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「阪神間」の作曲家、大澤壽人(1906-1953)と貴志康一(1909-1937)

白石知雄

(第61回美学会全国大会シンポジウム「阪神文化 過去形と未来形」、2010年10月10日)


学会シンポジウムでの報告の準備草稿です。十分に推敲されていないことをご了解ください。また、実際の報告は、時間の都合ではるかに簡略なものになりました。

0. はじめに

 私の報告では貴志康一、大澤壽人という二人の作曲家を中心にして、昭和前期の「阪神間」の音楽文化についてご報告します。

 「阪神間」の音楽は、文学や美術に比べて、まだ研究が進んでいないと言わざるをえないかもしれません。ここでご紹介する二人の作曲家は、1990年代後半からさかんになった「阪神間モダニズム」論などの地域文化研究とは独立して、むしろ音楽産業、演奏会興行や商業CD、音楽評論を通じて急速に再評価された存在であり、そういえば彼らはどちらも「阪神間」と縁があると事後的に気づかれつつあるにすぎません。そして残念ながら、わたくしは、他のパネリストの先生方のようにこの地域に生まれ育ったわけではなく、関西でのクラシック音楽評論の仕事を通じて、そうした「再評価」の経過を目撃し得たにすぎません。

 私の報告は、やや平板な内容であるかとは思いますが、二人の経歴と再評価の経緯を整理して、そこから、今後の音楽における「阪神間」論に役立つかもしれないポイントをいくつか取り出すに留まっております。

 大澤は1906年神戸生まれ、貴志康一は1908年生まれでほぼ同世代。「阪神間」が住宅街として開発され、「阪神間モダニズム」の時代とされるまさにその時期にこの地域に暮らしていました。貴志は36年に27歳で亡くなり、大澤は53年に47歳で死去。太く短く生涯であり、死後急速にその存在が忘れられて、死後四半世紀もしくは半世紀たってから再評価されるという、死後の受け止められ方にも共通点があります。彼らが再評価される経過や論調にも、「阪神間」の文化状況が反映しているかもしれません。

 まず、ひとつずつ作品の一部をご紹介します。

 貴志康一が大阪の道頓堀の雑踏をオーケストラで描いた「道頓堀」という作品があります。ベルリン滞在中に映画会社のウーファーと日独協会を巻き込み、貴志康一自身がベルリン・フィルを指揮した演奏会でも取り上げており、生前にSPレコードで発売されました。こういう派手で奇怪な事態が起こりえたところが「阪神間」のブルジョワらしいことではあるのですが、ひとまず、音をお聞き下さい。人が忙しく動き回って、ぶつかり合って転んだり、自動車か人力車が人を蹴散らして進んだり、という情景と思っていただければいいかと思います。

♪貴志康一 「日本スケッチ」より 道頓堀

作風としては、ガーシュウィンの交響詩「パリのアメリカ人」の手法で大阪の街を描いたと言うことができるのではないかと思います。

 次に大澤壽人のピアノ協奏曲第3番というものをお聞きいただこうかと思います。パリから帰国したのに、朝日新聞とタイアップして、同社の最新鋭飛行機「神風」号が東京からロンドンへの長距離飛行を敢行する様子を描いた作品。おききいただくのは第2楽章。パリの夜景を空の上から俯瞰して、物思いにふける、というような趣向です。

♪大澤壽人 ピアノ協奏曲第3番第2楽章

甘いアルト・サクソフォーンはアメリカで聴いたであろうガーシュウィンのシンフォニック・ジャズの響きを感じさせますし、そのあとのピアノは、パリで耳にしたであろうフォーレなどのサロン音楽のトーンです。そしてガーシュウィンとフォーレをひとつに組み合わせるというアイデア自体が、モーリス・ラヴェルの晩年のピアノ協奏曲の発想を借りているようにも思われます。大澤壽人の音楽のスタイルは、戦間期の欧米のモードを直輸入しているようなところがあります。

 いずれも、ジャズとクラシック音楽をフラットに組み合わせて、いわば、日本の風物をカラフルな油絵に仕立てる作風と言えるのではないでしょうか。

 「阪神間」は歴史の浅い土地であって、新しいものを積極的に取り入れる。コスモポリタン的であることが、かえって「阪神間」の音楽の特色である、という逆説があるように思われます。その事情を以下、順に整理してみます。

1. 学校・教会・ダンスホール:阪神間の音楽環境

 「阪神間」の音楽環境の特徴は、ひとまず3つにまとめることができるように思われます。

(1) 公共音楽ホールの不在

 何もないところが高級住宅街として開発されて、住民は富裕層なので、わざわざ近くに中途半端な施設を作らなくても、大阪や東京、場合によっては海外へ直接行ってしまうので、居住地域に音楽施設の需要がなかった、ということであるようです。

 ここでご紹介する昭和初期の二人の作曲家、大澤壽人と貴志康一も、「阪神間」に住みながら、音楽活動を主に大阪や東京で行っています。職住の分離、という郊外住民の特性が、音楽においても見て取れます。

(2) プライヴェート・スクールと教会の充実

 この地域で、公共ホールに変わる音楽的なランドマークになっているのは、地元有力者やこの土地に派遣された宣教師が設立したプライヴェート・スクールと、居留地のあった神戸に隣接して、外国人がごく普通に住んでいる土地柄とも関連する教会です。(神戸居留地とその周辺の宣教師たちの教会での音楽がかなり質の高いものであったことは、近年、神戸女学院の津上智実先生の手で実態が明らかになりつつある同校宣教師による明治末のピアノ教育、そしてそこから巣立って昭和前期の東京音楽学校の花形ピアノ教授になった小倉末子の存在からもうかがい知ることができます。)

 それから、これは本日の報告ではあまり触れることができませんが、教会での音楽活動として、時代が下って戦後1970年代以後になると、いわゆる古楽運動、主にバロック期の音楽に当時の楽器と奏法で取り組む小編成の演奏団体が「阪神間」で育っています。大阪音大の学生が立ち上げて、関西を代表する古楽演奏グループとして現在も活動を続けている日本テレマン教会は1970年代から夙川教会でバッハのカンタータの連続演奏会を開いて、教会の地下に練習場の提供を受け、夙川が拠点でした。また、日本を代表する古楽の演奏団体に育ったジャパン・バッハ・コレギウムは、神戸出身の鍵盤楽器奏者、鈴木雅明が樟蔭女子学院に、学内のチャペルのコンサートのために編成した合奏団と合唱団が母体になっています。新しいものを受け入れることへの抵抗のなさ、富裕層を納得させる本場志向、編成が小さく、実験的な試みを聴衆と一緒に育てるコミュニティ・ベースの活動など、古楽運動には、「阪神間」になじみやすい数々の特徴があるのかもしれません。

 大澤壽人は関西学院中等部から経済部へ進学して、卒業後にボストンとパリへ留学しており、帰国後は亡くなるまで、門戸厄神の神戸女学院で教えました。

 貴志康一は、住吉村の有志が設立したリベラルで無宗教の学校だった甲南学園に小学校の途中から編入して高等部を卒業。この時期にヴァイオリンを学び、その情熱が昂じてスイスへ留学することになります。

(3) ダンスホールとレビュー

 現在では、宝塚の少女歌劇を残す程度ですが、かつては「阪神間」の周囲に遊興施設がいくつも作られていたらしく、また、昭和初年には、大阪との県境の国道周辺にダンスホールが乱立していたようです。貴志康一と大澤壽人は、欧米の現場でダンスを身につけており、貴志康一はダンスホールに足繁く通っていたようですし、大澤壽人は宝塚のレビューを手がけています。

 遺族や神戸女学院、甲南学園の関係者の方々の間では、こうした遊興施設・「悪所」との関係をあまり表にだしたくないようなご意向も感じられ、特に貴志康一の場合は、お母様が、遺品のなかでポピュラーソングやレビューの譜面を焼却してしまったとの話も伝わっていますが、昭和初期の一番わかりやすい時代の刻印でもあります。

 また、宝塚では少女歌劇のための管弦楽奏者が宝塚交響楽団として演奏活動を行い、いくつかの作品の日本初演を含む日本のオーケストラ運動の先駆的存在のひとつであったことも付言しておきたいと思います。

2. 音楽的出自:神戸生まれの世界市民と故郷を失った大阪人

 以上のおおまかな枠組みを踏まえて、次に、もう少し具体的に二人の作曲家の出自を検討してみたいと思います。彼らが暮らした「阪神間」は、名前のとおり、大阪と神戸の「間」、鉄道会社が開発したということもあって、二つの都市をつなぐ東西の軸を強く意識させるわけですが、好都合なことに、大澤壽人は、この地域に西側の神戸からやってきた人であり、一方、貴志康一は、東側の大阪生まれ。共通点とともに、対照的なところもあり、二人を並べて論じることで、「阪神間」のイメージを立体的に捉えることができるように思っております。

 まず、大澤壽人の生涯を幼少期からたどると、生まれながらのコスモポリタンであったという印象を受けます。クリスチャンの家庭に生まれて、幼少から母にピアノの手ほどきを受けるとともに、日曜学校でオルガンに親しみ、当時神戸の西部、王子公園にあった関西学院中等部へ入学して、大学礼拝で指導的な立場になり、グリークラブや学生オーケストラを指揮するとともに、学外では教会にカンタータ協会を組織して、自ら指揮をしていたそうです。この間、複数の外国人からピアノの指導を受けているそうですから、教会とミッション・スクール、外国人との日常的交流という典型的な居留地の環境を謳歌していたことになります。関学卒業と同時にアメリカ(ボストン)、フランス(パリ)へ留学して、帰国後は、神戸女学院で教えるとともに、結婚して夙川に住んでいます。彼は、ごく常識的な意味での「日本」を知らないままに育ち、成人後も、過去との歴史的連続性を欠く新興住宅地域に住んだと言えそうです。

 一方、貴志康一の場合は、逆に大阪の本家のどちらかといえば旧弊で厳格な環境を離れて、10代はじめに、父が購入した芦屋浜の別荘へ移り住みました。そして音楽への関心は、芦屋に転居したことで一挙に開花したようです。生家祖父が旧紀州藩の士族で大阪に出て財を成し、父の奈良二郎は東京帝大で哲学を学び、定職につくことなく、京都妙心寺へ寄進するなど臨済宗の禅へ傾倒した在野の知識人でした。ケーベルに学んだとのことで、ケーベルは東京音楽学校でピアノを教える音楽家でもありましたから、西洋音楽についても一定の教養を備えていたと思われ、ヴァイオリンを習ったこともあるようです。母は吹田の有力な庄屋の家の出で、これもヴァイオリンをたしなみ、家族の前で弾くこともあったそうです。

 ただし奈良二郎は、子供達を連れて、陸軍軍楽隊が週末に行っていた市民向けの野外演奏会を聞く程度であったようです。彼は陸軍将校クラブが経営する厳格な偕行社小学校へ5年生まで通っていました。大阪の幼年期に、特段の音楽的進展は認められません。

 ところが一家は芦屋に別宅を購入して環境が一変します。子供たちは、開放的な環境で育てる方針から別棟の洋館に部屋を与えられて、貴志康一は甲南学園へ転入しました。ここでまず洋画に熱中して、当時来日したミーシャ・エルマンの演奏を聴いたことからヴァイオリンに関心をもち、稽古をはじめて、この音楽熱が昂じてスイスへ留学することになります。

 貴志康一の大阪から芦屋への移動は父の意志によるものでしたが、スイスへの留学以後、今度は自らの意志で、生涯の節目節目に場所の移動、それまでの経過と切断した環境の変化を繰り返しています。そしてベルリンへの移動がヴァイオリニストから作曲家への転向をもたらし、その成果を手にした凱旋帰国が、今度は指揮者としての活躍をもたらすことになります。

 「阪神間」は歴史を欠いた場所であるがゆえに、新しいものを抵抗なく受け入れる土地柄であると言われることがあるようです。この見立てが正しいとしても、しかし、大澤と貴志では、いわばその実装が異なると言えるかもしれません。大澤は、神戸育ちの根っからのコスモポリタンとして、こだわりなく極めて柔軟に新しいものを自らのうちに取り込んでしまっています。一方、貴志康一は、大阪から芦屋への移動がそうであったように、その都度、意志的・能動的に過去を切断して、新しい可能性へ飛び込んでゆきます。神戸生まれの大澤は、いわば、生まれながらに「故郷」と呼びうる根拠を持たない人であり、貴志は、大阪から芦屋への移住以来、人生の節目で過去を切断する「故郷喪失」を反復する人であったように見えます。おそらく「阪神間」において、大澤の生き方は理想であり憧れの対象だったでしょう。他方、貴志の生き方は自らの来歴に照らし合わせて強く共感を呼ぶ一般性を備えていたように思われます。

3. 驚きとスピード:死後再評価の概略

 最後に死後の再評価の経緯をご紹介します。

 貴志康一は、死後、1976年に母校の甲南高校が遺品を受け入れて、貴志康一記念室を開設。1978年に指揮者の朝比奈隆、ヴァイオリンの辻久子、大阪フィルという当時の大阪を代表する音楽家が出演した記念演奏会が再評価の端緒を開くことになりました。近年の「阪神間モダニズム」論でも、貴志康一はこの地域を代表する音楽家として紹介されています。生家のある大阪市福島区でも地元出身の作曲家として顕彰されており、母の実家である吹田市の豪農、西尾家の邸宅でもしばしば彼を記念する音楽会が開かれています。音楽関係者の範囲を超えて関西では名前を知られている音楽家です。

 一方、もうひとりの大澤壽人が再評価されるようになったのは、ここ5年くらいのことです。映画、ラジオの仕事でも活躍しましたが、1954年に急死して、急速に忘れられてしまいました。再評価も遅れて、ご長男が退職後に遺作を自費出版するとともに各方面へ働きかけて、2006年に神戸女学院に遺品が受け入れられ、そのころから急速に名前が知られるようになりました。

 資料的な基礎部分はこのようにゆかりの学校が支えていますが、マスコミ、音楽ジャーナリズムの強い後押しでここまで来たと言えるように思います。その場合、「阪神間」という地域に先立って、かれらのモダニストぶりに関心が寄せられているようです。

 ここでは、戦前の日本の忘れられた作曲家たちを次々発掘している音楽評論家、片山杜秀の発言をご紹介します。彼は、2004年に自身がプロデュースする演奏会シリーズとCDシリーズに大澤壽人を取り上げて、大澤壽人の存在を一挙に音楽愛好家に知らしめてしまった人です。

 片山杜秀は、大阪の民間ホールであるいずみホールのPR誌『Jupiter』で関西の音楽家を毎回ひとりずつ紹介した連載コラムのなかで、貴志康一を「驚き」の人、大澤壽人を「スピード」の人と特徴づけています。「驚き」は、ディアギレフの口癖であったともされる言葉ですし、「スピード」は風俗としてのモダニズムの流行語でした。20世紀文化史の文脈に彼らを接合する視点と言うことができます。

「貴志は、演奏でも作曲でも有機的統一にこだわって理詰めで説得してゆくのではなく、前後の脈絡が必ずしもみえないシークエンスをパッパパッパとつなげてゆき、聴く者にショックを与え、イマジネーションをかきたてることにこだわった。次に何が出てくるか分からない。分からせてなるものか! そこに貴志の素晴らしき個性があったのだ」(片山杜秀「関西作曲家列伝第1回貴志康一は映画だ!」、いずみホール『Jupiter』115、2009年)

 貴志康一的な「驚き」は、作品の品質に留まるものではなく、彼自身の行動そのものによってももたらされています。いわば、彼の存在自体が商品なり、絶えず彼自身が新しい領域へ移動することによって「驚き」がもたらされています。

「彼[大澤壽人]の音楽は人一倍スピードと刺戟に富む。リズムや音色は畳み掛けるように変化し続け、休まる暇がない。ガーシュウィンが《パリのアメリカ人》で国際都市の喧噪を、オネゲルが《パシフィック231》で機関車の疾走感を表現したのと似る。モダンな音楽は鉄と鋼の大都会や乗り物と相性がいいのだ。」(同「関西作曲家列伝第5回スーパー・モダニスト、大澤壽人」、いずみホール『Jupiter』119、2009年)

 一方、作曲に専念した大澤壽人の「スピード」は、主に作品の質に関わります。たとえば片山杜秀によるピアノ協奏曲第2番のCD解説は、おそらく意図的に音楽の細密な文章化を試みたと思われますが、音楽の精度・解像度が高く、高密度に回路を集積したトランジスターについて語っているかのようです。情報の粒度を高めることによって、変化の速度が増しているわけです。彼の音楽の粒度の高さが一貫していることを示すために、晩年の仕事を見てみましょう。ラジオ放送のオープニング、わずか数十秒で、シーケンスが頻繁に変化しており、あっという間に本編の音楽へとなだれこむ。これが大澤のスピードです。

 ちなみに、片山杜秀は東北出身で、東京の暁星高校から慶応大学へ進み、近代日本政治史を研究するとともに音楽評論活動を行っています。彼の闊達な文章は、「阪神間」のプライヴェート・スクールの自由な校風のなかで育まれた大正末から昭和初期のモダニズムが、片山杜秀という昭和から平成の東京の私学の雰囲気のなかで生まれた個性と、時空を超えて強く共振しているようにも思われます。端的に言うと、「阪神間」の裕福なブルジョワ子弟の音楽は、地域的であるよりも、地域に特定されることなく、他の地域の類似の富裕層に訴えるのかもしれません。それは、いかにも「阪神間」のコスモポリタンぶりにふさわしいことであるとも言えますが、このように図式的に解読されてしまいかねない事態の先にあるものを掘り起こしていくのが、今後の「阪神間」の音楽研究の課題なのかもしれません。

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