◆ 青磁社通信 Vol.13◆
若やぎて気取つたところで仕方なし老は老なりの有りやうのまま 何もかも懶きのみの日々また日々これが晩年といふ事にして 皆どこまで己さらして言ふものか言ひ得るものか他人事なれど 野暮くさき歌詠みちらし過ぎゆかむ妙巧短歌汪溢の世に この町の小さき集ひにも幾十年人入れかはり歌もかはりて なぜに斯く世をいそぐのか吾よりも二十年ばかり若い君なのに 誰からも頼りにされし宇田川君思ふよ深きかなしみの中
黒塗りの大きな門を入ると庭園がある。という夢をときどき見る。最近、ああこれは京都御所か、と思い当たった。大学の女子寮が御所の寺町御門のすぐ斜め前にあったのである。 四十年ほど前、入寮選考のために、初めて京都に来た。大学に受かっても、寮に入れなければ京都には行かせない、と祖父母から言い渡されていたので、相当の緊張である。受験は東京で済んだが、入寮選考は父兄同伴で寮まで受けにいかなくてはならない。やむなく、父が付き添っての京都行きと相成った。 父ははじめから機嫌がわるい。文句たらたら。京都が嫌いな上に、入寮選考というものが気に入らない。何で学生が学生を選ぶんだ、抽選すりゃいいのに、というわけである。 当時、大学の自治、寮の自治権の一環として「入寮選考権」なるものを闘争により「勝ち取っていた」のを知るのは入ってからのちのこと。上級生が全ての選考をする。まず前もって作文を出させられる。寮ではグループ討論と個人面接がある。この三本立てで「総合点方式」という。上級生がズラリと並んで、討論を審査したり、面接したりするのだ。 地方出身者にとって、寮に入れるかどうかは費用の面でかなり差があり、何より、まだ女子を下宿させるということが、親には抵抗がある時代だったのだろう。希望者は多い。全員は入れないのである。当然、落ちるということがある。しかし、入社試験じゃあるまいし、寮というところに入るのに、何をもって受かるのか、落ちるのか、それを分けるものは何なのか、考えてみると(考えなくとも)よくわからない。作文と討論と面接である。たとえ、それがよく出来た?として、寮となんの関係があろう。 グループ討論の議題は「受験制度について」というのであった。どうも批判的な意見を求めてるくさいのだが、受験の方が、寮の選別より余程ましである。それをどう思って出題していたものやら。 選考結果は貼り出されて、受かったわけだが、落ちた人はどんな気分で親と帰路についたのだろう。いわれのない劣等感を抱かされて。親だって微妙であろう。でも、選考のことで、苦情なり疑問なりが、寮に寄せられたという話は聞いたことがない。うちの父親のような嫌悪感を抱いた親がいたようには思えない。 で、入寮したとたん、選考した人たちは一、二学年上の仲間となる。大学が始まる前に、私達は鴨川べりに寝そべって喋っていた。つまりは選考は気に入る子を物色したにすぎない。そのいいかげんさが、それはそれで、いわれのない喜びを私に与えたのだった。 入った寮は百人を収容している。二人部屋で、籤引きで部屋割をする。半年で部屋替え。会議がやたらに多い。月二回の寮会、階ごとの会議、学年ごとの会議。定例以外にも、寮は常時「闘争中」であるから、その方針のために、臨時の招集も多い。寮務委員ともなれば、全寮協議会にも出る。行事もある。大学に入ったのでなく、寮組織に入った感じである。 当時は、大学共同体とか、寮共同体とか、共同体理念がはやっていた。「産学協同路線フンサイ」というわけで資本の介入を阻止し、完全自治をめざす。寮も、口は出せない、水道光熱費は不払い。受益者負担は資本の論理であるからして。すべてが特権的でいい気なものだけれど、それが或る種溌剌と、退廃もせず、生活上に機能していたのは、私の上の世代の五年くらいとせいぜい一学年下までの時期であろうか。 いまも寮はあるが、入寮希望者は少ないようで、二人部屋は一人部屋になっているらしい。先日、十二月の寒波が訪れた日、寮友五人と京都御所を突っ切って、寮を見に行った。いつも開いていたドアは鍵がかかっていた。不用心なので、今は一人ずつ鍵を持っているのかもしれない。昔はなかった駐輪場がドアの横に二段できていて、自転車が並んでいる。なんであの頃、自転車を使わなかったのかしら、あったら便利だったのにねぇ、と口々に言って、立ち去ったのであった。 口論の後 刃を入れられし果物のかたえに窓を開け放つかな 面会謝絶・札ぶらさげて閉じこもり二人ホットケーキなど焼きぬ 語り合いし未来のように手より落ちにおいなつかし饐えし果実は 『樹の下の椅子』