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ソナタ楽章形式における『個別性』の記述

モーツァルト《ピアノソナタ》ハ長調KV309(284b)第一楽章を例として

白石知雄

谷村晃先生退官記念論文集編集世話人会編『谷村晃先生退官記念論文集−−音と言葉』、
東京、音楽之友、1993年、88-101頁。


目次

 確かに我々は、形式分析において様々な記号や図表が重要な役割を果たしている事例を既に知っている(1)。しかしそれらの事例をもう一度見直してみると、それらの記号や図表も実際には、少なくとも潜在的に、言葉による解釈をともなっていたのではないだろうか。

 ダールハウスが音楽形式の理論を論じた際に書いた次の文章は、音楽の形式を表記すべく考案された記号がそれ自体で自足しているのではなく、言葉による解釈を必要としていることを端的に指摘している。

「音楽の形式の略号と考えられているアルファベットの羅列が分析の結論であるというよりもむしろ出発点であるということは、おそらく理論上誰も否定できない。しかしそれは、分析の実践において、そうであらねばならないような自明のことにはなっていない。例えばa−bーb−aという定式は、それが解釈されない限り何も意味してはいない。分析されようとしている楽曲において、リフレイン(a・・・a)が反復された中間部分(bb)をとりまいているのか、二つの分肢から成り立つ前半部分(ab)から後半部分が反転によって(ba)導き出されているのかということを、何の注釈もない図式から決定することはできない。さらに言えば、aがbに対する枠組みを成しているのか、逆にbがaに対する副次楽節なのか、またbのaに対する関係が相互補完的なコントラストなのか、段階的な多様性と考えられるべきなのかということも定かではない。」
(DAHLHAUS 1977; S.22)

またデ・ラ・モッテは『音楽の分析』の序文で、分析の課題として、「細部を認識すること」、「関連を認識すること、すなわち作品全体の中での細部の機能」に続けて、「分析をまとめあげ、言葉で表現すること」(傍点引用者)を挙げている(DE LA MOTTE 1968: 訳書五頁、一部改訳)。また彼はこのような音楽分析の「三重の課題」を示す前に、分析の「ある愛好された手法」について次のような警告を発している。

「図表は新しい音楽やフーガの分析においても好まれている。方眼紙上に色鉛筆といったもの。しかし最もよい図表はいつでも ー 楽譜なのである! 他の記号による単なる「書き換え」は、その結果がどんなにきれいに見えるとしても、分析ではない。」
(DE LA MOTTE 1968: 訳書五頁、一部改訳)

 もちろん言葉による記述も、音楽の単なる「書き換え」もしくは「言い換え」に陥る危険をはらんでいる。とりわけ形式分析が音楽の経過を時間的な前後関係に従って描写することに終始したり、あるいは既成の形式概念を現実の音楽にあてはめることにのみに熱中した場合、そのような危険は大きい。しかしダールハウスが指摘したように、諸部分の間の「関連」を記述しようとする時、記号や図表は不可避的にそれを解釈する言葉を必要とする。本稿で問題にしようとするソナタ楽章の「個別性」も、そのような「言語化を必要とする関連」のひとつである。

(以上、同論文の書き出し)
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