての人文学のなかでの音楽の位置ということを重視していたようです。(「音楽学は人文科学のなかに正しく位置づけられねばならない」というのは、「音楽をめぐる思考ではなく、音楽による思考」というのと並んで、谷村先生の口癖でした。)そしてそれは、音楽の無上の悦びを謳歌しつつ、それを調和のなかに位置づけるというような、一種の「倫理・エートス」の次元を指し示してもいたようです。

日本の音楽学会は、戦後大学行政のなかで新たな進路を模索する音楽学校と、道楽に一定の歯止めと落ち着き先を求めていた自由人が、偶然なのか必然なのか、奇跡的に意気投合して、利害が一致したところに誕生したということになるのかもしれません。

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