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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 青磁社通信 Vol.25◆

〜巻頭七句〜
未来

宇多 喜代子
 

割り切れぬ偶数として鏡餠

どつこいしよなる大声も初昔

雨はげし其も年神の裔の裔

おおよそと定めたあたり恵方道

寒卵割る一興を見そなわす

夕闇や一塊の消炭にも未来

石蕗日和晴耕雨読四字羨し


〜エッセイ〜
ホームズの推理法


吉川 宏志
 

 子どものころは体が弱くて、しょっちゅう風邪をひいて寝ていた。学校を休んで三日目の昼になると、さすがに熱も引き、退屈になってくる。律子さんという独身の叔母さんがいた。ミステリが好きな人で、子供向きの推理小説を買って、よく見舞いに来てくれた。
 初めて読んだシャーロック・ホームズは、挿絵などもよく憶えている。『マスグレイブ家の儀式』や『まだらの紐』などが好きで、布団の中で繰り返し読んだものだ。あまりに熱中しすぎて、夜になって風邪がぶりかえしてしまったこともある。律子さんといっしょに、母に叱られた。私の父母は、謎解きにはほとんど関心をもたない人であった。
 『マスグレイブ家の儀式』は、イギリスの古い家に伝わる暗号文にまつわる話である。執事であるブラントンがそれを解読するが、地下の穴倉で死体となって見つかる。真相を究明するときの、ホームズの言葉が、初めて読んだときから強く心に残っている。
「ワトソン君、こうした場合に僕がどんな方法をとるか、君はよく知っている。僕はブラントンの立場に自分をおき、あらかじめブラントンの知力の程度をさだめておいて、さてその僕がそういう場合にたちいたったら、果たしてどうするだろうかと考えてみた。」
 この話の初出は、日本で言えば、明治二十五年にあたるが、他人の立場に立って考える、という思考法の基本が解説されているのがおもしろい。当時としては新しい考え方であったのかもしれない。
 『まだらの紐』では、密室状態の部屋にいた女性が、「まだらのバンド」という不可解な言葉を残して死ぬ。バンドには集団という意味があるので、異国の服を着た集団が疑われたりするが、ホームズは毒蛇を用いた殺人であったことを見抜く。被害者は、蛇を紐に見間違えたのだった。
 コナン・ドイルは、謎めいた言葉の意味が、最後に分かるというパターンを得意にしていたようで、『曲がった男』の「デヴィッド!」なども印象深い。
 まったくの余談だれど、私は京大推理小説研究会に一年ほど入会していたことがあって、その同人誌に「真鱈(まだら)の干物」というパロディが載っていた記憶がある。魚の干物といって売っていたのが、じつは蛇だった、という話。
 さて、短歌を読むという行為も、ホームズの推理とどこか似ている気がする。相手の立場に身を置いて考える、というのが一点である。もう一点は、言葉の意味はあらかじめ決まっているのではなくて、状況の中で新しく作り出されていくものなのだ、という考え方である。
 短歌をはじめたころ、岡井隆の歌を読むべきだ、という話を聞き、国文社の『岡井隆歌集』を買ってきた。ところが、その一首目から全く理解できない。

〈あゆみ寄る余地〉眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来(こ)よ   『朝狩』(一九六四年)

 どこがいいのだろう、とずっと思っていたのだが、何年も短歌を続けていると、分かってくることがある。
 岡井が具体的にどんな場面を詠んでいるかは分からないけれど、何らかの交渉をしているのであろう。〈あゆみ寄る余地〉は、妥協案を出すときによく使われる表現だ。「余地」とは比喩なのだが、岡井は、荒野のような土地をリアルに思い浮かべている。そんな地に、「蒼白の馬」が現れて来ることを望んでいるのである。
 「蒼白の馬」も難解だが、『ヨハネの黙示録』に「青ざめたる馬あり、之に乗る者の名を死といひ」とあるので、死の象徴と捉えればいいだろう。
 妥協せざるをえないが、その先には死が待っているのだ、と言いたいのか。あるいは交渉そのものを破壊したい、自滅的な願望が歌われているのか。分からない部分は残るけれど、妥協よりも破滅を選びたい、という岡井の意志は伝わってくるように思う。なお、「充ち来よ」に、安保闘争の死者である樺美智子を詠み込んでいるという説も、どこかで読んだおぼえがある。
 私は、会社で労働組合の委員長をしたことがあって、この歌がよく思い出された。社員の首切りで妥協せねばならないこともあり、それは見殺しと同じなのではないのか、という感覚を味わった。「蒼白の馬」という言葉に、なまなましい意味を感じることがあった。
 読者が、作者の立場に身を置くことで、言葉の新しい意味に触れることができる。それが、私の基本的な考え方だが、幼いころに読んだシャーロック・ホームズに、それはすでに書かれていた、というのが、とても不思議で、おもしろい。


初めて嫉妬した歌

河野裕子歌集
『蝉声』
書評  遠藤 由季


 

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

 本歌集の最後に置かれたこの歌は、河野が生の淵にいるとき渾身の力で掴んだ言葉である。この歌を初めて知った時、凄みを感じたと共に、初めて嫉妬のような感情を歌に対して抱いた事を思い出す。代表作となる一首を生の終わり頃に生み出した事に対する、歌人としての羨望でもあったのだと、振り返ってみて思う。普段短歌に触れない人達がこの歌を通じて河野裕子を知り、短歌に惹かれた例も少なくないだろう。歌壇内では死後に彼女を詠う歌も多く詠まれ、その歌からも人柄が立ち上がってくる、まさに生身の歌人である。

三人をおいて死ぬわけにはいかざると一粒のぶだうやつとのみこむ

 河野の歌と向き合う時、いつの間にか素の自分になって向きあっている事に気づく。河野はエッセイで「歌を読むことは自らの輪郭を鮮明にすることだ」と綴っていたが、この歌集を読むと輪郭をはみ出すほどの切実で生々しい内面の蠢きを感じずにはいられない。その理由を、単純に死と向き合う厳しさへと結び付けては河野の歌の本質には迫れない。

青空がゆつくり所を移しゆきピンと張りたる大凧あらはる

 風景を自らの内に取り込むように感受する懐の豊かさに加え、時空を自在に行き来するような不思議な感覚と、風景から核となる一点を見出す眼力がこの歌にはある。移動中の車窓から眺めた青空だろうか。大凧の浮かぶ青空の張りつめた空気が読者の目の前にも広がり、「短歌を詠むことによってわたしがわたしを治すのだ」と、河野がエッセイに綴っていた言葉を思い出す。ありのままの風景を全身で感受する時、河野は自らをゆっくりと「治す」ことができたのではないだろうか。

残しゆく者残さるる者かなしみは等量ならねど共に蝉きく

 家族を含む周辺の人達や自らを客観して見つめる眼差しのある歌であり、内面の蠢きを感じさせる切実さとは違う冷静さを感じる。内面の切実さと客観のバランスを何気なく取りつつ、様々に詠いこなすのは素質のなせる業だとも思うが、長く歌人として生きてゆく中で意識して保ち続けたバランスでもあろう。

言葉はすぐこはれてしまふ 死なない死なないとわれを励ます

 河野の歌における破調は、肉体から言葉を絞り出す渾身の息遣いそのものだ。その息遣いを感じる時、鑑賞する側も素の存在として向き合わなければ、その切実さを受け止める事が出来ない。河野は息を引き取る瞬間まで歌人で在り続けた。歌人であり続ける事は、河野裕子個人でもあり続ける事だったのではないか。河野裕子としての生を、歌の中でも生き抜こうと意志を持ち続けた稀有な歌人であると、改めて教えてくれる歌集である。


待つことに宿る永遠

伊藤一彦歌集
『待ち時間』
書評 日置 俊次


 

 伊藤一彦の揺るぎない歌集『待ち時間』に次の歌がある。

死にたいと時に電話の来る少女死ぬなと言はず死なせぬために

 カウンセリングで死ぬなと助言すれば、逆に自殺の引き金となってしまう。ただし、作者も熟知していることだが、実際は死ぬなと繰り返し伝え続けなければならない子どもも多い。また同じ子でも、ある時は死ぬなと強く言われたい。またある時は言われたくないのだ。つまり子どもは一般化できず、また一般化されることをとにかく嫌う。そこが難しいのである。
 この作者の穏やかで真摯な歌いぶりは読者を惹きつける。「子に死ぬなと言ってはいけないんだ」と、物事を単純化したがる者を予定調和的に得心させてしまいかねないほどに。そこに盾の両面のような危うさが覗く。そんな危うさこそ、実はこの歌集の隠れた奥行きを成しているのである。それはまた、この作者に読者が寄せる全幅の信頼を如実に物語ってもいる。悠揚と迫らず、豊かな包容力を感じさせるこの作者の歌群の前に、誰が信頼の気持ちを抱かずにおられるであろうか。

待ち時間長きもよけれ日の出待ち月の出を待ち永遠を待つ

 右は歌集のタイトルとなった歌である。作者は待つことを知っている。朝を待ち夜を待ち、そして永遠を待とうとする。待つ時間の中にこそ、人生の味わいは生まれる。死にたいとしばしば電話してくる少女が、明朝になれば希望に溢れた笑顔を見せる可能性など、作者ははなから信じてはいない。

変容は少しづつしか進まねばカウンセリングの要(かなめ)も時間

 カウンセリングの本質がこのように歌われている。少なくとも死が回避され、そしてとりあえずその回避がさらに続いていけばよい。ひたすら少女の自死が回避されることを願い、その結果を待つ時間の静けさに、永遠性は宿りはじめる。

蛇嫌ひの人の来ぬまま待ちゐたり心の蛇に気づかれたるか
ワクチンを接種後いつ殺処分さるるか飼主は通知待つのみ
花植ゑて待つと言はれしことありき何の花かを聞かず終りき
初夢といふ玉手箱幼かりし日よりも老いに待たるるものを

 一首目、待つ自分の心に忌むべきものが存在することを、作者は知っている。ここに読者の信頼の源泉があるといえるだろう。二首目は口蹄疫騒動の歌で、歌集中最も緊迫した歌群にあって、やるせない待ち時間が描かれる。東日本大震災に対しても、作者は忸怩たる無力感を噛みしめる。こうした痛みの伴う待ち時間がゆっくりと着実に積み上がる。それに比して、三首目の恋を感じさせつつユーモアを香らせる歌、また四首目の老いの華やぎを仄めかす歌の待ち時間には、明るさが覗く。
 酸いも辛いもかみ分けた人生を感じさせ、豊かな待ち時間とそこに宿る永遠性を包み込んだ、珠玉の歌集である。


声を持つ一冊

シリーズ牧水賞の歌人たちVol. 6
『小島ゆかり』
書評 梶原 さい子


 

 声が聞こえてくる本だ。生きている人の生きている肉声が届いてくる。ときに、笑い声も。楽しく深い語らいを聴いたのちの豊かさのようなものが、読み終えたあと体を満たしている。
 若山牧水賞受賞歌人を取り上げたシリーズの六作目。監修は伊藤一彦、編集は大松達知。
 まず、表紙の小島ゆかりの笑顔に惹きつけられる。風をはらんだ髪。みずみずしくさわやかだ。
 表紙をめくるとアルバムがある。両親に抱えられた一歳のときから現在への、三十四枚の写真である。
 そして、山口仲美・板倉徹・辻原登による特別寄稿エッセイ、大松選の代表歌三〇〇首、自歌自注、伊藤によるインタビュー、大松・大口玲子・穂村弘・小高賢による小島ゆかり論、小島のいくつかの文章、質問コーナー、正木ゆう子との対談、著書解題、自筆年譜と続く。
 「笑顔」、「明るさ」、「ユーモア」、「肯定」。複数回、この本の中に出てくる言葉である。小島ゆかりを、あるいは、その歌を表すときに。インタビューでは、このような「(生きていくうえで)自信のある人」がなぜ、短歌を詠んでいるのかというところを訊いている。そして、答えとして、「ああ、この瞬間がいま過ぎていく、過ぎていく。これを抱き締めていたい」、「この何とも言えない、悲しいけど込みあげてくる愛情を歌に残せる、表現できるというのはすごい幸せだと思いますね。」という発言を見ることができる。その土台にあるのは、次のような言葉から窺える、小島の己の生への認識だ。「感謝」、「愛された」、「出会いに恵まれている」、「支えてくれる」、「自分はほんとうに幸せ」。それらが、生きる中で獲得されてきた揺るぎない哲学として小島の肉体に通っていることが伝わってくる。歌は、そこから発せられるのだ。そのような歌の存在が、どれほど現代短歌を幅広く、安らかで、面白く、温かなものにしてくれているか。

秋晴れに子を負ふのみのみづからをふと笑ふそして心底(しんそこ)わらふ   『月光公園』
大鍋に湯はゆらぎつつ通夜の夜を歓喜(くわんぎ)くわんぎとたぎちくる奇(あや)し   『希望』
公園の蛇口きーんと光(て)るまひる多毛雲(たもううん)湧く無毛雲(むもううん)湧く  『エトピリカ』

 自歌自注五首のうちの始めの三首を挙げる。どれもよく知られているとはいえ、これらの歌を選んでくるあたりが、小島ゆかりなのである。面白い。開かれている。そして、声が聞こえてくる。読み終えて、表紙の笑顔を見ると、相変わらずさわやかだが、読む前とは幾分違う表情のようにも思える。その「幾分」がとても豊かな一冊である。


審美眼と俳味

長谷川櫂句集
『柏餠』
書評 中岡 毅雄


 

 ここ何年か、私は長谷川櫂の句集から遠ざかっていた。私の記憶に残っているのは、氏の若き日の「冬深し柱の中の濤の音」「夏の闇鶴を抱へてゆくごとく」のように、凝縮された美意識が、一句の中で火花を散らしている句であった。平成二十五年に刊行された句集『柏餠』を読むと、その作風が大きく変化していることに驚かされる。

花びらの流れてくるや蜆とり

 蜆とりに勤しんでいる人のところまで、流れてくる桜の花びら。大らかでゆったりとした時のながれが感じられる。師事した飴山實の晩年の作品を、彷彿させる佳句である。

凩や海老せんべいに海老のかほ

 海老煎餠に入っている海老に顔がついているという。当たり前の事実の中に見出した発見の新鮮味。ただ、この句の季語は凩。明るいムードではない。普通ならば、「あたたかや」などとしてしまいがちなところだが、作者は、逆に、凩と通じるわびしさを見出している。そのわびしさの中に、俳味がある。

雪国の雪に埋もれて死ぬもよし

 いくぶん、大袈裟すぎる感じもする。ただ、この句の背後には、西行の「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」のイメージがあるのだろう。西行は、満開の桜の下で、生涯を終えたいといった。それならば、自分は、降り積もった雪に埋もれて死ぬのもよかろう。誇張された表現から、かすかなオカシミが伝わってくる。

初夢やましろき山のごときもの
干乾びて海鼠に牙のごときもの

 下五が両句とも「ごときもの」という比喩表現になっている。一句目に描かれている「ましろき山」とは、何のことか定かではないが、深層心理からぬっと表れた得体のしれないものだったのではないか。「ましろき」が、初夢らしくめでたい印象を与える。二句目には、作者の観察眼と表現の的確さを覚える。

鉾の鉦この世あはれと叩きけり

 祇園祭の鉾巡行の作。作者の好んだ題材なのだろう。句集『柏餠』には、祇園会の句が十五句収められている。その中で、この句は、鉦の音に、現世のあわれさを感じ取っている。コンチキチンという音色が心に沁みわたってくるようだ。

    岩井善子句集『春炉』
生涯のたけなはにして春の炉に
    武藤紀子主宰「円座」創刊
この人の押しも押されぬ円座かな
    萬燈ゆき句集『玉虫』
玉虫の玉の光のおのづから

 いずれも、祝意を巧みに表現。上質の贈答句である。


伸びやかな空間

高田流子歌集
『猫町』
書評 煖エ みずほ


 

 歌集を手にする楽しさの一つは、装幀家の遊び心と歌が響き合うときだ。この歌集の栞の紐は下から生え、カバーは斑点模様、猫を思わせる。見返しには、空から振り落とされたような猫たちの絵。猫町へ招かれるように、言葉の世界へ誘われる。

闇のなかに桜のけはひはありありと吾の歩みのしだいに苦し
さびしさを言葉に換へるさびしさは白梅匂ふきさらぎの闇
真夜中を時間の外に逃げてゆくわが黒猫は闇に溶けつつ
透かしみる琥珀のなかのゆふやけをただよひてゐるひとひらの影

 闇のなかの桜の気配には苦しさを、白梅の匂いにはさびしさを感じている。闇の無限のなかの不確かな重み、文字という有限からこぼれる漠としたおもみがあり、そこから生まれる感情は複雑で、その複雑さには説明しがたいものがある。感情の流れを追うように丁寧にうたおうとすればするほど、逆に足もとに揺らぎが生まれ、逃れたくなる。闇に溶ける猫や夕焼けの鮮やかさに漂うひと片の影に、作者自身を重ねてゆく。

アサツユザクラ幼き声は読みあげてうすくれなゐの花は見ざりき
遠足のこどもの列はふはふはと進みてゆきぬみなマスクして
不忍の池のほとりに寝起きしてけふは落葉に埋もれる猫
三月の雨の夜更けを出でてゆく猫は欠かせぬ用あるごとく

 これらは、あっけらかんと健やかで自然体だ。何にも捉われない生まれたままの素朴な子供。捉われることを拒絶した責任を負ったような猫の行動。ここに、伸びやかな空間が広がっている。それへ憧れるかのような作者の眼差しがある。

置き去りのわが自転車につもりたる桜落葉に日のぬくみあり
空き地に生える草見ることの楽しみは時をとどめて遊ぶたのしさ
さびしきひとが折りたる鶴か嘴と尾とぴんと尖りて空色の鶴

 置き去りの時間、とどめた時間に温もりや和らぎがある。自転車も空き地も忘れられてそのままとなり、そして日が注ぎ、落葉や草で覆われてゆくが、積み重ねられたものの内に豊かさが満ちている。また、さびしさが鋭き形となって澄んだものとなることに気づく。微妙な心の襞が折り畳まれている感情も、人間の素朴な思いに刻まれてゆくものだ。畳まれていることの美しい姿が鶴にある。あるがままを抱き取ったときに、伸びやかな空間がそっと現れていることを鶴の形に感じている。
 『猫町』は、このような空間へ広がろうとする歌集だと思う。


近代の「深層」と向かい
合う


川本千栄著
『深層との対話』
書評 山田 航


 

 二〇〇一年から一〇年間にわたって書かれた評論を集めた第一評論集。第T章では近代という時代が短歌に及ぼした影響を、第U章では現代短歌に訪れている修辞の変化や〈われ〉の問題などといった課題を、それぞれ題材としている。
 冒頭を飾る「うたが作った国民意識」は近代の唱歌や童謡が「国民」という概念を養成する教育のために人為的に作られたもので、その完成にあたっては佐佐木信綱や落合直文といった重要な近代歌人たちが作詞家として大きな役割を果たしていることを論じている。品田悦一『万葉集の発明』が参照されていることからもわかる通り、川本千栄の批評スタイルの基本には「創られた伝統」の思想がある。国民国家社会で「伝統文化」だと思い込んで享受されているものの大半が、「国民」としての統一意識を持たせるために人工的に創出されたものであるという考え方である。先述の『万葉集の発明』は、「万葉集が国民歌集」という観念自体が、列強に伍する国民国家体制を作り上げたかった明治国家によって創造されたものであることを論じた本だ。これと同様の考えに基づく本に輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』があり、演歌もまた、一九七〇年前後に「軍国歌謡」「国民歌謡」を批判した戦後の進歩的文化人の主導のもとで「真の民衆芸術」が模索される過程で「日本的」「伝統的」というイメージを付与されるようになったことを指摘している。
 川本の論でも、「近代短歌史には取るに足らないもののように描かれている「旧派和歌」が、子規や白秋が躍起になって否定しなければならないほどの勢力を持っていた」(「うたが作った国民意識」)ことを記してある。近代歌人たちによって、意図的に短歌史が読み替えられ、塗り替えられた事実の示唆である。ここをさらに詳述してもらえると、それだけで一冊の本になるだろう価値のある、重要な指摘である。
 現代短歌を取り上げている第U章は、流行歌の歌詞と短歌の比較論「歌詞は深く響く―流行歌と短歌、その関連性―」から始まる。第T章、第U章ともに「文学としての短歌」よりも「うたとしての短歌」の部分に着目した論を先頭に置いてきているところに、川本の批評家としての個性が見える。短歌もまた近現代文化の紛れもない一つであり、社会状況やポップカルチャーなどと無縁でいられるはずがないので、その相互関係を忘れずに整理することは重要である。短歌が他の文化と混ざり合わず、短歌だけで孤高の世界を作り出しているかのように論ずる歌人がいたとしたら、それは近代の子規や白秋と同じで、自分にとって都合のいい短歌史を意図的に創出しようとしている者だろう。本著のような優れた短歌史批評は、単なる歴史ではなく、現代短歌の状況自体への批評にもなりうるのである。


良き先生は良き家庭人

大地たかこ歌集
『Manah Betemu
(マナ・ベタモウ)』
書評 近藤 かすみ


 

幼ならも太鼓のリズム裡に持つ食器も舟も打楽器となし
ともに立つ厨の中で唐突にペリアは肩抱き別れを惜しむ

 集題の『マナ ベタモウ』は、マレーシアのサラワク州に暮らす先住民族イバンの言葉で「良き出会ひ」を意味する。作者は神戸市須磨区出身で、三十年間小学校の教師をした人だ。二首目のペリアはサラワクで友人になった人の名前。言葉は通じなくても、ボディランゲージで心を通わせる作者の人柄がしのばれる。異文化に素早く慣れることは素晴らしい能力だ。

激痛より解き放たれし母上の穏やけき顔に化粧まゐらす
灯のつかぬ半壊の家並つづく街七時過ぎれば闇に沈みて

 歌集は、母の看取り、阪神淡路大震災の歌に始まり、職場の歌、家族の歌、各地を旅行した歌で構成されている。

チョーク持つ吾の後方指さして声なく知らす「に・じ」の口型
眼球に銀の光の乱れ射すしやがみつつ「大丈夫」と答ふ

 授業中の虹をそっと知らせる生徒。「に・じ」の表記が声を殺して言う様子を伝えて巧みだ。二首目は、乱暴な生徒と接する中で不幸な事故に遭った歌だが、咄嗟の場面でも「大丈夫」と気遣う作者がいじらしい。その後の経緯や他の生徒を詠った一連から相互の愛が感じられた。

わが夫の手料理ならぶ食卓に退職祝ひのケーキも届く
小二の子に「お仕事やめて家にゐて」と言はれたつけ 梔子かをる

 家族の協力があって続けた仕事を退職する。その間の経験は作者の人生を豊かにしたに違いない。本当によい家族だ。

五十四で逝きし息子と二十七で果てしあなたの写真並べむ

 「沖縄・百名(ひゃくな)」は、沖縄戦に運命を翻弄された八十九歳の女性の語りから取材した連作。今後、社会詠にも期待したい。


若い感性

上田p歌集
『糸遊』
書評 近藤 かすみ


 

ジーンズの裾を濡らして町を行く口笛吹きたくなるような雨
胸のうち風吹きぬける日の昼のデザート モンブランケーキにしよう
親指の先でメールを打ちながら一人暮しの“時”埋めおり

 これらの歌を読むと、作者は一人暮しの大学生かと思うほど、若々しい。昭和生まれはジーンズのことをついGパンと言ってしまうが、ここではちゃんとジーンズと言っている。種明かしをすれば、作者は一九二六年生まれ。歌集出版当時は、八五歳ということになる。炎樹社に所属し、『糸遊』は第三歌集。新かなでわかりやすい詠みぶりなので、特に説明は要らない。夫君を亡くされてからの八年間の歌が収められている。

国道を一歩入れば蔵、土塀のある家多しやましなわが町
沿線は黄のいろ眼(まなこ)に痛きまで蜜柑あふるる紀の国の秋
逆白波と茂吉が詠みし最上川見えてきました思わず歓声

 京都市山科に住みながら、各地に旅行する歌があり頼もしい。最上峡へは息子さんの運転で訪れている。

車椅子を押しいる老いと押されいる老いといずれがさみしくあらん
ラ・フランスの香りするのみ留守電の点滅のなき夕暮の部屋
わかわかしいと言われて喜ぶわたくしと嗤うわたくしが居て 日本晴れ

 一人暮しの気楽さを満喫しているようでも、内心寂しさはある。いつまで今の状態をキープできるか、不安がほの見える。三首目の「嗤う」の字の選択に、それが読み取れる。

ある日ふと燃えたちて消ゆる糸遊(いとゆう)のように誰しも死の日を知らず


知的で健全な家族

石原安藝子歌集
『モナリザの声』
書評 近藤 かすみ


 

おとうさん死なないでねと言ひやればそれはできんと真顔で応ふ
男ならおつかれさまと言はれむにごめんねと言ふ靴ぬぎながら
菜の花のおひたしつくるとき母は小瓶に二本生け残しゐき
背表紙にも威力はあらむ触れながら本の谷間にふたり子育つ

 作者は、十五歳の時、啄木の『一握の砂』を愛読し、大学の卒論に『万葉集』を選ぶほど、短歌に近いところにいた。教員として名歌名句を教える立場ながら、自身のスタートは遅かった。しかし、素養のある分、短歌的センスが一気に花開いた感がある。川端康成と交流のあった父、雅号を持つ母、家族それぞれが知的で興味深い。
 一首目。父の死を恐れる作者のナマの言葉に、「それはできん」と返す父の冷静さ。不謹慎ながらおかしみを感じてしまう。二首目は、教員の仕事で帰りが遅くなったときだろう。悪いことをしてきたわけでもないのに謝ってしまう作者。主婦としての責任感の故だろう。理屈ぬきに共感する。三首目は、自然を愛するお母さまの人柄が出ている。書物のあふれる家庭に育つお子さんもきっと知性を受け継いでいるに違いない。

赤と黒二膳の箸をならべ置く平行線もふたりのかたち
結婚は井戸堀りなりといふ人ありならば掘らむよ水の湧くまで

 夫君は知性も教養もあるが、学者肌の気難しいタイプか。一旦選んだ伴侶ならば、添い遂げようという強い意志が頼もしい。

膝小僧かくした日よりもうひとりのちひさなわたしはかくれたのです

 自身を詠んだ口語の歌に好感を持つと共に、可能性を感じた。


抑制されたやわらかさ

堀青渓歌集
『蒼天遊行』
書評 荻原 伸


 

 堀青渓さんの本名は堀澤祖門。天台宗の大僧正であり、叡山学院の院長を務め、三千院門主となられた方だそうだ。若き日の堀さんは、比叡山を下りずに修行を続ける「十二年籠山(ろうざん)行」を達成なさったり、インドの日本山妙法寺で仏舎利塔建立の仏事に参加なさったり、その他の国でも多く修行なさっている。本歌集にはその若き日の歌が収められている。

籠山の僧が掃きよする沙羅の花あつむればなお匂い立ちくる
磯長(しなが)なる御廟に太子を説くさなか老僧静かにしわぶきたまう

 「籠山」行を続けている清廉な僧が掃き寄せる「沙羅の花」の匂いは読者まで届くようで身体感覚を刺激される。またここには「沙羅の花」の清潔な白がよく調和していると思う。「磯長なる御廟」とは「聖徳太子の廟」。そこで聖徳太子を説く間の老僧の「しわぶき」。緊張感のある場に人間味がやわらかに感じられる。

冬野より龍在峠を越えてゆく歌くちずさむ若き人らと
経唱うるわが掌の上に十円玉載せつつ施者は頭下げいる
枯れ草の揺るるはやさし今宵の宿借ること難くここにか寝ねん

 厳しい修行の中に「くちずさむ」歌や「施者」が頭を下げる姿、揺れる「枯れ草」への眼差しには柔らかな強さがある。

後方へややにねじれるかたちして明智光秀の墓石は立てり
目覚むれば月かげつねに射しいたり両の手しろく膝に浮きつつ

 西教寺の「明智光秀の墓石」の「ねじれ」やカナダ行のバスに気づく白い「両の手」など、抑制が効いた歌も心地よい。


赤き色一つ

加藤ちえ子歌集
『Y字路の景』
書評 荻原 伸


 

川岸は笹竹の緑明るみて浅き流れに子ら遊びをり
掌に囲ふほどに小さき木菟(みみづく)の形をしたる重き文鎮

 何気ない日常の一つ一つへの慈しみが加藤ちえ子さんの歌には溢れている。散歩コースの川土手からの景色だろうか。川岸の緑の中を子どもが遊ぶ様子をあかるく捉えている。景を日々新しいものとして発見的に感じている作者を思う。「木菟」の文鎮は、慣れ親しんだ文鎮への距離感が「掌に囲ふほど」という表現によって手触りと共に伝わってくる。

赤き色一つ身につけ出かけゆく老いを生くるは闘ひにして
血圧の今日は高きか雑談ののち腕を代へまた計らるる
「今この位なれば幸せな人生が送れるでせう」と歯科医に言はる

 集中には老いの歌も少なくない。そういう歌が一般的には暗くなりがちなのに、加藤さんの歌は暗くない。それは「赤き色一つ身につけ出かけ」るという精神の美意識が作者にはあるからだろう。「雑談ののち腕を代え」る医師の所作に血圧の高い自分を思い、「この位」ならば大丈夫と言われている自分をやや距離を置いて見ているところなど魅力的だ。 

「独りでもまだ大丈夫よ」と子に応へ手ごたへうすき白髪(しらかみ)洗ふ
チキンポットパイ買つて帰ると電話あり作りし夕餉はあすにまはさむ

 お子さんやご家族との歌も多く、その中にあって、口語のリズムや「チキンホットパイ」の具体など実感があって巧みだ。歌集名「Y字路の景」の歌が巻末に据えられている。

またここを帰り行かむと思ふゆゑY字路の景を確かめて見ぬ


山に登るひと

近藤栄昭歌集
『神神の山』
書評 荻原 伸


 

五時間を登り来たりし宮之浦岳三角点の石標ぬくし
下山路は足軽くして走るごと目印の木をつぎつぎ手繰(たぐ)る

 この歌集は「登山によって得た歌」で出来ているので、「短歌を詠まずとも登山される方」に気楽に詠んで欲しいと近藤さんは「あとがき」に記している。「宮之浦岳」にある一等「三角点」。「石標ぬくし」には身体を通して得た感覚が読者を刺激する。また、「目印の木をつぎつぎ手繰る」のスピード感もすばらしい。この下山のスピード感もやはり山登りの体験に裏打ちされているものだろう。

清水入れアルファー米を荷につるす山のランチは二時間の後
山頂は乳色の雲に視界なく身を包まれて弁当開く
薄甘きあけびのわたを口で漉(こ)し残りし種を秋空に吹く

 登山の歓びの一つにどうやら山での食事があるようだ。「アルファー米」はいわゆる「乾燥米飯」のこと。震災時の救援物資にも利用されていて、様々な味の種類があるようだ。「二時間」に待ち遠しさが表れている。雲に包まれて食べる「弁当」は想像しただけでもとても贅沢な食事だ。

この谷が涸沢(からさわ)カールかテント増え夕食準備に人人動く
岳樺(だけかんば)つづく林を進みゆく木洩れ日光るリズムに合わせ

 「涸沢カール」は穂高連峰の東側に氷河によって削り取られた深い谷。「岳樺」は白樺よりも高度に分布しているそうだ。白い樹幹からの光が印象的だ。このように土地や植物の固有名が歌にいきいきとした生命力をもたらしている。
 近藤さんは福島にお住まいで、磐梯山などを好んで登っておられる。「あとがき」には、本歌集の校正時に東日本大震災が発生したとある。「福島の山山を清清と登れる時が来ること」を作者と共に願っている。


仕事と酒と鳥と

石飛誠一歌集
『小鴨川』
書評 石川 幸雄


 

 塔短歌会に所属する石飛誠一さんの第三歌集である。

長年(ながねん)を診て来し患者がまた逝きぬ気づけば我も古稀過ぎており
「匙加減」そんな言葉も死語となる内服薬は殆んど錠剤
往診の患者が臥ししまま言えり「先生にお茶を」と介護の夫に
肝癌で逝きし人からもらいたるクロッカス芽吹く庭に一列
剖検に使う枕は木の枕 もの言わぬ遺体の頭をのせる

 医師としてその職業を誇りとして歩んできた人生が丹念に詠みこまれている。職業柄、人の死がごく身近にあったはずで、これは石飛さんが詠う理由となるものだろう。

一夜干しのイカを肴に酒を飲む八代亜紀歌う「舟唄」聴きつつ
れんげ田に一升ビンを持ち出して月明りのもと友と飲みしよ
晩酌の量のへりしを語りつつ久方ぶりの再会に飲む
お互いに息子亡くした二人なり帰宅の記憶なきほど飲みき
嫁さんになったかも知れぬ乙女らが息子の墓に三人で来る

 仕事を愛し、酒を愛する典型的な昭和の男といえる生き方である。石飛さんは事故で息子さんを亡くされている。その悲しみが歌集全体を覆っているように錯覚してしまうのは読み手の力不足のせいだけではあるまい。

ホッピング五回せしのち首かしげ雀は再びホッピングする
滑るように駅のホームを歩みくる白鶺鴒のその細き脚
鳥好きの君への土産に買いしとて友がくれたり木彫りのふくろう

 周囲の人たちにも石飛さんの鳥好きは知れ渡っているようだが、その男の視線は鳥だけでなく虫や草花にまで及んでいる。


これこそがうた

玉井和子歌集
『蛸の旬』
書評 石川 幸雄


 

 玉井さんは大正十四年生まれ。第一歌集『蛸の旬』は逆編年体に編集されており、初期の作品は歌集の最後に置かれている。自らが保護司として犯罪や非行に陥った人の更生を任務としていた当時のことが平明にして深く詠まれている。

刑事課へ呼び出しの少年連れて行く並木の紅葉途切れる道を
五百円の弁当は無理と思案する矯正施設の文化祭ちかし
東京より不意に訪い来し教え子に蜜柑の中よりみかんを選ぶ

 巻頭は「ダイヤモンド婚」。夫との暮らしも六十年を迎えた。

「愛してる」「いやふつうでしょう」老い二人ときどきこんな会話をしている
よろけても掴まらないでと夫に言う共に転べばもうあとがない
錠剤の手よりこぼれて絨毯の模様のなかを二人で探す
長生きはお前の料理のおかげだと褒めて近頃好き嫌い言う

 技巧を凝らさず、比喩に頼らず淡々と定型のリズムを刻んでいる。助詞の加除の判断も的確で、詠む対象は決して広くないのだが、自己模倣に陥ることもない。見事と言う他はない。

一キロのいかなごの釘煮炊き上がる息子へ送るを先ずはとりおく
夕顔の初花を告ぐ吾の電話嫁はやさしく聞きくれており
父の日にシャツと落語のセットあり息子の趣味かそうであったか

 子を想い、親を想う、ごくありふれた光景かも知れないが、胸を打たれる。玉井さんがどのように生きて来たか。またその背中を家族はどのように見守り、支えあって来たか。その道のりを思うとき、私はこの歌集を前にして言葉を失くす。


風景の向こうに

加藤武朗歌集
『源流』
書評 石川 幸雄


 

 歌集『源流』には略歴の類がなく、著者がどのような人物なのかわからないまま、その作品に向かうこととなった。

鳥たちが群れ飛びはじめ風が吹くもうすぐ雨降る冠(かんむり)峠
雨後の扇(おうぎ)谷にて大きなるアマゴを釣りし遠き夏の日
村はずれ誰名づけたる漆(うるし)谷架かる小さきうるし谷橋

 ここに抽いた三首には「冠(かんむり)峠」、「扇(おうぎ)谷」、「漆(うるし)谷」といずれにも固有名詞が象徴的に詠み込まれている。
 読み進めてゆくと「庄内川」、「馬瀬川」、「小倉山」、「徳山ダム」などなど固有名詞が頻出する。加藤さんの作品には、地名そのものが詩的な役割を果たしているように思う。目次に並んでいる小題も「東谷西谷」、「恵那山」、「揖斐川、夏」、「藤前干潟、正月」、「ホハレ峠」など半分以上が地名などの名詞である。そして「われ」などの一人称の極端に少ない歌集で、そのあたりのことは意識的にやられていることと思う。
 おそらく加藤さんは、風景や景色に投影して自らの思いを表現するのではなく、その向こう側に自らを描くような短歌の作り方をされるのだろう。

よろこびの歌はできない沈みゆく村を見下ろす高架橋にて
不忍(しのばず)の池の二月の鴎かな一杭ごとに一羽宿りて
蟹だって縦に歩くと思わせてその瞬間に横走りせり

 集中特に印象に残った作品だが、一首目は加藤さんの作品には珍しく思いを率直に表現されている。二首目は細かな観察が行き届いた作品で、三首目も同様。これらの作品には独自の発見があり、その感動を端的に表現されている。

商用のいつも旅なり十数度中国に来て長安を見ず

 五十代半ばからの作品群だと推察するが、この年代の男性にしては珍しく仕事を詠んだ作品がこの一首を除いて見当たらない。ここにも加藤さんの短歌観が現われているように思う。


日常の静謐な抒情詩

西本照代歌集
『勾玉』
書評 江副 壬曳子


 

 身めぐりの日常詠ながら、端正な佇まいが持ち味の透明感のある作品群であり、ときに硬質の抒情を漂わせる不思議な雰囲気のある歌集である。

いくたびも炎天高く放たれて噴水は水の記憶失う
もう姑の帰ることなきこの家に静かに水をたたえいる井戸

 短歌との出会いは五十代からと「あとがき」にあるが、人生の中で最も多忙な時期で、思考も行動も幅のある年代の著者に短歌はごく自然に寄り添ったに違いない。良き妻、良き母、そして良き娘であることを証明している歌集である。二人の母を詠んだ作品にも秀逸なものが多い。
 余計な波風を立てない静かで穏やかな暮らしぶりは自ずと作品に現れている。一方、芯の強さを裡に秘めた冷静で的確な視座による作品には、ときにドキッとさせられるものがある。

突風に大きビニール轢かれてはまた立ち上がる交差路のなか
脱水の終りてシャツを取り出せばぞろりからまる三人分が
ゆれている花に胸までつかりつつ共に揺れいるコスモス畑
生け贄のごとく林檎を一つ入れキウィの箱を密閉したり
薪入れて父が追い焚きしてくれし眼鏡に炎おどりておりき
ふうわりと月がはがれてきたような泰山木の花を拾いぬ
どの鳥も出入り自由鳥かごの形に剪りし庭の木犀

 これらの鋭い抒情性を垣間見せる作品に惹かれる。どんな場面でも感情の露出がないが、抑制された感情が何かの拍子に揺れて崩れるような作品や、事実に何らかのデフォルメが施された作品も読んでみたいし、端正な中に潜む危うさを見せても欲しい、とつい欲が出てしまう読者もいよう。
 池本一郎氏の跋文にもあるように、飛躍のための助走が平明な表白の中に潜むストイックな息遣いから感じられる。


声に出して読みたい
「平家ものがたり」


添田英子著
『くれなゐの追憶』
書評 江副 壬曳子


 

 琵琶の伴奏によって語られる「祗園精舎の鐘の声…」は『平家物語』冒頭の七五調の哀調を帯びた名高い一節である。幅広いジャンルに登場する物語だが、原文を声に出して読むことは、一般になかなか出来ることではなく、殆どが黙読である。
 古典朗読第一主義という著者が、短歌の地方新聞「清流」に二年間ほど連載したものを一冊にまとめたというその熱意に敬服する。連載中はきっと次回を待ち望んでいた読者が多かったことだろう。『平家物語』の内容は、現代の私たちの生活に繋がる世界であり、素直に同調できる物語である。
 本著は、まず解りやすい。著者ならではの解釈が自然体の言葉で語られている内容に素直に共感できる。『平家物語』の源平合戦は、日本の歴史における貴族社会から武士社会への大きな転換期を描いた軍記物語であり、当然その合戦の場面には血なまぐさい描写も随所に施されているが、今昔の戦争に視点を当てながら、著者は単なる無常観を述べてはいない。深い見識と人間味ある口調で簡潔に語られている二十四話である。
 近年、琵琶の奏者が激減したことは残念ではあるが、黙読より、琵琶はなくても音読がはるかに素晴らしいことを教えてくれる一冊である。
 『くれなゐの追憶』を携えて、京都から神戸、瀬戸内を経て壇の浦まで、西途を辿った往時の平家の人々に思いを馳せながら史跡めぐりの旅をしてみようかと思う。
 「波の底にも都の候ぞ」と祖母に抱かれ慰められて海底深く沈んだ幼帝や平家一門への慰霊の祈りがこめられた弾き語りの『平家物語』であるが、本著には、著者が平成二十二年に訪れた壇の浦で詠んだ鎮魂の二首も添えられている。

幾百の平家の残党抱きしまま関門海峡落日速き
阿鼻叫喚の往古偲ばる海底に刺さりてゐむか刀剣のたぐひ


静かなる人生の
旅路のバラード


藤原明美歌集
『遠き月日』
書評 江副 壬曳子


 

 未知の著者の名前を見て女性と思ったが、読み始めてみると男性であった。粛粛とした言葉運びの硬派の佇まいの中に時折のぞかせる人間味が魅力的で、歌は人なりというが、俗な言い方だが先頃の名優「高倉健」に重なるのである。
 「今から二十年前の歌に始まり、十年前の二度目めの定年まで十年間の歌八百七十四首である」と著者は述べているが、まさに圧巻の第四歌集である。さらに、「自分史の一部を切り取って額縁に入れてみる、歌集とはそんなものかも知れない」とも述懐している。ありふれていようと人生が一篇の物語であるとするなら、その一部も、さらにその中から切り取った一首も、或る時は短編小説に匹敵するような紛れもない物語である。

母の日を祝ふ子もなき妻のためわが買うて来る紅薔薇の花
この縁の籐椅子にものを思ひゐし父の象(かたち)にわれも座しをり
わが胸にしばし宿りてゆきし人思ひ出づしぐれの音する夜は
逢ふこともなき人宛のハガキなり白髪となれることなど書かず
松喰虫に襲はれて赤き松林その頂に烏は鳴くも
蝸牛(かたつむり)竿の半ばを登りをり行末遠きものに日は射す

 家族詠、相聞調、写実詠の広い視座から対象へ静かに注がれる視線には人生の厚みを思わせる余裕があり、本質に敢えて迫ろうとしない慈愛を含んだ眼差しがどの作品にも哀感と深い余情を漂わせている。また、硬質の旅情豊かな数多くの旅の作品には時として微笑を誘う諧謔が読者を楽しませてもくれる。

戦ひに敗れたる日にわが聞きし蝉の裔かも同じ木に鳴く
花楓の葉の散り果てし校庭に冬の陽なれば影もつくらず

 正統派の沈潜された主情を内包する歌群に心惹かれつつ、思慮深い平凡な営みほど愛おしいことに気づかされる。


すべての命へのまなざし

木村友紀歌集
『果実の記憶』
書評 錦見 映理子


 

 高校の先生の導きで短歌に出会った作者の、二〇年間の作品を収めた第一歌集である。恋、結婚、そして出産から育児へという一人の女性の道のりを辿るように読むことができる。圧巻は「出産」十三首で、ここまで生々しく出産の場面を詠むのは容易いことではないだろう。

股の内に医者の両手がくひ込みて確かに丸い何かが出づる
目をつむり溺れたやうに手と足を動かす吾子よああ生きてゐる

 手に汗握る臨場感である。一首目、「股の内に」「両手がくひ込」むという踏み込んだ具体性ののちに「丸い何か」が出てくるという、その場で「確かに」得た体感を再現して力強い歌となっている。育児の日々を詠んだ次のような歌も生き生きして再現性が高い。

限りなくあふるる乳を蓄へて冬の蕪のごとき乳房よ
公園の蟻から見れば恐竜のごとくに吾子は走り回れり

 授乳中の乳房を冬の蕪に譬え、元気に走り回るわが子を蟻と比較する。目の前の対象のみならず、多くの命あるものへの意識がこの作者には常に存在していることがわかる。生きているということはこの世のすべての命と同時にあるということなのだ、という真実に気づかされる。
 そのような命への視線は、常に死に対する意識と隣り合わせで、死別した身近な人や、命の短い虫や小動物を詠んだ歌も多く、それが一冊に深みと陰影を与えている。

全身で生命の際を這ふ人の重きまばたきひとつを目守る
夕立ちに打たれつつなほ電線に雀は目を閉ぢじつとくぐまる

 いずれもほぼ動かない対象に向ける視線の強さと長さの感じられる秀歌である。


長い研鑽の果ての美しさ

松山慎一歌集
『寂しさの市』
書評 錦見 映理子


 

 約五年間「塔」に発表した四〇五首を収めた第五歌集である。著者は医師であり、フルタイムの勤務医から非常勤になった翌年からの作である。

夕べ開く窓に見えつつ昏れやまぬ丘下の町の春のかがやき

 丘の上の家からのぞむ夕映えの町の景色を、「春のかがやき」という結句でまとめた心地良さの感じられる一首である。多くの歌に、切り取り方の安定を感じる。歌集を読むにつれて、歌の中の景色が写真を一枚ずつ見せられるように目に浮かぶ。

今年遅きつゆに入るらしさみどりの蓮の広葉を露まろびゆく
アベリアの花にとどまる黒揚羽の翔びたつときに羽根の青見ゆ

 植物に材をとる多くの歌のうち、右の二首のような時間の経過を感じさせる歌が印象に残った。これらは写真ではなく短いビデオのような効果があり、いずれも狙った場所にピントがよく合っている。一首目は上句の「つゆ」と下句の「露」が音として響きあい、「遅き」がまろびゆく「露」にまでかすかに影響して水の動きがゆっくりと読者に認識されるような効果がある。二首目、「とどまる」から「翔びたつ」までのわずかな時間の流れの合間に一瞬見えた「青」が鮮烈な印象を残す。

寂しさの市なり駅はそれぞれの地方より軌条集めあつめて

 タイトルにもなった一首。集結する場としての駅とは、「寂しさの市」なのだという認識には人生観が滲んでいる。

地に根張り耐えゆく靭(つよ)さ リルケ知りしわが若き日より花木を愛す
東京歌会にて最後に見たる茂吉のごと岡井隆の顎鬚白し

 塔の創刊同人である著者の、リルケや茂吉を知った若き日から変わらぬ、歌への静かな愛と研鑽の読みとれる一冊である。


見えない扉を開いて

澤田直子歌集
『秋の扉』
書評 錦見 映理子


 

 勤務先の中学校で短歌に出会って以来二十五年の間に詠まれた中から、四三〇首を収めた歌集である。

離島より来たる生徒は星空の詩を我よりも深く味はふ
夏の日の余韻はシャツを光らせて九月の校舎の賑やかな朝

 中学校での教員生活に材をとった二首である。一首目は、国語教師である自分に教えきれない豊かな体験をもつ生徒に心動かされたことが、ねじれのない文体で素直に描かれている。二首目はもう少し技巧的で、「夏の日の余韻」が生徒たちの「シャツを光らせて」いると表現している。新学期が始まった校舎に白いシャツの生徒たちが大勢戻ると、強い光のように眩しく、彼らの体に残る夏の余韻も賑やかに伝わってくるのだろう。

タイ人の演歌に拍手しながらも「し」の発音が少し気になる
「頑張れ」は外国人に不評なり挨拶の一種だと説明す
「イラクへは息子を行かせたくない」と韓国人の使役の例文

 日本語教育の現場で詠まれたこれらの歌が、群を抜いて印象に残った。タイ人が演歌を歌っているのはカラオケなどでの懇親目的の場なのだろう。そこで気になる「し」の発音という具体性。また二首目の「頑張れ」という言葉への認識の違和。兵役義務がある韓国人の母親の書いた例文を切り取った三首目は、「その時」にしか詠めない社会性がある。こうした時代を意識した社会詠が数多いのも、この歌集の特徴である。

空しさを厚手のコートに包み込み群れの一人となりて行く朝
このままで終はりたくない木枯らしにさらされて舞ふ花水木の赤
全身で微かな風を受け止めむ秋の扉はゆつくり開く

 病や孤独な心情を素直に詠んだ歌もあり、一、二首目のように胸に迫る。タイトルにとられた三首目は、微風を体で感じつつ見えない扉をゆっくり開いていこうとする明るさが心地良い。


含羞の研究者

渡辺泰徳歌集
『浮遊生物』
書評 梛野 かおる


 

 あとがきによれば生物学の研究を専門としていた作者がキクイモを研究対象としてではなく、その美しさを表現したいと思ったことが作歌のスタートだったとのこと。なんだか嬉しいエピソードだ。『浮遊生物』とは一般には馴染みのない言葉だがいわゆるプランクトンのことで集中にもたびたび登場する。

ぞう・おかめ・かぶと・ねこぜとさまざまな名前あるとはミジンコ知らず
みじんこのしずかに殖えるはつ夏の山のみずうみ青く澄みたり

 渡辺さんの歌によって普段意識することのないミジンコが俄然親しい存在となってくる。他にも集中には研究分野を材とした作品が多いのが特徴的で生態学を通しての地球環境への言及から先輩後輩との関わりをユーモラスに詠ったものまで幅広い。
 また、自身の今と引き比べてのご両親の歌は、静かな語り口がゆえ一層父恋母恋の思いがしみじみと伝わってくる。

お勝手の唱歌に詩の韻伝えたる母は逝きたりわが短歌(うた)知らず
まだ五十歳(ごじゅう)まえだったのか「音楽の泉」聴きつつ基盤拭きいたる父

 そして、互いに研究者として働く夫婦の自画像のような作品には戦友でありライバルでもあり一番の理解者であった人への微妙かつ深い思いが滲んでいる。

講義するスタンス異なる教員夫婦プリントの量に口出しはせず
戦友のごとき夫婦と評されぬただそれだけではなかったけれど

 作者の持つ含羞によって、全体を通し老成していない瑞々しさが漂い、濱崎氏の装幀とも相まって魅力的な歌集だ。


把握の確かさ

西島久子歌集
『河内野』
書評 梛野 かおる


 

 短歌は決して特別な表現方法ではなく、日常の生活の中から紡ぎだしていける詩形である。『河内野』はそんなことを再認識させてくれる歌集だ。例えば次のような作品をあげてみよう。

長雨に叩かれ地(つち)に伏してゐしラッパ水仙三日経て立つ
歯科医院の壁にかたぶき掛かる絵を見つつ治療台にかたまりてゐる

 雨に叩かれた水仙が茎を立て直すまでに要した三日間や治療の間の緊張した数分…ともすれば意識下に置かれてしまう時間を細やかに掬いとっている。一見なんでもないようで実はこうした時間を大切に愛しむ西島さんの生き方がオーバーラップしてくる。

堂々たる屋根葺き職人帰りぎは花折りしこと詫びてゆきたり

 花を折ってしまったことを詫びるという行為を描くことで職人の人柄や、丁寧であろう仕事ぶりまで読み手に伝えている。意外な側面を提出することによって対象となるものを鮮やかに浮かび上がらせる。これは対象把握に偏りがないからでそれは次の作品の修道士やのら猫にも言える。

絵を見詰むる修道士の右手胸にあり静止画像のやうに動かず
のらの心意気求めずおかう痩せ猫が夏日を避けて軒下にゐる

 一冊を通し結句終止形が多いのがやや気になったが、テクニックを越えた対象に向ける作者の真っ直ぐな眼差しと受け止めた。また、

十三画愛といふ字は同画の字に紛れむとして紛れ得ず
葉を落し自浄終へたる冬木立直ぐならざるもの刺す気迫もつ

 〈愛といふ字は紛れ得ず〉〈直ならざるもの刺す気迫〉こういった西島さんの精神性の核を感じさせる歌も印象的で今後の歌の世界の広がりが楽しみな第一歌集だ。


言葉派を超え

松浦哲歌集
『恒沙』
書評 梛野 かおる


 

これの世の歌恒河(ごうが)の沙(すな) 砂踏みて諸行去りゆく月光に濡れ

 歌集の最後に置かれたこの一首こそ短歌に対する作者の言挙げと言えよう。
 集中には言葉に強くこだわり抜いた作品が並ぶ。こだわり抜いた言葉だが決してそれだけに寄りかかることなく作品全体のイメージは自在に広がっている。

アンデスの紅色の塩一つまみ馬鈴薯に添えてひとりの昼餉

 馬鈴薯に〈アンデスの塩〉それも(紅色)を添えることによって孤食の侘しさとは違うひとりの謳歌のほどを思わせる。〈アンデスの塩〉という言葉の斡旋によって空間だけでなく時空の広がりをも思わせている。

菜虫化蝶(なむしけちょう)野道行けども行けども黄にして一生はしんに寂しい
部屋隅に青き蛾一羽動かずに梅雨のおわりの夜を深くする
夏至の夕べひとりに倦みて猫呼べば百合の花粉をつけて帰り来

 〈黄〉〈青〉〈百合の花粉(赤褐色)〉提示した色によって一見状況に具体性を持たせている。しかし、これらの歌はそこだけに留まらず、なにか異世界を覗いているような感覚にさせられる。いずれも色彩の鮮やかさが効果的に妖しさを取り込み平坦な作品とは一線を画している。
 孫、夫の歌も少なくないのだが全体的な印象となると不思議と生活感は滲んでおらず、ひとつの世界には抑え込めない作者の自由な精神を感じる。

うぐいすを草書とすれば時鳥少し律儀な楷書の啼き声
木蓮の花芯が緑だという夢をみて朝風の窓で図鑑をひらく

 多彩な作品がひしめくこの一冊を読み終え、あらためて『恒沙』というタイトルにうなずいた。


思索へさそうしずけさ

新谷休呆歌集
『哲学せむか河のほとりに』
書評 岩尾 淳子


 

 日々の営みのなかでもつ雑多な印象は記憶に留まることはなく、河の流れのように消えてしまう。その流れのほとりに佇んで、うつろいやすい意識をわずかに書きとめる。時間をしばらく止め、しずかな思索の余白を見つめる。この歌集を読んでいると、短歌という定型のなかで自分を見つめ、考え、語ることの静かな喜びということを感じる。

今日もまた空を気にせぬ日となりぬ目薬を点すパソコンの前
いくたびも我が正論を反芻しネクタイ直し会議に臨む

 この作者の職場は大学であるらしい。一首目は、研究に専念する一日を「空を気にせぬ日」と実感をもって捉えている。また、二首目では、気持ちを高揚させて何かと常に戦うことを余儀なくされる緊張感を伝えている。作者の冷静な視線はそういう現実に生きる自分自身に距離をおいて対峙し、多様な自画像を描くことで移ろいやすい意識の内部に触れようとする。

自省すれば仕事はしたくない我に気づいてしまふ何も書けぬ夜
絵を描いて暮らしていくといふことを美術館にて思ふ雨の日
傍目には強く見えるといふことが我が悲しみの基なるかも

 一首目、どこかユーモラスでもあり、自分との距離の取り方が絶妙である。二首目、選択しなかった、あるいは出来なかった別の人生をおもう切なさ。「絵を描いて暮らす」日々が美しく夢想されている。そういう少年のような憧れの裏には、説明しようのない悲しみがあるのだろう。三首目には、傍からは「強く見える」と見られてきたことが「悲しみ」として詠われている。この歌集には、家族への暖かい情感にあふれる歌が多数ある。またユーモア感覚もあり読者を充分に楽しませてくれる。ただ、そうした一見余裕のある歌の背後にあるのは現代社会を生きるものの孤独感であるようにも思う。そうした目で外界を見たとき、物の姿が翳りを帯びてくる。こういう歌に作者の資質が巧まずして浮き彫りにされている。

ぽつねんと古きホームに残りたるかつて階段たりし石くれ


言葉の翼にのって

田辺昭子歌集
『翼のありて』
書評 岩尾 淳子


 

 歌を紡ぎながら、人生も進んでゆけることはおそらく幸福なことであろう。『翼のありて』という歌集は作者の心に言葉が寄り沿い、人生の実感をあますところなく伝えている。

娘の便り封きらぬまま仕舞い置く胸の痛みは消ゆることなし

 最初にあるのは、娘を愛する故にその結婚を受け入れられない悲しみだった。こういった悩みは家族を持つものなら誰しも経験する肉親との軋轢でもある。この作者は悲しみの渦中にあって歌と出会うことで、ゆっくりと自意識の檻から解き放たれてゆく。この歌集には苦しみから抜け出し、あたらしい自分を発見して世界が自由に開かれていくと感じるまでの二〇年間という時間の軌跡が豊かな言葉で刻まれている。歌集を読みながら一人の人間が懸命に歩んできた長い時間を重ねあわせてしまう。歌集を読むことの大きな楽しみを与えてくれる。

何処からか言葉がふいにやって来る言葉に翼があるのだきっと

 歌集後半部に置かれたこの歌は、タイトル「翼のありて」に繋がるように思う。一読して自分が求めていた言葉と出会ったときの喜びの歌とも読めるが、それだけではなく、言葉によって自在に解放されて、深まってゆく内面世界の体験そのものを「翼」と呼んでいるようにも思える。

花よりもわれにまつわる蝶のいて前世はきっと人だった蝶

 歌集後半になると、その表現はしなやかさを獲得し、自在に翼を広げて異世界へ飛びたつ。また、言葉は自意識から離れ、現実世界をこまやかに観察する力を帯びてくる。事物に命を吹き込む言葉の真の力を手にしたかのようだ。今後の展開が楽しみな作者である。

小粒なれど一字一字をしっかりと書きたるような林檎送り来
整然と荷物を積みてトラックはかくあるべしと五月を走る


浮遊するワンダー
ランドへ


片岡聡一歌集
『海岸暗号化』
書評 岩尾 淳子


 

明け方の寝床で竹が揺れている ずっとずっとただ揺れている

 外界が揺れている。『海岸暗号化』を読み始めると、現実の世界があるべきはずの位置を失って意識になだれ込んでくる。ここでの「竹」は現実の風景の竹林なのか、それとも夢のなかの竹なのか、境界は不明瞭だ。ただ明け方の意識は揺れている竹のなかで漂っている。読者は、揺れる世界のなかで眩暈のような感じに襲われる。

五年間京急に乗りし感覚が微熱と一緒にわが部屋にくる

 この歌なども、同様の感覚のように思える。過去と現在の時間が渾然として溶け合う。この時間感覚は歌集中に多く見られる。空間も時間も自明性を失って自在に形を変形させる。そこには作者独自の浮遊する感覚があるようだ。現実世界の因果律から自由になり漂うことで、世界は固定した輪郭を失い、表現は世界に開かれている。

傘という字を書き続けこんなにも柔らかく雨が上がった

 傘という字を何故書き続けるのか、理由がわからないまま「書き続ける」行為から雨が上がる天象を「柔らかく」と捉える感覚の流れが自然な感応を醸している。こうして、多様な局面で切り取られたパーツが暮らしの細部にひかりを当てる。

浜の瀬にすくと降り立つ鳥ありて下総の夏すっと始まる

 「浜の瀬」という美しい比喩に砂浜の輝きが広がる。なだらかな韻律にのせて新しい夏がひらかれ期待感が流露する。歌集の世界は非現実的なようで、たしかな実感を伝えている。「暗号化」というのは世界を既成の認識から解除するという意志のあらわれであるようだ。『海岸暗号化』は斬新な感覚が遊びに満ちた言葉を呼び出すワンダーランドである。

金色の投網のような梅たちが所用があって近づいてくる


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