冬向ふ奥多摩山の家づとにて藍いろ珠実の野葡萄のつる 野葡萄の小さき粒ら実蔓さきに五粒七粒なりゐて楽し あるがうへに蔓からみあふ野葡萄の指にしたたかに刺すありし 難儀して野葡萄の蔓引きなづみ剪りたるならむいく筋からむ 小粒なる白い幼な実まじりゐておほかたの実は青磁むらさき 藍ふかき波斯の壺をとり出して蔓ながら野葡萄を贅沢に活けむ ひつそりと住むといへどもわれは持つ山の野葡萄その実その蔓
勤めている大学の研究室で、月に一度、句会をやっている。はじめは近くの高校の先生たち数名の集まりだったが、いつの間にか学生や近所の人たちも来るようになり、先日の句会は十五名にもなった。 その句会に短歌をずうっとやっている人が来た。その日の帰り、つまり、句会が果てて地下鉄の駅に向かうバスのなかで、今日の歌人たちはよくしゃべった、という話題になった。Sさんが、 「坪内センセイが皮肉を言うかな、と思っていたのに、言われないで笑っていましたね。私たちはかつて大分言われましたよ」 と感想を述べた。 私が何を言ったのかというと、ほぼ以下のようなことである。 自作について解説する人はまだ俳句のうまくない人だ。あるレベルに達すると、解説をしなくなる。要するに、くどくど自作を語るのはまだ駄目な人である。実際、句会を重ねていると、次第に自作を語らなくなる。 なぜ自作を語ってはいけないのか。どのように作ったかではなく、どのように読めるかが、句会のポイントであり、また、俳句の要諦でもあるから。作者がどのような意図でどのように苦心して作ったかなどはどうでもよい。だから、句会では作者名を伏せて投句し、だれの作かわからないものを選んだり批評したりする。 もちろん、どう作るか、ということは大事である。その努力や苦心は大いにしなければならい。でも、その作る過程は、菓子職人が努力、工夫して工房にこもっている過程と同じ。その過程そのものは菓子ではない。菓子職人は菓子を売るのであり、俳人は俳句を売る。作る過程の話などは職人仲間、俳人仲間の、いわば研修に過ぎない。 作者が自作についてよくしゃべるようになったのは、おそらく近代的現象であろう。短歌や俳句が作者という個人性に根ざすようになったとき、作者は作品の表にしゃしゃり出てしゃべり始めた。作品そのものでも作者はしゃべり、そのような作品が境涯、生活、人生などの用語で評価されるようにもなった。 私の印象では、歌会や歌集の批評会などにおいて、ともかく歌人たちは自作を熱心に語る。逆に俳人たちは、句会などでは黙っているが、語りたい願望が強くあり、本のかたちで自作を語る。ある俳人の協会などは自作を語る本をシリーズ化して出しているほど。 突然だが、玉城徹の最新歌集『枇杷の花』(短歌新聞社)へ話題が移る。枇杷の花が好きな私は、この題名にひかれて歌集を買ったのだが、次のような歌に出会って買って得をした気分になっている。 町かげにタネツケバナのきよらなる過ぎてかくのごとく歩みはおそし 二、三もと高三郎の町みぞに花ひらくかな立秋過ぎて タネツケバナも高三郎も私の好きな道端の草である。この歌人は町を歩きながら、これらの草と一体化している。それらの草に気分のうえで化しているのだが、これは歌人や俳人の注目すべきしゃべり方ではないだろうか。ナマで自分を出さず、物に寄せて自分を出すこの方法は、短歌でも俳句でも伝統的であった。 ちなみに、玉城の歌集にはスズメノカタビラ、風草、メヒシバなども出る。玉城の評論を読んで、理屈っぽくてやや狷介という印象をもっていたが、いいナ、町中の溝のそばで高三郎としゃべっている歌人は。 さて、冒頭で述べた句会だが、次の句が人気を集めたのだった。 うつむいて歩く賢治の冬帽子 加藤彦治郎 賢治の句は、あの帽子を着用して歩いている写真で見慣れた賢治を思わせる。つまり、いかにも賢治らしいので人気だったのだが、意見が出た。 これは冬帽子が季語である。そうすると、眼前に冬帽子があり、それの感じを、うつむいて歩く賢治の、と形容したのではないだろうか。 ただちに賛成意見も出た。賢治のことを詠んだとしたら、それはあまりにも写真をなぞり過ぎ。私は、うつむいて歩く、で一度切れていると読みたい。つまり、うつむいて歩くのは自分で、その自分が賢治が着用していたような冬帽子をかむっているのだ。 この日、この句の作者は欠席だった。作者はどのように対応しただろうか。日ごろ、私は、作者の思ってもいない読みが示され、それにはっとしたり、いいなあと思ったら、その読みに作者はのればよい、と主張している。彦治郎もきっと、途中で一度切れるという読みにのっただろう。