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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 青磁社通信 Vol.30◆

〜巻頭七首〜
夏空の岸

小島 ゆかり
 

おろしたてのかがやく翅をひるがへし七月のわかき揚羽蝶くる

うらわかき揚羽とおもふその翅のやはらかささへ隠さず飛べり

夏空は渚のごとく照りわたり 二億年をものいはぬ蝶

青年の声に艶ありすれちがひ揚羽のやうに遠ざかるこゑ

睡眠と覚醒の間のしろい谿(たに)人ならず蝶ならずたゆたふ

あなたとてもつかれてゐるわ、ゐるわゐるわ 蝶が言ふなりわたしのこゑで

彼岸此岸の境どこなる飛ぶ蝶を見失ひたる夏空の岸


〜エッセイ〜
深く一気に突破する


小池 昌代
 

 先日、東京にある中・高一貫校へ赴き、詩の話をしてきました。私立の難関校ですが、男女共学で、始業のベルがない。実に自由闊達な雰囲気を持つ学校です。ちょうど夏休みが始まったばかり。さまざまな夏期講習が行われているということで、わたしの詩の課外授業も、そういうなかの、一つだったようです。
 もちろん詩の話は、直接、受験の利益にはなりません。詩は入試で取り上げられることがないから、授業でもほとんど扱わないし、先生の側もどう教えたらよいかわからないのだと高校教員の友人から聞いていました。そもそも今、文学部志望が減っている。センター試験の廃止で国語も選択制になり、文学を取らない生徒もいるとのこと。生徒はもちろん、先生も、いわゆる名作を読んでいないと友人は軽く言うのです。けれどわたしも若い頃はそんな感じだった。何も知らなかったし、読んでいなかった。一人の人間が、いつ、どこで、どのように、文学の世界へ入ってくるかは、わかりません。
 文学の中でも、とりわけ詩は、いつの時代もなぜか少数派のもの。少数の人間が、詩に興味をもち、読んだり書いたりする。しかし詩は、本来、人間の生活のなかに散在していて、すべての人のかたわらにある。つまりはそれを発見するだけ、関係付けるだけなのだとわたしは思ってきました。
 詩を書いているというと、決まって誰かの詩に感動したり、影響を受けて書き始めたのだろうと言われます。わたしの場合はそうではありません。子供のころ、文学だけでなく、あらゆる分野において「詩」と呼ぶしかない、何か抽象的な要素に、自分が激しく惹きつけられる傾向があることに気づき、「詩」という漢字そのものが、自分にとって特別なものになりました。このことは、いつもあまり理解されません。
 いつか、詩という概念でこの世界を貫く、わたしの「詩学」を書きたいというのが長じてからのわたしの願いでしたが、詩学を書くのは、途方も無く、一生涯をかけてもできないと思い始めて、「学」のとれた、詩を書いています。しかし詩を書くといっても、「詩」は書けない。言葉はその「詩」のまわりを、取り囲み、永遠に回っているだけなのですけれども。
 課外授業でとりあげた詩のひとつに、川田絢音の「カサブランカ」という作品があります。

「カサブランカ/というファックス屋で/いま送ったのが詩というと/店のモロッコ人の眼がおののいて光った/詩の影を見て/人の思いが圧縮される/夏の列車で国を脱出してきたばかりの人に/詩を書いていると告げた時/こわばった頬がゆるみ/重い口で/詩はアルバニア語でもpoeziaと教えられた/詩と言うだけで/激情のように/何かを破る/読まれていないのに/詩が/伝わることがあって/手に入れることのできない現実のものを/獲たような思いがした」

 詩と言っただけ。中身が読まれていないのに、そう言っただけで、異言語の、異文化の人間同士のあいだに、橋がかかった。詩と言うだけで、その日、初めて会った者たちのあいだを、突き破ってしまうものがあるというのです。通常は、モノや食べ物やお金や恋人など、具体物を手に掴むことで、その瞬間、生きていることを実感したりしますが、この詩では、詩と言っただけで伝わった、その瞬間の手応えを、かけがえのないものとして、「手に入れることのできない現実のもの」と表現した。それくらい、その時突き破ったものの勢いは、確実で力強い感触だったということ。わたしにはわかります。
 わたしが課外授業を行った学校は、恵まれたしかも賢い子供が多く、講演の最後には、前の方に座った熱心な高校三年の生徒たちが、恐しいほど、鋭く本質的な質問を投げかけてくれました。ああ、まだここにいる、まだ詩は大丈夫だと、わたしは詩の未来を信じることができました。しかし同時に思いもしました。この子たちとは遠いところに、貧しく、半分ぐれて、自暴自棄になっているような中学生や高校生もいる。見えないその子たちも、詩と無関係ではないと。一旦、そう思うと、目の前の天才たちは放っておいてもいいという気分になり、むしろ後者の子たちの方が気になり始めました。
 ある時から、わたしは、一人はどこかにいる、読者の存在を信じるようになりました。たくさんの読者はわたしにはおりません。しかし一人はいる。その一人にあてて、書くようになりました。それ以来、どんなに意地悪な批判を書かれたり言われたりしても、ちょっとはめげるけど、本質的には傷つかなくなった。わたしは仲間内にあてて書いているわけではありません。その人は、どこにいるのかはわからないけれど、どこかにいるんです。「詩」という暗号を呟くだけで、一気に深く突破できる人。わたしはいつも孤独ですが、その人のことを思うと書き続けることができます。


森の哲学者

宇多喜代子句集
『森へ』
書評  杉浦 圭祐


 

 『森へ』は著者の第八句集。第七句集『円心』は二〇一四年発行の『宇多喜代子俳句集成』に収載された形の全一六八句という、音楽CDに譬えるなら「ミニアルバム」だったので、「フルアルバム」としては第六句集『記憶』から七年ぶりとなる。
 一読して感じたのは、『記憶』『円心』に通底するテーマを持続させつつ、句集を通して見える著者が変化しているということである。『森へ』に収録されているのは七十八歳から八十二歳までに作られた句なのだが、これまでよりもますます自由闊達な境地を浮遊しているように思えた。

冬の月わが天動説のまま動く

 例えばこの句。もはや現代では地動説が自明であるが、自分は天動説であると主張し、冬の月やその他の星々を動かしているのである。中句が九文字もあることが自在の境地に拍車をかけている。また集中には〈幾万の恒星どれも悴んで〉〈軒つらら火星の赤が濃くなりぬ〉等の天文を舞台としたスケールの大きな句があることが印象的だった。
 「あとがき」に「息苦しくなると原生の森を安息の場と思念し、再生のよすがとします」とあるが、この「森」はどこにあるのだろうか。手掛かりは「梟」かもしれない。

親を喰う梟を見るだけの旅
瞑目のままの梟の剛毅
終わりなき戦に梟を送り込む

 「親を喰う梟」にギョッとした。どこに見に行ったのだろうか。ちょっと調べてみると、成長した梟の雛が母鳥を食べるというのは古代中国の言い伝えのようで、実際に見に行ったわけではないようだ。著者はこのような感じで思念の森に赴き遊んでいるのだろう。他の梟の句でも著者が「森の哲学者」の異名を持つ鳥に自らを投影させているように思えないでもない。
 読み進んで行くと、編年体で編集され制作順の掲載であるにもかかわらず、まるで意図して構成されているように、読む者の感情を揺れ動かしていくことに驚く。特に最後の「弟急逝 七句」と「金子兜太長逝二月二十日」で山場を迎える。

冬の街弟のほかみな長寿
兜太に母その母に母山の梅雨

 集中には他の方々への追悼句もあるのだが、句集の終盤になって、ずっと身近におられた弟君を悼む七句に遭遇し、それらを詠んだ著者を思うと目頭が熱くなった。

ごまかせぬ蜻蛉の眼人間の眼

 句集最後の句。ごまかせないというのはごまかそうとする者達がいるからだ。リフレインの効果とともに破格の字余りが余韻を引き、次の句集のことを想像させる。さらに深化された境地を楽しみにしつつ、それがどこか恐ろしくもある。


祈りへの問い

大口玲子歌集
『ザベリオ』
書評 梅内 美華子


 

 歌集題の『ザベリオ』はフランシスコ・ザビエルの「Xavier」のイタリア語読みだという。ザビエルの鹿児島上陸、天正遣欧少年使節がローマ教皇謁見の年が酉年であったことと、作者が酉年生まれであることからつながりを感じ連作を作ったという。人々が生きた苦難や歴史と自らの現在をつなげダイナミックに思索を展開する作者らしい選び方である。

マラッカゆザベリオを連れ来たりしはパウロ・ヤジロウ通訳もして
殺人ののちの心を救はれて海賊に戻りけむヤジロウは
弱者みな炎にひかれる蛾のやうに力にたなびくとヴェイユ言ひにき

 ザベリオ(ザビエル)を案内した日本人「ヤジロウ」。人を殺し逃亡してマラッカでザベリオに会い洗礼を受けたという。そして日本へ。なんという二人の遠い旅。通訳であり海賊であったヤジロウが大口によって鮮やかに甦る。「弱者」が権力に吸い寄せられ呑み込まれることを「蛾」に喩えたヴェイユ。その言葉は静かに厳しく大口や現代の私たちにも突き刺さる。

祈りとは遠く憧るることにして消しゆく われを言葉をきみを
「もう一つの手と足見つかりますやうに」河童のために子は祈りたり
雨 わたしはわたしの言葉をへらしたい。ただ濡れてゐるひるがほの前で

 大口は自ら選んだ信仰と「祈り」を問い続ける。祈りながらその無力さを思い、展示された贋物を前に祈る子供の純粋で静謐な心を思っている。三首目は沖縄の現状を思い、東郷町にある沖縄学童疎開の碑を見た一連の末尾に置かれている。短歌のために、思いを述べるために連ねている「言葉」。その「言葉」を消し、減らしたいという欲求が大口の内部に悲しみとして湧いている。そのような告白に私は瞠目して揺らぎ、言葉が氾濫する現代を思うことになる。

東京に「ひめゆり展」来しかの夏のわれは少女より幼かりしか
校長の齢に近づきつつわれはひめゆり学徒の遺影に向かふ
サイレントデモにくちびる噛みながら新食感の時代を歩く
「辺野古(ふいぬく)」の「ふい」は「火」であるといふ言ひ伝へ思ひ出したりほたる見にきて 

 ひめゆり学徒隊を初めて知った日から時は過ぎて、作者は校長の年齢に近づいた。時間の中で見つめ直す時、その時そのようにしか生きられなかった悲苦や存在が時空を超えて響き合う。また「新食感の時代」は辺野古の「火」を忘却してゆく。そこに静かに強く立ち止まろうとする大口がいる。


うごく言葉、うごく心

長谷川櫂句集
『九月』
書評 中田 剛
 

 長谷川櫂さんの句集『九月』にはいくつかの推敲が確認できる。前主宰として句を発表されている結社雑誌「古志」との比較で確認した。「古志」以外にも発表の場(商業俳句雑誌、新聞等)があり、正確な推敲の履歴はそれらも併せ見ないと分からないが、残念ながら全てに目を通すことはできず本稿は「古志」のみとの比較となっている。

初夢やまさか赤子の笑ひ声

 「古志」二〇一六年二月号では「初夢にまさか赤子の笑ひ声」。「初夢に」が「初夢や」に推敲されている。推敲前の作は「初夢のなかでよもや赤ん坊の声をきくとはおもわなかった」という驚きだろう。赤ん坊の声、それも可愛い笑い声なのだから縁起が悪いはずがない。「一富士二鷹三茄子」のお誂えではなく、作者をして「まさか」と言わせる新鮮さがある。もともと初夢の句は目にうったえるものが多い。角川文庫『俳句歳時記』(新年・第四版)の「初夢」の例句を見ても「初夢の扇ひろげしところまで 後藤夜半」「初夢の大きな顔が虚子に似る 阿波野青畝」「初夢に一寸法師流れけり 秋元不死男」等々、視覚の句である。私のもっとも気にかかる「初夢の唯空白を存したり 高浜虚子」にしてもやはり視覚である。聴覚にうったえる句は余り見たことがない。推敲前の「初夢にまさか赤子の笑ひ声」でじゅうぶんおもしろいが、推敲後の「初夢やまさか赤子の笑ひ声」には、「初夢に」には無い不思議な余韻がある。推敲後「初夢や」は推敲前「初夢に」よりも「笑ひ声」に集中してゆく。「初夢」という限定された機会のうちに、それもより具体的な赤ん坊の笑い声がすでにそれと認識されているようには表現されていない。「初夢」のなかで何か誰かの可愛らしい笑い声をたしかにきいたはずなのだが、目覚めてすぐは何の声なのかはわからない。しかし暫くするうちに、あれはどうも赤ん坊の声ではなかったかと思う。よもや思ってもいなかった赤ん坊の声。

くれなゐの口開きたる炎暑かな

 「古志」二〇一六年九月号では「くれなゐの口を開けたる炎暑かな」。炎暑とは「夏の燃えるようなきびしい暑さ」(広辞苑)。地上の人間からすれば暑さをすっぽりと被っている感じ。あの状態は暑さという生き物が、地上のひとびとを今まさに呑みこまんとして口を開けたところなのだと見立てた。推敲前の「口を開けたる」からは、いままさに開けんとしている口の動きがクローズアップされてくる。かたや推敲後の「口開きたる」はすでに口を大きく開けた状態である。推敲後のこの表現だと上空から見下ろす暑さと地上の人間の光景がまるまる見えてくる。像の大きさだと推敲後のほうだが、グロテスクな口の動きがイメージされる推敲前の表現もおもしろい。言葉をうごかすと心がうごく。あるいは心がうごいたとき言葉をうごかす。


顕微鏡を覗いて

永田紅歌集
『春の顕微鏡』
書評 鶴田 伊津


 

 時間の深さを感じさせてくれる歌集だ。「今」は言葉に掬い取った瞬間に過去となる。しかし、歌が内包する時間は、どんなに隔たろうとそこにかえる道をひらいてくれる。永田紅さんの第四歌集となる『春の顕微鏡』にはそんな時間を静かに湛えた歌が並んでいる。そしてどこかさびしく響き合っている。

濾過してもあなたは残る 歳月に溶け込みすぎて分離できない
若いとき東京に住んでいたんだと語るのだろう、とてもまぶしく

 一首目、すんなりと詠まれているようなのに、「あなたは残る」の言い切りに滲む苦さと、「溶け込みすぎて」という把握がちくりと痛む。「濾過しても残る」のは、共に過ごした日々への哀惜か。二首目、「若いとき」という初句に、少し先の時間を予期したような諦念が滲む。そして結句「とてもまぶしく」という少し幼げな言い方が切ない。二首とも一字空けに著者の屈折が滲むようで、思わず立ち止まってしまう。

母の辺で過ごす七月八月は終わらないでほしい夏休みなり
その体消えゆくときにたましいは全身で抵抗すると知りたり
一枚のうすき桔梗の絽のきもの燃えてしまいてこの世にはなし

 母である河野裕子さんの亡くなる前後の歌はどれも濃密な時間が流れていて、ひとが一人いなくなるという現実の重さとかなしみがひたひたと伝わってくる。「終わらないでほしい夏休み」という有限の時間、「全身で抵抗する」たましい、「桔梗の絽のきもの」どれも生をひたすら燃やし、生きた記憶であり、軌跡なのだ。時間は人に優しくもないし、寛容でもない。ただひとを癒すことができるのも時間なのだと、歌から立ち上がってくる日々の営みに強く感じさせられた。
 私は著者の第一歌集『日輪』の〈人はみな馴れぬ齢を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天〉という歌がとても好きで、どこか達観したような視点と認識、人との距離の取り方も著者の歌の魅力の一つと思っているのだが、

かわいいなあと撫でれば撫でるほどまるくかわいくなれり夫というは
どんな人と聞かれて春になりゆくを 春は顕微鏡が明るい

の他者を受容するしなやかさ、夫へのやわらかなまなざしもまぶしい。時間は有限だから愛おしいのではなく、人が精一杯生きて、切実に求めるからこそ愛おしく、美しいのだ。


認知の技法

岡田一実句集
『記憶における沼とその他の在処』
書評 久留島 元


 

 岡田一実にはこれまで『境界――border』、『小鳥』(いずれもマルコボ.コム)の二句集があり、『関西俳句なう』(本阿弥書店)、『天の川銀河発電所』などの詞華集にも作品を寄せている。第三回芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞、第三十二回現代俳句協会新人賞を受賞、一部ではすでに注目の作家であったが、本書により第十一回小野市詩歌文学賞俳句部門を受賞した。これは同賞では最年少の受賞であり、選考委員の宇多喜代子氏は「手垢がついていない」清新さを賞した。
 愛媛県松山で活動する岡田氏は、インターネットを介して俳句に出会い、夏井いつき氏の率いる俳句集団「いつき組」でのめり込むと、のちに鳴戸奈菜氏を中心とする「らん」同人に加わった。夏井氏はメディアでの軽妙なトークが注目されがちだが、師系をさかのぼれば山口青邨につながる伝統派である。一方鳴戸氏は永田耕衣の系譜を継ぐ作家である。岡田作品のもつ広がりは、こうした身の処し方にもあらわれていよう。
 本書所収句の幅広さは、たとえば〈声やがて嗚咽や林檎手に錆びて〉〈蟻の上をのぼりて蟻や百合の中〉〈口中のちりめんじやこに目が沢山〉〈阿波踊この世の空気天へ押す〉などの句を紹介するだけでもわかるだろう。情感たっぷりの抒情と、一転トリビアルな写生、また落語的おかしさが同居する。しかしそれらを共存させる統一感は、俳句のみならず、幅広い言語文芸への愛着と、氏の技法の確かさを物語る。
 私は旧作では〈このへんをつまめば辛夷咲くかしら〉や〈うなみさなみ帽子飛ばされさうですわ〉のような軽快な作品が好みだったが、本書はもっと静謐な情感を究める方向へ進んでいる。旧作では〈焚火かの兎を入れて愛しめり〉が比較的それに近い傾向を帯びていたが、本書所収の

かたつむり焼けば水焼く音すなり  「空洞」

のほうが、より技法として踏みこみ、成功している。すなわち現実には見、聞きえない幻想の景を、質感をもって描写する技法であり、たしかに作者がこの景を「見た」「聞いた」と思わせる叙法である。
 本書の跋を書いた俳句研究者の青木亮人氏は「出来事の継起を時間順に、一つ一つ詠み込む」技法を指摘し、特に視覚や、水にまつわる質感の描写に特質を見いだしている。
 岡田氏の技法を端的に示すのは

見るつまり目玉はたらく蝶の昼  「三千世界」

の一句であろう。幅広い言語文芸を愛する作者には、表現技法に対する強い自覚がある。ここでは「見る」動作、行為が「目玉」の働きだと肉化されたうえで、季語という外界をとらえる。認知の過程が言語化される。この明晰な認知の技法が岡田作品の特質である。質感、情感をたっぷり感じながら、過度の抽象化を抑え、具象によって定型へ集約していく。その醒めた表現が、現代を代表する句集として結実したのである。


言葉を超えて

大室ゆらぎ歌集
『夏野』
書評 なみの 亜子


 

 野、藪、草むら、崖、川、岸。いろんな場所が出てくる。だがどこかと地続きにつながっている感じがまるでなく、そこだけが切り取られたようにぽつんとある。どこにでもありそうでどこでもないような。相反するように、いかにも藪なら藪らしい気配だけが濃密に満ち満ちている。その空間性の不思議さ。

水流はふた分かれする蕗の葉の青く茂つてゐるところから
谷風にわれとわが額吹かれたり供物のやうに猫をかかへて
林道に姥百合は立つあらぬかたを見てゐるやうに咲いてゐる花

 一首目の「水流」は川なのか溝なのか。水量や勢いは見えてこず、「蕗の葉」の色彩と精気を帯びた生命感だけが際立っている。二首目、「谷風」を感じているのはどんなところなのか。「供物」がひどく寂しく、漠然と谷の深さ暗さを感じさせるのみだ。三首目は林道なのだが、その視野に木々の繁りや道肌は入っていない。ただぬっと「姥百合」が遠いどこかを見て立っている、という。どの歌もひたすらに静か。これだけの植物、動物、自然や地を詠みながら、恐らく大室のまなざしはそれらを像や面として捉えようとしていない。もっとかすかな、ごく微妙で危うい表情や気配、そのそよぎ靡き蠢きに向いていて、それを歌の韻律によってあらわそうとすることで独特の濃密さが生まれている。この人はこの世の野に何を見ているのだろう。

さらされて小(ち)さきけものの顎の骨三つばかりのしろき歯残る
狸の骨があると分かつてゐる道をけふも通れば目はそれを見る
声も上げずいつもそこにゐた眞帆ちやんは生き仏であつたと夫は言ひけり

 生き物の歌には死があらわだ。引いた一〜二首目は、自然界のなかに朽ちてゆく獣の歌。即物的なうたい取り方だが、人がつい眼を逸らしたくなるのを引き止め、まざまざと凝視させる力がある。また大室は複数の犬猫を飼い、いくつかの死にも立ち会い詠んでいる。引いた三首目は拾った犬「眞帆」の死の際。野に朽ちている獣の死とは手触りが異なり、その異なりようが丁寧な陰翳の描き込みによって詠み分けられていること自体、印象深い。感情移入や擬人化というのではない。ともに生きる生き物としての犬猫に、素で寄り添う。そんな感じがする。

いつよりか川辺に棲みて雄猫はひとりで起きてひとりで眠る
終日を黙つて過ごすにんげんがことばを持つて七万年後

 言語表現をしない自然生物の、気配や表情による多彩な奥の深い表現。そんな理屈抜きの生への信愛が深いのではないか。人間の「私」は言葉で言葉を超える。韻文に選ばれた人なのだ。


ホームランは狙わない

芳賀博子川柳句集
『髷を切る』
書評 樋口 由紀子


 

 芳賀博子と私はどちらも時実新子門下であった。しかし、その時期はずれていて、芳賀が「川柳大学」(時実新子学長)で活躍する頃は私はすでに時実門下を離れていて、直接の接点はなかった。芳賀の名前を知ったのは時実新子が亡くなった後であり、それは新子の継承者としての芳賀博子であった。
 芳賀はコピーライター時代に新子川柳と出会っている。その時のことを彼女はこう書いている。

「感性なんていう実体のない言葉に幻惑され、気分で書いてみたコピーはことごとくクズかご行きとなった。キツかったのは、書けないことではなく、書きたいことがなんにもない空っぽの自分だった。(中略)そんなある日〈行末を激しく問いぬキリギリス 新子〉、不意のキリギリスに私は面喰らい、立ち尽くし、なす術もなく凝視された」(『川柳の森』)

 立場や環境の違いはあるが、私の時実新子との出会いも似たようなものだった。新子の川柳は自分を見失いそうになったときにぐっと引き寄せる磁力と魔力がある。『髷を切る』は『移動遊園地』に続く芳賀の第二句集で、『移動遊園地』は時実新子の全面的庇護の元で編まれているが、『髷を切る』には独り立ち感があり、日常をよりパフォーマンスし、感情をコントロールし、バージョンアップしている。

夕闇のどこから漏れているインク
先生の愛した先生の写真
ひきちぎるためにつないでいる言葉
あ、録画するのを忘れてた戦争
ひとときの夢へ並べるパイプ椅子

 『髷を切る』には一章問答の句が多く見られる。川柳は前句附けからスタートした文芸である。前句附けとは長句(五七五)を前句として短句(七七)を附句する、あるいは反対に短句を前句として長句を附句する二種があった。その前句附けから独立性を獲得するための方法として一章問答が生み出された。一章の中で問答が完結することで一句の内容が補完され、独立単句としての存在感を勝ち取ろうとするものであった。芳賀の律儀さが一章問答と上手く噛み合っている。彼女の川柳には気遣いがある。レフトにライトにショートに自在に打球を飛ばすが、決して誰もいないところには落とさない。誰かがグローブを持って待機しているところに高い飛球で落とす。決してホームランを狙わない、そこに彼女の凄みと強さがある。

仏頭のずんと十一月の底
最後には雨の力で産みました
咲いてゆく遠心力をフルにして

 微妙な、独特の揺らぎを感じさせる。平凡の装いを外した、これらの川柳に芳賀の新局面を見たような気がする。


やわらかさと熱と

岡崎裕美子歌集
『わたくしが樹木であれば』
書評 後藤 由紀恵
 

 濃淡のある青、灰色が重なり合う中、表紙の一箇所だけがくり抜かれ、濃い珊瑚のような色が覗く美しい装丁が印象的な一冊である。寒色の中に映える華やかな色は何を表現しているのだろう。そんなことを考えながら読み進めた。登場する人物はそれほど多くはない。両親、妹、夫、年下の(おそらく)恋人と私との関係が、やわらかな言葉で描かれている。年下の(おそらく)恋人の歌は、もしかしたら煽情的だと思われるかもしれない。けれどよくよく読んでほしい。

子がいたらこのような夜を過ごすのか眠るまで君の髪を撫でたり
細きゆび朝日に光り美しくまた吾が胸に触れさせている
会うときも別れるときもわたくしの体を駅の鏡は映す

 「君」の愛情を素直に受け取りつつも、子をあやすように髪を撫でたり、胸に触れさせたりする場面では、「君」と私の熱量は決して同等では無いことを言外に匂わせている。そして「君」に会う前もその後も、自分は自分ひとりの体であることを駅の鏡に意識するのだ。夫がいるのに恋人を持つことは悪である、と仮に断定するとして、その悪の甘さに酔うのではなく、自分がひとりであることを確認することに意識が向いているように思える。初めから結論付けることは歌集評として如何なものかとも思うが、この「ひとりであること」と「産む」ことが『わたくしが樹木であれば』にふわりと広がるテーマだろうと思う。

使われぬ(だろう)臓器の桃色を思うときふいに眠たくなりぬ
わたくしのかわりに弾むとりどりのゼリーで冷蔵庫を満たしたり
にせものの真珠を胸に遊ばせて誰でもいいから連れ出してほしい
死ねる紐も死ねない紐も巻かれいて手芸用品店紐売り場しずか
きみの痕残さぬように清めつつ産まぬからだにまた近づきぬ

 一首目、産むことと産まないことに是非は無いが、使わないものとして自分の身体に子宮があることをふいに思い、やるせなさが募る。二首目、三首目の「とりどりのゼリー」も「にせものの真珠」も自分を満たすのは一瞬であることを知りながら、あえて手を伸ばしているように思える。四首目、手芸をする(何かを作り出す)ための店内に、死ぬための道具もあることに気づいてしまう。五首目、「きみ」との関係性のなかでは「産まぬ」なのかもしれないが、身体の機能としては「産めぬ」であろう。自らの意思をより強く感じさせる「産まぬ」の一語を選択したところに岡崎の矜持を感じる。
 冒頭にも述べたが、歌の言葉はやわらかく静かである。だからといって熱がないわけではなく、いつか噴火するマグマのようなものを内側に湛えているように感じた。それは表紙の華やかな一箇所にもつながるのかもしれない。

東京の桜はきれい自らの価値を知りつつ咲いているなり
もう風の方向なども見ないまま吹かれっぱなしで砂浜に立つ


息を整える

山下洋歌集
『屋根にのぼる』
書評 梅原 ひろみ

 

 「塔」の選者である作者が二〇一七年に刊行した第三歌集。高校教員としての恐らく最後の異動、二人の子の巣立ちとその後の妻との暮らしなどが緩やかに描かれた一冊。

市川と円山川へ二分かれしてゆくならむこの尾根の雨
生節の煮付けに蕗の添えられて夕餉の皿は卓袱台にあり
点々と濃き紫は葛の花わが駈けのぼる山道に散る

 折々に現れるこういった端正な叙景歌、丁寧な写生に基づく歌が魅力的だが、何と言っても作者らしいのは関西弁による口語を駆使した、柔らかなユーモアを湛えた歌群であろう。

ええ格好せんでよろしと雨のなか朽ちつつ香る梔子のはな
もうあかん熊蝉も鳴きはじめたし梅雨が明けて夏が来てしまう
畳から生えてきしツルムラサキをおしたしにして食う夢を見き

 また、生徒、家族、友人など様々な人が出てきて、一冊の風通しを良くしている。関西弁の会話体が柔らかく他者への窓を開いていて、温みとともに、時に人恋しさや寂しさも醸し出すようだ。

五十円ずつ出しあったというブーケ呉れて三年四組卒業したり
あしたから生まれ変わるという少女 そんな焦らんかてええねんで
胃袋をほぼ切除され倍くらい饒舌になり友復帰せり
「とんがらしの炊いたんちょっと持って行き」呼び留めるは母の声なり
マトリョーシカみたいだ君の内部からつぎつぎ過去の君が出てくる
来光寺へはどう行けばいいですか? 誰かに君が訊いているころ

 他者への優しい眼差しが胸に残る。自分自身に向ける視線も含めて構えが感じられない。様々な逡巡もある筈だが、その中味は語られることはない。逡巡から浮揚するために歌を詠み、自分のペースを作っている作者なのだろうか。歌によって暮らしのリズムが刻まれていく様子は、作者が打ち込んでいるらしいマラソンにも似ているようだ。
 あとがきによれば二〇一〇年の暮れには本歌集の原型はほぼできあがっていたという。その翌年に母の死があり、出版をためらううちにそのままになってしまったが「いつまでも放っておくんか」という思いが湧いてきて出版に到った。「母の声だったのかもしれません」とある。人生という長距離走を続けるために小休止をはさんで息を整えるための一冊だったのかもしれない。梅雨の午後、読み終えて私もゆっくり息を整えた。


二種の時間の交差

中山博史歌集
『刻の長さ』
書評 前田 宏


 

 歌集名は集中の次の一首から採られている。

一本の飛行機雲のほどけゆく刻(とき)の長さをゆとりと思ふ

 作者は技術畑のサラリーマン。人生の後半生十二年間の変転を詠んだ第一歌集である。歌集名となった掲出歌を一読すると一見のどかな心象と見えるが、一冊の全体像の中でこの一首を位置づけると実は人生時間のゆとりを渇望する作者が浮かび上がってくる。
 この歌集の特徴を端的に言うと、両親の死、自身の出向・転職そして前立腺癌、娘の入院等作者に生起した人生上の事件を縦軸として、他方、作者が日常で目にした折々の何気ない風景を横軸として編まれた歌集と言うことになろう。そこには作者自身の時間と、作者と直接には関わらぬ他者の時間との二種の時間が存在し、交差している。

「お前には言へなかつた」と母の言ふ「癌は取れずに縫ひ合はせた」と
生きてゐる 握ればぬくき指先に言ひ聞かすなり慰むやうに

 前者の歌は父の死、後者は母の死を詠んでいる。また、転職先の職場での心情を詠った次の一首がある。

会社より帰れば足にくつきりと咎うけしごと靴下のあと

 これらの歌には感情が沸々と動いている作者がいる。一方、集中には日々作者が目を留めた光景を淡々と描いた歌が多数収められている。

透明の一つの傘に歩きゐる男女はくらげの姿にも似る
炎昼の暑さの残る夕やみに自転車ゆきて風ひとつ立つ

 一瞬、作者とすれ違う他者。作者にとっては事件ではなく風景のような日常。心が動揺する非日常の刻と淡々とした日常の刻というコントラストがこの歌集の奥行きを広げている。


家族の空気感

干田智子歌集
『二日月』
書評 前田 宏


 

 作者が還暦までの三十余年間に作り溜めた歌からまとめた第一歌集であり、日常の気持ちの動きを丹念に綴っている。この歌集を日常の断片を集めた日記歌集から浮上させているのは、ふとした場面で夫と二人の子供に一瞬感じた或る種の違和感を掬い取り、誰しも思い当たるであろう家族という人間関係の空気感を描き出しているところにある。

ふるさとの川原に子らを遊ばせる夫の背中に夏の日の照る
この町に生まれ育ちし夫に見え我には見えぬ雪深き冬
合はす手をほどけばいつも傍らに我より長く祈る夫あり

 夫の心の中に妻と言えども入り込めないものを感じる一瞬。その時、夫は自分と別の独立した人格であることを思い知らされる。何か事件が起こったわけではなく、何気ない日常の一瞬だからこそ、すぐ傍に居る夫が居ながらにして遠い存在になってしまう。このような感じ方は子供との間にも現れる。

寒々と空気がうごく背後には口をきかざる吾子が来てゐる
黒々と背中に及ぶ髪のかさ 振り向くときに娘のかほす

 子供達も育つにつれて一人の人間となっていく。次第に手の届かなくなる我が子の心は、ただ感じ取るしかない。親としていくら不安であり切なくあろうとも。
 家族とは空気のようなものという言い方があるが、この空気の密度は常に一定ではない。微妙な空気の揺れが心に残る。
 集中やや気になったのは、今、眼前にあるものを見て感じたという現在形の歌の多さである。

木に花の咲きて明るき四月来て子ら学年の階段上る

 前田夕暮の著名な一首〈木に花咲き君わが妻とならむ日の〉の歌は〈四月なかなか遠くもあるかな〉と想いを先へ飛ばして時間の奥行きを描いてみせた。現在を描写するだけでなく、縦横に心の時間と空間を広げて頂ければと思う。


純粋な愛の開示

上野直歌集
『みてみて』
書評 前田 宏


 

 認知症の妻を一五年にわたり在宅老老介護する作者が、介護の日々を詠み続けた歌集の第三巻である。この歌集の見所は、妻の介護をテーマにしながら同時に作者の魂の救済の物語とも
なっているところだ。この世で出会い夫婦として結ばれる意味が、素朴な故に純粋な語り口によって浮かび上がってくる。

日一日妻からわれの消えてゆく見つめ合う目がうつろに動く
頑是無い子供と同じ妻なのに叩きし掌涙でかすむ
無限大妻を看ていくそれはよしわれの残生幾ばくなりや

 認知症が進行する妻を支え続けようと日々懸命な作者だが、認知症故に気持ちの伝わらない妻への苛立ちと、その妻を支えるのは自分しかいないという孤絶感は作者を苛む。しかし、そこに湧き来る感情を飾ることなく歌に載せることで、介護の凄絶さが読む者に真直ぐに入ってくる。

また君に恋しているいま前よりもあのころよりもより恋してる
みてみてと動くくちびる妻の指す彼方にはにじ そうあれは虹

 作者の献身は妻への愛の証であることが集中に散りばめられた歌から見て取れる。歌集の題ともなった二首目の歌は虹に導かれて心が通い合った場面を描き、希望と暖かさが伝わる。

その人がだれであろうと看板の笑顔の人はみな妻の友
してやっているのではないこの介護させてもらっているありがとう

 介護を通じて作者は妻への夫婦愛を確信し、更にその先の普遍的な愛に気づくことによって愛の奥深さへと到達できたのだろう。言葉を選び磨いて一首を詩に昇華する余地はあるが、介護という苦難の意味を深く考えさせてくれる歌集である。


希望の光

大谷榮男歌集
『トンネルのむこう』
書評 畑谷 骼q


 

 二〇〇八年から二〇一五年までの作品をまとめた第二歌集であり、古希から喜寿に至る自らの老いを見つめる怜悧な視線はそのまま広く現代社会の問題にまで及ぶ。

些細なこと気にかけるなというごとく無花果の皮つるんと剥ける
五年ぶりの注腸検査を告げられて初秋の雨の町を帰りぬ
一万歩の目標下げてまた下げてこうしていつか歩けなくなる
病もつわが妻なれば介護する覚悟はあれど自信はゆらぐ

 忍び足で近づいてきた老いがいよいよ明らかに迫ってきたことを見据えながら、それを淡々と詠んでいる。老いに対する葛藤から生まれた一つ一つの受容が歌の背後から浮かび上がってきて味わい深い。歌集の中には妻とのユーモラスなやりとりが微笑ましい歌も散見されるが、四首目には昭和の男の本音が表出されていて、そのどうしようもない切なさが胸を打つ。

深大寺に作務衣姿の初仕事まがらぬようにご朱印を捺す
厄除けの朱印の所望あまたあり効き目は兎も角こころ込め書く
師であれど友でもありし小高賢、神保町シアターに共に映画見き

 深大寺でのアルバイトの様子や、小高賢との交友がうかがわれる歌には興趣が尽きず、二首目では些かのアイロニーを交えながらも、結句に作者の真面目な人柄が滲んでいる。

のぼり来し坂道になおトンネルありトンネルのむこうに小さき光見ゆ

 歌集名となった作品であるが、作者の見たトンネルのむこうの「小さき光」は人生の後半を歩む人々に示された希望の光に他ならない。


歳月がもたらせたもの

須藤冨美子歌集
『銀色の「1」』
書評 畑谷 骼q


 

児とはしゃぎ噴水のへり巡りつつ夢の途中のごとくに思う
ユニフォームの背番号は1 銀色のキャプテンマーク胸に光れる
祖父に似て湿った駄洒落いいながらわが肩を揉む十八歳の指
向き合いて碁を打ちており気がつけば夫の石に囲まれていつ
夫でなく子でなく母を思うなり心弱りし雨の夕べは

 孫育ての日々、家族とのゆたかな時間を過ごす作者の第二歌集。二話の童話も収められている。孫との触れ合いの中で掬い取った意識は作品の核として作者の過去から現在を巡り、一首目のように作者自身の人生の一点で確かな着地をしているのだ。二首目を読めば歌集名の意味がわかる。銀色に光っている「1」は作者にとっても誇らしいものだったにちがいない。三首目は、血縁というものの不思議さ、面白さが端的に表れていて共感を呼ぶ。四首目は、碁のように気がつけば夫にあたたかく包み込まれている作者を想像させる。五首目、家族の中でも母は特別な存在だ。「毒親」という言葉を耳にする時代にあっても、愛の象徴たる位置に母は普遍性を持って揺るがない。

お互いに傘を傾けすれ違う二月の雪のはららぐ路地に
愁い帯ぶる鐘の音ひびきわが街の暮色は寺より広がりてゆく
飛ばされて帽子は川を流れゆくつばの広さが好きだったのに

 一、二首目のように詩情を纏った美しい歌にも心惹かれた。三首目の飛ばされた帽子は、歳月の流れに否応なく手放したものとも読める。しかし、同時に作者は素晴らしいものも得てきたはずだ。それらはこの歌集のいたるところに輝いている。


あふれる生命力

足立節子歌集
『夢はまだ』
書評 畑谷 骼q


 

 喜寿となり、心を奮い起たせて編むことを決めた第二歌集だと作者はあとがきに述べているが、収められている作品からは明るくて、生き生きとした姿が見えてくるようだ。

白菜の発芽を伝え酒を注ぐその後続かぬ夫との会話
白菜は青きレースの葉を保ち秋の陽浴びて結球すすむ

 一首目、長年連れ添った夫とは特に話すことがなくなってきたが、白菜の発芽は伝えねばならない大切な事柄なのだ。二首目からは、結球の進む綺麗な白菜を見て、農事に携わる作者の喜びが伝わってくる。

畦道を水仙切らんと霜を踏み友が行く見ゆ赤き鋏と
如月の雪の高野を着ぶくれてペンギン歩きの媼が三人
「あーひま」と十歳がいう降り続き我も暇なり雨を見ている

 この歌集は「春」「夏」「秋」「冬」などテーマ別に編集されていて、「友」「孫」もそれぞれ一章の題となっている。水仙と霜の白色と赤い鋏の対比が鮮やかな一首目。二首目、三首目はペンギンのようによちよち歩く三人の媼や、十歳の孫が暇だと言い、二人で雨を恨めしく見ている様子が何とも楽しい。

喫茶店に悩みを持てる者のごと座して見ている狐の嫁入り
よう足立さん三年振りと医者は言う三年間も元気でごめん

 「悩みを持てる者のごと」とは実際には悩みなどないということになるだろう。二首目と合わせて読むと心身ともに健康な作者が羨ましくさえ感じる。「気持ちは若いままで好奇心が強い」と自認する作者の漲る生命力が歌集全体にあふれていて、それが気持ちの良い読後感を与えてくれるのだ。夢の一つであろう第三歌集が待たれる。

夢はまだ老ゆることなく数多あり先ずはクロール一キロ泳ぐ


「自分史風歌集」が
自分史を越える時


加藤美智子歌集
『真珠のいろの陽を掲げ
・アーネジェウ』
書評 蓮香 伸子


 

 本書が作者にとって初めての歌集である。

熱に娘の眼うるめる今朝をまた働く母のかなし皆勤
片陰に雪残るみち花道と紅引き初めて汝は歩めり
〈お月さま星となかよく旅に出る〉七つおのが句踏みてゆくべし

 あとがきに作者自身が「自伝史風の歌集」と認めているが、自伝史的となると他人には伝わりにくい「独りよがり」な歌も出てくるもの。しかし作者は「詠めそうで詠めない」家族の風景を的確に捉えるのが巧みである。娘を詠った三首。一首目は働く母親のジレンマを、二首目は成人式を、客観的視点ながら愛情深く詠い上げる。このように家族の事情を突きすぎずに詠む姿勢は、読み手へより確かに、多くの心に伝わるものだ。三首目は上の句に娘の俳句を取り入れながら、下の句で嫁ぐ日にふさわしい短歌へと変身させる。作者の歌の機転が利いている。

絞り機にかけし遊び着のポケットに草の実つぶれて淡き色染む
ナフタリンの匂いたたしめ客来る秋の夕べの小寒き灯の下
一瞬に自動改札くぐりたり舌出すごとき切符の温し

時代を感じる三首。「絞り機」にかけて「じんわり」染みてきたと同時に「しまった!」そんな声が聞こえてきそうである。二首目の「ナフタリンの匂い」。においに敏感な昨今、防虫剤ですら花の香りを纏う。あの「ザ・防虫剤」とも言える香りが懐かしい。三首目、改札口から舌を引っこ抜く人は稀になった。「切符の温」さが生々しくも滑稽である。他にも「電算機」「ブラウン管」など懐かしいモノが豊かな調べに詠まれる。
 別冊連作集『アーネジェウ』も含め自然詠も多いが、昭和(戦争)があり平成があり、そしてなんと言っても作者の知る「高安国世」がある。単なる自分史を越えた歌集である。


切なきメルヘン

橘夏生歌集
『大阪ジュリエット』
書評 蓮香 伸子


 

桜吐く無言のこゑのざわめきを聞きつつあゆむきみのゐぬ春
さくらさくら何処(いづこ)にしらほね隠したる針のやうなる雨ふりしきり
星座の獣にまたがつて川本くんが帰り来る秋の夢さやさや

 橘夏生の第二歌集である本書が、私と作者との初対面である。先に挙げた三首は「長年のパートナーだった、川本浩美」への追悼歌より。一首目「無言」の「ざわめき」、二首目「さくら」の柔らかさと「針」のような雨のシンメトリーが美しさと切なさを醸し出す。三首目、霊魂が星座の獣に乗って帰ってくる。秋ならば、神話で兄妹を救った勇敢なおひつじ座だろうか。

花畑に蝶を追ひつつまぎれゆく恋猫なれば保名(やすな)のごとし
姉がゐた少女期ありぬピアノ弾くわが身代はりの姉(あね)さま安寿

 本来ならば作者が明示する、母との決別の歌を挙げるべきかもしれない。しかし、独特の感性で日常を豊かに歌い上げる歌も多い。二首とも古典と絡めた歌。一首目、恋猫は自分なのか母親なのか。しかし、実はどちらでも良くて可愛らしい猫に『蘆屋道満』の保名を重ねることで一気にメルヘン的な怪しさを纏う。二首目は「あ」の重なりが切ない。どうしようもなく壊れゆく自分が、少女期の自分を見いだそうとしている。弟・厨子王を捨て身で守った安寿の投影が巧みである。

二十三階のバルコニーにて川本くんを待つわたしは大阪ジュリエット

 最後に本書のタイトルの歌にふれたい。パートナーの喪失・家族との葛藤を思えば、作者はやっぱりジュリエットなのだ。ただ、「理解ある優しい夫」君と共に、また作者らしい「キラキラして美しい」新たなメルヘンの第三歌集を心待ちにしたい。


視野の広い和みの短歌たち

原秀子歌集
『かやつり草』
書評 蓮香 伸子


 

 人は何に導かれ短歌を作るのだろう。本書は作者の第二歌集であるが、全体を通して何か確固たるポリシー、あるいは「ギギラしたもの」は感じられない。漂うものはただ自然体。そうであるからこそ少しの憩いの時間に、ついつい手に取り読み進めてしまう。

栗の花ほとり落ちくる感触の残れる指にキー打ち始む
掌ほどの畠に藪蘭の花穂立ちほつほつと笑ふ「この怠けもの」

 自然がよく詠われている中でも異彩を放っていた二首。一首目、ひょろ長い栗の花が落ちる姿は美しいとは言い難いかもしれない。しかし、その花に触れ、その感触を想いながらキーを打つ繊細な作者が愛らしい。二首目は上の句がやや音が複雑なようだが「ほつほつ」ゆっくりと笑い、そして「怠けもの」と言い放つ様におもしろさがある。小さな畠に逞しく生い茂りつつ可憐に咲く藪蘭と、言い放つ言葉のギャップが楽しい。
 自然詠や日常詠が多い中、観念的である「金平糖」の歌より。

音たてて鳥が墜ちた日 星のない夜はすばやく垂直にくる
犬走りになにかもののゐる気配この頃忘れゐた夜さりの気配
金平糖の角の触覚感じながら寺田寅彦の名を聞いてをり

 一首目と二首目はあまり深く突きすぎず味わいたい。特に一首目は下の句が巧みであり、そのために上五・七があるのかもしれない。しかもそこには寺山修司のような味わいが感じられる。三首目、作者は金平糖をじっくり舌に転がし味わう。同時に、この上なく甘党で金平糖の角の研究までしたという寺田寅彦を絡ませ、作者の短歌の幅広さを感じられるのである。

強欲なわれではないが生きてゐるだけではさみしく短歌を作る

 この自然体が、和みの歌集を編んだ根源であるに違いない。


曳き船のさきに世界を

熊村良雄歌集
『月齢暦』
書評 唐津 いづみ


 

妣はふかき瞑(ねむ)りにゐるに夜おそく月が畳に坐りをりけり

 煌々とさす月の光。月明かりの和室に眠る母のそばに、まるで若かりし頃の母が座っているかのように。美しい歌である。
 あとがきによると作者は五十歳を過ぎてから作歌を開始したようだが、所属の有無など詳しいことは明らかにされていない。まず作品を読んでほしい、という意思表明と捉えた。

火事跡にきたりし紋白蝶(もんしろ) 操りのごとき光を曳きて翔びけり
白玉かなんぞと問はずひといきに呑み込みにけり姪の別腹
〈死は前よりしも来たらず〉とか、むかし星を綴りしガルデア人(びと)よ

 歌集全体の印象として、一首の情報量の圧縮が高く、一首で屹立する歌が並ぶ。よって歌集の中に置かれた歌々はお互いに引き合い、イメージの相乗効果を生み出している。蝶は寺山修司の引き出しの蛍が燃えたあとの火事跡に舞うかと思われて仕方なく、在原業平と藤原高子の逃避行の印象である白玉は大胆にも古代神話のうわばみのごとく呑まれる。身内を詠うも、それより日常のかたちを持って普遍を追うこととなっている。野尻抱影、山口誓子を彷彿とさせる魅力的な星の歌や、舞台を題材にした歌、そして恂{邦雄、岡井隆の影響の見える歌もあり、読む進むにつれ興味は尽きない。

鉄砲ゆり咲くべく晨(あさ)の 長すぎる照尺距離とたれか詠ひし
曳き船のさきに世界をむすぶべくほうと蒸気のおとをつたへて
余生などあるものならば何せむや貴女(あなた)の知らぬあなたに逢はう

 表現主義とロマンが手を取り合うような重厚な一集。善き読者との出会いが待たれる歌集である。


いかなごのくぎ煮があれば

先野浩二歌集
『もず野』
書評 唐津 いづみ


 

その昔の雨乞いの場とぞ聞きおよぶ百舌鳥野千年楠のまえ庭
「七十歳の青二才です」こうべ垂れ樹齢千年の楠をおろがむ

 世界文化遺産に新たに登録された大阪府堺市の百舌鳥(もず)古墳群。作者はその近くに住んでいる。自身の会社生活を終え、改めて周囲を見れば、古代遺跡と街並みが共存する豊かな地域の価値に魅了されたようだ。掲出歌からは歴史と土地への畏敬の念を丁寧に表す作者の人柄の味わい深さが滲む。
 作者の歌歴は会社の短歌サークルから始まり、現在は「水甕」所属とあとがきにある。集名の由来は「日本書紀」に記載のある「百舌鳥野」から。本集は、大阪短歌文学賞を受賞している。

新年会さなかに一首ひらめきて箸袋のうらそっとメモする
ひと垣に隣りしおとめ白杖の柄を叩きいる音頭に合わせ
地下街に潜りて茶でも啜るべし爆弾低気圧いま通過中
安倍清明神社火曜の予定表タロット占い相談日とある

 街中の息遣いを感じる歌を引いた。歌を詠むひとならではの共感を呼ぶ一首目。作者のひとを見つめる視線の優しさと細やかな観察眼を感じる二首目。荒天での外出時、達観と諦観は紙一重の三首目。四首目は陰陽道のスーパースターと西洋カード占いとの取り合わせの妙。軽みと繊細さのバランスが良く、爽やかな読後感が身上と思う。

下草を刈れば斑にこもれびは地ににじむごと柔らかく差す

 掲出歌は作者の観察眼が光る。比喩、結句の繊細さが相まって日常の荘厳な瞬間を切り取る。一集には、故郷淡路島の被災、自身の大病などが詠われるが、常に前向きな足跡を示す歌々からは、丁寧に一筆ごとを重ねてきた人生が視えてくる。

いかなごのくぎ煮があれば菜(さい)いらぬふるさと淡路の舌いまも生く


ガラス戸をいち枚へだて

佐々木喜代子歌集
『遠きクローカス』
書評 唐津 いづみ


 

なゐつなみ世の底くづしい行くなり我らは素手のままに揺れをり
屋内退避告げゆく声の走りまはりうはずりてゆく現となりぬ
ガラス戸をいち枚へだてたちまちに黄のクローカス界を異にす

 作者は「未来」にて大辻隆弘氏の選を受け、一集を上梓した。一首目は巻頭歌。東日本大震災に遭った瞬間を切り取った。動揺を定型外にて表す巧みさ、屋内退避の現実は庭の花との対比により、外部から隔てられた不安が際立つ。

頭の芯に原子炉の舌ただれゐて夜もちろちろと吾をねぶるなり
「放射能は正しく怖れよう」といふ 我ら歯ぎしりをして「正しく」
日常を失くしし日々を身に知れば双手につつむ葱のみそ汁

 震災の体験から紡ぎだされる歌は臨場感と理性的な視点を併せ持ち、かつ作者の好日感が読みどころとなっている。オノマトペによるリアル、流布する文言への批評、掌のぬくもり。

めづらしく嵩ある雪の積みし朝放射線量なべて下がりぬ

 作者は震災後、相次いで身内を亡くしている。雪の重さ、そして静謐な喪失感が潮のように満ちてくる。

蜜腺を吸ひゐし日々のたはぶれよ過りしのちににほふ忍冬

 若き日の回想や東北の自然、花々の歌は一集を瑞々しく彩る。遠い日々を思うとき、みどりを帯びた甘い薫りが蘇る。結句、忍冬(すいかずら)の花名表記を選んだことで切なさが集約される。
 様々な空間や時間から隔てられてゆくことの不如意、そしてそこからの一歩を踏み出すひとの力の尊さが読後、心に残る。
 本集は、日本歌人クラブ東北ブロック優良歌集に選出された。


時の消えゆく形

飛鳥井和子歌集
『けやき道まで』
書評 鹿取 未放


 

カチーンとボンベ触れ合ふ音冴えて酸素届きぬ夫の生命綱
いつもいつも母は言ふなり夢見よくやはりあんたが来てくれました
桜木を望みし我に植木屋は「一年の守(も)りをようしやはりますか」

 いくつもの大病をされ、ご夫君に先立たれた飛鳥井さんは亡き夫を恋いつつ、家族に支えられ、花木を愛し前向きに生きていらっしゃる。歌は夫恋いでも病気でも湿り気の少ないのが特徴だ。また、作者にとってはごく自然体なのだろうが、時折顔を出す京都弁がいい味を出している。ここではお母さんや植木屋さんの物言いをあげてみた。母との間はお互いを思いやる情が言葉の端から濃く滲んでいる。また直接話法によって、なかなかの職人魂の持ち主である植木屋さんを活写している。

円卓の右も左もどつと笑ふ何話せるや小さき声は
ぶらんこを立ちこぎしつつ両足をついと浮かせつをみなご五歳(いつつ)

 一首目の難聴のつらさを詠った歌は「小さき声」に口惜しさが滲む。また、作者を支えてくれる多くの優しい家族を詠っておられるが、ここではお孫さんの歌を挙げてみた。四句目にシャープな観察の目があり、甘くない孫歌になっている。

音もなく点滴輸液は落ちゆけり時の消えゆく形を見たる
身めぐりはぽこりぽこりと穴ばかり吸ひ込まれさうだ次は私だ

 飛鳥井さんはやがて病気で半身不随となられ、介護ホームに入られるが、自分や人生を見つめる歌は、詩としてにさらに優れたものになってゆく。時間が点滴の輸液の形を取って過ぎていくという捉え方は斬新だし、巡りに異次元のような穴があって次は自分が吸い込まれるという把握はことに優れている。


詩、そして現実を
見る確かな目


沼尻つた子歌集
『ウォータープルーフ』
書評 鹿取 未放


 

どの空も再びは無く大いなる鏃(やじり)を為して渡り鳥ゆく

 冒頭二首目のスケールが大きく美しい歌。なるほど、地球の気の遠くなるような時間の中で全く同じ空の日はなかった。一期一会の空に鏃の形をして渡り鳥が過ぎ去ってゆく。

栗最中ひとつ供物からいただいて盆灯籠のコードをまたぐ
光ることやめてしまいし電球のまるみに四指を添わせてはずす

 一方、こういう物をしっかり見ている手堅い詠風の歌もあり、鏃の歌もこんな観察の積み重ねから生み出されているのだと分かる。一首目は、仏壇と手前にある盆灯籠、畳の上を這う邪魔なコードがよく見える。二首目も、光ることをやめてしまった電球という把握が鋭く、添わせてはずす行為の描写も細やかだ。

「お願いは自分でかなえる」七夕の短冊を娘は書かざりき
あとたった十年 息子が〈回天〉の搭乗員の歳になるまで

 お嬢さんの矜持の強さはあっぱれだが、それを見逃さず歌に掬い上げた作者にはその矜持を見守り肯定する強い目がある。 二首目は幼くして別れた息子が七歳になったことを祝しつつ、あと十年経ったら戦争に征ける年齢なのだという悲しい気づきがある。〈回天〉を持ってきたことで個人の感慨に終わらせず、鋭い社会批評の歌になった。

清拭のあとのシーツの砂浜に打ち上げられし父は流木
吾の知らぬ兄を知りいる兄嫁の華奢な手首を果汁がつたう

 清拭されているのは病んで衰えた父、人の手に委ねるしかない病む人の無念を流木に例えている。兄嫁の歌は結句の映像にエロスが漂う。巻末には再婚が詠われ、最終歌には、ほのぼのとした安堵の思いが豊かな水張田の喩で詠まれている。

水張田に雨粒おちてくるようなあなたのことば、仰向いて聞く


まだ大丈夫

山田トシ子歌集
『赤とんぼ』
書評 鹿取 未放


 

「赤とんぼ」二枚の羽根の特攻機夫は昔を語り始める
白鵬の浴衣の藍のとんぼとぶ付け人ぱつと着せかける時

 夫の手術の歌もあったが、おおむね穏やかな日常がていねいに詠まれた歌集である。「赤とんぼ」という歌集名は郷愁の象徴かと思って読み始めたが、こんな重いテーマの歌から採られているのだった。しかもそのテーマは潜めて、近い頁に力士の浴衣の絵としてのとんぼの歌を置き、巧みな構成である。その浴衣は力士の大きな裸に着せかけるもので、藍色も効いており、映像的に鮮やかだ。動きのよく見える洒脱な秀歌である。

幹古りてなほ花満つる庭の梅古希過ぎてみる夢も多かり
みどりごを眺めてをれば竹取りの翁のごとく欲の出で来る

 日本画に書を添えた数頁が中程にあり、歌集に変化を持たせている。一首目は古木の梅に添えられた歌で、力強い絵と相俟って心意気が楽しい。「竹」の画も素晴らしいが、二首目は画とは離れた頁にある竹関連のユニークな歌。竹取りの翁のような欲とは、長生きをしてこのみどりごの行く末を見届けたいという欲かもしれない。

何もかも忘れてしまふ森の中埴輪の男女静かにをどる
我が庭で育ちし山椒ふと枯れて擂り粉木となる宝物となる
ナショナルの古扇風機どつしりとかまへて首振るまだ大丈夫

 一首目は大きな公園にある埴輪を詠んだ歌。踊る形の埴輪なのか、非日常の愉快な世界だ。二首目は「ふと」が良い。なんの弾みかふと枯れてしまった山椒の木から擂り粉木を作った。それが使い勝手が良く宝物になったというのだ。集中にはたくさんのリフレインの歌があるが、この歌でもリフレインが弾んだ気分をよく写している。三首目は結句が良く、自分に言い聞かせているのだろうが、この確認が楽しい。


家が紡ぐ人の生

数又みはる歌集
『石榴の木のある家』
書評 高木 佳子


 

 塔短歌会に所属する著者の第一歌集。平成十七年からの歌四四七首を収める。巻頭の一連「薬莱山」にはこんな歌がある。

ぐんぐんと薬莱山の迫りきて母の待つ家いよよ近づく

 「ぐんぐんと」「いよよ」と重ね、「迫りきて」「近づく」とまた重ねる。そんな「母の待つ家」は、作者にとって単に「実家」というだけではなく、非常に存在の大きい「家」なのだ。
 作者は母の待つ東北のふるさとと今住む都市とを往還する人である。妻として母としてはひと呼吸を置いた人である。そんな位置にありつつ緻密な観察がふるさとの姿を伝えている。

雨降りてたちまち黒くなる道に顔をおとして歩くふるさと
みちのくの夜の静寂(しじま)を打ち砕く力をもちて黒電話鳴る
果てもなく暗い座敷の並びいて夕べ騒立つ生れたる村は

 暗鬱に充ちた閉塞感のあるふるさとの風景。あるいは、

籠やさんと呼ばれし祖父は石榴木の下に足なげ籠あみており
里を恋い寒戸の婆が泣いてると風強き夜をみちのく人は
女では喪主でも駄目だと男らが母を葬る冬至の明かりに

 昔ながらの仕事や慣習にある人々。どの歌も細部の描写がいい。外側から見るとき、住み慣れた土地も「ふるさと」となり、「家」は人を交差させる存在として映る。祖父や父母、弟、そして自分自身。「石榴の木のある家」に生き、集い、過ごし、離れ、別れ、あるいは死んでいった。言い換えれば「家」はそこに集う人によって生かされているのである。作者の克明な描写が、この一族のありかを映してやまない。

みな細き腰骨持ちて歩むなり火炎樹揺らぐ水のほとりを

 巻尾近くにはこんな歌もある。アジアの小村に行ったという。「自分自身」となって見ているものは、鮮やかで優雅で美しい。


認識を問う

高松富二子歌集
『水琴集』
書評 高木 佳子


 

 未来短歌会に所属する著者の『虹の五線譜』(〇六年)に続く十年ぶりとなる第二歌集。ゆったりと豊かな時間のなかにあって、ていねいに身めぐりに向けられる視点が印象的だ。

カスピ海とはイラクに近し純白のヨーグルト手に回す地球儀
はろばろと来るアジアのカブトムシ展示されおり手足傷つき

 はじめに目に留まるのがスケールの大きな歌である。「ヨーグルト」「カブトムシ」という身近な対象をダイナミックに拡張し、思いを込める。カスピ海ヨーグルトから現在のイラクを想起し、輸入されたカブトムシの傷ついた手足を見逃さない。背後の大きな問いを自分の問いとしている。着想の大きさと繊細さを併せ持った視点は、日常の歌にも発揮されている。

いちまいの真白き紙による手傷紙一重とはかかることかも
この魚のいずこの産と問いたれば海行き来して境あらずと
遠くより見る焼夷弾そのものと老いの拒める花火大会

 自らと他者についての歌。一首目、「手傷」を負わせる紙と負うものとしての自分。二首目、海を自在に往来する魚には「境」はない。三首目、戦争体験のある老人には、美しい花火も焼夷弾に見えるという差異。いずれの歌も個々の認識が立場の転倒によって虚にも見えてくることをいう。今の自分を安寧にせしめているものとは何か、足元の安定を改めて問い直すのである。

間をおきて響(な)りいずる音の聴くほどに〈六段〉やこの水琴窟は

 歌集のタイトルとなった歌。こうして読んでくると深度がある歌である。閉塞した空間へ落ちる水滴が鳴らす音は、個の認識によって豊かさも、恐ろしさも増す。集中には家族詠もあるが、連作に凭れないのは、認識を問う視点があるからだろう。


時空と人と

杉本文夫歌集
『海洋緑道』
書評 高木 佳子


 

 塔短歌会に所属する著者の第一歌集。二〇〇八年から二〇一六年までの歌三四七首を収める。対象を確固として見つめ、硬質に描き出す力量を感じる歌集である。

古びたる木筥(きばこ)をそっと開けるとき青木香(しょうもっこう)の薫りひろがる
貝灰を布乃利に溶いて塗りし紙つめたくにぶく光りていたり

 作者は古代史の研究者である。一読、「青木香」「布乃利」などといった新奇な語句に目を奪われるが、作者が見つめるのは、その向こう、古代の人たちの営為の跡なのである。木箱のなかに込められた香の高雅さ、貝の灰をていねいに塗り重ねて準備された紙、いずれも古代の人の手技と心ばえが現在に伝わってくる。時空を超えて、作者は古代の人たちの生を見つめている。

春霞三半規管をゆすりつつボンバルディアは右旋回す
そびえたつ大雲の根をボーイング777よまわり込み飛べ

 現代に在る作者は、精力的に仕事をこなす一方で、老いた親たちを看取る世代でもある。歌に現れる高速交通網の具体は、そうした日常を支えるものだ。高速で移動する時間を携え、駆られるように生きる生活者としての作者像が見えてくる。
 「赤」色も印象的に頻繁に本集に顔を出す。赤で彩られた対象は、生命の充溢であり、生命の謳歌の象徴とも読める。

サフィニアの花が真紅に群れ咲けり見つめているとどこかが燃える
微粒子が赤を散らして造りたるこの青空に溶けてゆきたし

 古代と現代と、時間の流れの異なる二つの世界を往還しつつも作者が通底させて描いているのは、生きるという原初の人間の姿だろう。人間はいかに生き、死ぬか。日々と、人々と、どう関わり、どう生きるのか。実直に問うてくる歌集である。


まっすぐに見る人

八汐阿津子歌集
『柚子坊』
書評 本多 真弓


 

ああこんなにちひさな花がびつしりとこの木てつぺんまで金木犀

 幼子が初めて見た花に目を見張っているような上の句。これが金木犀であることは承知の上で、全身で感受している下の句。身の周りの木や花や鳥や虫を、まっすぐに見つめ続けてきた人にしか作ることのできない歌だと思う。

ちんからり晴れて阿呆のやうな空とんびがひゆうとあらはれて截る
スタッカート巧みなりけふの夕鴉あ、あ、あ、あ、陽がころげ落つ
ふくろふの啼く雨の夜はなまぐさきにほひして裏の山がちかづく

 見る人は、オノマトペの巧みな聞く人であり、嗅ぐ人でもある。「裏の山がちかづく」という太古の時間へつながるような感覚は、闘病の経験が生み出したものかもしれない。

一斉にわつ、と鳴きそめ熊蝉は体育会系、朝練(あされん)もある
金蛇は飛蝗一匹呑み終へぬ武士の作法のごとくしづかに
念仏の効くおそろしさ なむなむなむピラカンサスが実りすぎたよ
「死んでみたの」さう言ひながら戻りくる人ありさうな桜ちる朝
蓑虫に目鼻口あり亡き父の目鼻をわれは思ひ出せず

 ユーモラスな歌にも、著者のまっすぐな視線を感じる。歌を引く紙幅がないが、助産師としての職場詠にも注目した。
 鹿児島に住む著者は「にしき江」「心の花」に所属、「南の会・梁」に参加。四六一首収録の第二歌集。タイトルの「柚子坊」は黒揚羽の幼虫のこと。タイトルと連動する形で、さまざまな工夫の凝らされた造本の妙にも一言ふれておく。


やさしい声が聞こえる

原秀子歌集
『落葉松林』
書評 本多 真弓


 

十八枚の雨戸の癖も知り尽し古い家族のやうなこの家

 たしかに雨戸を開け閉めするときにはそれぞれの雨戸ごとにちょっとしたコツがあったな、と幼いころの体感がぐわんと蘇ってきて驚いた。作者はこの家をたたみ〈老人が老人と住む十二階土踏みし感覚ひつそり失せて〉と、都会のマンションに移り住むことになる。
 いいな、と思った歌をどんどん書き出して「いいでしょ、この歌」と友達に伝えたくなる歌集だ。いいでしょポイントをわざわざ言語化したくない、とも言える。

鹿の住む地に入り来し人だものわれは囲ひを作らずに住む
葉桜へ落つる雨滴に揺れ止まぬさみどり若き枝先の葉は
見倦きぬはざくろからたち野のすみれ蚕豆の花猪独活の花
半ば欠けふつくらうつむく月のかほどこかにひつそりゐる人のかほ
この季に子鴨に出会ひ母鴨の母の姿に出会ふうれしさ
雪の道明けて凍て道日かげ道つるりすべりぬ老いしこの身は
木洩れ日がゆらゆら流るる水に見えうつかりああと応へてしまふ
よく見ればなづな花咲く木下かげまるで句読点のやうに咲きゐる
雨だれの音の向うに雨の降る細き音するひとりの朝は
水底に映るあめんぼの泳ぐ影あめんぼよりもみごとに泳ぐ
今からでも出来ないことはないでせう風吹くやうな誰かの声が

 作者に聞こえるやさしい「誰かの声」は、歌集を通して増幅され、作者自身の声として読者に届くのだ。
 塔短歌会所属の著者による第三歌集。


大きく口をあけた世界で

関野裕之歌集
『石榴を食らえ』
書評 本多 真弓


 

 さまざまなものが口をあけている歌集だ。

子供らの声遠ざかる路地裏に夜はほかりと口あけており
雪山のぶなのめぐりにぽっかりと春が大きな口あけている
祖母の家の五右衛門風呂は使われず暗がりに「あ」と口あけている
蓮根をざくりと切ればいくつもの侮るごとき口が開きぬ

 ぼんやり歩いていて夜の口に出会ったら、ぱくりと呑み込まれてしまいそうだ。ほんわかした雰囲気の春の口だって油断はできない。なにしろ大きな口なのだ。祖母の家の五右衛門風呂の口も怖いし、蓮根はそのたくさんの口で、益体もないことを話し出すのだろう。こうした感覚は、妻と別れ、ふたりの子供を育てたという作者の経験が生み出すものなのだろうか。もし妻と別れていなかったら……。ありえたかもしれないもうひとつの人生が、ぽっかりあいた口の先で待っているのか。
 編年体の構成は瞬間、瞬間をくっきりと刻み、時間そのものを読者に見せる。父と子の関係が少しずつ変化してゆく。

いくつものひそ目流し目かいくぐり男もすなる二歳児検診
子の採りしおしろい花の種七つ吾の机に並べてありぬ
押入れのどこかに今も咲いている子の描きくれし空色の薔薇
諍いて子が口利かぬ数日を土手の土竜のように過ごしき
春の夜の説話のごとく聞いており子育て終えし吾が見合い話

 ユーモアがじわじわとにじみ出る歌も忘れがたい。

子の担任が美人であるというだけでなぜ父親がうろたえるのか
天然のたい焼きというたい焼きを食みつつ歩む浅草は春

 塔短歌会所属の著者による第一歌集。四三四首収録。


受容の心

佐藤多惠子歌集
『大きな傘』
書評 江坂 美知子


 

 第一歌集から十六年後の第二歌集。著者は、二度の手術、再三の入院を経て、傘寿を迎え、今は何事も受容しようという心境をあとがきに綴る。不安定さに足を取られない自身の位置を定め、身を処す成熟の歌集。

花吹雪浴びて海向くキリンには水平線のなほ遠からむ

 桜花のもとに立つキリンの視線の先は、サバンナの地だろうか。キリンは今の環境に決して気安く馴れ合ってはいないだろう。音高さや粗雑さの全くない、きらめきと潤いがある歌。

夕方の自由市場の賑はひに売れ残る鶏腹空かせ鳴く

 人間の空腹を満たす鶏が、空腹に耐えかねている。詠嘆の助詞も助動詞も退け、目にしみる耳をさす鋭さで実感させる。

老といふ大きな傘が降りて来てわれを誘ふ 迷はず入れ

 老という必然。異議を申し立てている訳ではなく、それを上回る戸惑いが影を落とす。ひとマス空けは、自身の覚悟を促す。

死ぬるまで我を苛む腰痛か醒むれば痛き一日始まる

 人がこの世に生きることは、苦痛や困難の中を潜りゆき、劫を積むことなのか。語られる状況に、読む者も勇気づけられる。

透析に三十年耐へ力絶え妹逝けり心臓手術に
空襲を母に負はれて生きのびし末の妹夫に先立つ

 心臓への負担を伴う透析治療の辛苦はひと通りではない。
 逆縁に、残された者の追慕の念は、惻々としてあまりに悲しい。

山巓の冷気に触れて染まるとふ赤とんぼまだ淡き七月

 冷気に染まる赤とんぼ。軽快な響きで調和統一の美しい歌。

戦争を知らない子らが執る政権の亀毛兎角に年あらたまる
トックリ椰子の林を辿りゆく不意をつきし轟音 米軍訓練機

 過剰な思い入れや、感情移入を見せない。抑制のきいた、節度ゆえに、状況の悲劇性を深く掘り出す。著者の深い関心のあり方が推測される。


生活者の調和

宮里勝子歌集
『海の見える場所』
書評 江坂 美知子


 

 現在から過去を振り返る形の逆年順に編まれた第一歌集。著者の生地、島根県江津市の風土が、根深く表現に関わり、ふくよかな余韻を行き渡らせる。
延命治療不要といいて逝きし夫同意せし日のまたよみがえる
 同意は、否定の不毛への畏怖。人の死はかなしいが生もそれに劣らずかなしい。愛情の深さが、悔いを深くする。

働いて飲む酒のうまきを夫が言う生産調整の休日ふえぬ
亡き夫の使いていたる手袋は剪定をするわが手になじむ

 手抜きの無い作業に相応しい植物の生成や収穫がある。亡き夫の手袋と一体になり、作業する姿に夫婦の信頼を感じる。

亡き母を恋いつつ吾は水道の蛇口を固く締め直したり

 家を身をもおさめ、果たすべき務めの多さが、亡き母を恋う悲しみだけに沈ませない。結句に悲哀に耐え得る覚悟を思う。

人麻呂が妹を思いて袖振りし高角山に鉄塔ひかる

 人麻呂が、にわかなる帰郷命令に鍾愛の妻との別れを惜しみ、袖を振り続けた高角山。結句が時の隔たりを鮮明に印象づける。

閉鎖せし元の職場の毀たれて一万坪の平らとなれり
精霊舟送るうからの若手なく漁船に恃み曳航されゆく

 時の流れに避け難い町の変化を、明確に表し静かに見極める。

夜神楽の果てて車に衣装積む舞い子ら普段の男となりて
採りたての檸檬携えひとり来し嫁は我が家に馴染みゆくらし
丸餅にのせたる新海苔削り節仄かにかおる石見の雑煮
麻の蚊帳広げてほどく縫い代より五十年前の砂がこぼるる
わが生の最初の記憶妹は土間の盥に洗われていき

 現在の生活風景、そして記憶の中にしかない景。もろもろの気配が、身近になつかしい音や匂いを感じさせ、穏やかで、静かな張りを見せる。なだらかな調べに、生活者としての調和を思う。


古典文学の享受

天野教子歌集
『紫木蓮の下』
書評 江坂 美知子


 

 『あまりりす』に続く、六十歳から八十歳のほぼ制作順に配列された第二歌集。広汎な知識と古典文学の享受は、理知的なヴィジョンの作品を生み出す。

若き日の漱石が鬱々と眺めけむテムズの水のわが前流る

 「冷然と二十世紀を軽蔑するように立っているのが倫敦塔」と記した漱石。テムズ川の岸辺の景は、作者に尽きず語りかける。

カリカリと蜻蛉(あきつ)を食ひし蟷螂の手を合はせ何かを祈る様する
うつしみを黒衣に包みものを書く瀬戸内寂聴の真赤き座布団
棺に入れよと母の取り出だす箱の中に死出の装束・数珠と臍の緒、一冊の本

 母の素懐、思わずはっとさせる存在、その一瞬の動静を掬う。堅固な道心は、覚悟を沈めた生の肯定として伝わる。

ふりむけば三輪山を隠す雲もなし真夏まひるのそらみつ大和
ゆふぐれの京(みやこ)大路をひとり行く不義の子産みし藤壺おもひて
大江山生野の方はいづべかと娘(こ)の部屋に眺む薄曇りの空
風雨の中傘すぼめ行く新しき登美子の歌碑にただ会ひたくて

 歌や物語の、男の甘えと重なる残酷の中、額田王、藤壺、小式部内侍、山川登美子は、詠うことで自由を得た。流麗かつ切実な懐かしさで配置された言葉が、情感の密度の濃さとなる。

テレビつけて眠れる夫よぞんぶんに愛しただらうかじつと顔みる

 共に経験した生活の堆積、穏やかさの土台は、様々な起伏を越えたところにあり、互いを存分に愛されたことの確かさ。

あかあかとあかあかあかと鶏頭の燃えてゐるなりこの地の上に

 高山寺開祖明恵上人は、はるか天上の心理を照らしだす月を詠み、作者は、この地上に命ある限り燃え続ける鶏頭を詠う。


生きものと社会

山下一路歌集
『スーパーアメフラシ』
書評 佐佐木 定綱


 

 生物図鑑のような歌集である。ありとあらゆる生きものが歌の中に生息している。目次から捕まえてくるだけでも、カナブン、猫、インコ、人間、アメフラシ、鵙、イカ、アズマモグラ、ハシブトガラス、サバ、金魚。虫から鳥から魚から、種族もバラエティに富んでいる。

あやまちのすべてを鳥のせいにして皆殺しにする飼育係は
安全な家庭環境とその周辺にふたりでそだてているアコヤ貝

 巻頭歌と巻末歌だ。ここにも鳥と貝が棲んでいる。責任が鳥にあるならば虐殺をしても罪はないという恐ろしい歌で始まったかと思えば、最後は体内に真珠を作り上げるアコヤ貝を育成するという、内に希望を感じさせる歌で終わる。
 一筋縄ではいかないのは、この二首の生物が人によって存在を左右されているように、出てくる生きものの多くは人間の勝手な都合に振り回されている。

合併で飼育がかりは生臭いカピバラの親子置きざりにする

 飼育係はいつも残酷だ。ヌートリアのように生き残ってくれるといいが。軽い歌いぶりだが、明るさの裏には、助けが必要な家庭でも守ってくれない脆弱な社会保障や、悲惨なネグレクトなどの社会批評がある。
 動物だけかと思ったら人間だって振り回される。

「人間だから」ケアレスミスを積み重ね生産ラインから外される

 ミスをすることが人間らしさだとすると、より人間らしい人間はシステム化された社会では必要とされない。残念ながらそのうちあやまちのすべてを自身のせいにされて人事係にクビを切られるのだろう。そういえば現代社会も個々の人間らしさを嫌って、異論を排除しながら集団化していっているような…。


日常の特別性

進藤多紀歌集
『晩夏』
書評 佐佐木 定綱


 

 なんというか、静かで穏やかな出だしだったので、油断していた。例えばこんな歌だ。

牧導犬コーギー足に慕い寄るわれを見上げる瞳の濡れて

 人なつこいコーギーとのふれあい。犬好きにはたまらない。こういうのんびりした歌が続くのかなと思っていた。

四囲紅蓮(ぐれん)の空爆の炎ふるえつつ見たり焼けて崩れるわが家

 と思っていたら空爆である。それも海外のニュースなどではなく、燃えているのはわが家。いきなりの炎に衝撃を受けつつも読み進めると、また柔らかな日常がある。

つなぎ着た少女てきぱき掃除するビルの人誰も気付かず一人

 ビルの人間にとって掃除はされてて当たり前なので、少女に気づきもしない。進藤はその両者を見ている。

一面のネオンの様な空の赤、火弾は無数に低空機より

 たまたま激しい歌があったのかなと思ってまた油断していると、再びの爆撃。ネオンという歓楽街の象徴と戦争という対比がより悲劇性を高めている。
 歌集の構成は日常と戦争が交互に歌われているのだ。それもスローガン的に戦争はひどかったというようなものではなく、目の前で起きた、ついこの間の出来事のように歌われる。
 日常詠が穏やかである分、頭を殴られたような衝撃があった。さっきまで走り回っていたコーギーや清掃の少女が、爆撃で燃える街と二重写しになる。清掃されたビルが崩れる。

命あるがまことに不思議一夜明けて身一つがここ焼土にいたり

 自分がいま暮らしている場所も焼土だったのかと思うと、平穏な日常の特別性を思い知らされる。普通が普通としてあるのは一人ひとりの不断の努力によるものである。背筋を伸ばした。


喪失と継承

西川国子歌集
『未草』
書評 佐佐木 定綱


 

 生きていくということは、多くのものを失っていくことなんだと、思い知らされる。繰り返し歌われるのはなにかの喪失だ。

棒状の粘土の天辺に窪み二つ〈目が欲しい〉と題する盲児の作品
道の辺に転がる蝉のなきがらを娘は草の上に移しぬ

 喪失に相対したとき、人はどうするのか。盲児は感覚を頼りに粘土で欲求を表現した。娘は蝉が踏み潰されるというさらなる喪失の連鎖が起きないように草の上に置いてやった。
 では、西川はどうするのか。

「うんうん」と相槌うちて坐したまいし師の面影のまたも顕ちくる
骨の上に皮膚かぶされる背の感触をわが掌に残し君は逝きたり
穏やかな一世ならざりしと思う師の出棺まぎわを轟く雷

 後半では挽歌が歌われる。大量に。恩師や友人、忘れられぬ思い出を歌い、死の間際を歌い、出棺の現場も克明に歌い上げる。西川は喪失による心の欠落、ぽっかりと空いてしまった暗闇から逃げることも目をそらすことをせず、優しくも毅然とした態度で対峙している。死という隣人を目の当たりにして恐怖に口を塞がれそうになっても、歌うことをやめないのだ。これは並の覚悟ではない。相手を心から思っているからこそなのだろう。挽歌の本質を垣間見た思いがする。
 失っていくものの多い生活の中で、それだけではないと教えてくれるのはタイトルにもなっている「未草」である。白く美しい花を咲かせるスイレン科の植物だ。

未草ひとつまたひとつ継ぎて咲く植えて十年初めてのこと

 喪失に対してできることは、継いでいくということだろう。歌集の中で、未草の花が白い希望の光りを灯している。


「何でもないこと」の
かずかずから


柳田主於美歌集
『三六一の路』
書評 栗原 寛


 

 退職後の趣味に、と短歌を始めたという作者。碁、登山、合唱、と多趣味にしてとにかく好奇心旺盛、作者ならではの視点が光る。「塔」に掲載された作品を制作順に収めているとあるが、その時どきの思い、人間関係、とりわけ妻の死に関わることなど、「編年体」であることが重要な意味を持っている。

六十五過ぎて決まりし職場には下り電車に乗りて向かひぬ

 巻頭の歌。ただ事実を淡々と述べているように見えて、ラッシュアワーでも空いている「下り電車」の雰囲気と人生との響き合いさえ感じさせる。そこはかとなく漂う深い意味。この作者にはそのような作品が多く、「何でもないこと」でも作品として読ませてしまう力をひしひしと感じる。

「あの人はいい加減なの」誕生日違へしわれを娘(こ)に告ぐる妻
山道に霧漂へば小半時ふたりは離れ離れに置かる
正月の客の手を借り断酒解く誓ひは破らるるものととぼけて

 今は亡き妻との時間が留められた作品は、貴重な記録。短歌だからこそ留められた時間と言えるだろう。衒いのない姿が見えてくるのもいい。

ネット碁のわれのネームは冬子なり挑み来たるは室蘭の亀
木枯らしの吹きし朝よりあさがほの莟残して咲かずなりたり
新盆に迎へて旧盆に送りたり妻と過ごししひと月余り

 謎のハンドルネーム、季節の移り変わりの中の朝顔の表情、新盆と旧盆のタイムラグ。読んでいると思わずクスリとしたり、しみじみしたり、読者の感情もいろいろ引き出される。
 作者の手にかかると、日常にある「何でもないこと」から、俳味とでも言うべきものが立ち上がってくるから不思議だ。


「心のアルバム」
としての短歌


北村信子歌集
『山の赤松』
書評 栗原 寛


 

 かつて「形成」に在籍していたという作者。木俣修は「短歌は心のアルバム」といみじくも言ったが、この歌集は悲喜こもごもの時間が短歌によって一冊となった、まさにかけがえのない「アルバム」である。リウマチの診断を受け、「鉛筆が持てる間に短歌をまとめておきたい」(あとがき)という切実な動機から編まれた第一歌集。収められた作品の多くは、出来事を丁寧に描写しつつ、その奥に深い思いがこめられる。

夕闇に山茶花白く点りをり母への絵手紙紅く描きたり
蝋梅の散りたるあとの無骨なる枝あらはれて風の冷えゆく

 山茶花の色についての「小さな嘘」は、すなわち「詩的真実」を求める心だろう。本当は白だとしても、伝えたい思いは紅いのだ。そして、蝋梅の豊潤な香りの時間を過ぎたあとに残る、意外なものへのまなざしが鋭い。

おひとよし度を越せば馬鹿と友の言ふ「馬鹿でいいんだ」このままでゆく
素直なる心にならむと誓ひたてされどこれは嫌ひこれは嫌

 やや粗削りとも思える表現だが、誓いを立てるまでもなく、自らの心に素直な作者なのだとまっすぐに伝わってくる。「されどこれは嫌ひこれは嫌」という下の句の表現、句またがりを駆使して十四音で一気に読ませる口語的な発想が楽しい。

ノートルダム聖堂高きバラ窓の青きグラスの透きて輝く
ぶくぶくと硫化水素と泥を噴くわが足元は活火山なり

 旅先での歌は、短歌だからこそ残せた実感がある。ノートルダム大聖堂があのような災難に遭おうとは思いもよらなかっただろうが、作者の目で見たものが、写真などよりもさらに心に添う形でここに残っている。

水撒けば紋白蝶の水に寄る大地も光も水を吸ひをり

 何気ないひとこまが、とても麗しいと思わせてくれる歌集。


妙味と潔さ

吉村久子歌集
『山芋の蔓』
書評 栗原 寛


 

どのやうに詠みつぎゆかむ生垣の山芋の蔓宙をさまよふ

 という巻末の歌より、この歌集のタイトルは採られている。山芋の蔓の生命力に満ち満ちたさまを思わせて、作品も自由に伸びてゆく。花山周子による装幀はまた、山芋そのものを思わせる色遣い・質感で、ひそかに育まれつつあるものが表されているようにも思う。ぜひ手に取って見てほしい。
 収められた歌を読んでいくと、「短歌の妙味を知っている人」という印象を受ける。例えばこんな歌。

岸近き浅瀬にあそぶ青首の首まはすとき青まかがやく
ふんはりと莟をほどく庭さきの白木蓮はや傷つきながら

 気づきが根源的なものにつながる瞬間。「青首」と呼びならわされる理由や、傷つきながら花を咲かせるということの意味を思わずにはいられない。
語感よけれど「らうらう」「びやうびやう」「にんにん」がわれら世代の介護のかたち
 これなどは、旧仮名遣いであることによって面白みが増すことをわかってやっているだろう。さらに作者は、大胆とも言える擬音語、擬態語の使い手でもある。

若き日のミルクと共に歩きしよ らつとららつとら五、六千歩を
咳は出ない熱も出ないぞばきゆばきゆと冬至にカボチャを喰べてゐるザウ

 「らつとららつとら」「ばきゆばきゆと」など、一句をまるまる使う潔さ。清々しいまでに言いかえの利かない表現だと思う。
 現実の景色を歌に落とし込むことの巧みさが、妙味となる。

大空に地図をひろげる夏の雲そこここに深き湖を見せ
「離脱・残留」にわが結婚を重ねをり留まりたるはまあよかつたか


作品の世界へ暫し埋没

本間温子歌集
『書架をへだてて』
書評 古玉 從子


 

 「あとがき」に、本歌集の題名の由来を示されているので、冒頭において紹介したい。うた詠み(・・・・)は誰も独自の世界に浸る故。
 ――歌集名の『書架をへだてて』は「本を選る父に抱かれしみどり児と笑みかわしおり書架をへだてて」からとりました。……岡山から鳥取県中部のこの町に移住し、余所者ばかり集まっている大学の官舎に長く住んでいた私にとって、二十五年間勤めた町の図書館は社会への窓でもありました。……移動図書館車で巡回した集落の人たち。……交流を通じて多くのことを学び、温かい人柄や風土に触れることができました。――
 「文は人なり」という箴言を脳裡に浮かべつつ「あとがき」を読み進めて行く、うちに「歌は人なり」の思いを、いよいよ深くした。まことに共感度の高い歌集である。
 では、頁を繰り作品の世界へ。筆者は其処に、暫しの埋没を求めて、歩を進める。
 埋没の出来る短歌、埋没を許してもらえる作品への邂逅は、ささやかな末端の座に歌を詠む身にとって、この上もない喜びであることは言うまでもない。

    自宅で看取る
かたわらに本読む父は読みながらいつも見ているベッドの母を
難病にかかり二十年死にたいと言いて九年 母は死にたり
叱られし記憶なけれどあの時の母の涙はわがことならむ
    JICAのしごとで北京に単身赴任の夫
あの星のあたりできっとすれ違う北京の夫とわたしのメール
幼子に雪を教えむ小さき手に降っては解けてまた降る白を
灯の点る家に帰るは嬉しきや職を退きたる夫の待ちいて
残照にあかるむ寒の川こえて徳林寺の鐘ひびきてきたり


終止符の無い時の流れ

東淳子歌集
『とはに戦後』
書評 古玉 從子


 

 『とはに戦後』は、著者の第八歌集である。
 “終止符の無い時の流れ”という副題というかテーマを提示させていただいた。的の外れていないことを願い乍ら。
 本書の格調が高く、美麗この上もない装幀は、一目瞭然、抜群と言うしかない。本棚に並べた時、人は先ず手に取るだろう。
 薄紫のシルク調のクロス表紙に、金色の背文字。虫眼鏡で見たくなる小さな小さな印字は、出版社の「青磁社」の三文字。
 その床しさに思わず、装幀者の氏名を確認した。
 装幀者は加藤恒彦氏。装幀も短歌もその裏打ちは作者の英知。
 常の慣いに「あとがき」を先ず読む。
 すると、何と著者・東淳子氏は筆者と同年のお生れ。と言うことは、第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後を生きた世代である。歌集名「とはに戦後」の五文字が、じんと胸に来る。
 戦前の贅沢・戦中の難渋・戦後の混迷と、筆者の世代、殊に同年ゆえゼイタク・ナンジュウ・コンメイの時代を共有し、只今、「令和」へと。無事とまでは言い難くとも、生命(いのち)を永らえ、短歌に親しみ、歌集を編み、殊に、東氏は第八歌集のご出版である。「おめでとうございます」と改めて申し上げたい。
 紙数の許す限り深く共感する作品を列記させていただく。
 東淳子氏の父君と、僭越ながら、軍医として召集され、北支の野戦病院に散った従兄の無念をあわせて偲びつつ。

戦中の飢ゑをしる子らそのままに国家の後期老人となる
白昼の夢幻の闇を打ちてゐるわがふるさとのとほき海鳴り
戦ひのいつさいあらぬ未来図を描かばそこに人間居らず
「失笑」の文字に赤線引きてある辞書のページが偶然ひらく
かなしみとせしものの影うすれつつ命終は来むわれの背後に
いついかに死するともよき身の自由ひとり生きゆく武器にもつなり


清冽な老いの意識への共感

若山浩歌集
『水脈』
書評 古玉 從子


 

 「あとがき」の数行が、私の目を潤ませた。言うまでも無い“老いの意識への共感”の為せるところか。
 では、「老いの意識」の表出した作品を、頁順に掬い上げてみよう。
 但し、次の四点を、しっかりと心底に据えて置かねばならない、と考えるのであるが。その四点とは作歌上の背景である。

その一、作歌の動機は七十二歳の退職間際の大病。
その二、短歌誌「塔」(吉川宏志主宰)及び、永田和宏、河野裕子夫妻の歌集の耽読による啓発。
その三、家族の存在。
何ものにも換えがたい妻と阪神大震災で落命の娘への愛惜。作者の時計は、そこで止っているかの様に見えながら、見事に作品に昇華。
その四、「NHK短歌」への応募。そして、入選・佳作。

 では、余白の許す限り、作品を『水脈』より抄出転記する。

  〈星の庭〉
摺り足の靴音聞きて五十年違(たが)ふことなくあれは妻なり
古きもの捨てよと言はれ生き来しに蛇の脱皮のごとくゆかずも
南瓜蒔き着花の数を当て合ひぬ妻の予想はいつも多めに
  〈三十歳で逝く〉――阪神淡路大震災――
娘(こ)の声は歌ふごとくに明るかり ゆくりなく受く前夜の電話
アイリスをたつぷり位牌に供へたり約(つま)しきままに娘(こ)は逝きたれば
老いくればかすむ瞼を閉ぢしまま遥かかなたの音を聞くなり
            ――涙の滲む目に稿を閉じる――


〈おもいこみ〉について

中埜由季子歌集
『ユリカモメの来る町』
書評 三上 春海


 

 短歌という詩型は歌人の〈おもいこみの力〉によって支えられている。

草かげに白き羽根閉づる蝶に遇ふ孤高に死ゆく姿とおもふ
手のひらに小(ち)さき桜の花びらの命いだくは浄土を抱く

 〈おもいこみの力〉をもって眺めたとき、眼前の蝶には〈孤高に死ゆく姿〉が見出された。命に従ってただ飛んでいるだけの蝶に孤高を見出すのは歌人の〈おもいこみ〉である。〈おもいこみの力〉はまた、手のひらの上の花びらの向こうに浄土という別世界を見ようとする。眼前の景色に別の情景が重ねられ、歌には独自の風景が拓かれてゆく。

子ら暮らす関東に大雪降るといふニユースに寒し吾は親なれば
東北産の米野菜若布など購(あがな)はん眼(まなこ)凝らして探しゐたりき

 本歌集において著者の〈おもいこみの力〉はさまざまなニュースに敏感に反応する。特に被災地への想いを歌った歌が多いが、〈おもいこみ〉の働いた結果が商店での消費行動というのは先の自然詠と比較して興味深い。歌われる風景は別物のようでいて、根底には同一の〈おもいこみの力〉がある。

しろじろと盛りあがり咲く花びらのあひだあひだの朝ぞらの青
東北より遠く来たりて病む鷺かこの岸のべにこころを癒せ
蒼穹の光ひきよせとび発ちしかのユリカモメいづこを翔ぶや

 歌集には〈空〉そして〈鳥〉を歌った歌も多い。〈おもいこみ〉にふけるとき、わたしたちは心を落ち着けようとときになにもない〈空〉を見上げ、ときに空をゆく〈鳥〉を発見する。ここに描かれる風景も、著者の〈おもいこみの力〉が導いたもののようにおもう。


〈社会〉について

瀧沢宏子歌集
『風の人』
書評 三上 春海


 

 著者の短歌と別に「夫の趣味の写真作品」も収録されているちょっと変わったつくりの本である。旅行詠に添えるかたちでさまざまな風景写真がありその相乗効果も気になるのだが、写真を撮った〈夫〉の存在感の透明さにいまは注目したい。

三十五年仕事を中心に置ききたる夫は背広の行章(バッジ)を外す
ケータイは体震わせ知らせ来る「夕飯不要」と午後の七時に
湖(うみ)向きてシャッターチャンス待つ夫は入日に浮かぶシルエットになる

 本歌集で「企業戦士」と表現され歌われる夫は、旅行や日常を歌った歌にはほとんど〈シルエット〉しか現れない。私空間における夫の存在感のなさはなんだろう。

嫁ぎ来て五十年を数えるも旧姓の響きに安堵覚える
朝ごとのゴーヤジュースのほろ苦さ子なきゆえの負い目として飲む

 歌集にはこのような歌もある。おそらくは著者もつよくは意図しないところで、本歌集には、現行の結婚制度に対する問題意識が発見されてくることに気づく。歌という個人的な営為はそのままで社会的なことにもつながっている。

二千円札後生大事に取り置ける発行されたる新しきまま
端的に要点のみを話せぬか電光ニュースの表現のごと

 歌集ではこのような歌もおもしろかった。使わずにとっておいた〈二千円札〉、〈電光ニュース〉という隙間をつくような喩え。ごく個人的でありながらたしかに「あるある」とおもうこれらの小さなモチーフは、その共感性によってわたしたちの共同体の記憶と響きあう。個人的なことが社会的・共同的なものにつながってゆくとき、歌は固有の輝きを放ちはじめる。


〈真実〉について

村上和子歌集
『しろがね』
書評 三上 春海


 

セーヌ川の源訪はむと走りたりき子犬のやうに跳ねるPEUGEOT(プジョー)で
定刻の正午となれば発車せりクモハ701‐1030
中島飛行機武蔵製作所にて祖父(おほちち)は父はいかなる戦を生きし
復員せる一頭なしと聞きしより軍馬の行方思はれてならぬ

 電車や自家用車から戦闘機や軍馬まで、さまざまな乗り物が歌にされている。平和な日常生活を支える現在の乗り物を歌った歌には親しみや喜びのおもいをつよく感じる。一方で著者は戦争をめぐる乗り物の負の側面にも目を向ける。祖父・父の影響もあったのだろうか。戦争と平和という相反するふたつの側面が、乗り物を見つめること、という一点を焦点として結ばれる。そこには〈いかなる戦を生きし〉〈行方〉にみられるように、〈真実〉が知りたい、という意志もあるようだ。

水色の歩道橋ありこの街の出口のやうに昇りゆく人
楽隊に手を振るこどもいつの世も進みゆくものに手を振るわれら

 歌集には比喩や見立てを活かした抒情的な歌も多い。ここに書かれた〈この街の出口〉〈進みゆくもの〉への意志は、先の乗り物に対するおもいに近い出自を持つようにおもう。乗り物は遠くへゆくためのものだが、短歌は乗り物とは違うかたちで読者に〈出口〉を提示し、わたしたちを遠くへ連れてゆく。

単三の電池一本取り換ふるのみにて時間が前へと進む
パン屋にて迷はず選ぶグローブ型クリームパンに左手多し

 短歌における〈出口〉とは世界の〈真実〉とも言い換えられる。〈時間〉や〈パン屋〉の秘密を歌によって解き明かすこと。このとき歌人の営為は、さまざまな乗り物を発明してきた技術者の営為に限りなく近づいてゆく。歌という乗り物によって真実に迫ろうとする著者の営為を想像した。


子離れに成功した
女性の人生賛歌


樺澤ミワ歌集
『くうとくん』
書評 小島 一記


 

あきらめずまた歩きだす母の誇りわが先のさきの標(しるべ)とならん
新しき姓にて孫の出す花便り 老母(はは)はいくたび読み返すだろう
子の嫁ぎ犬のおとうさん、おかあさんになっておりたり私たち二人
家に待つ立場の変わりときどきは夫が中よりドアを開けくれる
助手席に柿置きたればシートベルト着用せよと点滅しおり
一瞬を獣が匂う ガス台の炎とセーター触れたるらしき
焚かれざる備長炭は家内の隅々に置かる床下にもあり
女装する花森安治にたまさかに出会うも避けしわれの若くて

 「あとがき」に「子離れを意識し、その支えとして自分に合いそうな短歌を選んだ」とある通り、子育てを終えた女性の安堵と寂しさの境涯を丁寧に歌う。大病をしても自立した生活を諦めず立ち上がる老母への憧れと誇りがあればこそ、老いに対して前向きになることができる。花便りを読み返す老母の娘への慎ましい態度は、程よい距離感の一つの形として描かれる。「犬のおとうさん、おかあさん」となり、夫の退職したことによる些細な変化を楽しみ、暮らしの繊細な部分を大切にする。柿の袋に反応する車の安全システムの滑稽さや獣の臭いをさせて焦げるセーターへの驚き、消臭用の備長炭の存在感、女装した花森を避けていた若き日の思い出。生活の場面を細やかな描写によって写し取り、家族や日常の出来事の心さざめくかけがえのない生活の一瞬を切り取っている。

ためらいつつ娘が呼ぶごとくう(・・)ちゃんと婿の名呼べばくうちゃんになる
くう(・・)が切り抜いたうす焼き卵の三匹の鯉はくん(・・)の五目寿司の上

 不思議なタイトルは娘婿と孫の呼び名である。娘が連れて来た大切な新しい家族の名は、子離れに成功した女性の人生賛歌である本歌集にぴったりのタイトルである。


歳月から浮かび
あがるもの


小川玲歌集
『歳月へ』
書評 小島 一記


 

二年余を経て新聞の片隅に小さく載りぬ震災死者二名
                    二〇一四年
山育ちの我があこがれのさ青(お)の海ただに乞い祈(の)むまほろばなれと

 被災地と直接縁を持たない作者が震災詠を巻頭にすえた理由を「あとがき」に「私自身も体験者だと思っている」と記す。直接の当事者でなくとも、歳月をかけて長く関心を寄せて来たからこそ見えることがある。二年余を経て二人の行方不明者から死者へと変わったという新聞記事への注視は、この二人を取り巻く人々の二年という歳月に思いを巡らせる。壮大な自然に思わず手を合わせるように「まほろばなれ」という祈りは発せられている。

国道に落ちいし仔猫のような襤褸(ぼろ)位置は変れど今日もまだある
こんなにも瑞瑞しい我なのか鼻よりしたたる液にかまけて
笹の葉はさやさや揺れず病廊にくずおるる迄短冊下げて
爪研ぎし跡が柱に残りいて詩歌の非在が日常を刺す
スツールの縁なき円に収まりて眠れる猫は尾を身に添わす
内村の体操見つつつき上ぐる浮遊感に椅子つかみたり

 日常の瑣事の積み重ねが歳月であり、ほとんどの物事は放っておけば歳月のなかへと消えてゆく。そんな消えていった物事を歌は形をもって再現してくれる。国道に落ちていた襤褸を作者は幾日も見続け、見る度に仔猫の死骸ではないかと胸を痛めたのだろう。ああ違うただの襤褸だという安堵とを繰り返しながら、「仔猫のような襤褸」となって心に引っかかった。こうして瑣事は作者自身の身体や家族、愛猫の「詩歌」「ポエム」といったかけがえのないものとともに、歳月の中から浮かびあがってくる。テレビで見ている体操競技に思わず椅子を掴んだ一瞬の臨場感。まさに歳月から浮かび上がる瞬間である。


文学への愛着と熱意

藤原勇次歌集
『草色の手帳』
書評 小島 一記


 

ありふれた暮らしを営む難しさ我にもありて生徒にもある
合宿の計画つたへる教室に賃金カットをされる子がゐる
リストラをつげられうるむ子の目には職員室の夕光(ゆうかげ)やどる
古典なぞ役にたたぬと吐きすてるこの若者の夜学の意義よ
爆弾を腹にくくられ走りゆく犬のありけりバグダッド市場
帰還には口頭試問のありたれば父は共産主義(マルキシズム)を暗記す
俘虜なれば自決をせよと軍國の祖父は言ひけり復員の父に
わが父にレッドパージとふ圧力のかかる日があり職を追はれき
戦場をシベリヤを生き亀嵩に死にたることの幸せに父は
あるときに家計簿としてえらばれき草色表紙の父の手帳は

 時代や社会の大きな流れに翻弄されざるを得ない人々の暮らしを地に足のついたヒューマニズムでどっしりと歌う。職場である定時制高校の生徒たちの現代の生きづらさをおざなりにせず、一人ひとりに対して優しい眼差しで見つめる。合宿に参加して仕事を休むことで賃金が減る非正規雇用の生徒や若く未熟なためにリストラをされてしまったことを伝えに職員室にやってくる生徒にかける言葉はない。「古典なぞ役にたたぬ」と言ってしまえばそれまでである。ただ、戦中戦後の父親たちの苦難あるいはイスラム過激派のテロに脅かされるバグダッド市民と相対化すれば、「ありふれた暮らしを営む難しさ」に過ぎない。そうやって励ますことで、現代の若者を暮らしの中へ踏みとどまらせる。夜学の意義は暮らしを営む難しさを知り、平和の大切さを知ることにあるのだろう。

橋あゆむ永田和宏の歌よめば日向から蔭に入りゆくやうだ
二十歳の貧がわれらを結びたる東京はよし君をかこみて
いささかの緊張もちて憲吉を群読させたり群読ずれる

 本歌集には文学への愛着と熱意が漲っている。歌人への観察や二十代からの文学仲間との絆、中村憲吉への強い思い。これもまた、「古典なぞ…」への一つの答えである。


わたしはわたし

野上洋子歌集
『さうか、さうか』
書評 大西 久美子
 

 二〇〇八年から二〇一七年までの歌を収める第二歌集である。

幾重もの雲の切れ間に人差し指差し込めるほどの青空がある
運命を変へられぬまま獣園に老いたる象が爪切られをる
炎天下に掘り出されたる排水管黒き結露を滴らせをり
数百の白鳥が頭上をわたりゆく夕日に翳る胸を連ねて

 観察の眼が掴むユニークな発見にはっとする。事実を丁寧に詠うことで、著者の心情が立ちあがる奥行きのあるスケッチだ。

かつてわれに母がかうしてくれしことバンザイさせてセーター脱がす
水色の空の薄月昼も夜も眠れる母の目蓋のやうで
目を瞑り噛む噛む噛む噛む飯を噛む要介護度五に母はなりたり
垂乳根の母を叱りきほうほうと絮毛のやうになりゆく母を

 著者が介護する母の歌には、慈しみ育ててくれた思い出とク
ロスオーバーする温もりが滲む。一方、介護する自身の歌には
強い後悔、やるせなさが痛いほど率直に出る。

火葬場よりもどるわたしの膝の上ほこほこ温し母の骨箱

 母を見送った後、老いは秋が始まるように著者を訪れた。

両腕に枯れ葉色の染み二つ三つわたしのからだにも秋がはじまる

 歌集のカバーを「あこがれの象徴のような」金魚が泳ぐ。

おはやうと母が金魚に声かけて日本全国お天気マーク

 最初、水鉢に飼われていた金魚は「おはやう」と声をかける母に応えるようにこの歌の頁に出現し、カバーの裏では自由に何処かへ泳いでゆく。その姿は今後の著者の歌、心と重なる。

どことなくムンクの叫びに似るピーマン無理はするまいわたしはわたし


家族の歌から
見えてくるもの


西川啓子歌集
『ガラス越しの海』
書評 大西 久美子


 

 「あとがき」に「河野裕子さんの歌と出合って」「家族の歌を残したいと思うようになりました」と明かす著者の二〇〇三年から二〇一七年までの作品を収録する第一歌集である。

自死をせし歌手に惹かれる危うさを持ちて下の子家を離れる
駅前に巨大タービン置かれあり工業都市の結界に入る
いくたびもチェルノブイリを言いしかど核エネルギーに魅せられて子は
福島の波動をデータにしていると余震の止まぬ工場より言う

 「自死をせし歌手」岡田有希子に惹かれる息子は量子力学を専攻し核エネルギーに関わる仕事を希望した。東日本大震災前から続く拭い切れぬ不安を著者は子の仕事の現実と重ねて詠う。

わかるふりをせぬ人なりきキンポウゲのような眼をして首傾げたり
「姑という字はいややねえ」遥か遠く見るようにして裕子さん言いき

 心に生きる河野裕子氏。「キンポウゲのような眼」が可愛らしい。「姑」のエピソードは面白い。なるほど、この字は「古い女」と書く。本音だったろう。肉声が聞こえるようだ。

土偶の目のごとき膨らみまだ持ちて胎脂つけたる子が眠りいる
二百年朽ちずにありし屋久杉の倒木の上に育ちゆく杉
絵のようにガラス越しの海見ていたり築港と今も父の呼ぶ海

 「ガラス越しの海」のガラスは家族ひとりひとりの象徴ではないだろうか。海は命の源。著者は家族を通して命――命には歴史がある――を見つめている。


レジューム 
―歌を、再び―


西村美智子歌集
『邂逅(わくらば)や』
書評 大西 久美子


 

窓拭けば空の青さもきわまりぬ六十九年前台北一高女
出崎哲朗「塔」にその名をみつけたり我を短歌に誘いし恩師

 歌誌「ぎしぎし」を昭和二十一年に仲間と創刊した夭折の歌人・出崎哲朗は、翌年、京都府立第一女学校「たちばな短歌会」の顧問となった。台北から引き揚げ、この女学校に編入した著者は出崎に導かれて「ぎしぎし会」「アララギ」に入会する。

ビッグマウスの少女でありて嫌われぬ「ぎしぎし歌会」蒸し暑き夏

 生き生きと激論を交わす十代の著者が浮かぶ。しかし、出崎の死を以て「ぎしぎし」は解散。その後、著者は短歌から離れ、約六十年ぶりに百一歳で他界された母の挽歌をきっかけに復活されたが、心の底にはいつも恩師・出崎哲朗と「ぎしぎし」への熱い思いが流れていた。作歌の火は消えてはいなかったのだ。

数えきれぬ春過ぎたれど出崎先生と浴びしさくらを我は忘れず

 歌集のタイトル『邂逅や』はルビ「わくらば」の音から「病葉」がふっと過ぎる。

「しんどい」と繰り返す母に「くどいえ」と応(いら)えしわれは鬼でありしか
「このカス」と吾(あ)を罵れど妹に優しく母に甘かりき 父

 家族を詠む歌は、切り取られた生(なま)の言葉が臨場感を炙り出す。 一方、非現実へ踏み出す幻想性を著者は持ち合せている。

夕川に風が浮かべし花筏吾(あ)を載せて往け春の湊へ

戦争は繰返し詠う。平和への強い気持ちを込められたのだ。

貨物船の底に難民われら臥し吐く者ありき死ぬ者ありき
くにやぶれ戻りし京のさくら浴び「ようおかえり」と祖母に抱かれぬ


大き手のひら

田中とし子歌集
『風に押されて』
書評 大谷 真紀子


 

 日常の生活が人間的な暖かさをもって詠まれた作品は、読み手に直線で届き、共感を誘う。家族を詠む際、視線は温かいが客観性に欠けたり、情に流され過ぎた表現はない。簡単なことではない。あとがきに傘寿を控えていることが明かされている。聡明な老齢の作者の像がたってくる。

梅花藻のたゆたふ清水のねがひ橋何も願はず渡りゆきたり
冷蔵庫をごとんと揺らせ音のせり水が固体となりたる時に
歯科医院のシート倒され壁の絵の綿雲ふあーんとわが顔にくる
飛びたいね飛んでみたいと木蓮の呟きゐる間に開きてしまへり
若いねと言ひくれし友に零したる米粒ひとつ拾つて貰ふ

 ユーモアをたっぷり利かせながら人生の妙味がけれん味なく詠まれていて読者を飽きさせない。

諍ひて互ひに黙すも小半日雨に籠れるふたりの家居
五十年夫婦のたつきに辛苦なき筈はなけれどみんな忘れた
わが歌に関心のなき夫と住みひめごと歌も食卓に置く
門にまく夫の大声「鬼は外」鬼は存外われかも知れず
ほどほどに力抜くのがよろしおす歯磨き墨磨り人とのかかはり

 作者の楽天性が暮らしの芯を支えているようだ。

口出しも助言もあらぬ夫にして大き手の上われを遊ばす
折れさうな心に副木当てくれし大き手のひら温き手のひら

 ご主人様もまた、作者以上に聡明な男性であることが覗える。
 いついつまでも、お二人お元気で、お幸せにとエールを送りたい気持ちにさせる一首をもって集は終わる。

ひと房の洗ひ水弾く碧ぶだう分け合ふ夕べふたりいつまで


詩人の目

伊東文歌集
『逆光の鳥』
書評 大谷 真紀子


 

囀りのふりくる空の高みには羽搏きつづける逆光の鳥

 歌集のタイトルともなった一首、作者はこの光景に出会った際の感動を、「鳶のゆうゆうとした旋回とも、鵯のうねるような飛び方とも違う、全身で忙しなく羽搏いている姿」と、雲雀を、親愛の情を込めて記しておられる。

左胸の乳房なければ右側へ傾く身体 きくきく歩く
リンパ節に転移はなしと知らされて一番に夫へ電話をかける
肺葉に小さき葡萄の房ひかり一呼吸ありて悪性と言はる
登りゐる坂の途中で息切らすこんなところに紫苑が咲けり

 がんばり屋さんにさらに病が告げられる。しかし、作者は、逆光の鳥や紫苑に歩をとめる詩人の感性をお持ちだ。

手をつなぎ産院までを歩きくれし姑のてのひら柔らかなりき
「遠くからよう来られた」と母にいふ姑(しうとめ)けふは頑張つてゐる
上がり框に乳ふくませる胸白しああいい風ねと母は言ひにき
器量自慢の母が選びし写真なり十年前の面ふつくらと

 姑さん、お母さまの作品を二首ずつ。思わず涙ぐんでしまうほどの隔てのない深い愛情が伝わってくる。

各国の大使が入場するたびに止められてをり車椅子の人も
認定の二文字重し。認定されぬ被爆者の席どこにもあらず
母逝きて母の被爆のあれこれが零れはじめる吾の記憶から

 私にとっても懐かしい、「平和都市広島」。このような作品に出会うと、この町を身近なところから、詠み続けることは歴史的にも意義が深いと、つよく実感する。


不意の桜

北野幸子歌集
『弓なりの海』
書評 大谷 真紀子


 

ほのあかき桜並木をくぐりぬけ人はやさしく濾過されてゆく

 北野幸子さんの歌集『弓なりの海』はこの一首をもってはじまる。「くぐりぬけ」「濾過されてゆく」、動詞の斡旋が適切であり、作為を感じさせず、自然に胸に入ってくる。周到なひらがなと漢字の布置のバランス、「ほのあかき」「やさしく」などの形容詞もうまく機能している。ながい歌歴の修練の賜物であろう。作者の思いが結句にきっちりと収斂されている。

アイロンのすべるあとより立ちあがる梔子(くちなし)色のブラウスの花
日常を変へる魔法の杖を振るみそひともじのけむりにまいて
誰のものにもあらぬわたしを組み立てる千本格子の衝立の内
色変へてかたちを変へて大蛸はするりと矩形の箱に収まる
たつぷりと修正液に塗りつぶす借りものめける詩語のひとつを

 あらわに作歌のことを言ってはいけない作品にも短歌への愛惜が伝わってくるようだ。一筋縄ではない構えが覗く。

傾けば傾くままに山ぼふしここに定位置占めてながらふ
伊吹山のぼり下りの霧のなか明日の明暗みえざるも良し
どの道を辿りてもここに着くやうな縁側の隅の一脚の椅子

 丹後の宮津は雪深い土地、外界と閉ざされることもあろう。
 最後に、集中もっとも心惹かれた一首を記しておきたい。

かうすればかうなるといふ筈もなし不意の桜に迷ふも良けれ

 不意の桜に逢う。北野さんは怯まない。「迷ふも良けれ」は、圧倒的な自恃の謂のように思えてくる。


わたしと宇宙

曽根崇句集
『金毘羅』
書評 黒岩 徳将
 

 『金毘羅』曽根崇は、帯の句「波音や宇宙さまよふ大朝寝」のようなこの地球という大いなる空間にただようような存在としての自己を俳句形式にのせていくスタイルの句集である。齢二十九の筆者にとって「すかんぽを噛みつつ昔話せん」「全員で連凧を揚げ卒業す」といった生活文化の違いには、驚くほかない。梅を干すことに関する連作に、ストレートな生き方を感じて読み応えがあった。中でも「干梅の皺たしかめて寝るとせん」は、梅を干すことを生き甲斐とした主体が「皺」という細かな箇所(梅を干す人にとっては普通のことかもしれないのだが)を気にして安堵感で眠るということに、主体らしさが出ている。あえて評で「主体」と書いているのは『金毘羅』の作者である曽根氏が、かなり高い確率で作中主体=曽根氏自身として句を詠んでいることが推察され、これほど自己を俳句作品に投影して発表することは筆者には難しい。集中には自己肯定だけでなく「晩成も大器ならざる南瓜かな」「今朝名前もらひて眠る子猫かな」といった句もある。特に、子猫の句については、名を付けるということが人間オリジナルの(ある種勝手とも言える)行為ではないかと思い、人間と猫が対照的に表現されている。
 対象を凝視した句としては、「破芭蕉いつもどこかが動きをり」の「いつもどこかが」がとらえどころのあるようでないような破芭蕉の特徴をとらえて、言えそうで言えない面白みがある。
 その一方で、「もうひとつ山越すつもり更衣」は、写生というよりかは主観や心境がふと出た句といえるのではないか。「つもり」と「衣更」が明るい。「いづこより螢を胸に妻戻る」は、現実の風景というよりも、精霊的な美しさを携えた妻の様子が思い浮かべられる。「何を書くか」よりも、「どう生きていくか」という個の生き様自体がテーマとされた句集である。


溶け合う移ろい

葛西美津子句集
『そして秋』
書評 黒岩 徳将


 

 葛西美津子『そして秋』は、そのタイトルの通り、出来事の背景を背負いながら「そして」で繋がる“以降の世界”に着目した句集である。

露の世や蜘蛛の巣におく露もまた
炭ついで炭の言葉を聴く夜かな

 リフレインの印象的な二句を挙げた。露の句は、露の無音が強調される。張り巡らされた蜘蛛の巣の上の露は、零れそうで動かない。「もまた」は曲者で、上五「露の世」で数多の露を読者の頭の中で想像させてから、その中の一点である蜘蛛の巣の露に収斂していく。水の液体性が強く活かされた句であり、神の視点かのような「おく」も機能している。実際に見たかどうかは句を語る上ではさほど重要ではない。炭の句、炭や炎の色の移ろいを眺めてそう感じ取ったのだろうか、こちらも夜の句らしい静寂や満ち足りた孤独感を思う。「炭」の一語をゆりかごのように読みたい。

白鳥眠る雪となり花となり

 リフレインでない句にも、連続や循環、永遠といったテーマが込められている。メタモルフォーゼの句として白鳥が美しいものに変化すると捉えた前例はあるかもしれないが、掲句は万華鏡のように「雪」「花」の二物を持ち出したことと、「なり」と“以降の世界”を思わせる表現にうっとりさせられる。

葛の葉の裏は轟々水走る
裸木や空手の型を一心に
呼びにきて君も入りぬ初鏡

 「轟々」や「一心に」「君」といった、ともすれば大振りになりそうな言葉が一句の中で腰を据えて鎮座している。主体の体と心が、対象である草花、水、木、人と溶け合っているからであろう。細やかであり時に大胆な作者の句をもっと見てみたい。


まっすぐ伸ばすお餅

木村泉洋句集
『泉』
書評 黒岩 徳将


 

 木村泉洋『泉』は、著者があとがきで「ただごとの句ばかり作っていましたので」と書いているが、奔放かつバリエーションのある句が並ぶ。

ともかくも幸せの使者大白鳥

 白鳥が幸せを呼ぶという言い伝えが流布されていようがいまいが、眼前の生き物を「幸せの使者」と捉えた心の動きが「ともかくも」で表されている。プラスイメージを掛け合わせた言葉に、星野立子のような直球勝負の句を思わせる。

繭玉のさ揺れに揺れて地震とほる
形代に託しきれざる穢を持てり

 繭玉の句は白鳥と逆で、新年の寿ぎの雰囲気にリアルな地震が持ち込まれて対照的である。接頭語「さ」が切ない。形代の句は、「われ」という個の存在を強く意識することで、逆説的に人間存在自体もそのようなものかもしれないと思わせる。どちらもクラシカルな季語を使いつつも、句のテーマは普遍的だ。

鹿の街我が物顔の鹿に鹿

 奈良か宮島か。ユーモラスな魅力が第一義だろうが、クレバーな印象のある鹿を「我が物顔」と書いたところに独自性がある。顔を寄せ合わせる鹿がとても可愛らしい。二匹と読んでもよいが、三匹以上と読んでもよいかもしれない。

三日には関東風の雑煮かな

 「には」とあるので、二日(あるいは一日?)は違う地方の雑煮であったということである。句単体を読めば、関東風の雑煮が出てきたことに対するささやかな違和感と読んでも、関東風の方が好きだと読んでもどちらでも面白い。(作者は香川県在住なので、餡の入った雑煮は二日までだった、ということかもしれない)。出来事をそのまま書いているかのように見える句も、滲むような滋味を楽しめる句集である。


瑞々しき〈言祝ぎ〉

澤田美那子句集
『さくらんぼ』
書評 彌榮 浩樹


 

 一九三六年生まれ。第一句集。「古志」での十七年間の句が収められている。後書きの作者自身の言葉通り、〈瑞々しさ〉の詰まった句集だ。本格の風格の滲む、新鮮な感覚の冴え。

大垣や川の濁りも早苗月

 典型的な〈俳句のかたち〉だが、そこから、骨太の興趣が湧きたつ。ここには、世界を肯定的に受容する感覚の生動があり、「濁り」さえも煌めいている。作者の俳句づくりとは、そんな向日的な、世界への〈言祝ぎ〉なのだ。

蓮池のかすかな音も枯れつくす
道に売るぜんまいもやや闌けにけり

 この二句も、「枯れ」「闌け」という負の様相を詠みながら、明るい。「蓮池」の句は、S音、K音の繰り返しが、「枯れ」の美を音韻として造形的に表出しているし、「ぜんまい」の、「…もやや」のもたつきが、「闌け」に温かな表情を加えている。

煮凝や早々と消す厨の灯

 「煮凝」と「厨」とは昵懇な関係の言葉だが、上五の「や」止めの完結感は、「早々と消す厨の灯」と、異次元での交錯をも感じさせる。ある種の祝祭性までも蔵している句だ。

籠に摘んで花のごとしや鷹の爪
花曇青光りして大蚯蚓

 色彩鮮やかな二句。「籠に摘んで」「花曇」の籠もった質感が、景の厚み・色彩の量感を引き出していて、味わい深い。

干蛸は烏賊より愉快秋の風

 「愉快」の断言が、愉快。「秋の風」の深みが、見事。典型的な「秋風」の世界を脱した自在さが心地よい。

椿の葉一枚ごとの春の雪

 「春の雪」を載せる「一枚」「ごと」の「椿の葉」の厚みが、重みとして読者に伝わる。その体感もまた〈言祝ぎ〉なのだ。


〈いのち〉を詠む

横井初恵句集
『帰り花』
書評 彌榮 浩樹


 

 一九四六年静岡県生まれ。第一句集。巻末に、「この度病を得て急遽句集を編むことにしました。」「娘たちに残したい一心でした。」「多くの方々に支えられ命をつなぐことができました。」と、切実な思いが述べられている。巻頭部には、病気や手術をめぐるそうした思いを詠んだ句が並ぶ。

かかるまで愛されてゐる月夜かな
明日手術月光とはに美しく

 単独の文芸作品としての巧拙を超えた、一人の人間の生の絶唱であり、読者の胸を打つ。俳句とは、こうした人間の生の奥底・核心から紡がれるものでもあるのだ、ということに改めて感銘を受ける。「月」という異世界からの光が、この世の〈いのち〉を丸ごと照らしだしているのだ。

下宿あり昔のままに若葉かな
白木槿きのふの花を掃いてをり

 いま、という僕たちが生きている時間には、「昔」「きのふ」が滲み込んでいるはずだ。そんな重層的な時間の中の「若葉」「白木槿」には、〈いのち〉が揺曳している。

さきがけて襖はしだれ桜かな

 「さきがけて」の溌剌。襖に描かれた永遠のしだれ桜も、現実世界の桜の気配のきざしによって、〈いのち〉が脈打つのだ。

新涼の眼鏡丸ごと洗ひけり
湯引きして鱧は真白き花となれ

 「新涼」「丸ごと」の生命感によって、この「眼鏡」も〈いのち〉の量感を纏う。「となれ」の命令形は、巻頭部の句群にも通じる祈りを感じさせる。〈いのち〉丸ごと、花となれ、と。

冬の虹八百屋に着けば消えてをり

 「虹」はもう消えたのだが、「八百屋」に並ぶ野菜にも染み込んでいるかのような余韻。「冬」の冷えが効いている。


耳を澄まし目を瞠り

矢野京子句集
『花びら餠』
書評 彌榮 浩樹


 

 一九五四年広島県生まれ。第一句集。「日々の暮らしを大切に、自然の声に耳を澄まして」と後書きにあるように、生活のなかで出会う自然の機微が、生き生きと詠まれている。

サイフォンや枝から枝へ冬の鳥

 「サイフォンや」は、大胆な措辞だ。コーヒーメーカーだろう、温みや音や匂いや硝子のきらめきを感じさせる断定と、「枝から枝へ冬の鳥」との予想外の取り合わせの、立体的な交感が心地よい。季語「冬」が景の深みを増している。

泡立てて子犬を洗ふ冬日和

 「泡立てて」の幸福感よ。生活の細部に耳を澄まし目を瞠り、チャーミングな様相を掬い取る、感性の明るさがよい。

コスモスを包む昨日の新聞紙

 「コスモス」と「新聞紙」とは新鮮な組み合わせであるが、さらに、「昨日の」によって新聞紙の活字まで浮かんでくるのが、不思議。現実を仄かに超えるリアルが開かれている。

開きても閉ぢても薫る扇かな
穴惑ひ惑ひ惑ひてなほ惑ふ

 「扇」の「閉ぢても薫る」気品を感じとる感覚の繊細さと、一方では、「惑ひ」の大胆な畳みかけの遊び心と、その両方を兼ね備えているのが、この作者の句の魅力の核である。

いまはまだ葉つぱの色のみかんかな
闘へる色となりけり葉鶏頭

 「葉つぱ」「みかん」というあどけない表記が、現実の景を童話的な世界へと移調する。「闘へる色」の説得力は、「はげいとう」という音に蔵された“「闘」的響きWの所為でもあろう。

大蛸ののらりくらりと競りを待つ

 「大蛸」らしい「のらりくらり」は可笑しくもあり、それが「競りを待つ」姿には、静かな哀しみが混じってもいる。


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