恩愛の限りなくして修二われ東大寺に居り松明を待つ 修二いま二月堂です宮先生寺山君そして津島修治さん 竹矢来つかみて誦すは知る限りそらんじてゐる和歌やまと歌 いま在るを奇蹟といはむ松明がなほ生くべしと走りすぎゆく 修二会の炎が修二の前を過ぎ去つたその余の事はこの世の事だ 限りなき慈愛になみだとどまらずちちのみの父ははそはの母 松明の余燼ひとひら余人にはかかはりあらず神棚に入る
「南口の会」という、仲間の短歌会の歌会の指導に、月一回通っている。南武線の武蔵溝ノ口という駅を降り歩いて十分位のところに「大山街道ふるさと館」という建物がある。そこの一室が会場である。 この建物の由来は、江戸時代から明治・大正時代にかけて、この通りを大山街道と呼んでいたからである。駅を出て、しばらくするとこの街道に出る。大山街道は、矢倉往還とも呼ばれ、赤坂御門を出発した街道が、三軒茶屋・用賀を経て、この溝口を通り厚木に至り、そして大山の方へ進む。大山街道は大山詣り大山講の人で賑わったそうだが、これは現在も続いている。 ある日、私はこの建物の名前「大山街道ふるさと館」というのが、きっと由緒あるものであると思い、館の人にきいてみて、そして前記のようなことがわかったのである。それともうひとつ、私が格別に、この街道に興味をもったのは、駅を出てこの街道に入る四辻の角に、亀屋という店があるからである。いやあったからである。 「多摩川の二子の渡をわたつて少しばかり行くと溝口といふ宿場がある。其中程に亀屋といふ旅人宿がある。」という書き出しの、國木田獨歩の名作「忘れえぬ人々」の冒頭の一節が、私の心に忘れがたくあったからである。この小説は一人の若い作家が、亀屋に泊るのだが、その隣室にこれも若い画家がおり、無聊のまま酒を汲み交しながら、作家は自分の触れた忘れることのできぬ人、二三について詳細に語る、という筋書きである。 忘れえぬ人は、何も特別の才能も技倆もある人ではなく、天地自然の中に、悠悠自適の生活を送り、作者のかたわらをひっそり通り過ぎてゆく、そんな趣きをもった人。どこにでもいる、ごくありふれた人でありながら、その風姿は作者の眼に、ある人生上の静かな寂しい陰影を落としてゆくのである。 この若い作家(の卵)は大津弁二郎といい、多分國木田獨歩の分身であろう。画家の秋山松之助も一介の新鋭画家にすぎない。琴瑟相和した二人の出会いを、獨歩はこう記している。 「『こんな晩は君の領分だねェ。』秋山の声は大津の耳に入らないらしい。返事もしないで居る。風雨の音を聞て居るのか、原稿を見て居るのか、将た遠く百里の彼方の人を憶つて居るのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の眼元は我が領分だなと思つた。」 そして作家の忘れえぬ人々の回顧談へと、この小説は展開してゆくのである。結末の意外性というか、実はこの小説の本旨からすると当然なのであるが、その意外性が、この小説を不朽の名作たらしめたものであるのは言を俟たない。 「其後二年経過つた。大津は故あつて東北の或地方に住つてゐた。溝口の旅宿で初めて遇つた秋山との交際は全く絶えた。恰度、大津が溝口に泊つた時の時候であつたが、雨の降る晩のこと。大津は独り机に向つて瞑想に沈むでゐた。机の上には二年前秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあつて、其最後に書き加へてあつたのは『亀屋の主人』であつた。『秋山』では無かつた。」 実はこの主人は、だしぬけにこの亀屋を訪れた大津を迎えた、実に平凡な、そして大津の挙動に対して「不審さうな客の様子を今更のやうに睇めて、何か言ひたげな口つき」をしたり「主人の言葉はあいそが有つても一体の風つきは極めて無愛嬌」であり「何処かに気懊しいところが見えて居る」が「しかし正直なお爺さんだな」と大津に思わせたりするような人物として描かれている。 私がこの小説を、忘れがたく思い、そして獨歩のもので一番好きであるのは、忘れがたき人々の描写と、この結末があるからである。実は亀屋の主人は、最初の方にすこし書かれ、後出て来ない。にもかかわらず自然主義文学の代表的作家である、この独特の獨歩の人生観が、獨歩の人に惹かれてゆく秘密が、さりげない僅かな主人の描写にあらわれている。 このことが懐しく、自分の講座の往還に、亀屋の大きな硝子戸の中を覗くことにしていた。さき程、私はこの亀屋という店が「あるからである。いやあったからである」と書いた。それは、ある日、この硝子戸に破産宣告のビラが貼られていたからである。広い硝子戸の中は、ガランとひどく暗くうそ寒い。通る人は、ほとんど何もしらない。当然見むきもしない。 一つの歴史がつぶれたのだ。文学碑として残しておきたい家がつぶれた。私は歌会の往きと帰り、あえて意識的に、この硝子に顔をあてて内部の暗がりをのぞくことにしている。「亀屋会館は平成13年10月に閉店しました。」(『大山街道今昔物語』)とパンフレットにはある。