◆ 青磁社通信 Vol.15 ◆
サハラ砂漠の砂をいくばく持ち帰り砂時計をば作りたりとぞ 人の名を忘れ果てたり坂くだり来たるはやちに卷かれし時に 街ながら燕麦熟るる草生あり十羽の雀を遊ばせてをり スニーカー・ナップザックのいでたちでわれの講座に通ひたる人 寒し寒しとつぶやきゐしがいかにせん唇はいつかさびしと言へる 車窓より不意に拡がり水無月の鬱をはらへるみなづきの白は 人を恋ふ力今しばしわれにあれ夕映えて雲ひとつ渡れり
〜エッセイ〜 歌は廃村寸前、 かもしれない −短歌をめぐる私的なもの思い
短歌の先行きは必ずしも明るくはない。 今後について楽観的なことはいくらでも書けるが、短歌関係者が広く読んでくださる『青磁社通信』という場だから、あえてそのことを話題にしたい。 樋口一葉生誕百二十年を記念して設けられたやまなし文学賞という賞がある。新作で応募する小説部門と研究評論部門の二本立て。十四回目となる今年の研究評論部門に私の『昭和短歌の精神史』が選ばれた。そのことを自慢したいためではないから、最後まで読んで欲しい。 目崎徳衛氏や中島国彦氏など、いままでの受賞作品を見ると、この賞は精密な研究書を対象にした賞という性格を持っている。候補作の推薦依頼書が山梨文学館から毎年届くが、自分は門外漢という気持があり、いつも推薦をためらう。主催は山梨県と山梨文学館。今回の受賞には、山梨県出身者という地縁も多少プラスに作用したのではないか。 さて問題はこの後である。授賞式は三月十七日。会場の山梨文学館の控え室での雑談の中で、私は短歌には疎いもので、といった敬遠付きで『昭和短歌の精神史』への感想を下さる研究者が多かった。そうか近代文学の研究者たちの視野の中には短歌は入っていないのか、と感じた。それが第一ラウンド。 研究評論部門の賞は毎年二作品に与えられる。今年のもう一作は名古屋大学の坪井秀人氏『戦争の記憶をさかのぼる』。氏が十年ほど前に出した『声の祝祭』は戦争期の詩人たちの動きを克明に追った名著、私の今回の仕事も多くのヒントをもらっている。授賞式で隣り合った坪井氏と挨拶を交わしながら、「現代詩で戦争期を考察なさったのですから、ぜひ短歌にも対象を広げていただきたい」と水を向けた。ところが坪井氏、「いや、私は短歌を対象にしません」と即答。「機会があれば」と外交辞令で応じてもいい場面だが、その率直さに逆に好感を持った。理由を聞き損ねたが、それが第二ラウンド。 授賞式では、選考委員を代表して学習院大学の十川信介教授が懇切な評を下さった。式が終わり、懇親会に移って、私は十川教授に「短歌は近現代日本文学の研究対象にならないのですか」と率直に尋ねた。女歌については学会でもしばしば議論されますが、それ以外は話題になりにくいのが現状です、と教授は教えてくださった。これが第三ラウンド。 受賞で故郷へ錦を飾れるし、私はるんるん気分で山梨県入りしたのに、遭遇したのは、短歌は近現代文学研究の分野では実は僻地という確認ばかり。 思い出すことがいくつかある。 「短歌人」の若手研究者が近代文学の学会で短歌に関する発表をしたとき、何か異国のレポートといった場違いの反応をされた。短歌の研究ではもう聞いて貰えません。そんな嘆きを本人から聞いたことがある。五年ほど前のことで、名前を忘れてしまった。ゴメン。同じ嘆きは他の若手研究者からも聞いた。 茂吉や啄木や牧水など、近代短歌の研究に広い実績を持つ元日大教授の藤岡武雄氏に、「若い世代の研究者は育っているのですか」と質問したことがある。「それがいないんですよ、困ったことに」が氏の答だった。 二年ほど前にある国文学雑誌が斎藤茂吉の特集を組むことになり、依頼を受けて企画を手伝った。若手の茂吉研究者にできるだけ多く登場してもらって、新しい茂吉像の提示と研究の世代交代を印象づけたいと考えたが、こちらの情報不足もあってか、うまく実現しなかった。 かくのごとく、浮かんでくるのは山梨文学館での私の体験と同じことばかり。 紅野敏郎氏のように常に短歌を視野に入れた研究者はもう出ないのだろうか。村上春樹を語りながら小池光を視野に入れる研究者はもう不可能なのだろうか。もちろん今でもすぐれた研究者はいて、天理大学の太田登氏が出版したばかりの『日本近代短歌史の構築』はその一例だ。国際啄木学会といった存在も心強いが、全体的な層を問うとまことに心許ない。 新聞の投稿欄やNHK短歌、そしてネット短歌やケータイ短歌。短歌はいよいよ広がって、歌人たちは選歌や講座、講演にますます忙しい。歌人とは、今では作る人であるよりも、むしろ選ぶ人。歌の先行きに不安はなにもなさそうに見える。 しかし研究分野では、短歌は、誇張すれば、どうやら廃村寸前の山里。マクロに見るとそんなギャップが浮かび上がる。 このギャップ、対処方法はあるのだろうか。